「それ」が孤独な少女の胎内で物心付いた時、彼女は泣いていた。
なぜ自分がここにいるのか「それ」には判らなかった。判っていたことは、宿主を人とは
別の生き物に変えなければならないこと。そして、どう変えればよいのかだけだった。
だから使命に従って彼女を浸食し尽くす代わりに、知覚神経をつないで少女に語りかけたのが
何故かは、「それ」自身にも判らない。何故か、彼女を傷つけたくなかった。
突如自分の内に潜む何者かに話しかけられた少女は、もちろん驚いた。悲しみを忘れるほどに
驚いた。「それ」の使命を知った時、「それ」を恐れも忌みもしなかったのが何故かは、少女自身にも
判らない。何故か「それ」は使命に背いても自分の肉体を奪いたくないと考えている、それが妙に
うれしかった。
少女と「それ」は約束を交わした。「それ」は生存のため必要最低限だけ彼女の肉体を浸食し、
少女と共に人生を送る。そして少女は人生を終えるとき「それ」に肉体を譲り渡すと。
「それ」は少女と共に笑い、泣き、時には共に怒って時を過ごした。「それ」は少女を通じて世界を
学び、少女は「それ」と触れあうことで他者との接し方を学んだ。一年の時が流れた時、彼女は既に
「孤独な少女」ではなかった。胎の中に無二の親友を抱えている事を除けば、どこにでもいる快活な
乙女の一人だった。
そして乙女は恋するものである。彼女にも恋しい人ができた。「それ」に叱咤激励されて一世一代の
告白を成し遂げた頃には、少女を人と決別させる「約束の時」など「それ」自身すら忘れかけていた。
だが、人間たちがクリスマスイブと呼ぶ日、恋人との逢瀬に向かう少女の下へ、「約束の時」は
暴走トラックの姿をとって訪れた。
少女も「それ」も直感的に理解していた、致命傷だ。そもそも、半ば「それ」に侵された肉体でなければ
即死していただろう。まもなく少女の命は尽きる。
そして二人は知っていた。「それ」に少女を「癒す」力は無いことを。「それ」に出来ることは、このまま
少女と共に「滅びる」か、彼女を新たな生き物に「変える」かの、いずれかしか無いことを。
「それ」は迷った。使命が命じるようなモノに変わることを彼女は望むまい。だが、このままでは…
「それ」の逡巡を断ち切ったのは、神経から伝わってきた少女の心だった。
(まだあたしのこと思ってくれるんだ、ありがとう。
今度は、あたしが約束を守るよ。この体、あなたにあげる…でも、その前に一つお願いして良いかな?)
珍しく待ち合わせに数分遅れた少女は開口一番、呟くように
「ごめんなさい…」
と言った。
「ちょっと遅れた位どうでも良いよ。それよりどうしたんだ? この寒い中コートも着ないで」
「違うの……今日はお別れを言いに来たの…」
どういうことだよ、と言いつつ伸ばした手が少女の手と触れあった時、少年の顔色が変わった。
これまで何度か握った彼女の手とはあまりにも肌の質感が違う。上手く言えないが、感触そのものが
恐ろしく蠱惑的だ。
何者かに操られるように抱きしめた時、さらなる驚愕が少年を襲った。
少女の服は背面が大きく破れ、背中がむき出しになっている。が、その肌には傷一つ無い。少年の手に
触れた彼女の背は、手と同じく触れているだけで魅了されそうな感触だった。そして皮膚の下で何かが
蠢いている。人間にはあり得ない何かが。
「……どうしたんだよ、いったい…」
口をつきかけた問いを途中で飲み込む。彼の腕の中で愛しい少女は涙を溢れさせながら、こう言ったのだ。
「私、もうすぐ貴方の知ってる私じゃ…ううん、人間でもなくなっちゃうんだ。だから、もう貴方のそばにはいられない」
嗚咽と共に少女は恋人にキスした。初めての口づけであったが、少年にもこれが人間の唇の味ではないと理解できた。
少女の背で蠢いていたモノはついに背中の皮膚を破り、漆黒の翼を成していく。少年の腕の中にあるその姿は、
聖夜に最も相応しくない名「悪魔」を思わせた…
「さようなら、大好きでした…」
先ほどまで人間の少女であった彼女は生まれたばかりの翼を広げ、その足が地から離れていった…