386 :
橘×小夜子:
軽く響く足音に、浅い眠りから目覚める。灯のついていない薄暗い部屋の中、橘
は椅子から身を起こした。深く息を吸うと、春先のぬるい空気の中つんと薬品の
匂いがした。
カーテンを開くと、天頂に月が照っているのが見えた。どうやらかなりの時間を
寝ていたらしい。時計を見ると、真夜中近かった。
「起こしちゃった?」
小夜子が廊下側のドアから顔を出した。白衣を着たままということは、今までず
っと診療所にいたのだろうか。いつもならとっくに帰っているはずの時間に、橘
はいぶかしんだ。
「…もしかして、俺が起きるの待ってた?」
「ううん、ちょっと用事があっただけだから。…ゆっくり寝てていいよ?」
窓から差し込む月明りが、部屋に入った小夜子を照らした。女性らしい華奢な躰
が、儚げで美しく見えた。
──抱きたい。
不意に、橘の中に今まで感じた事のない感情が沸き起こる。
小夜子がいると、安心する。アンデッドとの戦いの中で常に緊張を強いられてき
た橘の精神は、癒されることを求めていたのかもしれない。小夜子が一歩一歩進
むたび心臓が高鳴っていくのを感じた。
小夜子を抱いたら、一瞬でもあの悪夢を忘れられるだろうか。それを小夜子は許
してくれるだろうか。
橘は小夜子の性格を知っている。誰かが苦しんでいるとしたら、自分を犠牲にし
ても救おうとしてしまう。この小さな体で、どんな大きな困難であろうとも。
手を伸ばせば届きそうな距離。橘は小夜子に触れようと手を伸ばしかけ、途中で
躊躇した。いまの自分に、小夜子に触れる権利はないような気がしたから。