「さて」
紳士は顎を少しだけ上げ、神経質そうにタイを締める。
濡れひかる裸体を一往復。
その視線だけで少し体に赤みが増したような気がする。
「急がんと、駄目じゃわい」
高潔な装いとは違い口調はなんとも古めかしいものであった。
そして左胸に咲いていた真紅のチーフを抜いてしゃがみ、裸体をまじまじと見る。
「これは、楽しみじゃわい。ぬふ」
乳房をやわやわと揉み、おもちゃを得た子供のように乳首をつまみあげる。
「、、、ぁ」
裸体のそのあどけない発音にむふ、むふふと息をもらし乳首いじりに夢中になる。
底に水がたまった風船のようになるまでもちあげ、ぱっと指を離す。
ひねったり、はじいたり、こねたり、乳首に異常に執着をもっていた。
「やはりおなごのスイッチはここよ」
といわんばかりに押し揉み、ひねりあげ、つまみ回し、さんざんにもてあそんだ。
「しまったわい」
紳士、マスターのその声はあいかわらず乳首いじりをしながらのものであった。
大きな背中が裸体にひざまずき、その舌でなぶっている。
乳首を口にふくみながらもカツゼツのよい声がでたのはなんとも不思議なことではあるが
常識では考えられぬ変化を遂げた彼ならそのくらいはなんとでもないのだろう。
「、、、何者だ」
その声はマスターの背中より数歩後ろ。鉄面皮をした男から発せられた。
静かなる立ち居にも警戒と怒気と観察と殺意がまじっていた。
「もう一度聞こう。何者だ」
漆黒の部屋の中で裸体にからみつく老紳士。
真夜中の路地裏のような静寂が続く中、唾液の音だけがひびく。
その光景を見ているベルゼバブは刹那、吸血魔の存在を脳裏に浮かべた。
二度の質問という名の警告の後、ベルゼバブは波動を発した。
剛健な素材で彩られたこの部屋のあらゆる物質がゆがむ。
低音の長い波紋が形を崩しつつ広がり、どういう現象か分からないが部屋が緑色に染まった。
と同時に裸体のあった場所に移動していたベルゼバブは目の玉だけを左右に動かせた。
(なに、、、)
消えた。
自分の目に捉えられないものなどない。
スピードにおいてはなにびとにも負けることはない。
それは「誰であっても」だ。
そこには蠅の王たる自負があった。
その自信に驚異という調味料がからみ、胸の奥に小さな種を生んだ。
その種は「あせり」という芽を生やした。
完全に目標を見失った。気配すら感じられない。
逃げられた。相手の正体もつかめぬまま、逃がしてしまった。
リリスとともに。
鼻のつけ根に皺が寄る。
失態であった。