「あなたのためにわたしは描く」
かつて、ドミヌーラはそうリモネに語った。リモネはその言葉に応え、ドミヌーラと翠玉の
リ・マージョンを描きこの時代へとやってきた。
けれど、そのドミヌーラも最近では床に伏せっている時間の方が長く、かつてのようにリモ
ネと共に空へ祈りを捧げることもなくなっていた。この地の少女たちに手ほどきのためにシムー
ンに乗ることはあっても、リモネはやはりドミヌーラと空を翔けたかった。ドミヌーラを愛し、
愛され、世話を焼く日々は穏やかではあったが、リモネはドミヌーラのパルなのだった。そう
誓って時間と空間を越えたあの日から、もはやリモネには他の娘とパルを組むことなど考えら
れなかった。
ドミヌーラと共に、幾組の少女たちを時代の彼方に送り出してきただろう。送り出した少女
たちがこの時代、この場所へと戻ってくることはなかった。
新しい作物が実りをつけるようになり、新たな文化が生まれてくることをこの世界の人々は
翠玉のリ・マージョンのもたらしたものだと受け取っていたようだったが、リモネには少女た
ちが運命の流れに強引に捕らわれ、引き寄せられているようにしか思えなかった。リモネたち
自身がこの時代へと導かれてきたように。
飛びたい? とドミヌーラに訊かれた。頷けばドミヌーラは不調を押してでもリモネのため
にシムーンに乗ろうとするだろう。けれど、リモネには否とは答えられなかった。自分を隠し
てみてもドミヌーラはそれを感じ取ってしまうだろう。そしてそれは彼女に負い目を与えてし
まう。
だから、飛びたい、と答えた。ドミヌーラと共に飛びたい、と。
そして、ドミヌーラはすぐにリモネの想いに応えた。身だしなみを整えてリモネの前に立っ
たのだ。
リモネはドミヌーラをシムーンへと誘う。この数年で大きくなったリモネの身体は、リモネ
とは逆に肉を落としたドミヌーラの細い身体を容易にヘリカルモートリスの上へと引き上げる
ことができるようになっていた。その、軽くなった手応えがリモネには悲しい。
「さっき、アーエルのシムーンが空を渡っていくのが見えた」
「アーエルの?」
「うん。たぶん、あれはアーエル……」
「そう……。あの二人はどの空へ旅立っていったのかしらね。どんな運命を背負っていたのか
しら」
ヘリカルモートリスの上に並んで腰掛けた二人は空を見上げる。大空陸は広く、時代は限り
ない。その彼方へと飛び立ってしまえば再び邂逅することはないだろう。
「わたし、たぶんまだ、伝えるべきこと、赴くべき時代があるよ。この世界にはお菓子の材料
が少なすぎる……」
リモネが珍しく冗談めかして言うと、ドミヌーラが笑いを漏らす。
「そうね。甘藷《さつまいも》や茱萸《グミ》がないわ。この世界には」
「バニラも」
そう、リモネはドミヌーラに口づけする。以前はバニラの香りを含んでいた口紅も、今は蜜
蝋の香りがするばかりだ。鮮やかな紅を好んだ唇も薄く桜色に彩られている。
唇を離すとドミヌーラがリモネの頭を抱き寄せた。
「久しぶりにお化粧してきたのに、そんなに強くキスをしたら口紅が落ちてしまうわ」
目を細めて親指でなぞるようにリモネの唇を拭うドミヌーラの表情が愛おしい。
「ここで思い残したことはない?」
「ドミヌーラと飛ぶ空なら、どこでも」
「パル、だから?」
「パル、だもの」
リモネは深く深くドミヌーラと口づけを交わす。この数年間、数え切れないほどの愛を語らっ
てきた唇。今もそれは飽くことなくリモネを求め、リモネが求める。
「行きましょう、わたしたちの空へ」
わずかに肩で息をするドミヌーラをサジッタ席に導き、リモネはアウリーガ席の座席に立つ。
再度、触れ合うだけの口づけを交わしてシムーン球に唇を寄せると、変わらない懐かしい音が
響いた。その仄かな冷光が心地良い。
アウリーガ席に腰を下ろしたリモネはひとつ思い出した。
「あ……。ロードレアモンのぬいぐるみ、置いてきちゃった……」
「取りに行く?」
「ううん。――この時代にいた足跡になる、かな」
ドミヌーラが忍びやかに笑う。
「あの人形が神像になっている未来が見える気がするわ」
リモネも小さく笑う。そして、ゆっくりとシムーンを舞い上がらせた。林の中に、集落に、
畑に人々が小さく見える。数年を過ごしたこの地の人々へ翼を振って挨拶する。訪れた時と同
様、別離も唐突になってしまった。
「高く。ずっと高く上りましょう」
高空の薄い空気は身体に障る、とはリモネは言わなかった。そんなことはドミヌーラもわかっ
ている。わかっていて、空高く舞い上がることを望んだのだ。
晴れ渡った空を、雲ひとつない高空へと舞い上がる。幾度もの耳鳴りに唾液を嚥下すること
によってやり過ごし、空の色が蒼から黒へと近づくほどに天へと近づいた。
「……ドミヌーラ」
「……ええ」
後席のドミヌーラはすでに肩で息をしている。浅く速い呼吸が限界を訴えていた。
「行こう、ドミヌーラ。どこまでも」
「思い切り、飛びなさい。リモネ。あなたの飛ぶ空がわたしの居場所なのだから」
「うん」
二人は息を合わせる。
「「翠玉のリ・マージョン」」
リモネの背後でシムーン球が輝きを増した。その冷光を視界の端に捉えながらリモネは縦横
に軌跡を描いてゆく。リ・マージョンの機動に揺さぶられて後席からは食いしばった歯の間か
ら漏れる苦痛の呻きが聞こえた。
――絶対に描ききってみせるから。
弱っているドミヌーラのサポートが期待できないことは予見していた。けれど、この時代へ
とやってくるときに描かれた翠玉のリ・マージョンが「リモネのため」であったように、今描
いているリ・マージョンは「ドミヌーラのため」に捧げられるリ・マージョンなのだ。誰より
も完璧なリ・マージョン。リモネが捧げることのできるのはそれしかない。中断も、失敗もあ
りえなかった。例えドミヌーラの身体が限界を訴えていたとしても。
「知ってる? ドミヌーラ。ドミヌーラの名前って『愛する人《dominus》』って意味なの」
複雑な軌跡を描く中、後席からは苦しげな呻きに混ざって微笑む気配が伝わってきた。
「わたしは知ってる。愛されることを知らなかったわたしに、ドミヌーラは教えてくれたもの、
愛することを。ドミヌーラは母で、恋人で――娘。……変、かな」
いいえ、と消え入りそうな気配が答える。
「だから、ドミヌーラには感謝してるの。次の空の下では、もっとドミヌーラをいっぱい、愛
すの。いつまでも、どこまでも、何度でも」
シムーンの周囲を光の輪が包む。この輪をくぐれば翠玉のリ・マージョンは完成する。
「ずっと、ずっと一緒だよ。ドミヌーラ」
「一緒ね……、リモネ」
光の輪をくぐると同時に周囲は目映い光に包まれる。上下も左右もない、ただ白いばかりの
空間。その柔らかな光に包まれてリモネは語り続ける。
「一緒だよ……ドミヌーラ」
後席からはさきほどまでの浅く早い呼吸も聞こえない。だが、リモネは振り返らなかった。
無限に続く白い空間を、無音のシムーンが静かに漂っていく。
青い空の下
白い雲の向こう
それは涙の青
百合の花の白さ
リモネは歌う。無窮の白い霧の中で。アーエルの風琴が奏で、ドミヌーラが歌った『新天地
への扉』を。
― Fin ―