トントンと包丁がまな板をノックする小気味良い音。
鼻腔をくすぐる味噌の香り。
ありふれて見えてしまいそうなそんなものが、なぜだか今朝はひどく幸福に思えて、
冷たい冬の空気を布団と一緒に跳ね除けて勢いよく飛び起きた。
おお!これぞまさに日本の朝。
「……て、おい」
冷静になれ。ていうか目を覚ませ。
俺は、間違いなく、一人暮らしである。
自分で作らない限り朝食なんて出てくるはずはない。
……脳裏をよぎる嫌な予感。
この軽快な怪音と心地よい異臭の発生源であろう台所を慌てて確認する。
狭い部屋だ。首を回せば見通せる。
そこにいたのは、
「――ああ、やっと起きたのか。
まったく、冬休みだからってだらけすぎだぞ」
我が物顔で包丁を振るう不法侵入者。
「……なにやってんだ」
「すぐに出来るからな。 布団たたんで机出しといてくれ」
低い声ですごんでみても謎のエプロン女は全然動じる様子もない。
しかたなしにため息をつきながら狭い部屋に二人分の食卓の準備をした。
出来上がってくる料理には罪はないのだ。
「勝手に家にあがるんじゃねえって、いつも言ってるだろうが。
ピッキングまでしやがって、犯罪だぞ、それ」
もぐもぐと純和風の朝食に箸をつけながら、もう何回分からない科白を口にする。
「キミがいつまで経っても合鍵をくれないからピッキングなんかしなければいけないんだ」
「いや、だから。 合鍵なんて渡したらそれこそお前、毎日来るだろ?」
「当たり前だ。
本当は今すぐにでも同棲したいところだが、学生の身分ではそうもいかないからな」
頭が痛くなってきそうなので、一方的に会話を打ち切って食事に集中することにした。
ずず、と音を立てていつだか大根の味噌汁をすする。
そういえば、といつだったか好物だと話したのを思い出す。
あー、くそ。
うまいなこのやろ。
むっつり黙って爪楊枝をくわえながら、片されてゆく食器を眺めている。
結局、全部平らげてしまった自分に軽い自己嫌悪。餌付けされている気分である。
「今朝はやけに不機嫌だな。 私がまたなにか粗相をやらかしてしまったか?」
「……お前、いつから料理始めた?」
ちょっと間をおいて、
「5時からだな」
さらりと言う。
「馬鹿め……」
思わずそうぼやいていた。どうりで食卓が豪勢なはずだ。
「……やはり、迷惑だったか?」
普段感情の表現が乏しい分、ちょっとでも不安そうな顔をされるとどうも弱い。
「いや、むしろ有難いくらいだけど――」
逆接に続く言葉は、一転、突きつけられた彼女の微笑みに遮られた。
「――――よかった」
安堵のため息にも似た、声。
普段感情の表現が乏しいだけに、そんな顔をされるとドギマギしてしまう。
「だからって、こんなことしてもらったままっていうのは、なんだか、申し訳ない」
すぐに、なんだそんなことを気にしていたのか、なんて呆れた風の答えが返ってきた。
「私が勝手にやっていることなんだから、キミが気を使う必要はない。
ただ、そうだな。ありがたいと思ってくれているのなら、ちゃんと言葉にしてくれると嬉しい。」
……いじらしいことを言うじゃないか。
しょうがない。流れ的に誤魔化すのもなんだしな。
「ああ、わかった。 ――――ありがとな」
照れくささに苛まれてつつも、そう口にする。
要求されて応じたからじゃない。紛れもない、俺の本心だ。
「………………」
が、言ってもらった当人は、なぜか釈然としない表情をしている。
え、俺なんか間違った?
「そうじゃない」
「へ?」
「キチンと、愛してる、と言ってくれ」
ごふっ。
要求されていたのはさらにもう一個上らしいかった。
「……………………言わなきゃダメ?」
「別に言いたくないのならいい。
……そうだな。嘘をつかない誠実さというのも、人間として大切なことだからな」
拗ねられた。
く、くそう!
やっぱり言わなければならないのか!
「…………あ、」
なんとか搾り出した一音目に彼女は、ピクン、と小動物じみた反応を示す。
僅かに期待がこもった視線を感じながら、声帯を震わせて、唇で言葉をつむごうとする。
「あ…………、あ、」
駄目だ。
まだ、どもっているだけだというのに、恥ずかしくてたまらない。
「…………えへん、あー」
咳払いを一つ混じえる。
何この羞恥プレイ。
「あー……――――、言えるか、このヤロォ!」
男は言葉じゃなくて行動で示すんだとばかりに、半ばやけくそで彼女を抱きしめた。
有無を言わさず唇を押し付けると、一瞬力んだ体から、すぐに力が抜けてゆくのが分かる。
「………………卑怯ものめ」
「嫌になったか?」
恨めしそうな視線。
にやりと笑って返事をしてやるけれど、本当のところ、ただの照れ隠しでしかなかった。
「いいや、そういうところもキミらしい。
――――とても、嬉しかった」
「………………っ」
かあっと顔に血が上る。
どうしてコイツは、涼しい顔でこんなこと言えるのか。
なんか、悔しい。
「な、もう一回…………」
「ん……」
甘えた声に応じて、もう一度唇を寄せる。
今度は、もっと深く。
口を開いて、互いの舌を絡めあわせる。
「――――う……ん、」
どちらともなく離れると、甘い吐息が頬に当たった。
ちらちらと合わさる視線が照れくさくて、無言のまま抱き寄せた。
「やっぱり男の子だな。見た目より、ずっとしっかりした体だ」
抱きしめられたまま俺の胸に頬を寄せて、そんなことを囁く。
「なに言ってんだよ。水泳部でエースはってる誰かさんと比べたらたるみまくりだ」
「そんなことない。肩幅もあるし、胸板も厚い。すごく、男らしくて、――ドキドキしてる」
……う、ぐ。
ドキドキしてるだって?
そんなのは、こっちの科白だ。
腕の中の体は折れそうなほど細くて、潰れてしまいそうなほど柔らかくて、
まさしく女の子のものだったから。
「………………」
「……………………」
「…………なにか当たってるぞ?」
「…………すまん」
だって男の子だし。