天使の夢を見た。
人には無い神々しさと美しさを兼ね備えた存在である天使。
それは人々の憧れで、決して届かない領域にあるとされていた。
実際に彼女は、羨望の眼差しで人から見られるほどの魅力と美貌を持っていたのだ。
しかし、やがてその天使は堕ちてしまう。
破ってはならない禁忌を犯して、その身を堕落させてしまったのだ。
目を開けると、そこには見知らぬ天井があった。
そこは、前以て部屋をとっていたホテルの一室。
―――なんて、夢だ。
思わず、アマリアのことを重ねずにはいられない。
ウンディーネとして、誰もが憧れる存在。
だが、そこにはあってはならない夜の顔があったなんて―――。
まるで、堕天使。
それだけではない。俺は、訊いてしまった。踏み入れてはならない、他人の、アマリアの領域へと足を踏み入れたのだ。
シャワーを浴びても、その考えは洗い落とせなかった。
体中に残留するアマリアの匂い。それが今一度蘇る。
再び彼女を思い出してしまう。
「どうして、こんなことを?」
「聞かない方が良いと思う」
明らかな拒絶。しかし、拒絶はそれきり。次の言葉を発しない。
だが、俺にもう1度尋ねる勇気は無かった。
綺麗事だけでは生きていけない。それだけではわかる。
でも、その道理がわからなかった。
「私の名前」
「え?」
「マリアって、名前の含みもきっとあるんだろうけど……ううん、そんなもの入っていてもただの慰めにしかならないわね。何の救いにもならない」
服装を整え、アマリアは俺を見た。
怖いほど、落ち着いた静かな顔。その瞳には、揺らぐことない何かを秘めている。
こんな表情の彼女を見たことは無かった。
いつも楽しそうに笑っている。
でも、それは仮面であって、本当はその下に笑えない現実の顔を隠している。
そんな思い違いをしていたのかもしれない。所詮は、上辺だけを見ていただけでしかなかったのだ。
「でも、私は救いが欲しいんじゃない。ただ、夢を―――永い夢を見ていたいだけ。だから、終わってしまうのは嫌なのよ」
叶えたい夢があるのだろうか。潰えてしまった夢があったのだろうか。
知る権利は無い。聞く権利も無い。
そのあと、少し暗い顔のアマリアは替わりの制服を着ると、何事も無かったかのように舟を漕ぎ、ホテルまでの水路を案内してくれた。
そして、依然として変わらない無表情のままで、
「さよなら」
とだけ言って、夜の闇に消えていってしまった。
―――理由がない。
俺には彼女を引き止める理由なんて、無かった。
一時の感情で彼女を抱いて、一時の快楽と愛情を得ていただけだ。
そんな俺が、未来のこの瞬間にどうして呼び止めることができるのだろうか。
こうなることは少なからず、予想できたはずなのに。
そして、こうなることも。
バスルームを出ると、窓からは朝日が窓枠一杯に射し込んでいた。
神々しさを纏って、太陽が水平線を昇ってくる。
首に掛けたタオルで髪を拭きながら、窓を押し開けた。すると、日差しと共に朝の空気が入り込んでくる。
まず、日の光を身体全体で受け止める。爽快な風と柔らかい日差し、何よりも秋の冷気が上せた頭を冷やして、思考を落ち着けてくれた。
朝日をできる限り直視した。眩しさに、数秒で降参した。手で目を覆い、闇が訪れる。目を瞑ったまま、思い切り深呼吸をする。
まわれ。
唱えれば思考がいつもの音を取り戻す。
廻れ。
今日も、俺のセカイが動き始めた。流転を繰り返し、必ず最後は元に戻ってくる。
遠い音。
静かに沈んでいく沈殿物を優しく掬い上げるように、音緒が始まりを告げた。
掠れは見事。何度も聞き慣れた音はそれでも美しく、日常は昨日と同じく廻り始めるのだ。
心の残響夢の、その削がれた残留思念を揺り動かさないように。静かに、静止させたままで。軽やかに。
夢から覚めた今、もしかすると未だに夢を見ているのかもしれない。
夢は深く、現実は遠い。何が現実なのか。ここは夢幻なのか。
だが、これだけは判る。
1つの夢が終わった、ということ。
そんな、一夜限りの夢だった。
これは奇跡か。
意外にもあっさりとARIAカンパニーへ着くことができた。
今更言うのも何だが昨日の夜、あれだけ迷ったのが嘘みたいだ。
先日、水無さんに言っておいた時間通り。まだ朝早いこの時間なら、アリシアさんも仕事に出かける前なので大丈夫です、と彼女は言っていた。
ARIAカンパニーの建物へと架かっている橋を渡り、裏側(看板があるからこっち側が表かもしれない)へ回り込んだ。
人気を感じない。カウンター越しに中を覗いてみるが、誰もいなかった。
「すいませーん」
それでもとりあえず声はかけてみる。
「はーい」
聞いたことのある明るい声。間違いない。いや、間違えようがなかった。
「いらっしゃ―――ああっ! お、おはようございます!」
まず、現れたのは水無さん。俺を見るなり、驚いた顔を浮かべた。
「あ、ちょ、ちょっと待っつへぇいてください!」
噛んだ。また微妙に噛んだ。
彼女は、真っ赤な顔をして慌てて階段を上っていく。何か悪いことしたか、俺。
「あらあら」
その代わりに、優雅に階段を下りてくる女性。彼女こそ、アリシア・フローレンス嬢。
3大妖精の名に恥じない見事な美しさを見せ付けられる。
「お、おはようございますっ」
頭を下げ、挨拶の声も自然大きくなる。今度はこちらが恐縮していた。
「おはようございます。うふふ、そんなに硬くなさらないでください」
微笑に、確かに妖精を見た。
「あ、はい」
無理だ。そう言われても、かなり無理があるっ。
「昨日はごめんなさいね。急な仕事が入ってしまって……」
「いえ、こちらこそ、出版社でもない、うちなんかの取材を受けて頂いてありがとうございます」
「うふふ。実は私も、地球の大学やその研究について興味があるんです。よければ取材の時に詳しく聞かせてくれないかしら」
このあと、軽く自己紹介をして、地球で買ってきた御礼を渡す。そんなよくある風景を経て、そこに水無さんがお茶を持って戻ってきた。
「取材でしたら、明日の夕方で良ければ、どうかしら?」
「はい、そちらがそれでよろしければ、こちらはそれに合わせるだけです。わざわざお忙しい中、お時間を割いて頂くだけでも光栄ですので」
頭を下げる。何だか、終始恐縮しっぱなしだったような気もするが……。
「あらあら。では、それではよろしくお願いします」
「それじゃ、灯里ちゃん。あとはお願いするわね」
そのあと、お茶と雑談を楽しんで、アリシアさんは席を立った。どうやら仕事の時間らしい。
「はひ、アリシアさん。いってらっしゃい」
舟に乗り込み、
「お休み、楽しんでね」
「……はひっ」
そう言い残して、出かけていった。鮮やかな操舵術であっという間に見えなくなってしまう。
「そういえば、今日もお休みなんですか?」
このあとどうするか考えていると、隣の水無さんと目が合った。
「そうなんです。アリシアさんがせっかくだからってオフにしてくれたんです」
何故か恥ずかしそうに、アリシアさんが去った方向を見る。
「せっかくだから?」
「あわわ……、特に予約も無かったもので。それより、これからどうなさるんですか?」
「いや……実は、昨日は水上から案内して貰ったんで、今日は陸から観光してみようかな、って考えてたんです」
せっかく火星に来て、ホテルで寝てるってのも勿体無い。いくら自分の出費が少ないといっても、滅多に星間旅行なんてできるものではない。おそらく、この機会を逃せば、次はいつになるか……。
「えっと……よければ、ご一緒してもよろしいですか?」
「え?」
誘われた?
振り向くと、彼女は俺の顔色を窺うように上目遣いに覗き込んでいた。よく見ると頬は赤い。
「あ、いや、ご迷惑じゃなければ、で良いんですが……」
広げた両手をぶんぶんと胸の前で大袈裟に振る。そんなに恥ずかしかったのだろうか。
「迷惑じゃないですけど……正直な話、水無さんが観光に行っても面白くないんじゃないかな、って思ったんですよ」
頭を掻く俺。
「そ、そんなことないですよ。何度観光しても、ネオ・ヴェネツィアは楽しいです。それにその時にしか出会えない貴重なものもあるかもしれませんし、何よりお客様と一緒に行くことで新しい発見があると思うんですっ」
慌てた調子で水無さんが言う。何だか息巻いているようにも見えた。
それが純粋におかしくて、一頻り笑った後、
「別に断る理由は無いし、案内がいてくれるなら嬉しい限りですよ」
彼女は本当にこの街が好きなんだと、再確認した。
「―――よかった」
視界の隅に、胸を撫で下ろす水無さんの姿。
「え? 何か言いました?」
「あわ、あわわ……な、何でもないですよー」
若干の不自然さを感じながらも、俺達は街へと歩き始めた。