大学の食堂でカレーうどんを啜っていると、ポケットの中の携帯が震えた。
何事かと引っ張り出してみれば、ディスプレイには非通知の文字。
――またか……
俺は少々げんなりしながら通話ボタンを押した。
相手が誰か分かっているだけに、挨拶も投げやりだ。
「はいよ。何?」
……返事は無い。
おかしい。いつもならお決まりのセリフが飛び出してくる筈なのに。
もしや、こちらの想像していた相手ではなかったのだろうか。
そんな疑念がちらっと脳裏を過ぎった。
――瞬間。
『もおおぉいい加減にしてええええええええええッ!』
耳元と、そしてすぐ背後から甲高い悲鳴が上がった。
思わず携帯を落としかけて、慌てて両手で持ち直す。
「お、おい、いきなり大声出すなよ。ビックリするだろうが」
『そんなの私の知ったこっちゃないわよ!
どうして! どうして! どおおぉして! 後ろを振り向いてくれないのーっ!』
「どうしてって、そりゃあ……決まってんじゃん」
『何よ! 何が決まってるのよ!』
「お前、『あの』メリーさんなんだろ?
振り向いたら殺されるか呪われちゃうんだろ?」
“メリーさん”と言えば、割と有名な怪談だ。
何の前触れも無く電話が鳴り、それに出ると女の子の声で、
『私、メリーさん。いま貴方の後ろに居るの』と言われる。
そうして後ろを振り向いてメリーさんの姿を見たが最後、呪われるか殺されるかしてしまうのだ。
俺だってそんなのはただの嘘っぱちだと思っていた。
だが――三日前。
その電話が俺の携帯にかかってきたのだ。
女の子の声で『私、メリーさん。いま貴方の後ろに居るの』と。
流石にその時は背筋に寒気が走った。頭が混乱して、額に脂汗も浮かんだ。
いけないとは知りつつも、思わず後ろを振り返りかけて――ふと、気付いた。
怪談では『後ろを振り向いてメリーさんの姿を見る』とお仕舞いなのだと言われている。
だったら、ずっとメリーさんを見ないでいれば助かるのではないか、と。
何の根拠も無い考えだったが、それは見事に的中していた。
以来この三日の間、呪われる事も殺される事も無く――
俺はひたすら後ろを見ない様に生活を送っていた。
「俺は呪われたくないし、死ぬのもゴメンなんだよ。絶対に振り向いてなんかやらないぞ」
『うぅ〜……じゃあ、呪わないし殺さないから。だから私を見てよ〜』
こちらの決意が伝わっているのか、携帯越しのメリーさんに先刻までの勢いはない。
それどころか哀願する様な鼻声になっている。
しかし、俺は騙されない。
同情心を誘っておきながら、振り向いた途端に殺す積もりでいるに違いない。
「ふん。そんな声出しても無駄だ。見え透いてるんだよ」
『見え透いてるなんて……非道い……私、ほんとに……』
「だから騙されないって。大体、何もしないってんなら俺がお前を見る必要なんてないじゃないか」
『必要あるから言ってんでしょうが! この鈍チン!』
「……やっぱり芝居だったか」
『…………あ』
ぽつりと間抜けな声が漏れる。
案外、メリーさんの頭は軽いのかもしれない。
俺はわざとらしく大袈裟に嘆息してみせた。
「んじゃ、それしか用がないならもう切るぞ。
今日は午後一で講義があるから、さっさと昼飯食べないと間に合わないんだ」
『ああー! ま、待って! 切らないで!』
「……何だよ?」
『お願い! お願いだから私を見て! そうしないと――』
「そうしないと?」
『そうしないと、他の人にとり憑く事ができないんもん!』
「ふ〜ん……」
成る程。だから俺が振り向かなくてもずっと着いて来ていた訳だ。
ただ、そうなると――厄介な事になってくる。
メリーさんが何処かへ行ってくれるのは望むところだが、彼女を見れば俺が死んでしまう。
ならば……
「じゃあ、一つ取引しないか?」
『取引?』
「そう。お前を見てやるその代わりに、俺を呪わないし殺しもしない。どうだ?」
『……』
沈黙。
その間は逡巡か、或いは何か思惑があるのか。
俺がどちらか判断する前に、メリーさんが言った。
『分かったわ。貴方には何もしない』
「誓うか? 絶対に何もしないって」
『誓う。ぜっっったいに何もしない』
「……よし」
正直なところ、ちょっと心拍数が上がっている。
メリーさんは「誓う」と言ったが、
相手は幽霊(いや、妖怪か?)なだけに確実に安全だと言う保証はない。
だが、恐怖心と共に、それと同じくらいの好奇心もあった。
俺は携帯を耳に当てたまま恐る恐る――背後を振り向いた。
『ああ……やっと……』
感極まった様な、震えた声が耳朶を叩く。
もっとも、俺はそんなもの聞いてはいなかった。
そこに居た少女の姿に、全神経を持っていかれてしまった。
まるで西洋の人形みたいなはっきりとした目鼻立ちに、白蝋の様な瑞々しい肌。
背中の中ほどまである柔らかそうな蜂蜜色の髪は緩いウェーブを描いてさわさわと揺れている。
ドレスみたいなワンピースに包まれた身体は風が吹けば飛ばされそうなほど華奢で……
こんな可憐な少女が恐怖の怪談の主人公だなんて、とてもじゃないが信じられない。