<プロローグ>
友情と恋愛感情はどこが違うのだろうか。
最初は、友達になりたかった。彼女はいつも優しく笑っている。同居しているという青野や
由崎と一緒の彼女はいつも楽しそうだ。昼食のときにちらりと見えた、彼女が作っていると
いうお弁当はいかにも温かな家庭の匂いのする、美味しそうなものだった。三人で楽しそうに
話をしながら食べている姿は、その素晴らしい御馳走を彩る調味料に見えた。
−−−温かいものに触れてみたい。それが私の最初の気持ちだった。
《GREEN RIBBON》
あなたは特別だ、と伝えたかった。どうすればそれが伝わるだろう? 自分を好きだと告げた
景子に対しての答えとして、八重が選んだのはキスだった。
八重は重ねた唇をゆっくりと離す。目を開けて景子を見てみると、今起こったことがさっぱり
理解できないといった風情で呆然としている。目の焦点も合っていない。
「にわちゃん?」
「…………???」
「にわちゃんてば!」
「ヴァーー!!?」
八重に肩を揺さぶられて驚いた景子は、派手に椅子から転げ落ちた。
「何してるんですかー!」
「な、何って、な、七瀬こそ、な、な何したの?」
「い、言わせないで下さいよ、そんなこと!」
今更己のしたことが恥ずかしくなって、八重はプイッと横を向いてしまう。逆上した八重の
剣幕に驚いた景子はただ狼狽しておろおろするばかり。何で怒らせたのかと焦ってしまう。
「何か私、変な事言った? ごめん」
普段は景子の言動に振り回されっぱなしの八重だが、今は全く逆。つい可笑しくなってしまう。
「いえ、違うんです。あ、あの、恥ずかしかったものですから」
八重は膝をついて、座り込んだ景子を横からそっと抱いた。深呼吸して、伝えたかったことを
言葉に翻訳しなおす。そして、耳元で甘く囁く。
「私もにわちゃんのことが好きです」
「ほ、ほんとに?」
嬉しさ半分、狐につままれたような顔半分で八重を見つめる。八重は頬を染め、軽くうなずく。
景子は、体を四分の一回転させて八重と正対し、腰に両腕を回して抱き寄せる。弱くはないが、
強すぎでもない力加減。大切な宝物を扱うようにして抱き締める。
(なんだか不思議…)八重は景子に抱かれながら目を閉じて思う。景子が八重を抱き締める
ことは今までもよくあった。けれど、今の抱擁はこれまでとは違う。今までは幼児がお気に
入りのぬいぐるみを抱くような一方的な抱き方だった。今の抱き方からは、景子が自分を
いとおしむ気持ちが穏やかに流れてくる。
(にわちゃんって、あったかい)
あまりにも気持ちよくて、眠くなりそうだ。もしかしたら、自分はもう夢の中にいるのかも
しれない。八重はぼんやりとしてきた頭で、それでも景子を想い続ける。
どのくらい抱き合っていただろうか。ぽつりと景子が呻いた。
「…七瀬。体が痛くなってきた」
夢心地から醒めた八重がそろりと離れる。景子は椅子から落ちてから床に直に座りっぱなし
だったし、力の抜けた八重を支え続けていたものだから、お尻や背中に負担がかかったらしい。
「ちょっともったいないと思ったけど」
くすりと笑いながら、景子がぎこちなく立ち上がる。パンツの汚れを払ってから、首や腰を
ひねる。八重もつられて立ち上がる。
「ごめんなさい、その、つい気持ち良くなってうとうとと」
「なら、いいんだけど。窒息されたら困るから。せっかく好きだって言ってもらえたのに」
そう言って景子は、八重の頬を撫でる。八重の体は小さい。景子の背が平均より高いことも
あるが、顔一つ分ほど背が高い相手から撫でられていると、まるで子ども扱いされているようで
少し寂しくなる。
「もう、にわちゃんまで、真紀子さんや多汰美さんみたいに妹扱いしないで下さいよ」
「妹?」
拗ねた八重を見て、今度は景子が露骨に不機嫌な顔になる。
「…七瀬は、妹じゃないわよ」
さっきまでとは打って変わって、景子は八重を強引に抱き寄せ、体全体を持ち上げる。八重は
驚いて景子の背中に手を回し、落ちないようにとしがみつく。景子は力任せに八重をベッドまで
運び込んで、そのまま己の体もろともベッドへ雪崩れ込ませた。
態度を急変させた景子から乱暴な扱いを受けるかと警戒して、八重はとっさに身を固くする。
けれども、左耳から聞こえたのは景子の悲痛なほどの懇願だった。
「今だけ、今だけでいいから、青野と由崎のことは言わないで」
八重は言われてみて初めて、景子が真紀子と多汰美に嫉妬していたことに気付く。自分が伊鈴に
嫉妬していたように。
「ごめんなさい。…妬いてた?」
「七瀬が青野と由崎を好きなのは分かってる。青野と由崎がいなかったら、私が七瀬と話す
こともなかったかもしれないってことも。それは分かってる。そういうものだって。私だって
青野と由崎のことが嫌いなわけじゃない。でも」
混乱した口調で話す景子を八重はそのまま受け止める。
「…うん」
「お願い、今だけでいいの。あの二人のことは言わないで」
景子の声には少し涙声も混じっていただろうか。八重は景子の背中に腕を回し、自分の胸へと
抱き寄せる。色々な想いとぶつかりながらも、景子は自分の全てを愛してくれている。それに
応えたくて、両手で優しくあやすように景子の背中を撫でる。
景子は両腕を八重とベッドの間から抜き、腕立て伏せの要領で体を起こす。指で八重の前髪を
かき上げ、額に自分の唇を押し当てる。今度は目の上。頬。顎。少しずつ場所をずらしながら、
景子は八重の顔にキスの雨を降らせる。そして最後に八重の唇に熱い接吻を交わす。友達だと
いう言い訳を二人にもう許さないように。
「七瀬…、七瀬……」
景子は胸が熱く焦がれるような想いを抱きながら、うわごとのように八重の名前を呼び続ける。
顔から唇を離すと、首筋にキスをする。右手は八重の腰を押さえ、左手はブラウスのボタンを
外しにかかる。八重は景子の熱を胸の奥に流されているような錯覚を感じながら、景子の背中に
回した手の指先に力を入れる。
「に、にわ…ちゃ……ん」
自分を呼ぶ愛しい人の切なげな声を体全体で受け止めて、景子はボタンを外したブラウスの
中へと左手を侵入させていく。
「や……っ」
八重が体を緊張させて強張らせたその瞬間、それまでの静寂を破る音が部屋に響いた。
『ピリリリリリリリ』
鳴ったのは、八重の携帯電話。不意打ちを食らった景子は跳ねるように八重の体から離れる。
八重は気まずい顔をしつつ、スカートのポケットから携帯を取り出した。真紀子からだ。出ない
わけにはいかない。
「もしもし。真紀子さん?」
「あ、八重ちゃん? 今どこにおるん?」
ギクリとしながらも、その場をしのぐ言葉を考える。家の者には買い物だと嘘をついて出てきた
手前、景子の家にいると正直に言う訳にはいかない。
「今、大園です。ちょっと気に入る物がなかったものですから、時間かかっちゃいまして」
「そうなん? あ、もう帰ってきてもいいよ。こっち、準備できたから。八重ちゃん、誕生日
おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
「携帯掛けてにわも呼んだりー。いくら最近綺麗なお姉さんにかまけとっても、八重ちゃんの
誕生日無視するほど、あいつも薄情やないやろ」
「そ、そうですね」
「もう六時近いし、花屋とのデートも済んどるんちゃう?」
「えっ、もうそんな時間なんですか!」
「せや。おばさんも多汰美もななせも待っとるから。早う帰りや」
「はい、ありがとうございます」
電話を切って景子を見ると、ふてた顔で窓の外を見ている。慌てて八重は手を合わせて謝る。
「あ、あの、にわちゃん、ごめんなさい!」
「いいわよ…本当はちっともよくないけど。口裏合わせればいいんでしょう。……それより、
七瀬?」
(うあぁ…、あそこまで許しておいて中断させちゃったから、にわちゃん怒ってるよね)
「青野の言ってた『花屋とのデート』ってどういうことよ!?」
「フォアッ! そ、そっちですか!?」
「誰が伊鈴さんとデートだって? それになんで青野が、私が伊鈴さんの所に行ってたのを
知ってるのよ?」
八重は昨日、自分と真紀子、多汰美の三人で景子の尾行をしたこと、ついさっきまで三人とも
景子が生花店の娘、伊鈴を好きなものだとばかり勘違いしていたことを白状した。
「あんたたち、そんな誤解をしてたわけ」
「だって、『いい人』って言ってたじゃないですか」
「フラワーアレンジメントを教えてくれて、色々アドバイスしてくれた人が『いい人』じゃない
わけ、ないじゃない。…それより、あのエロガッパ、今日こそシメてやるんだから!!」
「ちょ、ちょっとにわちゃんっ、本当にやったら、もううちに入れませんからね!」
それから二十分後、なんとか興奮する景子をなだめて、八重は景子を連れて一緒に家に帰る
ことが出来た。
七瀬家。
「ただいまー」「おじゃまします」
「あらお帰り、八重。潦さんもいらっしゃい」
八重の母、七瀬幸江が二人を出迎えてくれた。景子が右手に持っている大きな袋に気付き、
中身は何かと訊く。
「あ、これ、誕生日プレゼントなんです。中は後でお見せしますから」
「にわちゃん、いらっしゃい」「お、にわ、来たんか」
エプロンを着けた真紀子と多汰美も二人を出迎える。…ちょっと待て、「炭生成機」の異名を
持つ殺人的な料理テクニックの二人が何をしていたのだ。八重と景子の顔色が悪くなる。
「あ、あの、真紀子さん、多汰美さん。何を作ってたんです?」
「誕生日に作るゆうたらケーキやろ」「じゃね」
「…………」
「青野、由崎、それ食べられるの?」
それからまた、恒例の真紀子と景子の小競り合いが始まった。いつもは真紀子の優勢勝ちで
終わるのだが、今日ばかりはさっきまでの景子の怒りの剣幕を恐れた八重がなんとかとりなして
ドローに終わった。ちなみに、ケーキは市販のスポンジに果物をはさんで生クリームを塗った
だけなので、味に問題はなかった。
夕食が終わって、プレゼントの時間。幸江からは昔着ていた着物を仕立て直したものを、真紀子
からは八重お気に入りの作家の新刊本、多汰美からはかわいいくまのぬいぐるみ。そして、景子
からは手作りのバスケット入りアレンジフラワー。紫色のライラックを中心に、白バラ、ガー
ベラなどをあしらったアレンジメントに一同は賞賛の声を上げた。鳩のななせも箪笥の上から
見ている。
「なあ、にわちゃん、これどこで買ったん?」
多汰美に訊かれて、景子は答える。
「花は『Evergarden』ってお店で買ったの。そこの店員さんが親切な人でね、バスケットも
譲ってくれたし、アレンジのやり方も一から教えてくれたの。ここ一週間、これを習いに通い
続けてたんだけど」
「にわも結構やるやん。ところで、本当に花だけが目的やったんか?」
「……青野、どういう意味よ?」
「早う帰る理由をもう言わんから。デートかと思っとったわ」
「七瀬を驚かせようと思って黙ってたのよ。お生憎様、疑われるような相手なんかいないわよ。
ほんっとにあんたってエロガッパね」
「まだ引っ張るか、そのネタを!」
危うく第二ラウンドが始まりそうになるところを八重と多汰美が引っぺがす。八重は真紀子に
多汰美の部屋でテトリスでもしようと持ち掛け、二階へ連れて行く。多汰美は二人に、お茶
持って行くけえね、と告げて、景子を台所へ連れて行く。
台所にて。
「でも、良かった」
多汰美が茶葉を量りながら景子に言う。
「何がよ?」
湯呑を用意しながら景子が訊く。
「八重ちゃんには言わんといてね」
「うん」
「ここしばらく、にわちゃんが構ってくれんかったから、落ち込んどったんよ」
「え、七瀬が?」
「昨日の夜なんかお通夜みたいじゃったけえね。驚かそう思うのもいいけど、あんまり心配掛け
させたらいけんよ?にわちゃん」
「うん、…ごめん」
(「姉」にはある意味、敵わないのね)景子はお盆に茶漉しと湯呑を載せ、多汰美を一瞥し、
苦笑した。
多汰美の部屋にて。
真紀子は黙々とブロックを積んでゆく。八重はそれを傍らで見ている。
「八重ちゃん、ごめんな」
視線はテレビ画面にやりながら、真紀子がぽつりと呟く。
「何がですか?」
「にわのこと。本気で気にしとったんやろ? 離れていくんやないかって」
「ええ、まあ」
「八重ちゃんのこととなったら、あいつ、なんでもするんやなあ」
感心しながら、真紀子は山のように積んだブロックを次々と消してゆく。八重は微笑みながら、
プレイ中の真紀子を眺めている。
「…八重ちゃん」
「はい?」
「にわに変な事されそうになったら、すぐに呼ぶんやで」
「……はい」
(真紀子さんには敵わないな)先刻の携帯電話の掛かってきたタイミングを思い出し、八重は
冷汗三斗の思いをする。
夜も更けて、八重の部屋。
さて困った、とパジャマに着替えた二人は考え込む。いつも景子が泊まる日は、一組しかない
布団で一緒に寝ていた。しかし、夕方の出来事の記憶が生々しすぎて、通常通り一緒に寝る
のには色々と問題がある。隣の部屋では真紀子が寝ているのだから続きをするなど論外だし、
そうかといって今日に限って別々の部屋で寝たりしようものなら、真紀子と多汰美にまた要らぬ
心配をさせてしまう。
結局、二人は考えた末に一緒の布団で背中合わせに寝ることにした。
「そろそろ電気消しましょうか」
「うん」
「にわちゃん」
「…ん?」
「今度、伊鈴さん紹介してくださいね。お花も見てみたいですし」
「…うん。じゃ明日皆で行く? いい加減、青野と由崎の誤解をしっかり解かないとまたやや
こしくなるから」
「ふふ…はい、じゃ明日、一緒に行きましょう。みんなで」
「……七瀬」
「はい?」
「今度は、携帯の電源切っといてね」
「にっ、にわちゃん!?」
「おやすみ〜」
真っ赤になってうろたえる八重をよそに、景子はしれっとした顔で横になった。
一時間後。
なかなか寝付けない八重は、もぞもぞと寝返りを打って右側にいる景子の方を向く。いつも
自分より早く眠るのを見たことはないが、今日は八重のほうを向いて穏やかな寝顔で眠って
いる。その姿があまりにも愛らしくて、思わずそっと頬にキスをする。
上体を起こして枕元を見遣ると、緑色のリボンが二本置いてある。以前、八重が景子に譲った
髪留めだ。
『七瀬からもらった物だから、いつもお守り代わりに持ち歩いているの』
八重は右手でリボンを一本手繰り寄せる。
『いつも七瀬がそばにいてくれると思うだけで、私安心するから』
手繰り寄せたリボンの両端を景子の右手首と自分の左手首に軽く巻く。
『これからも、ずっと一緒にいられますように』
「にわちゃん、おやすみなさい」
小声で景子に告げて、八重は目を閉じる。やがて八重はゆるやかに眠りに落ちていった。
夢の中で景子に逢えるように祈りながら。
<エピローグ>
「七瀬、友達と恋人ってどこが違うのかしらね?」
七瀬家に向かう道すがら、空を見上げて景子が問う。
「今までとこれからと、私たちの間で何か変わるかしら」
「難しいことはよく分からないのですけれど……」
八重はそっと右手を景子の左手へと伸ばす。届いた左手を軽く握る。
「今は手でつながってますけど、いつも心でつながってますから」
八重の手は温かかった。景子は八重の温もりをしっかりと受け止める。
「これからは、私の右手はにわちゃんのために一番に空けておきます。それでいいですか?」
景子は八重の手を握り返す。互いの温かさを確かめ合うように、そのまま手をつないで二人は
夕焼けの中を歩いていった。
おしまい。