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557AMARIA -20-
 夜が来る。
 足音も無く、ひたすら闇で世界を包み込もうと。
 水無さんと別れたあと、俺はホテルへと向かっていた。
―――別に、何も言わなかった。
 この前と同じで、ただ、お休みなさいと言って別れただけ。
 顔が熱かった。それは水無さんも同じで、彼女の顔はこの間よりも明るく、夕日が沈みかけても頬は赤みを帯びていた気がした。おそらく、夕日のせいではないだろう。
 見慣れたはずの道を通る。昨日と、同じだ。
 闇の中で研ぎ澄まされ、鋭敏になっていく神経。獣のように、感知する能力が広がっていくのを感じた。
 目の前を、1匹の猫が走り去る。というより、大きな白いボールが弾んでいるようにも見えたが。
―――あの猫は……。
 闇の中でも映える、あの白くて丸いシルエットを見間違えるはずがない。確かに宇宙港の前で出会ったあんちくしょうだ。
 その方向は、更に薄暗い小道へと向かっている。そして、通ったことのある道だ。
 まるで、俺を誘っているのか。
 馬鹿馬鹿しいことが思い浮かぶ。猫の誘いは運命か、と。
 目の前に暗幕を下ろされたような完全な闇で埋め尽くされると、足元の確かな感触にすら躊躇いが生まれた。石の硬ささえ、頼りない。
 手探りで壁を伝い、何とか進もうとする。引き返そうにも前後は既に暗闇。あの猫の背中も見えない。それにしても、何処に行ってしまったのか。
 そんな中、先に淡い光を見た。
「―――どうして」
 闇から浮き出した彼女は、暗く呟く。それだけで、闇の深さが窺えた。
 小屋舟と、その横に佇むアマリア。ランタンの輝きだけが満ちていた。
 見たことのある光景。脳裏に重なるデジャヴ。
「どうして、来たの?」
 俺の行動が心底信じられないらしい。
 そんな、現実を疑うばかりで決して未来を見ようとはしない瞳で見据えてくる。
 来るつもりは無かった。そんなことは言えない。
 だが、ひっかかることはあった。それを知りたい。
「理由が知りたい。それじゃ駄目か?」
 素直に教えてくれるわけはないのは、十分に承知している。これでも、出会って間もない彼女の性格を少なからずわかっているつもりだ。
「等価交換」
 何を言い出すのかと思えば、アマリアは意外な一言を言い放った。広げた手を伸ばし、差し出してくる。
 その意味を俺は瞬時に理解していた。
「今度は前以て言っておく。金は無い」
「以前も言ったけど、要らない。でも、貴方は要るわ」
 ここは、笑うところなのだろうか。でも、失笑さえ出てこない。
「お前が……それで、いいのなら」
 差し出された手に、手を重ねる。手は昨日と違い、氷のように冷たかった。
 そうして了承すると、途端にアマリアは微笑んだ。沈んだ表情は、微塵も感じさせない明るいだけの笑顔。
 でも、未だ俺には作り笑顔なのかどうか判別がつかない。
「では、いらっしゃいませ。また『御案内』致します、お客様」
558AMARIA -21-:2006/03/25(土) 01:30:08 ID:OCKTufob
 結局、ホテルまでの案内を頼んだ。
 すると今回は、陸から行こうとアマリアは言い出した。俺の承諾も得ると、小屋舟の中に入り込み、何故か制服から私服に着替えた。
 ダークルージュのセーターに、黒のミニスカート。その下には、やはり寒いのか同じく黒のストッキングを穿いている。それに眼鏡まで掛け、髪は後ろで1つに纏めて縛っていた。
 寒いのならそんな短いスカート穿かなければいいのに、と思うほど寒そうな格好だった。
 しかし、細い足と身体のラインが綺麗で、思わず見とれてしまうほどだ。伸びる足はすらりとして、ついつい目線がそっちへ泳いでしまう。
 とりあえず、着替えた理由を尋ねると、
「制服だとちょっと危ないかな、なんて」
 苦笑いを浮かべながら答えた。いまいち意図の掴めない俺の手を強引に取って、引っ張りながら走り出す。
 慌てて思考を止めると、何とかバランスを保ちながら追いかける。
「こんなところ通ったか?」
 いくら同じ街でも、風景の連続では建物の造形や色で何となく違いがわかる。記憶には無い、確かに通っていない違う道だった。
「同じコースだと面白くないでしょ? それに陸で行くのと水路で行くのは少し違うのよ」
 いや、昨日は星ぐらいしかまともに見てなかったし。それよりも、街とは逆方向に漕いでたんじゃないのか?
 そんなツッコミは置いといて、夜の小道(カッレ)を2人で歩く。影に隠れ、自然と息が潜まっていた。水路の脇道から折れて、しばらく進むと広場(カンポ)に出た。
 建物の中には、まだ明かりが灯っているところもある。しかし、2人で出発してから誰にも出くわしていない。というよりも、人気を感じなかったという方が正しい。
 再び小道へ入った時、視界の隅にアマリアの頭が入り込んだ。
 腕には柔らかい感触。完全に胸の谷間に腕を挟まれ、彼女自身腕に抱きついていた。
 眼鏡越しに、視線が交わる。
 意外にも、アマリアは照れていた。何も言わず、頬を紅潮させている。服の上から届く肌の温もりが感じ取れた。
―――あの、一夜の夢を思い出す。
 これは夢の続き。淫靡なセカイの幕開けとなる。
 アマリアへの意識が集中すると同時に、匂いまで強くなった。体臭に呼応しているかのように、香水と、混ざって一際強く鼻を突く。
「なあ、この香水って……」
「ん? ああ、これね、麝香って言うの。知らない?」
 見上げてくる視線が顔に似合わない幼さを感じさせるのか、不意に胸を強く打たれる。
「ジャコウ……」
「これ、凄いでしょ」
 誇るように軽く笑いかけた。あまり働かない頭で考えてみると、何を言いたいのかわかった気がする。
「そんなことより、こっち」
 抱えた腕ごと方向を変える。無理にやられたせいで、体勢が崩れ、壁に背中をぶつけた。
 そこは、人が1人やっと通れるくらいの狭さで、暗さはさっきまでいた闇を再現している。先も手前も黒で染まっていた。
「っ、おい―――」
 言いかけた唇を素早く塞がれる。
 突然のことに頭がついていかない。
「ふ、ぅん……あ、んっ」
 そんな素振りも見えなかったのに、いや見せなかったのか……一瞬でスイッチが入ったらしい。
「はぁ……どういうつもりだよ、こんなところで」
 息を吐く。呼吸をする度に働かなくなる思考回路。投げ出して、本能で動くことを必死に堪えながら今度は言葉を吐いた。
 舌が唇の上を静かに舐めずった。月明かりを浴び、輝く。
「それでは、御案内致します―――天国へ」