「それじゃ、今度は私のお願いを聞いてもらえますか?」
そんな一言で、本日の最後の観光先は、浮き島に決定した。なんでも、そこから見る夕暮れの景色が最高なのだと教えてくれた。
空中ロープウェイと呼ばれる長いロープウェイに揺られて、空に浮かぶ島を目指す。
夕方に近い今の時間は、利用者はまばらだった。少しずつ上昇していくロープウェイの中から染まっていく空を見ていた。
ステーションに着くなり、水無さんが俺の手を取る。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。視界も揺れている。
「行きますよ、ほらっ」
そうして俺達は走り出した。人の間を縫うように、繋いだ手だけを頼りに。
柔らかい掌から温かさが伝わってくる。心臓の鼓動が伝わってしまわないかと、心配になったが、そんなことで手を離したくなかった。
光で埋め尽くされた扉を潜り抜けると、目の前には、圧倒的な景色が飛び込んできた。
「どうですか? 初めての浮き島は」
そこからは、ネオ・ヴェネツィアが一望できた。
眼下に広がる水の都。その眺望は、まさに絶景に値する。
「……凄い」
ただその一言に尽きる。余計な言葉は要らない。過度な言葉の装飾は、その秘める真意を壊してしまうだけに留まらず、感動さえも通じ難くしてしまう。
風を受ける。身体が、その高さに吹く風の重みを感じた。
圧倒的な俯瞰。
この高さから、下界を見ることで得る優越感は凄まじい。
自分が何物よりも優れている存在で、いかに凄いのかと錯覚を起こしてしまうほど。無論、それは一時の得物にすぎない。
そうとわかってはいても、呟かずにはいられない。人間には不可能なことを、できるのだと。
「空を飛んでるみたいだ」
「あー、恥ずかしい台詞禁止です!」
すかさず、ツッコミが入った。そのお陰で正常を取り戻す。
「何それ」
と言いつつ、あとから考えてみれば、ちょっと恥ずかしいなとか思ったりもする。
そんなこんなで、時間は過ぎ、最終便の発車時刻へとなり、俺達は地上へ向かうロープウェイに乗り込んだ。
「見てください。綺麗な夕日ですよ」
朱紅の日差しは、地上や空島を美しく朱に染め上げている。
「もうすぐ、今日が終わっちゃうんですね……」
悲壮感を思わせる瞳が、夕焼けの空を更に物悲しいものへと変化させた。その悲しい空気を振り払おうと、
「また明日、ってことですよ」
そんな楽観的な、日々は流れて日常へと戻っていくための何気無い言葉を紡ぐ。そんなつもりだった。
「それでも、『今日』は終わってしまいます」
振り向いた水無さんは、儚く呟いた。彼女は沈んでいく夕日の光を全身に浴びて、綺麗に輝いている。
今日が終わる。明日はやってくるけれど、それは昨日とは違う今日になるのだ。
彼女は何を見ているのか。今日に、一体どんな意味を見ているのだろう。
見つめられて気まずくなった俺は、すかさず窓の外の景色へと目を向けた―――瞬間だった。
―――ガクン
言い表すなら、そんな音。
揺れたと感じた時には、既に時遅し。
「きゃ―――」
進行方向を背にしていた俺は壁に押し付けられるだけで済んだが、水無さんは違う。急停車の反動で、何処かに掴まる暇も無く前に体勢を崩した。
危ない、なんて叫ぶ暇は無い。ただ身体が動いていた。
『お客様にご連絡いたします。機械系等のトラブルで、一旦ロープウェイが停止いたしました。復旧するまでしばらくそのままでお待ちください』
倒れてくる彼女を何とか助けようと、気がつけば結果的には抱き締めていた。
「大丈夫ですか?」
平常を保とうとするせいで、恥ずかしさを誤魔化したのがよくわかる。
上擦った声で無事を確認しながら、まずは水無さんの身体を起こそうと、肩に手をかける。
「そのままで、って言ってました。だから―――そのままで待つんですよ」
その手に、彼女の声が重ねられた。力強さも感じない、些細な抑止を受ける。
声が出ない。息を呑む。
だが、呑んだのが間違いだった。身体は一時の硬直を得てしまう。
「―――っ」
その隙を突いて、水無さんが唇を重ねる。その動きは瞬時にも見えたし、ゆっくりのようにも見えた。
柔らかい唇の感触。肌の温もり。それらを感じながら、そして俺達は、ただ放送の通りにそのままの状態でロープウェイが動き出すのを待っていた。