1 :
トラパス作者:
萌える話をお待ちしております。
がんがん書いていきましょう。
注意
人によっては、気にいらないカップリングやシチュエーションが描かれることもあるでしょう。
その場合はまったりとスルーしてください。
優しい言葉遣いを心がけましょう。
作者さんは、「肌に合わない人がいるかもしれない」と感じる作品のときは、書き込むときに前注をつけましょう。
原作の雰囲気を大事にしたマターリした優しいスレにしましょう。
関連スレは2をどうぞ
2 :
トラパス作者:03/11/03 09:55 ID:cyzR0Zj2
3 :
トラパス作者:03/11/03 09:57 ID:cyzR0Zj2
新作行きます。
前注
・オールトラップ視点のお話しです。
・作品傾向は前半が明るめですが何故か後半では切なめになってる(かもしれません)
・エロは一応ありますが少ないです。
俺がいささか軽率だったことは認めよう。
だが……あの場合は、仕方ないんじゃないか!?
第一、だ。そもそものミスをしたのはパステルで、むしろ俺はそれに巻き込まれた形で……
などといくら言ってみても、目の前の状況が変わるわけではなかった。
俺の前には、この上なく冷たい目をしたクレイ、キットン、ノル。ルーミィとシロは事情がよくわかってねえらしくきょとんとしているが……
テーブルの上に投げ出されているのは、一通の手紙。
そこには見慣れたあいつの筆跡で、こう書かれている。
――しばらくガイナに帰らせてもらいます。勝手なことしてごめんなさい
パステル
冷や汗がだらだら背中を伝い落ちる。
こうなった原因ははっきりしすぎるほどはっきりしていて。声高に俺は悪くないと主張したところで、きっかけが俺にあることは間違いないわけで。
「……で、トラップ。お前、俺達が出かけてる間に、一体パステルに何をしたんだ?」
そう問い詰めるクレイの声は、これでもかというほど冷たかった。
その日、みすず旅館に俺とパステルだけが残されたのは、まあ間が悪かった、としか言いようがねえ。
季節は夏真っ盛り。あまりの暑さに外出する気にもなれねえ、そんな時期。
こんな時期でもルーミィとシロの奴はパワフルに外に遊びに出たがったが、正直言って俺を初めとする他のメンツは全員がへばっていた。
それでも、クレイやノル、それにパステルは、根気強く交代でルーミィに付き合ってやっていたが。
「このままだといずれ誰かが倒れる」
真面目な顔をして言うクレイの言葉を笑いとばせねえほど、この年の暑さは深刻だった。
そんなわけで、少しでも涼しいところに行こう、と、クレイ達はルーミィを湖に連れていってやる計画を立てたんだが……
直前になって、パステルに原稿の依頼が舞い込み、俺にはバイトの話が舞い込んだ。
まあ、よっぽど断ろうかどうしようか迷ったんだが……財政的に、誰かが金を稼がねえことには、少々今後の生活に不安が残る、というわけで。俺とパステルは、留守番を余儀なくされた。
……まあいいんだけどな。湖は確かに魅力的だが、この暑さの中、数日かけててくてく歩いていくのは勘弁願いたかったし。
パステルは随分残念がっていたが、さりとて、ここで湖に出かけたら絶対に締め切りには間に合わねえこともわかっていたんだろう。ルーミィがどれだけごねても、「ごめんね」の一点張りだった。
そんなわけで、クレイ達が出かけて、しばらくみすず旅館は随分静かになった。
俺とパステルだけになり、一人一部屋使えるのは、正直助かった。この暑い中、狭いベッドに二人で寝るのは余計に辛い。
……そう、逆に言えば、一人一部屋、一つのベッドを使える、なんてのが俺達にとっては稀な事態なわけで……普段は大抵誰かと一緒に寝ていた。思えば、これが全ての元凶だったわけだが。
しばらくもくもくとバイトをこなし、クレイ達も多分明日には帰ってくるだろう、という日のこと。
その日、俺はバイトが終わった後、猪鹿亭でしこたまビールを飲んでいた。
バイトの給料日で多少懐に余裕があったし、暑い日に飲む冷たいビールってのはまた格別だからな。
一緒に飯を食っていたパステルも、俺があんまり長々と粘るもんだから「先に帰ってる」と席を立ち。
結局、俺が店を出たのは、閉店時間ギリギリだった。
酒には割りと強い方だと思ってるんだけどな。その日はちっと調子に乗りすぎた。帰るとき、足元がふらついてたかんな。
こんな状態で風呂に入ったら倒れるな……
とっとと寝よう。そう決意して、ふらふらと階段を上ったとこまでは、何となく覚えてる。
その後の記憶は曖昧だ。自分の部屋に戻って、それから……
暑いのと酒が入っていたこともあって、服を全部脱いで下着だけでベッドにもぐりこんだ。別に誰が見てるわけでもねえしな。そのまま、あっという間に眠り込んで……
そういやあ、夜中にドアが開いたような音もしたな、と後になって思い当たる。
けど、自分で言うのも何だが、一度寝たらそう簡単には起きない俺のこと。ましてや酒が入ってたからな。そのまま、朝を迎えるまで目を覚ますことはなかった。
…………?
猛烈な頭痛と、暑さ、そして、背後から漂う熱気に、俺は目を開けた。
窓の外はもう明るいが、まだまだ普段の俺なら夢見てるような時間。
……くっそ、飲みすぎた……
典型的な二日酔いの症状に顔をしかめる。
水でも飲もうか、と身を起こそうとしたときだった。
ふにっ
ベッドにつくはずの手は、やけに弾力ある物体に押し返された。
…………
くるり、と振り向く。
同じベッドの中。そう、俺の隣、ほんの数十センチと離れていない場所。
そこに、パステルが寝ていた。
…………
ま、待て、俺。落ち着け。
何だこれは? 何でこんなとこでパステルが寝てるんだ?
きょろきょろと部屋を見回すが、そこは間違いなく男部屋で。
……昨夜、何があった?
思い出そうとするが、頭痛のせいではっきりしねえ。
おそるおそる薄い夏用毛布をめくってみる。
間違いなくパステルだ。長い金髪は枕の上に広がり、一部は汗で頬にはりついている。この暑いのにしっかり熟睡しているらしく、桜色の唇からは規則正しい寝息が漏れている。
そして。
するり、と毛布を落とす。
俺の目にとびこんできたのは、眩しいくらいに白いパステルの足。
……そう。パステルは、白いTシャツ一枚しか着ていなかった。
いや、もちろん下着は身につけていたが。
どぐんっ
冷静にそれを目におさめた途端、頭痛は彼方へととんでいった。
まあ朝だったってこともあり、即座に反応を示す自分の身体がこんなときは恨めしい。
目をそらそうとしてもそらせねえ。シーツのしわ一つ見逃すまい、という勢いで、じっくりと見てしまう。
汗ではりついたTシャツ。ブラジャーはつけてねえのか、胸の形がはっきりとわかる。
さらされたうなじ、むきだしの腕、太もも……そして、無防備な寝顔。
待て、俺。落ち着け。
思わず手が伸びそうになるのを、必死におさえる。
よく考えろ。俺とパステルが一緒のベッドで寝ている。これが示すところは一体何だ?
昨夜。酒が入っていたせいでよく覚えてねえが……
ふと自分の格好を見下ろす。俺の方もパステルと似たような……いや、上半身は裸だから、さらに薄着か……そんな格好。
半裸の男女が一つのベッドで寝ている。それが意味することってのは……一つしかねえんじゃねえのか?
頭の中を想像がかけめぐる。
『トラップ……ちょっと、いい?』
『わたし、もう我慢できないの。ずっと前から、トラップのことが……』
恐ろしく自分に都合のいい妄想であることは否定しねえが。
け、けどな……この状況を見るに、考えられるのは……それしかねえんじゃねえか?
つまり、あれか。俺とパステルは……昨夜、その、ヤッた、ということか?
……全く記憶に残ってねえ。不覚! 酒のせいか!? そうなのか!? 夢にまで見た初体験が、こんなことでいいのか!?
いや、よくない。
コンマ数秒でそう結論づける。
これはよくない。ヤッた(と思われる)のに記憶にも残ってねえ。それははなはだ相手に対して失礼というものだ。
ここは一つ……だな……記憶を取り戻すためにも、その、もう一度……
思えば、そのときの俺は寝起きと二日酔いで脳が腐ってたとしか思えねえが。
とにもかくにも、性急にそう結論付けた。
で、どうしたかと言うと。
自分の欲望に忠実に、寝てるパステルの身体に手を伸ばした、とまあそういうことだった。
微かに赤く染まった頬に手を伸ばす。
「ん……」
小さくうめくが、それでも目を覚まさない。完全に眠っているようだ。
起こそう、と思わなくもなかったが。理性よりも本能が勝った。
思った以上に細いその身体にのしかかる。Tシャツをめくりあげると、お世辞にも大きいとは言えねえが、眩しいくらいに真っ白な胸が、目に飛び込んできた。
そっと手で包み込む。その柔らかさは、今まで触ったどんなものとも違った感触で……
「ん……あ……」
パステルの息が少し乱れた。それでも、まだ目を開けねえ。
わずかに開いた唇に軽く口づけた後、首筋、肩を通って、胸にキスをする。
白い肌にいくつもの赤い痣が残って、それがまた酷く欲情を煽った。
……あーっ、やべえ。何かもうこんだけでイキそうだ……
痛いくらいに反応してる自分のナニを見下ろして苦笑する。
普段、パステルのことを色気がねえ、幼児体型と散々バカにしてきたが。どうしてどうして。こうして手で触れてみると……それはなかなかに魅力的で……
脚を開かせる。下着の隙間から指をこじいれる。
しばらくさすったりこすったりしていると、やがて、指にまとわりつくようにして蜜が溢れてきた。
うわ。こいつ、割と敏感だな……いや、他の女を知ってるわけじゃねえけど……
下着をはぎとる。両脚の間に自分の足を割り込ませる。
いざ、挿入! の前に、もう一度唇を重ねた。
そのときだった。
ぱちっ
音がしそうなほどに突然、パステルの目が開いた。
いや、こんだけされたら、普通目が覚めるだろうが。
パステルは最初、自分が何されてるのかよくわかってねえみたいだった。
はしばみ色の目が、至近距離で俺を見つめている。
重ねられた唇、むき出しにされた胸、広げられた両脚と、その間に割り込んでいる俺の身体……
そっと唇を離す。……何て声をかけりゃいいんだ……?
「よ、よお」
後になって考えると何て間抜けな挨拶だ、と思わなくもねえが、そんときの俺には、それが精一杯だった。
そして。
「き……きゃああああああああああああああああああああああああああああ!!?」
みすず旅館どころか、シルバーリーブ中に響き渡りそうな悲鳴が、炸裂した。
冷静になってよーく考えるとだ。
あのパステルが自分から迫ってくるなんて、そんな大胆なことをするはずもなく。
ようするにこういうことだろ、と思い当たったのは、悲鳴をあげたパステルに散々ひっぱたかれたり物を投げつけられたりした挙句に、
「トラップのバカ! 最低! ひどいひどい、こんなのってひどい……もう大っ嫌い! 顔も見たくない、バカ――!!」
という素晴らしい罵声まで浴びせられて部屋を叩き出された後のことだった。
多分、だ。パステルのこった。暑さのせいで夜中に水でも飲みに起きた後。
あの方向音痴は、女部屋と男部屋を間違えて、しかも部屋の中が暗かったせいでそれに気づかなくて。
それで、手近なベッドにもぐりこんで……そこに不幸にも、俺が先に寝ていた、と。多分そんなことじゃねえだろうか?
普段ルーミィやシロと一緒に寝てるから、同じベッドに先客がいても気にしなかった……夜中で、寝ぼけてて、まあそんなとこじゃねえか、と思う。
……いや、俺は確かにいささか焦っていた。ちっとばかり性急だった。
けどなっ! 部屋を間違えたのはあいつで、ベッドにもぐりこんできたのもあいつで……それもあんな無防備な格好で隣に寝てこられて、男なら誰だって同じような反応するんじゃねえか!?
いくら自分に言い聞かせたところで、んな言い訳をあいつが聞いてくれるとも思えず。
とりあえず一風呂浴びて、それから考えよう、とそのまま風呂場に向かった。
冷水シャワーを浴びてどうにかこうにか頭を冷やして、部屋に戻ってみると、もうあいつの姿は無かった。
さすがに、部屋を間違えたのは自分だ、ってことに気づいたみてえだな。
……さて、どうすべきか。やっぱ、俺から謝るべきなのかあ?
けどなあ……何て言って謝りゃいいんだ!?
俺がそんなことに頭を悩ませていると、一階が騒がしくなった。
どうやら、クレイ達が帰ってきたらしい。
「ただいま。留守番ご苦労様……何か変わったことはなかったか?」
部屋に入ってくるクレイとキットンに生返事をする。
かなり変わった事態が起きたが、こんなこと説明する気にもなれねえ。
そんな俺の様子に、クレイは何か感じることでもあったのか……「どうかしたのか?」と声をかけたきた、そのときだった。
「くれぇー」
舌ったらずの声が響いて、ルーミィとシロが顔を覗かせた。
「ルーミィ、どうしたんだ?」
「ぱーるぅがいないおう」
「いないデシ」
二人(一人と一匹)の声に、冷や汗がどっと吹き出した。
ま、まさか……?
「いない? トイレかどこかじゃないのか?」
「わかんない。そいでね、机の上に、これがのってたんだおう」
そうしてルーミィが差し出したのは、しばらくガイナに帰ると書き残された、あいつの置手紙だった。
で、冒頭につながるわけなんだが……
なあ、確かに俺は軽率だったかもしんねえけど……でも、俺は悪くねえだろ!?
「お前が悪い」「あんたが悪い」「トラップが悪い」
場所を猪鹿亭にうつして。
昼食がてら、起こったことを(大分控えめに)報告すると。
クレイ、キットン、ノルは全く同時にそう言った。
「あんでだ!? 部屋を間違えたのはあいつでベッドを間違えたのもあいつで、俺はむしろ被害者だろ!?」
「お前……なあ。気持ちはわからなくもないけど……」
「さすがにまずいでしょうねえ。朝起きてそんなことになってたら、そりゃあ女性はショックを受けますよ」
「パステルがかわいそうだ」
俺の必死の弁解に、男三人の目はどこまでも冷たかった。
お、俺に味方はいねえのか!?
必死に周囲を見回すが、状況をわかってねえちびっこエルフと子ドラゴンは飯に夢中で俺の方を見てもいなかった。
認めねえ! 俺は認めねえぞ!
断じて俺は悪くねえ。いや、多少は悪いかもしんねえけど、少なくとも一方的に俺が悪いってこたあねえ!
そう力説すると、バン、とクレイがテーブルを叩いた。
「そうだな。確かにお前だけが悪いんじゃないかもしれない。けど、こうなったのはお前が原因だろう」
「…………」
さすがにそれは否定できねえ。
不承不承頷くと、クレイは真剣な顔で言った。
「迎えに行ってこい」
「……は?」
「いいから、ガイナまで迎えに行ってこい。パステルにちゃんと、謝るなり話すなりして連れ戻してこい!」
「俺がか!?」
「お前以外に誰が行くんだ!?」
その言葉に、反論することはできなかった。
「まあ、頑張ってください」
ずずーっ、と茶をすすりながら、キットンが他人事のように言った。
「話せばわかってもらえますよ。誠意を持って本音を伝えれば、きっと」
「がんばれ、トラップ」
その言葉にノルも頷く。
本音って何だよ、本音って。
俺はいつだって正直だぞ? 正直すぎてこんな事態になったんだが。
そう言うと、キットンは「自分の気持ちなんて、意外と自分が一番わかってないもんですねえ」なんてしたり顔で言いやがったが。
とにかく、そういう理由で、俺はガイナまで出かける羽目になった。
ちょっと前に、一度だけ行ったあいつの故郷。
俺とクレイがドーマに帰る前。どうせ通り道だから、と3日ばかり滞在した街。
あれから一年ちょっとが過ぎたが、見たところ、特に様子は変わっていなかった。
ほんの数年前に、モンスターのせいで壊滅の危機にさらされていたとは思えねえ、のどかな風景。
ドーマもエベリンやコーベニアに比べりゃあ、静かな部類に入るんだが。ガイナはさらに静かだ。
すれ違う奴ら、みんながみんな穏やかで幸せそうな、そんな街。
「……さすがは、パステルの故郷だよなあ……」
何となく思う。あいつの無駄に幸せそうな……のん気な性格は、この街で育ったからこそ、じゃないだろうか。
まあ、んなことはどうでもいいんだが。
乗合馬車を降りて、一度だけ行ったあいつの家へと向かう。さすがの俺でも、道を覚えてるかちっと不安だったが。足はごくごく自然に動き出していた。
ま、ここらへんが、あいつと俺の差って奴だよなあ。
迷うことなく辿り付いた、見覚えのある家。パステルが育った場所。
……何て声かけりゃいいんだ?
あの日から、数日。多分、パステルの奴はまだ怒ってるだろう。
俺が訪ねていったところで……会ってもらえんのか? そもそも。
クレイの奴には、「パステルが帰るって言うまで戻ってくるな」と念押しされてるし。ここで門前払いされると、俺としてはかなり困るんだが。
呼び鈴を鳴らすべきか、否か……俺が玄関先でうろうろ悩んでいたときだった。
「おや? あなたは……確か、トラップさん?」
ぎくり
突然声をかけられて、思わず背筋が強張った。
もしかして、今の俺って完璧不審者じゃねえ?
おそるおそる振り向くと、門のところに立っているのは、見覚えのある人の良さそうな男。
……あー、確か、ジョシュアとか言ったっけ? パステルの両親の助手、だったか。
買い物にでも行ってたのか、両手に袋をぶら下げて、俺のことをじーっと見ている。
その目には、特に警戒の色はねえが……
「トラップさんでしょう?」
重ねて聞かれて、仕方なく頷く。
すると、ジョシュアの顔がほころんだ。
「そろそろ、どなたかが見えるだろうと思っていたんですよ。パステルお嬢さんを迎えにいらしたんでしょう?」
「……あいつの様子は、どんな感じだ?」
こいつは、事情を知ってるんだろうか。
いや、知ってたとしたら、俺に対してこんな穏やかな態度でいられるはずは……ねえよな。
「お元気ですよ。今は、ちょっと出かけていますけどね。あ、どうぞおあがりください。お茶でも入れましょう」
「あ、ああ」
出かけてる、か。そりゃ、まあ好都合だ。
思わぬ歓待にホッとしつつ、俺は玄関をくぐった。
「どうぞ。こんなものしかありませんが」
そう言いながらジョシュアが出してくれたのは、冷たい紅茶とクッキーだった。
クッキーの方は手焼きらしい。ひょっとしたらパステルの手作りか?
外は相変わらずの猛暑で、冷たい飲み物はありがてえ。出された瞬間に一気飲みする。
「おかわりはいかがですか?」
「わりいな、もらうわ……で、だな。パステルの奴なんだが……」
「ああ、お嬢さんは、今、先生のお墓参りに行ってますよ」
こぽこぽとグラスに紅茶を注ぎながら、ジョシュアは微笑んだ。
墓参り……そっか。あいつの両親は……
忘れてたわけじゃねえが、普段のあいつは、そんな辛さなんか微塵も外に出さねえから。あまり実感したことはねえ。
パステルの両親が、もうこの世にはいねえってことを。
「トラップさん」
「ん?」
柄にもなくしんみりしかけたところで、ジョシュアに話しかけられて顔をあげる。
その顔にはさっきと同じような微笑みが浮かんでいたが……気のせいだろうか?
口元は微笑んでいるのに、目が、やけに寂しそうに見えたのは。
「パステルお嬢さんを、迎えにいらしたんですよね?」
「……ああ。なあ、あいつ、何か言ってたか?」
「いえ」
俺の問いに、ジョシュアは即答した。
「何も。ただ、気が向いたから顔を出しただけだ、と……いつまで滞在する、ともおっしゃらなかったので、おかしいな、とは思っていたのですが。何か、あったんですか?」
「……まあ、ちっと……その、俺と喧嘩しちまってな」
事実を告げたら、この忠誠心の塊のような男に何されるかわかんねえ。
瞬間的にそう判断して、かなり控えめかつ曲解した返事をする。
「あいつと喧嘩するなんて、いつものことなんだけどな。今回はちっとばかり派手にやっちまって」
「なるほど……パステルお嬢さんらしい。怒ると、ちょっとまわりが見えなくなるところがありますからね」
ジョシュアは苦笑を浮かべたようだった。
あいつの性格は子供の頃から変わってねえようだ。まあ、大体想像はしてたけどな。
「まあ、な。今回は、ちっと俺がやりすぎたっつーか……まあ、それでだな……」
「ご心配なさらないでください。お嬢さんのことですから、もう怒ってはいませんよ。それに、ずっと寂しそうでしたし。
きっと、どなたかが……あなたが迎えに来てくださるのを、待っていたんじゃないですかねえ」
「……俺が?」
いや、それはねえんじゃねえの? むしろ俺の顔なんか見たくない、と思ってる可能性の方が高そうだが……
「トラップさん」
「あん?」
「正直な話を……してもいいですか?」
「……正直な?」
俺が首をかしげると、ジョシュアは、微笑を消した真面目な表情で、ぐっと身を乗り出した。
「本当は、僕は、誰も迎えに来なければいい、と思っていたんです」
「…………」
「パステルお嬢さんに、冒険者なんて危険な職業についてほしくはなかったんです。
普通の娘さんとして育ったお嬢さんに、あんな過酷な職業に耐えられるとも思わなかった。取り返しのつかない大怪我をする前に、やめて欲しい、戻ってきて欲しいと……そう思っていました」
「…………」
「だから、今回……パステルお嬢さんが顔を出したとき、僕は、本当に嬉しかったんですよ」
そう言って寂しげに笑うジョシュアの顔は、わかりやすすぎるくらいわかりやすかった。
あいつのことが心配でたまらねえ、そんな顔。
俺が口を挟まねえからか、ジョシュアは、止まることなく話を続けた。
「パステルお嬢さんが戻ってきてくれた、と思ったとき、本当に嬉しかった。
ガイナで暮らすか、あるいはおばあさまのところに行くか……それはわからなかったけれど、僕にできることは何でもしようと、そう思っていたんです」
「随分、あいつに構うんだな」
「当然ですよ」
俺の言葉に、ジョシュアは胸を張って言った。
「僕は、キング先生には大変お世話になりましたし……パステルお嬢さんのことは、こんなに小さいときから面倒をみてきたんです。僕にとって、お嬢さんは実の娘と同じなんですよ」
「…………」
「でもね、久しぶりに会って……すぐにわかりましたよ」
そう言うと、ジョシュアは、ふっと窓の外に目を向けた。
「お嬢さんは、もう……冒険者としてしか生きられないだろうな、って。ここはお嬢さんの家なのに。食事をしていても、読書をしていても。
心からくつろいでいるようには見えなくて、どこか寂しそうで……お嬢さんの本当の居場所は、もうここじゃないんだって……嫌でもわかりました」
「寂しそう……だったんか? あいつは」
「ええ」
聞き返すと、大きく頷かれる。
「それはそれは、寂しそうでした。だから……あなたが迎えに行ったら、きっと喜びますよ、お嬢さんは。そしてすぐに帰るでしょう、あなた達のところに」
「……それはどーだか」
「いいえ。絶対です。間違いありません」
ジョシュアは変な確信を持ってそう言いきったが……まあ、何があったかを正確に知ったら、ここまでは言い切れなかっただろうな。
今回は原因が原因だし……それに、だ。
やっぱ、俺じゃなくて別の誰かが迎えに来たほうがよかったんじゃねえか? ……どんどん自信がなくなってきたぞ。
こんなの俺らしくねえとはわかってるが……断言できる。
どうも、俺と話してるときのパステルは、クレイや他の奴のときと比べてムキになるっつーか、意地を張るっつーか。とにかく、あんまり素直にならねえんだよな。
心の中で帰りたいと思ってたところで……俺が言っても、素直に頷くかどうか。
俺が心の中で葛藤していると、ジョシュアは、空になったグラスに紅茶を注ぎながら言った。
「トラップさん」
「……あんだ?」
「パステルお嬢さんを、よろしくお願いしますね。これからも、ずっと」
「…………」
何だ? その意味ありげな言葉は。
普通に聞いたら、パーティーの仲間として、これからも面倒をみてやってくれ、と、そういう意味の言葉だと思っただろうけど。
何つーか……今のジョシュアの言葉には、それ以上の、深い意味が隠されているような、そんな気がしてならなかった。
「よろしくって言われてもな。……そりゃ、あいつがパーティーにいる間は、できる限り面倒は見てやるつもりだけどな」
「……いえ、これは、僕の勘なんですけどね、トラップさん」
「ん?」
俺の言葉を遮ってつぶやくジョシュアの顔は、何というか……笑っていた。
それも、どっちかというと、意地悪そうな、この人のよさそうな男には全く不似合いな笑みで。
「お嬢さんは、今でもよく手紙をくださいますし、書いた小説が載った雑誌も、送ってくださってるんですよ。僕は、毎月それをかかさず読んでるんですけどね」
「? あ、ああ」
「もちろん、そこにはパーティーの皆さんのことも、よく話題に出てるんですけど……そのうちにね、気づいたんですよ。その中の一人にだけ、お嬢さんは特別な感情を抱いているんじゃないかって」
「……はあ?」
言われた意味がわかんねえ。どういうことだ、それは?
「何が違うかって言われても、説明は難しいんですけどね。特別に名前が多く出るわけでもないんですけれど……その人に関してだけは、何かが違うんですよ。書き方があったかいというか……まあ、勘なんですけど」
「勘、ねえ。当たんの? あんたの勘って」
「さあ、どうでしょう」
ぐいっ、と紅茶を飲み干して、ジョシュアは立ち上がった。
「もうそろそろ、日も暮れそうですね。トラップさん、今晩は、泊まっていかれますか?」
「……そーだな。もう乗合馬車もねえだろうしなあ……」
「ぜひ泊まっていってください。夕食は、僕が腕をふるいますから」
……男の手料理をふるまわれても、嬉しくねえんだけど。
まあ、いいか。自分で言うくらいなんだから、料理は得意なんだろうし。
それに、久しぶりに柔らかいベッドでゆっくり寝たいしな。
「わりいな、頼むわ」
「はい。そのかわり……と言っては何ですが、パステルお嬢さんを、迎えに行ってもらえませんか?」
ひょい、と窓の外を指差して、ジョシュアはにこやかに言った。
「そろそろ暗くなりそうですし……パステルお嬢さんは、少々方向音痴なところがありますしね」
「少々どころじゃねえよ。あいつの方向音痴のせいでなあ、俺がどんだけ迷惑こうむってると思ってんだ」
「ええ、知っていますよ。手紙にもよく書いてありますしね。『またトラップに怒られた』なんて。いつもお嬢さんを捜してくださってるそうですね」
まあな。パーティーの中で、一番感覚が鋭いのは俺だから。
あいつの迷いそうな場所なんて、大体見当がつく。
そう言うと、ジョシュアは満足そうに頷いた。
「墓地への道順は、そう複雑ではありませんが……よろしくお願いしますね」
「……ああ。わかった」
ちょうどいいや。内容が内容だけに、二人だけの方が話しやすいしな。
迎えに行くついでに……非常に不本意だが……謝ってやるとするか。
墓地への道順を聞いて、俺は外に出た。
夕焼けに染まった道を歩いていく。
確かに、墓地までの道はわかりやすかった。
暗くなる前に見つけようと早足で歩いていたせいか、10分とはかからずに到着する。
結構な広さがある、形も大きさも様々な墓石が並ぶ場所。
見回して気づく。そこに書かれた日付が、圧倒的に一部の時期に集中していることを。
あいつの親が、死んだ時期とほぼ同時期。あのモンスターの襲撃のせいで、大勢の奴が死んだ街。
今のガイナしか知らねえ俺には、なかなか実感できねえけど。それでも、それは確かに起こったことなんだ。
この場所に来ると、嫌でもそれがわかった。
そして。
しばらく墓地の中を歩き回って……やがて、一つの墓石の前でたたずむ、見慣れた後姿を見つけた。
長い蜂蜜色の髪を背中の中ほどまでたらして、墓石の前にしゃがみこんでぴくりとも動かねえ、小さな人影。
パステル。
その後姿は、何だか寂しそうで……事情が事情だけに自粛したが、思わず駆け寄って抱きしめてやりてえと、そんな衝動にさえ駆られた。
声をかけてもいいものかどうか迷ったが。すぐにも暗くなりそうな空を見上げて、覚悟を決める。
「パステル」
声をかけると、パステルは、弾かれたように振り向いた。
その顔に涙の痕が残っているのを見て一瞬ひるむが……ええい、覚悟を決めたんじゃねえのか、俺。ここまで来たんだ、もう言うしかねえだろう!?
「……悪かったな」
「…………」
「悪かったな。俺が悪かったよ。すげえ卑怯なことした。どんだけ罵られても反論できねえよ。謝れっつーんならいくらでも謝ってやる。いくらでも殴らせてやる。だあら……帰ろう」
そう言って手を差し出したが。
パステルは……無言だった。
何も言わねえ。手も取らねえ。ただ、じっと俺のことを見つめている。
その目には、怒りは浮かんでねえようだったが……そのかわりに浮かんでいるのは……
……失望?
ふっとそんなことを考えて首をかしげる。
そんなわけ、ねえよな。怒ってんならわかるけど……何で、失望なんか……
いや、まあとにかくだな。何も言わねえってのはどういうことだ。この俺が、珍しく素直に謝ってやってるというのに。この差し出した所在の無い手をどうしてくれる!?
「おい……聞いてんのかよ」
「…………」
「だあら、俺が悪かったって……」
「…………」
どれだけ声をかけても、パステルは無言。
……いかん、イライラしてきた。待て、耐えろ俺。ここで切れたら全てが台無しになんぞ!?
「おい、パステル」
「…………」
「……おめえなあ! 人が下手に出てりゃあ……一体どうすれば満足なんだよ!? 土下座でもしろってのか!? それとももう戻る気はねえってのか!?」
耐える、なんて俺の性分じゃねえ。
あっさりと感情を爆発させて、ずかずかとあいつの元に歩み寄る。
墓石を背にしているあいつの逃げ場を封じるようにして。詰め寄って、その肩をつかむ。
「何とか言えよ!」
「……トラップは……」
「……あ?」
「誰でも、よかったの?」
そうつぶやいた瞬間、パステルの目から、涙が溢れ出した。
……どういうことだ?
「あに、言ってんだ? おめえ……」
「誰でもよかったの? わたしじゃなくてもよかったの? だから謝るの?」
「何を……」
「わたし……わからないの」
つかんだ肩が、震えているのがわかった。
パステルは、涙を流しながら、声をかすれさせながら……それでも、必死に言った。
「わからないの。自分の気持ちがわからないの。起きたら、あんなことになってて……それは、すごくショックなことで。でも、でも……後になって、気づいたの」
「……何をだよ」
そう聞くと、パステルは、俺から目をそらした。そして、はっきりと言った。
「目を……覚まさなければ、よかったって……」
「……は?」
「すっごくショックで、恥ずかしくて……でも、同時にちょっとだけ嬉しかったの。途中で目が覚めて、勢いでトラップを追い出して、でも、後になって、それを残念だったって思う自分に気づいたの!
わたしわからない……何で? あんなことされて何で嬉しいと思うの? って。それで、それでね……」
パステルの言葉は止まらなかった。誰が聞いてるかもわかんねえのに、そんなことには全然気づいてねえようで……
「今、トラップに謝られて……ああ、やっぱり、あれはただの勢いみたいなものだったって知って……それでね、余計にショックだった。ねえ、何で? 何でこんな気持ちになるの? わたし、わからない。自分の気持ちがわからない!
こんな変な気持ちのまま、戻れない。トラップの顔なんか見たくないって思ってたのに、今、迎えに来てくれたってわかって、すごく嬉しかった。会いたくなかったのに会いたかった。戻りたいけど戻れない。トラップ、わたしはどうしたらいいの!?」
そう叫んでつかみかかってくるパステルの手首をつかむ。
そして、その目を、じっと覗き込んだ。
……おめえ、それは……つまり……
何で、今まで気づかなかったんだろう。
そうやって涙を流すパステルが、たまらなく愛しかった。
あの朝、抱いた妄想。自分に都合のいい妄想。
何でそう思ったんだ。俺は、パステルに愛されたかったのか? 何で?
……そんなの、考えるまでもねえ。
出会ってから今まで起きた色んなこと。
つまんねえこと言って怒らせたり、喧嘩したり、仲直りしたり。
くるくる変わるこいつの表情を見ているのが面白かった。俺の言うことにいちいち素直に反応してくるのを、相手するのが楽しかった。
すげえ簡単なことだったのに。今まで意識しようとしなかったから、気づかなかった。
俺は、こいつが……パステルのことが……
「トラップ……」
「パステル」
どう言えばいいのかわからねえ。だから、態度で示してやることにした。
両手首を拘束したまま、俺は、パステルの唇に自分の唇を重ねていた。
あの朝、欲望だけで一方的にしたキスとは違う。
俺の思いを全部こめた、キス。
「……トラップ……?」
「おめえじゃなきゃ、しなかったよ」
唇を解放して、そのまま抱きしめる。
両腕の中にすっぽりおさまるあいつの身体。思ったよりも小さくて、細くて……守ってやりてえと、心から、そう思う。
「おめえじゃなきゃ、駄目だ。誰でもよかったなんてことは絶対ねえ。謝ったのは、おめえの気持ちを無視したからだ。おめえが俺のことを好きなんじゃないか、そんな都合のいい妄想をして、それを免罪符にして手え出そうとしたからだ」
「…………」
「そんだけ卑怯なことをしときながら、俺は悪くねえって言い聞かせてた。あんな状況だったら、男だったら誰でもそんなもんだろうって思ってた。……でも、今はっきりとわかった。
おめえじゃなきゃ駄目だ。横で寝てたのが他の誰かだったら……そりゃ、俺だって男だからな。反応くらいはしたかもしんねえけど」
そこで絶対反応したりしねえ! って言い切れたら、かっこよかったかもしんねえけどな。
どこまでも素直なこいつ相手に、嘘はつきたくねえ。
「けど、反応したとしても、手を出そうなんて思わなかったぜ? だって、他の誰かが俺のことを好きだって思うのは……都合の悪い妄想だからな」
「トラップ……」
何かを言いかけるあいつの顎をつかんで、視線を合わせる。
絶対にそらさねえから。もう絶対に、自分の気持ちから目をそむけたりしねえから。
「いくら俺でもな、おめえの両親を前にして、嘘をつく度胸はねえよ」
「…………」
信じられねえ、という顔をするパステルの腰に手を回して、ぐっ、と身体を回転させる。
二人で並んで墓に向かいあう形になって……そこで、俺は目を閉じて、頭を軽く下げた。
「もう絶対、こいつを泣かせたりしねえって誓うから。守ってやる、面倒みてやる、大事にするって約束するから」
「トラップ?」
「パステルを、俺にください」
そう言った瞬間、パステルは、俺の腕にすがりついてきた。
そして、そのまま、肩に顔を埋めるようにして泣き出した。
……おいおい。
泣かせねえって、約束したばっかなのに……勘弁してくれよ。
パステルの家に戻ると、ジョシュアが夕食の用意をして待っていた。
「明日には、シルバーリーブに戻るね」
パステルがそう言うと、ジョシュアはちょっと寂しそうな笑顔を浮かべたが、「またいつでも来てくださいね」とだけ言って、引きとめようとはしなかった。
客間に案内されたとき、ジョシュアは、小さく囁いた。
「お嬢さんを、よろしくお願いしますよ」
「……ああ」
まかせとけ。
「一生、大事にしてやるよ」
そう言うと、ジョシュアは満足そうに頷いた。
ちなみに、念のために言っておくが、ちゃんとパステルと部屋は別々にされていた。まあ、同じ屋根の下にジョシュアも寝てるしな……当たり前だが。
部屋に忍んでやろうか、と思わないでもなかったが。
せっかく手に入れたあいつの心をわざわざ手放すような度胸はなかったので、大人しく眠りにつくことにした。
「そういやさ、結局、おめえ何で俺の部屋で寝てたんだ? やっぱ、寝ぼけてたんか?」
シルバーリーブに戻る乗合馬車の中で。俺は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
まあ、大体想像はついてるんだけどな。やっぱ、わかんねえ。
俺とルーミィじゃ、体格が違いすぎんだろ。何で気づかなかったんだ?
そう聞くと、パステルは柔らかい笑みを浮かべて言った。
「さあ。あの夜、わたし、喉が渇いて、下に降りて……寝ぼけてたから、それで部屋を間違えたみたいなんだけど」
「ああ」
まあ、それは想像通りだな。
「けど、本当にね。何で、トラップとルーミィを間違えたんだろうね?」
「おめえにもわかんねえのかよ」
「寝ぼけてるときって、そんなものじゃない?」
そう言って、あいつはふいっ、と視線を窓の外に向けたが。
そのとき、俺はしっかりと聞いた。
あいつの唇から漏れた囁き声を。
――もしかしたら。
――寝ぼけてたから、本心が出たんじゃないかな。
――トラップの傍で眠りたいって、ずっとそう思ってたって……そういうことじゃないかな?
完結です。
えーっと……次はどうしようかな。
前スレの作品読んで、またダークばりばりな作品を書いてみたくなったので
悲恋シリーズの4、いきますかね……? その後が学園編2か、間にパラレルじゃない作品を挟むか……
23 :
名無しさん@ピンキー:03/11/03 10:27 ID:j4zxym13
は、初めてリアルタイムで読みましたよトラパス!!
パステルかわええー!!
作者様、乙です!グッジョブ!!
トラパス作者様の悲恋も、悲恋は苦手なのにさらっと読めました。
悲恋も楽しみにしてます!
トラパス作者様、乙です〜
新作、楽しく読ませていただきました
お互いに自覚のなかった二人の戸惑う様子に萌えました〜
トラップの墓前の台詞にもグッときました
次回作も楽しみにしてますので、是非〜
お疲れさまです。
>>2 このスレの作品は、「ライトノベルの部屋その2」の方に移動してますのでヨロシク!
トラパス作者様、毎度楽しませてもらってます。
相変わらずの投下速度には頭が下がります。
で、ですね、ちょっと気になった点があるんですが、
前スレ トラパス 新FQ9巻続編裏話 1 の
「勇気」という表現。
これ、希望って言葉の方がしっくりくるんじゃないかなと思うのですが
どうでしょう?
サイトにも作品アップされてるそうなので、余計なお世話かとも思いつつ
発言させてもらいました。
生意気いってすいませんです。
トラパス作者様、いつもいつも楽しみにしてます。
作品の投下速度にはほんとに頭が下がります。
で、今回どうしても気になった点があって、それは
前スレ354 トラパス 新FQ9巻続編裏話 1 で出てくる
『勇気』という言葉なんですが、
これって『希望』という言葉の方がしっくりくるような気がするんです。
サイトにアップされてるそうなので
余計なお世話かとも思ったのですが、発言させてもらいました。
生意気言ってすいません。
次回作も楽しみにしてます。頑張ってください。
トラパス作者様、いつもいつも楽しみにしてます。
作品の投下速度にはほんとに頭が下がります。
で、今回どうしても気になった点があって、それは
前スレ354 トラパス 新FQ9巻続編裏話 1 で出てくる
『勇気』という言葉なんですが、
これって『希望』という言葉の方がしっくりくるような気がするんです。
サイトにアップされてるそうなので
余計なお世話かとも思ったのですが、発言させてもらいました。
生意気言ってすいません。
次回作も楽しみにしてます。頑張ってください。
29 :
26-28:03/11/03 23:12 ID:mqH/fWrI
すいません、カキコ失敗してしまいました。
見苦しい三重カキコ、ごめんなさいです。
逝ってきます・・・。
>>29 あら? すいません、こりゃ多分修正ミスです。
一度書いた作品を読み返して、単語を修正したり文章を入れ替えたり削ったりの推敲作業をするのですが
多分そのとき、直前に出てくる「勇気」と混同したのではないかと。
指摘してくださってありがとうございます。書き込みはなおせませんが、サイトの方は修正しました。
>>トラパス作者さま、新スレ立て&新作乙です!
意地っ張りで悪足掻き〜なトラップに笑いました。
あまりにもトラップらしくって(笑)
トラパス作者さまの投下の早さには頭が下がる思いですが、
あまり無理はなさらないで下さいね。
とか書きつつ次作を楽しみに待っております。
32 :
名無しさん@ピンキー:03/11/04 00:54 ID:08kvwEeR
「里帰り編」最初の方は笑った、三人同時に「お前が悪い」とか言われてるトラップ最高に笑えた。
後編はシリアスな展開で、チト感動した ジョシュア、なんだかイイ!カコイイ!!
次も期待して待ってます!
>感想くれた方々
どうもありがとうございます!
里帰り編、最初はギャグタッチのはずだったのに後半話が勝手に変わって焦りました
読んでくださって本当にありがとうございました。
さて。新作です。
パラレル悲恋シリーズ4。ダーク具合は多分シリーズ中1番かと思います。
要注意!!
・パラレルです。世界観は現代、パステルとトラップは19歳、大学一年生という設定です。
・レイプシーンありです。
・救いは全くありません。徹頭徹尾ダークです。
↑
こういう作品が嫌いな人はスルーでお願いします。
あれは高校三年生の夏の日のことだった。
その頃、わたしは付属の高校から大学に進学できることが決まっていて、ちょっとばかり気が抜けていて、もうすぐ来る夏休みはどこに行こうか……そんなことばっかり考えていた。
そんなある日の出来事。
三年生はもう部活も引退しているし、期末テストが終わってしまうと、やることもあまり無い。
学校が終わった後は、図書館で好きな本を思いっきり読む……それが、その頃のわたしの日課だった。
その日は、読み始めた本があんまりにも面白くて、途中で止めることができなくて。
気が付いたときには、閉館のアナウンスが流れていた。
慌てて立ち上がったときには、日の長い夏だというのに、外はもう真っ暗だった。
いっけない、早く帰らなくちゃ。
慌てて携帯でお母さんにメールを打つ。きっと心配してるに違いないもの。
借りた本をカバンに詰めて、図書館を出た。ここから家までは、電車を使って30分くらい。
明るいときにはそんなに遠いって感じないけれど、真っ暗になると、ちょっと遠いなって感じる、そんな程度の道のり。
電車を降りた後、わたしは、小走りに近い速さで歩き出した。きっと、家ではお母さんが夕食の用意をして待っていてくれてるに違いない。
そう思ったとき、足は自然に、普段は通らない雑木林の方に向いていた。
ここを突っ切ると、五分くらい時間が短縮できる。普段は、暗いし足元も悪いから、遠回りでも大通りを行くんだけど。
とにかく、そのときのわたしは早く帰りたくて仕方が無かった。
まさか、あんなことが起きるなんて……そのときのわたしに、わかるはずもなかったから。
雑木林の中は真っ暗だったけれど、大通りだって暗いのは同じだもんね。
自分にそう言い聞かせて、舗装されていない道を歩いていく。
がさり、という音が聞こえたのは、道の半ばまで来たときだった。
振り返る暇もなかった。
「うっ!?」
がばっ!!
音がするまで、何の気配も無かった。
音がした、と思ったときには、もう、顔をタオルで塞がれていた。
「んー!!?」
な、何!? 何なの、突然……!!?
タオルは顔全体を覆って、完全に視界が塞がれた。真っ暗な中、めちゃくちゃに手足を動かしたけど、背後の人影は、そんなわたしを、楽々と押さえ込んだ。
嘘……何、何なの? 誰!? 誰……?
凄い力だった。わたしより大分背が高い男の人。わたしの両手足をあっさりと封じて、その人は、ずるずるとわたしを道から外れたところにひきずっていった。
背筋に寒気が走った。何となく、何をされるのかがわかって……
「い……いやあああああああああああああああああああああ!!?」
がんっ!!
乱暴に地面に押し倒された。そこに残っていた切り株のようなものに頭をぶつけて、一瞬気が遠くなる。
わたしを組み敷いた人影は、素早くタオルで目隠しをして、口の中に別の布を押し込んだ。
これ……ハンカチ……? 何なの、何なのよう……?
見えないことが余計に恐怖を煽った。ぼろぼろ涙が溢れてきたけど、それを拭うこともできない。
わたしにのしかかってきた人、それはきっと男の人。凄い力で、わたしの両手首を押さえ込んで。
セーラー服が引き裂かれた。肌に触れる、この冷たい感触は……何……?
その人は一言もしゃべらなかった。ただ、もくもくとその行為に没頭していた。
あっという間に下着をはぎとられる。生暖かい夏の空気がまとわりついてきた。
荒っぽく胸をつかまれた。両脚の間に無理やり相手の脚が割り込んできて、太ももが痛かった。
だけど、痛い、と訴えたくても、ハンカチが喉を圧迫して、声を出せない。
「んっ……んーっ……」
「…………」
耳元に息を吹きかけられて、思わず身もだえした。
何で……何でこんなことに?
誰? どうしてわたしが……こんな目に……?
わたしの疑問に、答えてくれる人はいない。
首筋と、胸元に、熱い痛みが走った。
何をされているのかわからない。わかりたいとも思わない。
これは夢。きっと、悪い夢に違いないから。
目が覚めたら……きっと、お母さんが笑って……
そんなわたしの微かな希望を打ち砕いたのは、身体を引き裂かれるような、鋭い痛みだった。
解放されたのがどれくらい経ってからなのかはわからない。
もうわたしには、起き上がる気力なんて残されてなかったから。
遠くに、ぱしゃっ、という小さな音が断続的に響いてきたこと、結局、その人は最後の最後まで一言も口を利かず、その姿をチラリと見ることさえできず……
つまり、わたしには、それが誰なのか知る術が全くなかったということだけは、確かだった。
雑木林の中で身体を丸めて倒れているわたしを見つけてくれたのは、いつまで経っても帰らないわたしを心配して探しに来てくれた両親だった。
わたしの姿を見て、何があったのかを察して、両親はわたしを抱きしめて、泣いてくれた。
高校三年生のときの、夏の日の一日だった。
「パステルー!!」
声をかけられて、わたしは振り向いた。
大学生。自分がそう呼ばれることになったなんて、まだ実感できない。
「リタ!」
「パステル、久しぶりっ! ねえ、学部どこだっけ?」
「わたしは文学部だよ。リタは?」
「わたしは教育学部の家政科。残念、あんまり授業被りそうにないね」
リタは、付属の高校のときからの親友。
卒業した後、しばらく会うことはできなかったんだけど、同じ大学に進学して、無事再会することができたんだ。
新しい友達ができるのももちろん楽しみなんだけど、やっぱり知った顔に会うと安心できる。
「どう、リタ。授業とか、もう決めた?」
「大体ね。パステルは? 部活とか、やる?」
「……ううん」
リタの言葉に、ふるふると首を振った。
「多分、何もやらないと思うな」
「もったいないー。せっかく大学生になったんだから、楽しまなくちゃ。あたしは料理クラブに入ろうかなって思ってるんだけど、よかったら一緒に来ない?」
リタの誘いは、すごく嬉しかったけど。
でも、多分わたしは行かないだろうな。
曖昧に笑ってごまかす。
怖いから。
知らない人に……男の人に接するのが怖いから。
高校三年生の、夏の日に起きた出来事。
結局犯人は捕まらなかった。わたしは手がかりになるようなことを何一つ覚えてなかったし、警察に訴えることもしなかったから、それは当然なんだけど。
すぐに学校が夏休みに入ったのが幸いで、誰にも知られずにすんだけれど、あの出来事は、わたしの心の中に深く深く残ってる。
夜になると、毎日夢に見る。そして真夜中に何度もとびおきて、そのたびに涙を流す。
絶対に、忘れられない。
家に閉じこもっていても仕方が無いからって、二学期からちゃんと学校に通って、ちゃんと卒業して、こうして大学生になったけれど……
でも、わたしは結局、あの日以来、一度も男の人とはしゃべっていない。
最初のうちは、お父さんとさえ話すのが怖かった。
今は、大分ショックも薄れてきたけど……それでも、怖いものは怖い。
高校生の頃、あんなことが起きる前、クラスのみんなと、他愛もなくしゃべっていたことを思い出す。
大学生になったら、クラブとかに入ったら色々付き合いも増えるし、合コンとかの誘いも増えるだろうね、って。絶対彼氏とか作ろうね、って。
彼氏なんか……恋人なんかいらない。作れない。
わたしはもう、汚れちゃってるから。
「パステル? ぼーっとして、どうしたの?」
リタの言葉に、ハッと我に返る。
「ううん、別に。ねえ、リタ。次は、何か授業ある?」
「あたしは休講だった。パステルは?」
「わたしは授業あるから、もう行かなくちゃ。ねえ、後でまた会おうね」
「うん! 携帯に連絡ちょうだい」
手を振るリタに別れを告げて、わたしは講義室へと足を向けた。
大学生になってから今日でちょうど一週間目。
次の授業で、やっと一通りの授業を受けたことになる。
どの授業もそれなりに面白そうで、先生も楽しい人が多かった。大学生になったら、高校生のときと違って勉強が楽しくなるって言われたけど……本当だなって思う。
わたしの夢は、小説家になること。
そのためには、いっぱいいっぱい勉強して、色んなことを知らなくちゃいけない。
きっと、もうわたしには普通の女の子みたいに、恋人を作って、デートを楽しんだりすることはできないだろうから。
だから、夢の実現に向けて、がんばるんだ。
そう自分に言い聞かせて、講義室のドアを開けた。
その講義室は、随分と広い教室だった。
受講者数も多いみたいで、前の方の席はほとんど埋まってしまっている。
……もっと早くに来るんだったかな。
次から気をつけよう、と思いながら、ストンと席に座った。
三人がけの椅子の左端。隣の二つの席は、まだ空いている。
真ん中の席に荷物を置いて、ルーズリーフを広げたときだった。
どさっ
隣から響いた音に、ふと顔をあげた。
一瞬、心臓が音を立ててはねた。
「ここ、いいか」
わたしが座っている席の右端に座っているのは、凄く細身で、背の高い男の人。
夕焼けのような真っ赤な髪を後ろでまとめていて、それがひどく目を引いた。
顔にはサングラスがかけられていて、表情はよくわからなかったけれど。
何故だろう? わたしを見つめる、強い視線を、その奥に感じたのは。
その視線に、からみとられたような気がしたのは。
いや、まあそれはとにかくとして……
男の人、だった。
その人の荷物が、わたしの荷物のすぐ傍に置いてあるのを見て、反射的に立ち上がる。
ぐいっ
その瞬間、手をつかまれた。
「おい、人の顔見て逃げんなよ。失礼な奴だな」
「……ご、ごめんなさい」
思わず謝ってしまって、それから腹が立った。
……わたしが、どこの席に座ろうと……勝手じゃないの!
そう言って立ち上がろうとしたけれど。後ろを見ると、いつの間にか、他の席は全部受講者らしき人達で埋まっていた。
今席を立っても、移動するところがない。
うつむいて、座りなおす。……しょうがないよね。
第一、先に座ってたのはわたしなんだもん。どうしてわたしが移動しなくちゃいけないのよ!
「おい、人の話、聞いてんのか?」
「……聞いてる。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけ」
あまり関わらないようにしよう。そう思って、視線をそらそうとしたけれど。
何故だろう。吸い寄せられたように、その人から目が離せなくなったのは。
つかまれた手が、すごく熱かったのは……何でだろう。
「あんだよ。俺の顔に、何かついてんのか?」
「……サングラス、取らないの?」
視線をそらせないことが悔しくて、そう言うと。
男の人は、ちょっと肩をすくめてつぶやいた。
「俺の自由だろ?」
「……取れ、なんて誰も言ってないもん」
「そうかよ」
……ねえ。
いつまで、手……握ってるつもり?
そう言いたかったけれど、舌が強張って、何も言えなかった。
痛いくらいに心臓がドキドキして、顔を上げていられなくなる。
……何で。
男の人が怖かった。関わらないようにしようと思ったのに。
どうして……初めて会った彼のことが、こんなに気にかかるんだろう。
「……あんた、顔赤いぜ」
「え?」
どきっ!!
不意に顔を近付けられて、わたしは思わず身をそらした。
だけど、彼はそんなことには全然構わずに、じーっとわたしの目を覗き込んで、
「熱でもあんのか? だいじょーぶ?」
「だ、大丈夫……」
そう言いかけた瞬間、ひんやりとした感触が押し付けられて、そのまま後ろに倒れそうになった。
な、何と彼が……自分の額を、わたしの額に押し付けてきたのよ!!?
な、な、な……
言葉が出てこない。しょ、初対面の人に普通そういうことする!?
わたしが金魚のように口をぱくぱくさせていると、彼は、じーっとわたしを見て……
そして、ぷっ、と吹き出した。
「あ、あんた……おもしれえ人だな」
「お、おもしろいって……」
「おっと、先生が来たぜ」
ガラリ
彼の言葉と同時に、教室のドアが開いた。
白髪の、温和な顔をした先生が教壇に向かって歩いてくる。
じゅ、授業……忘れるところだった!
集中。集中しなくちゃっ!
わたしが慌てて崩れた体勢を立て直したときだった。
こそり、と、耳元で小さなささやき声がした。
「俺の名前は、トラップ。あんたは?」
「……パステル。パステル・G・キング」
すんなりと返事ができた自分に、ちょっと驚いた。
トラップ、と名乗った彼は、まじまじとわたしを見つめて、にやり、と口元に笑みを浮かべた。
「同じ授業取るみてえだし……これからよろしくな、パステル」
「…………よ、よろしく」
すっかり彼のペースに巻き込まれてしまっていることを、わたしは自覚せざるをえなかった。
いつの間にか離されていた手を、少し寂しく感じた、その瞬間から。
授業が終わると、トラップはすぐに立ち上がって教室を出て行った。
話しかける暇なんか全くない。
……いやいや、別に、話しかけようなんて、思ってたわけじゃないけど……
カバンを取り上げて、中にルーズリーフをしまおうとして気づく。
……あ。
いつの間にか、カバンの一番上に、メモが残されていた。
素っ気無い数字の羅列。090で始まるその番号は、明らかに携帯電話の番号。
その下のアルファベットは、メールアドレス……だよね? 多分。
こんなもの、授業が始まる前は絶対無かった。……トラップが、入れた?
携帯の番号を教えたってことは……わたしに、かけてこい、ってことなのかな。
……知らないもん。
男の人には、関わらないって……決めたんだから。
そう自分に言い聞かせていたんだけど。
自然にポケットから携帯を取り出していたのは、リタに連絡を入れようとしたため。
トラップの番号とアドレスをメモリに登録していたのは、そのついでなんだから。
ただのついで……なんだから。
「パステル、ぼーっとして、どうしたの?」
「……ん? あ、何でもないよ」
昼休みの学食は、すごい人だった。
それでも、どうにか二人分の席を見つけて、リタと昼食を楽しんだ。
美味しくて安くて、何の不満もなかったんだけど。
それでも、どうにも食事に集中できないのは……携帯に追加された、新しい名前のせい?
「パステル」
リタは、じーっ、とわたしを見つめて、そして二ッ、と笑った。
「あのね、あたしの勘だから、外れてたらごめんね」
「ん……? 何?」
「パステル。あなた、恋をしてるでしょう?」
ぶはっ!!
思わず飲んでいたお茶を吹き出してしまう。
な、な、と、突然何をっ……
「げほげほっ……り、リタったら。いきなり何よ」
「だからあ、あたしの勘だってば。だけど、何となく……誰かを捜してるみたいだったから」
「さ、捜してなんか……」
そう言われて、気づいた。
さっきから、リタの話を聞きながら、ずっと窓の外に目をやっていたことを。
赤い色彩を、捜していたことを。
「違うってば! ただ、今日授業で失礼な奴に会って、それで……」
「男?」
言われて頷く。それは確かにその通りだから。
「かっこよかった?」
続けて聞かれて、また曖昧に頷く。
かっこよかった……と思う。
サングラスをかけていて、表情とか顔立ちは、よくわからなかったんだけど。
それでも、引き締まった身体とか、薄い唇とか、全体の印象は、「きっと整ってるに違いない」と思わせる、そんな人だった。
……か、関係無いけどね、わたしには。
ぶんぶんと首を振ると、リタは、笑って言った。
「ちょっと、安心したな」
「……え?」
「パステルって、男の子に興味無さそうだったから」
言われた瞬間、動揺を押さえるのに苦労した。
リタには……ううん、他の誰にも、あの日のことは言ってない。
絶対知られたくないから。何も無かったことにしたいから。女の子同士が集まったら、どうしたって恋愛関係の話は出てくるけど、わたしはそれにも、ちゃんと参加していた。
普通に恋愛に興味があって、でも、いい人がなかなかいないから、今のところは相手もいない、そんな風に装っていた。
……気づかれてた?
「別に、そんなことないけど。ただ、いいなあって思える人がいなかっただけで」
「いっつもそう言ってたけどね。何て言うか……パステルは、いい人が見つからないって言うよりも、見つけようとしてないんじゃないか、そんな気がしてたんだよね」
そう言って、リタはぽん、とわたしの肩を叩いた。
「でも、気のせいだったみたい。安心したわ。ねえ、ゲットできたら、あたしにも紹介してよ?」
「……だからっ、そんなのじゃないってば」
そう言いながらも。
わたしは何となくわかっていた。
リタと別れた後、わたしはきっとメールを打つに違いない。
自分の番号と、アドレスと、自分の名前。
それだけを記した、せいいっぱい素っ気無さを装った、それでも、返事が欲しいって願いをこめたメールを、トラップに打ってしまうに違いないって。
返事はその夜のうちに返って来た。
「さんきゅ。登録しとく」
ただそれだけの、素っ気無いメール。だけど、それでも嬉しかった。
嬉しいと思う自分に驚いた。
……何でだろう。
あんなに男の人が怖かったのに。もう絶対に恋なんかできないって思ってたのに。
わたしは……もしかして、自分で思っていたほど、ショックじゃなかった? ただ、突然の不幸に酔ってただけ? そんな簡単に忘れられるような……軽い女の子だったの?
そう思って、少しの間ひどく落ち込んでしまったのだけれど。
けれど。
授業で、学食で、あるいは廊下で。
歩いている最中にすれ違ったり、他愛も無いことで話しかけられたり、同じクラスの子に、用事がある、と言われたり。
そんな何気ない瞬間でも、やっぱり、相手が男の人だと、身体が強張った。
必死に何でもないふりをして、普通に返事をしていたけれど、心の中では、早く逃げたいと思っていた。
やっぱり、怖い。何も変わってない。
トラップは……特別ってこと?
何回目かの食事のとき、わたしがふっ、とそう漏らすと、
「だから、それが恋なんだってば」
そう言って、リタにぱん、と背中を押された。
一目ぼれ。
そんなことって……本当にあるの?
二回目に再会したのは、もうすぐ雨が降りそうな、そんな日のこと。場所は、学校の近くのコンビニだった。
それまでだってしょっちゅう利用していて、これからも利用するだろう場所。
自動ドアをくぐった途端、「いらっしゃいませ」と響いた声に、弾かれたように顔をあげる。
そこにいたのは、ずっと捜していた、赤毛の彼。
似合わないエプロンをつけて、接客業だというのに相変わらずのサングラス姿で、レジに所在なげに立っていた。
「……パステルか」
顔と名前を覚えていてくれたことに驚く。
あれから、結局一度もメールも電話もしていない。
たったの数日しか経っていないし、わたしはもともと、用事も無いのにメールを送ったりするようなタイプでもなかったんだけど。
だけど、何故か……この数日は、携帯を見る頻度がいつもよりずっと高かった。
「……バイト?」
「他の何に見えるんだよ」
ひねくれた物言いで、両手をあげてみせる。
「ずっと、ここでバイトしてたの?」
「いんや。まだ一週間も経ってねえ」
「そう……」
大学の近くにあるんだから、トラップがここでバイトをしていても何の不思議もないんだけど。
何となく、縁を感じてしまうのは……小説の読みすぎだろうか。
いつまでも入り口に立っていても仕方が無いので、目的の棚へ向かう。
ルーズリーフと、飲み物。今日は昼からしか授業が無いから、少しはのんびりできる。そう思って、雑誌の棚に行き、少しだけ立ち読みもする。
雑誌の棚はレジの目の前だった。何となく、トラップがこっちを見ているような気がして、落ち着かなかった。
もちろん、そんなのは思い過ごしだってわかってるんだけど。
背後から響いてくる、トラップの接客の声。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」というその響きは、すごく投げやりだったけれど。レジを打つ音はすごく早くて、手慣れた様子だった。
数日、っていったよね。……すごいなあ。あ、でも、もしかしたら、前に他のコンビニでバイトしていたことがあるのかも?
雑誌を読んでいるはずなのに、何故かちっとも集中できなかった。
諦めて早々に棚に戻し、会計を済ませることにする。
「……これ、お願いします」
「いらっしゃいませ」
とん、とカウンターに籠を載せる。トラップの手が、次々とバーコードをスキャンしていくのを、じっと目で追ってしまうのに気づいた。
「584円になります……おい、俺の手に、何かついてんのか?」
言われて、はっと顔をあげた。
口元に笑みを浮かべて、彼はじーっとわたしのことを見ていた。
見ながらも、手は全然休まずに商品を袋に詰めているところがすごい。
「あのっ……」
「会計」
言われて、慌てて財布を取り出した。
レジの方を見ようともせずに、片手だけで金額を打ち込んでおつりを渡してくれる。やっぱり、その手さばきはプロ級だと思った。
「随分慣れてるのね」
「高校の頃も、バイトしてたからな……別のコンビニだけど」
「そう……」
会話が続かないことが、何だかもどかしかった。
わたしはお客さんで、トラップは店員さんで。話しかけたら仕事の邪魔になるかもしれない、と思うと、余計だった。
渡されたレシートをたたんで、おつりと一緒に財布に閉まって、品物を受け取る。どれだけゆっくり動いたところで、それで稼げた時間なんてほんの数十秒。
後ろに人が並ぶのがわかって、仕方なくレジを離れた。
……寂しい、と思った。
そのときだった。
「お客様……お忘れです」
呼び止められて、振り向く。
別のお客さんの商品をスキャンしながら、トラップの目は、わたしの方を向いていた。
「これ」
視線で示されたのは、カウンターの上に置きっぱなしになった、わたしの傘。
「す、すいません……」
ど、どじー! 何やってるのよ、わたしったら!!
顔を伏せてカウンターに戻ると、耳元に、小さな囁き声が届いた。
「……また、メール打ってもいいか」
それは本当に小さな声で、すぐに「お会計は……」なんて言葉にかき消されてしまったけれど。わたしが大きく頷くと、彼は小さく微笑んでくれた。
一目ぼれっていうのは、本当にあるんだ。
認めざるをえなかった。
それから、コンビニに行く頻度が増えた。
いつもなら別のお店……例えば、大学の購買で済ませるような買い物も、わざわざこのコンビニで買うようになった。
トラップは、いたりいなかったり、だったけど。いないときは買い物だけさっさと済ませて、いるときは、立ち読みをして時間を潰すことが多かった。
それに、彼が気づいているかどうかはわからないけれど。
顔を合わせるたびに、会話する時間が増えた。
日を追うごとに、メールの分量も増えていった。
意味のある会話なんかほとんどない。それは暇つぶしみたいな内容がほとんどだったけれど。
「バイトで授業いけねえから、ノート取っといてくれ」
「おめえがこの間買ったデザートな、あれカットになるから来週から食えなくなるぞ」
そんなメールにいちいち返信を打つのがすごく楽しくて。
顔を合わせたリタに、呆れられた。
「幸せそうね、パステル」
「……そ、そんなことないもん」
「あんたはわかりやすいから、隠したって駄目」
そう言って、リタはわざとらしく空を仰いだ。
「あーあ。まさかパステルに先を越されるとは思わなかったわ」
「ま、まだそんな関係じゃないってば!」
「まだ? ってことは、そんな関係になるつもりは、あるんだ?」
意地悪な質問に沈黙してしまう。
ずっと前、あの日の直後。
部屋に閉じこもって、泣いて過ごしていたわたしを、お母さんが抱きしめてくれた。そして言った。
そんな人ばかりじゃないって、いつかわかるから。
きっといつか、あなたにも大切な、特別な人ができるから。
一人じゃ治せない傷も、その人となら、治せるはずだから。
だから、その日が来るまで……諦めちゃ駄目だって。
トラップが、「大切な、特別な人」なんだろうか。
トラップとだったら、あの日の出来事を……忘れることはできないにしても、悪い思い出として、片付けることが、ふっきることができるんだろうか?
わたしは……できればそうしたい。
わたしは何も悪くないのに、ただ一方的に傷つけられて苦しむなんて、嫌だ。
だけど……トラップは、そんなわたしを、受け入れてくれるんだろうか?
それが怖くて、わたしは最後の一歩を、踏み出せなかった。
初めてデートしたのは、5月。ゴールデンウィークが終わった直後だった。
大学が終わった後、いつもよりちょっと遅い時間にコンビニに立ち寄る。
最近は、それがもう日課になってしまっていた。特に買うものがなくても、雑誌や漫画を立ち読みするふりをしていれば、不自然じゃない。
トラップのバイトの日程はまちまちみたいだった。聞いてみたところによると、早朝に入っていることもあるし、深夜に入っていることもあるとか。
シフトが固定しねえのが辛いけど、それが一番稼げるからな。
何気ない雑談の中で、彼がそうつぶやいたのを覚えている。
だから、いつ行けば彼に会えるのか、それはもう全くの運なんだけど。
今日は、夕方勤務だったらしく。レジには、見慣れた赤毛にサングラスをかけたトラップが立っていた。
「よお。また来たのか。おめえも暇な奴だな」
最近は、わたしが店に入ってきても、「いらっしゃいませ」とちゃんと言われることもない。
客扱いされてないみたいだけど、それがかえって嬉しかった。
「暇ってわけじゃないわよ」
そんな軽口に反論するのも、もう日常茶飯事な出来事。
だけど、今日はちょっと違った。いつもだったら、「おめえが暇じゃねえなら、世の中暇な奴なんかいなくなるよ」なんてかわいくない返事が来るはずなんだけど。
今日は、違った。わたしがそう言うと、トラップはちょっと口元を歪めて、
「そっか。お忙しいようでしたら、しょうがないですねえ」
なんて、わざとらしい敬語を使って目をそらした。
……な、何なんだろう?
そこで思わず気にしてしまうのが、彼にのせられてる証拠なんだろうけど。
わかっていても気になってしまうのは……きっと、惚れた弱み、なんだと思う。リタに教えてもらったんだけどね。
「何かあるの?」
「べっつにー。ただ、俺、今日はバイト、六時までなんだよね」
さっと腕時計に目を走らせた。五時五十分だった。
「もしも暇なら、どこかにお誘いしようか、と不遜にもそう思ったのですが。お忙しいようでしたら、仕方ないですねえ」
「ひ、暇! 暇よっ」
ううっ、即座にそう反応してしまった自分が情けないっ!!
トラップは、すっごく意地悪そうな笑みを浮かべていて……何ででしょう。サングラスかけてるからわかりにくいはずなのに、最近ではトラップの表情がすごくよく読めるんだよね。
とにかく、その顔は、絶対わかっててわざと言ったでしょう? ってことが丸分かりだったんだけど。
「んじゃ、店の外で待っててくれっか」
「うん」
そう言われて、笑顔で頷いてしまった自分が……どこまでも、情けないっ……
トラップが連れていってくれたのは、何てことはない。どこにでもあるファーストフードのお店。
「腹減ってんだよね、俺」
「今日は、いつから働いてたの?」
「正午から六時間」
うわあっ……ちょうど、一番お腹の空く時間帯だよね。
バイトって、大変そうだなあ……
ちなみに、わたしはアルバイトをしたことはまだ無い。
うちは、幸いなことに、経済的には恵まれていたし。そんなに贅沢をするような性質でもなかったから、もらえるお小遣いだけで十分にやっていけた。
「何で、そんなにバイトばっかりしてるの?」
結局、トラップが授業に来たのは、最初の一日だけ。
大学の中では滅多に見かけない。本人に言わせれば、バイトが忙しい、ってことなんだけど……
「ああ? ……そりゃ、生活費稼ぐためだよ」
「え?」
わたしの言葉に、彼は何でもないことのように言った。
「だあら、俺一人暮らししてるから。仕送りも少ねえし、バイトで生活費稼がないとやってらんねえの」
「……あ……そ、そうなんだ」
悪いこと、聞いちゃったかな……
一瞬、気まずい沈黙が流れた。
だけど、そう言う彼の表情には……何て言うか、自分を蔑んでいるような調子とか、こびている様子とかは全然無くて。
それを普通のことだと受け入れていて、例えば、その話をして、わたしが「奢る」と言い出すことを期待しているとか、そんな様子は全く感じられなかった。
だから、わたしはあえて言わなかった。きっと、「大変だね」みたいなありきたりな慰めの言葉は、彼のプライドを傷つけるだけだろうってわかったから。
「そ。だけど、たまには大学に来ないと、進級できなくても知らないから」
「ああ? バカ言え。俺の頭を甘く見んなよなあ。試験の成績さえよけりゃあ、単位はもらえるだろ。大学なんて、そんなもんだって」
いつもの調子で軽口を叩いて、一緒のトレイからポテトをつまんで。
別に、その後どこかに出かける、ということもなく。「遅くなったら親が心配すんだろ?」と言った彼が、わたしの家まで送り届けてくれた。
「おめえは、箱入りのお嬢様みてえだからな」
「……別にっ、そんなこと、ないわよ」
子供扱いされてるみたいで、悔しかった。
それ以上に、お別れするのが、寂しかった。
家にたどり着かなければいい、と本気で思った自分に驚く。
わたしっ……そこまで、トラップのことが……?
だけど、歩いていれば、いつかは必ず家についてしまう。
「今日は……ありがとう。楽しかった」
門の前で、振り向く。声が震えているのがわかったけれど、それを必死に押し隠す。
「いんや。別に……」
それは、別れの挨拶のつもりだったんだろうか。
だけど、トラップは動こうとしなかった。わたしも、門をくぐろうとしなかった。
しばらく、沈黙だけが流れる。
「あのっ……」
耐えられない、と本気で思った。離れたくないって。
男の人が怖い、とずっと殻に閉じこもっていた。
それにひびを入れてくれたのはトラップだった。顔を出してもいい、と思わせてくれたのは……トラップだけだった。
彼を失いたくないと思った。そのためには、自分の気持ちを言うしかないと思った。
だけど、何をどう言えばいいのかわからなくて……後が続かなかった。
「あの、わたしっ……」
ぐいっ
あっ、と思ったときには、もう腕をつかまれていた。
ふわり、と抱きとめられる。力強い腕と、意外と広い胸。
服から微かに漂う男物のコロンの香りに、酔いそうになった。
「おめえは俺を好きなのか、そう思っていいのか?」
それはいかにも彼らしい、ぶっきらぼうで、あくまでも自分中心的な言葉だった。
だけど、彼の言うことは、いつだって的を射ていた。
「……トラップは?」
「態度でわかれ」
ぎゅうっ、と腕に力をこめられる。
ちょっと苦しかったけれど、でも、力を緩めて欲しい、とは思わなかった。
その日、初めて、わたしは悪夢に怯えることなく眠ることができるようになった。
変わりたい、と思った。
トラップと付き合うようになって、そして、初めて彼の家に行ったのは、夏休みに入る直前のことだった。
それまで何度もデートはしていたけれど、その日、たまたま電車が脱線事故を起こして、帰るのがすごく遅くなってしまった。
「あーっ、たく。終電ねえぞ? おめえ、どうする?」
「どうするって……」
大学で落ち合って、そこから別路線の電車に乗ってちょっとした遠出。
そのデートはすごく楽しかったけれど、事故のせいで、やっと学校まで戻ってきたときには、わたしの家へ向かう方面の電車は、もうなくなってしまっていた。
ここからタクシーを使えば……ううん、家に電話すれば、お父さんが車を出してくれるだろう、とは思う。
トラップとのことは、両親には隠さずに言ってある。あの事件で、わたしは随分と心配かけたから。大学生になった今でも、帰りが遅くなりそうだと言えば、お父さんかお母さんのどちらかが、すぐに迎えに来てくれた。
もう、そんな必要は無いってことを告げたら、両親は涙を流して喜んでくれた。
事件のことは、まだトラップには言ってない。
けれど、きっと、トラップなら受け入れてくれる。それは、わたしの勝手な思い込みにすぎないんだろうけど……
そう思ったとき、言葉は自然に出た。
「トラップの家って、近く?」
大学の近くでバイトをしているくらいだろうから、そうに違いない、と思っていたんだけど。
そう言うと、トラップはちょっと黙り込んだ。
「……まあな」
「泊めて……くれる?」
声が震えていた。
変わりたいと思った。一方的に傷ついて怯えているのは嫌だと思った。
一人暮らしをしている男の人の家に、泊まる……それが意味するのは……
「……いいのかよ、お嬢さん?」
「子供扱い、しないでってば!」
トラップのことが大好きだったけれど。たまに彼が皮肉っぽく言う、「お嬢さん」という言葉が嫌いだった。
一人では何もできない、両親に守られていないと何もできない、そう言われているようで、また、ちょっと前のわたしは、その通りだったと自分でもわかっていたから。
だから、一生懸命、変わろうとしてるんじゃない。
「泊めて」
重ねて言うと、トラップはちょっと肩をすくめて、「ついてこいよ」と歩き出した。
大学近くにいくつもある、学生用アパート。
その中の一つが、トラップの部屋。
「ちっと片付けてくっから、そこで待ってろよ」
「うん」
そう言って、トラップが部屋の中に入っていく。
痛いくらいに心臓がドキドキしていた。
大丈夫、大丈夫。
トラップは、あの人とは違う。あんな……乱暴で、優しさのかけらもなかった、一方的にわたしを傷つけるだけ傷つけて放り出して行った人とは違う。
何も、心配することなんか無いんだから。
待たされたのは十分くらいだった。
がちゃり、とドアが開く。
「……いいぜ」
「お邪魔します」
頭を下げて玄関をくぐると、男の人の匂いが、わたしを包み込んだ。
汚いけど、という彼の言葉とは裏腹に、部屋の中は綺麗だった。
というより、むしろ物があまり無かった。
冷蔵庫と、ベッドとテーブル。机も無ければ棚も無い。クローゼットは作りつけみたいだった。
テレビすら無い。……こんな部屋で、トラップは……いつもどうやって時間を潰してるんだろう?
六畳くらいのワンルーム。ユニットバスと、一人が立てばいっぱいになる狭い台所。
ここが、トラップの部屋……
「そんなに珍しいかよ?」
「う、ううん、別に……」
本当は驚いていた。この辺のマンションやアパートは、多分どれも同じような作りだと思うんだけど。
一人暮らしの部屋って、こんな感じなんだ……
わたしも、リタも、それに他の友達も、付属の高校から上がってきた子達は、みんな自宅から通っていたから。
こんな部屋を見たのも、入ったのも、生まれて初めてだった。
「風呂、使う? 狭いけど。それとも、もう寝るか?」
部屋の中でも相変わらずサングラスを外さない彼は、いつもの意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「ベッド、貸すぜ。俺は床でも寝れるから」
「……お風呂、貸して」
暑かったから、汗もかいていた。
ちょっと覗いたユニットバスは使いにくそうだったけれど、それでも、シャワーを浴びたかった。
この後のことを考えれば、余計に。
「何か、着替え貸してくれる?」
そう言うと、Yシャツを貸してくれた。それを抱きしめるようにして、お風呂場へと向かう。
「タオルは、それ」
「……ありがとう」
お風呂から上がるまでに、この震えを、止めたい。
小刻みに震える手をシャツとタオルで隠しながら、わたしはドアを閉めた。
ユニットバス、なんて使うのは初めてだったから。随分と手間取ってしまったけれど。
それでも、どうにかこうにかさっぱりすることができた。
頭にタオルを巻いて、借りたYシャツを羽織る。
わたしには大きすぎるそのシャツは、ちょうど普段よく着てるミニスカートと同じくらいの丈だった。
……下にも、何かはくものを貸して欲しかったんだけど。
でも……い、いいよね? どうせ、トラップしか見てないんだし。
いいよね? こ、この後……
「あの……お風呂、ありがとう」
「どういたしまして」
そっと顔を覗かせると、トラップはわたしに背を向けて、ベッドに寝転んでいた。
歩み寄ると、ぱっと立ち上がって、妙に丁寧な仕草でベッドを明け渡してくれる。
「どうぞ。狭いベッドで寝苦しいかもしれませんがねえ?」
「……わ、わたしの部屋のベッドだって……同じくらいの大きさだから」
からかわれている、と感じた。何故かわからないけれど……
「子供じゃない」、そう言い放ったわたしを試している。そんな気がして、それが悔しかった。
ぼすん、とベッドに腰掛けて、彼をにらむように見上げた。
「二人で寝るには、ちょっと狭いかもね」
「……お嬢さんにしては、大胆なこと言うじゃねえの」
「だってっ……」
変わりたかった。変わるためには、これが一番だと思った。
あの夜の記憶を塗り替えてしまえばいい。あんなのが唯一の経験だなんて、そんなのは悲しすぎる。
本当に好きな人と、本当に素敵な思い出を作りたい。
そう思うのは……変なのかな?
「トラップは……嫌?」
「まさか」
わたしの言葉に即答して、トラップは部屋の明かりを消した。
あっという間に部屋が真っ暗になる。突然のことで、何も見えない。
けれど、気配でわかった。コトン、という小さな音は、トラップが外したサングラスが、テーブルの上に置かれた音。
どすん、とベッドのスプリングがきしんだ。
肩に手をかけられる。暗がりの中、わたしは……初めて、トラップの瞳を見たことに気づいた。
真っ暗でよくわからないけれど、強い光を放つ瞳。それが、どんどん近づいてくる。
「んっ……」
ファーストキスは、一瞬だった。
一瞬唇を塞がれた、と思うと、次の瞬間には、もう頬へと移動していた。
耳、額、うなじ、首筋。
トラップの唇は次々と移動して、そのたびに、わたしの肌に微かな感触を残していく。
「あ……」
そうして、散々キスの雨を降らせた後、再び唇へと戻ってくる。
自然と開いた隙間から、熱い舌がもぐりこんできて、わたしの舌をからめとる。
それは……何だか、とても気持ちよかった。
「んんっ……」
段々と力が抜ける。トラップの手が、背中にまわって、ゆっくりとベッドに押し倒された。
どさっ、と体重をスプリングに預ける。トラップの手が、Yシャツのボタンにかかった。
ぞくり、と背筋に寒気が走る。
全然違う、と自分に言い聞かせていた。
刃物を使って無理やりセーラー服を切り裂かれた、あのときとは違うんだと言い聞かせた。
ぷつん、ぷつんと、ボタンがゆっくり外されていく。
細くて長い、しなやかな指。それが、隙間からもぐりこんで、優しくわたしの肩をつかんだ。
直接触れられて、体温が直に伝わって……その暖かさに、涙がにじみそうになる。
思い出しちゃ、駄目っ……
「やあっ……」
胸にくちづけられて、わたしは思わず声を漏らした。その瞬間、すごく面白そうな小さな声が、耳に届く。
「素直に反応してくれんのは嬉しいんだけど……」
すすっ、と手が上半身をなでさすって、そのたびにびくり、びくりと背中がのけぞった。
「あんま壁厚くねえから。派手な声出すと、隣に聞こえんぜ?」
「……嘘っ!!」
ななな、そういうことはもっと早くに行ってよー!?
慌てて唇をかみしめる。だけど、トラップの手は、全然休んでくれなくて、強い刺激を与えられるたびに、声が漏れそうになるのを抑えるのに、ひどく苦労した。
「やっ……トラップの、意地悪っ……」
「意地悪ねえ。俺がこんだけ優しくしてやってんのに……」
軽く耳をかまれて、思わず悲鳴をあげそうになる。
い、いやっ……何だろ? 何だろ、この感覚……
「んなこと言われたら、もっと意地悪したくなるよなあ……」
その言葉に、不穏な響きを感じた。
ぐいっ、と無理やり足を開かされた。手つきはひどく乱暴で、性急で……そして、それは……
「やっ……」
「俺がこんだけ我慢してんのに。んなこと言われたら……めちゃくちゃにしてやりたくなるんだよなあ……」
衣擦れの音が響いた。
がしっ、と肩をつかまれる。その力強さは、今までの優しい動きは全然違っていて……
「やっ……い……いや……」
「今更。止められるわけねえだろ」
ふうっ、と耳元に息を吹きかけられる。
その瞬間、長いこと、忘れよう、忘れようと努力してきたあの記憶が、オーバーラップした。
「い……やああああああ!!」
どんっ!!
目の前の身体をつきとばす。
あのときは、いくら力をこめても逃げられなかった。
無理やりわたしの身体を蹂躙して、引き裂いて、そして放り出していった、あの記憶。
「……あ……」
「…………」
とん、という軽い音。身体が突然軽くなった。
床に降りたトラップは、わたしの方を見ようともせずに言った。
「わりい、焦りすぎたな」
「…………」
「ったく。だあら、やめときゃよかったんだって。おめえ、俺に感謝しろよなあ?」
そう言うと、トラップはごろん、と床に横たわった。視界から、赤毛が消える。
「あそこまでいってやめれる男なんて、普通いねえぜ?」
「…………」
わたしは……
変わりたい、と思ったはずなのに。少しは変われた、と思っていたのに。
やっぱりそれは口先だけだったんだって、トラップの言う通り「お嬢さん」だったんだって、思い知るしかなかった。
このままじゃ、いけないよね……
一人暮らしをしたい、と言い出すと、さすがに両親に反対された。
危ない、というのがその理由だったし、心配だ、とも言われた。
けれど、どうしても、とわたしが言うと、渋々ながらOKしてくれた。ただし、週末は絶対実家に戻ってくるように、と念押しされたけれど。
両親に守られていないと何もできないお嬢さん。だから、いつまで経っても、守られていることに甘えて、与えられた傷口を自分で塞ぐことができなかった。
変わりたい。変えていきたい。
部屋は、大学近くのマンションを選んだ。トラップの部屋とよく似たワンルーム。違いは、トイレとお風呂が別々のセパレートっていうだけ。
お風呂はゆっくり入りたいもんね、うん。
引越しをしたことは、トラップには告げなかった。
あれ以来、トラップの部屋には行っていない。デートはしていたし、コンビニにも顔を出していたけれど、別にトラップも何も言わなかったけれど。
けれど、きっと彼は気にしているだろうから。わたしが拒絶してしまったことに、傷ついてるんじゃないか……そう思ったから。
だから、変わった自分を見せたかった。それが、せめてものわたしにできるお詫びだと思ったから。
一人暮らしを初めて、最初の一日は、凄く寂しかった。
でも、両親はいないけれど。
すぐ近くにトラップが住んでいる。そう思うと、何故か、安心できた。
そうして一週間ばかり一人ぼっちを経験してみて……そして、思った。
やっぱり、トラップに傍にいて欲しい、って。
そんなことは最初からわかっていたんだけど。でも、改めて思った。
わたしの何もかもを、受け入れて欲しいって。
わたしはまだ言っていない。あの夏の日のことを、まだトラップに話していない。
順番を間違えたんだ。まず、あのことを話して、受け入れてもらって、全てはそれからだったのに。
話そう、と決意できた。そう思ったら、もうすぐにでも話さなければいけないような気がした。
携帯に手を伸ばしたとき、時間はちょうど、深夜0時だった。
「会いたいから、大学まで来て欲しい」
そう言うと、トラップはすぐに来てくれた。バイトだったらどうしようか、と思ったんだけど。幸いなことに、今日は休みだったらしい。
「あんだよ、おめえこんな時間に……どうやってここまで来たんだ?」
Tシャツにジーンズ、サングラスをかけた姿は、いつもと全く変わらない。
これからも、変わらないで欲しい。
「トラップ。あのね、わたし……この間から、一人暮らししてるんだ」
そう言うと、トラップの肩がひきつった。
「おめえが? ……あんで。実家、引越しでもしたんか?」
「違うの。……いつまでも、『お嬢さん』でいるのは、嫌だから」
ぐっ、と顔をあげる。サングラス越しに視線を合わせると、トラップも、それをまともに受け止めてくれた。
「話したいことが……あるの。今から、わたしの部屋に……来てくれる?」
「……りょーかい」
軽い口調を装っていたけど。
その声は、ひどく真面目だった。
部屋に男の人を入れるのは、もちろん初めてだった。
「ごめん……汚い部屋だけど……」
「おめえ、あからさまな謙遜は嫌味だぜ?」
トラップの言葉は、いつもと同じ。
素直じゃなくて、可愛くなくて……でも、あったかい。
部屋に通すと、彼は、どかっと床に座り込んで、わたしを見上げた。
「話って、何だよ」
「……あのね、トラップ。わたし、実は……」
声が震えるのは、仕方の無いことだよね?
今まで、誰にも言えなかった事実。今から一年前の出来事。
それを、わたしは話していた。トラップに、何もかも。
何度も言葉が止まった。涙も出そうになった。
でも、言わなきゃいけないと思ったから、耐えられた。
どうせいつかは言わなきゃいけないんだから。
トラップを信じてるから。
そうして、最後まで話し終わっても……トラップは、しばらく無言だった。
「ご……ごめんね……今まで黙ってて……」
「…………」
「わ、わたし……」
「あんで」
ぐいっ、と腕をつかまれた。
その瞬間には、トラップの腕に抱きしめられていた。
「あんで、おめえが謝るんだよ」
「っ……だって……」
「おめえは、別に何も悪くねえじゃん」
「…………!!」
それは……ずっと、誰かに言って欲しかった言葉だった。
わたしは悪くないって言い聞かせていた。しょうがないって思っていた。
でも、心の中では、ずっとこだわり続けていた。
あの日、ちゃんと大通りを使っていれば。もっと反抗していれば。最悪の事態は防げただろうっていう、自分を責める言葉が、うずまいていた。
誰かに認めて欲しかった。わたしは何も悪くないんだって。
「わたし……だって、汚れてるって……思わない?」
「あんでだよ」
「だって……」
「綺麗だよ」
ぐいっ
腕に力がこもる。
胸に顔が押し付けられて、息がつまった。
「おめえは、綺麗だよ。怖かったんだろ。今まで、ずっと怯えてたんだろ? だあら、あのときも……俺が乱暴に扱ったから、それで……」
「トラップ……」
「謝るのは俺の方だ。優しくできなくて……ごめん」
やっぱり。
彼は、受け入れてくれた。わたしの、大切で、特別な人は……
「トラップ」
ぎゅっ、と背中にまわした腕に、力をこめる。
「優しく……してくれる?」
「ああ。おめえが、そう望むなら」
そう言って、彼がしてくれたキスは、今までで一番、優しかった。
過去の傷は、塞がったと思った。
もう大丈夫だと思った。トラップさえいれば、もう大丈夫だって。
幸せだった。
本当に好きな人に抱かれることが、こんなに幸せだってわかって……
トラップに抱かれて、わたしは幸せだった。
暖かい空気に、わたしはふっと目を開けた。
窓の外は、もう明るい。
狭いベッドの中。隣では、裸の肩をむきだしにして、トラップが背を向けて寝ていた。
昨夜の記憶。
巧みな愛撫も、貫かれたときの微かな痛みも。全てが優しかった。トラップに抱かれている間、あの日のことを忘れることができた。
トラップのおかげで、ふっきることが、できたんだよね? わたしは……
そう思うと、涙が伝った。
……バカ、朝から……何、泣いてるのよ。
腫れた顔を見られたくない。わたしは、そっとベッドから抜け出した。
顔を洗うために、洗面所に行こうとして。
その瞬間、足が何かにつまづいた。
「きゃっ!?」
どん、と床に手をつく。同時に、足がひっかけた何かが、どさりと横倒しになった。
「あ……」
トラップのカバン。彼がいつも持ち歩いている、財布などを入れている小さな黒いカバンだった。
それが、床に倒れて、中身を撒き散らしていた。
財布と手帳、携帯電話。そして……
「……え?」
カバンを持ち上げた途端、どさり、と厚手の紙が、まとめて落ちた。
……紙、じゃない。これは……
「写真……?」
すごい枚数の写真だった。無造作に輪ゴムで束ねられている。
それを見ようと思ったのは、ちょっとした好奇心と気まぐれだった。
それが、わたしの幸せを木っ端微塵に壊してしまうなんて……そのときは、予想もしていなかったから……
「……え?」
見た瞬間、そこに写っているのが何なのか、すぐにはわからなかった。
暗い写真だった。多分、夜にフラッシュを使って撮ったもの、だと思う。
暗い雑木林の中。被写体は、女の子。
何枚も写っていたけれど、角度が違うだけで、場所も、内容も、全て同じだった。
長い金髪、うつろな表情。無惨に切り裂かれたセーラー服。むき出しにされた脚。
「…………!!」
わたし、だった。そこに写っているのは、あの日のわたしだった。
一年前のあのとき。遠くに聞こえた、ぱしゃっ、という音。
あれは、シャッターの音だった。写真を、撮られていた……?
何で……そんなものを、トラップがっ……!!
ぽん、と肩に手を乗せられた。ぎゅっ、とつかまれる。その痛みが、力強さが、怖かった。
振り向けない。振り向いちゃいけない。
真実を知っちゃ……いけない……
「トラップ……?」
「自分で見つけちまったのかよ。……俺が見せてやりたかったのに」
その声は、とても……とても冷たかった。
反射的に振り向いてしまう。そして、まともに視線がぶつかった。
いつもいつもサングラスをかけていたトラップ。ただ一度だけ外したのは、あの日。わたしがトラップを拒絶した日。暗闇の中で、一度だけ。
わたしは、初めて明るい光の下で、彼の目を見た。
暗い憎悪が燃え上がっている、彼の茶色の瞳を。
「と、トラップ……?」
「……別に、おめえ自身にゃ、何の恨みもなかったんだけどな……」
ゆっくりとつむぎだされる言葉。
意味ある言葉として脳に届くまで待ってくれているんじゃないか。そう思ってしまうくらい、ゆっくりの言葉。
「おめえの親のせいで……俺達一家が、どんだけ辛い目にあったか……おめえみてえな苦労知らずのお嬢さんには、わかんねえだろうな……」
「あ……」
親……? お父さんと、お母さん……?
トラップ達一家? どういう、こと……?
「そのせいで、俺も、妹のマリーナも……高校を中退させられて……マリーナはな、おめえより年下だってのに、水商売までやらされてんだぜ?
好きでもねえ男に媚売って、金を手に入れて……そうでもしねえと生きていけなかった、そんな気持ちが、おめえにわかるか?」
「トラップ……?」
「トラップじゃねえ」
彼の言葉は、どこまでも冷たかった。
「ステア・ブーツ。それが、俺の本名だ」
「ブーツ……?」
それは……確かに、聞き覚えのある名前だった。
わたしのお父さんは、小さな会社の人事部長をつとめているんだけれど。
一時期、会社の経営が物凄く危なくなったとき……どうしても、一部の社員をリストラせざるをえなくなった、って。そう言って泣いていたことがあった。
あのとき、リストラした社員の名前。その中の一つが……
「トラップ……」
「トラップじゃねえって言ってんだろ」
つかまれた肩が、ひどく痛かった。
だけど、それを訴える気にも、なれなかった。
わたしに向けられる視線は、どこまでも冷たい。
やっと、わかった。彼が、どうしていつもサングラスをかけていたのか。
この視線を隠すために。わたしに向ける憎悪を覆い隠すために……彼は……
「嘘……だったの?」
「ああ?」
「今まで、優しかったのは……付き合って、くれていたのは……」
「何を、今更」
ぐいっ、と身体を引き寄せられる。わたしの顎をつかんで、無理やり視線を合わすようにして、トラップは言った。
「俺が、一度でもおめえを好きだと言ったことが、あったか?」
「…………」
無かった。
そう、無かった。彼の方から好きだ、と言う言葉を聞いたことは、一度もなかった。
けれど、それを特に変だと思ったことはなかった。照れ屋でぶっきらぼうで、素直じゃない彼だから……言えないのも不思議じゃない、そう思っていた。
「一つだけ、聞かせて」
「…………」
「あの日……一年前、わたしを……乱暴したのは……」
「乱暴、ね」
くっくっ、と、喉の奥で笑って、彼は言った。
トラップ……ステアは、言った。
「おめえを犯したのは、俺だ」
その瞬間、確かに、わたしの中で何かが砕けた。
理性や、感情や、その他色んなものが。
トラップに出会ったことで築き上げた色んなものが、確かに砕け散った。
「全部、計画だったんだよ。おめえの親に対する復讐。可愛がってる娘が、犯されて、裏切られて……そうと知ったあいつらがどんな顔をするか、見たかった。おめえをたらしこむのが、こんなに簡単だとは思わなかったぜ。バカだよなあ、おめえは……」
投げつけられた言葉は、どこまでも、どこまでも冷たかった。
「何で、絶望のどん底に突き落とした当の本人に、惚れたりしたんだよ?」
耳に届いた言葉は、それが最後だった。
背後で、トラップが服を着替えて、わたしの手からカバンを取り上げて、そうして部屋から出て行くのをぼんやりと見送って。
でも、何も考えられなかった。
一つだけわかったこと。
たった一人だけ出会えたと思った、心の拠り所。
それを失ってしまったのだ、ということだけは、わかった。
バタン、とドアを閉めたとき、自分の心にどうしようもねえ罪悪感が襲ってくるのがわかった。
二年前、高校二年のとき。
耳に挟んだ、親父達の会話。
――キングさんさえ……あの人さえ、もっと……
キング。親父の会社の人事部長。
そして、親父をリストラして……俺達を絶望のどん底に突き落とした張本人。
長年つくしてきた会社に裏切られた、それがショックだったのか。あるいは、生命保険で、少しでも俺達を助けてやろうとしたのか。
それはわかんねえ。けど、リストラされた翌日、親父は電車に飛び込んでいた。
そのショックで母ちゃんは倒れて、俺と妹のマリーナが働くしか、生きていく術は無かった。
高校を中退して、マリーナは水商売の道に踏み込んで、俺はバイトに明け暮れて。不景気な世の中だ。高校中退者に真っ当な働き口なんかそうはねえ。
こうなった原因は、誰だ?
そう思ったとき、足は、自然にキング家へ向いていた。
親父の部屋に残されていた書類から、住所は簡単にわかった。
そのとき、見たのは。
辿り付いた家。まあ豪邸の部類に入る大きな家から出てきたのは、俺と同い年くらいの、見るからに幸せそうな顔をした女。
それを見送る、いかにも優しそうな両親らしき二人。
俺達が、こんなに苦労をしてるっていうのに。
その原因となったおめえらは……何で、そんなに幸せそうなんだよ?
その瞬間から、俺の生きる目的は、復讐だけになった。
いつか復讐してやる。おめえらに、俺と、妹が味わった絶望を……大切な人を失う悲しみを味あわせてやる。
それからは、バイトの合間をぬって、あの家のことを調べ続けた。
キング家の一人娘、パステル。ターゲットはこいつしかいねえと思った。
こいつを、絶望のどん底に突き落としてやること。それが、キング家に対する一番の復讐だと思った。
そして、それは達成されたはずだ。
なのに……
帰る間際に見た、パステルの顔。
あんなに表情豊かだったあいつが、全くの無表情で、俺が出て行くのを、見ようともしなかった。
それで、満足だったはずなのに。それこそが、俺が望んだことのはずだったのに。
何で……こんなに胸が苦しいんだ?
大学の教室にもぐりこんだとき。隣に座った俺の顔を見て、慌てふためいていたパステルの顔。
コンビニに客として現れたとき、メールを打ってもいいか聞いたときの、嬉しそうな顔。
初めて二人で夜を過ごすときの、怯えを隠して、挑むように俺を見た顔。
色んな顔が浮かんできた。喜んだり、怒ったり、泣いたり……でも、結局最後には、笑っていたあいつの顔。
ガン、と壁を殴りつける。拳から血がにじむのがわかったが、気にならなかった。
ああ、そうだ。気づいていた。
だから焦ったんだ。取り返しがつかなくなる前に、目的を果たしちまおうと……ずっと焦っていた。
このまま一緒にいたら、本気になっちまいそうだから。
素直で、明るくて、俺の言うことにいちいち反応を返して、弱虫で寂しがりやで泣き虫で
でもそのくせ、芯は強かった。犯された、という過去を乗り越えようと、必死になっていた。
そんなあいつの姿を見るのが、楽しかった。
あいつだけは、惚れちゃいけねえ相手だとわかっていたから……必死に自分を抑えていたのに。
「っ……パステルっ……」
おめえが、キング家の娘じゃなかったら。俺が、ブーツ家の息子じゃなかったら。
俺達は、きっと……
そのときだった。
不意に、ポケットの中で、携帯の着信音が響いた。
反射的に取り上げる。ここ最近の着信履歴は、ずっとパステルの名前で埋まっていた携帯。
一瞬期待に似た感情がかすめるが、そこに出た名前は、俺が望んだ名前じゃなかった。
「……マリーナ?」
ぴっ、と通話ボタンを押す。俺が何か言うより早く、聞きなれた声が飛び出してきた。
『あ、お兄ちゃん!? ねえ、聞いて聞いて!』
「あんだよ?」
『あのね、わたし、就職できることになったの!』
「……マジか!?」
あまりにも突然の知らせだった。携帯を握る手に力がこもる。
16歳の頃から、家計を助けるために水商売のバイトをしてきたマリーナ。
愚痴も不満も言わずに出かける妹を、ずっと助けてやりてえと思った。
助けてやれねえ自分が情けなかったから、復讐に逃げた。
だけど……
ああ、マリーナ。おめえはすげえ奴だよ。
俺の助けなんかなくたって……いつだって、幸せは自分の力でつかみとる奴だった。
「よかったな……よかったな、おめでとう」
『うわ。お兄ちゃんがそんなに素直に祝ってくれるなんて不気味だわ』
「おめえなあ!!」
『ね、それよりさ。わたしに就職を斡旋してくれたの、誰だと思う?』
とびっきりのいたずらを思い付いたときと同じ声で、マリーナは言った。
俺の心を、どん底に突き落とす言葉を。
『キングさんよ! ほら、父さんの会社の人事部長だった……あの人ね、ずっとわたし達、リストラされた社員の家族のこと、気にかけてくれてたんだって。それで、みんなの就職先を、一つ一つ探してくれてたんですって!
うちは、父さんがあんなことになっちゃったから……でもね、お兄ちゃんも、よかったら一緒の会社に入らないかって……お兄ちゃん? お兄ちゃん?』
手から、携帯が滑り落ちた。
がしゃんっ、と地面に落ちる前に、俺は走り出していた。
親父の最後の言葉が蘇る。
――仕方ない。あの人だって、辛いんだ。
――誰かの首を切らなければ、会社が危ない。全社員を路頭に迷わせるくらいなら、退職金つきで一部をリストラする。それは、間違っていない……
その直後、親父は電車に飛び込んだ。だから、俺はその言葉を深く考えようとはしなかった。
子供だ、子供だとパステルをバカにしてきた。何も知らねえお嬢さんだと、俺達の不幸の上にあぐらをかいてのうのうと幸せに暮らしてきたガキだと、蔑んできた。
心が惹かれるたびに、そうやって言い聞かせて、無理やり自分の気持ちをごまかしてきた。
……一番ガキだったのは、誰だよ!!
「パステル!!」
バンッ!!
ドアは、俺が出たときのまま。鍵が開いたままだった。
玄関から直接目に入るワンルーム。そこに、パステルの姿はなかった。
シーツが乱れたままのベッドから、無理やり視線をひきはがす。
ここにいねえとしたら……トイレ? 風呂場?
玄関に靴が残っていたから、外に出たはずはねえ。
ばん、と風呂場の戸を開ける。
そこで、目に飛び込んできたのは……
「…………パステル」
赤、だった。
狭いバスルーム。水を張ったままの浴槽。
どこもかしこも、真っ赤だった。
水の中に右腕をつっこんだ状態で、パステルは浴槽にもたれかかっていた。
その身体は、どこまでも青白く……どこまでも、冷たかった。
俺が、ブーツ家の息子じゃなかったら。
おめえが、キング家の娘じゃなかったら。
そうしたら、俺達はどんな関係を築いていただろう。
好きだった。愛していた。
その気持ちを否定しようと必死になっていたけれど、心惹かれるのをどうしても止めることができなかった。
俺には無い強さを持ってるおめえが、自分に降りかかった不幸を、誰のせいにすることもなく乗り越えようとする強さを持ったおめえが……羨ましかった。
復讐のためだけに借りた部屋を引き払って、実家に戻る。
幸せそうに仕事に出かけるマリーナにうつろな笑顔を返して、俺は相変わらずバイトに明け暮れていた。
俺の復讐は、終わった。
そう思っても、心は、ちっとも晴れなかった。
携帯電話のメモリに、一番新しく登録された名前。
もうつながらねえその番号を消せる日は、多分一生来ねえだろう。
それこそが、俺が自分に与えた贖罪だから。
どうしようもなく愚かで子供だった自分に与えた、罰。
どこまでも無意味な復讐は、やっと、終わった――
完結です。
すいません。暗いですね。しかも長いですね。
次は原作に沿った設定で、明るくて、エロ多目な作品を目指します。
トラパス作者さんGJ!
悲恋シリーズ イイ(*´ェ`*)
69 :
名無しさん@ピンキー:03/11/04 17:29 ID:08kvwEeR
悲恋シリーズ4、イイ!暗いけどイイ!!
よくここまで色んな話を思いついて文章に出来るなとマジで感心します。
(話を思い付くのはいいが文章にするのが難しい)
今までの作品を本にしたら何冊分になるんだろうと思う今日この頃
次の作品も楽しみに待ってます。
トラパス作者様、乙です〜
悲恋シリーズ4、痛々しくてよかったです
幕を引くのがすこしだけ遅かったら、結末は違っていた……
と思わせるエンディングが見事ですね〜
明るい作品の方が好きなんですが思わず引き込まれてしまいました
次回作も楽しみにしてますので、是非〜
>>トラパス作者さま
いつもはROMに徹する私も思わず書き込んでしまいました・・・。
悲恋シリーズ4本当に引きこまれてしまいました。
話自体がしっかいしているので悲恋でもダークでもぜんぜん気にならない!!
ミステリとかサスペンスとかも好きなのでほんとによかったです。
トラパス作者様、新作、すごくよかったです。
軽い作品が好きだったんですが、ダークもいいものだなあ。
でも途中までは、何人もの女の子とのそういう写真を撮って、
持ち歩いている婦女暴行魔トラップだと思ってた…
「まあそういうのもアリか」と思ってた自分って…
>>72 実は私もそれ思っていた・・・。
写真見つけた時はキターー!って感じだったし。
逆パターンも読みたいかも。
最初は壊すだけ壊して(精神とか肉体とかそらもうぼろぼろに)最後にハピーエンド。
トラップがサングラスで隠したかったのは、憎しみだけでなく
パステルに惹かれる気持ちも含まれていたのかと思うと、切なくて仕方ないです…。
リクエストになってしまいますが、この悲恋シリーズ4、トラップ視点バージョン
お願いできますでしょうか? 復讐を決意して実行に移すけど、パステルに惹かれてしまって
葛藤する、ってあたりがすごく読みたいです!
最後が全く同じになってしまいますし、難しいとは思いますが、出来ればで結構ですのでよろしくお願い致します。
>感想くれた方々
どうもありがとうございます。
自分で書いていて鬱になるくらいダークな作品でしたので、受け入れてもらえるか不安だったのですが……
概ね好評なようで、本当にありがとうございます。
悲恋シリーズは後1つネタがあるんですが、そちらもそのうち書きます。
>>73 壊すだけ壊してハッピーエンドっていうのは、暴走編みたいな作品でいいのでしょうか……?
また挑戦してみましょうかねえ
>>74 書けたら書いてみます。トラップ視点か……パステル視点より数倍暗くなりそうな予感……
というわけで新作です。
今回は、まとめページの掲示板でリクエストされた作品です。
注意
・作品傾向明るめ。エロは珍しく多め。
・ただし、少々表現が生々しい部分ありかもしれません。
・全編トラップ視点のお話しです。
・似たような設定が前に別の話で使われてましたが、つながりは全くありません。似て非なる話と思ってくだされば幸いです。
では
理不尽だ。
ここまで来るのに、俺がどれほど苦労したと思ってやがる?
それなのに、何で……こんなことになっちまうんだ?
俺の腕の中にいるのはパステル。
蜂蜜色の長い髪も、はしばみ色の目も、色白な肌も、白いアーマーも赤いミニスカートも。
何もかもがいつものあいつなのに。
その目には、何というか……すげえあどけない光が宿っていた。
「だあれ?」
「……おめえ、俺を忘れたのか?」
「しらない」
ふるふると首を振る動作は、どこまでも子供っぽい。
「俺、だよ……トラップ! おめえ、本当に忘れちまったのか!?」
「と……とりゃっぷ……?」
ろれつのまわらない口調でつぶやいて、パステルはにっこり微笑んだ。
「わたし、ぱすてる」
……知ってるよ。
誰か、誰か何とかしてくれ。
誰か……こいつを治してくれー!!
そもそも、あの鈍感女に惚れたのが、この俺の不幸の始まりだった気がする。
出会ってから四年余り。その間にアタックしまくること数百回。
そのどれもこれもが空振りに終わって、そのくせジュン・ケイだギアだと、俺以外の男にはあっさりと恋心を自覚するあの残酷な女。
パステル・G・キング。俺の好みとは対極にいるようなガキくさい女だが、何故だか好きになっちまったんだからしょうがねえ。
思わせぶりなこと言ったって通じねえ、と悟ったのが一年前。告白したのが数ヶ月前で、気持ちを自覚してから実に年単位の月日が流れていた。
が、どれだけ空振ろうとくじけなかった甲斐あって! ついに! 俺はパステルを手に入れることに成功した。全く、努力ってのはしといて損はねえ。
考えても見ろよ? 一緒のパーティー組んでる以上、一つ屋根の下どころか一枚の毛布の下で雑魚寝する機会だって多々あるんだ。
そこで警戒してくれるならともかく、「さあ、手を出してください」と言わんばかりの無防備な表情で寝られたら……
健康な19歳男子として、俺がどれだけの苦労をしてきたか、悟って欲しいもんだ。
だが! そんな苦労もやっと終わった。まあ、いざ付き合ってみれば、あの流されやすいっつーか素直っつーか、強く出られると断りきれないおひとよしのこと。
身体の関係にまで持ち込むのは、そう難しいことじゃなかった。
全くなあ。幼児体型だとか出るとこ引っ込んで〜だとか散々バカにしてきたもんだが。
いざ抱いてみると何つーか……まあこれ以上は言うまい。実際に手を触れた俺だけがわかる特権って奴だ。
とにかくだ! パステルとこうなるまでに、俺はそれほどまでに努力を重ねてきたんだ。
それなのに……何でだ?
何で……こうなっちまうんだ……?
「ごめん……迷っちゃったみたい……」
「迷っちゃった、じゃねえよ!」
べしっ、と情けねえ顔で振り向く蜂蜜色の頭をはたく。
鬱蒼とした森の中。本来ならとっくに街に戻ってもいい時間。
現在、俺達はとあるクエストの帰り道。クエストそのものもまあまあの成功をおさめ、後は宿で一眠りするだけ、と一番気の抜けるときだった。
先頭に俺とパステル、ついでクレイとルーミィとシロ、しんがりにノルとキットンという隊列で、森の中を歩いていたんだが。
この森は、別にモンスターが出るような危険な森じゃねえ。道もちゃんとあるし、本当にただ通り抜けるだけ、のつもりだった。
そんな森で、だ。何で迷うことができるんだこいつは!?
「ちっとマップ貸してみろ」
「あ、うん……」
おそるおそる、と差し出されるマップを奪い取る。
単純な道のはずなのに、やけに複雑そうに見えるのは……パステルのマッピングが下手なせい、だろうな。
おいおい、一本道だっつーのに、道幅そろえようと何本も修正の線が入れてあるから、別れ道みてえに見えるってのは……うまいとか下手以前の問題じゃねえか!?
「お、おめえなあっ……あにが、『今回はまかせて!』だ!!」
「だ、だってー!! こ、こんなに簡単な道だもん。まさか、こうなるなんて……」
俺の形相に、今にも泣きそうな顔で必死に反論するパステル。
「まあまあ、トラップ。パステルだってな、悪気があったわけじゃないんだから……」
「ったりめえだ! 悪気があってやられてたまっか!!」
いつもながら甘い幼馴染、クレイが庇おうとするのを、一刀両断する。
大体だなあ、こいつにいつまで経っても進歩がねえのは、そうやっておめえが甘やかすからだぞ?
マッパーが方向音痴。これは、下手したらパーティーが全滅しかねねえ重大事項だっつーことに、気づいてんのかよ?
「ご、ごめんなさい……」
しょぼん、と素直に頭を下げるパステル。
そんな顔されると、「悪いと思ってんのか? よし、本当に悪いと思ってんなら……」なんつーふしだらな妄想が駆け巡ったが、それはさすがに自粛する。
まあそれは二人っきりになったときのお楽しみって奴だ。
「まあ、まあ。トラップ、どうだ? ここがどこらへんか……」
クレイが何か言いかけたときだった。
ざざざっ!!
突然、周囲の茂みが騒がしくなったかと思うと、目つきの悪い野郎どもが飛び出してきた。
総勢八人。全く今までどうやって気配を隠していたのか、あっ、と思ったときには、もう前後左右を囲まれていた。
「きゃあっ!?」
「うわっ」
パステルとクレイの悲鳴。慌てて六人と一匹で一塊になる。
野郎どもは、下品な笑いを浮かべて、じりじりと包囲網を狭めてきた。
「おうおう、何か騒がしいと思ったら……ガキか」
「お頭、こいつら、冒険者ですぜ。それもまだまだひよっこの」
「ほほおう。そりゃあ、おいしそうな獲物じゃねえか」
俺達を値踏みするように見て、好き勝手なことをほざく野郎どもA、B、C。
ああーまた厄介な連中に見つかったもんだぜ……
「山賊、だな」
「どーするよクレイ?」
「どうするって……あの、ひいてはもらえませんか? こちらとしては、事を荒立てたくはないんですが」
っかー! バカかおめえは! んなことこいつらが聞くわけねえだろ!!
案の定、爆笑しながらじりじりと包囲網を狭める山賊どもに、クレイはため息をついてノルと視線を合わせた。
しゅっ、と剣を抜くクレイ。同時にノルも、ハンドアックスを構える。
「こいつら、やる気ですぜ」
「おもしれえ。相手して身ぐるみはいでやれ。女は……わかってんな?」
「へい」
山賊どもは、そんな俺達をせせら笑った後、手に手にこん棒だ短剣だと構え始めた。
……ちっ。言ってることは雑魚っぽいが、こいつら、結構腕はいいな。
だが、ただでやられるつもりなんざ全くねえ。特に、こいつらのパステルを見る目つきを見ちまったら……
「キットン、お前ルーミィを頼む!」
「わかりました」
「トラップはパステルを!」
「おう!」
「行くぞ!!」
そんなこんなで、森の真ん中で俺達は乱戦になった。
パステルを背中にかばって、パチンコを構える。
だが、この程度じゃ、ぶつかっても致命傷は与えられねえ。
別に全滅させる必要はねえ。何人か倒して、突破口さえ見つければ……
「パステル、離れんなよ!?」
「わ、わかった!!」
「キットン、おめえもだ。パステルの傍にいろよ!」
「は、はいっ!!」
クレイとノルが、山賊どもの武器を片っ端からはねとばしている。
ひよっこだ、とバカにしていたが。こいつら二人を甘く見ちゃいけねえ。純粋に腕だけなら、レベルは8〜10くらいは行ってたっておかしくねえんだ。
性格がどうしようもなく戦闘向きじゃねえだけで。
「だああっ! お頭、こいつら強いっす!!」
「バカ、ガキにけつ向けて逃げる気かあ!? ひるむなっ!!」
土煙と怒声と剣を交える音。
俺の役目は、クレイ達に向かう山賊どもの気を引くことだ。
パステルもクロスボウを構えているが、下手したら味方に当たるかもしれねえ状況で責めあぐねているらしい。
……まあ、戦おうって気になってるだけ、進歩したもんだ。
それからどれくらい時間が経ったんだか。
クレイとノルがあちこち傷だらけになっているが、大きな怪我はねえ。
それに対して、山賊どもは八人中四人までが、ノックダウンされていた。
「さあ……どうする……こちらとしては、手荒なことをしたくはないんだ……大人しく、ひいてもらえませんか……」
ぜいぜいと息を切らせながらのクレイの警告に、山賊どもは顔を見合わせた。
ひそひそと話し合って、じり、じりと後退を始める。
……助かった。正直、これ以上こられたらちっとやばかったんだよな……
弾切れを起こしたパチンコを威嚇に構えながら、山賊どもをにらみつけたときだった。
「あ……」
「トラップ、危ない!」
響いたのは、キットンとクレイの声。
がしっ!!
「うおっ!?」
突然、倒れていた山賊Aが、俺の足をつかんできた。
こっ、こいつっ……気絶してたんじゃねえのかよ!?
ずだんっ!!
不意打ちをくらって、地面に引き倒される。
こっちの隊列が乱れた、そのときだった。
「よくやった! 行け!!」
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
一斉に殺到してくる山賊ども。やっ、やろう……いい度胸してんじゃねえかっ!!
げしっ、と足にしがみつく山賊に蹴りを入れて立ち上がる。その瞬間だった。
「きゃああああああああああああああああああああああ!!?」
響いたのは、パステルの悲鳴。
「動くなっ! この女の命が惜しければ……誰も動くんじゃねえぞっ!!」
振り向いた俺の目にとびこんできたのは、お頭、と呼ばれた山賊にはがいじめにされているパステルの姿。
……あ、あいつはっ!! あにやってんだよ一体!!
「と、トラップ……」
ぐいっ、と喉に短剣を押し当てられて、パステルの目に涙がにじみ出た。
「てっ、てめえ! 女を人質にとるたあ、卑怯だぞっ!?」
「きっと山賊もあなたにだけは言われたくないと思います」
「うっせえぞキットン!!」
後ろから律儀にツッコミを入れるキットンを蹴り倒して、クレイと二人で山賊どもをにらみつける。
うわ、クレイの奴、目がマジだぞ? 騎士を目指してるだけに、こういう卑怯なことが大嫌いな奴だからな……
「パステルを、離してもらえませんか?」
その目に危険な光を感じたのか、山賊どもは、一斉にびびって身を引いた。
じり、じりとその足が後ずさる。そして……
「離したらこっちの身がやべえだろうが!? おい、逃げるぞっ!!」
「へいっ!!」
ずるずるとパステルを盾にするようにして、後退する山賊ども。
くっ、悔しいが手を出せねえっ……弾、弾さえあれば……
距離が離れた。もう飛び掛っても手が届かねえ、そんな距離。
そのときだった。
「トラップ」
ぐいっ、とキットンに腕をつかまれた。
「あんだよっ……こんなときに……」
「これ、使えませんか!?」
珍しく焦ったようなキットンの声。手に押し付けられたのは、硬い感触。
これは……
「ありがてえっ!!」
山賊どもが身を翻した。一目散に道を走り去ろうとした、その足を狙って、俺はパチンコを構えた。
キットンに押し付けられたもの。大量のコイン。
「逃がすかっ!!」
バチッ! バチッ! バチッ! バチッ!!
狙いたがわず、放ったコインは山賊どもの足に激突した。
「うわっ!!?」
「い、痛えっ!!」
どどっ、と総崩れになる山賊ども。その隙に、クレイとノルが走り出す。
後は一方的だった。ぼこぼこにのした山賊達を、ロープで縛り上げる。
「ち、ちくしょうっ……誰だ、ひよっこなんて言った奴は……」
「おかしらあ……」
割合腕は立つはずなんだが、まあ所詮雑魚なんてこんなもんよ。
芋虫のごとく地面を転がる山賊どもに一発ずつ蹴りを入れて(特に、パステルをひっさらった奴は急所を蹴ってやった)、地面に投げ出されたパステルに歩み寄る。
山賊が倒れたとき、一緒に放り出されたらしい。全く、鈍いっつーか……別に手足縛られてたわけじゃねえんだから。それくらい耐えろよなあ。
「おい、パステル」
ぐいっ、とその身体を抱き起こす。柔らかい手触りに、一瞬抱きしめてやりたくなったが……まあそれはともかく、だ。
「パステル」
重ねて声をかけると、パステルはぱちっ、と目を開けた。
その表情には、怯えとかそう言った表情は全然浮かんでねえが。
そのかわりに、やけにあどけない笑みを浮かべて。
そして、俺の顔をじーっ、と見つめて、言った。
「だあれ?」
……誰か、これは悪い夢だと言ってくれ……
「……幼児退行化現象、ですかね……」
すったもんだの挙句シルバーリーブに帰りついた俺達。
みすず旅館のいつもの部屋で、茶をすすりながらそう結論づけたキットンの手は震えていた。
その言葉に、俺とクレイは「ぎぎぎぎぎいっ」と音がしそうな動きで後ろを振り返る。
「ぱーるぅ! 次はルーミィのばんだおう!」
「いやあ、次はあ、ぱすてるのばんだもん!」
ルーミィとパステルとシロが、無邪気に絵を描いて(クレヨンを奪いあって)遊んでいる光景。
会話を聞いたら実に微笑ましいが、うち一人が後1〜2年で二十歳になるいい年をした女、っつーあたりが、どうにもこうにも違和感ばりばりの光景に仕上げている。
「つまり……パステルの精神は、今、幼児期に戻ってるということですが……多分頭を打ったショックじゃないですかねえ。いやはや……こ、こんなことが本当にあるとは……」
キットンは、ごっくん、と茶を飲み干してテーブルに置いた。
がたんっ、という小さな音とともにコップはころころ転がっていったが、誰もそれにツッコむ奴はいねえ。
「……いつになったら、戻るんだ?」
「さ、さあ……そればっかりは、私にも、何とも……」
「じゃあ、おめえ……」
ぐいっ、と親指を後ろに向ける。
とてもじゃねえが、二度振り向く気にはなれなかった。
「下手したら、あいつはあのまま……ってことか?」
「は、はあ……まあ、そのー……」
じょっ……じょーだんじゃ、ねえぞ!?
瞬時に変わった俺の形相を見て、キットンとクレイが素早く目をそらした。が、それに構う気にもなれねえ。
俺が……俺が、あいつと関係を進展させるのに、どれだけ苦労したと思ってやがるっ!?
そ、それを……全部忘れちまった、だとお……!?
「と、トラップ……落ち着けっ。な? いつかは絶対戻るって」
「いつかっていつだよっ!?」
「いや、俺に聞かれても……」
かみつかんばかりの勢いで言い返すと、クレイは素早く身を引いた。
くっ……い、一体、俺はどうすりゃいいんだ!?
「うわあああああああああああああああん!!」
「わあああああああああああああああああああああんん!!」
瞬間、いきなり響いた二人分の泣き声に、ぴたり、と俺達三人は動きを止めた。
「な、泣かないでくださいデシ!!」
泣いているのは、ルーミィとパステル。
二人のまわりをおろおろと駆け回っているのはシロ。
子供特有の、恥じらいも遠慮も何もねえ、出せる声を全部振り絞って泣いてるかのような、異様に耳につく泣き声。
思わず耳をふさいだが、それに構わず、ルーミィがクレイに、パステルが俺にしがみついてきた。
「くりぇー!! ぱーるぅが、ぱーるぅが変なんだおう! ルーミィに意地悪するんだおう!!」
「とりゃっぷ! ルーミィが、ルーミィがぱすてるに意地悪するのお!!」
そう言ってわんわんと泣き喚く女二人。
……クレイはいいよ。ルーミィは本当に子供だしな。泣き喚く姿も、まだ可愛げがあるってもんだ。
けどなっ……お、俺はどうすりゃいいんだよっ!?
ぶわあっ、という感じで涙を流してすがりつく、18歳の女。
身体が大人なだけに、もう何というか……色気も恥じらいもなく泣き喚くその顔は、ちょっと目をそらしたくなるくらい悲惨なものだった。
キットンがこっそりと部屋から抜け出し、クレイが俺を同情をたたえた眼差しで見てくる。
……誰か。
誰かっ……この状況を何とかしてくれー!!
こんな状態のパステルとルーミィを、同じ部屋にしておけるわけがねえ。
俺とクレイとキットンの話し合いの結果、パステルが元に戻るまで、部屋割を変えることになった。
もうそうなると、組み合わせは必然的にこうなる。
ルーミィとシロが男部屋に移動して、かわりに俺が女部屋に移動する。
「……いいだろ。お前はパステルの恋人なんだから」
「…………」
泣き喚くルーミィをなだめるのだけで、山賊八人相手したときより疲れた、そう言ってベッドに横たわったクレイの言葉は、何というか……「もう俺は知らん」と言う気持ちがびしばし伝わってくるほど投げやりだった。
それは……俺だって同じなんだよっ!!
くうくう、と俺の腕の中で、安らかに眠っているパステル。
まあつまり、泣き疲れて寝ちまったんだが……本当の本当に、子供に戻っちまったんだなあ、と改めて実感してしまう。
元のままのパステルだったら。この部屋割りは諸手をあげて喜ぶべきところなんだが……こうなっちまった以上……
俺に子守をしろ、と。そういうことだよな……?
考えただけでうんざりして、俺は天井を仰いだ。
パステルが目を覚ましたのは夕方だった。
「とりゃっぷー」
「あんだよ」
することもなくて床で不貞寝をしている俺の髪を、パステルがぐいっ、とひっぱった。
「あのね、お腹空いたあ」
「…………」
はああー、と盛大なため息を吐いて立ち上がる。
そうだな。時間的にはもう夕食、だよなあ……
けど……こんなになったこいつを、猪鹿亭に連れてくのか……?
普段、ルーミィ一人にどんだけ苦労してるかを思い出すと、それだけで気が滅入ってきた。
と、そのときだった。
どんどん
遠慮のかけらもねえノックの音が響いて、がちゃん、とドアが開いた。そこに顔を出したのは、キットン。
「あ、トラップ……あのですねえ、今から夕食に出かけますけど……あなた達は、どうします?」
「どうしますって俺だって腹へってんだけど」
「ぱすてるもー! ごはんたべるー!」
即答する俺達に、キットンはしみじみとつぶやいた。
「そう言うだろうとは思っていましたが、クレイの判断により、そうなったパステルを余り人目にさらさない方がいいだろう、とのことです」
「…………」
ああ、反論できねえ……俺達も、ここシルバーリーブじゃ結構な有名人になってるしな。
一体どんなろくでもねえ噂が走ることやらっ……
「んじゃ、どうしろってんだよ?」
「あのですねえ、我々が夕食を運びますから……今しばらく、部屋で大人しくしていてもらえますか?」
「…………」
納得行かねえ。
俺は絶対納得いかねえぞ!?
「とりゃっぷ。ごはんはあ?」
きょとん、と顔を見上げてくるパステルに、俺はひきつった笑みを返すしかなかった。
さすがに、飯を食い終わるまで待て、というのは気の毒だと思ったのか。
キットンとクレイで先に俺達に飯を運んできた後、改めて猪鹿亭へと出かけて行った。
にこにこ笑うパステルからあからさまに目を背けてやがったからな……こりゃ、当分帰ってこねえかもしれねえな。
「ほれ。さっさと食え」
「うん! とりゃっぷ、これ、おいしいー!」
「ああーそうかよ。良かったな」
ぐちゃぐちゃとスプーンで飯をかきまわすパステルに、できる限り視線を向けねえようにして飯をかきこむ。
せめて。
せめて、身体まで幼児化してくれていたらっ……
そっちの方が余計に大事だろ、と理性がつぶやくが、それでもそっちの方がまだマシだった。
身体が大人なだけに……いつもと全く変わらねえパステルなだけに、そのギャップについていけねえ。
はああ〜〜、と皿を置いたとき、ぎゅっ、と腕をつかまれる。
「……あんだ?」
「とりゃっぷ、どこか、いたいのお?」
きょとん、と俺を見上げるパステルの顔は、どこまでも無邪気だ。
その顔にべったべたにソースをつけていたりしなければ、その場で押し倒してやりたいと思ったかもしれねえ。それくらい無防備な笑み。
……この状態でパステルを抱いたとして。それでも俺は変態、と呼ばれることになるんだろうか。
何だかそんなどうでもいいことが頭をかけめぐる。
「別にっ。おら、おめえさっさと飯食えっ」
まだ中身が半分以上残った皿をつきつけると、パステルは悲しそうに目を伏せて首を振った。
「もう、いらない……」
「あんだよ。嫌いなもんでもあったか?」
ひょいひょいっ、と皿からいくつか失敬して自分の口に放り込む。
……うめえけどな。パステルに、特に好き嫌いは無かったような気がすんだが。
「あのね、とりゃっぷ……」
「ん?」
「おなか、いたいのお……」
「……は?」
言われた言葉に、一瞬動きを止める。
腹? ……食いすぎ?
「大丈夫か? どこが痛えんだよ」
「ここお……いたい、いたいよお……」
ぎゅっ、と下腹部をおさえて、ぼろぼろと涙をこぼすパステル。
ああーもうっ! どこまでも世話の焼けるっ!!
「キットン……はいねえんだよなあ……しゃあねえな。トイレにでも行ってこいよっ」
「つれてってえ」
じいっ、と情けねえ顔で俺を見上げるパステルの顔は……
しつけえようだが、べたべたに汚れてなければかなり可愛かった。
うああ、理性が何か一瞬とびそうになった。それはやばいだろ俺!?
がしがしっ、とその顔をタオルで乱暴にこすって、無理やりひっぱり起こす。
「ったく! おめえは世話の焼ける奴だなっ!!」
「……ごめんなさい……いたい、いたい……」
しゅん、とうなだれられると、それ以上声を荒げるのも、いい年をした大人としてどうかと思う。
ったく。しゃあねえよな……
がばっ、とパステルの身体を抱き上げて、トイレへと連行する。
「ほれ、さっさとすませてこいって。まさか中に入れとは言わねえだろうな」
「ひ、ひとりで、できるもん!!」
そう言うと、鼻先でばたんっ、とドアが閉められた。
全く。何が困るって、恥じらいが全くねえのが困るんだよなあ。ガキにそれを要求したってしょうがねえんだけど……
俺が顔を覆ったそのときだった。
「やあああああああああああああああああああああああああああ!!?」
響いたのは、パステルの悲鳴。
な、何だっ!? 今度は何が起きたっ!?
「おい、どーした!?」
どんどん、とドアを叩くと、パステルは転がるように中から飛び出してきた。
「とりゃっぷ、とりゃっぷー!!」
「あんだよ、何があったんだ?」
「血! パンツに、血がついてるのー!!」
ぐいっ!! と目の前につきつけられたのは、白い布きれ。
それが何なのかを理解して、俺は鼻血を吹きそうになった。
「お、おまえっ……あ、あのなあっ!!」
「とりゃっぷ、こわい、なにこれえ? うわあああああああああん!!」
わあわあと泣き喚くパステル。その手に握り締められているのは、つまり、あいつの……
こ、こんなところ、人に見られたらどーすんだよっ!?
慌ててパステルの身体を担ぎ上げ、階段を駆け上る。
バンッ、と部屋に飛び込んで硬く鍵をかけ、ついでに窓もカーテンをひいておく。
…………
床に座らされてわあわあ泣いてるパステル。
手に握っているのは……つまり、下着。
すると、今のパステルは、スカートの下は……
いかんいかんいかーん!! 何考えてんだ俺はー!!
ぶんぶんぶんと頭を振り、ついでに壁にがんがんと叩きつける。
はあ、はあ。落ち着け俺。とりあえず、事態を把握しよう。
必死に息を整えて、せいいっぱい優しい顔で振り向く。
パステルは、相変わらずひっくひっくとしゃくりあげていたが、俺がしゃがみこむと、きょとん、と首をかしげた。
「とりゃっぷ……」
「あ、あのな、パステル。で、何だって? 何があったんだ?」
「うん。あのね、ぱすてる、おなか痛くてトイレいったの。そしたらね、パンツにね、血がついてたの」
そう言って、しょうこりもなく俺に手にした物体を見せようとする。
白い小さな布きれ。確かに、言われた通り、一部に赤い染みが広がっている。
……ああーそうか。腹が痛え、って言ってたのは、つまり……
「とりゃっぷ。ぱすてる、変? 病気? しんじゃうの?」
「……いや、死にはしねえけどよ……」
ガキ特有の突飛な考え。性質が悪いのは、パステルがそれを信じこんでることで……
ええっと、だな……何でっ、男の俺がこんなこと説明しなくちゃいけねえんだ!?
「あ、あのな、パステル……それは、何つーか、ええっと……おめえが、女だっつーしるしなんだよ」
「……しるし?」
「ああ。つまり、な……」
参った。何て説明すりゃあいいんだあ?
生理……っつーんだったか? そういや、月に何日か、パステルが腹おさえて苦しんでたが……やっぱ、あいつにもちゃんとこういうのは来てたんだな。
そんな当たり前のことに思わず感心してしまう。まあ当然なんだが、普段のパステルが、俺達男にそんなこと言うわけねえしな。
一応知識くれえは持ってる。学校でも習ったしな。
けどなっ……それを、どこまで言えばいいのやら……
「ええっとな、つまり……おめえの身体は、女になった、ってーことでな」
「ぱすてるは、女の子だよ?」
「だあら、そうじゃなくてな……」
がしがしと髪をかきむしる。
身体のメカニズムを詳しく教えてやったところで、現在三歳児程度の知能しかねえパステルに理解できるとも思えねえし……
「えっとな、それはな、赤ん坊を生めるようになった、っつー証拠なんだよ」
「あかちゃん?」
「そ。おめえらの身体はな、いつか赤ん坊を産むようにできてんだけどよ。その準備ができたぞーって身体が知らせてくれてる、っつーことなんだよ。だあら、別に病気でも何でもねえの」
「でも……おなか、いたいよ?」
「だあら……」
くっ。この俺が必死に知恵を絞って説明してやってるっつーのにっ! 素直に納得しろよ。
「えっとな、そうやって血が出ると、汚れるだろ?」
「うん。パンツ汚れちゃった」
「あーそうだな。そうなったら困るだろ? だあら、身体が『今から血が出るぞー』って教えてくれてんだよ」
「そうなの?」
上目遣いで見上げられて、俺はばっと目をそらした。
ちなみに思いっきり嘘だ。確か腹が痛くなるのは……何でだったかな。所詮俺には関係ねえことだから、と真面目に授業を聞いてなかったことがちと悔やまれる。
「そうなんだよ。だあら、おめえは病気でも何でもねえの。ええと、ちっと待ってろよ」
がさがさ、と勝手にパステルのカバンをあさる。
持ってるはずだよな? いくら貧乏だからって、こればっかりはけちるわけにはいくまい。
カバンの隅っこに隠すようにしまってあったポーチを引っ張り出す。
うし、これだな。
「ほれ。この綿みてえな奴な。これを……ええっと、血が出る場所につめとけば、下着汚れずにすむから」
「……どこ?」
「あ?」
「血がでてるの……どこ?」
「…………」
言われてぴっきーん、と凍りつく。
血が出てる場所……って。そりゃあ……
「わ、わかるだろ? 大体。自分でできるよなっ!?」
「わかんない……ねえ、とりゃっぷ……」
じいっ、とはしばみ色の目で俺を見上げて、パステルは本当の本当に無邪気な顔で言った。
「とりゃっぷが入れて」
「…………」
誰かっ……誰でもいいっ。
俺をこの場から逃がしてくれっ……
「ええっと……」
「……だめえ?」
じいっ、と俺を見る目が、今にも泣きそうなほど潤んでいる。
……そりゃあ、な。身体の関係まで発展してる俺達だ。
もちろん……見たことも触ったことも、ある。
え、遠慮っつーか、ためらうことは……ねえよな?
誰も聞いてはいねえが、一応弁解しとこう。
これは、決して決して俺が望んでやったことではない。パステルにやってくれと頼まれたから、仕方なくやってることだ! やましい気持ちなんか何一つねえ!!
想像だけでナニが反応しかけてるあたり、説得力がねえが。
震える手で、綿……のようなものをつかむ。当たり前だがこんなもん使うのは生まれて初めてだ。……つめるって……どうすりゃいいんだ……?
「ええっ……とな、パステル。い、入れてやるから足、開け」
「うん」
何のためらいもなく、ばっ、と俺の前で脚を開く。
短いスカートがまくれあがって、下着をつけてねえ「ソコ」がもろに目に飛び込んできた。
……神様、瞬間的に限界寸前まで反応した罪深い俺を裁いてください……
思わず存在すら信じてねえ神に懺悔してしまう。
こっ、これは……まさか、こんな日が来るとはっ……
がっくりとうなだれた俺の頭を、パステルがぽん、と叩いた。
「とりゃっぷ? ……だいじょうぶ?」
「ああ、大丈夫だよ……」
ぶるぶると震える手で、パステルの膝をつかむ。
いいか、俺。今からやるのは、その……何つーか蓋の開いたびんに栓をする作業だと思え。そう思うんだ! やってることは大差ねえ!!
目をそらせねえから必死に自分に言い聞かせて、そっと手を伸ばしたときだった。
「ねえー、とりゃっぷ」
びくっ!!
耳元で囁かれて、思わず手が止まる。
そもそもパステルが頼んできたんだからして、俺がやましく思う理由なんか何もねえはずだが……理性はそう告げてても、感情がそれに追いつかねえ。
「とりゃっぷ。あのね、ぱすてるもね、あかちゃんがうめるからだになったんだよね?」
「……あ、ああ……」
な、何を言い出すつもりだ……?
激しく不安がつのる。パステルの声には、迷いっつーものが全くなかった。
素直に、自分の本心を告げている。だからこそ……性質が悪い。
「ねえ、あかちゃんって、どうやったらできるの?」
ぎしっ!!
きっと世の親達が、子供に聞かれて困る質問ベスト3に堂々ランクインするだろうこの質問。
まさか、自分の彼女からそんな質問を受けるとは……この俺も予想の範疇外だったぜ……
「あ、あのな……」
「あのね、わたし、あかちゃん欲しいー」
えへへ、と幸せそうに笑って、パステルは言った。
「あのね、あのね、ダイナの家にね、あかちゃんがうまれたんだよ。弟だってダイナ笑ってた。すっごくすっごくかわいかったんだよ? ねえとりゃっぷ。わたしも、あかちゃんほしいー」
「お……おめえ……」
ああ、この台詞を18歳の真っ当なパステルに聞かせてやりてえっ!!
叶わぬ望みだとわかっちゃいても、そう願わずにはいられなかった。
「あのなっ……パステル。赤ちゃん、ってのはな? ええっと……好きな男がいねえと作れねえんだよ」
俺にしては気のきいた台詞じゃなかろうか。自分で自分に拍手を送る。
「だあら、パステル一人じゃ、できねえっつーか……」
「好きな、男のひとお?」
「ああ」
そう言うと、パステルは満面の笑みを浮かべた。
「とりゃっぷは、あかちゃんがどうやったらできるか、知ってる?」
「……あ、ああ……まあ、な……」
俺がそう答えると。パステルは、俺にしがみついてきた。
「じゃあ、とりゃっぷー」
ぼとっ、と手に持っていた綿が落ちた。
「ぱ、パステル……?」
「とりゃっぷ。ぱすてる、とりゃっぷのこと好きだよ? だから、あかちゃん作って」
どっかーん
頭の中で、理性という名の何かが爆発する音を、俺は確かに聞いた。
説得力も何もねえが一応言っておこう。
俺には……俺には、断じて、幼児を抱くという危ない趣味は、ねえっ!!
いくらそう言ったところで、目の前の状況が変わるわけじゃねえんだが。
ベッドに寝転んでいるパステルと、その上にのしかかっている俺。
もう一度確認する。ドアの鍵はかけた。カーテンもひいた。クレイ達はまだ猪鹿亭から戻ってきてねえ。
「とりゃっぷ……?」
「赤ちゃんが、どうやってできるか……な。教えてほしいか?」
「うん!」
即座に答えるパステルに、微笑みかける。自分でもわかるが、相当に邪悪な笑みだったはずだ。
ぐいっ、と顎をつかみあげて、その唇を自分のそれで塞ぐ。
「んんっ……?」
舌をこじいれる。上あごをくすぐるようにして奥まで侵入し、怯えてちぢこまるパステルの舌を無理やりからめとる。
パステルは、最初かなり戸惑っていたようだったが……しばらく行為に没頭していると、やがて、おずおずと俺の動きに合わせて来た。
……素直だ……元のパステルだったら、照れて自分から動くなんて滅多にしねえもんな……
「うーっ……」
相当に息苦しかったんだろう。唇を解放すると、パステルは真っ赤な顔で、大きく息を吸い込んだ。
「とりゃっぷ?」
「赤ちゃんを作るときってのはな……まず、こうして……」
ぐいっ、とセーターをめくりあげる。
背中に手をまわしてブラジャーをはぎとると、貧相ではあるが柔らかそうな胸が、あらわになった。
そっと手をあてがう。ふにっ、という弾力が、押し返してきた。
「ふわあっ……」
「こうして、まず身体をほぐしてやんなきゃ、いけねえんだよ」
「ほぐ……す?」
返される言葉に返事もせず、その胸を力を入れすぎねえようにしてもみしだく。
最初は柔らかかった先端部分がすぐに硬く尖って、そして白かった肌にわずかに赤みがさした。
「にゃあっ……や、あ、やあんっ……」
「きもちいいか?」
「…………」
俺の質問に、こくん、と素直に頷く。……子供だから。恥じらいがねえから。だから、素直に反応する。
ああ……これは、これでまた……
世間一般で言うところの「変態」と呼ばれる人種の気持ちが、少しはわかった。いや、わかりたくはなかったんだが。
すっかり硬くなった部分を口に含み、甘がみをしながら手を背中にまわす。
そうやって何度も何度も手を往復させると、パステルの息が、どんどん荒くなっていった。
「や、あ、はあっ……んっ……」
「…………」
胸を解放して、肩と首筋に強く吸い付く。
みるみるうちに赤い痕が浮かび上がってきた。普段のパステルなら、「服を着るとき困る」と文句を言うところだが……今のパステルには、そんな知恵はまわらない。
だから好きなように動けた。あいつが嫌がる行為も、恥ずかしがって見せてくれないポーズも、今なら俺の思いのままだ。
「欲しいか? 赤ん坊」
「うん……」
はあっ、と大きく息を吐くパステルの顔は、既に真っ赤になっていて、目にはこぼれそうなほどに涙をたたえていて。
「じゃあ、な」
細い手首をつかむ。十分すぎるほどに反応しきったナニを、その手に握らせる。
「俺の方の準備も、手伝ってくれよ」
「……じゅんび?」
「動かしてみろ」
言われた意味がわからねえのか、パステルはしばらくぽかんとしていたが。
つかんだ手首を上下に動かすと、やっとわかったのか。いかにも不器用な動きで、しごき始めた。
「っ……うあっ……」
「とりゃっぷ……これ、なにい?」
「何って……ナニだよ」
「…………?」
わからなくてもいいっつーの。言われた通りにしてれば、それでいい。
パステルの手の中で、俺のナニはあっさりと欲望を爆発させた。突然飛び散った液体に、パステルはびっくりしたようだが……
「とりゃっぷ……」
「怖がるこたあ、ねえよ」
手や顔を白く汚したパステルの身体を、ぎゅっと抱きしめる。
「準備……つったろ? 同じことをな、口で……やってくれっか?」
「くち?」
「そう」
一度は萎えたというのに。その光景を想像しただけで勢いを取り戻す自分自身を、苦笑しつつ見つめる。
若いって証拠だよなあ……
どうしようもない快感。パステルを抱いたことは何度もあるが……こんだけ自由に抱けたのは、初めてだから。
罪悪感がねえわけじゃねえ。だけど……
許してくれよ? そのかわり……おめえも、後でいくらでも気持ちよくさせてやっから。
俺に言われたとおり、パステルは、おずおずとナニを口にくわえた。
歯を立てたらいけねえ、と、それだけは直感でわかったのか。ぺろり、と遠慮がちに舌を使ってくる。
下手したら、一瞬で再度爆発しそうなほどに……気持ちいい。
うあ……やべえ。元に戻ったとき、こいつぜってーこんなことしてくれねえだろうしなあ……
「も……いい……」
「とりゃっぷ?」
「俺の準備は……もう、いい」
さすがに、口の中で果てるのは……まずいだろ。泣かれたら面倒だしな。
顔をあげるパステルの身体を再び組み敷いて、ぐいっ、と脚を開かせる。
……うあ。血が出てんな……
生理中だ、ということを忘れてた。シーツが血まみれになってるのを見て、一瞬顔をしかめたが。
まあ……何とかなるだろ。
構わねえことに決めて、既に血で汚れたそこに指をこじいれる。
「やあああっ!?」
「おめえの、準備。これが最後だからな」
「じゅんび……?」
「ああ。もうすぐ終わるぜ? 赤ちゃんを作るのが」
生理中、っつーことは。
つまり……中で出しても大丈夫、ってことだよな?
指をかきまわすと、中から血と一緒に明らかにねばっこい何かがあふれ出してきた。
いつもよりやけに反応がいいのは……やっぱ、時期が時期だから、か?
赤く汚れた手で、肩をつかむ。パステルの目は、不安そうだった。
「いたくない?」
「大丈夫だろ……おめえ、こんだけ反応してるし」
そう言って笑うと、パステルは安心したように微笑んだ。
予告通り。
貫いても、抵抗は何もなく……パステルも泣くこともなく。
律動を開始すると、その動きに合わせて、唇から派手なあえぎ声が漏れ始めた。
「やあっ……と、とりゃっ……あ、はあんっ……やあっ……」
「……うわっ、いいっ……」
ぎゅうっ、と締め付けられて、思わず声が漏れる。
いつもより……何か、いいっ……何でだっ……?
生理中、だからなのか……?
「あ、うっ……やあっ……と、とりゃっぷ……と、とらっ……」
「やっぱ……中身は子供でも、身体は大人だよなっ……」
その言葉に特に意味なんざなかったが。
それを聞いたパステルの目が、大きく見開かれたのは……何でなんだろう?
けど、限界が近づいていた俺は、それを考える余裕もなく。
がしっ、と両肩をつかむ。その唇を無理やり塞ぐ。
より深く繋がったその瞬間、俺は、パステルの中で、呆気なく果てていた。
……はあっ……
気が抜けて動く気にもなれねえ。中途半端に繋がった状態で、俺はしばらく、パステルの上にもたれかかっていた。
何つーか……いつもに比べて、すっげえ良かった……
「……トラップ」
「あ……?」
耳元で囁かれて、視線をあげる。
パステルの目が、俺をじっと見つめていた。その目に浮かんでいるのは、困惑。
……え?
「パステル……?」
「トラップ……何、してるの……?」
さっきまでのろれつの怪しい口調とは違う。
はっきりと理性の混じった声で、パステルは、言った。
元に戻った。
きっかけは、単純。ようするに、「自分は子供じゃない。もう大人だ」とわからせてやればいい。
後になってのキットンの見解がそれだったが。
まあ、それはともかく、だ。
幼児に戻っていたときの記憶は、全く残ってねえらしい。
血まみれのシーツと、俺の手と、その他色んな状況を見て、まずパステルがしたことは……
悲鳴をあげることだった。
「な、な、な、何よこれっ……どういうことよトラップ!? ひ、ひどい……」
「ま、待てっ……これは、な。誤解……そう、誤解だ!」
「何が……誤解なのようっ!!」
じわっ、と目に涙まで浮かべて抗議してくる。
しまった。怒り狂ってやがる……
「もう……最低! 出てって――!!」
それから、起こったことを全部説明して、自分から望んだことだ、とパステルを納得させるまで。
俺はおよそ二週間ほどパステルに口をきいてもらえず、もちろん、手も触れさせてもらえなかったことは、言うまでもない……
完結です
すいません、もっと正確な名称とかばりばりに出せればよかったんですが
わたしにはこれがせいいっぱいでした。未熟者ー
保健体育の教科書引っ張り出して勉強しなおしに逝ってきます
98 :
名無しさん@ピンキー:03/11/05 15:48 ID:Ougur129
性教育編、もう笑いました、特に最後の「誤解……そう、誤解だ!」の所
思わず(どんな誤解だ)と突っ込んだ。楽しませてもらいました!
ちなみにリタの相手、残りの男ドモを考えてみたけど…
ギア(まあ、無いな)ダンシング・シミター(これも無さそう)トマス(まだ使えそう)
トマスの仲間(100%無い奴も居るけど)クレイの兄貴達(これこそどうするんだ)JB(絶対無い)
リチャード(カエルだ)謎のフード男(強姦物なら使えそう)
だいたいこんなもんか、あまり使えそうな奴居ないな………
性教育編久々のエロエロ路線がいいっす!
何も知らないパステルがおフェラ…ハァハァ
でも、生理中だと中田氏でだいじょぶなの?>トラップ
ちょっと突っ込みをば。
>>99 >生理中だと中田氏でだいじょぶなの?>トラップ
駄目です。タイミングにもよりますけど、妊娠の可能性はあります。
排卵の前後1週間は注意が必要です。
しかも一回出たものを逆流させることにもなり、不潔なので、避けたほうがいいです。
エロパロ板で保健体育語ってすみません。
吊って来ます…
>>100 え? 排卵日っていうのは生理からおよそ二週間後だで、生理っておよそ一ヶ月周期ですよね
生理中っていうのはつまりその排卵前後一週間から完全に外れてません?
生理=不要になった卵子および胎盤その他を排出すること、だから、生理中っていうのはある意味一番の安全日だと思ってました……
いえ、不潔なのは否定しませんけどね。
まあいくらか知識に間違いがあっても、男であるトラップがそんな正確な知識を持っていなかったんだ、ということでスルーしてください。いえお願いします。
生理中にいたすと、男はどうか知りませんが女は痛いんですよね……
性教育編面白かったです。
雰囲気がアホっぽくて(いい意味で)、笑いました。
ダークも好きだけどこんなのも(・∀・)イイ!!です。
>>102 排卵は生理開始から2週間後ってのは正解です。
生理開始日から2週間なので、生理終了後は大変危険。世に言う危険日はこのへん。
でも生理中でも排卵のタイミングやなんやかやで妊娠することはもちろんあります。
精子は長いと1週間以上死なないので。データ上では12日とか?
生理中にすると男の人はびっくりするみたいですね。半端なくでるから…
生理中最高っていうひとも知り合いにいますけど、どうなんでしょう。よくわかりません。
まあでも凄くおもしろかったので気にしないで下さい。
>>104 あれ?最初の2行がとんでる…
何でだろう…
まあ、いいか。生理中の話なんてぐぐればわかるし。
中田氏は生理中は避けたほうがいいという話なだけだし。
スレ汚しスマソ
そういえば生理中でも妊娠するよって習ったなあ、懐かしいわ。
生理中は安全って俗説はあるから、トラップがそれ信じてても
おかしくないし、読んでて特に不自然とは思いませんでしたよ。
大いに笑わせていただきました。有難うございます>トラパス作者さん
>感想くれた方々
ありがとうございます。
こういう明るいエロ話は書きやすいです(正確に言えば暴走トラップが書きやすいです)
また思いついたらこういう話、書きたいと思います。
新作です。パラレル学園編第二話。
注意
・エロ少な目。
・学園編の割には学園が出てきません
・時期はずれなことに作中の季節は8月になってます。
男の人の中には、愛が無くても抱ける人がいるらしい。
わたしには、きっとその気持ちが一生わからないと思う。
女の子はそうじゃない。好きでもない相手に抱かれるなんて、死んでも嫌だ……きっと、普通の子ならそう思う。
それでも、例え心では拒否していても。
力づくで抱かれそうになったとき、身体が反応してしまうことが……たまらなく辛かった。
わたしは汚れているんじゃないか、本気でそう思った。
きっと、だから。
だからわたしは身体をなかなか許せないんだと思う。
許したつもりになっていた。本当に好きな相手になら、抱かれてもいいと思った。
思っていても、きっと、いざとなったら……
今まで色々な邪魔が入ったことを、心の奥底ではホッとしている自分に気づいたから。
それを言わないのは卑怯だと思った。相手に失望だけ与えて、自分は安堵しているなんて、そんなのは相手に失礼だと思った。
だから、わたしははっきり言ったのだ。
しばらく、身体の関係を迫るのは、やめて欲しいと。
もっとも、彼がそれをわかってくれたかどうか……いまひとつ、自信が無いのだけれど。
夏だった。
窓の外は物凄くいい天気で、容赦なく強い日差しが入り込んできて。
とにかく……すっごく暑かった。
「……あっつ〜〜い……」
髪はきりりとポニーテールに結い上げて、着ているのはTシャツとミニスカートで。
もうこれ以上涼しい格好をしようと思ったら、裸になるしかない。それだけ薄着をしているのに、汗は容赦なく全身をつたっていた。
「ううう……」
ベッドに横たわったまま、ちらり、と備え付けてあるクーラーを見上げる。
今日の気温は、軽く35度は行くって天気予報で言ってた。普段は、電気代を気にしてエアコンの類はあまりつけないようにしてるんだけど……これだけ暑いんだもん。つけてもいいよね?
そう思って、リモコンに手を伸ばしたのは30分くらい前のことだった。
そして、うんともすんとも言わないクーラーに絶望したのは29分前。
どうしてっ……こんなときに、故障なんかするかなあっ……
はああ。ため息しか漏れない。
間の悪いことに、わたしの部屋は物凄く日あたりがいい。それは、冬場は喜ぶべきところなんだけど……夏場はただうらめしいだけだった。
「あーっ! もう無理っ! 限界っ!」
がばっ、と身を起こす。
居間にもクーラーはあるもん。そこで涼もう。ついでに、電気屋さんに電話して修理に来てもらおう。そうしよう。
「夏は嫌いじゃないけど……はあ。この暑さだけは、どうにかならないかなあ」
暑くなきゃ夏じゃねえだろ……同居人が言い出しそうなツッコミが浮かんで、思わず笑ってしまう。
読みかけの小説を抱えて、わたしは部屋を出た。
そのとき。
バタンッ
全く同時に、隣の部屋のドアが開いた。
「あ、トラップ」
「んあ? ……どーした?」
出てきたのは、トラップ。
本名ステア・ブーツ。両親が亡くなったわたしを引き取ってくれた一家の息子さんで、わたしの恋人でもある人。
鮮やかな赤毛と綺麗に引き締まった身体。頭も良ければ運動神経もよく、ただし口は悪い、そんな人。
トラップの両親は仕事の関係でほとんど外国暮らしをしているので、わたしとトラップは実質同棲状態、だったりするんだけど……実際恋人同士でもあるんだけど……まあ、色々あって、今のところは健全な関係を保っていたり、する。
まあそれはともかく。
トラップは、白いTシャツにハーフパンツという格好だった。人一倍暑さには弱いはずだけど、その顔には汗一つ浮いていない。
……さては。
どんっ、とトラップを押しのけるようにして、彼の部屋に入る。
……す、涼しいっ!!
「あ、あんだよおめえ、突然……」
「トラップ! しばらく部屋にいさせてー!!」
「……は?」
トラップの部屋は、わたしの部屋とほぼ同じ広さで作りも同じ。もちろん、きっちりエアコンも完備されている。
ほどよく冷えた部屋。びっしょりかいていた汗が、一気にひいていく。
き、気持ちいいっ……
「おい、おめえ自分の部屋にだってクーラーあるだろ?」
「だって、壊れちゃったみたいなんだもん! ううーいい気持ちっ」
思わずトラップのベッドにごろごろ寝転がってしまう。
冬場にほどよくあったまった部屋でもそうだけど。どうして人ってこういうとき、寝転がりたくなるんだろう?
そんなわたしを見て、トラップははあ〜〜っとため息をついていたけど、それ以上文句は言わなかった。
そのまま部屋の外に出ていって、そしてそのまま戻ってこない。
……どこ行ったんだろ? まあいっか。部屋、借りてもいいってことだよね?
夏用毛布をお腹のあたりにかけて、わたしは読みかけていた本をゆっくり読むことにした。
頬をなでていく冷たい風がすごくすごく気持ちいい。
最近、夜も暑くてあんまり寝れないからなあ……
ふわあっ、とあくびが漏れる。本はとっても面白いんだけど、いまいち内容が頭に入ってこない。
……眠い。ちょっとだけ、寝ちゃおうかな?
トラップはまだ戻って来ない。どこか、外に出かけたのかもしれない。
ってことは、しばらく、ベッド使ってもいいってことだよね?
ぼすん、と枕に頭を埋めると、微かにシャンプーの匂いがした。
……トラップの匂い、だあ……
何だか、トラップに包まれてるような感じ。えへへ……いい、気持ちい……
そのまま、わたしは眠気に身を委ねていた。
目が覚めたのは、肩にかかる重みだった。
ぱちん、と目を開ける。そして……
ほんの数センチしか離れていない場所にトラップの顔があるのを見て、かちーんと固まってしまった。。
なっ、なっ、なっ……
ぼひゅんっ、と顔に血が集まるのがわかった。なっ、何がっ……
きょろきょろ見回すと、既に窓の外は夕焼けだった。思ったよりも長く寝ちゃったらしい。
そして、わたしがいるのは……トラップの部屋。寝ていたのも、トラップのベッド。
ええっと、つまり……
わたしの隣に、トラップが寝ていた。肩に置かれているのは、トラップの手。
そして、目の前の彼は、規則正しい寝息をたてて目を閉じていて……つまりは、寝ていた。
ええっと……
これは、つまり……どこかに出かけていたトラップが戻ってきて、でもベッドが塞がっていて。
でも彼も昼寝がしたかった。だからわたしの隣で寝た……ってことだよね?
「〜〜〜〜〜〜っ!!」
反射的に視線を下に向ける。だ、大丈夫。ちゃんと服も着てるし、お腹のあたりにかけていた毛布もそのまま。べ、別に何かされた……ってことは、ないみたい。
ホッとしたのと、ちょっと残念だなって思う気持ちがからみあって、何だか複雑な気分になる。
恋人同士だけど、わたし達は、まだキス……以上の関係にはなっていない。
寸前までは行ったけど、大体いつも何だかんだと邪魔が入って……トラップは、それがすごく不満みたいなんだけど。
でも、わたしとしては……何だろう? その、「身体の関係を結ぶ」ことに関して、変なこだわりがあったりトラウマがあったりするので、そのことにちょっとホッとしてるんだけど。
もし寝てるときに迫られたら、多分凄くショックを受けただろうと思う。
けれど、全然手を出されないのも……「わたしって魅力無い?」なんていう悲しい疑問が浮かんでしまう。
ああっ、もう……どうして人の心って、こんなに複雑なんだろうっ!?
あー、うー……とうなっていると。
ぐいっ、と肩を引き寄せられた。
あっ、と思ったときには、もう唇を塞がれていた。
「……うっせえ」
ボソリ、と囁いたのは、不機嫌そうなトラップの声。
「俺はまだ眠いんだよ……」
そう言って、ぎゅーっとわたしを抱きしめて……そして、そのまままた目を閉じてしまう。
「…………」
離して、って言おうかとも思ったけれど。夕方になって少しクーラーききすぎかな? と思う部屋の中では、トラップの身体はとても暖かくて……気持ちよかった。
まあ、いっか。
トラップの胸に頭をもたせかけて、わたしも目を閉じることにした。
ちょっと前の彼なら、こんなとき、手は服の下にもぐりこもうとしていただろうから。
それをしようとしないだけ……この間のわたしの言葉、ちゃんと考えてくれてるんだとわかったから。
だから、これくらいは、許してあげないとね。
トラップの腕に包まれているうちに、何だかまた眠たくなってきて、わたしは素直に目を閉じることにした。
と、そうやってちょっと気を許すと。
つけあがるのがトラップだとは、わかっていたのだけれど……
次に目を覚ましたとき、部屋の中はもう暗かった。時計を見ると、五時間近く寝ていたみたい。
うわあっ、夕食の準備っ!
慌てて起き上がろうとすると……ぎゅっ、と、トラップの腕に力がこもった。
「ちょ、ちょっと……」
「…………」
「お、起きてるんでしょ!? ほら、わたし夕ご飯の準備しなくちゃいけないからっ……」
「後でいい」
ぎゅうっ、と苦しいくらいに抱きしめられて、一瞬息がつまった。
「ちょっ……」
「この状態で我慢しろってのは……おめえ、そりゃ無理な話だろ」
「ちょっと!」
ぐるんっ、と体勢がひっくり返された。
ぼすん、と仰向けになり、視線をあげれば……わたしの上にうつぶせになってるトラップの視線とぶつかる。
「ちょっと……やだってば……」
「おめえ、人のベッド占領しといて……そういうこと言うかあ?」
首筋に顔を埋めるようにして、囁かれる。
吐息が直接触れて、一瞬背筋がぞくりとした。
「もうっ……やっ……」
「いいじゃん。ベッドのレンタル料ってことで」
「やだっ、安いっ!!」
ああっ、違う。つっこむところはそこじゃないのにっ……
頭の中がぐるぐるパニック状態になって、言葉がうまく出てこない。
Tシャツの中にもぐりこんでくる手は、何だか冷たかった。
つけっぱなしのクーラー。すっかり冷えてしまった部屋。
逃げたいけど逃げられない。逃げたくないような気もする。
どどど、どうしよう、どうしようどうしようっ……
「やだってば……」
言葉が段々弱くなっていくのが、自分でもわかった。
胸に刺激を感じて、びくりっ、と背筋がのけぞる。
「トラップっ……」
「寝てるとこ襲わなかっただけ、感謝しろよなあ……? あんだけ無防備な寝顔見せられて、おめえ俺がどんだけ辛かったと思ってんだ。言っとくがなあ、これでもかなり努力したんだぜ? そのごほうび」
勝手なことを言いながらも、トラップの手は止まらない。
「やあっ……」
も、駄目っ……理性を、保てないっ!!
するり、とスカートの中にもぐりこんでくる手。わたしが観念しかけた、そのときだった。
ぴろろろろろろろろろろ♪
「…………」
「…………」
とてもとても場違いな音に、わたしとトラップは同時に動きを止めた。
机の上でちかちか光って音を奏でているもの。トラップの携帯電話。
「ほらっ、電話っ……」
「…………」
「は、早く出た方がいいんじゃない?」
わたしが慌てて言うと、トラップは舌打ちして身体を起こした。
「今度から電源切っとくか」
そう言いながら、携帯電話を取り上げる。
あ、あ、あ危なかった……
ばくばく言う心臓を抑えていると。
小さな声で会話をしていたトラップが、ちょっとこっちを振り向いた。
「パステル。おめえ、浴衣持ってるか?」
「……へ?」
突然と言えば突然の言葉に、首を傾げる。
浴衣……浴衣ねえ。
多分あったはず。随分昔のだけど。
わたしがそう言うと、トラップは軽く頷いて電話に何か言っていた。
「誰?」
通話が終わった後。話しかけると、トラップはクローゼットに向かいながら言った。
「クレイから。何か、これから夏祭りに行かねえか、って」
「夏祭り!?」
思わぬ単語に、思わずベッドからとびおりる。
「そんなの、あるの?」
「ああ。近所の神社でな。行くか?」
「行く! 行く! 行きます!!」
な、なるほど。それで浴衣ね。
ううーっ、お祭り! この単語を聞いてわくわくしない人はいないでしょう!
「着替えてくるっ! ちょっと待っててねっ」
「早くしろよ。クレイとマリーナ、先に行ってるみてえだし」
トラップの声を聞きながら、わたしは慌てて自分の部屋に戻った。
何だか、さっきまであんな雰囲気だったのが信じられないんだけど。
ま、いいよね。わたし達らしくって!
タンスの中をひっかきまわして、大分昔に着たっきりの浴衣をひっぱりだす。
紺地に朝顔の花模様の、すっごくお気に入りの浴衣。
ちょっと不安だったけど、羽織ってみたら、幸いなことに不恰好なほど丈が短くなってるってことはなかった。
……この浴衣、お母さんが縫ってくれたんだよね。
中学生のとき。それまでの白い浴衣が急に子供っぽく思えて、どうしても紺色の浴衣が欲しいってねだって。
それで、お母さんが「しょうがないわね」って笑いながら、自分の浴衣をほどいて縫ってくれた……
うっ、駄目だ。思い出すと泣いちゃいそう。今から出かけるのに、それはまずいっ。
帰ってから……ゆっくり泣けばいいや。
そうしてしんみりと自分に言い聞かせたんだけど。
その直後、そんな感慨をふっとばすような重大なことに気づいてしまった。
……浴衣の帯って、どうやって結べばいいの……?
最後に浴衣を着たのは、確か中学三年生のとき……だったかな?
そのときは、ううん、それまでもずっと、お母さんに着せてもらっていたから……
え、ええとちょっと待って。は、羽織って、それから……
う、嘘ー!? どうしようっ……
びろーんと長い帯を手に、途方に暮れてしまう。
ど、どうやったら、あんなきれいなリボンの形になるの、これが!?
ああもう、クレイ達が待ってるのにー!!
途方に暮れてしまったけれど。いくら途方に暮れたって、帯が勝手に結ばれるわけもない。
……しょうがないや。普通の服で行こう。
そうわたしが諦めかけたときだった。
「おい。おめえまだ着替え終わんねえの?」
がちゃん
ノックもなく、突然ドアが開いてトラップが顔を覗かせた。
中途半端に浴衣を脱ぎかけた状態で、思わず固まってしまう。
トラップもトラップで、そんなわたしをじーっと見つめて……
「あ、わりい」
「わりい、じゃなーい!!」
ぶんっ!!
手近にあったカバンを投げつけたけど、そんなもの、トラップにとっては何の攻撃にもなりゃしない。
あっさりと避けられてしまう。ううっ、く、悔しいっ……
慌てて浴衣を羽織りなおす。もーっ、何でこう……みっともないとこばっかり見られるの!?
「の、ノックくらいしてよね!?」
「だあらわりいって言っただろーが。それよりとっとと着替えろよ。あにぐずぐずしてんだあ?」
「…………」
着替えられるものなら着替えたい。
「だからっ……着替えるから部屋出てってよ!」
「あんでだよ。後帯を結ぶだけだろー? あ、そーか。おめえ……」
出てって、の言葉は綺麗に無視して、トラップはニヤニヤ笑いながらわたしの顔を覗きこんだ。
「さては、一人で帯が結べねえんだろ?」
「…………」
くっ……当たってるから、言い返せないから、悔しいっ……
「そうよ……悪かったわねえっ! だから、普通の服に着替えるから出てって、って言ってるの!」
夏祭りって言ったら、普通は浴衣。
わたしだって着れるものなら着たかった。だけど、こればっかりはしょうがない。
ぎゅっ、と唇をかみしめてうつむくと、トラップが、ぽん、と肩を叩いた。
「後ろ向け」
「え?」
「いいから。後ろ向け!」
なっ、何……?
言われるままにくるりと背中を向けると、トラップの手が、後ろから伸びてきて……
「ば、バカバカっ! どこ触ってるのよエッチー!!」
「ああ!? おめえ、人がせっかく着付けをしてやろうとしてんのに、そういうこと言うか!?」
……え?
着付け。その言葉の意味を理解して、唖然としているうちに、トラップの手が、わたしの浴衣をきっちりと整えてくれて……
それからはあっという間だった。言われるままに腕の上げ下げをしてくるくると身体を回転させて、五分もしないうちに、帯は綺麗なリボン型に結ばれていた。
「と、トラップ……着付け、できるの?」
「母ちゃんの着付けよく手伝わされたからなー。自然に覚えた。第一、おめえ気づけよ。俺の格好」
「へ?」
言われて、そういえば……と初めて気づく。
トラップも、男物の浴衣姿になっていることに。
「自分で着たの?」
「他の誰が着せてくれるっつーんだよ。おら、行くぞ」
ぐいっ、と手を引かれる。
何だかね。トラップの手先が器用なことはよーく知っていたけど……
こ、この人にできないことっていうのは無いの!?
「パステル! こっちこっち!」
トラップが案内してくれた神社は、歩いて15分くらいの場所にあった。
すごい人通り。にぎやかな声とちょうちんの明かり、いっぱいに並ぶ屋台……
うわーっ、楽しそうっ! 知らなかった。こんなところが近所にあったなんて……
入り口付近で手を振ってくれているのはマリーナ。そのすぐ横でにこにこしながら立っているのはクレイ。
クレイって、背が高いからね。人ごみの中でも、頭一つ飛び出てて目立つんだ。
「マリーナ! クレイ! ごめーん遅くなって!」
「いいのよーこっちこそ突然呼び出してごめんねっ!!」
きゃあきゃあと手を取り合って叫ぶ。そんなわたし達を、クレイとトラップが苦笑しながら見つめているのがわかった。
いいじゃない、よく考えたら、夏休みに入ってからマリーナとは一度も会ってなかったんだから。
ああっ、でもでもっ……も、もしかして二人、デート中だったんじゃ!? い、いいのかな、わたしとトラップ、邪魔じゃないのかな?
「あ、変な気を使わないでよ?」
わたしの顔色を読んだのか、何も言わないうちに、マリーナが耳元で囁いた。
「せっかくのお祭りだもん。大勢で来た方が楽しいじゃない? それに、デートなら昼間のうちにたっぷり済ませたから」
「そ、そうなんだ……」
の、のろけられちゃった……いいなあ。羨ましい……
わたしとトラップなんてねえ……なまじっか同じ家に住んでるから、しょっちゅう二人っきりになってるせいで、かえってデートなんかしないんだよね。
特に、トラップは暑いのが嫌いみたいで、部屋の中でごろごろしてばっかりだし。
はああー、と思わずため息をついていると、ぐいっ、と腕をひっぱられた。
つかんでいるのは、トラップ。
「ちょっと……痛いんだけど……」
「ばあか、こんな人ごみではぐれられたら、捜すのが面倒だろーが。ほれ、行くぞ」
「わっ、ちょっとちょっと!?」
ぐいぐいひっぱられて思わずたたらを踏む。そんなわたし達を見て、マリーナとクレイが笑っているのが見えた。
み、見てないで助けてよー!!
わたがしにたこ焼きに焼きそば。金魚すくいに射的にスーパーボールすくい。
お祭りなんて、いつ以来かなあ……まわりの光景が、何だかすごく懐かしく見える。
「おっ、これうまい」
「こっちもー美味しいっ!」
クレイとマリーナは、二人で一つの焼きそばをつつきあっていた。二人とも美男美女だから、そんな光景ですらすっごく絵になっている。
で、わたし達はと言うと……
「よっ、ほっ、ほれっ」
「うわあー! 兄ちゃんすっげえー!」
「次! 次俺のもー! 俺のも取って!!」
金魚すくいの前で。トラップは、すっかり子供達のヒーローになっていた。
屋台のおじさんの顔が、すごーくひきつっている。
まあねえ……100円かそこらで、何匹も何匹も持ってかれちゃあね。商売あがったりでしょう……
浴衣の着付けができるくらいに手先の器用なトラップのこと。彼にかかれば、金魚すくいも射的もスーパーボールすくいも、ほんの子供だましみたい。
さっきからあちこちの屋台に顔を出しては、商品を根こそぎ持っていくもんだから、彼の行くところにはすっかり子供の人だかりができている。
で、またトラップが楽しそうなんだなー。満面の笑顔っていうのか。
トラップって、たまにすっごく大人っぽく見えるときもあるんだけど……こういう子供っぽい場面も、いっぱいあるんだよね。何だかつかみづらい人かもしれない。
「パステル、退屈そうね」
そんなわたしの様子に、マリーナが苦笑しながら話しかけてきた。
まあね。さっきからトラップは一人で楽しんでるから。そう見えるかもしれないけど。
「うーん……でも、まあ見てるだけでも面白いし。トラップのあんな姿、滅多に見れないもん」
「確かにねえ、意外だったわ。あいつって、あんなに子供好きだったの?」
思わず三人でひそひそと話し合ってしまう。
「ほれ、これでいいかあ?」
「兄ちゃんありがとー!」
「次、次あたしもー! あの金魚さん、とってー!」
「ようしまかせとけ!!」
ああ微笑ましい。ぎゅーっと浴衣をひっぱる四歳くらいの女の子に、嫌な顔一つ見せずにどの金魚がいいか聞いてるその姿。
何というか、娘のわがままを聞くのが楽しくってしょうがないお父さん、って感じ。
「あいつは、祭りになると昔っからああだったからなあ」
笑いながら言ったのはクレイだった。
「『屋台荒し』とか言って、祭りではすごく有名だったんだぜ? まあ、最近はあいつと祭りに行く機会も滅多になかったんだけど」
そう言って、クレイはわたしを優しい目で見てくれた。
「パステルを連れてってやりたいって言われてね……あ、これ、俺が言ったって内緒だぜ?」
「……え?」
唐突に言われた言葉に、ぽかんとしてしまう。
へ? な、何、それ?
「わたしを……?」
「ああ。何だか、せっかくここに引っ越してきたんだから……この街の楽しいところを、いっぱい教えてやりたいって。君が引っ越してきたすぐ後かな? そう言ってたんだ」
クレイは、笑いながら続けた。
「どうせ、あいつのことだから祭りの日付なんか忘れてるんじゃないかって思ったんだよなあ」
……この街の、楽しいところ……
そんなこと、考えてくれてたんだ。
どうしてクレイとマリーナが、デート中だったのにわざわざわたし達を呼び出してくれたのか。
その謎が解けて……わたしは、トラップに視線を戻した。
全く。
どうして……いつも意地悪なくせに。そうやって、わたしの気づかないようなところでばっかり、優しいのよ? これじゃあ、お礼も言えないじゃない。
「じゃ、楽しまなくちゃね」
「当たり前でしょ? お祭りなんだから!」
顔を見合わせて、三人で同時に吹き出す。
うん。楽しもう。
念に一度の夏祭りだもんね!
……ああ、それなのに。
何で……こんなことになってるんでしょう?
すっかり子供達のヒーローと化しているトラップはひとまず置いておいて。わたしとマリーナとクレイ、三人で一回りしてこようか? ってことになって。
トラップにその旨伝えて、歩き出したんだけど……
どうして……気が付いたら、わたし一人になってるわけ……?
「こ、ここどこお……?」
神社の境内。結構大きな神社だったらしく、その敷地は広い。
いたるところに似たような屋台がいっぱいあって、メインストリートから外れた場所まで人でいっぱいで。
気が付いたら、わたしはもう、自分がどっちから来たのかもわからなくなってしまっていた……
ああもうっ! 自分の方向音痴が情けないったら!!
人がいっぱいだから、はぐれないようにってあれだけ言われたのに!!
本当に、ほんのちょっとの間だったんだよね。綺麗なアクセサリーを売っている屋台があって、それにちょっと目を奪われて……それも、ほんの数秒だよ?
で、目を戻したら、クレイもマリーナもいないんだもんなあ……
ど、どうしよう。自力で見つけるのは……無理、だよね?
相変わらず人、人、人だらけの通りを見て、わたしは早々に、自力で合流することを諦めた。
前、トラップに怒られたんだよね。うろうろ歩き回るから余計に迷うんだって。はぐれたらその場所で大人しくしてろって。
よしっ、携帯で助けを呼ぼう! こんな人ごみだもん。意地張ってる場合じゃないし。
そうして、わたしは手に持っていたきんちゃく袋を開けたんだけど。
その中には、お財布しか入ってないことに気づいて、一気に青ざめてしまった。
そ、そういえば……こういう格好だから、普段のカバンじゃなくてきんちゃく袋にしようと思って……
お財布は、無いと困るものだもんね。ちゃんと入れ替えたけど……
け、携帯電話、家に置いてきちゃったー!!
急に不安になってくる。連絡手段が無いと、こんなに心細くなるなんて……
ど、どうしよう。どっちに行けばいいんだろう? きっとマリーナ達のことだもん。捜してくれてる……よね? はぐれたことに気づいてるよね!?
わたしがおろおろと周りを見回したときだった。
「おっ、お嬢さん、一人?」
「へ?」
ポン、と肩を叩かれて、思わず振り向く。
そこに立っていたのは、Tシャツにジーンズっていう特徴の無い格好をした、三人の男の子達。
多分、わたしと同い年くらいかな? どの子達もまあまあそれなりにかっこいいけど、あんまり特徴が無いせいで目をひくところは全然なかった。
「あ、あの……」
「一人? 良かったら、俺達と遊ばない?」
うちの一人が、馴れ馴れしく肩を抱いてくる。
こ、これって……もしかしなくても、ナンパ!?
「い、いえ、連れがいますから……」
「まあまあいいじゃん。連れったって、今お嬢さん一人に見えるけどー?」
「そうそう。こーんな可愛い子ほったらかしてるような奴やめてさ、俺達と遊ぼうぜ?」
「そっちの方が絶対楽しいって」
言いながら、男の子達はずるずるとわたしを引きずっていく。
な、何て強引な人達なの!?
「や、やめてくださいっ! 困りますってばっ!!」
振りほどこうとしたけれど、男の子達の力は強かった。そのまま、どんどん引きずられて……
う、嘘っ!? な、何でどんどん人通りが少なくなってくの!?
慌てて逃げようとしたけれど、両側からがしっ、と腕をつかまれてしまう。
こっ、怖い……誰か……トラップ!
「や、やだっ、やだってば!」
「おーい、怯えてるぜーこの子」
「かーわいいよなあ。な? 怖がることねえって」
男の子達はにやにや笑いながらそんなこと言ってきたけど。
む、無理に決まってるでしょう!? な、何するつもりなのよー!!
どん!
連れてこられたのは、すっかり人通りもなくなった神社の裏手。
大きな木に背中を預けるような形で、きっと顔をあげる。
三人の男の子達は、相変わらずすごーくにやにや笑ってて、わたしのまわりを取り囲んでて……
ま、負けないんだから!
「おーおーにらんでるぜ。怖いなー」
「まあまあ、可愛い顔が台無しだぜえ?」
「は、離してくださいってば!」
肩をつかんでくる手を、ばっと振り払う。
こ、こんな人達には負けないんだから! わ、わたしだって、やればっ……
ばしん
「あ……」
振り回した手が、勢いあまって、うち一人の頬に炸裂する。
そんなに力をこめたわけじゃなかった。けど、やけに大きな音が響いて……
頬を叩かれた男の子の表情が、変わった。
「痛いじゃねえか」
ぎゅっ
腕をつかまれる。その力は、強かった。
「お嬢さーん。調子に乗らねえ方がいいぜえ?」
「そうそ。俺達だってさ、できれば手荒なことしたくねえのよ」
じりっ、と詰め寄ってくる気配。
何だろう? さっきまでの、冗談っぽい、軽い空気が、綺麗に消えていた。
かわりに取り巻いているのは、妙に重苦しい……
どんっ!
「痛いっ!」
思いっきり肩をつきとばされる。木にしたたか身体を打って、悲鳴が漏れた。
だけど、男の子達はそんなことには全然構わず、浴衣の襟ぐりをつかんで力いっぱいひっぱった。
「きゃああああああああああああああああああ!!?」
「あんま胸はねえなあ……」
「いーじゃんいーじゃん。そういうロリっぽいとこがまたいいんだって」
「そうそ」
浴衣がはだけた。そこに遠慮なく手が伸びてくる。
肌に痛みが走るくらい荒っぽい手つきに、涙がにじんできた。
だっ、誰かあっ……
「や、やだっ!!」
「暴れるなっつーの! 怪我してえのかよっ!!」
「やだあっ!!」
だんっ!!
思いっきり足を踏み下ろした。
浴衣だから、下駄を履いていた。そして、男の子達は、素足にサンダルを履いていて……
「っ痛――!!」
正面にいた男の子がうずくまった。他の男の子がそれにひるんだ隙に、思いっきり手を振り回す。
……逃げられる!!
「ま、待ちやがれっ!!」
後ろから怒声が響いてくる中、わたしは全速力で駆け出した。
浴衣に下駄。およそ走るには向いてない格好だけど、そんなことに構ってられない。
とにかく……人通りの多いところにっ!!
ばたばたばたっ!!
足音が迫ってくる。に、逃げ切れないっ!!?
焦って足がもつれそうになった。足元が砂利だらけで走りにくかったから余計に。
「きゃあっ!?」
がくんっ!!
浴衣の裾を踏んで、こけそうになったその瞬間。
誰かの腕が、わたしの身体を抱きとめた。
……え?
ぐいっ!!
疑問に思う暇も無い。その誰かは、わたしの身体を抱えると、そのまま通りから外れた場所へと走り出して……
「おい、いねえぞ!?」
「ちっくしょー、逃げられた!!」
暗がりに引き込まれた瞬間、さっきの男の子達の声が、通り抜けて走り去っていった。
た、助かった……?
「あ、ありが……」
「あにやってんだよこんなとこで!!」
耳元で炸裂したのは、大体予想していた声だった。
こういうとき。わたしが困っているとき、絶対に助けに来てくれるのは……いつもこの人だった。
「と、トラップぅ……」
「ったく! おめえがいねえってマリーナとクレイが、焦って電話してくっから捜してみりゃあ……あんでこんなとこにいるんだよ!?」
トラップの声は、すっごく怒ってるみたいだった。彼の手とか腰には、金魚だスーパーボールだと色んなものがぶら下がっていて、多分楽しんでいるところを放り出して探しに来てくれたんだろうなーってことが、わかる。
「つ、連れてこられて……」
「さっきの奴らにか?」
「こ、怖かった。怖かったあ!!」
助かった、と実感して、段々と冷静になってきて。
自分がどれだけ危ないところだったかを理解して。その瞬間、両目からぶわっと涙が溢れてきた。
「お、おい!? おい、泣くなってば」
トラップが困ったように言ってきたけど、それに構ってもいられない。
わたしは、彼の浴衣にすがりついて、わんわんと子供のように泣きじゃくった。
どれくらい泣いていたのかわからないけれど。
あんなに怒っていたはずなのに。トラップは、何も言わず、泣きたいだけわたしを泣かせてくれた。
どうにか落ち着いて、ひっくひっくとしゃくりあげるような声しか出なくなったとき、ぽん、と頭に手が乗せられる。
「気いすんだかよ」
「……うん。ごめん、言うのが遅れちゃった。助けてくれて……ありがとう」
「そっか」
素っ気無いくらに短い言葉。だけど、トラップの目は優しかった。
優しくて……不安そうだった。
「な、何も無かったからっ……」
「…………」
「ちょ、ちょっと胸触られたけど……でも、嫌だって思ったから。絶対に嫌だって思ったから。だから、ちゃんと……逃げてきたから」
「見りゃあわかるって」
そこで、彼は気まずそうに目をそらした。
「その格好見れば」
「……え?」
はた、と自分の格好を見下ろす。
そして、思わず悲鳴をあげてしまった。
だ、だってっ……わ、わたしの格好って……
浴衣の前は完全にはだけて、足なんかもうむき出しで……本当に、「ただ肩から浴衣を羽織ってるだけ」に近い状態になってたのよ!?
全力疾走してたから、まあ当たり前といえば……当たり前なんだけど……
「や、やだっ、見ないで……」
「ああ……ったく。ほれ、直してやるから、後ろ向けよ」
「う、うん……」
トラップの手が、優しく肩にまわってきた。
さっきの男の子達の荒っぽい手つきとは、全然違う。
照れくさいのか、顔を真っ赤にしながら、それでもあっという間に浴衣を直してくれた。
「あ、ありがと……」
「ったく感謝しろよなあ? この俺の我慢強さに。目の前であーんな格好されて、それで手え出さずにいれる男なんて、そうはいねえぜ?」
そう言う彼の口調はすっごくぶっきらぼうだったけど。
でも、何となくわかった。
きっと、今手を出そうとしたら、わたしがすごく傷つくだろうってことをわかって……わたしがショックを受けていることをちゃんとわかって、何もしようとしないんだって。
トラップはそういう人だから。好き勝手なことばっかり言ってるみたいだけど、ちゃんとわたしのことを、わかっててくれてる人だから。
「ねえ、トラップ……」
「あんだよ」
「どうして、男の人って……好きでもない女の子を、抱けるんだろうね」
そう言うと、トラップはぎょっとしたように振り返った。
「お、おめえ、また何つーことを……」
「だってっ……適当にナンパした……初めて会った女の子に、どうしてこんなことができるの? わたし、やだって言ったのに。やめてって言ったのに、どうして……」
言っているうちに、また恐怖がよみがえってきた。せっかく止まった涙が、また溢れ出してくる。
トラップは、しばらく困ったように視線をさまよわせていたけれど……やがて、ぎゅっとわたしを抱きしめてくれた。
「まあ、男っつーのはなあ……独占欲っつーか、支配欲みてえなのがあるからなあ……」
「…………」
「嫌がる相手を、無理やり……っつーのにもえる奴とか。心と身体は完全別物っつーか……まあ、世の中には色んな奴がいるんだよ。女にだっているだろー? 金のために誰とでも寝る奴とかさ」
「…………」
こくん、と頷く。
それは、わたしには到底理解できないことだったけれど。そういう仕事が存在するってことくらいは、さすがに知ってる。
「まあな。人には色んな考えがあるから……その全部を理解しようったって、無理じゃねえ? だあらさ……」
ぎゅっ、と腕に力がこもる。
「大切な奴の考えだけわかってりゃ、いいんじゃねえ? 少なくとも、俺はそう思うぜ」
「……うん」
完全に納得できたわけじゃないけれど。
でも、トラップの言葉はとてももっともな気がした。
あんな人達の考えなんかわからなくてもいい。トラップの考えてることがわかればいい。
素直にそう思えた。だから、抱きしめられても、ちっとも嫌だって思わず……むしろ、嬉しかった。
そうして、わたしはしばらく、されるがままになってたんだけど……
「まあ……そうだな。おめえに浴衣を着せたのは、失敗だったな」
急に軽薄になった口調に、びびびっ、と警戒心が走る。
トラップがこういう言い方するときって……
「な、何で? 似合わなかった?」
「いやあ。すっげえよく似合ってるぜえ?」
顔をあげると、心底面白そうなトラップの視線とぶつかった。
「すっげえ色っぽい。ほれ、よく言うだろ?」
「……え?」
「和服は、幼児体型によく似合う、って」
…………!!
言われた意味を悟って、どかんっ、と頭に血が上る。
「と、トラップー!!」
「へへっ、怒ったあ? パステルちゃん」
「もーっ! せっかく、せっかく感心してたのにっ! バカー!!」
ぶんっ、と手を振り回すと、がしっ、と受け止められた。
そのまま、一気に唇を塞がれる。
「んっ……!?」
「訂正してやる」
ぱっ、と顔を離して、トラップは言った。
「おめえなんか身体目当てで抱く奴なんざいねえ、っつったけど……そういう格好してると、おめえは十分色っぽい」
「…………っ!!」
もうっ……知らないんだからっ。
ようやくマリーナ達と合流できたときには、もうお祭りも終わりに近い時間。
どんどん店じまいする屋台に、ため息が出る。
あーあ。何だか、あんまり買い物とかできなかったなあ。
「ごめんねえ、パステル。わたし達がぼーっとしてたせいで……」
「う、ううん、違うよー。ボーッとしてたのはわたし! わたしの方こそ、迷惑かけてごめんねー」
すまなそうな顔をするマリーナに、慌てて言った。
だって、マリーナとクレイってば、わたしがいなくなったことに気づいて、トラップに連絡入れた後もずーっと捜してくれてたんですって!
ううう、こちらこそ申し訳ない。せっかくのデートを台無しにしちゃって……
「でも……」
「本当、気にしないで。十分楽しかったし! それに……」
マリーナと、クレイと、そしてトラップ。三人の腕を、一気に抱え込む。
「お祭りは、また来年もあるし!」
来年も来ようね。そう言うと、三人は一斉に頷いてくれた。
すったもんだの夏の夜は、そんな風にして、終わろうとしていた……
家に帰りついたときは、もう夜の11時近かった。
「ふう。色々あったけど……楽しかった」
「そっか」
どさどさっ、と戦利品をテーブルの上において(金魚だけは、子供達に全部配ったみたいだけど)、トラップは大きく伸びをした。
そういえば、結局何だかんだでこの人が一番お祭りを楽しんだんだろうな。
まあ、いいんだけどね。
「ありがと、トラップ」
「ん?」
「すっごく、楽しかったよ。また、教えてね? この街の、楽しいところ」
そう言うと、トラップの顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。
「くっそ、クレイの奴……」なーんてぶつぶつ言ってたけど。
へへへ、本当に。ナンパは怖かったけど。でも……久しぶりに浴衣を着れて嬉しかったし、お祭りって、見てるだけでもすごくわくわくするもんね。
そう思ってにこにこしていたら、トラップは「けっ、不気味なんだよ」なーんて可愛くないことを言いながら、お風呂場へ行ってしまった。
本当、素直じゃないんだから。
一人にされてしまったので、仕方なく自分の部屋に戻る。夜とは言え、まだまだ気温は高い。閉め切った部屋は、すっごく蒸し暑かった。
「暑い……やだ、汗でべっとべと」
走ったりしたせいで、わたしは全身汗びっしょりだった。トラップがあがったら、すぐにお風呂入らなくちゃ。
無意識のうちにリモコンをつかんで、エアコンのスイッチを押していた。
すると……
フィーン……
微かな音とともに、涼しい風が流れてきた。
うーん、気持ちいい! ……って、あれ?
ばっと振り向く。何の問題もなく稼動しているエアコンが、目に入った。
……あれ? こ、壊れてたんじゃなかったっけ?
しばらくリモコンとエアコンの間で視線を往復させて……首をかしげて。
そのまま視線をずらして、そして納得した。
机の上に、一枚のレシートが置いてあった。
部屋のゴミ箱の中には、見慣れない袋が入っている。それは、近所の電気屋さんの袋で、中には電池の包み紙が一緒に捨ててあった。
リモコンの電池切れ。それが故障の正体。
そして、そうと気づいて電池を買ってきてくれたのは……
「全く……一言言ってくれれば、わたしだってベッドを借りたりしなかったのに」
レシートに記された金額だけ小銭を出して、思わずつぶやく。
置いてあるってことは、お金を返せ、ってことだよね?
優しいように見えて、ちゃっかりしてる。こういうところって、やっぱりトラップだよね。
「おい、風呂空いたぞ」
「はーい!」
レシートと小銭をトラップの部屋の机に置いたところで、一階から声が飛んできた。
さて、シャワーでも浴びて、さっぱりして。
そうして、冷たいアイスティーでも入れよう。もちろん、二人分ね。
今日は、一日中トラップのお世話になりっぱなしだったから!
階段に向かうと、ちょうどタオルを頭に被せたトラップが、上がってくるところだった。
「浴衣、クリーニングに出すから置いておいてね」
「ああ。タオルとか、全部出しといたぜ」
「へー? 珍しいね。ありがと」
そんな会話を交わしながら、お風呂場に向かう。
脱衣所には、確かに新しいタオルが出してあった。
珍しい。トラップがこんなことしてくれるなんて……
そんなことを思いながら、浴衣の帯に手をかけたとき。
タオルの上に、光を反射する何かが置いてあるのに気づいた。
「ん? 何だろ、これ?」
取り上げてみる。そこに置いてあったのは……
「……指輪?」
何だか見覚えがある。確か、マリーナ達とはぐれるきっかけになったアクセサリー屋さん。
そのお店で売っていた商品の一つに、よく似ている。
多分石はガラスだと思うけど、とてもそうは見えない、凝ったデザインで……
「……トラップってば」
さりげなく、リングの部分に「P to T」と彫ってあるのを見て、苦笑する。
一体、いつの間に買ったんだろう。彼のことだから、きっと「たまたま」とか言うんだろうけど。
きっと、これは……お詫びのつもりなんだと思う。
自分が別のことに夢中になって、わたしから目を離して、そしてわたしに怖い思いをさせたっていう、彼なりのお詫び。
「口で言えばいいのに。素直じゃないんだから」
指輪をそっとパジャマの上に乗せて、わたしは浴衣を脱いだ。
きっと、お風呂からあがってきたとき、わたしの指にはこの指輪がはまっているに違いない。
そう確信して、お風呂場の戸を開けた。
完結です
青臭いというか少女趣味なお話になってしまった。何故だろう……
夏休み編はここまで、次回より二学期に突入予定です。
体育祭と学園祭。世間では先に来るのはどっちなんでしょう(わたしの高校は二つまとめてやってたもので)
次は……パラレル悲恋シリーズ4のトラップ視点いくか
あるいは間に原作重視の作品挟むか
どっちか行きます。その後学園の3か悲恋の5か、探偵編の3も書きたいけど……
うーむ。要望の多そうな順番に書いていきます。
リロードが待ち遠しかった…やはりリアル更新はドキドキします。
作品が読めるのなら自分は満足です。
別スレ職人ですがFQで書くのは自分は無理かも…。
生き急ぐような投下ペースがちょっと心配。
次の作品も楽しみにしています。
132 :
名無しさん@ピンキー:03/11/06 21:03 ID:+Lnt65tA
生理中の性交でも妊娠の可能性はある。
でもトラップが知っているかどうかは別問題だから作品的にはいんでない?
トラパス作者様、お疲れさまです〜
ラスト付近のレシート云々で
>「優しいように見えて、ちゃっかりしてる。...」
照れ隠しだってば!って思わず心のなかでつっこんじゃいました(w
でも気が付かないところがパステルらしいですね
学園編のトラップ、頭はいいし、運動神経抜群、料理も上手くて、着付けまでできるなんて
すごいですよね〜! でもなにより、パステルの気持ちを気遣って、手出したくても
我慢するやさしさがホント素敵すぎです!
リクエストお願いしてよろしいでしょうか?
この学園編のトラップで、なにか欠点が暴露されるというのが読んでみたいです。
例えば、実はすごい音痴だとか、なぜかやたらイヌが怖いとか、どうしてもピーマンが食べられないとか(w
すみません、例えが悪すぎですね。学園編のトラップはほんと完璧にかっこいいので、
何かちょっと情けないような欠点があったら面白いんじゃないかって思ったので…。
トラパス作者様やスレ住人の皆さんはそんなトラップいやだって思われたなら
遠慮なくスルーして下さい。本当にワガママなリクエストですみません(汗
>>133 心を読まれたかと思いました!
実は書いていて、「トラップに欠点は無いんかい」と自分につっこんでいたんです(汗
何だか、最初はそんなつもりなかったのにどんどんどんどん完璧キャラになってしまって
原作でも、頭は悪くないと思うし運動神経は言うまでもないし手先も器用だし、と、学園編と設定は変わってないはずなのですが
どうしてここまで原作と違いが出たのか(←作者が未熟なせいかと思われます)
というわけで、次かその次か……とにかく、絶対いつかはトラップの弱点をストーリー上で出そう、と思っていました。
リクエストありがとうございます。全然わがままじゃないですよ。
いつも読んでくださって本当にありがとうございます!
トラパス作者さん、ペースがもの凄いけど大丈夫?
息切れしないかが心配。
>>135 元気です、はい。今は書くのが楽しくて仕方ない状況です。
心配してくださってありがとうございます!
新作です。
色々考えたのですが、とりあえず今日は原作重視な作品いきます。
注意点は……今回は
・舞台はコーベニアです
くらい、ですかね? 長さの割にはエロは少なめかもしれませんが……
「うーん……」
わたしの前には、二枚のチケットがある。
コーベニアにある一流ホテルの宿泊券、豪華お食事つきのペアチケット。
「ううーん……」
普通に考えたら、わたし達の経済状況では絶対に泊まれないような豪華ホテル。一度泊まってみたい、と思うし、海の幸をふんだんに使った自慢の料理! にもすごくすごく心惹かれる。
「うーん、うーん……」
「パステル、さっきからどうしたんだ?」
「あ、クレイ……」
わたしがうなっていると、ひょい、と顔を覗かせてきたのは、我がパーティーのリーダー、クレイ。
「うん。ちょっと困っちゃって……」
「どうしたんだ? 俺でよかったら相談に乗るけど」
うう、ありがとうね、クレイ。
わたしがこんなチケットを手に入れたのは、本当にただの偶然だった。
「おめでとうっ! 大当たり〜」
「えええ!?」
時間をほんのちょっと戻して、今日の昼過ぎのこと。
わたしは、ちょっとした買い物に出かけていた。
珍しいことに、この日一緒に行ってくれたのはトラップ。
「おめえ一人だと、まーた迷子になりそうだしなー」
「しっつれいね! いくら何でも、シルバーリーブでは……」
迷わない、と言い切れないのが、わたしの悲しいところだった。
いつもなら、こういうときはクレイが行ってくれるんだけど。わたしが出かける前に、ルーミィとシロちゃんを連れて散歩に出かけてたんだよね。
ノルとキットンは、裏で宿のおかみさんに頼まれて大工仕事をしてたし。
結構買うものもたくさんあるし。断られることを覚悟してトラップに頼んでみたら、意外や意外、あっさりとOKしてくれた、というわけなんだけど。
とにかく、そんなわけで、わたしとトラップは二人で買い物をしていた。
そうしたら、行く先々で、「くじびき補助券」をもらえたんだよね。
「今日はね、シルバーリーブができて、ちょうど100周年になる日なんだよ」
雑貨屋のおばさんがにこにこしながら話してくれたところによると、今日はシルバーリーブ全体をあげて色々なイベントを計画していて、その一つがくじびきなんだそうな。
もらった補助券をぜーんぶ合わせたら、ちょうど一回引けるだけたまったので、まあ「タオルでも当たればいいかな?」って思いながら引きにいってみると。
ななななーんと! 一等の豪華コーベニアペア宿泊券を手に入れてしまった! というわけなのだった。
「へー。おめえにしては、上出来じゃん」
とは、トラップの言葉だけど。
うーん、でもねえ……
はああ、とため息。
「あんだよ。嬉しくねえのか?」
「ううん、そりゃ、嬉しいけど。でも、ペアでしょ?」
これが、パーティー全員分なら、もう迷わず大喜びしたと思うけど……
「二人分だけもらっても、ねえ」
そう言うと、何故だかトラップはとっても不機嫌そうな顔で「けっ」とか言いながら一人でさっさと帰っちゃったんだけど。
とにかく、わたしが困っているのはそういうことで……
で、冒頭につながる、ということなのだ。
「ねえ、クレイ。どうしよう。こんな豪華ホテル、後四人分の宿泊料なんて絶対出せないと思うし……もったいないけど、誰かにあげちゃうか……換金してこようかなあ」
「パステル……それは、ちょっと」
わたしの意見に、クレイは苦笑いを浮かべて言った。
「いいじゃないか。くじをひいたのはパステルなんだろ? パステルは、行きたくないの?」
「ううん、そりゃ、行きたいけど」
そりゃあ、本音を言わせてもらえばすっごくすっごく行きたい。
コーベニアだから、海で泳ぐこともできるし。一流ホテルのベッドなんて、きっとすっごく寝心地がいいだろうし。
だけど、わたし……と一緒に行く誰か? だけ、そんな贅沢しちゃっていいのかなあ、って気分にもなる。
「第一、一緒に行く相手がねえ。これ、期間が限定されちゃってるから。みんな忙しいだろうし」
そう。もう一つの問題として、この宿泊券、いつでも使える! ってわけじゃないみたいで。
使えるのは、限定一日。どうやら、この日にコーベニアで何かイベントがあるみたいで、正確に言えばイベント宿泊券なんだよね。
どんなイベントか詳しくは書いてないけど、それにもすっごく興味がある。
だけどねえ……この日程、結構差し迫ってて……
わたしは多分大丈夫。原稿も受けてないし、今のところ何とかなると思うけど……
「クレイはこの日どう?」
「どれどれ……? あー、俺は駄目だな。バイトがある。もっとも、俺とパステルが出かけたら、後が怖いから無理だろうけど」
「ああ、それは確かに」
考えただけで恐ろしい! 帰ってきたときには、財布の中が空っぽになってるんじゃないだろうか?
トラップを止められるのは、わたしかクレイしかいないもんね。
「うーん……」
「でも、行きたいんだろ?」
「うん……」
行きたくなかったら、こんなに悩んでない。
そう言うと、クレイは笑って言った。
「ルーミィとシロとで行って来たら? シロなら、券がなくても泊まれるんじゃないかな」
「え……うん、でも、いいの?」
「いいっていいって」
そう言って、クレイは優しく肩を叩いてくれた。
「パステルだって、いつもいつも原稿に追われて大変みたいだし。たまには羽を伸ばしてきたらいいよ」
ううっ、ありがとう。ありがとうね、クレイ!
よーし! ルーミィとシロちゃんとわたしだけで出かけられるなんて、滅多に無い機会だもんね。
ぱーっと遊ぶぞお!
夕食のとき、その話をすると、ルーミィもシロちゃんも大喜びしてくれた。
ノルもキットンも、にこにこして「よかったですねえ」「楽しんでおいで」って言ってくれたしね。
ただ一人、トラップだけが「頼りねえ組み合わせだな。迷うなよ」なーんて可愛くないこと言ってたけど。
その表情が、相変わらず不機嫌だったのは……何でなんだろ?
ああ、もしかして、買い物に付き合ってもらったのに、お礼を言わなかったからかな?
だけど、あれはトラップが一人でさっさと帰っちゃうから言いそびれただけだし……
うーん。わかんない……けど、まあいっか。
コーベニアで何かお土産でも買ってきたら、きっと機嫌も直してもらえるでしょう!
ふふっ、海かあ。水着の用意、しなくちゃね!
そうして数日間、わたしはわくわくしながらその日を待っていたんだけど。
事情が突然変わったのは、出発前日のことだった。
「ルーミィ、明日は朝早いから、そろそろ寝ようね」
夕食の後、わたしはそう声をかけたんだけど。
何故か、いつもの元気な返事は、返ってこなかった。
「ルーミィ?」
「ぱーるぅ……なんか、暑いおう……」
「え?」
いつもの猪鹿亭で。隣の席に座っていたルーミィは、真っ赤な顔をして言った。
「ルーミィ!?」
いつもはぱっちり開いたブルーアイが、何だかとろんとしている。
つやつやほっぺが、りんごみたいに真っ赤。
ま、まさか!?
「どうした?」
「ルーミィ、熱があるみたい!」
その小さな額に手をあててみると、すっごく熱い。
嘘、こんなになるまで気づかなかったなんて……
「ルーミィ! ルーミィ大丈夫!?」
「あーパステル、ちょっとどいてください」
わたしがほとんどパニックになっていると、キットンがわたしを押しのけてルーミィを抱き上げた。
口の中を覗いたり、額に手を当てたりしてふんふんと頷いていたんだけど、もうその間、わたしは気が気じゃなくって!
「キットン! ルーミィは、ルーミィは大丈夫!?」
「ああー安心してください。ただの風邪ですよ。子供は熱が上がりやすいですからね。私の薬を飲んで2〜3日安静にしていれば、すぐに良くなるでしょう」
そう言って、キットンはぎゃっはっはと笑った。
もー! 何がおかしいのよっ!
「ごめんね、ルーミィ、気づかなくて。すぐに宿に戻ろうね!」
そうして、わたし達は慌ててみすず旅館に戻って。
キットン特製の薬を飲ませたり氷水を用意したりと大騒ぎだったんだけど。どうにかこうにか、熱も少し下がって、おとなしく寝付いてくれた。
「ルーミィしゃん、大丈夫デシか?」
そう言って、シロちゃんが枕元で診ててくれることになったんだけど。
はーっ、と一息ついたところで、わたしは重大なことを思い出した。
つまり……明日のコーベニア行きを、どうするか。
「チケットは、明日しか使えないんですよね?」
男部屋の方に集まって相談すると、真っ先に口を開いたのはキットンだった。
「うん。何だか、この日にイベントがあるみたいで……使えるのは一日だけなの」
「そうですか。ルーミィは、無理でしょうねえ。熱が下がったとしても、数日は安静にした方がいいでしょうし」
「当たり前よ! わたしだって……ルーミィの看病しなきゃいけないし」
すごく、すごく残念だけど。しょうがないよね、ルーミィの方が大事だもん。
「だから……残念だけど、チケットは諦める。それとも、誰か使う?」
そう言うと、部屋にいたクレイ、トラップ、キットンは、そろって目を見合わせた。
「行って来たらいいよ、パステル」
そう言ったのは、クレイだった。
「そうですよ。くじを当てたのはパステルなんでしょう? この機会を除いたら、我々がこんな一流ホテルに泊まれることなんてまず無いと思いますよ」
きっぱりとそう言い切ったのはキットン。ううう、その通りだと思うけどね。ちょっと情けない……
「だって、ルーミィが……」
「数日くらい、私が診てますよ。どうせ私は薬草の実験がしたかったので、宿にずっといますし」
「でも……これ、ペアチケットだし」
一人で使っちゃいけない、ってことはないんだろうけど。
そもそも、一人で行ったって寂しいだけだし……
すると、クレイが、ただ一人黙りこくっていたトラップの方を振り向いた。
「トラップ。お前は、今バイトしてなかったよな?」
「あ? あ、ああ」
その言葉に頷くトラップ。
何だろ? 何だかちょっとうろたえてるような……
「じゃあ、お前とパステルで行ってこいよ。お前なら、パステルが道に迷ってもすぐに見つけられるだろ?」
「ど、どーして迷うことが前提になってるのっ!?」
あんまりな言われようにわたしが声をあげると、男三人は一斉に「だって、パステルだし」なーんて言ってきた。
くっ、悔しいっ……もっと悔しいのはそれを否定できないところだけどっ……
それにしても。
「俺があ?」
「よく考えたら、パステルと買い物に行ったのお前だろ? お前にだってチケットの権利はあるんじゃないのか?」
その言葉に、わたしは何だか目からうろこが落ちた気分。
あ、そーだね。言われてみれば、そうだ。
もしかして、トラップが不機嫌だったのってそれ? わたしがすっかり自分だけのものみたいに考えてたから?
うわっ、悪いことしちゃったなあ。後で謝ろう。
「どうだ?」
クレイの言葉に、トラップはちらっとわたしを見てきたけど。
まあ、そうだね。確かに、ルーミィと行くよりは、トラップの方が安心できる。
それに、クレイはバイトだし。キットンは薬草の実験が〜なんて言ってていまいち不安だから、ノルにルーミィの世話を頼みたいし。
そう考えたら、トラップしかいないよね。
「行こうか?」
そう言うと、トラップはちょっとだけ黙った後、「しゃーねえな。行ってやるよ」なーんて相変わらずの素直じゃない言い方でOKしてくれた。
ふーんだ。見逃さなかったもんね。その顔がすんごく嬉しそうだったの。
コーベニアに行きたかったのかな? そりゃそうだよね。すっごく楽しそうだもん。
「じゃあ……ごめんね、クレイ、キットン。後のことは、よろしくね。お土産買ってくるから」
そう言うと、二人は快く頷いてくれた。
ごめんねー、ルーミィ。
またいつか、絶対に行こうね!
そのときは、こんな一流ホテルには泊まれないだろうけど……
乗り合い馬車に揺られること数日。
コーベニアの街は、相変わらずにぎやかだった。
「うわっ……いい天気ー!!」
コーベニアはすっかり夏。海はすっごく綺麗だったし、通りを並ぶお店では、冷たいジュースや果物がたくさん売られていた。
「トラップ、海! 泳ぎに行こっ!」
「おめえ、浮かれてんなあ……」
そう言い返してきたのは、今回の連れ、トラップ。
よく考えたら、二人だけで一泊旅行なんて初めてかもしれない。
うっ、そう考えたら、ちょっと緊張……
ちらっ、とその姿に目をやると、トラップはぼけーっ、と海を眺めていた。
その視線が追っているのは……
……コーベニアに行きたかったのって、まさかこれが見たかったから、じゃないでしょうね?
きわどい水着を身に着けて砂浜できゃあきゃあ遊んでいる綺麗な女の人達。悔しいけれど、皆さんすっごく美人でスタイルもいい。
……何だろ。何かすっごく悔しくなってきた。
「トラップ! ほらー、もう行くよ!」
「わあった、わあった」
ぐいっ、と腕をひっぱると、彼はいかにも仕方なさそうに視線をそらしたけれど。その表情はすんごく嬉しそう。
……別にいいもんね。トラップが何を見てようと、わたしには関係ないもん。
「えっと、まずはホテルに行こう! そこで着替えてから海に行って、その後、イベントを楽しんで……そういえば、イベントって何かなあ」
「さあ。夜になりゃわかるだろ? んじゃ、行くか」
ひょいっ、とわたしの鞄を持ち上げて、トラップは歩き出した。
……およよ? 珍しく優しいじゃん。
「雨でも降るんじゃないかなあ……」
「ああ? どーいう意味だよ。勘違いすんなよ? おめえに財布もたせたら、またすられそうだからな」
きーっ! な、何よその言い方っ!
た、確かにエベリンで一回そういうことがあったけどっ……
「し、しっつれいね! そんなことないもん!」
「ああ? んじゃー、ホテルまで一人で行けるか?」
言われてぐっ、と詰まってしまう。
そんなわたしを見て、トラップはへらへら笑いながら一人でさっさか歩いていってしまった。
ま、待ってよー!!
一流ホテル、の名にふさわしく。たどり着いたのはすんごく豪華で大きな建物だった。
案内された部屋も、眺めはいいし、ベッドはふかふかだし、広いし。
もう最高! だったんだけど……
「ひ、一部屋!?」
「はい。このチケットは、ツイン一部屋の宿泊券になりますので」
ボーイさんが案内してくれたのは、ベッドが二つならんだ部屋。
つまり……わたしとトラップは、同室?
「ま、そりゃーな。常識で考えりゃそうだろ。ペア宿泊券なんだから」
なんて言って、トラップは驚いた様子も無かったんだけど。
うーっ、そ、そりゃそうだけど。別に、トラップと同じ部屋で寝るなんて珍しくもないけど。
二人だけ……なんだよ? 今日は。
な、何だろう。何だか……ドキドキする。
「では、ご用があったらお呼びください」
なんて言いながら、ボーイさんは部屋を出て行って、わたしとトラップ二人だけになる。
そうすると、そのドキドキはますます大きくなって……
「パステル? おめえ、何か顔赤いぞ」
どきんっ!!
突然顔を覗き込まれて、心臓が痛いくらいにはねた。
「まさか、ここまで来てルーミィの風邪がうつった、とか言わねえだろうな?」
「そ、それはないっ、大丈夫。平気、平気
「そっか。ならいーけど。泳ぎに行くんじゃねえの?」
「行く! 行くわよもちろんっ!」
ふ、深く考えるのはやめよう。たった一日だし。
そうそう。せっかく来たんだもん。楽しまなくちゃ!
「じゃ、着替えるから部屋出てって」
「……ったく。誰も見ねえっつーの。そんなどこが胸だか背中だかわかんねえ身体なんか」
失礼なことをのたまうトラップに枕を投げつける。
そ、そりゃあ、あんたがさっき見とれてた女の人達ほど、綺麗でもスタイル良くもないですけどねえ!?
そんなこと、トラップには関係ないでしょ!!
海なんて滅多に来れないところ。
以前コーベニアに来たときだって、目的はクエストだから、のんびり泳いでる暇なんて無かった。
だからこそ、今日はゆっくり楽しむぞー!
「うわーっ! 綺麗っ! 風が気持ちいいっ!」
心地よい潮風の中、うーんとのびをすると、すっごい開放感に包まれた。
あー、ルーミィも連れてきてあげたかったなあ。
「おめえ、泳げるんだろうな? 頼むから海の中で迷うなよ」
「お、泳げるわよっ! しっつれいねー!」
確かに、得意な方とは言えないけど……
わたしが着てるのは、この日のためにちょっと奮発して買った(もっとも、古着だけどね)、ワンピースタイプの水着。
色はヒマワリ色で、派手にならない程度にさりげなく飾られたフリルがすっごく可愛いんだ!
トラップは、トランクスタイプというのか。やや大きめの緑の水着姿。
当たり前だけど、上半身は裸で……見たことないわけじゃないけど、こういう格好すると、細身に見えて筋肉はしっかりついてることがわかる。
……不覚にも一瞬見とれてしまった。ええい、何考えてるのよわたしってば! 相手はトラップなのよ、トラップ!
「うわっ、冷たいっ!」
照れ隠しにだーっ、と水辺につっこんでいって、思わず悲鳴をあげる。
コーベニアは夏の気候だったけど、海の水はちょっと冷ため。まあ、シルバーリーブでは秋だったもんね。当たり前なんだけど。
「ほらー! トラップも早く早く!」
「へえへえ。んなはしゃぐなよなあ。ガキかおめえは」
何よー! いいじゃない、楽しいんだからっ!
そんなこんなで、わたしとトラップは海をたーっぷり堪能することにした。
海ってね、何でだろう? すごく泳ぎやすい。
危ないからあんまり深いところまでは行けないんだけど、ただぷかぷか浮いてるだけでも、何だかすごーくほわんとした気分になれて。本当にいい気持ちなんだ!
ふう。本当に……ルーミィに見せてあげたかったなあ……
そうしてしばらく泳いでいたときのことだった。
「ねえ、あなた一人?」
かけられた声にふっと振り向くと、到着したときにも見た、きわどい水着のとっても綺麗な女の人達が数人、にこにこしながら話しかけていた。
わたしじゃなくて、その傍を泳いでいたトラップに。
「いんや。一応連れがいるけど」
「あら、可愛い。妹さん?」
トラップがわたしを指差すと、女の人達は笑みを崩さず……ただし、目に冷たい光を浮かべてわたしを見てきた。
こっ、これはもしや逆ナンパ……という奴!?
実は、気づいてはいたんだけどね。さっきから、色んな女の人達がトラップにちらちら目をやってたの。
まあねえ……こうして見ると、トラップはやっぱりかっこいいもんね。スタイルいいし、顔立ちも端正だし。
「いんや、違うけどな。まー子守っつー点では似たようなもんかな」
「まあ、大変。じゃあ、あたし達のお誘いなんてお邪魔だったかしら?」
そんなわたしのことなんか無視して、皆さんの会話は続く。
こっ、子守ってあーたねえ!?
思わず文句を言いたくなったけど。トラップのすっごく意地悪そうな微笑と、女の人達の何だかすっごくバカにしたような目に、むかむかと腹が立ってきた。
大体、女の人達だって、わたしがトラップの妹だ、なんて本気で思ってはいなかったと思うんだよね。
だって全然似てないじゃない。髪の色も目の色も違うし。
その表情は雄弁に、「こんなお子様よりあたし達の方がいい女よ?」みたいなオーラを漂わせていて……そして確かにそれはそうだと思えるだけに……余計に悔しかった。
ふんだ、いいもんね、別に。トラップなんかにお守りしてもらわなくたって。
彼だって、綺麗な女の人と遊べる方が楽しいでしょうよ!
「いいわよ、トラップ。せっかく誘ってもらったんだから、遊んできたら?」
わたしがそう言うと、トラップはぽかんとして、女の人達は「ほらー! 彼女もああ言ってることだし!」なんて言いながら、彼の腕をぐいぐいとひっぱっている。
……勝手にすればいいんだから! 海からホテルまではすぐそこだし、いくらわたしでも一人で帰れる。
「じゃあね。あんまり遅くならないようにね」
「お、おい、パステル!」
後ろからトラップのすごーく焦ったような声が聞こえてきたけど。
ふん、知らないもんね!
背後を振り返らないようにして、わたしは泳ぎ始めた。
あんなに腹が立ったのは、何でかなあ、と思う。
ちょっとむきになっていたかも? とも思う。
でも、むかむかしてきたんだから……しょうがない。
ぷかぷかと背泳ぎの形で(浮いてるだけだけど)空を見上げながら、わたしはぼんやりとそんなことを考えていた。
そういえば、ホテルの部屋でだってそう。何だか、二人だけ、ってことを妙に意識してしまっていた。
……変だよねえ。ああ、もしかしたら、本当にルーミィの風邪がうつったのかも?
それで胸がドキドキしてるのを、勘違いしてるだけなのかも?
そうだよね。そうに決まってる。
そうとわかったら、ちょっと気が楽になってきた。
ざぶん、と一度水中に沈んで、ゆっくりと泳ぎ始める。
気が付けば、流れに身をまかせてるうちに随分岸から離れちゃってたもんね。
これ以上遠くに行っちゃうとちょっと怖い。もう足もつかなくなってるし。
早く戻ろう、とわたしが水をかきはじめたときだった。
ぐいっ
「きゃっ!?」
さばんっ!!
突然何かに足をひっぱられて、わたしの身体は水中に沈んだ。
息ができなくて、頭の中が真っ白になる。
な、何!? 何なのっ!?
めちゃくちゃに手足を振り回したけど、足にからみついた何か……違う、これ、人の手!? とにかく、つかんできた何かは全然離れる気配もなく。
そのまま、わたしはすごいスピードで水中をひっぱられた。
くっ、苦しいっ!!?
とっさのことに水を思いっきり飲み込んでしまう。その塩辛さが喉にしみて、涙が溢れてきた。
息が……続かないっ!?
段々気が遠くなってきた。見上げると、空がやけに遠く見える。
このまま……死んじゃうの?
苦しくて痛くて、もう何も考えられなくて。ただそんなことをぼんやりと思う。
そう思った瞬間頭をよぎったのは、「嫌だ」「もっと生きたい」という思い。
だけど、もう身体に力が入らなかった。
トラップ……
……助けてっ!!
最後に思ったのは、その一言だった。
……ざばあっ!!
意識が完全に沈む寸前だった。
突然、身体に誰かの腕がまわったかと思うと、わたしはすごい勢いでひきあげられていた。
「……げほっ!! うっ、ううっ……」
「おい! 息をしろ、息!!」
ばんばんと、乱暴に頬を叩かれる。
痛いっ……もっと、優しく……
文句を言おうとして、口の中にもう水が入ってこないことに気づいて、大きく息を吸い込む。
潮の匂いのする空気が、とても美味しかった。
……助かった!?
「うっ、ごほごほっ……と、とらっぷ……」
「おい、何かあったんか!?」
わたしを抱きかかえているのは、見慣れた赤毛の盗賊、トラップ。
何で……ここにっ……?
「とらっぷ……」
「あんだよ」
「さ、さっきの人達は……?」
ぜいぜいと苦しい息の下で言うと、トラップの顔が一気に変わった。
心配そうな表情から、不機嫌な表情へと。
「おめえ……こんなときに何つまんねえこと言ってやがる。それより、言うことはねえのかよ、何か」
「え……? あ、あ、……りがとう」
涙と鼻水が止まらなくて、うまく言葉にならない。
声を振り絞って言うと、「けっ、わかりゃいいんだよ」と言いながら、トラップはゆっくりと泳ぎ始めた。
助けに……来てくれた?
わたしが、何かにひっぱられたことに……溺れかけてたことに、気づいてくれたの?
何で……見てた? わたしのことを見てたの?
まさか。ただの偶然に、決まってるよね……
「ちっ、やけに遠くまで来たな……おい、あっこで一回休むぞ」
トラップの言葉に、ちょっとだけ冷静になって周りを見回す。
そしてぞっとした。
だってだって……いつの間にか、岸がもうかすんで見えないようなところに来てたのよ!?
こ、こんなところまでひきずられたのっ!?
トラップが指差しているのは、一見小さな島? と思うような大きな岩だった。
海の中から突き出すようにして出ているその岩は、何だかおあつらえ向きに中が洞窟のように空洞になっていて、水面よりちょっと上に穴が開いている。
そこからよじ登ると、中には水もなく、陽が遮られているせいかひんやりと涼しかった。
「何……ここ……」
「天然の洞窟だろー? こんなとこまで泳ぎに来る奴は滅多にいねえだろうからな。もしかしたら、俺らが最初の発見者かもしれねえな」
そんなことを言いながら、トラップは壁にもたれかかった。
その息は、かなり荒い。
ああ、そうだよね。トラップだって疲れてるはずだよ。わたしを追ってここまで自力で泳いできてくれたんだろうから……
「んで、何があったんだ?」
二回目の質問には、素直に答えることができた。
もっとも、わたしにもよくわからない、としか言いようがないんだけど。
「泳いでたら……何かに足をつかまれて、ひっぱられたの。気が付いたら……」
「足?」
ふっとトラップの視線が、下に下がった。そして、顔が強張った。
その視線を追って……わたしも息を呑んだ。
だってだって! ちょうどつかまれた……と思った部分に、真っ赤な手の痕がべっとりとこびりついてたのよ!?
「や、やだやだっ! 何これっ!? とって、とってとってとってー!!」
「お、落ち着けって!!」
慌ててがしがしっと手でこすったけど。何がついてるのか、それは全然落ちなくて……
気持ち悪い。まさか……血!?
「や、やだっ……何よ、何なのよこれえ……」
「…………」
もうほとんど半泣きなわたしには構わず、トラップは、厳しい目でわたしの足首を見つめている。
何か、得体の知れないモンスターでもいるのかも? そう思うと心底ぞっとした。
海中に危険なモンスターがいるかもしれない……それって、うかつに海の中に入れないじゃない!? も、戻れないっ!?
「トラップ……」
「……キットンの奴がいりゃあな。何なのかわかったかもしんねえけど」
そう言いながら、トラップはわたしの足首をつかんだりさすったりしてたけど、やがて頷いた。
「痣じゃねえか? 多分、すげえ力でつかまれて、内出血してるんじゃねえか……モンスターじゃねえだろ。手の形にばっちり残ってるし。誰かの性質の悪いいたずら……じゃねえかな」
「い、いたずらって」
まさか。
一瞬疑惑の目でトラップを見てしまって、ぽかりと殴られた。
じょ、冗談だってば……
「いくら俺でもなあ! こんな性質の悪いいたずらするかよ!? おめえ、相当危ないとこだったんだぞ!?」
「ご、ごめんってば」
確かにね。トラップって意地は悪いけど、こんな洒落にならないいたずらをするような人じゃないもん。それくらいの分別はあるはず。
だとしたら、一体……?
うーん、と二人で頭を抱えたときだった。
ふっと、トラップが顔を上げた。
「どうしたの?」
「……奥から、何か聞こえた」
「え?」
奥。この洞窟の……奥?
さっきも言ったけど、この岩はかなり大きくて、洞窟もかなり奥行きがありそうだった。
ただ、その奥は真っ暗で、ポタカンも無いから光が届く入り口付近にずっと座ってたんだけど……
「トラップ……?」
「……行ってみっか」
「嘘ー!?」
や、やめとこうよ。もしかしたら本当にモンスターか何かかもしれないじゃない?
そう言うと、「いたずらした犯人かもな」と言い返されたけど。
それはそれで……あんな洒落にならないいたずらをするような人だよ? もしかしたら、海賊かもしれないじゃない!?
「ばあか。海賊だったら普通船で移動するだろ? とにかく、海に変なもんがいるとしたら、おちおち潜れねえだろうが。俺達は冒険者じゃねえの?」
「うっ……そりゃ、そうだけど」
「ほれ。そうとわかったら、行くぞ」
そう言って、強引にわたしの手をつかんでずんずんと奥に向かって歩き始める。
だっ、だけどっ……
わたし達っ……今、武器も持ってないんだよー!?
洞窟の奥に行くにしたがって、どんどん光が届かなくなり、しまいには傍にいるはずのトラップの顔すら見えなくなってしまった。
それが不安でたまらなくて、思わずぎゅっと腕にすがってしまう。
真の闇……って、きっとこういうことを言うんだと思う。本当に、1メートルどころか1センチ先だって見えないんじゃないかっていうくらいの、闇。
「足元……気ぃつけろよ」
耳元で囁かれるトラップの声も、心なしか緊張してるみたいだった。
ねえ……やっぱり、引き返さない?
何度も何度もそう言おうとして、そのたびに、「冒険者だろ?」って言葉が耳をよぎって口をつぐむ。
そんなことを、何回繰り返しただろう?
不意に、目の前に、光が見えたのは……
「トラップっ!?」
その光にぼんやりと照らされる顔を見て、思わず安堵してしまう。
腕につかまっていたから。いるはずだ、とわかってはいたんだけど。
それでも、顔を見るまでは不安だった。……よかったあ。
それにしても、この光、何? ヒカリゴケ……?
「トラップ……」
「何か……ある」
ごくん、と息を呑む音が聞こえた。
トラップの視線の先にあったもの。それは……何だろう?
丸い石だった。本当に綺麗な、丸い石。それが、いくつもいくつも積み上げられていている。そんな石の集まり。
光を発しているのは、その石みたいだった。一つ一つがぼんやりと光っていて、それが集まって結構な明るさになっている。
「何……これ?」
それに手を伸ばしたのは、光が欲しい、という純粋な欲求。
いかにも意味ありげなそれらに不用意に手を出したのは、我ながらうかつだった、としか言いようがない。
だけど、それは全て後になって思ったことで、そのときのわたしは、まるで何かにひっぱられるかのように、石に手を伸ばしていて……
「おい。触らねえほうがいいんじゃねえ?」
トラップの警告は遅かった。そう言われたときには、わたしはもう、がしっ、と石をつかんでいて……
その瞬間、襲ってきた気持ちは……一体何なんだろう?
「うっ……」
「おい、パステル……おい、どうした?」
トラップの声が、やけに遠くに聞こえる。
彼の手が、わたしの手から石を奪い取るのがわかったけれど……
だ、駄目。それに触っちゃ……
触れた瞬間、トラップの目から、意思が飛んだのがわかった。わたしと、全く同じ感覚に襲われたんだと思う。
何かが……頭の中に入り込んできた。
すごく、すごく強い、誰かの思い。
目の前がぼやけてきて、それなのに、トラップの姿だけはやけにはっきり見えた。
身体が……熱いっ……
変だった。何も考えられなかった。わたしがそれまで考えていたこととか、気持ちとか、とにかくそういったものが全部どこかに追いやられてしまって。
最後に残ったのは、とても、とても純粋な……強い欲求。
トラップが……欲しいっ……
肩をつかまれた。迫ってきたのは、やけにぎらついた、明るい茶色の瞳。
それはいつものトラップの目じゃなかった。絶対に違った。それでも、目の前にいるのはトラップには違いなくて……
唇を塞がれた。口内にもぐりこんできたのは、熱い舌……
わたしはそれをちっとも嫌だと思えなくて、むしろ積極的に求めてさえいた。
しばらくものも言わず、お互いをむさぼりあうようにキスを交わす。
背中に、硬い感触があたった。
押し倒されたんだ、ということに気づくまでに、しばらくかかった。
「やっ……」
ぐいっ、と水着の肩紐が、乱暴に外された。むき出しにされた胸に、トラップの唇が吸い付いてくるのがわかった。
ああ……何……何、だろう……この感覚……
気持ち、いいっ……
「あっ……あ、やあんっ……」
舌が身体を這い回る。ずるりと水着が、お腹のあたりまで引きずりおろされた。
「あっ……」
ぐっ、と彼の背中に手をまわす。しなやかな筋肉が、躍動しているのがわかった。
ぎゅうっ、と力をこめる。
もっとトラップを感じていたかった。もっと、彼が……欲しかった。
トラップの手つきは性急で、それでいて痛いとかそういうことは全然なかった。
肩や首筋に赤い痣を残しながら、唇が全身をはいまわり、同時に手が、わたしの脚を割り開いた。
水着を脱がせる時間も惜しい。
耳元で囁かれたのは、そんなような意味のこと。
細い指先が、水着をかきわけるようにして、わたしの中にもぐりこんできた。
「やあああっ!!」
びくんっ、と背筋がのけぞった。
自分でもわかった。そこは、既にトラップを受け入れる準備が整っていて……水着を汚すくらいに、中から何かがあふれ出ているって。
ぐちゅっ、ぐじゅっ……と、指が動くたびに、ひどく恥ずかしい音が響き渡った。
それが余計にわたしの心を煽る。早く来て欲しい、本気でそう思った。
「入れて……」
口をついて出たのは、自分でも意味がよくわからない言葉。
「早く、入れて、トラップ……あなたが、欲しいっ……」
「パステルっ……」
水着の隙間から、無理やり何かがこじいれられるのがわかった。
貫く瞬間に、鋭い痛みが走るのもわかった。
だけど、その痛みは痛みじゃない。それは、後に走る快感を煽るだけのもの。
「ああああああああああああ!!」
びりびりっ、と全身を走った快感に、わたしは悲鳴のようなあえぎ声を漏らしていた。
もう、何も考えられない。
ただ、あなただけが……欲しいっ……
激しい動きに、身体が振り回された。岩に背中がこすれて、微かな痛みが走る。
それも気にならなかった。ただわたしとトラップは、言葉もなくその行為に没頭し続けていた。
より深く彼を受け入れたその瞬間、わたしは目の前が真っ白にはじけとぶような錯覚に襲われたけれど。
それでも、彼の首に腕をまわし、その唇をふさいでいたのは……最後の悪あがきのようなもの、だったかもしれない。
コロン……
小さな音に、ハッと我に返った。
同時に、トラップの目に、意思の光が戻ってきた。
中途半端に繋がった状態。わたしの腕はトラップの首にかじりついていて、トラップの……その、ソレは、わたしの……
「……あっ……」
瞬時に、羞恥で顔が赤く染まるのがわかった。
なっ……何だったの……?
今のは、今までのは……一体何だったの!?
「あっ、あっ、あ……」
「…………」
気まずそうな顔をして、トラップはわたしから視線をそらした。ついで、身体を離す。
微かに響いた音は、積み上げられた石が崩れた音なんだ、と。そんなどうでもいいことに気づいていた。
「あのっ……」
慌てて水着を直す。何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。
嫌じゃなかった。確かにあのとき、わたしはトラップを求めていた。
それは、すごく……すごく不思議な感覚だった。自分の考えであって、自分の考えじゃないような、そんな感覚。
無理やりじゃなかった。だから怒るのは筋違いだ。
だからこそ、どう反応すればいいのか、わからなかった。
「わたしっ……」
「……帰るぞ」
「え?」
ぶっきらぼうな彼の言葉に、思わず視線をあげる。
その表情は、不機嫌そうだったけど。でも、全くいつものトラップだった。
「トラップ……」
「帰るぞ。日が暮れるし……夜にやるっつーイベントも、見たいんだろ」
そう言って、腕をぐいっとひっぱられる。
……トラップ……
何で、そんな……何も無かったみたいな顔ができるの?
あなたにとって、あれは……そんな程度のこと、なの?
涙があふれそうになったけれど、でも、必死に我慢した。
あれは夢だったんだ、そう思おう。
わたしもトラップもちょっとおかしかった。普段のわたし達じゃなかった。
あれはきっと、この幻想的な雰囲気が作り出した夢なんだ。忘れるのが、一番いいんだ……
そう自分に言い聞かせて、わたしはトラップの後をついていった。
わたし一人では、到底岸まで泳ぎ切れそうもなかったから。
結局、半分くらいはトラップにひっぱっていってもらったんだけど。
幸いなことに、昼間にわたしをひきずりこんだ謎の人影は、現れなかった。何事もなく岸についてホッとしたときには、もう空は夕焼けに染まっていた。
浜辺にあんなにたくさんいた人影も、今はまばらになっている。
「一回ホテルに戻って……んで、飯食ったら出かけるか?」
「うん……」
トラップの口調も、表情も、いつもと全く変わらなかったけれど。
わたしはそんな風には思い切れなくて、やっぱり声が強張るのがわかった。
トラップがそれに気づいてないはずはないと思うんだけど、彼はそれに何を言うでもなく、ずんずんとわたしの腕をひっぱって歩いていく。
ホテルに行って、交代でシャワーを浴びて着替えて。それから二人で食事を食べに行く。
宿泊券には、お食事券もついてたからね。
料理はすっごく美味しかった。もう絶対この後食べる機会は無いんじゃない? っていうくらい、豪華なお料理。きっと、ルーミィがいたらさぞ喜んだことだろう。
だけど、そんな料理も、この気まずい雰囲気の中ではあまり味わう余裕も無い。
いつもは人一倍騒がしいトラップも何だか黙りがちだし、わたしも何を言えばいいのかわからない。
忘れよう、忘れようと考えるほど、余計に思い出してしまう。
ううっ……一体、何だったんだろう、あれは。
あの丸い石……おかしくなったのは、あれを触ってからだよね?
あれは、一体何だったんだろう……
「いかがでしょう。ご満足いただけましたか?」
突然背後から話しかけられて、はっと顔をあげる。
振り向くと、そこに立っていたのは、給仕をしてくれたボーイさんだった。
「は、はい。とっても美味しかったです」
「そうですか。お客様は、この後のイベントに参加されますか?」
「は、はい」
反射的に返事をして、そして気づく。
イベントって……結局、何なんだろう?
「あの、どんなイベントなんですか?」
「ええ。コーベニアの名物でしてね。参加されるお客様、全員で船に乗って、灯篭と呼ばれるものを海に流しに行くんです。花火も上がりますし、簡単なお料理やお酒も用意されますよ」
「うわあ、楽しそう!」
想像するだけでわくわくしてきた。「灯篭」っていうのが何かは、よくわからないけど。
「楽しそうだね、トラップ!」
「……そだな」
そう言って微笑んだトラップは、本当に、いつものトラップだった。
「楽しもうな」
こんな会話を、ずっと続けていきたい。
だから、あれは……無かったことにしよう。
トラップの笑顔を見て、わたしは心から、そう思った。
ところが。
わたし達は重大なことを忘れていた。
「ちょっと……トラップ、大丈夫……?」
「…………」
声をかけるけど、うずくまっているトラップからの返事は無い。
どーん、どーんと空で派手な華が咲いている中。
わたし達二十人くらいのお客さんを乗せた船は、ゆっくりと海を漂っていた。
船っていっても、大きなボートみたいなものなんだけどね。だけど、夜の海は静かで、それと対照的に賑やかな空が、何だかすごく不思議な雰囲気。
ボートの真ん中では、サービスで飲み物やおつまみが振る舞われていて。普段のトラップなら、目を輝かせそうなものなんだけど。
「ねえ……横になった方が、いいんじゃない?」
「……うっせえ……」
真っ青になったトラップが、かすれる声でつぶやく。
そうなのよねえ……随分昔のことだから、わたしはすっかり忘れてたんだけど。
トラップって、すごく船酔いする体質だったんだよね。以前のクエストで船に乗ったときも、一人だけ酔っちゃって大変だったし。
背中をさすってあげてるんだけど、そんなの気休めにもならないみたいで。
はああ。まあ、いいんだけどね。余計なこと気にしなくてもよくなったし。
諦めて、うーんと伸びをしながら立ち上がる。
手の中には、船に乗る前に渡された、「灯篭」がある。
小さな小さな船の形をしていて、中ではローソクが小さな炎を灯している。
まわりを紙で覆われているから、ぼうっ、と微かな明かりしか漏れてこないけど。それが、とっても幻想的だった。
ある程度まで船を進めて、そこで一斉にこの灯篭を流すんですって。どうやら、海では水難事故がつきものだから、亡くなった人達の魂を鎮めるために、この炎で道しるべを作ってあげるんだ、とか何とか。
すごく素敵なイベントだよね。色んな人が、この一年で亡くなった人達のことを思って、みんなで「早く安らかに眠れますように」って、祈るんだよ。
海は楽しいけれど、怖いところ。気をつけなくちゃいけない。昼間みたいなこともあるし……
……そういえば。
ふと思い出す。
そういえば、結局わたしの足をつかんだのは……一体、何だったんだろう?
そんなことを考えていたときだった。
ゆらり、と、それまで座り込んでいたトラップが立ち上がった。
「トラップ? 大丈夫なの?」
「……何か、聞こえる……」
「え?」
すごく小さな声だったけど、トラップは、確かにそうつぶやいた。
彼の視線の先にあるもの。
あれは……
船が進む先。そこにあったのは、昼間、わたし達が休んだ……洞窟のある岩。
それをじいっと凝視して、トラップはつぶやいた。
「何か、聞こえる」
船が、岩の傍を通り過ぎる。
そのときだった。
ぐいっ
「……え?」
突然肩をつかまれた。一瞬トラップか、と思ったけれど。彼の両手は、船の縁に置かれていて……
「あっ……」
「パステル?」
上半身が揺らいだ。
何かが、わたしの肩をつかんでいる。その何かがいるのは……
海!?
「きゃああああああああああああああああああああああ!!?」
「パステルっ!!!」
どっぼーん!!
悲鳴しかあげられなかった。その瞬間には、わたしの身体は、海中にひきずりこまれていた。
視界が闇に染まる。昼と違って、服を着ていたから余計だった。
水に濡れた服が身体にまとわりついて、あっという間に自由を奪われる。
……何!? 一体……何なのっ!?
昼間と全く同じだった。ただ違うのは、つかまれているのが足じゃなく腕だということだけ。
水中を凄い勢いでひきずられる。
何でっ……
一体、これはっ……何なの……?
ぐんっ
ウエストに誰かの腕がまわった。
ううん、誰か……なんて言わなくても、わかってる。
わたしをいつも助けてくれるのは、この人しかいないっ……
ざばっ!!
水面に顔が出た。せきこみながら、息を吸い込む。
「トラップっ……」
「何なんだ……この海は、一体何なんだよ!?」
わたし達が落ちたことに、気づいているのかいないのか。
船は、随分遠くに見える。かなり水中をひきずられた、と思ったんだけど。でも、顔をあげてみれば、目の前にはあのときの岩の洞窟があって、そんなに距離は移動してないようだった。
そして、わたしの腰をしっかりつかまえているのは……トラップ。
船酔いが残っているのか、その顔色は真っ青だったけれど。それでも、わたしのことを助けてくれた。
「トラップっ……」
がしっ、とその首にしがみつくと、優しく背中を撫でられた。
怖かった。そして、今も怖い。
この海には何かがいる。絶対に、何かがいる。
一体……
「あそこだ……」
「え?」
「あそこに、何かがいるんだ」
そう言って、トラップはわたしを捕まえたまま泳ぎ出した。
目的地は……あの、岩の洞窟。
嫌だ、と思った。逃げたいと思った。怖かった。
それでも、行かなくちゃいけないと思った。
同じ事を、繰り返させてはいけない……そう、思った。
夜のせいで、余計に暗い洞窟の中。
息を呑んで歩き出す。何も言葉は出なかった。
明らかに……変だった。昼間でも涼しかった洞窟だけど、今は、肌寒いくらいの冷気が漂っていて。
何かが、いる。そう確信できた。
「この声……聞こえるか……」
トラップの声が震えているのは、寒いからなのか、それとも怖いからなのか。
「声……」
「昼間も、さっきも……俺が聞いたのは……」
その頃には、もうわたしの耳にも届いていた。
奥の方から響いてくる、すすり泣きの……声。
「トラップ……」
ころん、ころん……
声をかけようとしたとき。奥から、小さな音が響いてきた。
ころん、ころん……
「きゃあ!?」
思わずトラップの腕にしがみついてしまった。
中から、小さな光が転がってきていた。
微かな音を立てて、ころんころん、と……あの、光る石が、転がってきていた。
「何……」
一つ、二つ、三つ……
ころころと転がってきた石は、わたし達の足をかすめて、次々と海に向かって落ちていった。
あの石が、いくつ積んであったか、正確には覚えていないけれど。
7つまで数えたところで、音は静かになった。
……全部? あれで、全部……
「パステルっ!」
がしっ
突然肩をつかまれた。振り仰げば、物凄く焦った、トラップの顔。
じりっ、と彼の足が後退を始めた。だけど、わたしの足は、縫いつけられたかのようにその場から動けなかった。
目の前に、漂っているもの。
石が転がってきた方向から漂ってくる、白い煙。
ううん、煙じゃない。あれは……
ぼんやりと、人の形を取っている。二人分の人影。それが、徐々にわたし達に迫ってくる。
(……やっと)
(やっと、仲間が来てくれた)
(一緒に行こう)
(永遠に、君を愛する……)
頭の中で響いたのは、そんな声。
その瞬間……
煙が、一斉にわたし達に押し寄せてきた。トラップはわたしをひきずって逃げようとしたみたいだったけれど。
けれど、いくら彼の足が速くても……きっと間に合わなかった。
その瞬間、煙は、わたし達の身体を包み込んでいた。
そのとき、侵食されたのは、あのときと……昼間と同じ感覚。
ただ違うのは、あのときと違って……頭の中で、声が響き渡っていること。
(一緒に、行こう)
(もう、寂しいのは、嫌)
(愛していたのに)
(みんなだけが幸せなんて、ずるい)
嫌……
わたしの意思に関係なく、足が動き出す。
トラップは、壁にしがみついて、頭を抱えていた。きっと彼の中でも、同じような声が響いているに違いない。
嫌……
ゆっくりと歩き出す。向かう先は、海。
黒々とした水面が、わたしの眼前に迫る。
こんな夜中、こんな岸辺から離れた場所。
落ちたら、きっとわたしは助からない。
それがわかっていたのに、足を止められなかった。
嫌……
死にたくない。
……助けてっ……
「パステルっ!!」
がばっ
海に向かって踏み出そうとした足が、止まった。
背後から、痛いくらいに抱きしめてくるのは……トラップ。
「トラップ……」
「バカ、行くな! あんなもんにひきずられてどうする!? おめえ、それでも冒険者かっ……」
その声は苦しそうだった。彼は必死に戦っているんだと。身体を支配しようとするその声に、必死であがなっているんだと……それでいながらわたしのことまで気遣っていてくれてるんだと、わかった。
「トラップ……」
「行くな……死ぬな! おい、おめえらっ……」
トラップの行った「おめえら」とは、きっとわたし達にもぐりこんできた、あの白い人影のことなんだろう。
聞こえているかどうかもわからないのに、トラップは叫んでいた。
「バカ野郎、他人を巻き添えにしてそれで満足するような甘ったれた奴らが……幸せになんざなれるはずはねえだろう!? こんなとこにくすぶってて、それでおめえらは満足なのかよっ!!」
踏み出そうとする足が、空ぶった。
頭の中に響く声。
それと同時に、色んな光景が流れてきた。
愛し合っていた二人。
けれど、色々な事情があって、引き裂かれた二人。
別れるくらいなら、いっそ……と海に身を投げて、でも、それを二人は後悔していた。
もっと、生きていたかった。もっと、愛し合いたかった。
流された遺体が打ち上げられたのは、この洞窟。
誰にも見つからず、ひっそりと朽ち果てて……成仏することもできずに、こんなところに縛り付けられて。
それが辛くて辛くて、悲しくて。傍にいるのに触れることもできないお互いの身体が恨めしくて。
そして……
「俺達は生きる! おめえらなんかに連れ去られてたまっか……こんなつまんねことで、パステルを失ってたまるか! 負けねえからな。おめえらになんか負けねえからな!!」
ずるり、と身体がひきずられた。
海に向かってではなく、洞窟の中に向かって。
「認めればよかったんだ。自分がとっとと死んだって認めて、さっさと成仏しちまえば、生まれ変われたかもしれねえだろ!? 自分を哀れんで勝手にいじけて勝手にこんなとこにくすぶって、自分で自分を不幸にしてそれに気づかねえような奴に……負けて、たまっかよ!!」
どさっ!!
その瞬間、わたしの身体は後ろに引き倒された。
ごろごろと地面を転がって、そして……気づいた。
身体を支配する力が、消えていたことを。
「トラップ……」
「…………」
トラップの顔には、脂汗がびっしりと浮いていて、ぜいぜいと息を切らしていて……
それでも、もう、あの嫌な冷気も、無理やり連れて行こうとする力も感じなかった。
助かったんだ、とそう実感した瞬間、わたしはトラップの身体にすがりついて、大声で泣いていた。
あの石は、多分二人の魂の欠片みたいなものだったんじゃないか、というのが、トラップの見解だった。
すいすいと泳ぎながら、彼が自分の頭に響いた光景を説明してくれたところによると。
洞窟に打ち上げられて、やがて身体は朽ち果ててしまって、それでも動けなくなった魂。
やがて、どうして自分たちだけこんな目に合わなきゃいけないのか、と悔しくなって。誰かを巻き添えにしてやろうとして。
その恨みの思いが集まって固まったのが、あの石じゃないか、ということだった。
石が転げ落ちていったのは、きっと他のみんなが流した灯篭……亡くなった人達の成仏を祈られた、あの炎に引き寄せられたのか、そのせいで余計に力が強くなったんじゃないか、とか。
色々考えたけれど、推測の域を出ないから、途中で考えるのをやめてしまった。
「執念っつーのはこええよなあ」
とは、トラップの言葉だったけれど。
わたしは、それに返事をすることもできなかった。疲れ果ててしまって。
トラップも、多分相当に疲れていたはずなんだけど。あの洞窟で一泊する度胸はさすがになくて、二人でぜいぜい言いながら岸まで泳いで行った。
そのときには、もう花火も終わっていて……というよりイベントそのものが終わっていて。夜はすっかり更けていた。
ううっ……結局、ほとんど楽しめなかった。
はああ、とため息をつく。
海に落ちたとき、灯篭もどこかに流しちゃったしね。
ぐったり疲れてホテルに戻る。海に落ちたせいでどろどろに汚れた身体を、お風呂で洗う。
うーっ、つ、疲れた。もう、寝よう……
どさっ、とベッドに横になる。わたしと入れ替わりにトラップがお風呂に入っていく音が聞こえたけれど。ドアが閉まる音がする頃には、わたしはすっかり眠りに落ちていた……
何で目が覚めたのか、後になっても不思議で仕方がなかった。
すごくすごく疲れていて、絶対朝まで起きないだろうと思ったのに。
それなのに。気が付いたら起きていた。
ふっと目を開ける。すぐ目の前に、誰かの気配を感じて。
「……トラップ……?」
じいっ、とわたしを見つめているのは、トラップだった。
……何で……
何で、同じベッドに……寝てるの……?
眠気の覚めきらない頭で、そんなことを考える。
骨ばった手が、ぎゅっとわたしの肩をつかんだ。そのまま、ぐいっと抱き寄せられる。
気が付いたときには、わたしは、トラップに抱きしめられていた。
「トラップ……?」
だけど、不思議なことに。嫌だ、とはちっとも思わなかった。
「あんとき……」
ぼそぼそと、囁き声が耳に届く。
「あんとき、おめえを抱いたのは……あの二人に操られていたから。そう自分に言い訳してたんだけどよ……」
「…………」
そう、だった。
あのとき……昼間、初めて洞窟に行ったとき。
あれは、あの二人が……身体を手に入れて、もう一度愛し合いたいと思った二人の願望が、わたし達の身体を奪ってさせたこと、だと思う。
だけど、口には出さなかったけれど。
わたしは……
「だけど……違うかんな」
「……え?」
「俺は、あいつらには負けねえ……そう証明しただろ?」
言われて、こっくりと頷く。
確かに、トラップは負けなかった。意思が強いのか、どうなのか……わたしはあっさりと海に引きずりこまれそうになったのに、トラップは、それを必死に押しとどめてくれた。
……えと……?
段々と、眠気がどこかにとんでいくのがわかった。
「負けねえから。嫌だったら、抵抗できた。できたはずなんだよ。できなかったのは……」
じいっ、と、明るい茶色の瞳が……トラップの瞳が、わたしを見つめて言った。
「おめえを抱きたいと、思ってたから」
「…………」
それって……
「トラップ……?」
「おめえは、嫌か?」
聞かれた言葉に、首を振る。
わかっていたから。わたしも、あのとき……わたしは、トラップほどには、「嫌だったら抵抗できた!」とは言い切れないけど。
でも、少なくとも……相手がトラップでよかった、と。密かに喜んでいたのは、事実だったから。
「好きだっつったら……迷惑か?」
もう一度首を振る。
そんなわけがない。だって。
その言葉に、わたしは……こんなにも、嬉しいと思っているんだから。
ふうっ、と顔が迫ってきた。
欲望にまかせてのキスとは違う、本当に優しい……心から愛しいと、そんな気持ちが伝わってくるキスが、わたしの頭をじいん、としびれさせて。
シャツの下にもぐりこんでくる手も、首筋に感じる熱い感触も、そのどれもこれもが、とても……とても、気持ちよかった。
一泊旅行は終わった。
乗合馬車に乗る前に、みんなのためのお土産をいっぱいに買い込んで。
そうしてホテルを引き払ったときに感じたのは、ちょっぴり残念だな、という思い。
「もっと、いたかったなあ……」
「お? それって」
ぐいっ、と肩に手がまわされた。
そのまま、ぎゅっ、と抱き寄せられる。
「もっと俺と二人っきりでいたかった、ってことか?」
ちらり、と見上げれば、すんごく嬉しそうな顔をしたトラップ。
荷物を肩に担ぐような格好で、じーっとわたしを見下ろしていて。
「そうだよ」
にっこり笑って言うと、その顔が、面白いくらい一瞬で真っ赤に染まった。
へへへ、照れてる照れてるー。
いっつもトラップに言われっぱなしだもん。たまには、わたしが言い負かしてみたいもんね。
「早く帰ろう! みんな、きっと待っててくれてるだろうから」
「お、おう」
そう言うと、トラップはいかにも仕方無さそうに頷いた。
しょうがないじゃない。大体、わたし達には、そんな贅沢をする余裕なんか一切無いんだから。
シルバーリーブに戻ったら、きっと、もう二人っきりになる機会なんて、滅多になくなるだろうけど。
「ねえ、トラップ」
「あんだよ」
「いっぱいお土産話ができて、よかったね」
えへへ、と笑うと、トラップはぴっ、と片眉をあげて、わたしの顔を覗きこんだ。
「幽霊話とか灯篭流しとか、か?」
「トラップがナンパされたりとか、綺麗なお姉さんに見とれてたり、とか?」
そう言うと、彼は露骨に顔をしかめて、「あれはなあ」とか「おめえがちっとでも焼きもち焼いてくれりゃいいかと思って」とか、ぶつぶつ言ってたけど。
わかってるって。トラップの考えそうなことだよね。
素直に思いを伝えられない気持ちは、よくわかるけど。
だって、わたしも言えないもん。一種勢いが無いと、なかなか素直に「好き」っていうのは難しい。
だから、これがわたしなりの返事。
「後ね、一番のお土産話」
「あんだよ?」
「わたし達、恋人同士になりましたよー、って!」
そう言って振り向くと。
トラップは、髪と同じ色に顔を染めて……それでも、見たこともないような満面の笑みを浮かべて、抱き寄せる腕に力をこめた。
完結です。
次は上でリクエストもらったパラレル悲恋シリーズ4のトラップ視点の話しいきます。
かなりダークというか暗いですが……
その次にまた明るい作品挟みますので。
悲恋4すごく(・∀・)イイ!ホントにどん底なあたりが特に。
170 :
名無しさん@ピンキー:03/11/08 02:03 ID:n1D7stZj
水難編、ストーリーがよく出来てますね、いつもそうなんですけど。
イベントとか幽霊とか光る石の謎とか、本当にたいしたもんだ!
楽しませてもらいました。
次の悲恋4トラップ視点も楽しみにしてます!
それとキャラ別小話も待ってます、またリタ話を書いてください。
チョット前に書いてた「空回りトラップ」の小話も好きだったんだけど
良ければそれも復活してください!
>トラパス作者様
いや、エロ少ないとか言ってましたけど、充分エロかったっすよ!
エロ部分の文章自体は短いかもしれませんが、
じっくり読むと今までで一番エロかった気すらしてきました。
次回作にも期待!(・∀・)
>>170 ありがとうございます。
小話、ネタが思いついたらまた書きますね。
前スレが落ちないうちに……
>>171 どうもありがとうございます。
エロ描写を長々続けるのが苦手なので……長い話を書けば書くほど、エロ含有率が低くなるんです。
そう言ってもらえてほっとしました。ありがとうございます。
さて。
新作……というには微妙ですが。
パラレル悲恋シリーズトラップ視点の話しです。リクエストがあったので投下します。
要注意!
・ストーリーは全然変わっていません。あくまでもトラップ側から見たらどうなってるか、のお話しです。
・レイプシーンあり。暗いです。ダークです。
・パラレルです。世界観は現代、トラップとパステルは19歳。それ以外で出てくるキャラはちょい役でリタ(19歳)とマリーナ(18歳)です。
親父がリストラを苦に電車に飛び込んだ。そう聞いて母ちゃんが倒れた。
もう悲しむような余裕すらなかった。むしろ、残された方の苦労も考えずに逃げる道を選んだ両親を恨みさえした。
「わたし、働くから」
葬儀の場で、妹のマリーナはうつろな目をして言った。
「どうせ、高校やめたら……暇だしね」
まだ16歳だっつーのに。自分の楽しみより家族のことを心配しなきゃなんねえなんて。
おめえが……おめえと俺が、一体何をしたっていうんだ?
高校に中退届けを出しに行ったとき、教師達は揃って「もったいない」と嘆いてくれた。
成績優秀なんだから、申請すれば奨学金が出ると思う。
考え直したらどうだ?
そう言って散々引き止められた。
じゃあ、おめえらが母ちゃんの入院費を何とかしてくれんのか?
そう言い返すと、引き止めていた奴らは潮をひくようにいなくなった。
どうせそんなもんだろうよ。口先では奇麗事言ったって……所詮世の中は金だ。
派手な化粧と服で飾り立てて夜に家を出て行くマリーナを、止めることもできねえ。
高校中退者の俺達に、真っ当な働き口なんざなかなか見つからねえ。
そう訴えたところで、入院費が安くなるわけでもねえ。
親父の生命保険は、葬式を出して、最初の数ヶ月の入院費と治療費を払って、それだけであっという間になくなった。
毎日毎日バイトに明け暮れて、そうして一番楽しいはずの十代の時間を浪費する日々。
こうなった原因は誰だ?
そう考えたとき、俺に考えられたのは一つだけだった。
復讐してやる。
俺達をこんな絶望のどん底に突き落とした奴らに……復讐してやる。
ターゲットはあっさり決まった。
親父をリストラした人事部長、キング。そいつの一人娘、パステル。
何の苦労も知らずに育った、幸せな娘。それだけで、俺の憎悪を煽るには十分すぎた。
バイトの合間を縫って、チャンスをうかがっていた。自分を付回す人影に、パステルは気づいてもいねえようだったが。
よく笑う娘だと思った。
明るい金髪によく似合う、太陽のような笑顔は、俺には絶対にできねえ表情だと思った。
眩しい、と感じた。
そのうちサングラスをかけるようになったのは、顔を覚えられねえようにするため。それ以上の意味なんかねえ。
復讐相手。それ以上の感情を抱く必要なんざ……ねえ。
チャンスが来たのは、ある夏の日の夕方。
もうすぐ夏休みに入る時期。おあつらえむきに、パステルは一人で暗い雑木林へと足を踏み入れた。
……今だ。
走り出す。この日のために、何度も何度もシミュレーションしてきた。
ぬかりはねえ。
サングラス越しに、パステルの背中が迫った。音に気づいたのか、その足が止まる。
……振り返る暇を、与えちゃいけねえ。
ばっ!!
「うっ!?」
タオルでその視界を覆う。その細い身体を羽交い絞めにする。
自分が何をされそうになってるのか気づいたんだろう。パステルはめちゃくちゃに手足をばたつかせたが、所詮苦労知らずのお嬢さんの力だ。俺の敵じゃねえ。
「んー!!?」
タオル越しに目と口を塞いで、林の奥へと引きずり込む。大丈夫だ。この辺、この時間帯、誰かが来るはずはねえ。
やれる。成功する。
「い……いやあああああああああああああああああああああ!!?」
地面に押し倒した瞬間、絶望に染まった悲鳴が、俺の耳に突き刺さった。
ナイフでセーラー服を切り裂いて、ハンカチを口の中に押し込んで。
その後は無我夢中だった。
女を抱いた経験が無いわけじゃねえ。金持ちのばばあ相手に、そういうバイトをしたことが何度かある。
悦びも快感も感じねえ。あんなものは、ただの肉と肉のぶつかりあいだ。
ただ、それだけの行為だ。俺にとっては。
豊満とは言いがたいが、瑞々しく、汚れを知らねえまっさらな身体。
汚してやるのが目的だ。快感を与える必要なんか……優しくしてやる必要なんかねえ。
そうわかってはいたのに、組み敷いて下着をはぎとって、荒々しく胸をもみしだいた瞬間漏れた悲鳴に、罪悪感を感じたのは何でなんだか。
「んっ……んーっ……」
「…………」
声を出すな。絶対に。俺が誰なのか……ヒントになるようなものは、絶対に残すな。
うめくパステルの耳元に息を吹きかけると、びくり、と背中をのけぞらせた。
犯されてるってーのに……感じてんのか?
まさかな。耳が弱点なんだろ……
もっといたぶってやりたいと思った。もっともっと、こいつの身体を感じていたいと……知りたいと思った。
けど、あんまり時間をかけるわけにもいかねえ。帰りが遅くなれば、あの人の良さだけが全面に押し出されたこいつの両親が……探しにこねえとも限らねえからな。
目的だけを遂行すればいい。
反応しきったモノを取り出し、かけらも潤いを見せていねえ秘所を無理やり貫く。
相当に痛いはずだ。入れた俺の方こそ、その締め付けの凄さと抵抗に顔をしかめたくれえだからな。
くぐもった悲鳴が漏れ、タオルがはりつくほどに涙を溢れさせて……それは、俺の嗜虐心を十二分に満足させると同時、一抹の罪悪感を植えつけた。
こいつ自身が、何をしたってわけでもねえ。
理性はそう告げていた。けれど、感情はこう言い返した。
それなら、俺が、マリーナが、親父が母ちゃんが何をしたって言うんだ?
欲望にまかせて腰を突き動かす。緩みきったばばあの肉体とは全く違う、全てを搾り取ってしまいそうな締め付けの良さが、思いもよらねえ快感を与えた。
初めてだった。
イッた瞬間に、満足感を覚えたのは、初めてだった。
行為が終わったとき、パステルはもう泣く気力もねえようだった。
ぐったりとしたその身体をあますところなく目におさめ、そしてカメラを取り出す。
使い捨ての新品のカメラ。そのフィルムを限界まで使って、あらゆる角度からパステルの姿をおさめる。
これでいい。
写真を撮り続ける間、徐々に大きくなる罪悪感を無理やり押し込めて、俺はつぶやいた。
これが、俺の復讐の第一歩だ。
しばらく、キング家は死人でも出たかのように静かだった。
……いや、案外本当に死んだのかもしれねえな。パステルの心が。
純粋で、男の醜い欲望なんざ見たこともなかったうぶな生娘。あんな目にあったんだ。そうなっても少しもおかしくねえ。
それならそれで構わねえと思った。中途半端な状態で終わるが……それでも、一応目的は達成される。
だが、パステルは出てきた。その笑顔は、以前に比べていくらか翳っていたものの、それでも、外の世界へと戻ってきた。
……意外と、図太いじゃねえか。
歪んだ喜びがわきあがる。
こうでなくちゃいけねえ。復讐相手に簡単に死なれちゃつまらねえ。
あんなものは、ただの不運で済ませられる。……それだけじゃ、つまらねえ。
変わらず高校に通い、やがて卒業していく。勝負は、その後だ。
パステルの大学はわかっていた。通っていたのは、名門の付属高校。特に問題がなければ、大抵の奴はその上の大学へと進むことになる。
大学。一つ年上の幼馴染から聞いたことがある。
高校とは全く違う場所だと。知らねえ奴が一人や二人もぐりこんだってばれやしねえ。授業に全くの部外者が出席しても、聴講に来たと言えばそれで通る、とても自由な場所だと。
そこしかねえと思った。パステルに近づくのに、その場所ほど最適なところはねえと。
それからは、苦労の連続だった。
「俺、しばらく家を出るわ」
マリーナにそう告げると、彼女は信じられない、と言う風に目を見開いた。
「どこ行くのよ?」
「住み込みでのバイト見つけた。飯も出るし、結構割がいいんだよな」
「そうなの?」
俺の言葉に、マリーナは疑わしそうな表情を崩さなかった。
……こいつは、妙に勘のいい奴だから。
俺が、キング家を心の底から憎んでいることも、多分悟ってるだろう。
だが、俺が何を考えているのか、そこまではわかってねえはずだ。
わかっていたら、こいつのこった。絶対に止めただろうから。
「それなら……いいけど。あのね、母さんのところにだけは、ちゃんと顔出してよ? 心配してるんだから」
「わあってるって」
俺がいなくなれば……こいつは、もう家を出るたびに、俺の視線を気にせずに済むだろうから。
明け方、帰ってくるときに、音を立てねえように注意する必要もなくなるだろうから。
「バカなことだけは、しないでよ? 父さんと母さんを悲しませることだけは、しないでね」
出がけにかけられたマリーナの言葉が、痛かった。
わりいな、マリーナ。
……もう、遅いんだよ。
「おめえも、頑張れよ」
できればおめえを助けてやりたかった。こんな生活をさせたくはなかった。
不甲斐ない兄貴で……わりいな。
大学近くの小さなアパート。敷金礼金家賃その他、結構な痛手となったが……
それで、復讐を果たせるなら。安いもんだ。
金を稼ぐ手段なんかいくらでもある。幸いなことに、俺の見た目はそれなりに女心をくすぐるらしい。
暇と金を持て余したばばあどもは、出向けば大歓迎してくれたからな。
心なんかなくたって、女は抱ける。
その程度の行為なんだ……だから、気にするこたあ、ねえ。
狭い部屋の中で、俺は静かに、時が過ぎるのを待った。
四月になり、大学が始まった。
広い敷地内で一人の女を探し出すのは容易なこっちゃねえが……執念ってのは、すげえ。
もちろん、生活のためにバイトをする必要があったから、毎日大学に入り浸れたわけじゃねえが。
大学近くのコンビニをバイト先に選んだのは、店に訪れる、という可能性を考慮してだ。
だが、結局、店で見かけるよりも先に、大学で見つけることができた。
長い金髪と、はしばみ色の目。色白な肌と、太陽のような笑顔。
パステル・G・キング。俺の復讐相手。
9ヶ月前に俺が犯した女が、今、あの頃に比べてやや暗い笑顔で、友人らしき女としゃべっていた。
……見つけたぜ。
口元に笑みがこぼれる。ずれたサングラスをかけなおして、その後を追った。
サングラスをかけたのは、顔を覚えられねえようにするためだった。これからのことを考えれば、今はもう必要のねえもの。
だが、それでも、俺はこれを手放せなくなってきた。
目を見られたら、多分ばれるから。
その視線に憎悪の色がこめられていることを、きっと悟られるから。
パステルの後に続いて、教室に入る。広い教室の、真ん中よりやや後ろの席。
彼女が席につくのを待って、素早く隣の席に滑り込む。
……さあ、ここからが勝負だぜ? 俺。
目的は、ただ一つ。パステルの好意を奪う……端的に言っちまえば、惚れさせること。
「ここ、いいか」
つぶやくと、パステルは弾かれたように振り向いた。
一瞬、視線がぶつかった。
パステルの方からは、俺の視線が見えてねえはずなのに。
何でなんだろうな? その視線が、俺の中まで……何もかも見透かしたように感じたのは。
だが、それもほんの一瞬のこと。次の瞬間、パステルは、荷物を抱えて立ち上がろうとした。
その表情に走っているのは、怯え。
笑みが浮かぶのがわかった。
そうか、やっぱりな……俺が、いや、男が怖いか?
そうだろうな。おめえのような綺麗なお嬢さんには、ちっとばかり刺激の強い体験だったろうよ。
……逃がさねえ。
ぐいっ
小さな手をつかみとる。あのとき、あの夏の日に抑えこんだときよりも、わずかに小さくなったように感じる手。
「おい、人の顔見て逃げんなよ。失礼な奴だな」
「……ご、ごめんなさい」
俺の言葉に、パステルは素直に頭を下げた。だが、その表情には、不服そうな色がある。
言いたいことがあるなら、言えよ?
挑むような目で見てやったが、パステルはその視線に気づかなかったらしい。きょろきょろと周りを見回して、ため息をついて席に座りなおす。
ちら、と視線を向けて気づいた。もう、教室の席が全部埋まっていることに。
……危ねえところだったな。逃げるつもりだったのかよ、こいつ。
「おい」
小さく囁きかけるが、パステルはそれに気づいてねえらしい。じっとうつむいて、何かをつぶやいている。
「おい、人の話、聞いてんのか?」
声を荒げると、びくり、と顔を上げた。
「……聞いてる。ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけ」
ぎゅっ、と、手の中で握っているものがさらに小さくなった。
それまで気づかなかった。ずっと、手を握りっぱなしだったことに。
ふと視線をあげれば、パステルが、じっと俺の顔を見つめている。
暖かい手。俺の手とは違う、傷一つねえ綺麗な手。
そのぬくもりを心地いいと感じる自分に苛立ちながらも……何故か、手を離そう、という気にはなれなかった。
しばらく、視線と視線が交じり合った。
「あんだよ。俺の顔に、何かついてんのか?」
どうにも居心地が悪い。それをごまかすために、軽口を叩く。
まっすぐな視線は、それでも、そらすことなく俺の顔を見つめ続けている。
そして。
「……サングラス、取らないの?」
言われた台詞に面食らう。
……どう返せばいいものやら。
結局、俺にできたことは、いつもの態度を取ることだけだった。
「俺の自由だろ?」
「……取れ、なんて誰も言ってないもん」
「そうかよ」
可愛くねえ返事だ。それなのに。
何で、視線をそらさねえ?
根競べみてえなものだった。どちらが先に視線をそらすか。
これは、一方的な勝負。パステルを俺に惚れさせる。そのためには、最初の印象は悪くてもいい。俺という存在を覚えさせること。
ふっと、いたずら心が芽生えた。
顔を近づける。わずかに赤らんだ白い頬を見つめ、耳元で囁きかける。
「……あんた、顔赤いぜ」
「え?」
「熱でもあんのか? だいじょーぶ?」
「だ、大丈夫……」
ぐっ、と額を押し付ける。その瞬間のパステルの狼狽ぶりは、見ものだった。
倒れそうなほどに背筋をのけぞらせ、顔を真っ赤に染めて。
ぱくぱくと開かれた口からは、特に何の文句も出ねえが……照れていることは、一目でわかった。
これでいい。
これで、おめえは俺を忘れなくなるだろう?
笑みがこぼれる。それをごまかそうと、さらに軽口を叩く。
「あ、あんた……おもしれえ人だな」
「お、おもしろいって……」
俺の言葉が不服だったのか、パステルは頬を膨らませたが。
そのとき、入り口に人の気配を感じて、視線をそらした。
初日としちゃあ……上等だろう?
「おっと、先生が来たぜ」
その言葉に、パステルがあたふたと座りなおす。
……さて。これで、顔を覚えさせることには成功した。
次は……
そこで気づく。一番重要なことを忘れていたことに。
ぐっと身体を寄せる。耳元に唇を寄せたとき、その頬にくちづけてしまいたい、と一瞬でも思ったのは……何でなんだろうな?
「俺の名前は、トラップ。あんたは?」
「……パステル。パステル・G・キング」
返事は、思ったよりも素直に返って来た。
……もしかすると。これは、意外と簡単かもしれねえな。
思った以上の手ごたえ。自分でもなかなか魅力的じゃねえか、と思える笑顔を作って、俺は言った。
「同じ授業取るみてえだし……これからよろしくな、パステル」
「…………よ、よろしく」
よろしく。……そう、長い付き合いにはならねえだろうけどな?
授業なんざ、もちろん聞くつもりはねえ。
そもそも、この大学の生徒でもねえ俺には、受ける権利もねえんだからな。
もっとも、誰もそのことには気づいてねえようだったが。
時計に目をやる。本当なら、授業が終わった後、パステルをどこかにでも誘ってやりてえところだが。
生憎バイトがある。生活がかかっている以上、休むわけにはいかねえ。
仕方ねえか。
携帯の番号とアドレスを書いたメモを、パステルのカバンに滑り込ませる。
返事が来るか、来ねえか。
これは、一種の賭けだ。
熱心に授業を聞いているパステルに、そっと視線を送る。
おめえの心を、支配してやる。
どんな手を使っても……な。
ただ生活のためだけの、面白くも何ともねえバイト。
それを終えて部屋に戻ってきたときには、もう夜も大分更けていた。
だが、携帯にしっかりメールが届いていること。パステルの名前と、番号とメールアドレスが記載されたそのメールを見れば、疲れもふっとんだ。
……かかった。
嫌いな男に、自分の番号を教えるバカはいねえ。
俺の印象は悪くねえんだろう。むしろ……気にいられた、と見ていいんだろうな。
そのことに、純粋な喜びがわきあがっているのに気づいて苦笑が漏れる。
バカか。喜んでる場合じゃねえだろ?
これは、復讐だ。そして、それはまだ途中だ。
喜ぶのは、全てが終わってからでいい。
すぐに返信メールを入れる。素っ気無いくらいの短い文章。
「さんきゅ。登録しとく」
繋がりは、持てた。
手帳を開く。この後は、しばらくバイトが詰まっていて、大学に出向いている余裕はなさそうだ。
まあ……しょうがねえか。
女は、メールを打つのが好きみてえだからな。放っておけば、向こうから連絡が入るだろう。
俺から下手に連絡取ると、警戒されるかもしれねえしな……
携帯のマナーモードを解除して、俺は眠りにつくことにした。
夢の中で、太陽のような笑顔を見たような気がしたが……多分、気のせいだろう。
予想に反して、パステルからの連絡は来なかった。
……さすがに、ただ一度会っただけの男にメールを打ちまくるほど、軽い女じゃねえ、ってことか。
いや、レイプされた、っつーことを考えれば、男にメールアドレスと番号を教えることだって、あいつにとっちゃ異常事態なのかもしれねえ。
まあ、仕方ねえ。時間はたっぷりあるんだ。焦ることはねえ。
そう自分に言い聞かせながらも、暇があれば携帯をチェックしている自分に苦笑してしまう。
ところが、チャンスは意外なところから来た。
雨が降りそうな、ある日の午後。
客の少ねえ店内。レジに立って暇を持て余していると、入り口のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
おざなりな挨拶を投げかけ、そして身体が強張った。
そこに立っていたのは、まぎれもなく……俺が何度も何度も思い描いた顔だったから。
「……パステルか」
名前を呼ぶと、相手は意外そうな顔をして、俺の方に歩み寄ってきた。
こんなチャンスがあるかもしれねえ、とは思った。そのために選んだバイト先だった。
だが、いざ訪れると……何を話していいのか、わからねえ。
「……バイト?」
そんな当たり前のことを聞いてくるあいつが、妙におかしかった。
「他の何に見えるんだよ」
「ずっと、ここでバイトしてたの?」
「いんや。まだ一週間も経ってねえ」
「そう……」
たったそれだけの、短い会話。
俺は店員で、あいつは客だ。あまりべらべらしゃべっているわけにもいかなかったのも事実だが。
それでも、妙に物足りねえと感じるのは……何でだろうな。
パステルの方も、それ以上会話することが思いつかなかったのか、そのまま店内へと足を進める。
その姿を自然に目で追っている自分に気づいていた。
……気になるのは、当たり前だ。あいつは、憎んでも憎みきれねえ相手なんだからな。
「これ、お願いね」
どさっ、とカウンターに籠を投げ出されて、慌てて視線を戻す。
「いらっしゃいませ」
空虚な挨拶をして、バーコードをスキャンする。
その間にも、サングラスの奥の視線は、パステルを捕らえていたこと……
文房具の棚をまわって、ドリンクの前で足を止めて、そして雑誌のコーナーに移動してきたことまで、しっかり補足していた自分が、少しばかり意外だった。
客が消えた後。カウンターの正面の棚で、立ち読みをしていたパステル。
その姿をじっと見つめていたことになんて、きっとあいつは気づいてもいねえんだろうが。
「……これ、お願いします」
「いらっしゃいませ」
客として現れたあいつが、俺の手元をバカみてえにぽかんと眺めていたこと。
「584円になります……おい、俺の手に、何かついてんのか?」
何気なくつぶやいた軽口に、弾かれたように顔をあげたこと。
俺の視線を受け止めて、とまどったような表情を浮かべたこと。
「あのっ……」
「会計」
何か言いかけたところを遮る俺の言葉に、慌てて財布を取り出したこと。
どれもこれもが、何気ねえことのはずなのに。
あいつの一挙一動が目に止まって仕方がねえのは、何でなんだ……?
「随分慣れてるのね」
「高校の頃も、バイトしてたからな……別のコンビニだけど」
「そう……」
素っ気無い返事しかできねえ自分に苛立つ。
たらしこむのが目的だ。本当は、もっとこいつを喜ばせるような、優しい言葉でもかけてやるべきなんだろうが……
どうしてだか、こいつの前では、演技ができねえ。こいつのまっすぐな視線は、俺の本心なんか簡単に見抜いているような気がして、演技をしようという気になれねえ。
財布をカバンにしまって、パステルがカウンターの前から離れる。
呼び止めたい、一瞬そう思ったが、そのときには、もう別の客が並んでいた。
舌打ちの一つもしてえ気分で、商品のスキャンを始める。
そのとき、目に入ったのは、カウンターに置きっぱなしになった見慣れねえ傘。
ばっと顔を上げる。まだ店から出てねえ。間に合う。
「お客様……お忘れです」
言葉をかけた瞬間、パステルが振り向いたこと。
再びカウンター前に戻ってきたこと。
チャンスだと……思った。あいつが傘を忘れたことはただの偶然だろうが、この偶然こそが……俺が待ち望んでいた、チャンスなんだと。
「これ」
「す、すいません……」
顔を伏せて傘を取り上げるあいつの耳元に、素早くささやきかける。
「……また、メール打ってもいいか」
一瞬、パステルはぽかんとした顔を見せて、そして大きく頷いた。
その顔は、心底嬉しそうだった。
……かかった。
笑みが浮かぶ。微笑みに見せかけてはいたけれど、心の中でどろどろした醜い感情が渦巻いた笑み。
もう逃がさねえ。
おめえの心も、身体も……全部、俺のものにしてやる。
それからは、しょっちゅうパステルが店に来るようになった。
大学に行く必要がなくなって、助かったとも言えるが。
顔を見せるたびに他愛もねえ会話が増え、それに伴いメールも徐々に増えていった。
「ノート、取っておいたよ。今度、店に持っていくね」
「あのデザート、すごく美味しかった。また買いに行くね」
どうでもいい内容ばかりが詰まったメール。それでも、確実にその分量は増えていく。
……間違い、ねえ。
バイトバイトの日々の中で、色々な人間関係を見てきた。見たくもねえのに見させられた。
経験が訴えていた。間違いねえ。パステルは、俺に惹かれている。
惚れてる、というとこまで行ってるかどうかはわからねえが。
……そろそろ、いいな。
毎日のように届くメール。それに返信を打ちながら、俺は手帳のカレンダーを広げた。
5月を過ぎた。パステルと顔を合わせてから、既に一ヶ月近くが経っている。
そろそろ、いいだろう。関係を、一歩前進させてやる。
都合のいい時間帯にこいつが現れるかどうか、それだけが問題だったが。
決意から数日後、その機会はあっさりと訪れた。
後十分でバイトが終わるという時間。店に現れたパステルを見て、俺が内心ガッツポーズをしていたことなんか、もちろんこいつは気づいちゃいねえんだろうが。
「よお。また来たのか。おめえも暇な奴だな」
「暇ってわけじゃないわよ」
最初の頃に比べて、大分砕けた口調になっている。
出会うたびにこんな軽口を叩きあうのも、今となっては挨拶がわりみてえなもんだ。
……誘っても、不自然じゃねえよな?
「そっか。お忙しいようでしたら、しょうがないですねえ」
そう言って、わざとらしく目をそらすと、パステルはあからさまに戸惑いの表情を見せた。
こいつはわかりやすい。素直で、疑うことを知らねえから……その表情から、全ての感情が読み取れる。
「何かあるの?」
「べっつにー。ただ、俺、今日はバイト、六時までなんだよね」
素早くパステルが時計に目をやった。
……乗ってきた。
「もしも暇なら、どこかにお誘いしようか、と不遜にもそう思ったのですが。お忙しいようでしたら、仕方ないですねえ」
「ひ、暇! 暇よっ」
即座に返って来た返事に、俺は笑みを隠すことができなかった。
……バカな奴だな、おめえは。
ちっとは、警戒するってことができねえのか?
どうして、こんな俺のことを信用できる。おめえは、俺のことなんざ何も知らねえくせに。
「んじゃ、店の外で待っててくれっか」
「うん」
満面の笑みを浮かべて頷き、店を出て行く。今日の目的は、一体何だったんだか。
……俺の顔を見るため、か?
その考えは、きっとうぬぼれじゃねえような気がする。
心底嬉しそうな、その笑顔。
それが心の奥に焼きついて離れねえのは、遠い夏の日に浮かんだ罪悪感を呼び覚ましたのは……何で、なんだ?
誘う、と行ったところで、大して金に余裕があるわけでもねえ。
結局、俺が連れていったのは、安さだけがとりえのファーストフードの店。
お嬢さんであるあいつを満足させることなんざ、到底できねえだろうと思っていたが。
意外にも、あいつは嫌そうな顔一つ見せなかった。
「腹減ってんだよね、俺」
そう言うと、あいつは疑いもなく店の中へとついてきた。
「今日は、いつから働いてたの?」
「正午から六時間」
一つのトレイに乗った二人分の食事。
安くなければあえて買おうなんて思わねえ。そんな程度の味なのに、二人で食うと、何故か妙にうまかった。
「何で、そんなにバイトばっかりしてるの?」
何気ない会話の中で。パステルのその言葉は、解釈によっては嫌味にもなりかねねえ言葉だった。
大した深い付き合いでもねえが、わかってる。こいつに悪気なんか何もねえってことを。
ただ、多少世間を知らねえだけだ……そう思うと、怒る気にもなれなかった。
本当なら、これは復讐心を煽る台詞のはずなのに。
「ああ? ……そりゃ、生活費稼ぐためだよ」
「え?」
「だあら、俺一人暮らししてるから。仕送りも少ねえし、バイトで生活費稼がないとやってらんねえの」
「……あ……そ、そうなんだ」
俺の台詞に、パステルは申し訳無さそうに顔を伏せたが。
だが、それ以上余計なことは、一切言わなかった。
金に苦労をしたことのねえ自分が、つまらねえ同情を寄せることは嫌味にしかならねえ。
それを悟っているのかいねえのかはわからねえが……
「そ。だけど、たまには大学に来ないと、進級できなくても知らないから」
次に返って来た台詞は、いつもの軽口と、何の違いもなかった。
「ああ? バカ言え。俺の頭を甘く見んなよなあ。試験の成績さえよけりゃあ、単位はもらえるだろ。大学なんて、そんなもんだって」
くだらねえ会話の応酬。
だけど、楽しかった。
楽しんじゃいけねえとわかっちゃいたが。
それでも、楽しいと思ってしまった。
飯が終わった後も、だらだらと会話を続けていたら、いつの間にか結構な時間になっていた。
……初めてのデートとしちゃあ、こんなもんだろ。
「おめえは、箱入りのお嬢様みてえだからな」
そう言って家まで送ってやると言うと、パステルは不服そうに頬を膨らませた。
「……別にっ、そんなこと、ないわよ」
おめえがお嬢様じゃなきゃ、誰がお嬢様なんだ。
電車に乗って、30分足らず。
パステルと二人で歩くと、それはやけに短く感じた。
俺の部屋とは全く違う、豪邸と呼んでも差し支えねえ大きな屋敷。
……俺の親父達を犠牲にして、建てられた屋敷。
そう自分に言い聞かせる。
そうでも思わなければ、目的を忘れちまいそうだった。
じっと俺を見上げるパステルの目から、視線をそらせなくなっていたから。
つまらねえ会話の一つ一つが、耳に残って仕方が無かった。
……何だよ、この気持ちは。まさか、まさか俺は……
「今日は……ありがとう。楽しかった」
「いんや。別に……」
家の門の前。本当なら、ここで手でも振って、背を向けて、帰らなければならねえ場所だ。
それなのに、パステルはなかなか玄関に向かおうとしねえ。そして、俺もその場を動けねえ。
離れたくねえと、思ってしまっている自分に気づいたから。
「あのっ……」
パステルが何かを言いかけて、そして口をつぐむ。
……何だよ。
言いたいことがあるなら、はっきり言え。
赤らめた頬。俺を見つめる熱い視線。
答えは、明白だった。
「あの、わたしっ……」
その言葉を、最後まで聞くことはできなかった。
気が付いたときには……俺は、パステルの身体を、抱きしめていた。
これは、計画なんだと言い聞かせながら。それでも、身体を突き動かす本能に、逆らえなかった。
「おめえは俺を好きなのか、そう思っていいのか?」
自分から「好きだ」と言わなかったのは、せめてもの強がりだ。
俺は、おめえに惚れてなんかいねえ。
おめえをたらしこむために……復讐のために、俺はおめえに近づいたんだから。
「……トラップは?」
「態度でわかれ」
わかるはずがねえとわかっていながら。
俺は、抱きしめる腕に、力をこめた。
その日、計画の第二段階は終了した。
犯して絶望を植えつけたのが第一段階。
たらしこみ、希望を与えるのが第二段階。
そして、第三段階は……
ゆっくり時間をかけるつもりだった。
時間をかけなきゃ無理だろう、とも思っていた。
それなのに……
焦っていた。
このままでは、目的を忘れてしまいそうな自分がいたから。
早くしなくちゃなんねえ。
取り返しがつかなくなる前に……パステルを、絶望の淵から、這い上がれなくするんだ。
そうでもしなきゃ……俺の心が、持たねえ。
何度かデートを重ねて、そうしてパステルの目が、俺からそらされることの方が少なくなって。
それが目的だったはずなのに、罪悪感に潰れそうになった。
だから、焦っていた。忘れられなくなる前に、取り返しが付かなくなる前に、全てを終わらせちまおうと。
それは、何度目かのデートも忘れた、春の終わりと夏の始めの境目の日。
大学で落ち合って、別路線の電車に乗ってデートをする。俺は滅多に休みがねえから。たまに二人の休みが重なったときは、こうして遠出をする。
どちらが言い出したわけでもねえ、ほんの小さな決まり。
それが、思わぬ機会をもたらした。
脱線事故。それ自体はよくあることだが、起きた時間帯が遅すぎたこと、そのせいで、大学近くまで戻ってきたときには、もう深夜近くになっていたこと、そして、そんな時間にパステルの家へと向かう方面の電車は、終わっていること。
色んな要素が交じり合って偶然にできた、またとない機会。
「あーっ、たく。終電ねえぞ? おめえ、どうする?」
「どうするって……」
俺の言葉に、パステルは困ったように顔をしかめた。
どうする、と言いながらも、大体返事の予想はしていた。
タクシーに乗ったっていいし、過保護な両親のこった。電話の一本もかければ、すっとんでくるだろう。
そう思っていたのに。パステルの唇から漏れたのは、予想外な言葉だった。
「トラップの家って、近く?」
返事をためらったのは、こいつがまさか自分からこんなことを言い出すとは、思ってもいなかったから。
「……まあな」
そう聞かれたとき、次に来る言葉は、大体予想がついていた。
「泊めて……くれる?」
「……いいのかよ、お嬢さん?」
「子供扱い、しないでってば!」
俺の言葉に、パステルは本気で怒っているらしい。
顔を真っ赤に染めて、それでも、俺の腕にすがりついてきた。
いいや、おめえは子供だ。
その顔を見て、胸中でつぶやく。
大人の女だったら……こんなとき、震えたりはしねえ。
小刻みに震えるあいつの手。怯えているのが一目でわかる顔。
怖いなら……どうしてそんなことを言うんだ?
誘うなら、絶対に俺からだと思っていた。おめえが、自分からそんなことを言い出すなんて。
……それほどまでに、俺に惚れてるってのか?
「泊めて」
「……ついてこいよ」
嫌だ、なんて言う理由は何もねえ。
それなのに、ためらいが消えねえのは……パステルの好意を、辛く感じる自分がいるから。
辛く感じる理由については、考えねえ。考えたって、決心が鈍るだけで……いいことなんざ、何もねえから。
「ちっと片付けてくっから、そこで待ってろよ」
「うん」
パステルを部屋の外に待たせて、先に中に入る。
片付ける、と言ったところで。部屋の中に大したものは置いてねえ。
隠すようなものがあるとしたら。
カバンの中から、いつも持ち歩いている写真の束を取り出す。
今となっては、これだけが、俺の復讐心が嘘じゃなかったと証明してくれる、唯一のもの。
ベッドのシーツをはがし、マットレスの下に押し込む。
今はまだ、見られるには早い。
素早くベッドを整えて、部屋を見回す。
……大丈夫、だな。
「……いいぜ」
「お邪魔します」
ドアを開けると、パステルは、頭を下げて玄関をくぐってきた。
部屋に入れると、パステルは物珍しそうに周りを見回した。
「そんなに珍しいかよ?」
「う、ううん、別に……」
お嬢さんであるおめえは、こんな狭い部屋を見たのは……初めてなんだろうな。
口の中だけでつぶやいて、くるりと振り向く。
視線と視線のぶつかり合い。パステルの目は、挑むように俺を見上げていた。
「風呂、使う? 狭いけど。それとも、もう寝るか?」
寝る、という言葉に小さく肩が揺れたのを、見逃さなかった。
「ベッド、貸すぜ。俺は床でも寝れるから」
「……お風呂、貸して」
からかうような言葉に、真面目に反応する。それがおかしくて、俺は声を立てずに笑った。
怯えているくせに。
あの日のことを、忘れたわけじゃねえくせに。
それなのに、せいいっぱい虚勢を張っているあいつの姿がおかしかった。
おかしくて……愛しかった。
「何か、着替え貸してくれる?」
そう言うパステルにYシャツを放り投げる。
下にはくものを貸さなかったのは、わざとだったが、あいつはそれに気づかなかったのか……あるいは、俺になら見られても構わねえと思ったのか、文句は言わなかった。
「タオルは、それ」
「……ありがとう」
狭いユニットバスの中に、パステルの姿が消えるのを見送った後、ごろりとベッドに横たわった。
薄いドアから漏れ聞こえてくる、シャワーの音。
それは、俺の妄想をかきたて、欲情を煽るのに、十分すぎる状況だった。
……計画、なんだ。
全ては計画。あいつを犯したのも、近づいたのも、たらしこんだのも付き合ったのも、全てはこの日のため。
それなのに。
この状況を嬉しいと思っている自分がいる。パステルを抱ける、ということに、男として、純粋な喜びを抱いている自分がいる。
それがどうしようもなく、情けなかった。
ユニットバスなんて使い慣れてなかったせいだろうか。
パステルが風呂からあがってきたのは、それから大分経ってからだった。
大き目のYシャツ一枚羽織っただけの姿。その姿は、この上なく扇情的だ。
瞬間的に反応を示す自分の身体が、恨めしい。
「あの……お風呂、ありがとう」
「どういたしまして」
声をかけられて、立ち上がる。
意地っ張りなあいつのこった。こうすれば、きっと……
「どうぞ。狭いベッドで寝苦しいかもしれませんがねえ?」
予想通り、パステルは顔を真っ赤にして、つぶやいた。
「……わ、わたしの部屋のベッドだって……同じくらいの大きさだから」
ぼすん、とベッドに腰掛ける。俺を見上げるその視線は、どこまでも挑戦的だった。
怯える自分を見せまいと、せいいっぱい虚勢を張っている。そんなことが丸分かりな、視線。
「二人で寝るには、ちょっと狭いかもね」
「……お嬢さんにしては、大胆なこと言うじゃねえの」
心底、そう思う。
男を誘うなんてことは、こいつには一番似合わねえ行為だと思っていたのに。
どうしてどうして……服装のせいかもしれねえが、なかなかに様になっているのは。
それは、おめえが俺に心底惚れてるから……だよな?
「だってっ……トラップは……嫌?」
「まさか」
それこそ、まさかだ。
嫌なわけがねえ。最初から、そのつもりでおめえに近づいたんだから。
パチン、と明かりを消す。豆電球もつけねえ、真の闇。
そうなって初めて、俺はサングラスを外すことができた。
憎悪に濁る視線を隠していたもの。そして、憎悪の中に、思慕、恋情が混じるのを、自分が気づかねえようにするための、フィルター。
真っ暗な中、どすんとベッドに腰掛ける。
真横に、湯上りのパステルの身体を、感じた。
ぐっと肩をつかむ。パステルの目が、俺の目をまっすぐに捉えた。
……暗いから、気づかれるはずはねえ。
そう言い聞かせても怖かった。だから、次の瞬間、俺はパステルの唇を奪っていた。
「んっ……」
想像通り、パステルの瞳が閉じられる。……それでいい。
軽くくちづけた後、頬に、耳に、額に……
うなじに、首筋に。
白い肌に、赤い痕が浮かび上がる。身も心も、俺のものにしたという証。
「あ……」
漏れるつぶやきをかき消すように、再び唇を重ねる。微かに開いた隙間から舌を滑り込ませ、そうしてあいつの全てをからめとるかのような、濃厚なキス。
「んんっ……」
徐々に、抱いている身体から力が抜けていくのがわかった。
微かなきしみとともに、その細い身体をベッドの上に横たえる。
一年前の、あの日、あのとき抱いた身体。
目の前にある身体と、あのときの身体が同じものだとは、どうしても思えなかった。
Yシャツのボタンを一つ一つ外していく。
あらわになる胸元。大して大きくもねえ、と思ったのも、同じ。
けれど、違った。あのときとは、確実に違った。
怯えて、硬いまま、ろくに反応も示さなかったあのときとは違う。
俺の愛撫に素直に身をまかせ、反応し、あえぎ声を漏らし……そうして身をくねらせる様は、この上なく魅力的だった。
シャツの隙間から、手を滑り込ませる。触れた素肌は、とても滑らかだった。
「やあっ……」
感じているのか、どうなのか。俺が手を動かすたびに、パステルの声は段々と派手になっていって……そうしてそれが、俺の子供じみた嗜虐心を煽る。
それは、「好きな子ほどいじめたい」という、ガキと全く同じ心理だと。
気づいてはいたが、目をそらして、そして言った。
「素直に反応してくれんのは嬉しいんだけど……」
胸をなで、ときに強く、ときに弱く。
肩から鎖骨へ、背中をまわってうなじへと愛撫を繰り返す。そのたびに背中をのけぞらせ、声を漏らす。
その耳元に、そっとつぶやいた。
「あんま壁厚くねえから。派手な声出すと、隣に聞こえんぜ?」
「……嘘っ!!」
思った通り、効果はてき面だった。
実際に隣に声が漏れてるのかどうかなんて知らねえし、例え聞こえたところで、顔も知らねえ隣人に恥じる心なんざ持ちあわせちゃいなかったが。
その言葉を聞いて、羞恥に顔を染めるパステルの顔が、それでも愛撫をやめねえせいで、必死に声をかみ殺すその顔が、余計にそそった。
いつしか、俺は行為に夢中になっていた。
女を抱くという行為に、金を稼ぐ手段、あるいは復讐の手段としての意味しか持っていなかったはずなのに。
いつからか、パステルの身体に溺れそうになっている自分に気づいた。
もしも、パステルがその一言を言わなかったならば。きっと、何かは変わっていたはずだ。
「やっ……トラップの、意地悪っ……」
ぴくり
大した意味は無い、とわかっていながらも。
つぶやかれた言葉は、なかなかに聞き捨てならねえ言葉だった。
意地悪。
そう、そうでなければならねえ。
俺は復讐のためにこいつを抱いているんだから……優しくしちゃ、いけねえんだ。
「意地悪ねえ。俺がこんだけ優しくしてやってんのに……」
軽く耳をかむと、パステルの顔がゆがんだ。
わかってるんだぜ? おめえの弱点が、耳だってことは。
あのときも、やけに過敏な反応を示していたよな……?
「んなこと言われたら、もっと意地悪したくなるよなあ……」
ぐいっ、と脚を開かせる。
反射的に閉じようとしたそこに、無理やり自分の身体を割り込ませる。
「やっ……」
「俺がこんだけ我慢してんのに。んなこと言われたら……めちゃくちゃにしてやりたくなるんだよなあ……」
風呂上りの姿を見たときから、密かに反応しっぱなしだったモノを取り出す。
あのときは、硬すぎて、狭すぎて。そしてあっという間だった。
今は、どうだ……?
太ももに手を這わせると、わずかに身体がそらされた。
……逃がすかよ。
がしっ、と肩をつかむ。その瞬間、パステルの表情に走ったのは、怯え。
隠そう、隠そうと必死になってきた怯えが、今、前面に押し出されていた。
「やっ……い……いや……」
「今更。止められるわけねえだろ」
もうすぐ、終わる。
貫いてしまえば、全てが……終わる……
それを残念に思う気持ちを、無理やり追い払って、震える頬のすぐそば、耳元に息を吹きかけた。
特別な意味は無かった。ただ、弱点を責めて、あいつの理性をふっ飛ばしてめちゃくちゃにしてやりてえ、そう思っただけなのに。
その瞬間、予想以上の反応が返って来た。
「い……やああああああ!!」
どんっ!!
返って来たのは、激しい拒絶。
大した力じゃねえけど、それでも、全力をこめて突き飛ばされた。
歪んだ顔を伝うのは、涙。
その涙を見たとき、思い出した。
あのときも、一年前のあのときも、貫く寸前、耳に息を吹きかけたんだよな、と。
まさか……それを、思い出した?
冷や汗が流れる。まさか、俺だと気づかれたはずは、ねえよな……?
痛いくらいの沈黙が流れた。実際のところ、それは杞憂で終わったが。
パステルの顔に浮かんだのは、怯えと後悔、申し訳ない、そういう表情。
「……あ……」
「…………」
とん、とベッドから降りる。
今日は……もう、無理だな。
思い出しちまったようだから。犯されたときの、恐怖を。
「わりい、焦りすぎたな」
「…………」
色んな意味で、それは本音だった。
焦りすぎた。取り返しのつかなくなる前に決着をつけようとして。
目の前に投げ出された肢体が、あまりにも魅力的すぎて。
「ったく。だあら、やめときゃよかったんだって。おめえ、俺に感謝しろよなあ?」
ごろりと床に寝転がる。
気にしてねえ、ということを伝えるために。ここで別れるのは、本意じゃねえから。
まだ、終わってねえから。だから、俺は言った。
「あそこまでいってやめれる男なんて、普通いねえぜ?」
返事はなかった。
ただ、暗闇の中で、押し殺したような泣き声が響いてきた。
……泣くなよ。
そう声をかけてやりてえ。おめえが罪悪感なんか感じる必要はねえんだと。
おめえの身体を汚したのは俺なんだと……そうぶちまけてしまいたい衝動に狩られる。
……バカか、俺は。
ぎゅっ、と目を閉じた。耳に届くすすり泣きの声から、無理やり注意をそらす。
バカか、俺は。何のために……これまで、苦労してきたんだ?
こんなところで、諦めたら……一体、今まで何のために……
何のために、パステルを犯して、傷つけたんだ?
次の機会を待つんだ、と自分に必死に言い聞かせた。
パステルは確かに罪悪感を感じていた。俺に抱かれるつもりは、まだあるんだ。
まだ、チャンスは、ある……
そこで抱くべきは、復讐を遂げるチャンスがある、ということに対する安心感だったはずなのに。
何故か、それより先に、「まだ嫌われてはいない」ということに関する喜びだったのは。
深く考えちゃ、いけねえことだ……
翌朝、パステルが帰っていった後。
乱れたシーツをはぎとって、写真を取り出す。
昨夜抱いた感情を、否定するために。
一枚一枚眺める。俺がしでかしたこと。自分で考え、自分で決めて、そして決行したこと。
引き裂かれたセーラー服。傷ついた身体、脚を汚す血、振り乱された髪。
何もかも、記憶に残っているあいつの姿、そのもの。
輪ゴムで止めて、カバンにしまう。
忘れちゃ、いけねえ。
忘れちゃ、いけねえんだ。
本気になっちゃ、いけねえんだ……
それから後も、パステルは店に来た。
あんなことがあったってのに。それでも、俺を諦めきれねえということか。
何度かデートも重ねた。さすがに、身体の関係にまではいたらなかったが……
必死だった、というのが、一目でわかった。
俺に嫌われるんじゃねえか、と。パステルはそのことに、ただひたすら怯えていた。
そこまで、俺のことが好きなのか。
何度か喉元まで質問がこみあげてきた。
そうまでして……俺を失いくたねえのか?
その答えが出たのは、それから数週間後のことだった。
深夜0時。バイトの疲れもあって、そろそろ寝ようか、という時間帯。
携帯電話の着信音に、俺は飛び起きた。
かけてくる相手によって、着信音をある程度変えているから。取る前から、かけてきたのが誰か、わかった。
「もしもし」
聞こえてきたのは、予想通りの声だった。
「今……大丈夫?」
「ああ」
声が震えていた。
こんな時間に電話なんて、普通じゃねえ。いつもだったら、例え何か用があったとしても、メールで済ませている。
「何か、あったんか?」
「会いたいの」
パステルの言葉は、唐突だった。
思わず時計に目をやる。……こんな時間に?
「会いたいから、大学まで来て……お願い」
「……ああ」
そう言うと、電話は切れた。
……どういうことだよ。
財布だけ持って、立ち上がる。
こんな遅くに……一体、何の話があるっていうんだ?
まさか……
走り出す。大学までは、数分の距離だ。
校門のところに立っていたのは、まぎれもなく……パステル。
「あんだよ、おめえこんな時間に……どうやってここまで来たんだ?」
電車はねえはずだ。親に送ってもらったのか……
だが、俺の予想は、見事に外れた。
「トラップ。あのね、わたし……この間から、一人暮らししてるんだ」
それは、思いもよらねえ言葉だった。
「おめえが? ……あんで。実家、引越しでもしたんか?」
「違うの。……いつまでも、『お嬢さん』でいるのは、嫌だから」
そう言うと、パステルは、まっすぐに俺を見つめてきた。
全く、迷いのねえ目で。
「話したいことが……あるの。今から、わたしの部屋に……来てくれる?」
「……りょーかい」
そのときには、悟っていた。
その目に宿るのは、決意の光。
そして、同時にわかった。
多分、今日が。
こいつと過ごす、最後の日になるだろう、と……
案内されたパステルの部屋は、俺の部屋よりもう少しだけ金のかかりそうな、だけど広さ的には大差ねえ、そんな部屋。
「ごめん……汚い部屋だけど……」
「おめえ、あからさまな謙遜は嫌味だぜ?」
塵一つ落ちてねえ部屋に苦笑する。
いかにもパステルらしい部屋だった。少女趣味なカーテンやベッドカバー。きちんと整理され、掃除の行き届いた……まだ真新しい匂いのする部屋。
床に腰を下ろす。じっとパステルを見上げてやったが、その表情に変化は無かった。
「話って、何だよ」
「……あのね、トラップ。わたし、実は……」
パステルの声は、震えていた。
聞かなくてもわかる、と言いたくなった。おめえは、あのことを言うつもりなんだろう?
一年前の、あの出来事を……
「トラップ。わたし、実はね……去年の夏に……襲われた、の」
予想通りの言葉に、俺はただ、無表情を貫くことしかできなかった。
図書館で本を読んでいて、遅くなった。早く帰りたくて、人通りの少ない道を進んだら、後ろから誰かに襲われた。
抵抗することもできなかったし、タオルで顔をふさがれて、全然顔も声もわからなかった。
そんなことを、ぽつぽつと語るあいつの顔は、どこまでも苦しそうだった。
……言う必要なんか、ねえことなのに。
黙っていりゃあ、普通は、わかりゃしねえのに。
そりゃあ、抱かれれば処女じゃねえことはわかるだろう。けど、昨今大学生にもなって処女っつー方が、ずっと珍しいんじゃねえの?
それなのに、あえて言うってこたあ……
こいつは、俺とずっと一緒にいたいと、そう思ったんだろうな。
だから、嘘はつきたくねえと……そう思ったんだろうな?
そう悟って、感じたのは……喜びだった。
気づかれねえように、手を握り締める。
チャンス、じゃねえか……
そこまで信頼して、惚れこまれて……そこで、俺が裏切ってやれば。
きっと、こいつは立ち直れねえだろう。それこそが、俺の最終目的だったはずだ。
それなのに……
パステルは、何度も何度も言葉を詰まらせながら、それでも起こったことを全てありのままに話した。
当事者である俺だからわかる。嘘は何一つついてねえ。
どこまでもバカ正直で、真摯な告白だった。
……こうなることは、予想していた。
あのパステルの性格を考えれば……本気で惚れた相手に、黙っていられるはずがねえとわかっていた。
そして。
もし告白されたとき、何て答えるか……計画を練ったその時点で、シミュレートは、終わっていた。
「ご……ごめんね……今まで黙ってて……」
「…………」
全てを語り終えたとき。パステルの顔に浮かぶのは、心底申し訳ないという、そんな表情。
「わ、わたし……」
「あんで」
ぐいっ、と腕をつかむ。
抱き寄せた身体からは、微かに石鹸の匂いが漂ってきていた。
「あんで、おめえが謝るんだよ」
「っ……だって……」
「おめえは、別に何も悪くねえじゃん」
「…………!!」
きっと自分を責めているに違いねえ。
自分は悪くないんだと言い聞かせながらも……あのおひとよしで、他人を憎むことが何より苦手なパステルのこった。
最終的には、自分を責めるに違いねえと思っていた。隙があったから、油断していたから、本気で抵抗すれば、あるいは……そんな、言ってもどうにもならねえようなくだらねえことを、気にしているに違いねえと思っていた。
だから、それを否定してやる。
おめえは悪くねえんだと……多分、それがパステルの一番欲しい言葉だろうとわかっていたから。
そう言えば、きっとこいつは、俺から離れられなくなるだろうとわかっていたから。
「わたし……だって、汚れてるって……思わない?」
それは、いかにもパステルらしい言葉。
「あんでだよ」
「だって……」
「綺麗だよ」
腕に力をこめる。胸に押し付けられるパステルの顔。薄いシャツ越しに伝わってくる、熱い吐息。
その全てが、俺の罪悪感をどうしようもなく煽った。今なら……あるいは、今なら。全てを告白して、許しを請うて、無かったことにできるかもしれない。
そんな考えが、ふと浮かぶ。
けれど、それを受け入れることはできなかった。
電車に飛び込んで、ばらばらに飛び散った親父の身体、心労でげっそりやつれた母ちゃんの顔、男に媚を売ることに疲れ果てたマリーナの表情。
それらの全てが……その甘い、魅力的な考えを受け入れることを、許さなかった。
「おめえは、綺麗だよ。怖かったんだろ。今まで、ずっと怯えてたんだろ? だあら、あのときも……俺が乱暴に扱ったから、それで……」
「トラップ……」
「謝るのは俺の方だ。優しくできなくて……ごめん」
ごめん。
傷つけて、ごめん。裏切って、ごめん。
もっと違う出会いをしたかった。心から、そう思う。
「トラップ」
ぎゅっ、と背中にまわされた腕に、力がこもった。
「優しく……してくれる?」
「ああ。おめえが、そう望むなら」
そっとその唇にくちづける。
もう、止められねえんだ。
今更……止めることなんか、できねえんだ……
その夜、狭いベッドの中で、俺はパステルを抱いた。
一年前、無理やり引き裂いたときとは違う。
数週間前の、怯えて震える身体とも違う。
心から俺を受け入れて、素直に俺の手に全身を委ねて、されるがままに乱れて……
そうして、一つになったとき。
俺の心に、確かに浮かんだのは、愛情だった。
失いたくないと、ずっとこうしていたいという、思い。
その思いに突き動かされるようにして、俺は、力尽きるまで、パステルの身体を抱き続けた。
幸せだった。
翌朝。パステルに背を向けながら。
それでも、俺はそう思わずにはいられなかった。
たまらなく暖かい空気。ずっとこの空気に包まれていてえと……本気で思った。
……親父、母ちゃん、マリーナ……
もし、俺が。
俺がこんなことをしてると知ったら……みんなは、何て言うだろうな?
バカなことをして、って言うだろうな。
……本当にバカだと思うぜ、俺も。
復讐のために近づいた相手だった。
傷つけて、絶望を与えて、救う振りをして最後には裏切る予定だった。
そこまで残酷な計画を立てておきながら、そうして今、九割がた、計画は終わっておきながら。
今更……こんな思いに囚われるなんて。
後悔、するなんて。
壁を見つめながら考える。頭の中を、ぐるぐると色んな考えが渦巻く。
復讐を遂げるべきか。全てを話して、許しを請うべきか。
今更、という思いがある。ここまで来ておきながら、今更許しを請えるような立場か、と。
憎いという気持ちは本物だったはずだ。俺の思いは、そんなに軽いもんじゃねえはずだ、と。
同時に、それでも。例え虫が良いとわかっていても、パステルと一緒にいたいという、そんな勝手な願望が止まらない。
俺は気づかなかった。パステルが目を覚ましていることに。
もしもっと早くに気づいていたら。
そうしたら、運命は変わったのかもしれねえのに。
気づいたのは、パステルがベッドから這い出そうとしたときだった。
……起きてる?
「きゃっ!?」
向き直ろうとしたとき、響いたのは悲鳴。
ごろりと寝返りを打つ。俺が見ていることに気づいてねえのか、パステルは、ベッドの下にうずくまるようにして、床を見つめていた。
「あ……」
その声に身を起こす。そして……
身体が強張った。
ぶちまけられているのは、俺のカバンの中身。
パステルは、それを一つ一つ拾い上げて。
やがて、「それ」に気づいた。
「……え?」
「それ」を拾い上げる。その瞬間、俺は天井を仰いだ。
終わった。ゲーム・セット。
運命は、どうやら……俺に、復讐を遂げろ、と。そう言っているようだ。
「写真……?」
小さくつぶやきながら、パステルは、輪ゴムで止められたそれを、一枚一枚めくり始めた。
最初は、何が写ってるのかよくわからなかったかもしれねえ。だけど、嫌でも理解するはずだ。
「……え?」
そこに写っているのが、自分だということに。
小さく頭を振って、考えを切り替える。
この瞬間を待っていたはずなんだ。そう、俺はおめえに復讐のために近づいた。
俺達一家がこれだけ不幸な目に合ったのは、全部……おめえの親のせいだと。
そう思ったとき、こうでもしなきゃ、俺は自分の不幸を忘れることができなかったから。
ぎゅっ、とその小さな肩をつかむと、パステルの全身が強張った。
「トラップ……?」
「自分で見つけちまったのかよ。……俺が見せてやりたかったのに」
全ての感情を押し殺す。
俺がおめえに抱いていい感情は、憎しみだけだ。そう自分に言い聞かせる。
ばっ、と振り向いたパステルと、まともに目が合った。
夜に、サングラスを外した、そのままの目。
絶望と憎悪、恋情、後悔、愛情。様々な感情が入り乱れた視線で、パステルをまっすぐに見据えた。
「と、トラップ……?」
「……別に、おめえ自身にゃ、何の恨みもなかったんだけどな……」
ゆっくりと言葉をつむぐ。パステルに伝えると同時、自分に言い聞かせるために。
「おめえの親のせいで……俺達一家が、どんだけ辛い目にあったか……おめえみてえな苦労知らずのお嬢さんには、わかんねえだろうな……」
「あ……」
パステルの顔に浮かんでいるのは、とまどい。
俺が何を言いてえのかわからねえ、そんな顔。
……そうだろう。
おめえが知ってるのは、「トラップ」と名乗っていた俺のことだけなんだから。
「そのせいで、俺も、妹のマリーナも……高校を中退させられて……マリーナはな、おめえより年下だってのに、水商売までやらされてんだぜ? 好きでもねえ男に媚売って、金を手に入れて……そうでもしねえと生きていけなかった、そんな気持ちが、おめえにわかるか?」
「トラップ……?」
「トラップじゃねえ」
この瞬間を、待っていた。
おめえに俺の正体を告げる、この瞬間を。
「ステア・ブーツ。それが、俺の本名だ」
「ブーツ……?」
その名前を名乗ったのは、随分久しぶりな気がした。
トラップと名乗ることで、自分の不幸を忘れたかった。
復讐という生きがいを見出したつもりだった。
それなのに、この胸にちっとも満足感なんか浮かんでこねえ。かわりに、わきあがるのは……
「トラップ……」
「トラップじゃねえって言ってんだろ」
自分の気持ちを否定するために、肩をつかむ手に力をこめた。
ここまで来たら……もう、逃げられねえ。
だったら、せめて。
せめて、最初の思いを貫きてえ。復讐を遂げることで幸せになれると勘違いしていた、あのときの自分も、それは確かに「俺」だったから。
中途半端な状態にするくれえなら、いっそ、徹底的に憎まれてえ。
そんな俺の視線を受けて、パステルは、かすれた声でつぶやいた。
「嘘……だったの?」
「ああ?」
「今まで、優しかったのは……付き合って、くれていたのは……」
「何を、今更」
これだけ、説明しても。
パステルの目には、まだ信じられねえという思いが、浮かんでいた。
そんな目で、俺を見るな。
俺は、俺は……
ぐいっ、とその身体を抱き寄せる。顎をつかんで無理やり視線を合わせたとき……自分の手が微かに震えていたことに、気づいた。
「俺が、一度でもおめえを好きだと言ったことが、あったか?」
「…………」
言わなかった。
認めるのが嫌だった。おめえに惚れてるなんて、到底認めることはできなかった。
おめえをぼろぼろに傷つけておきながら、今更好きだなんて思えるわけがねえと。
復讐のために近づいた相手に惚れるほど、俺はバカじゃねえと。
子供じみた意地とプライドが、認めさせなかった。
それが、こんなところで幸いするなんて。
いや……幸い、じゃねえのかもしれねえ。
パステルの顔から、光が、どんどん消えていった。
太陽のようだった微笑みをかき消して、小さくつぶやいた。
「一つだけ、聞かせて」
「…………」
「あの日……一年前、わたしを……乱暴したのは……」
「乱暴、ね」
パステルらしい、言葉の選び方だと思った。
何も知らねえ、まっさらなお嬢さん。
そんな生々しい言葉……聞いたことも、ねえんじゃねえか?
笑いがこみあげる。あれほど、「子供じゃない」と言い張っていたのに。
最後の最後まで、自分がされた行為を、口にすることもできねえなんて。
「おめえを犯したのは、俺だ」
それは、今まで築き上げてきた関係を木っ端微塵にしてしまう、鍵となる言葉。
「全部、計画だったんだよ。おめえの親に対する復讐。可愛がってる娘が、犯されて、裏切られて……そうと知ったあいつらがどんな顔をするか、見たかった。おめえをたらしこむのが、こんなに簡単だとは思わなかったぜ。バカだよなあ、おめえは……」
言葉が止まらなかった。
いや、止められなかった。
止めてしまえばためらうことがわかっていたから。
許してくれ、と叫びそうになる自分を、わかっていたから。
「何で、絶望のどん底に突き落とした当の本人に、惚れたりしたんだよ?」
そう言い放ったとき。
パステルの顔に、既に何の表情も浮かんではいなかった。
……終わった。
これで、全て終わったんだ。
これが目的だったはずだ。
絶望を与えた後で希望を与え、そしてまた絶望を与える。
どこまでも卑怯で、残酷で……それだけに、復讐としては効果的なはずだと。
自分の不幸をはねのけることもできねえ俺が考えた、浅はかな、復讐。
それ以上、パステルの顔を見ることはできなかった。
服を着て、荷物をまとめて、そして背を向ける。
振り向いたら、駆け寄ってしまいそうだったから。
パステルの顔を見ないようにして、俺は、その部屋を後にした。
バタン、とドアが閉まる音。
その音を聞いても、わたしの心には、何の感情も浮かばなかった。
大切な、人、特別な、人。
失いたくなかったもの。最後の心の拠り所。
それが離れていってしまったのだと。わたしにわかったのは、それだけだった。
ふらりと立ち上がる。もう、何も考えたくなかった。
トラップのことが好きだった。一目見たときから……ずっと惹かれていた。
ずっと一緒にいたいと、そう思っていた。
絶望に染まって、男性を見るたびに怯えて、そうして殻にとびこもっていたわたしを、引きずり出してくれた人だから。
なのにっ……
知らされた事実は、あまりにも残酷だった。
もう……嫌。
こんな現実は……嫌。
そっとお風呂場の戸を開ける。
水がいっぱいに満たされた浴槽。
洗面台に置かれた、剃刀。
右手首を切り裂いたときも、痛みは何も感じなかった。
痛いわけが、ない。
心が、こんなに痛いんだもの……
どぶん、と腕を水につけると、鮮やかな赤が、目に染みた。
いっそ、嫌いになれたらよかった。
トラップのことを嫌いになれたら……裏切られたと知っても、きっと耐えられた。
少しずつ、少しずつ力が抜けていく。ぐったりと浴槽に身をもたせかけて、わたしは目を閉じた。
頬を伝う暖かいものは、何だろう?
出会ってから今までの出来事が、いっぱい、いっぱい駆け巡っていった。
好きだから。
例えトラップはわたしのことを憎んでいたとしても……わたしは、まだ好きだから。
だからこそ……トラップを失った人生なんか、考えられなかった。
ねえ、トラップ。
わたしが、お父さんの娘じゃなかったら。
そうしたら、あなたは……わたしを、好きになってくれた?
ふうっ、と意識が遠のくのがわかった。
答えを知りたかったけれど……しょうがないよね。仮定の話をしたって、仕方がない。
ばたばたという足音がした。バタンッ、とドアが開く音がした。
「パステル!」
それは、きっと空耳に違いない。
トラップのことが好きで好きでたまらないわたしに、神様が最後にくれた、プレゼント。
……ありがとう。
最後に、トラップの声が聞けて……よかった。
お風呂場の前に、誰かが立っているような気がしたけれど、もう目を開けることもできなかった。
そのまま、わたしの意識は、暗い暗い闇の中へと沈んでいった。
完結です。
すいません、どーしようもなく暗いですね。
次作は、明るい……というか原作に忠実な作品でいきます。
その次は、悲恋の5、行こうかなあ。
素晴らしいです。
先が読める別視点ものなのに、こんなにドキドキするのは何故だろう。
できるなら、エンディング分岐で二人が幸せになれるバージョンも書いて欲しい。
名前がややこしくなってすみません。
今回で終わりにします。
少しばかり慣らされたぐらいじゃ、パステルの身体は、簡単にはおれのモノを受け入れられなかった。
こんなんで、本当に入るのか、と思っちまう。
みるみるうちに、目の端に涙が溜まって、相当辛そうだった。
ぎりぎり押し開いていくのは、おれにさえ痛みを伴う。パステルの痛みはどんなもんか、想像もつかねぇ。
「ムリしなくていい」
何度も言うと、そのたびにパステルは頑固に首を横に振った。
噛みしめた唇が切れちまうんじゃねーか、と心配になる。
苦痛に歪んだ頬には、乱れた髪が一筋張り付いていた。
「途中で…やめたりしたら、ゆるさない、トラップ……」
女は、怖ぇ。
上目遣いに睨まれ、背筋がぞくっとすると同時に、おれ自身の興奮がさらに高まるのがわかった。
これが、あのパステルかよ。
昔はホンのカスリ傷で、メソメソ泣きべそかいてた、あいつが。
このごろは、少しは強くなったとは思ってた。
でも。何つう、色っぽい顔しやがって。
「もう、やめろって言われてもやめられねーよ…」
掠れた声しか出ねぇ。
一息ついて、言った。
「いっそのこと、一気に行くぜ。痛ぇだろうけど…ごめんな」
かすかに頷いて、パステルの両目が静かに閉じられる。
穏やかにパステルが微笑んだ…ような気がした。
おめぇに、痛い思いさせんのは、ほかの誰でもねぇ、おれだ。
キレイなままの身体を、傷つけちまう。
そんなやり方でしか、好きな女を自分のものにできねぇんだよ、男ってのは。
でも、おれだって。
いつだって、おめぇのもんだぜ。全部な。
その身体を、ひと思いに貫いた。
「あぁっ……」
悲鳴を上げるパステルを、強くだきしめてやる。
痛いぐらいに締め付けてくるそこは、すげぇ温かくて。
おれは、パステルとひとつになってた。
後は、夢中だった。
よく覚えちゃいねえ。
ただ、パステルがおれの名前を呼びながらしがみ付いてきて、おれもパステルをずっと呼んでた。
お互い呼び合って、深く繋がったまんま、おれは果てた。
力の抜けた身体でパステルの隣に横たわる。
言葉もなく、ただ二人分の乱れた息遣いだけが、かすかに響いていた。
それからしばらくして、急にパステルは声をあげて泣き出した。
「怖かったの…わたし、みんなの足手まといになってることとか、ガイナに戻ることとか。
ギアの気持ちに、応えられなくて、傷つけてしまうことも。
それに、トラップ…トラップに、わたしなんて要らないって思われてたら…。
どうしたらいいかわからなくて、ずっと、怖かったの……!」
おれの腕の中で、涙交じりに切れ切れに言うのを、黙って聞いてた。
ひとりで抱え込んでたことが、今全部、外に溢れ出してるんだろな。
できるのは、ただ受け止めてやることぐらいだった。
「ごめんな。もっと前に気づいてやれねぇで」
何も怖がることなんか、ねーんだよ。
パーティから抜けられたら、困るんだぞ。
マッパー抜きじゃ、ダンジョンなんか進めねぇだろ?
おれたちのパーティには、マッパーは、後にも先にもパステルだけだからな。
それと、ギアは……おめぇが自分の気持ちにウソついて一緒にいたってな。
多分、いや絶対喜ばねぇ。
どうせ、おめぇのウソなんて、すぐバレちまうんだから。
そうやって、余計な気使う方が、よっぽど傷つくと思うぜ。
ひとつひとつ、言い聞かせていく。
パステルは、涙でべしょべしょの顔で、こくん、こくん、と小さく頷いていた。
その髪を撫でてから、抱く腕に力をこめた。
「いつ、おれがおめぇを『要らねぇ』なんて言ったか?
バカ言ってんじゃねえよ。
おれにはおめぇが必要なんだかんな。
はぐれたら見つけてやるし、さらわれたら助けてやる。
もし他の男のモノになっても、どこからでも盗み出すからな。
……いいから、ずっと側にいろよ」
自分でも気が遠くなるような恥かしいセリフなのに、何のためらいもなく言えた。
一瞬、間を置いて、パステルが再び、わぁっと泣き出した。
やっぱ、おめぇ泣き虫なのは変わらねぇな。
ま、嬉しくて泣く分には、いくら泣き虫でもかまわねえよ。おれの胸で泣くんならな。
先にみんなのところに戻ってて、と言われ、おれは部屋を後にした。
廊下の角を曲がった時、目の前でドアの一つが開く。
中から現れた奴を見て、足が止まった。
「…あんた、か」
黒尽くめのファイター。ギア・リンゼイ。
おれの姿を見て、一瞬驚いたようだが、すぐに近づいてきた。
「ちょうどよかった。パステルに、伝えてほしいことがある」
「あんだよ」
睨み付けると、軽く肩をすくめた。
「おれと、ダンシング・シミターの二人で、明日の早朝、ここを発つつもりだ。
そのことを…あんたから、伝えてくれるか」
パステルは、あきらめるってことか?
正直、少しホッとしたのは確かだ。
でも、同時に、その言葉にムカついた。
もう会わないつもりかよ。
「やなこった。自分で言えば済むことだろが」
吐き捨てるように言うと、ギアは意外そうな顔をした。
「…いいのか?」
「あいつに、ちゃんとケリつけさせてやらねーと、あんたのこと一生引きずりかねねぇからな」
ギアは、納得したように深く頷いた後、複雑な…なんつーか、大人の笑みを浮かべた。
「わかった。できれば、もう一度会っておきたかったしな」
「会うだけだからな」
すかさず言うと、ギアは『まさか』というように軽く手を振る。
「見ていてわかった。彼女に必要なのは俺じゃない、あんただってな。
あんたのようなやり方ができればよかったよ。
でも、だめだ。大事な人を失う怖さを知ってしまうと、手の中でいつも守っていないと不安でね」
最後の方は、少し投げやりな言い方だった。
確か、昔のパーティが事故で全滅したとかそんな話だったな。
そのまま、おれの隣を行き過ぎようとする。
黙って行かせるわけにいかねえ。
おれからも、言いたいことがある。
「あんた、気にくわねえ奴だけど。女の趣味だけは、誉めてやるよ。
……パステルには、あんたを選ばなかったことなんか、一瞬も後悔させねぇ。それでいいか?」
ギアは足を止めた。
「上等だな」
振り向かずに答えた。
それが、おれの見たギア・リンゼイの最後の姿だった。
トラパス作者様、リクエストした74です。
結末がわかっているだけに、悲劇へ向かって話が進んでいくのが切なかったです。
何度「ああ、今本当のこと言えたなら」思ったことか…(泣
先が分かっていなくても、話の筋を変えることなんて出来っこないんですが
それでもついそう思ってしまう程話にのめり込んでしまいました。
本当にトラップ視点読めて嬉しかったです。リクエスト応えていただいてありがとうございました。
終了です。
この後、強引に原作の展開に繋がるってことで…(無理ポ)
>トラパス作者さん
泣きかけました。
結末を知ってるからなのか、全く救いの無い視線からの描写だからなのか…
パステル視点よりさらに辛い感じでした。
次回は明るいお話なんですね。楽しみにしています。
219 :
217:03/11/09 02:41 ID:i3L5Rs9d
>>218様
割り込んでしまって失礼しました。
私は文章書くのが遅くて平気で10分くらい考えてしまうのですが、
いつもはリロードしてから書き込むようにしていたのに、今回うっかり忘れてしまって…。
話の途中で割り込まずに済んだのがせめてもの幸いです(汗 本当に失礼しました。
キスキン国if編読ませていただきました!
新5巻発売された当時、暗がりの階段に連れて来られたシーンにどれだけ
ときめいてこんな展開望んだものか! ありありと思い出しました。
ギアの「大事な人を〜」ってセリフ、原作よりもギアのキャラに深みが出てると思います。
トラパス作者様はじめ、ここのスレの神々は本当に原作者よりキャラクターを掴んで
いらっしゃいますね。本気で深沢先生とリコ(ry
雰囲気をぶち壊すのを分かっているけど、どーしても気になる。
悲恋編4でバイト中にサングラスはちょっと無理があるかと。
でもここで目を晒したら伏線が無くなっちゃうんだよねぇ。
>>前前スレ389さま、待ってました!
トラップがなにげにすげー優しいですね。
パステル、幸せものめ!
222 :
名無しさん@ピンキー:03/11/09 12:25 ID:e35aQyzD
悲恋4トラップ視点、面白かったです この暗さがイイ!
俺はトラップ視点の方が好きですね、読んでて(スゲー良い)と思った。
次はどんなのが来るのか楽しみです!
前前スレ389さん「キスキン国if編」良かったです。
ギアがカッコイイ、トラップとパステルもイイ!
新しいのを思い付いたらまた書いてください。
>感想くれた方々
どうもありがとうございます。
先が読めている別視点の話しに暖かい言葉、本当にありがとうございます。
>前々スレ389様
面白かったです! また次の作品を楽しみにしていますね。
トラップがかっこいい。ギアもすごくかっこいい。
原作よりもかっこいいと思いました……
新作投下します。
前作がえらく暗かったので、今回は明るめな原作重視な話です。
雰囲気は「トラパスクエスト」に近いかと。
注意
・エロ極少です、すいません……
「そろそろ、クエストにでも出ようか」
猪鹿亭での昼食を楽しんでいるとき。我がパーティーのリーダーたるクレイの言葉に、反対する人は誰もいなかった。
「そだなー。よく考えたら最近バイトばっかしてたしな」
「もう秋ですしねえ。今を逃したらまた冬が来ますし」
それにうんうんと頷く、トラップとキットン。
ノルは何にも言わないけど、にこにこ頷いてるし。ルーミィとシロちゃんは、「くえすとかあ? 行くー!」「デシ!」とまあ、いつもの通り。
で、もちろんわたしも……
「そうだね。大分お財布にも余裕が出てきたし。うん、行こう行こう!」
と大賛成。
お財布に余裕があるからクエストに……なんて、自分で言ってて我ながら情けないなあ、って思うけど。
いや、でもこれは本当に大問題なのだ。クエストに出るためには、色々と準備しなきゃならないものもあるからね。ポタカンの油とか、携帯食料とか、後薬草とか包帯とか。
クエストの結果次第では、すごいお宝を手に入れる! なーんてことももちろんありうるんだけど、何故か我がパーティー、結構な大冒険を繰り広げている割には、そういうことに縁が無いんだよねえ。とほほ。
あ、でも一度だけあったかな? 以前のキスキン王国のお家騒動のとき。あのときは、すごい大金を手に入れて、一時は家まで買っちゃって大盛り上がり! だったんだけど。
程なくシルバーリーブを襲ってきたモンスターのせいで、火事になって焼けちゃって結局一文無しに逆戻りしちゃったんだよなあ……うう、思い出したら泣けてきそうになる。
で、まあその後、わたし達はレベル18のパーティーでも解けなかったクエストに挑戦して、何だかんだとばたばたしてたんだけど。
最近ようやくシルバーリーブに落ち着いて、バイトに精を出して、そしてとうとう、新しいクエストに出れるまでになったのだ!
ふっふっふ。あー、でも本当に久しぶりだもんね。楽しみ楽しみ。
「あににやにやしてんだ、おめえは。気持ちわりいな」
ムッ!
こんな可愛くないことを言う人は一人しかいない。
たまたまわたしの正面に座っていた、赤毛の盗賊、トラップ。
「な、何よー。いいじゃない、楽しみなんだから。だって久しぶりなんだもん」
「へっ。楽しみねえ……まあせいぜい、マッピングの腕でも磨いといてくれよ? マッパーさん」
っき――! そんなこと、言われなくてもわかってるわよっ!!
実は、わたしってば、マッパーという職業についていながら、方向音痴だったりするんだよね……そのせいで、何度となくパーティーを迷子にしてはみんなに迷惑かけまくってきたんだけど……
そうしてわたしとトラップが減らず口を叩きあっていると、まあまあとクレイが間に入った。
「ほらほら、喧嘩するなって、二人とも。パステル、トラップ、後でオーシのところに行くから、つきあってくれるか?」
「うん、わかった!」
「あいよ」
オーシっていうのは、わたし達にとって馴染みのシナリオ屋さんね。
クエストに必要な情報……例えば、簡単な地図とか、出現モンスターとか、そういう情報をまとめたものを売ってくれる人なんだ。
そういえば、オーシからシナリオ買うのも久しぶりだなあ。今は、どんなクエストがあるんだろ?
うん、やっぱり、楽しみ!
わくわくにこにこしっぱなしのわたしに、トラップが呆れたような視線を向けているのがわかったけど。
ふん、そんなのは無視だもんね。楽しみなものは楽しみなんだから!
「おう、おめえら。久しぶりだなあ。どうよ? 最近の景気は」
オーシは相変わらずだった。道行く冒険者らしき人に、「よっ! 兄さんどうよ、このシナリオ! たったこれっぽっちで……」なんて声をかけては無視されて、舌打ちをしてる。
あはは。本当に変わってないなあ。
「よっ。何かいいクエストあるか?」
「おうトラップ。へっへっへ、おめえらは運がいいぜ。とっておきのクエストがあんだよなあ」
「どんなんだよ?」
「じゃーん! 何と1980ゴールドぽっきり、ダンジョン攻略なんだけどよ、そのダンジョンにはお宝がざっくざくっつう、全くこんな値段で売っ払うのが惜しいクエストなんだぜ」
きらーん
オーシがそう言った途端、トラップの目が輝いた……ように見えた。
思わずクレイと顔を見合わせる。
やれやれ、これは長くなりそう……
「ほーお宝ね。詳しい話を聞かせてもらおうじゃねえの?」
「へっへ。まあ聞け。このダンジョンなんだけどな……」
オーシの話をまとめると、こういうことだった。
クエストの内容は、あるダンジョンの一番奥に生えている、「暗闇の花」と呼ばれる花を摘んでくること。
この花、光の全く差さないところでしか咲かないそうなんだけど、滋養強壮効果がすっごく強く、おまけに失明した人に光を取り戻す可能性があるんだとか。
それだけなら、どこにお宝が絡んでいるのかさっぱりわからないんだけど……
どうやらこのダンジョン、昔は、ある盗賊団がアジトにしてたんですって。
入り口が見つかりにくいところにあるけど、その割にはエベリンの街からそんなに離れてなくて、盗んだ宝を隠しておくには最適な場所だったとか。
ところが、悪いことはできないもので、色々あって盗賊団は全員捕らえられちゃって、ダンジョンは今はもぬけの空になってるとか。
で、その中には、盗賊団が隠したお宝がざっくざく……とまあ、こういう話だった。
「……ねえ、クレイ……どう思う……?」
「そんなにうまい話があるわけないと思うけどなあ……」
オーシとすっかり話しこんでいるトラップはそっちのけで、クレイとひそひそ話し合う。
だってねえ……盗賊団は、捕まったんでしょ? ってことは、当然、それまで盗んだものとかも、全部取り上げられる……と思うのが普通よね? アジトがどこかだって、全部白状させられるだろうし。
中に宝がそのまま残ってるなんて、ちょっと考えられないんだけど……
トラップだって、それくらいわかってるはずなのに。何故か彼の目は怖いくらい真剣。
……何か考えがあるのかなあ? まあ、こういう交渉は彼にまかせておくのが一番いいから、わたしもクレイも何も言わないんだけどね。
おひとよしな我がパーティーの中で、唯一の現実主義者なトラップは、わたしやクレイがころっと騙されそうな話でも、絶対黙って聞いてることが無いから。
そんなわけで、わたし達はしばらく黙って見てたんだけど。トラップとオーシの話し合いは、それから随分長く続いていた。
で、やっと話がついたのが、もうそろそろ日が暮れそうな時間。
「うし。じゃあそーいうことで。1480ゴールドな」
「へっ。全くちゃっかりしてやがるぜ。これっきりだぜ? こんなことは」
「わあってるって。おい、パステル、財布財布」
「へ? あ、ああ……って待ってよ! 本当にそのクエストにするの?」
「そうだぞトラップ。こっちに一言の相談もなく」
わたしとクレイがぶーぶー文句を言ってみたけど。既に交渉をまとめちゃったらしく、トラップは全然取り合おうとしない。
もー! 相変わらず勝手なんだからっ!!
思わずため息をついたけど、リーダーのクレイが、既に「まあ、あいつだからな……」なーんて諦めきった遠い目を向けてるし。ここでわたしがごねても、絶対言うこと聞くわけないもんね。
はあ、しょうがない……
渋々、財布からお金を出してオーシに渡す。
どうやら、トラップは結局、その「暗闇の花」のクエストを買うことにしたらしい。
それも、最初1980ゴールドだったはず(それだって、随分安いなあって思ったのに)が、1480ゴールドまで値切られてる。
……一体何をどう言ったんだろう?
「おい、トラップ。何でそのクエストにしたんだ? 一体何を話してた?」
「へっへっへ、焦るなって。ま、詳しい話は宿に帰ってからな」
そう言って口笛を吹くトラップの様子は、何だかすっごく怪しくって。
わたしとクレイは、深く、ふかーく息ををついてしまった。
絶対。ぜったい! 何か面倒なことが起こりそう……
「ど、ドラゴンが出るう!?」
トラップの話を聞いて。わたし達は、みすず旅館どころかシルバーリーブ中に響きそうな声をあげていた。
そう! あのクエスト。
何か話の割には妙に安いな、と思ったら、それも道理。
何とそのダンジョンには、ドラゴンが住み着いてるっていう噂があるんですって!
まあ、ねえ……何も無いわけない、とは思ってたけど。
まさかねえ……
「トラップ……おまえなあ……」
「おっと、怒るなってクレイ。だってさ、すげえいい話だと思わねえか? 盗賊団が捕まったのだってよ、そもそも突然ドラゴンが現れて、びびって逃げ出したところを見つかった、ってことらしいぜ。
つまり、お宝は手付かずのまま、丸ごと残ってるってわけよ。へへっ、ドラゴンがいるなんてダンジョンの中に忍び込もうなんて度胸のある奴は、なかなかいねえだろうからなあ」
「だからってなあ! 俺達のレベルを考えてみろ。ドラゴンなんて相手できるわけないだろう!?」
「はあ? なーに言ってんだよ。うちのパーティーにはなあ、かの幸福のドラゴンと呼ばれるホワイトドラゴンがついてるんだぞ? なあ、シロ!」
「はいデシ?」
突然声をかけられて、ルーミィと遊んでいたシロちゃんが、とてとてっとトラップの方に歩み寄った。
「トラップあんちゃん、なんデシか?」
「へへ。シロ、おめえ、ドラゴンの言葉ならわかるんだよな?」
「はいデシ」
「ほーれ見てみろ。シロさえいりゃあ、何とか話はつけられるだろ? まさに俺達のためにあつらえたかのようなクエストじゃねえか」
トラップの言葉に、同意する人は誰もいなかった……
だって……ねえ。言葉がわかる、ってだけで、ドラゴンだよ? ドラゴン。
ブレス一発でわたし達なんか全滅しかねない、すごい力を持ってるんだよ?
話をしてみたけど、「やっぱり通じませんでした」「ああそうですか。さようなら」っていく相手じゃないんだよ!?
「クレイ……」
「……危険すぎるな。トラップ、いくらシロがいるからって、それはちょっと……」
「あに言ってんだ! 俺達はなあ、シロに加えて、ブラックドラゴンとだって対決したことがあんだぞ? こんな田舎のダンジョンにくすぶってるようなドラゴンに負けるわけねえだろ!」
……ブラックドラゴン……ああ、JBのことね。
いや、あれはちょっと……いや、かなり特殊な例だと思うんだけど……
まあ、ねえ。確かにクエストに出たい、とは思ってたけど。
いきなりそんな……
……ん?
「あれ、トラップ。そういえば、オーシは何でわたし達にそのクエスト勧めたの?」
「あん?」
「だって、シナリオにはレベルが書いてあるはずでしょ? わたし達のレベルで、ドラゴンがいるダンジョンなんてどうして勧めてきたの?」
「ああ、それな」
よくぞ聞いてくれました、とでも言いたげに、トラップの顔が輝いた。
「聞いて驚け」
「もう十分驚いてます」
「黙れキットン! あのな……」
後ろからボソリ、と突っ込むキットンに律儀に言い返して、トラップが説明したところによると。
最初、「突然ドラゴンが現れるなんて」ってやっぱり信じられなかったそこそこ高レベルの冒険者達が、そのダンジョンに挑戦したんだって。
ところが、どんな強いモンスターがいるかと思ったら、出てくる敵はゴブリンとかスライムとか、そんな敵ばっかり。
これはおかしいんじゃないか? やっぱりドラゴンがいるなんてガセだったんだよ、なーんて言いながら奥に入っていった途端、真正面からドラゴンと対面した、らしい……
そこでその冒険者達も一巻の終わりか、と思いきや、不思議なことにドラゴンは何もしてこなかったとか。
で、その冒険者達はほうほうのていで逃げ帰ってきて、「本当にドラゴンが住み着いているダンジョン」として一躍有名になり、誰も足を踏み入れるものはいなくなった、とか。
「なー? 怪しいと思わねえか。ドラゴンがいたのにゴブリンだスライムだなんつー敵しか出てこねえってとこも怪しいし、真正面から対面して何もしてこなかったっつーのも怪しい!
で、俺の盗賊としての勘が告げてるわけよ。ぜってーこのダンジョン、何か秘密があるってな」
トラップの話を聞いて、わたし達は顔を見合わせた。
確かに……それは、おかしいかも。
少なくとも、普通のドラゴンじゃあない、と思う。
……あ、駄目。何だかトラップの口車に乗ってしまいそう。
だってだって、うずうずしてくるんだもん。ドラゴンが住み着くダンジョンの攻略なんて、冒険者の憧れクエストランキングっていうのがあったら、絶対ベスト3には入ると思うし。
「そう……だなあ……」
クレイもかなり心を動かされてるみたい。みんなの反応に、トラップはすごく満足そうだったんだけど。
「それにしてもトラップ。あなた、やけに熱心ですねえ」
キットンの一言に、トラップの表情が凍りついた。
「そ、そりゃ熱心にもなるだろ。お宝だぞ? お宝」
「いえ、それはわかりますけど……普段人一倍猜疑心の強いあなたが、今回に限っては随分あっさり信用するんですねえ。何か我々に話していないことでもあるんじゃないですか?」
キットンの言葉に、わたしとクレイは、はた、と手を打った。
そ、そうよね。あのトラップだもん。これだけ熱心に勧めるからには、絶対他に何かあるはず!
「そういえばトラップ! 最初1980ゴールドだったところを、1480ゴールドにまけさせてたわよね? 一体オーシに何を言ったの?」
わたしが詰め寄ると、トラップはさっと視線をそらしたんだけど。
その視線の先に、素早くクレイがまわりこんだ。
絶対話してもらうぞ、というオーラを出すわたし達に、トラップは「わかったわかった」と言いながら手を振った。
「ったく。そーだよ。実はオーシの奴と取引しちまってな」
「……取引?」
「そ。いやー実は俺、カジノでちょっとばかしオーシに借りがあってな」
「…………」
トラップの言葉に、わたしとクレイの目がとっても冷たくなったのは言うまでもない。
「だ、だあらっ! オーシとしちゃあ、こんなわけのわかんねえクエスト、早く売っ払いたくて仕方なかったわけよ。借金を半分にしてやるから、とまあ、そんなわけで……」
「……ちなみにいくら借金してたんだ?」
「……1000ゴールド……」
クレイの言葉に、さすがにトラップも視線をそらしつつ答える。
……もしかして、シナリオ代金が500ゴールド安くなってたのは、その交渉のせい……?
あのトラップのことだもん。「ドラゴンが出るような危険なクエストを俺達みてえな低レベルの冒険者に売ったとしれたら……」とか何とか……
うわあ、言いそう。
「トラップ……」
「だ、だあらっ! 今更別のクエストにしよう、なんてもう言えねーんだよ! い、いいじゃねえか。当たりゃあでかいんだから。シロだっているんだし、何とかなるって!!」
みんなの冷たい視線にさらされながらも、トラップは必死に言い訳をしてたけど。
まあ、ね。基本的に我がパーティーは皆さんおひとよしですから。
すんだことは仕方ないか、ということで。
わたし達は、ドラゴンが出る、というダンジョンに挑戦することになったのだった。
エベリンの街に程近い森の中にあるダンジョン。
入り口がわかりにくい場所にある、ってことだけど。確かに、ちょっと見ただけでは、そこはただの地面にしか見えなかった。
「はー。誰が作ったしかけだろうな? 結構凝ってるぜ、この隠し方」
とは、しかけを見つけたトラップの言葉だけど。
地面には厚く落ち葉が積もってて、しかけはその中に埋もれてたんだけど。
ただ押すとか引くんじゃなくて、もっと複雑な手順を踏まないと開かないようになってるんですって。
トラップいわく、「レベル10以上の盗賊でないと解除は難しいだろうな」ってことだけど。
まあとにかく。がちゃがちゃとしかけをいじくると、「ぎぎぎぎぃ〜〜」っていうすごく重たい音とともに、落ち葉がばーっと舞い上がって、その下に真っ暗で先の見えない穴が出現した。
「これが入り口か……?」
「だな」
ポタカンを用意して、トラップが真っ先に降りていく。
それにしてもすごい闇。本当に一寸先も見えない。
……うう、急に怖くなってきた。ドラゴンを除けば、大したモンスターは出ないって話だったけど……本当でしょうね?
「おーい、大丈夫だ。特に罠とかはねえみてえ。ポタカンがねえと歩くの辛いと思うから、ノルとパステルもポタカン持てよ」
「はーい」
「わかった」
言われた通り、ポタカンに火を入れる。
トラップの誘導に従って、キットン、わたし、クレイ、ルーミィ、シロちゃん、ノルの順番で、穴の中へと降りていく。
ううう、何だろ? ちょっと寒い……
地面の下だから、地上より涼しいのはわかるんだけど……
何だろ? 背筋に寒気が走るっていうか……そう、あのアンデッドの城みたいに、ぞくーっていう感じがすごくすごく強いんだよね。
な、何かいる……のかなあ……
「おい、パステル! ぼけーっとしてんなよ!」
「は、はいっ!!」
トラップの言葉に、慌てて周りを見回す。
嘘ー!? みんなもう先に行ってる! ま、待ってよー!!
「ほれ、とっとと歩け。後、マッピングも忘れんなよ」
「わ、わかってるって」
言われて、慌ててペンと紙を取り出す。
上から見たときは真っ暗だったけど、今は三つのポタカンがあるから、何とか周囲がぼんやり見渡せる程度には明るい。
一応、今のところは一本道みたいだけど、先がどうなってるかはわからないもんね。
もしかしたら、罠だってしかけられてるかもしれないし……
「おい、置いてくぞ」
「ま、待って! 待ってってばー!」
こんなところで置いていかれたらたまらない。
わたしは慌てて、みんなの後を追った。
ダンジョンの中は、一応別れ道もいくつかあったけど、罠の類は無い、自然のダンジョン風だった。
あくまでも「風」ね。あんな凝ったしかけで入り口が隠されてたくらいだもん。人工のダンジョンなのは、間違いないと思うんだけど……
「だああー! 見つからねえっ!!」
どれくらい進んだときかなあ。
ずっと先頭を歩いていたトラップが、ついに音をあげた。
いやいや、無理も無いんだよね。罠は無いか、宝は無いかって、ずーっと神経張り詰めてたもん。
歩き始めて、もう結構経ってるし。……どれくらい経ったのかなあ。時計があるといいんだけど、そんな高級品、もちろん我がパーティーが持ち合わせているわけもなく。
「よし。ここらで休憩するか」
クレイの言葉で、みんな思い思いに腰を下ろした。
このダンジョン、ちょっと変わってるんだよね。
ずーっと歩いてると、定期的にちょっと広場みたいになってる場所に出る。別れ道もいくつかあるんだけど、進んでいくと、合流したり、行き止まりになったりで、ややこしく見えて結局先に進むルートは一本しかない。
罠も無いし、モンスターもスライムとかゴブリンとか、わたしでも何とかなる程度の敵しか出てこないから、楽と言えば楽なんだけど……
目的の「暗闇の花」はダンジョンの一番奥にあるって話だけど、一体どれくらい歩けばいいのか。
シナリオには、一応簡単な地図も載ってたけど(以前、踏み込んだ冒険者が書いた地図ね)、それもすごく大雑把でおまけに途中で切れてるし。
さらに、トラップにとって一番の目的のはずであるお宝は、影も形も無いし。
こういう、いつ終わるかわからないダンジョンって、すごく疲れる。身体もそうだけど、精神的にね。
「ほら、ルーミィ。チョコ食べる?」
「うん! ルーミィ、おなかぺっこぺこだおう!!」
あはは、出たよお決まりのフレーズ。
だけど、確かにお腹が空いたんだよねえ……本当、今何時なんだろ?
「クレイ、もしかしたら、ここ、今日中に抜けられないかも?」
「ああ、最悪、このダンジョンの中で一泊だな」
げげっ! それはあまりぞっとしない……うう、だけど今更戻っても、多分ダンジョンを抜ける頃には真夜中になってるよね。
はあ、しょうがないかあ……
ちょっと休憩して、食事をとって。
そしてまた歩き出す。
とりあえず、先に進めるだけ進んじゃおうってことになったんだ。
できれば、今日中に目的の「暗闇の花」を見つけ出したかったしね。
「はあー……ったく。こんだけ捜しても金貨一枚見つからねえって、本当にお宝なんざあるのかあ?」
この目的を完全に取り違えた発言をしたのはトラップ。
まあぼやく気持ちはわかるけどね。さっきから本当に必死に探してるのに、しかけの一つも見つからないんだもん。
相変わらず、たまに別れ道があってたまに広場みたいな場所があって……と延々それの繰り返し。
そんな中、わたし達は、隊列を入れ替えて、先頭がトラップ、続いてわたし、ルーミィ、シロちゃん、ノル、キットン、クレイっていう順番で歩いていた。
ルーミィが疲れて寝ちゃったからノルにおぶってもらったのと、わたしのマッピングがいまいち頼りないからってトラップに見てもらってたから、なんだけど。
結果的に、この隊列の入れ替えが、後々の大騒ぎを引き起こすことになったんだよね……
食事休憩の後、一時間くらい歩き続けたとき……かな?
それまで、ずーっと単調に続いていた道に、変化が現れた。
ただの土壁だったのが、何だか妙につるつるした壁に変わっていったんだよね。
「何だろ、これ……ガラスみたい」
「いやあ、ガラスじゃありませんねえ」
わたしの声に、後ろからキットンが答えた。
「これは、どうやら土を高温で焼いて作った壁のようですねえ。土に含まれる結晶成分が、熱で溶けて硬質化したもののようです、はい」
「ふーん、熱でねえ……」
わたしがつぶやいた瞬間、
ぴたり、と先頭のトラップが足を止めた。
「トラップ? どうしたの?」
「……おい……」
ぎぎぎぎぃっ、と音がしそうな動きで、トラップが振り返る。
「キットン、今何つった?」
「はあー? ですからー、土を高温で焼いた壁だと……」
キットンの返事に、トラップの額に、汗がにじみ始めた。
彼の様子が普通じゃないことがわかったのか、しーんと皆が静まりかえる。
「……トラップ……?」
「逃げるぞ」
「え?」
「逃げるぞ。バカ、走れ!!」
「え? ちょっと、ちょっと……?」
ぐい、と背中を押されて、わけもわからず走り始める。
な、何よ、何なのよー!?
「お、おい、トラップ! 一体どうしたんだ!?」
最後尾のクレイは全然事情がわからないらしく、走りながら声をかけてくる。
「トラップ……?」
「ばあか! おめえらわかんねえのか!? 壁全体を結晶が溶けるほどの高熱で焼くって……んな方法、一つしかねえだろうが!? くっそ、まさか本当に出るとは思わなかったぜ!!」
「……はあ?」
どんな方法? と聞こうとして振り向いた瞬間。
わたしは……情けないことだけど、腰が抜けてしまった。
「おわっ!!」
突然わたしが座り込んだせいで、後ろを走っていたトラップがつんのめる。
だけど……そんなこと、全然構ってられなくて……
「ととととと……と、とらっ……ぷ……」
「あんだよ、おめえ……」
ざーっ!!
わたしが指差す方向を見て、トラップの顔から一気に血の気がひいた。
ポタカンがぼんやりと照らす光。
そこにうつる影。
それは、明らかにわたし達の影とは違って……もっと、ずっとずっと大きくて……さらに言うなら、その形は……
シロちゃんに話をしてもらって〜なんて、悠長なこと言ってる暇は、全然無かった。
というより、そんなことに頭がまわらなかった。
ただただ、その威圧的な空気に怯えて、震えていることしかできなくて……
「立て……パステル……」
クレイ達は、わたしが腰を抜かしたことに気づかなかったらしい。ずっと先に行ってしまっている。
「立てパステル! 死にてえのか!!」
トラップの怒鳴り声に、よろよろと立ち上がる。
ぐいっ、と手をつかまれる。後ろを振り返りもせずに、トラップが走り出した。
半ばひきずられるように、わたしも足を動かして……
ああ、でも、でも!
見たってしょうがないってわかってるのに、見てしまう。後ろを振り向いてしまう。
もうポタカンの光の輪の中に、影はうつってない。
だけど、後ろから……ドスン、ドスンっていうような地響きがしてて……
それは、明らかにわたし達の後を追ってきてて……!!
「とらっぷ……」
「泣いてる場合か! いいから走れ!!」
「う、うん……」
そ、そうだよね。泣いてる場合じゃない。
走らないと。早くクレイ達に追いつかないと……!!
そう思った、そのときだった。
頭の上が焦げるような嫌な熱気。
それに気づいたのか、トラップはわたしを抱え込むようにして、がばっと地面に伏せた。
「とらっ……」
乱暴に地面に押し倒されて、文句を言おうとしたけれど。言葉がそこで止まってしまう。
その瞬間、わたしは見てしまったから。
のっそりと現れたのは、姿こそ大分小さい(それでも、ノルより2まわりは大きかったけど)けれど、真っ赤な鱗を持った……ドラゴン。
らんらんと光る目が、わたしとトラップを見据えている。
……嘘つき。
ドラゴンに会っても、何もされなかったって……言ったじゃない。
がばっ、とそのドラゴンが、牙だらけの口を開くのを見て、わたしはぼんやりとそんなことを考えていた。
その直後、すさまじい熱気が周囲を襲って、わたしは……意識を失ってしまった。
あたりは真っ暗だった。
……ここ、どこだろう……?
ふっと身を起こしてみる。
本当に真っ暗。何も見えない。持っていたはずのポタカンも無い。
「……トラップ……?」
気を失う前のことを思い出して、声をあげる。
「トラップ、トラップ? いるのなら返事してよ。トラップ?」
どれだけ叫んでも、全然返事はなかった。
……嘘……
最後にうつった光景。迫るドラゴン。がばっと開いた口。気を失うほどの熱気。
まさか……まさか、トラップは……?
「嘘……嘘でしょう? トラップ? トラップ、トラップ!!」
そんなわけない、そんなことあるわけないとどれだけ言い聞かせても、嫌な予感は全然消えてくれなかった。
だって、だってトラップだって、たまに「本当に人間?」なんて疑いたくなるような驚異的な能力を発揮することもあったけど……でも、やっぱりただの人間なんだよ?
ドラゴンのブレスなんかくらって……生きてられるはずがない。
まさか……まさか……?
ぼろぼろ涙がこぼれる。あちこち歩き回ったけど、やっぱりトラップの姿は全然見えない。
……わたしのせい? わたしが、腰を抜かして……逃げ遅れたせい? それで、トラップまで巻き添えにして……?
どうしよう、どうしよう。
泣いてもしょうがないってわかってるのに、涙が止まらない。
そのまま顔を覆ったときだった。
(……泣かないで……)
……え?
きょろきょろとまわりを見回す。
……誰もいない……よね? 真っ暗で、よく見えないけど……人の気配は無い、と思う。
……気のせい……?
(泣かないで。彼は、まだ死んでいない)
……え!?
ばっ、と顔をあげる。
相変わらずの闇。……だけど、聞こえる。
何……?
「誰か……いるんですか?」
声が震えるのがわかったけど、それでも、言わずにはいられなかった。
彼はまだ死んでいない。
彼って……トラップのことだよね? まだ死んでない……それってどういうこと!?
わたしがきっと周囲を見回すと。
ぼおっ、とした光。ポタカンよりもっと弱い光が、突然、目の前に浮かんだ。
「きゃっ!?」
(……驚かせて、ごめんなさい……)
「え?」
声は、光の中から聞こえるみたいだった。
な、何だろ……? この声、誰の声?
聞き覚えの無い女の人の声だった。透き通るようなすごく綺麗な声だけど、でも、あんまり感情がこもっていない声。
「……あの、あなたは誰ですか?」
とりあえず聞いてみる。我ながらのん気かなあ、って思わなくもないけど……
何でだろう? 何だか、この声を聞いていると、すごーく落ち着くっていうか……安心させられる声なんだよね。
わたしの質問に、光はちゃんと答えてくれた。
(私は、このダンジョンのマスター……)
「……え?」
(このダンジョンを作ったのは……私です)
……えええええ?
ど、どういうこと?
何だかすごく重要な話が聞けそうな予感がして、わたしは思わず座りなおした。
「あの……このダンジョンを作った、って……?」
(……私は……もう何百年も前に、死んでいるんです……)
「え?」
(詳しい事情は、今はお話できません……ですが、私は解放されたいんです……こんなところに縛り付けられているのは、もう嫌……)
「あ、あの? ちょっと……?」
は、話が見えないんですけど……
何百年も前に死んでる? ……って、幽霊!?
ひいいっ! と一瞬背筋に寒気が走ったけれど。
でも、目の前の光は……何て言うのかな? 雰囲気が暖かいっていうか……悪意が感じられないっていうか……
幽霊と言えば、以前呪われた城でのクエストのとき、アンデッドといっぱい知り合いになったんだけど。
雰囲気が彼らに近い気がするんだよね。見た目はただの光だから、余計に親しみやすいっていうか。
とりあえず、危険は無いみたい……だよね。うん。ちゃんと話を聞いてみよう。
「わ、わかったわ。あなたがこんなダンジョンを作ったのには、きっと何か理由があるんだよね? ドラゴンも、あなたが……?」
(……ええ……驚かせて、申し訳ありませんでした……安心してください。あなたも、そしてあなたと一緒にいた彼にも、怪我はありませんから……)
「トラップも? トラップは、どこにいるの?」
(…………)
わたしが聞くと、光は何も言わず……ただ、ふらふらとわたしのまわりを回り始めた。
「あの……?」
(あなたに、お願いがあります)
「は……? わ、わたしに?」
(ええ。ずっと、待ってたんです。あなた達のような人が来るのを……)
「え……?」
な、何だろう? わたしにお願い……?
あ、でも、このお願いを聞けば、この人はもしかして解放されるのかな? そうしたら、きっとこのダンジョンは消えて……そうしたら、みんなと合流できるよね?
うん、悪意は無いみたいだし。聞いてみてもいいよね?
「わたしにできることだったら、何でも言って。お願いって、何?」
(……ありがとう……)
わたしの言葉を聞くと、声にちょっとだけ嬉しそうな響きが混じった。
そして……
カッ!!
「きゃあ!?」
突然、目を焼くような激しい光が弾けた。
視界が真っ白に塗りつぶされる。全然まわりが見えない。
何、何……?
「何を……」
(あなたの身体、貸してください)
……え?
その瞬間。
わたしは、何かに弾き飛ばされた。
痛みも何も無いけど、確かに、そう感じた。
確かな感覚というものが消えて、すごくふわふわした、つかみどころのない感覚に覆われる。
何が……起きたの!?
光が徐々に収まる。
焼けた視界が、どうにか戻ってくる。
何度も何度もまばたきをして、やっとまわりが見えるようになって、そして。
目の前に広がる光景に、わたしは絶句してしまった。
……えと……これは、一体、どういうことでしょう……?
きょろきょろとまわりを見回す。
周囲は、ぼんやりとした光に包まれていて、一応視界には困らない。
じーっと「下」を見下ろす。
そう。何故か、わたしは……宙に、浮いていた。
「……えと……?」
どう見ても、浮いてる……よね……?
このダンジョン、ノルが楽々通れるくらいの高さと広さを兼ね備えていたんだけど。
その天井付近に、わたしは浮いていた。
ええと、いやいや、ちょっと待って。
あのとき、言われたのは……「あなたの身体、貸してください」……?
ま、まさか。
すごく、すごーく嫌な予感が押し寄せるけど。
足下の光景は、わたしの予想を裏切らない光景で。
わたしの真下には……
トラップが倒れていた。ぴくりとも動かないけど、でも怪我は無いみたいだった。胸が軽く上下してるから、死んでないって言葉は嘘じゃなかったみたい。
彼はいいとして(いや、よくはないんだけどね)
その傍らに……「わたし」が倒れていた。
いや、本当にわたし。着てる服も全く同じだし、それこそ、ちょっと前のダンジョンで現れたドッペルゲンネルでも無い限り……
……まさか本当にドッペルゲンネル?
(……違うわ……)
ひえっ!?
突然耳元で響いた声に、わたしは思わずまわりを見回したけど。
相変わらず、まわりには誰もいない。
えと……? この声は、ダンジョンマスターの声、だよね……
(そう……本当に、突然でごめんなさい……わたしには、もう実体が無いから。だから、あなたの身体を、貸して)
「えと……」
いえ、そんなこといきなり言われても……
冷や汗が背中を伝う。
実体が無い。それって……もしかして、今のわたしの状態?
何ていうか、もう強制的に身体を追い出されてる?
(……ごめんなさい……必ず、後でお返ししますから。だから……しばらく、黙って見ていてください……)
口調こそ丁寧だけど、それは、もう「強制」以外の何者でもなくて。
わたしがぽかんとしているうちに、わたしの身体に向かって、光が吸い込まれて行った。
あたりがまた真っ暗になるけど……実体じゃなくなったせいかな? わたしの目には、まわりの光景がはっきりと見えていて……
そして、「わたし」が起き上がった。
まじまじと自分の身体を見下ろして、そして、すごく嬉しそうな笑みを浮かべている。
…………
一体、何がしたいんだろう? 何か、心残りなことでもあったのかな?
いやいや、こんなに落ち着いてる場合じゃないのはよくわかってるんだけど。
その、心から幸せそうな笑みを見ると、とりあえず傷つけられる心配だけはなさそうだなあ、とわかって。
立ち直りが早いのがわたしの取り得だもんね。「後で返す」って言ってくれたことだし。
しばらく、様子を見てるしかないかな……?
ちょっと試してみて、自分の思うとおりに身体を動かせることがわかって、とりあえず落ち着くことにした。
焦っても、元に戻れるわけじゃないしね。ダンジョンマスターが、何をするつもりなのか興味があるし。
じーっと見下ろしていると、彼女は、わたしの方を見て、ちょっと微笑んだ。
見えてるのかな? ……手を振ってみようか。
軽く手を振ると、ダンジョンマスターはぺこり、とおじぎをして手を振りかえしてくれた。
(すいません、しばらくお借りします)
……会話もできるんだ。
意思の疎通もできるみたいだし……それなら、しばらく黙って見てるしかない、かな?
楽な姿勢をとって(実体が無いのに楽っていうのもどうかと思うけど)、わたしは彼女を見守ることにした。
彼女が最初にしたことは、トラップを揺り起こすことだった。
自分の身体を自分じゃない人が動かしてるのを見るって、何だか不思議な気分……
「トラップ、トラップ。起きて」
「ん……んあ……?」
彼女が声をかけると、トラップはうめきながら目を開けた。
ぱっと身を起こす。その動きを見る限り、怪我は本当に全然無いみたい。
……だったら、あの熱い空気……ドラゴンのブレスだよね? は、一体何だったのかなあ……
いやいや、それより、あのドラゴンは一体何のために……?
「トラップってば」
「……パステル? おめえ、無事なのか?」
「ええ。あなたがかばってくれたから。トラップ、本当にありがとう」
そう言って、彼女はぺこり、と頭を下げた。
うーん……見事な演技……って感心してる場合じゃないんだけど。
そんな彼女の態度に、トラップは何だかぽかんとしてる。
違和感があるのかも? わたしだったら、滅多にあんな風に素直に謝れないもん。
何でかわからないけど。クレイとかと違って、トラップが相手だとむきになるっていうか……何でなのかなあ。
……まあ、今はそんなこと関係無いか。
わたしが悩んでいる間にも、「……別に。ありゃとっさにやっただけで」「ううん、あなたがいなかったら、わたし死んでいたかもしれない。本当にありがとう」なーんて会話は進んでいて。
……何でしょう、この空気?
彼女とトラップの間に、何て言うのかな……ほわんとしたあったかい空気が流れるのを見て、何だか気分がもやもやする。
うーん……わたしとトラップじゃ、あんな空気には滅多にならないもんね……でも、そこにいるのはまぎれもなく「わたしの身体」なわけで。それでかな? うん。きっとそう。
トラップは、目の前の「わたし」の中身が別人だなんて、気づいてもいないみたいだった。まあ、当たり前だろうけどね。
二人は、そのまましばらく何ていうことのない会話を繰り広げていたけれど、
「うし、クレイ達と合流すっか。ったく、あいつら薄情だよなあ。俺達がついてきてないことに、気づいてねえのかよ?」
しばらくしてから、トラップが立ち上がった。
そうだよね。何だかすっかり忘れてたけど、クレイ達のことも心配。わたし達が無事なんだから、滅多なことは無いと思うんだけど……
二人の後をついていこうと、わたしがちょっと下の方へ下りて行ったときだった。
思わず目を見張る。
突然、「わたし」……いや、ダンジョンマスターが、ぴたっ、とトラップの腕にすがりついたのだ!!
……はい?
思わず唖然とする。な、何を……してるの?
「ぱ、パステル……? おめえ……」
唖然としたのは、わたしだけじゃないみたいで。
トラップも、突然のことに、あたふたしながらわたしを見ている。
あの、ちょっと……? ねえ、何してるの……?
彼女に声をかけてみたけれど、返事はなかった。そのかわり……
「トラップのバカ……女心がわからないの……?」
そう言って、彼女は、潤んだ瞳でトラップを見上げた。
……ねえ、ちょっと。
わたしの身体で、何をするつもりー!!?
絶叫したけど、その声は彼女以外には届かないし、彼女はわたしの叫びを完全に無視して。
そのまま、きゅっ、とトラップに抱きついている。
ちょっと、ちょっとちょっとちょっとー!?
「パステル!? お、おめえ、どうしたんだ、いきなり……?」
「クレイ達と合流したら……こんなこと、できないじゃない。せっかく二人っきりになれたんだから、ね……?」
「はあ? お、おめえなあ……今は、んなこと言ってる場合じゃ……」
すっ
トラップの言葉が、止まった。
そりゃ、止まるよね……唇、塞がれてるもん……
って。
だ、ダンジョンマスター!!? な、何を……わたしの身体で何てことするのよー!!?
キスしてた。
「わたし」とトラップが……キスを、していた。
目の前の光景が信じられない。
だって……わたしと、トラップだよ? そんなこと、一生ありえないと思ってたのに……
ダンジョンマスター……あ、あなた、何考えてるのよっ!?
どれだけ叫んでも、彼女からの返事は無かった。
トラップはトラップで、キスの真っ最中だと言うのに、目を見開いてて……その表情は、「信じられない」と雄弁に語っていたりして。
いや、気持ちはわかるよ……普段のわたしだったら、絶対、絶対そんなことしないもん。
驚くのはわかるけどっ……い、一体いつまで、そのままで……
わたしがどれだけ騒いでも、トラップには全然届かなくて。
トラップの手が、ぎこちなく動いた。そのまま、「わたし」の背にまわって……
……トラップ!?
「……おめえ、どういうつもりだ?」
唇を離してつぶやくトラップの声には、いつもの軽薄な調子は全然含まれていない。
「どういうって?」
答える彼女は、顔はわたしのはずなのに、わたしには絶対できないような……何て言うのかな? すっごく色っぽい微笑みなんか浮かべていて……
「トラップのことが、ずっと前から好き……気づいてた?」
どかーん
彼女が言い放った台詞に、わたしは頭が爆発しそうになった。
ななななーんてこと言い出すのよあなたはっ!!
そ、そりゃあなたはいいわよ!? いずれこの身体から出て行くんだもの! だ、だけど、その後戻るわたしのことを、ちょっとは……
(……返さないもの)
……え?
突然耳元で響いた不吉な言葉に、一瞬身体が強張る。
……え? な、何を……?
(この人は、私がもらうわ……)
はいっ!?
わたしが唖然としている間にも、彼女は、じーっとトラップのことを熱っぽい視線で見つめていて。
トラップはトラップで、その視線をまともに受け止めていて……
彼女の手が、動いた。
すっとトラップの腕をとって、そして。
そのまま、自分の胸に押し付ける。
――――!!
ぼんっ、と頭に血が上るのがわかった。慌てて二人の近くまで飛んできたけど、実体が無いせいなの!? どれだけつかもうとしても、わたしの手は、二人の身体をすりぬけて……
「ね……ドキドキしてるのが、わかる?」
「…………」
「……抱いてよ、トラップ。わたしのこと、ちょっとでも好きなら……抱いて……」
ややややややーめーてー!! 何を言い出すのよー!!
ぽかぽかと「わたし」を殴りつけるけど、握り締めた拳はすかっ、と突き抜けてしまう。
そのとき、わたしは見てしまった。
彼女の目が……すごく色っぽい微笑みを浮かべてるんだけど、目が、すごく冷たく光ってるのを。
……え……?
(見てれば、わかるわ……)
耳に届く、彼女の声。
(男なんて……愛なんて信じられないものだってことが……)
……ダンジョンマスター……?
あなた、何を……
ふっ、と彼女はトラップの手を離して、そして、かわりにアーマーを脱ぎ捨てた。
下に着てるのは、普通のブラウス。そのボタンに手をかけて……
トラップはトラップで、そんな彼女を、じーっと見つめていて……
や、やだやだやだやだー!! 見ないで、見ないでよー!!
「あなたが欲しいの……」
ブラウスのボタンを全開にして、彼女は、ゆっくりと微笑んだ。
再びトラップの手をとり、そして、自分の胸に這わせる。
と、トラップ!? あ、あーたもねえ、ちょっとは抵抗しなさいよ、抵抗っ!
どれだけ叫んでも、トラップにわたしの声は届かない。
ダンジョンマスターの唇から、すごーく悩ましいというか……色っぽい声が漏れる。
するり、と彼女はそのままトラップの身体にしがみついて、その上着を脱がせてシャツの中に手をすべりこませた。
トラップの表情がゆがむ。ダンジョンマスターは、わたしの顔とは思えないほど妖艶な笑みを浮かべて……
そして、その手が、次に伸びたのは……トラップの……
「大きくなってる?」
…………駄目っ…………
とてもじゃないけど、正視できないっ!!
ばっと目を閉じる。彼女の手が、トラップの……その、ズボンのとある部分に伸びて……
その瞬間だった。
「え!?」
驚いたような彼女の声。
思わず目を開ける。見えたのは……彼女の手首をがっしりつかんでいる、トラップの姿。
「トラップ?」
「……パステルじゃねえ」
「え?」
「おめえ、パステルじゃねえだろ。誰だよ、おめえ」
……トラップ!?
気づいて……くれたの?
あ、ああ、そうだよね。そういえば、以前のクエストでも、彼はドッペルゲンネルとわたしを一発で見抜いてくれたもん。
トラップ……
……気づいてたのならもっと早くに止めてよー!!
そう文句を言いたかったけど、とりあえずそれは元に戻ってから言うことにする。
トラップの目はかなり怖かった。本気で怒ってるのかもしれない。
手首をつかまれた彼女の方は、何だか、茫然と彼を見つめていて……
「な、何言ってるの? トラップ。わたしよ、パステル……」
「パステルのわけがねえ。パステルにこんな色っぽい表情ができるわけねえんだ。おめえ誰だ? 本物のパステルはどうしたんだよ?」
と、トラップ!? ああたねえ、もうちょっと言い方は無いの!?
いや、確かにわたしにあんな表情絶対できないと思うけど……
何だかすごく色々不満はあるけど。
でも、嬉しい。トラップがちゃんとわかってくれて。
ダンジョンマスターが何を考えているのかわからないけど、わたしには何もできないから。
だから、あなたが頼りなのよトラップ! がんばって!!
わたしの声無き声援に気づかず、トラップと彼女のにらみあいは続く。
でも、もう彼女は、言い訳をしようとはしなかった。
どれくらいにらみあっていたのかはわからないけど……先に力を抜いたのは、彼女の方だった。
「どうして、わかるの?」
「…………」
「『彼』はわからなかったのに、どうしてあなたはわかるの? トラップ」
「……はあ?」
「どうしてわかるのよ。わたしはわかってもらえなかったのに。どうして彼女はわかってもらえたの? 何でよ……わたしの愛と、あなた達の愛と、どこが違うっていうのよ!!」
唖然とするトラップの前で、彼女は、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。
わけがわからない。そういう表情で、トラップは困ったように彼女を見つめている。
……わたしにも、わからない。どういうこと? ねえ、ダンジョンマスター……あなたは結局、何がしたかったの……?
答えは返ってこなかったけど、必死に問いかける。
ダンジョンマスターが顔をあげた、そのときだった。
「…………!!!」
トラップの顔が強張った。
ばっ、と彼女を背にかばって、後ろを振り向く。
その視線を追って……わたしは、その理由を悟った。
ちょっと遅れて聞こえる、どすん、という響き。のっそりと現れる、大きな影。
見間違えるわけが……無い。
気絶する前に見た、最後の光景。
あれがどれくらい前のことなのか、もうよくわからなかったけれど……
真っ赤な鱗が光る、ドラゴン。
そのドラゴンが……のっそりと、姿を現していた。
トラップは、逃げようとしたみたいだった。
それが正しい判断だよね。ただでさえ、盗賊のトラップは戦闘向きじゃないもん。
だけど、それはできなかった。
彼女が……ダンジョンマスターが、がっちりとトラップの腕をつかんでいたから。
「おいっ……!!?」
「…………」
すごく焦った様子でトラップが振り向いたけど、彼女は無言だった。
ただ、ひどく悲しそうな目で、ドラゴンを見ている。
そして……ドラゴンも。
あの恐ろしいブレスを吐くこともなく、襲いかかってくることもなく、ただじーっと彼女とトラップを見つめていて……
……って、どうなってるの!? ねえ、何がどうなってるの!!?
どんどんと……いや、本当はすかすかとだけど……彼女の頭を叩く。
と、トラップを危険にさらしたら許さないからね!? 何がどうなってるのよ!!
わたしがそう叫ぶと、やっと彼女は、わたしの方に目を向けてくれた。
「……どうして……」
すーっ、とその瞳から落ちるのは……涙。
「どうして、あなたはわたしじゃないの!? どうして彼は……トーマじゃないのよ!!」
わあああああ、と声をあげて、彼女は……ダンジョンマスターは、泣き崩れた。
……トーマ……?
トーマって……誰?
トラップもトラップで、わけがわからない、と言ったように、彼女と、そしてドラゴンを見比べている。
そして……
信じられないことが、起きた。
ドラゴンとしては小柄だけど、それでもトラップを四人分まとめたくらいの大きさがあるドラゴン。
そのドラゴンの身体が、急に……縮み始めたのだ。
「おいっ!?」
トラップの声が響くけど、それでその光景が変わるわけでもなく。
焦るトラップと、茫然とする彼女とそしてわたしの目の前で。
ドラゴンは、姿を変えた。……一人の、人間の、男の人の姿に。
……どういう、こと?
どう見ても人間だった。さっきまではドラゴンだったのに……その人は、冒険者風の服をまとった、黒髪の男の人の姿になっていて。
そしてさらに驚いたことに……その人は、もう、生きていなかった。
わたしにだってわかる。だって、生きた人間なら……あんな、真っ青な肌、してるわけないもん……
どういうこと? 何が……どうなったの?
「……トーマ……」
つぶやいたのは、溢れる涙を拭おうともしないダンジョンマスター。
その声を聞きとがめたのか……トラップが、彼女の手をつかんだ。
「……説明、しろよ……」
「…………」
「こりゃ、一体どういうことなんだ?」
「…………」
彼女は、ふっと目をそらして……そして、言った。
「私の……恋人でした。トーマは……」
「あ……?」
「私が、彼を信じなかったから。彼が、私を信じなかったから。だから、私達は……こんなところに、縛り付けられているんです……」
「……おめえは、結局誰なんだ。何で、パステルの姿をしてる?」
トラップの問いに、彼女は答えなかった。
ただ、柔らかに微笑んで……そして。
あたりが、再び白い光に包まれた。
視界を塗りつぶす、すごく強い光。
トラップが「おわっ!」とか悲鳴をあげているのが聞こえたけど、それに構ってる暇はなかった。
光が弾けると同時に、わたしは、何か物凄い力に引き寄せられるのを感じた。
何も言えなかった。多分言っても聞こえなかったと思う。
強引に引きずられて、衝撃が走って……そして。
目を開けたとき、わたしの目の前には……トラップがいた。
「……トラップ……」
「っあーっ!! 何だ今の光は!! おいおめえ、説明しろ説明!!」
痛いほどに捕まれる腕。……腕?
…………
まわりを見回す。わたしは……立っていた。ちゃんと、自分の足で、地面を踏みしめて。
「戻った……?」
「あ?」
「戻った? ダンジョンマスター、ねえ、どこに行ったの? お願い、説明して! これって、どういうことなの!?」
「ぱ、パステル……? おめえ、パステルか?」
トラップの声に、振り向く。
……トラップのおかげ、だよね。多分。
トラップが、わたしをちゃんとわかってくれたから……
「ありがとう……」
「あ?」
「ありがとう。わたしを、ちゃんとわかってくれて……」
「……本当にパステルか? おい……一体、何がどうなってんだよ!?」
いや、聞かれても、わたしにもよくわからないんだけど。
結局……何が、どうなって……
そのときだった。
視線を、何気なくトーマさん……? だよね? ドラゴンだった人の方に向けると。
思わず目を見開いてしまう。そこに、白っぽい、ぼんやりした光が浮いていたから。
「トラップ、あれ……」
「あん?」
わたしが指差す方向を見て、トラップも身体を強張らせる。
光は、ぼんやりと漂っている。それは……わたしが初めて会ったときのダンジョンマスターと、同じような光で……
「……ダンジョンマスター?」
わたしが声をかけると、光は、微かに揺れた。それは、まるで頷いているみたいだった……
「ねえ、説明……してくれる?」
(…………)
「おい、まさかこんだけ人を巻き込んどいて、説明の一つもねえ……ってこたあ、ねえだろうなあ……?」
「トラップはちょっと黙ってて!!」
わたしがにらみつけると、トラップはふてくされたようにそっぽを向いたけど。
ダンジョンマスターは、そんなわたし達を見ても、しばらく何も言わなかった。
痛い沈黙だけが流れる。
……うー……トラップじゃないけど、まさかこのまま説明無しで終わる、なんてことは……ないよね?
わたしが不安に思ったときだった。
ようやく、声が……あの、ダンジョンマスターの声が、響いた。
(……ごめんなさい……)
「うお!? 何だ、この声!?」
初めて聞いたトラップが、驚いたようにあたりを見回している。
だけど、光は、そんな彼には全く構わず、言葉を続けた。
(ごめんなさい……私は、ダンジョンマスター。このダンジョンを作ったもの……)
「う、うん。それは聞いたけど……ねえ、結局、このダンジョンって何だったの?」
わけがわからん、説明しろ、みたいなことを騒ぎ立てるトラップを抑えて、わたしが話しかけると。
光は、それはそれは寂しそうな声で……話を続けた。
(私とトーマは……愛し合っていました。そう思っていたんです。私達は冒険者で……あの日、あるダンジョンの探検に出かけて……そこで、呪いを受けたんです)
「呪い?」
(ダンジョンマスターが残した、呪いです。愛し合う者達を引き裂く呪い。そこで、わたしは身体を乗っ取られ……ダンジョンマスターが、トーマを誘惑するのを、見せ付けられたんです……)
…………
それって、何だかさっきのわたしと……同じ?
(トーマは……中身が私じゃないことに、気づいてくれなかった。誘惑に乗って、ダンジョンマスターを抱いて……その瞬間、呪いは成立しました。私は、私をわかってくれないトーマを信じることができなかった。トーマは、中身が私じゃないことに気づかず誘惑に負けた。
その瞬間、私は実体を失って新たなダンジョンマスターとなることを強制され……トーマは、ドラゴンの姿に変えられてしまって、そうして、何百年も、こんな場所に縛り付けられていたんです……)
「…………」
わたしもトラップも、何も言えなかった。
それは……何て、ひどい呪いなんだろう。
愛を試す。愛が本物じゃなかったら、この場所に縛り付けられる。
そんなダンジョンって……
(わたし達が解放されるためには、一つしか方法が無いんです。他人の愛を引き裂くこと。そうすることで、私も、トーマも、実体を取り戻すことが……できるはずでした。でも、でも……)
泣いていた。
光は、泣いてるみたいだった。もちろん、涙を流しているわけじゃないんだけど……
(でも、それができなかったら。もし本当に愛し合う者同士が、呪いに打ち勝てば……このダンジョンは……消えます。そうして、ダンジョンマスターも、共に消えるんです。やっと、呪いが完全に消える……)
……え!?
「消えるって……それって、それってあなたが……」
(私が、今のダンジョンマスター。この呪いがかけられてから、何人目のマスターかはわからないけれど……私の代で、やっと終わることができる。気に、病まないで。やっと、楽になれるから……トーマも、一足先に……私も……)
「待って……」
引き止めてどうしようって思ったわけじゃない。
だけど、これじゃあんまりだと思った。ダンジョンマスターが可哀想だと思った。
身体を乗っ取られそうになったのに、我ながらおひとよしだって思う。
だけど……わかるから。愛する人のことが信じられなかったのが、すごく辛いことだって、わかるから!
「ダンジョンマスター……」
わたしが一歩前に出たとき。
それを制して、トラップが、ずいっと前に出た。
今にも消えようとしている光の前に立つ。腕組みをした、じっとにらみつけるようにして。
そして言った。
「ばあか!!」
…………
その言葉に、わたしは目が点になり、ダンジョンマスターの方は、言葉が出ないみたいだった。
「と、トラップ!? あなた、いきなり……」
「バカだからバカだっつってんだ! あにうじうじ悩んでんだよ。好きな男が他の女抱いたら、嫉妬すんの当たり前だろうが!? おめえはトーマって野郎を愛してた。それは事実だろ。自分の気持ちまで否定してんじゃねえよ!」
「トラップ……?」
「後な、誘惑された立場だからわかるけど……」
わたしの言葉には答えず、トラップは……何だか、決まり悪そうにつぶやいた。
「別に、トーマって野郎は、中身がおめえじゃねえことに気づかなかったわけじゃねえと思うぜ?」
(……嘘よ……)
トラップの言葉に、ダンジョンマスターが弱々しい反論を返す。
だけど、トラップは大きく首を振って言い切った。
「いんや、俺にはわかる。雰囲気が違うんだよ。中身が違うとな。けどな、男ってーのは……何つーかだな、その……」
がしがしっ、と頭をかきながら、トラップはちらり、とわたしに目をやった。
……何よ、その視線。
「あのな……許してやれよ。男ってのはな、例え心でどんだけ拒否しても、女の方から誘惑されたら……その、反応しちまうもんなんだよ。特に、誘惑してきたのが……その身体が、好きな女の身体だったらな。無理やり拒絶すれば、傷つけちまうかもしれねえ。
どうしようもできねえことって、あんだよ……あんたが、何百年経っても、トーマって野郎のために涙を流せるくらい、嫌いになれなかったのと同じように、な」
トラップの言葉に、ダンジョンマスターは答えなかった。
ただ、ふらふらと頼りなげに、わたし達のまわりをまわって……
「……あんま、慰めになってねえかもしんねえけど……愛情ってのは、そんな簡単に理解できるようなもんじゃねえぜ? 自分の気持ちだってよくわかってねえのに、ましてや他人の気持ちなんてな、わからなくて当然だって」
(……ありがとう……)
トラップがそう言うと。
光は……完全に、消滅した。
ダンジョンマスターがいなくなった後。
突然、すごい音を立ててダンジョンが崩れ始めた。
「……! まじいっ! 逃げるぞパステル!!」
「う、うん」
ぐいっと手をつかまれる。もう感傷に浸ってる暇も無い!
走り出した。だけど、半日くらいかけてここまで来たんだよね。崩れる前に脱出なんてできるの!?
わたしはすごく不安だったんだけど。
走り始めて程なく、すごく懐かしい声が聞こえてきた。
「おい、トラップ! パステル!!」
『……クレイ!』
わたしとトラップの声がはもった。
「お前ら、一体どこに……いや説明は後だ! 逃げるぞ!!」
「クレイ、でも、でも間に合うの!? 入り口まで……」
「大丈夫だ! ノルがやってくれたから!!」
「ええ!?」
ばたばたばたと走り続けること五分くらい。
たどり着いたのは、ところどころにあった広場のような場所。
そして、そこの天井には、大きな穴が開いていて……
「ああ、トラップ!! 早くロープを!!」
その場で足踏みしながら待っていたキットンが、わたし達の姿を認めて叫ぶ。
それだけで事情を理解したのか、トラップが、素早くフックつきロープを取り出して、穴の外に投げた。
どうやら、ノルがその怪力で天井を突き破ってくれたみたい。彼の手には、泥まみれになった愛用の斧が握られていた。
ロープが固定される。その間にも、ダンジョンは容赦なく土崩れを起こし始めていて……
「は、早く、早く早くー!!」
「バカ焦るなっ! ゆっくりと……」
「うぎゃぎゃ!! つ、土が目に〜〜!!」
「キットン、早く上れって!!」
ああ、もう何が何だかっ!!
とにかく、余韻なんかに浸ってる暇も無く。
わたし達は、ほうほうのていでダンジョンを脱出したのだった。
クレイ達の話しによると、あのドラゴンが現れたとき。
走っているうちにわたしとトラップがついてきてないことに気づいたけど、逆戻りしようとしたところで、突然すごい熱波に包まれて気を失ってしまったとか。
「……それも、ダンジョンマスターの力……なのかな?」
「そうじゃねえ? なるべく邪魔が入らねえように、目的の二人以外近づけねえようにしたんだろ。あのドラゴン、そういう役目もやらされてたんじゃねえの?」
なるほど……
「……でね、トラップ。あのとき、本当にわかったのはあのときなの? 実はもっと前にわかってたけど、黙って見てた……なんてことは、無いよね?」
「……あ、あたりめえだろうが! だ、誰がわざわざ好き好んでおめえみてえな幼児体型見なきゃなんねえんだ!?」
「な、何ですってええ!!?」
ダンジョン脱出の二日後。
わたしとトラップは、猪鹿亭で話しこんでいた。
他のメンバーは、疲れ果ててまだ寝てるんだよね。けど、わたしはどうしても確認したいことがあったから、無理やりここまで引きずってきたんだ。
ちなみに、途中でダンジョンが崩れたため、当然だけど「暗闇の花」を見つけることはできず。
というより、あのダンジョンにお宝があるとか、暗闇の花があるとか、それはもしかしたら全部、人を引き寄せるためのでっちあげだったんじゃないか、っていうのが、トラップの説だったりする。
よくよく聞いたら、盗賊団がアジトにしていたっていう話は、いつの話なのか随分曖昧で……少なくとも、最近の話じゃないってことだった。だから、ありうる、と、彼は随分悔しそうだったんだけど。
けど、わたしにとって、それはどうでもいいことだった。
いや、本当はよくないんだけどね。だけど、わたしが気になってることに比べたらそんなのは本当にささいなことで……
「あのね、トラップ」
「あんだよ?」
「どうして、わたし達二人なのかなあ」
ぶはっ!!
わたしがそうつぶやいた瞬間、トラップは派手に水をふきだした。
もーっ、汚いなあ……
「げほっ、えほっ……あ、あのなあ。何だよ突然」
「だって、あの呪いって、愛する二人を引き裂く呪いなんでしょ? それ以外の人達には関係無いから、以前ダンジョンに踏み込んだっていう冒険者達も、ドラゴンに会ったのに無事で済んだんだよね?」
「……まあ、そうだろうな」
「でね、何でわたし達が選ばれたのかなあって思って……」
「……おめえ、それ本気で言ってんのか……?」
「え?」
当たり前じゃない、とわたしが言うと、トラップは、深い、深いため息をついた。
「あ、あんだけはっきり言い切られたのに、そう言うかよ……何で、おめえなんだろうなあ……」
「え?」
「何でもねえよっ!!」
トラップは、ドン、とテーブルを叩いて叫んだ。
「気まぐれだろ気まぐれ!? ああそーだよ、ダンジョンマスターの気まぐれ。そうに決まってら!!」
ふてくされたように水を飲み干して、おかわりを頼む。
その姿は、どこまでも、不機嫌そうだった。
完結です
何で長くなるんでしょうね……もっと短くおさめる予定だったのですが。
次作は、一部からリクエストのあった「パラレル悲恋5」いきます。
ダーク具合は4より低いですが暗さはこっちの方が上かもしれません。挙句にまた救いが無い話です。
ついでに思いついて前スレの方に小ネタ投下してきました。
キャラ別小話もそのうち書きます、多分。
ところで、以前リクエスト受けたんですけど
クレイ×ルーミィってありなんでしょうかね。
いえ、ちょっとネタを思い付いたもので……
258 :
サボン玉 :03/11/09 19:09 ID:HQqLuW76
お久しぶりです。
トラパス作者さまのリタの小話みて思いつきました。
思いつくままさらさら書いたので文法もなにもあったもんじゃないですが、どうぞ。
健全な男女ならしてるはずですよね・・・?
(夜の出来事)
それは寒い夜の日の出来事だった。
その日何故か俺はなかなか寝付けず、ベッドの中で何度も寝返りをうっていた。
仰向けの状態で目を軽くつぶっていても、体がむずむずして右をむく。
その状態でまた軽く目をつぶっていても、また体が落ち着かずに左を向く。
「ぅ・・・」
左を向いた瞬間、クレイからうめき声が聞こえた。
隣でこうも寝返りをうたれてちゃそうスヤスヤと寝れねぇだろうな。
気の毒だと思って寝返りを打つのを我慢していたが、やっぱり体がむずむずしてくる。
クレイの眠りを妨げないようにゆっくりまた寝返りをうつことにした。
ギシ・・・。
やべ。
ギシ・・・。
俺なりに慎重に寝返りをうったつもりだったが、ベッドの軋む音がした。
しかし、音が小さかったからかクレイは気づかず、スヤスヤと寝息を立てていた。
259 :
サボン玉 :03/11/09 19:11 ID:HQqLuW76
不思議なのはそこからだ。
ギシ・・・というベッドの軋む音が、俺が寝返りをうった後にも聞こえてきたのだ。
首だけ動かして、隣のクレイを見てみたが。
クレイはさっきと同じでスヤスヤ寝息を立てていた。
じゃぁ、誰だ?
ギシ・・・。
またベッドの軋む音が聞こえた。俺は目をつぶって耳を澄ました。
ギシ・・・。
壁の向こうから、か?
この壁の向こうといえば、パステル、ルーミィ、シロが寝ている部屋だ。
大方、ルーミィの目が覚めてパステルを起こしてる、そんなとこだろ。
そう思い込んで俺はまた軽く目をつぶった。
が。
ベッドの軋む音は止まず、むしろ前より音が大きくなっていた。
そしてギシ・・・と前まではゆっくりだった音がギシギシと今では速度を増している。
おかしい。
そう思って、俺は壁に耳をくっつけた。
微かに聞こえてきたのは。
「あ・・・んぅ・・」
パステルの、俺の愛する女の、淫らな喘ぎ声だった。
「ん・・はぁん・・・」
こういう場合、どーすりゃいいんだ。
耳を離してそのまま何も無かったかのように寝れば良いのか?
それとも、このままパステルの喘ぎ声を聞き続けるか?
・・・俺は少し迷ったが、後者を選んだ。
次の日。
俺とパステルの目にくっきり隈があったのは。
言うまでもない。
260 :
サボン玉 :03/11/09 19:14 ID:HQqLuW76
小話と付け加えとくの忘れてましたw
にしても短すぎですね、私・・・。
261 :
名無しさん@ピンキー:03/11/10 01:21 ID:xsgMwnlQ
ダンジョン編、面白い!久々の冒険物イイ!!話も良く出来てるし
やっぱこれが本来のフォーチュンだよなー、と思ったりもしました。
あっいや、もちろん他のも好きですよ ただ、クエスト物は本当に久しぶりだったから
読んでてチョット嬉しくなりました。
悲恋5も楽しみにしてます、それとクレイ×ルーミィも期待してます!
サボン玉さんも久しぶり、いやー良かったです!
パステルの自慰行為に聞き耳を立てるトラップ、二人とも最高!
男だったら絶対と言っていいほど聞き続けるよな〜!たとえ知らない女の子だとしても……
情けないけど、男ってバカですから
そんな事より また、何か書いてください! それじゃまた!!
>>261さん
ありがとうございます。
クエスト物は書いてて楽しいですが、エロが挿入しにくいので板的にはどうなのか、と思っていました。
クレイ×ルーミィも多分近いうちに書きます。
それにしてもダンジョン編より空回りなトラップの方が反応が多いというのはさすがに……
新作投下します。
パラレル悲恋シリーズ5。
要注意!!!
・パラレルです。舞台は現代。主な登場人物はトラップ、パステル、クレイ、マリーナ、ちょい役リタ。全員が24〜25歳、という設定です。
・ダーク度合いは低めですがそのかわりにどろどろです。暗いです。なおかつ長いです。
・トラップファン、及びマリーナファンの人達ごめんなさい。
↑
こういう話が嫌いな方はスルーでお願いします。
それはよくある出来事だったはず。
交通課の婦人警官。「警察官になったのよ」というと、友人はみんな驚いていたけど。
実際にやっていることは、ただパトカーで市内をまわって、駐車禁止を取り締まることがほとんど。
テレビや小説みたいに、かっこよく犯人を捕まえたり、銃を撃ち合ったり……そんな経験なんか、一回もしたことが無いしこれからも無いと思う。
もっとも、それはある意味ありがたかったかもしれない。
「よくあなたが試験に合格できたわね」
大学のときの親友、マリーナにはそう言って感心されてしまったっくらい、わたしは運動神経に自信が無かったし。正直に言えば、それほど頭が回る方でもなかったから。
だから、多分わたしは、ずっとこうして違反者を取り締まって、そしていつか、結婚でもしたときにこの仕事をやめるんだと思う。
そんなことを思いながら、代わり映えのしない日常を送っていたときだった。
後から思えば運命の出会いだった。けれど、そのときのわたしは、そんなことにちっとも気づいていなかった。
それは、久しぶりにマリーナから手紙をもらった日のことだった。
「結婚が決まったの。式に出席してくれる?」
マリーナの手紙には、そんな一文が載せられていて。
ああ、ついにこういう日が来たのかあ、と妙な感慨にふけってしまった。
わたしももう24歳。そろそろ、同級生から結婚のお知らせがちらほら届いて。
両親からも「そろそろ……」なんてお見合い写真を押し付けられる年になった。
「もちろん、出席させてもらう」
すぐに返信葉書を出して、ふうっ、と空を見上げた。
結婚したい、って気持ちが無いわけじゃないけど。でも、こればっかりは一人じゃできない。
相手候補が、いないわけじゃない。
クレイ・S・アンダーソン。
職場の一年先輩で、お祖父様が警視総監、お父様が警視さん、クレイ本人も、キャリア組として第一線でばりばり働いている刑事。
彼と話すようになったのは、何てことの無いきっかけから。
雨の日、傘を忘れて困っているときに、「よかったら、送ってあげようか」と車のドアを開けてくれた……本当に、小説か漫画でしかありえないようなシチュエーションだな、と思ったのを覚えている。
とにかく、それがきっかけで、わたしはクレイと話すようになり……そのことで、随分職場の同僚には嫌がらせを受けた。
クレイは、家柄も立派だけど、本人も背が高く、剣道の腕はインターハイで優勝を争うほどで、顔は文句のつけようもない美形で。
なおかつ、それだけの要素を持っていながらちっともおごり高ぶったところがなく、誰に対しても優しいという、まさに欠点の無い完璧な人。
しいて言えば、多少おひとよしすぎるところがあるとか、運が悪いかも? とか。けれど、そんなところも、彼の魅力に繋がるだけで、マイナス要因にはなっていない、そんな人。
大してわたしは、別に誇るような家柄でもないし、頭だって運動神経だって目だっていいわけじゃないし。顔だって……まあ、普通程度の容姿だし。
そんなわたしとクレイが一緒にいることを、快く思われないのは、仕方が無いと思う。
けれど、何故か……こんなわたしを、クレイは好きだと言ってくれた。
「パステルといると、ほっとするから」
そう言って、彼はわたしに、婚約指輪を渡してくれた。
そして、その指輪は、今、わたしの指に光っている。
する気になれば、多分、いつだって結婚式を挙げてくれるだろう。実際、クレイはそう言ってくれた。
……でも、何でだろう。
「結婚したい」と思う気持ちはある。けれど、「相手はクレイじゃなきゃいけない」とは思えない。
婚約指輪を受け取ったのは、断る理由が無かった……そんな消極的な理由だった。
クレイのことは嫌いじゃない。むしろ大好きだ。かっこいいし優しい。わたしにはもったいない人だと思う。
それなのに。一体、わたしは何が不満なんだろう……?
「パステル! 何ボーッとしてるのっ!」
声をかけられて、ハッと我に返る。
隣の席でハンドルを握っているリタが、ちょっとにらむような目でわたしを見ていた。
もっとも、口元は笑っていたから、本気で怒ってるわけじゃないみたいだけど。
「ごめん、ちょっと考え込んでた」
「全くう! 幸せボケはやめてよねー。相手のいないあたしに対する嫌味?」
「そ、そんなのじゃないってば」
慌てて手を振る。わたしとクレイが婚約していることは、署内のみんなが知っている。
「ちょっとね、友達から、結婚するって連絡が来たものだから」
「ああ、それで自分も早く結婚したいって思ったとか?」
わかるわかる。寿退社って憧れるよね……
そんなリタの台詞が、耳を通り過ぎていく。
そのときだった。
キキーッ!!
突然の急ブレーキに、身体が前につんのめった。
「リタ?」
「駐車違反。標識の前に堂々と停めるなんて、いい度胸してるじゃない」
言いながら、リタがばん、と車から飛び出す。
続いて車を降りると、確かに、「駐停車禁止」の標識の前に、堂々と停まっている赤い車が目に止まった。
「持ち主は誰かしらね。えーっと……」
リタがナンバープレートを覗き込んだときだった。
「っ……おいっ、違うっ、それは違うからなっ!」
「え?」
ぐいっ
背後から肩をつかまれて、振り返る。
驚くほど近くに、明るい茶色の瞳が迫ってきていた。
「きゃっ!?」
「違うんだっつーの。これは駐車じゃなくてなあ……そう、停めたくて停めたわけじゃねえんだ! だあら、見逃してくれっ!!」
わたしの悲鳴なんかすぱんと無視して、目の前の人はまくしたてるように叫んだ。
迫る瞳から逃げるように顔をそらして、そうしてその全身が目に入る。
車と同じ、燃えるような赤い髪が印象的だった。割と背が高くて、でもその割にはとても細い。多分、年はわたしと同じくらい……
きりっと引き締まった端正な顔立ち、強い光を放つ目が印象的な、そんな人だった。
「なっ、頼む、見逃してくれ。俺、点数やべえんだって」
「何勝手なこと言ってるの!」
わたしが何も言えないでいると、ナンバーをきっちりメモしたリタが声をあげた。
「ここは駐停車禁止区域! 見ればわかるでしょう? さ、免許証出して!」
「んだよ。悪かったって言ってんじゃねえか!」
「いつ言ったのよ! ほら、早く! 公務執行妨害で逮捕するわよ!?」
そう叫ぶと、男の人は渋々と免許証を取り出した。
確かに、その点数は残り少なくなっている。……もっとも、わたし達にはどうしてあげることもできないんだけどね。
「ったく。融通のきかねえ女」
ぼそりとつぶやく彼の口調がすごく悔しそうで、わたしは思わず笑ってしまった。
と、ほんの小さな声だったはずなのに、彼の目は、ぎろりとわたしをにらみつけた。
「……あに笑ってんだよ」
「別に……笑ってなんか」
「けっ。いいよなあおめえらは。こうして一般市民をいじめてるだけで、給料がもらえんだから」
「! なっ……何よその言い方!」
駐車違反やスピード違反を取り締まられて、こういう悪態をつく人は珍しくない。
いちいち相手にするな、とリタやクレイはよく言うけれど。それでも、腹が立った。
「あ、あなたが悪いんでしょう!? 標識無視して停めるから!」
「っ……だあらっ……しゃあねえだろ!? 仕事中だったんだからよ!」
「……え?」
きょとんとするわたしの目の前に、ぐいっ、と身分証明書がつきつけられた。
「コードネーム、トラップ……探偵事務所……?」
「そーだよ! くっそ、もうちっとだったのに、逃げられたじゃねえか」
「逃げられたって……」
「犯人追ってたんだよ。連続通り魔。まあ、通り魔っつったって、女子高生のスカートの中を盗撮するっつー、チンケな奴だけどな」
そう言って、彼……トラップは、すごく意地悪な笑みを浮かべていった。
「お偉い警察さん達は、こんなチンケな事件相手にしてくれねえからな。俺達探偵が、しのぎを削ってるってわけだよ」
「なっ……」
それだけ言うと、トラップはバン、と車に乗って、走り去って行ってしまった。
まるで、嵐のような人。第一印象は、それだった。
「何よ、あいつ。好き勝手言ってくれちゃって……」
「…………」
リタの言葉も、耳に入らない。
何故だか、わたしの目には、あの真っ赤な髪が、意地悪な視線が。
その全てが目に付いて、忘れられなくなっていたから。
どうしてなのかは、よくわからなかったけれど。
「どうしたの? 不機嫌じゃない」
声をかけられて、俺は振り向いた。
そこに立っていたのは、前髪だけをピンクに染めた金髪と、グラマーな身体が魅力的な女。
マリーナ。幼馴染で付き合いは20年以上、同棲を始めて2年余り、つい先日結婚を決めた相手でもある。
「べっつに。融通のきかねえ女ってのは、性質わりいなって、つくづく思ってな」
「あら、それ、わたしのこと?」
そう言って笑うマリーナの顔は、まあ……色っぽかった。
こいつと結婚することにしたのに、深い意味なんかねえ。
ただ、もう20年以上も顔をつき合わせていると、何つーか……一緒にいることの方が自然で、こいつがいねえ生活ってのが逆に想像できなくて。
俺もいい年だったしな。冗談混じりに「結婚すっか?」と聞いてみたところ、意外にもあっさり「いいわよ」という返事が返って来た……とまあ、そんな程度の理由だった。
幼馴染と結婚する奴なんて、大概こんなもんじゃねえの? 詳しくは知らねえけど。
ぐいっ、とその細い顎をつかみあげて、肉感的な唇を奪う。
「バカ言え。おめえほどいい女は、なかなかいねえと思うぜ?」
「あら、嬉しい。あんたがそんなこと言うなんて、雪でも降るんじゃない?」
キスした直後とは思えねえ、動揺のかけらもねえ声で言い返される。
いやいや、俺は本気だぜ? つくづく思った。
脳裏に浮かぶのは、今日駐車違反を取り締まった、融通のきかねえ婦人警官。
制服が素晴らしく似合っていない幼児体型。長い金髪とはしばみ色の目は、まあそれなりに可愛い方じゃねえかと思うが……本当に大学を出てるのか疑いたくなるくらいに容姿も言動もガキくさい、そんな女。
思い出すと腹が立ってくる。まったく、犯人を取り逃がしたとキットンの野郎……所長には怒鳴られるし。免許の点数はますますやばくなるし……免停なんて冗談じゃねえぞ。
何故だか脳裏から離れねえ女の顔にぶつぶつと悪態をついていると、背中に重みがかかった。
しなだれかかっているのは、マリーナ。
「他の女のこと、考えてるでしょ?」
「わかるか?」
「わかるわよ。何年あんたと付き合ってきたと思ってるの? わたしには、あんたの考えなんかお見通しなんだから」
「妬いてんのか?」
そう言うと、マリーナは妖艶な笑みを浮かべて、耳元で囁いた。
「さあ、どうかしらね?」
ぐっ、と肩をつかんで、細い割にはグラマーな身体をベッドに押し倒す。
美人で、頭が切れて、ぎゃあぎゃあとつまんねえ嫉妬を爆発させたり独占欲をむきだしにしたり、そんな面倒くせえ女からはもっとも対極にいる女。
そして何より、身体がいい。
ぐいっ、とのしかかると、マリーナの白い腕が、身体にからみついてきた。
初めてこいつと寝たのは、確か15のときだった。それ以来、何度抱いたかわかりゃしねえ。
寝たきっかけは、ただの興味本位だった。こいつの口から俺のことを好きだ、なんて言葉は聞いたことがねえし、俺も言ったことがねえ。
一緒にいたのは惰性で、そしてそれが嫌じゃなかったから何となく結婚することにした。
別にそれに不満もねえし、親も「マリーナなら安心だ」と喜んでくれている。母ちゃんとも仲がいいから、面倒な嫁姑争いに巻き込まれることもねえだろう。
そう……結婚なんて、そんなもんじゃねえ? 嫌いじゃなくて、面倒の少なそうな相手。それが、一番じゃねえ?
胸に顔を埋めると、マリーナのくすぐったそうな笑い声が、耳についた。
「そろそろ、返事を聞かせてくれないか?」
いつものデート。ただ署内の食堂で、一緒にご飯を食べるだけだけど。
それでも、わたしにとっては、男の人と二人っきりの食事だから、十分にデートだと思っている。
クレイにそう言われたとき、わたしはとっさに、何のことだかわからなかった。
けど、クレイの視線が、じっとわたしの左手の薬指……婚約指輪に注がれていることに気づいて、ああ、と頷く。
ふ、普通忘れるかなあ? こんな重要なこと。うう、わたしってば、この間から変かも。
何故だかわからないけれど、この間……あの失礼な赤い髪の男の人、トラップの駐車違反を取り締まってから。わたしは変だった。
何がどう、と言われても困るけど……何となく、変だった。
ふっと赤毛の人を目で追ってしまったり、何となくあの日取り締まった場所に足が向いたり……そう。とにかく、変だった。
いけないいけない、こんなことじゃ。
ぶんぶんと首を振る。それに……
目の前のクレイは、優しそうな、それでいて不安そうな、そんな目で、わたしのことをじーっと見ている。
婚約してから、もう随分時間が経っている気がする。確かに、そろそろはっきりさせた方がいいかもしれない。
「何が不満なのよ?」とリタに言われた。不満なんか、何も無い。
「いい人なんでしょう?」と両親に言われた。そう、とてもいい人。
だったら別に……断る理由なんか、何も無いような気がする。だから、婚約指輪だって受け取ったんだし。
というよりも、ここで断ったら婚約破棄という立派な罪になってしまう。
「うん。これからもよろしくね」
そう言うと、クレイはホッとしたように微笑んで、ぎゅっとわたしの手を握ってくれた。
これで……いいんだよね?
「ねえ、クレイ。近々ね、友達の結婚式があるの」
「ああ、聞いたよ」
そうと決まった途端、これはいい機会かもしれないと思った。
マリーナの結婚式は、もうすぐだ。これから、きっと彼女は新婚旅行や何やかんやで忙しくなるだろうから。
知らせるなら、早めに知らせたい。
「クレイのこと、彼女に紹介したいのよ。大の親友なの」
「俺? 呼ばれてないけど、いいの?」
「きっと、大丈夫だと思う」
きっと、マリーナなら何とかするんじゃないか、と思った。
マリーナは、大学で知り合った友人だった。美人で頭が良くて気さくで。彼女と親友になれたことを心から誇りに思える、そんな子。
彼女のことだ。わたしが「婚約者を紹介したい」と言えば、きっとどうにでもしてくれるだろう。
それに……何故だろう。
一人で結婚式に行くのは、悔しい気がした。
彼女はいつだってわたしの一歩先を行っていて、わたしにできないようなことをいつも何でもないことのように片付けていた。
いつだって彼女に先を越されていた。わたしはマリーナのことが大好きだけれど、それが、ちょっとだけ……悔しい。
結婚相手を見つけたのは、あなただけじゃない。それを伝えたいと思った。
子供じみた嫉妬心だとは、わかっているけど。
「パステルの友達だから、きっといい子なんだろうね」
「うん。すっごくいい子。きっと、クレイもすぐに仲良くなれると思う」
彼女の旦那様になる人は、どんな人だろう?
葉書に書かれていた名前は、ステア・ブーツ。
知らない名前だった。でも、マリーナが選んだ人だから。
きっといい人に違いない、そう思った。
結婚式なんつーのは、退屈きわまりねえ。
着慣れねえ窮屈な服。別に式なんか挙げる必要ねえんじゃねえか、とも思ったが。
「女にとって、結婚式がどんだけ重要だと思ってるんだい!」
そう母ちゃんに怒鳴られて、渋々挙げることにした式。
マリーナは、別にどっちでもいい、と言っていたが。それでも、ウェディングドレスを着れるのは嬉しそうだった。
まあな。式の費用は親父が出してくれるっつーし。一日我慢すりゃいい話なんだけどよ。
「トラップ、準備はいいかい?」
ドアの外から聞こえる母ちゃんの声に、生返事をする。
さて、行ってくっか。
言われるがままに式場へと出向く。
この後、結婚式をして、披露宴をして、それから……
全く。別に今までと何が変わるってわけでもねえのに。何でこんな大げさなことしなきゃなんねえんだか。
マリーナのウェディングドレス姿は、まあ綺麗だった。
もともと美人でスタイルもいいからな。何を着たって、それなりに様になる奴なんだが。
長い神父の話を聞いて、指輪を交換して、誓いのキスをして。
それは、ただの決まりきった手順に従う作業。何の感慨もわきゃしねえ。
……もうちっと、嬉しいもんかと思ってたけどな。
披露宴の会場へと移動しながら、そんなことをぼんやりと思う。
いくら長い付き合いだからって、結婚となりゃあ、ちっとは感動みてえなもんもわくかと思ったけど。
何にも心に響かねえ。どうせ今までだってマリーナとは一緒に暮らしてきたんだ。別に引越しするわけでもねえし、仕事場が変わるわけでもねえし……結婚したところで、何の変化もねえんだよな。
ふう、と言われた席に腰掛けたときだった。
「マリーナ! おめでとう!!」
何だか、どこかで聞いたような声が響いた。
隣に座っているマリーナ。その傍に駆け寄ってくる女と、その連れらしき男。
男の方に見覚えはねえ。……が。
女の方を見た瞬間、一瞬目を奪われた。
……あいつは。
「パステル! 来てくれたのねー!」
「当たり前じゃないの! ね、マリーナ。今日は本当にありがとう。それと、無理言ってごめんね!」
「ううん、いいのよ。わたしだって、パステルの婚約者に会いたかったんだから。あ、ごめん。うちのを紹介するわね」
ぐいっ、と腕をひっぱられた。
瞬間、目が合った。パステル、と呼ばれた女が、息を呑むのがわかった。
「わたしの旦那になる人。もう20年以上続いた腐れ縁が、とうとうこうなっちゃって。本名は違うんだけど、トラップって呼んでやって。トラップ、彼女は……」
「おめえ……マリーナの友達だったのかよ!?」
「あなたが、マリーナの結婚相手!?」
マリーナと、パステルの隣に立っていた男(婚約者らしい)が、目を丸くする中。周囲の人間の視線を一斉に浴びながら。
俺とパステルは、同時に立ち上がっていた。
ななな、何でこうなるのっ!?
マリーナの隣に立っている人。結婚式のときは、後姿しか見えなかったからよくわからなかったけれど。
こうして間近で見て……はっきりと思い出した。
間違いない……あの日、駐車違反で取り締まった、赤い髪の……
トラップ。探偵事務所に勤めてて、わたし達警察官をバカにした……
し、信じられない!
「な、何であなたがマリーナと結婚するのっ!?」
気がついたら、わたしは随分と失礼な台詞を叫んでいた。
隣でクレイが「おいおい、パステル……」と腕をひっぱっているのがわかったけれど。
納得いかない!? マリーナなら、もっといい相手がいくらでもいそうなのに!
「けっ、随分な言い草じゃねえか。俺が誰と結婚しようがおめえにゃ関係ねえだろ?」
そう言い返すトラップの顔は、随分と意地悪そうで。じろじろとわたしとクレイを見比べて、大げさにため息をついた。
「で? おめえは俺達にだけ紹介させといて、自分の連れを紹介しようって気はねえわけ?」
「〜〜〜〜〜〜!!!」
た、確かにそうだった。何のために、無理を言ってクレイを連れてきたんだか!
「ご、ごめんね、マリーナ」
「う、ううん、いいけど……パステル。あなた、トラップと知り合いだったの?」
「ちょ、ちょっとね」
さすがに、おめでたい席で「駐車違反を取り締まった」とは言いにくかった。
無理やり笑顔を作って、クレイを紹介する。
「同じ職場の、クレイ・S・アンダーソンさん。わたし達も、多分もうすぐ式を挙げることになるから……よかったら、来てね」
「行くわよ、もちろん! かっこいい人じゃない」
そう言って、マリーナは深々とお辞儀をした。
「パステルの友達のマリーナです。今日は、来ていただいてどうもありがとう」
「いえ、こちらこそ、急に押しかけて……クレイ・S・アンダーソンです。君のことは、よくパステルから聞いてるよ。俺も、マリーナと呼ばせてもらって、いいかな?」
「もちろん!」
良かった、仲良くやってもらえそう。
もし、マリーナがクレイを気に入らなかったら……そんなことは絶対無いって思ってたけど……と思うと、ちょっと怖かったんだよね。
結婚してからも、マリーナとは友達でいたい。だから、お互いの旦那様とも、仲良くやっていきたいもんね。
でも……
チラリ、とマリーナの隣。彼女の旦那様になる人……を見上げる。
この人と……わたしは仲良くやっていけるだろうか?
「トラップ。ほら、あんたも何か言うことはないの?」
マリーナに小突かれて、トラップはへらへら笑いながらクレイに手を差し出した。
「どーも、よろしく。俺もトラップでいいぜ」
「ああ。こちらこそ、よろしく。どうかクレイと呼んでくれ」
「遠慮なく。……なあ、クレイ」
そう言って、トラップはぽん、とクレイの肩を叩いて言った。
「あんた、ロリコンの趣味でもあんの?」
…………
その場がシーンと水を打ったように静まり返った。
わたしも、クレイもマリーナも、トラップの言っていることがよくわからなくて。
けど……トラップのにやにやと笑う意地悪そうな目が、どこを見ているのか……その視線を辿って、言われた意味がわかって、瞬間的に血が上ってしまう。
な、な、な……
「ちょっと、トラップ! あんた、何失礼なこと……」
「最低っ!!」
ばしゃあっ!!
相手が、これから結婚式を挙げる人だということ。
つまりは、高い衣装に身を包んでいたということ。
それらのことを綺麗に忘れて、わたしは、近くにあったグラス……中に入っていたのは、オレンジジュースだった……をつかんで、その中身を相手に浴びせていた。
「あんたが悪いわよ」
マリーナの言葉はどこまでも冷たかった。
おいおい、それが仮にも夫に対して言う台詞かよ?
「あんでだよ。本当のこと言っただけだろうが」
「どこの世界に、初対面の相手に向かって『ロリコン?』なんて聞くバカがいるのよ、全く」
ホテルの一室。披露宴直前にオレンジジュースを浴びせられた服は、ホテルの人間の手によってクリーニングに出されている。
もっとも、それで式の時間が変わるわけでもなく。お色直し、とやらのために用意してあった別の衣装を着て、どうにかごまかしたんだが。
全く、思い出したくもねえ。
むきになったパステルの顔を思い出すと、何だか胸がもやもやしてきやがった。
俺の言葉にいちいち過敏な反応をして、ジュースを浴びせて、そのくせ後になって自分が何をしでかしたかに気づいて、真っ青になってぺこぺこ謝って。
何でだろうな。あの何つーか、どこまでも素直な目を見ていたら、何故だかからかってやりてえと思った。もともと言いたいことは素直に言う性質なんだが、パステル相手には、それが顕著になるっつーか。
まあとにかく。披露宴はどうにか無事に終わった。
今はホテルの部屋に俺とマリーナ、二人きり。明日からは新婚旅行に出かけることになる。
「まさか、あいつがおめえの友達だったとはなあ」
「そういえば、あんた、何でパステルのこと知ってたの?」
「……ちっとな」
どうしてマリーナに言わなかったのか。その理由はわからねえ。
わからねえが、何となく教えようという気にはなれなかった。
「まあ……大したことじゃねえよ」
「ふうん。でも、あんた」
マリーナは、それ以上しつこく聞こうとはしなかったが。
そのかわり、俺の顔をひょい、と覗き込んで、言った。
「パステルのこと、気にいってるでしょ?」
「…………」
言われた意味を理解して、凍りつく。
何だそりゃ? どうしたらそんな結論が出てくるんだ?
「ばあか、んなわけねえだろ。何で俺があんな幼児体型」
「そうかしら。あんたのパステルに取る態度、子供と同じだったわよ」
「はあ?」
わけがわかんねえ。そう言うと、マリーナはふふっ、と微笑んで、言った。
「子供ってそうじゃない? 好きな女の子ほど、いじめたくなる……あんたのパステルに取る態度って、何だかそんな風に見えたから」
「…………」
何だよ、そりゃ。
俺が、あのガキくせえ女を好き? 冗談も休み休み言ってくれ。
ぐいっ、とその顎をつかみあげる。唇を奪った後、ベッドに押し倒した。
「おめえ、自分の旦那に向かって他の女が好きだろうなんて、普通言えねえだろ」
「あら、わたしは思った通り言っただけよ? 言ったでしょ。あんたの考えなんて、お見通しなんだから」
「バカ言え。今度ばかりはぜってえ外れだ」
「どうかしら?」
笑みを浮かべるマリーナの服をはぎとる。
パステルの貧弱な体型とはまるで違う、めりはりの効いた身体が目に飛び込んできて、欲望をどうしようもなく煽った。
「やきもちか?」
「さあ。身体に聞いてみたら?」
「そうさせてもらう」
ぐいっと胸をつかみあげて、白い肌にキスの雨を降らせる。
俺が好きなのは、マリーナのような、ナイスバディの、色気たっぷりな姉ちゃんだ。
断じて……あんな出るとこがひっこんでひっこむところが出てるような、幼児体型じゃねえ。
太ももに指をはわせると、既に溢れ始めた蜜が、俺の指にまとわりついてきた。
あんな人のことは忘れよう。
マリーナの結婚式から数ヶ月。今、わたしがウェディングドレスを着て、教会にいる。
数ヶ月前のことは、今でも脳裏にこびりついて取れない。
よっ、よりにもよって、クレイにろ、ろ、ロリコンだなんてっ……
「まあまあ。悪い奴じゃないみたいだし。俺は気にしてないよ」
って、クレイは笑ってたけどっ!
く、クレイは気にしなくてもわたしは気にしてるのよっ! そ、それってつまりっ、わたしが……
ああもう、腹の立つっ!
「パステル。顔、ちょっと怖いよ」
隣に立っているクレイが、苦笑して言った。
そういうクレイの姿は白のタキシード。そりゃあもう、会場からため息が合唱で漏れたくらいに、かっこいい。
結婚式だから、忘れようと思っているのに。
ここ数ヶ月、ずっとずーっとわたしはこんな調子で。そして今日も、やっぱりこんな調子だった。
どうかすると、あの赤毛の意地悪そうな顔が頭に浮かんでくる。言われた悪態の一つ一つが思い出されて、そのたびにかーっと腹が立って……
ううっ、何でだろう。立ち直りが早い、過去をひきずったりしない、それがわたしだって、みんなに言われてきたのに。
何で、あの人……トラップのことになると、こうなるんだろう?
ふんだ、ふーんだ。それくらいひどい人だってことだよね? あんな失礼なこと言われたのは、生まれてこの方初めてだもん。そのせいだよね?
全く。あんな人がマリーナの旦那様だなんて、信じられない。
結婚式の間も、何故だか、わたしはトラップのことばっかり考えていた。
神父さんの声も、見事に耳を素通りしていく。
はあ。こんなはずじゃなかったのに。
結婚式って、普通女の子の憧れでしょう? 何でこうなっちゃうのかなあ。
「永遠に愛することを、誓いますか?」
神父さんの言葉に、はっと我に返る。
気が付けば、みんなの視線が、わたしに集中していて……
「は、はいっ。ち、誓いますっ!」
勢い込んで言った瞬間、会場全体が失笑の渦に巻き込まれた。
ううっ……最低っ……結婚式。憧れの、結婚式があ……
それもこれも、みーんな……あいつが悪いんだからっ!!
ちなみに、わたしがこれだけ腹を立てているのに。
当のマリーナとトラップの二人は、式を欠席してたんだよね。
トラップは仕事の都合がつかなくて、とか何とか。マリーナは、体調が悪いらしい。
マリーナが来れないのは残念だけど、トラップは来なくてよかったかもね。
絶対、こんなところ見られたらバカにされるに決まってるもの!
そうよ、そう。どうせ滅多に会うこともないだろうし。
このまま忘れちゃおう。それが一番いいことなんだからっ!
「パステル、あの……指輪の、交換……」
クレイに耳元でささやかれて、わたしは慌てて振り向いた。
「できちゃったみたいなのよね」
「ああ?」
唐突に言われて、それが何を意味するのか、しばらくわからなかった。
ここんところでかい仕事が立て続けに舞い込んできて、新婚だっつーのに家にも帰れねえ日々が続いていたんだが。
まあ、そのせいで、パステルとクレイの結婚式にも出れなかったんだけどな。それは別に構わねえ。
どうせパステルに会ったら、またつまんねえこと言ってあいつを怒らせるだけだろうってのが、自分でもわかっていたから。
どうしてだか、ここ数ヶ月、あいつのことがよく思い出されるんだが……まあ結婚式にジュースを浴びせられる新郎なんて、そうはいねえだろうからな。それも無理はねえ。
そう自分に言い聞かせているときに、突然言われた言葉。
「できた?」
「そ。最近吐き気が止まらないから、変だなあって思ってたんだけど……おめでたですって」
「…………」
俺が結婚式に行けなかったのは仕事があるから。だから、最初はマリーナだけが出席する予定だった。
それなのに、こいつも、当日になって吐き気と頭痛が止まらねえから、と、結局欠席した。
結婚式なんてそうそう行く機会もねえだろうに。こいつにしちゃ珍しい、と思っていたんだが。こういうことかよ。
「おめでとう」
「他人事みたいに言って。あんたの子よ?」
「わあってるよ、んなこと」
ここで「あなたの子じゃない」と言われたら、それはそれで斬新な経験と言えなくもねえが。
それにしても、子供、ねえ……
特にいつもと変わらねえ体型のマリーナを見て、しみじみと首を傾げる。
全然実感がわかねえな。本当にこん中に、人間が一人入ってるのか?
「まあ、まだ三ヶ月だからね。見た目にはわからないわよ」
俺の視線の意味がわかったのか、苦笑しながらマリーナは言った。
「仕事は、まだ続けるけど。六ヶ月か……七ヶ月くらいになったら、産休取るから」
「大丈夫なのかよ? 別に今やめたっていいぜ。俺の稼ぎだけでも食っていけるだろ?」
「嫌よ。わたし、あの仕事気にいってるんだから」
マリーナは、ブティックの店長をやっている。
昔から服をいじるのが好きだったが、今の仕事が楽しくて楽しくて仕方がねえらしい。
「でも、ね。子供が生まれたら、ここじゃ狭くなるから。今のうちに……わたしが満足に動けるうちに、もうちょっと広いところに引っ越したいんだけど」
「ああ、そーだな」
言われてみりゃあ、そうだ。ぐるりと部屋を見渡して、納得する。
大学を卒業してから、マリーナと同棲するために借りた部屋。二人だから別に狭くてもいいだろうと思ってたが……確かに、子供が生まれたら、もうちっと広い部屋が必要だろう。
「そだな。引っ越すか」
「……あんた、本当に喜んでる?」
「あにがだよ」
俺の返事に、マリーナはえらく不満そうな目を向けてきた。
「何だか、すっごく他人事みたいって言うか……もうちょっと喜んでくれてもいいんじゃない?」
「バカ言うな。喜んでるっつーの」
「そうは見えないんだけど」
つん、と顔を背けるマリーナの肩をつかむ。
内心の動揺を悟られねえようにして、無理やり振り向かせたその唇を奪う。
そうだ。言われた通り。
確かに、俺は大して嬉しいとは思ってねえ。そもそも、マリーナと結婚した、ということ事態、大したことだと考えてなかったから。
今更子供ができた、と言われても。正直に言えば、戸惑いしか感じなかった。
もちろん、堕ろせ、なんて言うつもりは全くねえが。
「喜んでるっつーの」
重ねてつぶやいた言葉は、我ながら、空々しい響きしかなかった。
新婚旅行の後、新居に引っ越す。
わたしもクレイも一人暮らしをしていたから、どっちかの家に、っていうのは無理だったし。
そう言うと、クレイのお父様……わたしにとってのお義父様が、「どうせ、いずれ子供も生まれるだろうから」と、ちょっと広めのマンションを買ってくれた。
クレイは必死に「いいって、別に」なんて遠慮していたけど。最終的には押し切られてしまった。
クレイの家は、由緒正しい家だから。お祖父様もお父様も、厳格というか……こうと言い出したら、聞かないようなところがある。
「ごめん、パステル。勝手に決めて……」
「ううん、いいよ、別に。素敵なマンションだし」
お義父様が買ってくれたのは、見晴らしのいい、本当に素敵なマンションだった。
3LDK、二人で住むにはちょっと広すぎるけれど、確かに、いずれ子供が生まれたら、これくらいの広さは必要かもしれない。
もっとも、自分で住む家だから、自分で色んな物件を見て選びたかった、っていう気持ちは、あるんだけどね。
まあ、しょうがない。
「クレイ、そっちの荷物運んでー」
「わかった。無理しないようにな」
そんなことを言いながら、引越し業者さんを手伝って二人でせっせと荷物を運んでいると。
隣の駐車スペースに、もう一台、引越しのトラックがやってきた。
うわっ、偶然。うちと同じ日に引越しかあ。
「こんにちわ。どちらのお部屋ですか?」
愛想のいい業者さんが、運転席から声をかけてきた。
「うちは、307号室です」
「へえ。そりゃ、偶然。こちらは306号室なんですよ。うるさくするかもしれませんが……」
「いえいえ、お互い様ですから」
お隣さんも、今日引越しなんだ。
すごい、偶然偶然……と思ったけど。よく考えたら別に不思議なことでも何でもない。
このマンションは新築だから、入居者もほとんどここ最近に入ってきた人達ばかり。今日は休日だから、お隣さんが同じ日に引っ越してきても、何の不思議もない。
「パステル、どうした?」
「クレイ。うちのお隣さんも、今日引越しなんだって!」
「へー。じゃあ、挨拶しないとなあ」
言いながら、クレイが階段を降りてくる。
同時に、トラックの後ろに停まった車から、ばん、と二人の人が降りてきた。
その二人を見て……わたしは、かちーんと身体が強張るのがわかった。
見覚えのある、真っ赤な車。そこから降りてきたのは……
「お、おめえ……何でこんなとこにいるんだ!?」
「あ、あんたこそっ……」
「何、トラップ。どうしたの……ぱ、パステル!?」
トラップとマリーナ。わたしとクレイ。
四人は、しばらく挨拶も忘れて、ぽかんと顔を見合わせた。
冗談じゃねえぞ、おい。
子供が生まれるから、と引っ越すことになって。適当に場所と値段とその他もろもろを考えて「まあ、いいだろう」と思ったところに決めて。
何でそこで、こいつに会うんだよ!?
引越しが終わった夜。306号室……つまりは俺とマリーナの部屋だが……に、四人で顔をつき合わせて。
マリーナとクレイはのん気に「偶然ってあるものねえ」「お隣さんが君たちだったら、心強いよ」なーんて会話を交わしてやがるが。
パステルの目は、じーっと俺を見ている。が、何も言おうとしねえ。
……まあだ根に持ってんのかよ。そんなに気にしてたのかあ? 自分の胸が小せえことを。
「本当に偶然ねえ。パステル、ごめんね。この間は、式に出れなくって」
「う、ううん。仕方ないよ。体調悪かったんでしょ? もう大丈夫?」
「平気よ。別に、病気じゃなかったから」
「え?」
言われた意味がわからねえのか、パステルはぽかんとしている。
クレイはわかったらしく、おめでとうと頭を下げているが……おい、普通女の方がこういうことには敏感なんじゃねえの? 鈍い女だな。
「えと?」
「変わってないわねえ、パステル……あのね、おめでたよ、おめでた」
「……ああっ!」
やっとわかったのか、パステルは真っ赤になって、マリーナと、そして俺に向かって頭を下げた。
「お、おめでとう」
「けっ、鈍い奴」
つぶやくと、隣のマリーナにどつかれた。
ちらっと視線を上げると、パステルは、真っ赤になったまま、しっかり俺をにらんでいる。
この目……なんだよなあ。
考えていることがストレートに伝わってくる目。この目で見られると、どうも、何つーか……心の中まで見透かされたみてえで、下手に取り繕おう、なんつー気がなくなるんだよな。
……あほらしい。何考えてんだ、俺は。
照れ隠しに立ち上がる。
「どこ行くの?」
「コーヒー入れる」
「あ、わたしが行くわよ。あんたにまかせると、自分の分だけ入れそうだもの」
……読まれてやがる。
その通りだったので黙っていると、後ろで、慌ててパステルが立ち上がるのが見えた。
「ま、マリーナ、悪いよ。それに、そんな身体で……わ、わたしがやるから。ね、座ってて」
「あら、でもパステル……」
「いいの、いいの!」
言いながら、無理やりマリーナを座らせて部屋を出る。
ありがてえ。と座り直そうとした途端、
「トラップ、あんたも手伝ってあげて。パステルだけじゃ、どこに何が置いてあるかわからないでしょう」
マリーナの声がとんできて、中腰のまま、一瞬固まってしまった。
……ったく。世の中甘くねえよなあ。
仕方なく部屋を出る。まあまあ広いマンションだが、3LDKの間取りなんて、迷うほどのもんでもねえ。
が、廊下に出た俺が見たものは、おろおろと周りを見渡しているパステルの姿だった。
「……あにしてんだ、おめえ」
「えっ!? あ……」
振り向いたパステルの顔は、気まずそうだった。
「あの……台所に、行こうとして……」
「……まさか、迷った、とか言うなよ」
「うっ」
俺の言葉に、あからさまに表情を変えるパステル。
……マジかよ?
はああ、とため息をついて先に歩き出すと、後ろから、とてとてっと足音が響いてきた。
「おめえ、自分の部屋だって同じ間取りだろうが」
「……だ、だって……」
「方向音痴にも程があるぜ。よくそんなんで婦人警官なんかやってられるなあ」
そう言うと、後ろでぐっと息を呑む気配がした。
振り向くと、パステルは、唇をかみしめてうつむいていた。
「……どした?」
「もう、やめたもの」
「あ?」
「だから……もう、やめたの。結婚したから」
「…………」
ああ、そうか。そりゃそうだよな。
寿退社、って奴か……まあ、それが普通なんだろう。
「……いいんじゃねえの? 専業主婦なんて、気楽そうで」
「…………」
パステルからの返事は、無い。
だが、その顔は、やけに不満そうだった。
「どうしたんだよ」
言っているうちに、台所につく。やかんを火にかけて、コーヒーとカップの準備をする。
パステルも、何か手伝おうとしたみてえだが、勝手がわからないのか、手を出しかねているようだった。
「どうしたんだよ?」
湯が沸くまでの間、手持ち無沙汰だったので、重ねて聞くと。
パステルは、気まずそうにつぶやいた。
「マリーナは……すごいね」
「…………」
「ブティックの、店長さんなんでしょ? 結婚しても続けてて……赤ちゃんができても、まだ働いてるんだって? 本当に、すごいよね」
「まあ、好きな仕事みてえだからな」
しゅんしゅんと、煙が吹き出す。
最新式の電気コンロのキッチン。湯が沸くのもあっという間だ。
ただ、何故か……無意識のうちに、火力を落としている自分に気づいた。
湯が沸くのが、少しでも遅くなればいい。一瞬だが、確かにそう思った。
……何でだ?
「わたし……何をやっても、彼女にはかなわなくって。何だか……仕事をやめるのも、ただお義父さん達が『やめればいい。結婚したら女は家にいるべきだ』って言われて、そんなものかなあって思って……何だか、情けないなあって思っちゃって」
「…………」
マリーナの親友、と言っていた。
けど、親友だからって……いや、親友だからこそ、だろうな。
あまりにもできすぎた友人だから、劣等感を抱く。
俺にはその気持ちはよくわかんねえが、言っていることは、わかる気がした。
「おめえはマリーナじゃねえだろ」
気がついたときには、俺は、思ったことを素直に口にしていた。
何でだろうな?
こいつの、こんな顔……こんな暗い顔を、見たくねえと思ったのは……
「おめえはマリーナじゃねえんだから。別にマリーナのことを気にする必要は、ねえんじゃねえの?」
「…………」
「マリーナにできておめえにできねえことは、そりゃあたくさんあるかもしれねえけど。でも、その逆のことも、多分いっぱいあると思うぜ」
どれだけ火力を弱めたところで、いずれは絶対に沸騰する。
完全に沸いた湯を、カップに注ぐ。
コーヒーの香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がった。
「……ありがとう」
「あ?」
「そう言ってもらえて、嬉しい」
顔をあげたパステルの顔は、もう元のまま。明るい笑みを、浮かべていた。
「ごめんなさい。わたし、あなたのこと、誤解していたみたい」
「…………」
「何て嫌な人だろう、って、最初は思ったんだけど。ごめんなさい。そんなこと言ってもらえるなんて、思わなかった」
そう言って口元をほころばせた、パステルの顔は……何故だか、とても魅力的に見えた。
「おめえも」
「え?」
「おめえも……」
何を言おうとしたのかは、自分でもよくわからねえ。
だが、パステルの顔を見ているうちに、言葉を止められなくなって……
その瞬間。
「あっ、トラップ……お湯、お湯!」
「あ? ……熱っ!!」
どばっ!!
ボーッとしながら注いでいたせいで、カップから溢れ出した湯。
それが、テーブルについていた俺の手に、もろにふりかかった。
「あーっ……やっちまった……」
「早くっ、水に浸して!」
「あ?」
ぐいっ
パステルの手が、俺の手をつかんだ。そのまま、流しに無理やりひっぱっていって、思いっきり水を浴びせ始める。
「お、おい……」
「じっとしてて。火傷のときは、すぐに水につけないと。痕が残っちゃうよ」
いや、そうじゃねえって。
間近に感じる、パステルの身体。
ほのかに香るのは、シャンプーの香りか……
痛いくらいに心臓がはねている。……どうしたんだ、俺。何で、こんなに……
「ねえ、火傷の薬とか、ある? 無いなら、うちのを貸すけど……」
「……いや……」
パステルの奴は大げさに言ってるが、大した火傷じゃねえ。ちょっと皮膚が赤くなっている程度。こんなもん……
「なめときゃ治るって」
「駄目よ、そんなのばい菌が入ったらどうするの!」
ぐいっ、と手をつかまれる。
すぐ近くに、パステルの顔があった。
白い頬、桜色の唇。意外と長いまつげ。そんなものが、目に飛び込んできて。
無意識……だった。無意識のうちに、俺は、その身体を抱き寄せようとして……
「ちょっと、トラップ。遅いじゃなーい、何やってるのよ!」
廊下から響いてきた声に、俺は反射的にとびすさった。
俺の過敏な反応に驚いたのか、パステルは、ぽかんとしている。
俺……今、何、しようとしてた……?
「トラップ! 何やってるの?」
ひょいっ、とマリーナが顔を覗かせる。
俺とパステルを見て、不審そうな表情をしたが、テーブルの上の惨状を見て、納得したようだった。
「あーあ、もう何やってるのよ。このテーブルクロス、買ったばっかりだったのに」
「ああ……わりい」
「いいけどっ。パステル、大丈夫? 怪我しなかった?」
「ううん、平気。わたしは」
てきぱきとテーブルを片付けるマリーナを見ながら。俺は、何故だか……消えることのねえ罪悪感に、悩まされていた。
マリーナが来てくれて助かった、という思いと。
もう少し、来るのが遅ければ……という矛盾した思い。
そのどちらもが、確かに胸のうちにあることを、実感していたから。
あれは、何だったんだろう……
トラップとマリーナに別れを告げて、自分の部屋に戻った後。
ベッドの中で、わたしはぼんやりと考えていた。
あのときの、気持ち。
火傷をしたトラップの手を、無我夢中でひっぱって。
そのとき、間近に感じたトラップの身体。
意外と大きな手。
端正な顔立ちに、どきり、としたのは……何だったんだろう?
そして。
マリーナが来て、トラップが飛びのいた瞬間、すごく残念に思ったのは。
もっと近くにいたかった……そう思ったのは、一体何なんだろう?
「パステル? ボーッとして、どうした?」
「あ……ううん、別に」
がちゃり、とドアを開けて、クレイが入ってくる。
ほのかに石鹸の香りがするのは、お風呂上りだから。
部屋数は十分にあるんだから。別に個室を持ってもよかったんだけど。
結婚してるんだから……と、寝室は同じ。
大きなダブルベッド。そこで、わたしはクレイと眠る。
ぱちんと明かりが消えて、ベッドに暖かい身体がもぐりこんでくる。
そっと肩に伸ばされる手を、一瞬でも払いのけたいと思ったのは……何で?
もちろん、わたしとクレイは結婚しているから。
結婚式の後、新婚旅行のとき、その後も……何回だって、その、抱かれてはいるのに。
とても優しくて。初めてのときは、そりゃあ、少しは痛かったけれど。でも、十分にわたしのことを気遣ってくれる、とても人柄の表れた夜の営み。
何故だろう。今日は……嫌だと思った。
トラップの手のぬくもりを、失いたくないと思った。
「ごめん。今日、疲れてるから……」
そうつぶやくと、クレイは優しく笑って、素直に手をひっこめてくれた。
クレイは優しい。
とても優しくて、いい人。何一つ欠点なんか無いし、不満に思うことなんか何も無いはずなのに。
どうして……こんな気分になるんだろう。
くるりとクレイに背を向けて。わたしは静かに涙を流していた。
どうして……こんなに満たされないんだろう?
穏やかで何の不満もなくて、でもそれだけ。
何一つ心惹かれるものがない。とてもとても空虚な、結婚生活。
結婚って……こんなものなんだろうか。
わたしの問いに、答えてくれる人はいなかった。
隣に住んでるんだから、仕方ねえ。
そうわかっていても……感情がそれに追いつかなかった。
部屋を出るとき。帰ってくるとき。
身重のマリーナにかわって買い物に出かけるとき。
そんなとき、偶然にパステルと顔を合わす。
ただの偶然で、別に意図的に会おうとしてるわけじゃねえ、はず……なのに。
なのに、日を追うごとに、その回数は増えていって。
そして、そのたびに、何がしかの会話を交わして……別れる。
あいつが背中を向けるたびに思う。
追いかけてえ、と。
追いかけて、抱きしめてやりたい、と。
否定できねえ。こうなっちまったら、もう自分の気持ちを認めるしかねえ。
俺はあいつに惹かれている。どうしようもなく、惹かれている。
マリーナのことが嫌いになったわけじゃねえ。別にあいつには何の不満もねえ。
だが……結婚したときもそうだった。
俺は、そもそもマリーナを愛していたのか?
好きだったのは確かだ。でなけりゃ、20年も幼馴染なんかやってられねえ。
顔も考え方も身体も、何もかもが魅力的だった。
けれど……それでも。
「好き」ではあったが、「愛して」はいなかったんじゃねえか。
今更、そう思う。
本当に……今更だ。
探偵という職業上、休みの時間はかなりまちまちだ。
マリーナのいない部屋。一人になったとき、どうしようもない後悔が襲ってくる。
本当に今更だ。今更離婚なんてできるわけもねえ。マリーナの腹は確実にでかくなっていって、その中には、確かに俺の子供がいて。
今更あいつを捨てるなんてこと、できるわけもねえ。マリーナは何も悪くねえのに。
それなのに……どうして、あいつが……パステルのことが、忘れられねえんだ?
パステルだって結婚してるのに。例えば……何かの理由で、俺がマリーナと別れたとしても。それでパステルを手に入れることができるわけじゃねえのに。
何で、今更こんな思いに気づくんだよ。
どん、とテーブルに拳を叩きつける。
思えば、結婚するとき。
一緒にいるのが自然だと思ったから、何となく口にした。
あのとき、もしマリーナが「何言ってるの? 嫌よ」と言ってきたとしても。多分、俺は特別にショックを受けなかっただろう。
まあそうだろうな、なんつって、納得したと思う。
その程度の思いで、軽々しく口にした契約。
それが、こんなに……自分を縛ることになるなんて……
ぐちゃぐちゃになった頭を冷やそうと、立ち上がる。
気晴らしに、どっかに出かけよう。一人で考えてても……気分が滅入るだけだ。
車の鍵を手に、俺は立ち上がった。
窓の外では、雨が降り出していた。
何で……だろう。
クレイが仕事に出かけてしまって、一人になった部屋で。
わたしは、震える身体を抱きしめていた。
何で、こんな気持ちになるんだろう?
ここに引っ越してきてから、一ヶ月。
その間、出かけるたびに、隣のドアを気にしてしまう。そこから、赤毛頭が顔を覗かせるのを、期待してしまう自分がいる。
どうして……こんなに、あいつのことが気になるの?
『おめえは、マリーナじゃねえだろ』
『おめえにしか出来ねえことだって、いっぱいあるんじゃねえ?』
初めて……だった。
わたしに、そんな風に言ってくれた人は、初めてだった。
もちろん、それは当たり前のこと。わたしがマリーナにそんな気持ちを抱いているなんて、誰にも言っていない。
トラップにしか……言っていない。
どうして、トラップになら言えたんだろう。
ずっと隠していた気持ちを、どうして彼に、言おうって思ったんだろう?
外に出るとき、帰るとき。
偶然にトラップと出会ったとき、何気ない会話を交わすとき、胸が痛いくらいにドキドキするのは……何で?
わかっていながら、問いかけずにはいられなかった。
わかっていた。わたしは、トラップに惹かれている。
もしかしたら、初めて出会ったときから好きだったのかもしれない。今になって、そんな風にさえ思う。
思っても、仕方ないのにっ……
涙が頬を伝うのがわかった。
クレイは相変わらず優しい。この一ヶ月間、わたしがずっと抱かれるのを拒否し続けていても……それでも、ちっとも怒らない。
気分が乗らない、疲れた、生理中で……
言い訳はもう使いつくしてしまって。今では黙って背中を向けていることがほとんどなのに。
それでも、理由を聞こうともしない。「そういうときもあるよ」って優しく笑うだけ。
どうして……クレイはそんなにいい人なの?
涙が止まらなかった。
クレイは何も悪くないし、決して嫌いになったわけじゃない。
今更別れることなんてできない。そんなことは、あの規律を重んじるお義父様やお祖父様が、決して許さないだろう。
第一っ……別れて、それでどうするっていうの?
トラップは、わたしの親友、マリーナの旦那様なのに……
もうすぐ、子供だって生まれるっていうのに。
今更……わたしが彼らの間に入り込む隙間なんか、どこにもないのに!
涙を拭って立ち上がった。
買い物に行かなくちゃ。夕食の、準備も……
せめて、わたしはちゃんと妻の役目を果たさないと。
クレイに対して……申し訳が立たない。
鍵と財布だけを手に、わたしは立ち上がった。
がちゃり、と外に出る。そして……
足が、止まった。
わたしが部屋を出るのと全く同時、隣の部屋のドアが開いた。
立っていたのは、ついさっきまで、ずっとわたしの心を占めていた、人。
トラップ。
「トラップ……」
「パステル」
トラップも、驚いたようだった。ポロシャツにジーンズというラフな姿。今日は……仕事じゃ、なかったの?
「で、出かけるの?」
口にしてから、間抜けな質問だなあ、と思ってしまう。
出かけるんでなきゃ、何のために外に出てきたのよ。
案の定、トラップは微妙な笑みを浮かべて、頷いた。
「おめえは……買い物か?」
「うん……」
頷いて、鍵をかける。
早く、別れよう。話していればいるだけ、辛くなるんだから。
そうして、その前を走りぬけようとしたとき。
ぐっ、と腕を捕まれた。
「……何?」
「おめえ、傘持ってねえの?」
「……え?」
言われて、そして初めて、わたしは雨が降り出していることに気づいた。
「あ……降ってきたんだ……」
「車は?」
「クレイが、使ってるから」
もちろん、わたしも免許は持っているけど。
別に特別運転が好き、というわけでもないし。正直に言えば下手な方だったので、結婚してからは、一度も乗っていない。
「傘、取ってこなくちゃ」
そう言ったけれど。何故か、トラップは、手を離してくれなかった。
「あの……」
「……送ってってやろうか」
「え?」
ちゃりっ、と見せられたのは、車の鍵。
「どこに行くつもりだったんだ? 送ってってやろうか……どうせ、暇だし」
どぐん、と、大きく心臓がはねた。
やめておいた方がいい、と、理性は警告していたけれど。それでも……止められなかった。
一緒にいたいと思ってしまうことを、止められなかった。
「……いいの?」
「ああ」
「じゃあ……お願い」
歩き出すトラップの後をついていく。
今日、わたしは、もしかしたら……
何かを壊してしまうかもしれない。そう思った。
助手席に座るパステルの腕が、わずかに俺の腕に触れた。
意識してやがる。そう感じて、自分の頭を殴りつけたくなった。
何で……俺は、こんなことしてるんだ?
シートベルトを締めて、エンジンをかける。
何で、俺は……こんな、自分から泥沼にはまるようなことを、してるんだ?
「どこに行くんだ」
「スーパーに、お願い……」
パステルの声は、心なしか元気がねえようだった。
けれど、それで「どうした?」と聞いてやる余裕もねえ。
クレイがいねえと聞いて(そりゃあ当たり前だな。あいつは俺と違って、立派な公務員だからな)。
そして、マリーナもいねえ。
二人とも、夜になるまで帰ってこねえ。
そう気づいたとき……胸にこみあげてきたのは、強烈な欲求。
こいつと一緒にいてえという思い。それに気づいたときには、もう声をかけていた。
パステルはぼんやりと、窓の外を眺めている。
……こんなに、近くにいるのに。
ギアを入れ替える。目的地のスーパーは、車なら数分の距離だ。
バックで駐車する。
「……ついたぜ」
「ありがとう」
別に、俺がついていく必要はねえ。
戻ってくるまで、車の中で待ってりゃいい。買い物に、そう時間がかかるはずもねえ。
そう思っていたのに。気がついたら、エンジンを切って、シートベルトを外していた。
「トラップ?」
「……車ん中にいても、退屈だしな」
下手な言い訳だと思いながら、外に出る。幸いなことに、パステルは大して気にもとめてねえようだったが。
そうして、二人でスーパーの中をめぐる。ついでに、俺も明日のパンや牛乳を買っていくことにした。
もしかしたらマリーナが買ってくるかもしれねえが……まあ、余ったら余ったで、そんときだ。
「払おうか?」
俺が籠に商品を放り込んでいると、パステルが笑顔で言った。
「送ってくれたお礼」
「別にいいって」
「けど、会計一緒に済ませちゃった方が、いいと思うよ?」
言われて振り向く。
納得した。時間帯の問題かもしれねえが、レジは、戦場のような有様だった。
籠にてんこ盛りに商品をつめこんだばばあどもが、ずらりと列を成している。
「……頼む」
意地を張るほど大した金額の買い物でもねえ。俺は、籠を戻して、自分の商品をパステルの籠に入れた。
そのまま、ぐるりと店内を一回りする。
二人分の食事なんか、大した量じゃねえということか。買い物は、あっという間に終わった。
レジに並ぶ。運がいいっつーのか。たまたまそのレジに並んでいた客の買い物量が少なくて、あっという間に順番がまわってきた。
「これ、お願いします」
「いらっしゃいませ」
パステルが籠を載せると、店員はすげえスピードでスキャンを始めた。
なるほど。プロの店員ってのはすげえもんだな。
思わず感心してその手元を眺めていると、眼鏡をかけたその店員は、俺とパステルを見比べて、にこやかに言った。
「いいですねえ、奥さん。優しい旦那様で」
……は?
言われた意味がわからなくて、しばらく、パステルと二人でぽかんとする。
「なかなかいないですよお? 買い物につきあってくれる旦那様って。男ってどうしてああ、勝手なんでしょうねえ」
言いながら、スキャンを終えて「1780円になります」と告げる。否定する暇なんか、全く無かった。
その声に、パステルが財布を取り出しているのが見えたが……俺は、急に気恥ずかしくなって、そこから目をそらした。
旦那様、ね。
……もし、本当にそうなれたら……
パステルが、商品を袋に詰めている。あらかじめ別の袋をもらっていたのか、俺の分と、わざわざ別々に入れてくれているらしい。
「わりいな」
「別に……ごっちゃになったら、後が面倒じゃない? ……お待たせ。じゃあ、帰ろうか」
「ああ」
促されて、店の外に出る。
雨は、何だか余計に強くなったように見えた。
外に出たら、雨が強くなっていた。
駐車場までは、ほんのわずかな距離なのに。何とか車の中に戻ったときには、ちょっと寒いと感じるくらい、身体が濡れてしまっていた。
「あー、ったく。傘持ってくるんだったぜ」
隣にすべりこんできたトラップが、ぼやいているのが聞こえた。
そんな彼の身体も、このわずかな距離でびっしょり濡れてしまっていて。
薄いポロシャツが身体にはりついているのを見て、思わず目をそらす。
止まらなかった。
出会ったときから、ずっと痛いくらいにドキドキいっている心臓。
それが、ちっとも……止まらなかった。
がさり、と、荷物を後部座席に移す。
わたしの買い物と、トラップの買い物。二つにわけられた、荷物。
きゅいん、という小さな音とともに、車が走り出した。
後数分もすれば、家について……そして、また別れなくちゃいけない。
『いいですねえ。優しい旦那様で』
店員さんの、何気ない言葉が……何だか、すごく痛かった。
旦那様じゃない。
あのとき、どうして否定しなかったのか。わたしには、クレイという立派な夫がいて、トラップには、マリーナという素敵な奥さんがいて……
それなのに。
「……ついたぜ」
きっ、と車が止まる。顔をあげれば、外には、見慣れたマンションの建物が、目に入った。
……もう、ついたんだ。もう、お別れなんだ。
ぎゅっ、と唇をかみしめる。
「……ありが……」
ぐいっ
お礼を言って、外に出ようとして。
その瞬間、腕をつかまれた。
半そでの服からむきだしになった、腕。トラップの手がやけに熱いのが、印象的だった。
「トラップ……」
「何で、泣いてんだ?」
「え……?」
言われて、頬に手をやって初めて気づく。
いつの間にか、わたしの目から、涙が零れ落ちていたことに。
「違うっ……これは……」
「何で……泣くんだよ」
「違うっ……」
何が違うのか、自分でも説明できなかったけれど。
それでも、わたしは言うしかなかった。
違う、この涙は……あなたとは、何の関係も無い。
だから、だから……
……優しい言葉なんか、かけないでっ……
「違うの、何でもないの! お願い、気にしないで……」
「できるわけ、ねえだろう!?」
そう言われた途端。
わたしは、力強い腕に、抱きすくめられていた。
それはとても荒々しくて、正直に言えばちょっと苦しいとさえ思う、そんな乱暴な抱擁。
「やっ……トラップ……」
「何で、なんだよ……」
肩に顔を埋めるようにして、トラップはつぶやいた。
「何で、こんなにおめえのことが気になるんだよ!? お互い結婚してるっつーのに……子供だって生まれるっつーのに……あんで……」
トラップの身体は、震えていた。
わたしの身体も、震えていた。
窓を叩く雨の音だけが、しばらく響いていた。
トラップ。
それは……それは、つまり……
「わたし、も……」
「…………」
「わたしもっ……トラップのことがっ……」
溢れる涙で、うまく声に出せない。
それでも、わたしは必死にしゃべっていた。
「どうして……こんな気持ちになるのかわからなかった。トラップのことが、どうしてこんなに……忘れられなくなるのかっ……わたし、わたしは……」
ぎゅっ
トラップの腕に、力がこもった。
一瞬息がつまるほどに、強い力。
そして。
乱暴に身体が離された。その瞬間、響いたのはエンジン音。
「トラップ……?」
彼は何も言わなかった。ただ、じっと前方を凝視していて……
車が走り出した。どんどん遠ざかっていくマンション。
でも、わたしは、停めて、とは言わなかった。
言いたくも、なかった。
どこに行こうなんて、目的があったわけじゃねえ。
ただ、家から遠ざかればいいと思った。
パステルの涙を見た瞬間、悟った。
もう、離れられねえ。俺はこいつから……離れることができねえ。
車を飛ばしているうちに、裏道に出たのは……いかがわしい店が立ち並ぶ通りに出たのは、別に狙ったわけじゃなかった。
それでも。けばけばしいネオンの明かりを見た瞬間……抑えきれねえ欲望が身体の奥からこみあげてくるのが、わかった。
車がどこを走っているのか、この界隈を通る男女が何を目的にしているのか、まさかわからねえわけじゃねえだろうが。パステルは何も言わなかった。
何も言わず、ただじっと、俺のことを見つめていた。
……あの言葉は、空耳……じゃねえよな?
耳に届いた、あまりにも都合のいい言葉。
まさか、と思った。
まさか、こいつも。俺と同じ思いに苦しんでいたっていうのか?
まさか……
「トラップ……」
ドキン
つぶやかれる一言が、心を揺さぶる。
運転に集中しようとしても。全神経がパステルの言葉に傾けられるのを、止めることができなかった。
「連れてって……」
小さな声だった。油断したら絶対聞き逃したと思うような、小さな声。
それでも、俺はしっかり聞いていた。聞いてしまっていた。
「連れてって……どこか、二人っきりになれるところに」
「…………」
その意味がわからねえほど、俺はバカじゃねえ。
どこでもよかった。時間も値段も気にしねえ。二人っきりになれさえすれば、それで。
俺は、ぐっとハンドルを切ると、一番近くに見えたホテルの駐車場に車を向けた。
最近の、こういうホテルは……フロントの人間と、顔をあわせねえ作りになっている。
駐車場から、自動販売機みてえな機械に金を入れて、鍵を受け取って、そのままエレベーターに乗っちまえばいい。
探偵として何度も張り込みをしているうちに覚えた、絶対に使うこたあねえだろうと思っていた知識。
今は、それが役立った。
どうしようもない罪悪感が胸を圧迫したが。それ以上に、本能が勝った。
無言でパステルの手を引くと、全く抵抗なくついてくる。
……こんなとこに来たのは、初めてなんだろうな。
つかんだ手が震えていた。それでも、足を止めようとはしなかった。
入った部屋は、大して広くもねえ。狭い面積ほとんどいっぱいをベッドが占めていて。
ガラスドアの風呂場と、トイレ。アダルトビデオが並んだ棚と大きなテレビ。天井にはまった鏡。
悪趣味な部屋だな、という感想しかなかった。そんな部屋でも……
俺とパステル、二人っきりだった。それで十分だった。
ドアを閉めて、鍵をかける。
抱きすくめたパステルの身体は、どこまでも柔らかく、暖かかった。
乱暴に抱きすくめられた。耳元に触れる熱い吐息に、全身が震えるような快感が走った。
トラップが欲しいと、ただそれだけを考えていた。
クレイのことも、マリーナのことも、何もかも頭から消えてなくなって。
ただ、目の前にいる彼のことだけしか、考えられなかった。
痛いくらいに強く唇が押し付けられ、舌がからみとられた。
強引で、自分勝手で、それでも、わたしの心に火がついたような情熱を与えてくれる、キス。
ただ優しいだけで、何一つ潤いを与えてくれないクレイとは違う。ただ穏やかなだけで何一つ刺激のないクレイとの生活とは、違う。
わたしはずっと……こういう刺激が欲しかったのだと。優しくなくてもいい。意地悪でも、冷たくても……それでも、いざというときに愛されていると実感できる、そんな生活が送りたかったんだと。
今更ながらに、そんなことを実感する。
広いベッドに身体が投げ出された。のしかかってくるトラップの身体に、そっと腕をまわす。
言葉は何も出なかった。ただお互いの荒い息だけが、耳に届いていた。
半そでのブラウスと、膝丈のスカート。
脱がす時間さえも惜しいのか。トラップの手が、ボタンを外そうともせずに無理やり中にもぐりこんでくる。
ぶつんっ、という音がして、ボタンが一つ、弾け飛んだ。
同時に、わたしの理性も、弾けとんでいた。
何も考えられない。わたしはずっとこのときを待っていたから。
ずっと、トラップのことだけをっ……
ぐいっ
ブラウスと一緒にブラジャーが捲り上げられて、胸があらわにされた。
散々小さいと、幼児体型だとバカにしてきたくせに。
それを目にした途端、トラップはただ一言、「綺麗だ」とつぶやいた。
何て、似合わない言葉だろう。そう思うと、自然に笑みが漏れた。
舌が胸を這い回り、わたしの心に、身体に、ぞくぞくするような満足感を植えつけてくれる。
自然に声が漏れた。ひどく淫らで、はしたなくて。後で自分で聞いたならば、その場で舌をかみきってしまいたいと思うに違いない、それほどまでに派手な声。
「ああっ……や、やあん……あ、はあっ……」
スカートの下で、パンティがひきおろされた。
脚の間にトラップの脚が割り込んで、閉じようとしても閉じられなくなる。もっとも、閉じようなんて気持ちは……ちっとも、なかったんだけど。
こんな気持ちを味わったのは初めてだった。
クレイとの性生活で、これだけ乱れたことはなかった。
いつだってただもくもくと行為を終わらせていただけ。不快だったわけでも痛かったわけでもないけれど、そのかわり特別に気持ちいいとも思えない、そんな経験しかなかった。
だからこそ。生娘だったわけじゃないのに。その行為が……ひどく新鮮なものに思えた。
「やあっ……」
生暖かい感触を「ソコ」に感じて、ぞくりと全身が震えた。
ぐじゅりっ
やけに生々しい音。わたしの内部で暴れるのは、指よりも柔らかく、そして暖かいもの。
「やあっ……や、あ、ああっ……」
「…………」
ふっと、顔を上げたトラップと、視線が交じり合った。
お互い、目を見ただけで……次に何が起こるのか、わかった。
わたしの身体は、もう十分に反応しきっていて。決して口には出せなかったけれど、それを望んでいたから。
「お願いっ……」
そうつぶやいたとき、トラップの目に走った光は……ひどく満足そうな、そんな光。
ふと、避妊をしていないことに気づいたけれど。それでもいいと思った。
それでもいいと思った。余計なもので隔たりを作りたくはなかった。トラップを、そのまま、感じたかった。
身体が繋がった瞬間、漏れ出たあえぎ声は、ほとんど悲鳴に近かった。
何度か腰を突き動かしただけで、呆気なく果てた。
果てた、と思った瞬間、すぐに勢いを取り戻す自分に驚いた。
純粋に身体だけで言うのなら。行為に慣れきって、素直に反応を示すマリーナの身体のほうが、余程いい。
そのはずなのに。処女ではなかったにしろ、やけに硬くて、ぎこちなくて、そのくせ妙に締め付けのいいパステルの身体は、どこまでも、俺の欲情を煽った。
こんな満足感を得たのは初めてだった。マリーナの身体を抱くときに、これほどまでに溺れたことはねえ。
いつだってどこか冷めていて、ただたまった欲望を排出する、そんな程度の意味しか見出せなかったマリーナとのセックスとは違う。
……パステルっ……
力尽きるまで腰を動かし続けた。
パステルの唇から漏れる声が、目から溢れる涙が、ばら色に染まる頬が、何もかもが俺を誘っているようだった。
普段のガキくさい容姿からは信じられねえほどに乱れるその姿は、立派な……女、だった。
何度パステルの中で果てたか、とても覚えきれねえ。
それほどまでに抱き続けて、やっと俺が動きを止めたとき。
既に、時計の針は、随分と進んでいた。
「……パステル……」
声をかけると、ぎゅっ、と腕がからみついてきた。
俺の胸に顔を押し付けるようにして、小さな、小さな囁き声が漏れる。
「一緒に、いたい……」
「…………」
「離れたく、ない」
「……俺もだ」
ずっと、こうなることを望んでいた。
思ったよりもずっと小さなパステルの身体を抱きしめて。
俺達は、ベッドの中へと潜り込んだ。
ホテルを出たのは、早朝のことだった。
まだまだ外は暗いけれど、東の空がやっと明るくなる……そんな時間。
無言で車を走らせるトラップの表情からは、何を考えているのか、よくわからなかった。
身体中に残された、トラップの痕。
きっと、しばらくは消えないだろう、痕。
「トラップ……」
「…………」
朝は、道が空いているから。
マンションには、あっという間についてしまった。
戻らなくちゃいけない。いっそ、このまま逃げてしまいたいと思ったけれど。
それだけは、できない。
クレイに迷惑をかけるわけには、マリーナに迷惑をかけるわけにはいかない。
そっと車を降りて、マンションに向かう。
わたしが外に出ても、トラップは、車に残ったままだった。
「トラップ?」
「一緒に戻ったら、やべえだろ」
素っ気無い言葉だけが返って来る。
けれど、彼の言うことはもっともだと思ったから。わたしは、それ以上何も言わないことにした。
ゆっくりと階段を上る。鍵を開けるとき、手が震えているのがわかった。
クレイは、寝ているかもしれない。
そう思って、なるべく音がしないように、と静かにドアを開けたけれど。
そっと部屋に足を踏み入れたとき、わたしを出迎えたのは、煌々と照らされた明かりだった。
「……クレイ」
「パステルっ……どこに行ってたんだ、こんな時間まで!」
ガタン、と、椅子に腰掛けてうなだれていたクレイが立ち上がった。
その目は真っ赤で、寝ていないことが一目でわかった。
……仕事で疲れているはずなのに。
今日だって、この後仕事があるはずなのに。
わたしを……一晩中、待っていてくれた?
「ごめんなさい……」
「パステル?」
「ごめんなさい、わたし……」
言えない。
こんなにもわたしを愛してくれているクレイに、今更……言えない。
多大な迷惑をかけるだけで、喜ぶ人なんか誰もいない。これはわたしの我がまま。
ひどく残酷な……わがまま。
涙があふれてきた。ただしゃくりあげるような声しか出せないわたしを、クレイは黙って抱きしめてくれた。
「無理に言わなくてもいいよ」
「…………」
「俺は、パステルを信じてるから……疲れたんじゃないか? 少し、休んだ方がいいよ……」
…………どうして。
アナタハ、ドウシテソンナニヤサシイノ?
どうして、そこまで……
クレイに抱きしめられたまま。
わたしにできたことは……泣くことだけだった。
パステルの姿が消えた後。
30分ほども車の中で過ごし、俺は、ようやく重い腰をあげた。
ダッシュボードの時計は、既に早朝五時を指している。
……寝てるかもしれねえな。
マリーナの帰りは遅く、朝は早い。
夜の十時くれえに帰ってきて、朝の六時に目を覚ます、そんな生活だ。
子供がいるんだから、ちっと休め、と言ってもきかなかった。店長として、責任があるから、と。
あいつは、そういう奴だ。真面目で、責任感が強くて……やると決めたら必ずやり遂げる。
ふと思う。あいつにとって、俺は一体何なんだろう。
俺にとって、あいつは幼馴染だった。何度身体を重ねようと、一緒に暮らそうと結婚しようとも。最後までそれはかわらなかった。
あいつにとっては……俺は、一体何だったんだろう?
ゆっくりと階段を上る。
マンションの鍵が、やけに重たく感じた。
がちゃり、とドアを開けたとき。とびこんできたのは、ぼんやりと明かりが灯ったリビング。
そして、そのソファに腰掛けている、マリーナ。
ふっくらと膨らんだ腹を抱えるようにして、マリーナは、じっと俺を見つめていた。
「おかえり」
「…………」
「楽しかった?」
「ああ」
その目を見たとき、わかった。
マリーナは、多分……わかってんだろうな、と。
俺が何を考えているか、わからねえことはない、と断言していたあいつのことだ。
腹が立つくらいに頭が切れて、鋭いあいつのこった。
俺の考えなんか……葛藤なんか、全部お見通しに違いねえ。
「怒らねえのか?」
「怒る? 何故?」
マリーナの言葉は、どこまでも静かだった。
「一度や二度の過ち、誰にだってあることでしょう。そうじゃない?」
「…………」
「高校、大学と。同棲してからだって、あんたが何人の女の子と寝てきたか。わたしが知らないとでも思ってるの?」
「…………」
確かにその通りだった。
童貞捨てた相手はマリーナだった。それが15、中学三年のとき。
もう十年近く前になる。それから、何人の女を抱いたか、正直覚えてねえ。
適度に女にもてる程度の容姿はしていた。近寄る女は少なくなかった。
言い寄られたら断らなかった。けれど、誰に対しても、遊びの域は出なかった。
捜していたのかもしれねえ。
ぼんやりと、そんなことを思う。
捜していたのかもしれねえ。本気になれる相手と、いつか出会えるんじゃねえかと。
だから、拒否しなかった。そして、実際に本気になれる相手と出会えた。
ちっとばかり、遅すぎたが。
「パステルでしょう?」
言われた言葉に頷く。
最初にパステルと顔を合わせたとき、マリーナに言われた言葉。
『パステルのことが、気にいってるでしょう?』
『好きな子ほどいじめたい……あんたの態度はそんなふうに見えたから』
ああ、その通りだ。
あの頃から、いや、もしかしたら初めて出会ったときから。
俺はあいつに惚れていた。俺とは何もかもが違う。ひねくれていて、好意すら素直に示せねえ俺とは違う。どこまでも素直で、まっすぐで、純粋なあいつの目が、ひどくまぶしかった。
「……いつもそうだったわ。パステルは、わたしのことを羨ましいってよく言ってたけど。本当に羨ましかったのはわたしの方よ」
「…………」
「パステルは、いつだって、わたしが本当に欲しかったものを、苦もなく……自分を偽ることなく、手に入れることができる子だった」
「おめえは、自分を偽っていたのか?」
「ええ」
気づかなかった。
20年以上もずっと一緒にいたのに。俺は、そんなことにはちっとも気づいてなかった。
だが、それを責めるでもなく、マリーナは続けた。
「わかってたわよ、あんたがパステルのこと、ずっと見ていたのは」
「そっか」
「わたしをバカにしないで。あんたの考えてることなんて、全部お見通しだって……そう言ったでしょう?」
「ああ、そうだな。……本当に、その通りだな」
マリーナの声は、どこまでも静かだった。
怒りもねえ、悲しみもねえ。ただ淡々と事実を告げている、そんな口調。
「怒らねえのか?」
重ねて聞く。
俺は、おめえという妻がありながら、おめえの親友を抱いたんだぜ?
そう言うと、マリーナは肩をすくめて言った。
「だから、何故? 誰にだって間違いはあるじゃない。それをいちいち責めたてるほど、心の狭い女じゃないつもりよ」
「…………」
「さっさと忘れた方がいいんじゃない? パステルには、クレイっていう立派な旦那様がいるのよ。逆立ちしたって、あんたの勝てる相手じゃないわ」
「……本気で言ってんのか?」
「本気よ」
まっすぐな視線が、ぶつかった。
「別れないわよ、わたしは」
「…………」
「この子を、不幸にするわけにはいかないじゃない」
そっと腹に手を当てて、マリーナは言った。
その瞳の端に、涙が光ってるように見えたのは……気のせいだろうか?
「やっと、生めるんだから」
「……やっと?」
「あんたは、気づいてなかったでしょう?」
きっと顔をあげる。
初めて、その顔が、わずかにひきつった。
「わたし、何度か……三回? 四回かもしれない。あんたの子供、堕ろしてるのよ」
「…………」
ショックを受けなかった、と言えば嘘になる。
もちろん避妊の知識くれえは持ってたし、実際他の女とヤるときは、ちゃんと気をつけていた。
けれど、マリーナだけは。何故だか、生でやっても何一つ文句は言わなかったから。
自分で何か……例えば、ピルでも飲んでるのかと思って、いつだって自由にヤラせてもらっていた。
生でやるほうが、ずっと気持ちいいから。
その、俺の身勝手な行動が。
マリーナの心と身体を、そこまで傷つけていたのかと。今更……気づいた。
遅すぎたが。
「マリーナ」
「別に、文句を言うつもりはないわよ? 恨んでもいない。好きにやらせていた、わたしも悪いんだから。……でも、わかるでしょ? わたし、もうこれ以上堕ろせないのよ。子供を生めなくなるって警告されてるの。だから……生みたいのよ」
じっと俺を見つめるマリーナの目は、この上なく熱かった。
「あんたがどうなのかは知らないわ。でも、わたしは……愛してるのよ?」
熱っぽい視線と、動かねえ表情で、マリーナは言った。
「愛してなきゃ、身体を許したりしなかった。同棲したりしなかった。結婚したりしなかった」
「…………」
「わたしはこれでも喜んでいたのよ? あんたとの結婚生活を……それなりに、楽しんでたんだから」
「…………」
「仕事があるから。少しでも、寝たいのよ……おやすみ」
ばたん、とドアが閉まる。
何も言えなかった。
自分のバカな行為をどんだけ悔やんだところで、今更起こったことを帳消しにはできねえ。
テーブルに拳を叩きつけて。俺は、じっとうつむいていた。
クレイが仕事に出かけていった後。誰もいない部屋で。
わたしはただ、じっとうつむいているしかできなかった。
どうすればいいんだろう。
離婚したい、と言えば……クレイは、許してくれるかもしれない。
あのどこまでも優しいあの人なら、理由も聞かず、「パステルがそうしたいなら」と、言ってくれるかもしれない。
でも……そうなったならば、クレイにどれだけ迷惑がかかるだろう?
お祖父様やお義父様に責められて、職場の噂になって……きっと、とても、とても辛い目に合うに違いない。
クレイは何も悪くないのに、彼を苦しめるわけには、いかない。
わたしは、どうすればいいんだろう……
絶望だけが押し寄せてくる。
一番いい方法は、トラップを諦めてしまうことだ。それで、全てが丸くおさまる。
一番いい方法で……一番、難しい方法。
駄目、できない。
ちょっと考えただけで、首を振る。
できない。絶対にできない。わたしはもう、身も、心も、全てトラップに犯されてしまっている。
どうしてここまで彼に夢中になったのか。彼に比べれば、外見だって、性格だって、こんなことは言いたくないけれど経済力だって、何もかもクレイの方が上なのに。
それなのにっ……どうして、彼でなければ駄目なんだろう?
そんなことを考えていたときだった。
部屋の中に、チャイムの音が、鳴り響いた。
……誰?
時計を見上げると、午前十時だった。
「……はい」
がちゃり、とドアを開ける。
そこに立っていたのは……薄々、予想していた相手だった。
「トラップ……」
「クレイは?」
「仕事に……」
「そっか」
ぐいっ、と腕を引かれた。
嫌という暇もない。そのまま、ずるずると外に引きずり出される。
「トラップ、鍵っ……鍵、かけてないって……」
「…………」
わたしの文句なんか全く無視して、トラップはただ歩き続けた。
強引に車に押し込めて、そしてそのままエンジンをかける。
「……どこに行くつもり?」
「…………」
車がスタートした。町並みが、窓の外を流れていく。
どんどんと郊外に走っていってる。それだけはわかったけれど、でも、どこに向かっているのか。方向音痴気味のわたしには、さっぱりだった。
「……仕事は?」
「休み、もらった」
「そう……」
会話が続かない。沈黙が、どこまでも重たかった。
そうして、何時間車を走らせたのか。
ようやくトラップが車を停めたのは……
「トラップ……?」
切り立った崖の上。ガードレールの先にあるのは、海。
浜辺とかそういったものは一切無い。ただ黒々とした、海。
「どうして、こんなところに……」
言葉は途中でふさがれた。
昨夜と同じように、強引に抱きすくめられ、そして、唇を奪われる。
熱いキス。
「トラップ……?」
「こうするしか、ねえんだ……」
「え……?」
ぎゅうっ、と、背中にまわされた腕に、力がこもった。
「マリーナを、苦しませるわけには、いかねえ。あいつは、今まで俺のせいで、散々傷ついて、苦しんで……今更、もうわがままを言えた義理じゃねえんだ」
「……わたしも」
同じ、だった。
それは、昨夜わたしが出した結論と、全く同じ。
「わたしも、そうだよ。クレイを裏切れない。わたしのわがままのせいで、クレイに迷惑をかけるわけには、いかない」
「…………」
お互いが、そう言いながら。
どちらも、腕の力を緩めようとはしなかった、
「だけど、おめえを……諦めることが、できねえんだ」
耳元で囁かれる言葉に、大きく頷く。
わたしも、そうだよ。
トラップを忘れるなんて、できない。絶対に……できない。
「おめえと一緒になりてえ」
「わたしも……トラップと、一緒になりたい」
もっと早くに出会いたかった。そうすれば……
じいっ、と瞳をのぞきこまれる。
明るい、茶色の瞳。いつも意地悪な光を浮かべていたその目が、やけに……真剣だった。
「一緒に、来てくれるか?」
「……どこへ?」
そう言いながらも。
つれてこられた場所と、彼の顔を見て。
わたしは、何となくわかった。彼が言いたいことが。
そして、それを……特に、怖い、とも、嫌だとも思わない自分に気づいていた。
それで、トラップと一緒になれるのなら。
それで、誰の迷惑にもならないのなら。
「ここ……な、自殺の名所って、言われてんだよな」
トラップの声が、風に乗って流れていく。
「ここから車ごと飛び込んだら、まず間違いなく遺体はあがらねえ。潮の関係か、何か知らねえけど。一度沈んだ遺体が、絶対にあがらねえ場所なんだ」
「よく……知ってるね」
「俺を誰だと思ってる? これでもな、一応、探偵なんだぜ」
そう言ってトラップが向けた笑顔は、全く、いつものトラップだった。
「ここで俺達がいなくなったら、失踪として扱われるだろうな。七年も経てば、死亡扱いになる。何かの事故に巻き込まれたのか、自殺なのか本当にただの失踪なのか。
死体が見つからねえ限り、世間は推測するしかねえ。同情しこそすれ、誰もクレイ達を責める奴なんざいねえだろうよ」
「…………」
「生命保険がある。退職金も出る。マリーナも、子供と二人、暮らしていくには困らねえだろう。あいつは、いい女なんだよ。俺にはもったいねえ女だ。
こぶつきだって、もらってくれるっつー男は、いくらでもいるだろうし、その方が、よっぽど幸せになれるはずだ。卑怯な言い訳だと言われるかもしれねえ。だけど……」
ばたん、と車のドアを開ける。
「だけど。こんな俺にだって、おめえにだって……幸せになる権利は、あるだろう?」
中に滑り込むトラップ。同時に、わたしも助手席に乗りこんだ。
パワーウインドが操作されて、ほんの少しだけ、窓が開いた。
「いいのか? おめえ」
「悪かったら、ここに座ってない」
トラップの言い方を真似た、素直じゃない口調で。
わたしは、彼の身体にしがみついた。
自分のほうからキスをしたのは、生まれて初めてだった。
「それで、トラップと一緒になれるなら。わたしは、あなたについていく」
「…………」
再び、唇が重ねられた。
エンジン音が、響き渡った。
怖くねえといえば、嘘になる。
でも、こいつが一緒なら。
パステルと一緒になれるなら。どんなことだってしてやる。それしか方法がねえのなら、ためらうことなんか、あるか。
キーをひねる。エンジンがかかった。
スピードを乗せる必要があるため、ゆっくりとバックする。
ガードレールと海が、少しずつ遠ざかっていった。
ぎゅっ、とパステルの腕が、俺の腕にからみついた。
……オートマでよかった。アクセルさえ踏めば、ギアチェンジの必要なく十分にスピードに乗れる。
距離を取ったところで、バックからドライブにギアを入れ替える。
後は、アクセルさえ踏めば、いい。
シートベルトを外して、パステルの身体をそっと抱き寄せた。
やわらかくて、暖かい身体を、力いっぱい抱きしめた。
アクセルを踏み込む。悲鳴のような音をあげて、車が急発進した。
せまるガードレール。突き破ったときの衝撃は、思ったよりも少なかった。
一瞬の浮遊感と、落下感。
パステルの腕が、ぎゅっと俺の身体にしがみつく。
お互いの身体を、決して離すまいと誓いながら。
俺達は、どこまでも暗い闇の中へと、身を躍らせた。
完結です。
すいません、前注に「視点が切り替わってます」ってつけるの忘れてた……
一行開いていたら次の場面からは視点が変わってると思ってください。パステル→トラップ→パステル……の順番で
暗い上に長いですね……予定ではもっと短くなるはずだったのですが。
次作品もちょい暗めなのですが、パラレルではなく原作重視作品、切ない系いきます。
309 :
名無しさん@ピンキー:03/11/10 13:00 ID:QklmAPP6
すげー
>サボン玉さま
イイです! この短さでこんなにハァハァさせられるとは。
青少年なトラ&パス可愛いです。萌えますたー!
>トラパス作者さま
悲恋5読ませていただきました。乙です!
トラとパスももちろんなのですが、今回はマリーナの一途っぷりに泣かされました…
次は切な系ですか! 楽しみにしてます。
連日投下されるSSのおかげで毎日癒される思いです。
寒くなってきましたし、神の皆様も無理はなさいませぬよう。
311 :
名無しさん@ピンキー:03/11/10 16:21 ID:xsgMwnlQ
悲恋5、確かに長かった、今までで最長かも!でも面白かったです!!
皆、かわいそうなんだけど、特に残されたクレイとマリーナがかわいそうですね。
リタも相変わらずチョイ役だし…まあ原作でもチョイ役だから仕方が無いけどね。
メインで使うにはチト難しい、せめて相手が居たらもう少し活躍の場が有るんだろうけど……
では、次の作品も楽しみにしてます(゚∀゚)
悲恋5読みました!!もう・・・言うことがないです。
文才がいかんなく発揮されていますね!
私はトラパス作者さんのすべての作品の中で一番この悲恋シリーズが好きなので、
今後もまたすごいダークなのを期待しております。
でも無理はなさらないでくださいね!!
次のせつな系も楽しみだ〜〜楽しみすぎです☆
トラパスさま毎度さいこーです!
ダークからコメディからギャグまでどれもよくできてる。
昨日はブコフではじめてフォーチュンの単行本と漫画単行本を
手にとってチェックしちったよ。
大人になってしまった自分はなんだか懐かしい萌を感じた。
>感想くれた方々
ありがとうございます。
悲恋シリーズは一応7くらいまでネタがあります。
6は珍しく純愛切ない系統路線(シリーズ1みたいな路線)でいく予定で、7がとことんダークになる予定です。
新作投下します。
本当は、上にも書いたようにトラパスの原作重視切ない系いこうと思ったのですが
予想外に長くなってスレ内におさまりそうになかったので、急遽書き上げた別作品投下します。
クレイ×ルーミィの話。トラパスは明日か明後日あたりにでも……
注意
・クレイと成長ルーミィの話。クレイ視点です。
間がさしたんだ、なんて卑怯な言い訳をするつもりはない。
だけど……本気で好きだ、と言ってもいい相手とよくない相手っていうのはいるだろう。
例えば、倫理的に問題のある相手とか。血の繋がりがあるとか、もう他に恋人を持っているとか。
あるいは単純に、相手の年齢がちょっと……という場合。
だけど、少なくとも。
欲望に負けて相手を傷つけるような、そんな真似だけは、絶対にしたくないと思った。
だったら、認めるしかない。
俺は彼女のことを愛しているんだ、と。
……できれば、認めたくはなかったけれど。
穏やかな昼下がりのことだった。
以前買った家は燃えてしまったものの、その後のクエストを成功させて自信をつけた俺達は、何回か大きなクエストに挑戦してそれなりにまとまった金額を手に入れることができて。
そうして、どうにか新しい家を建てることができた。
以前の家は、二人で広めの部屋を使っていたけれど。今度の家は、一部屋一部屋は狭いかわりにそれぞれが個室を持つことができた。
だから、こんな何もすることが無い日。
俺は、ベッドに腰掛けて心行くまで武器の手入れに時間を費やすことができて。それは、何だかとても幸せな気分になれた。
幼馴染のあいつに聞かれたら、きっと「じじくさい」と言われるだろうけど。
思わず苦笑が漏れる。
もちろん、二人、三人で賑やかに一部屋を使うのだって、それなりに楽しかった。だけど、俺達もいつまでも子供じゃない。
少しずつプライバシーっていうのが気になるようになって、人間関係も微妙に変わってきて。
さっきも思い浮かべた幼馴染の顔……トラップの顔が、また浮かぶ。
個室を持ちたい、と言い出したのはあいつだった。そりゃあもうかなり強引に。
その理由をわかっていたから、俺は承諾すべきか否か、随分と悩んだんだけど。
まあ、あいつがずっとずっと我慢してきたのは知っていたから。認めてやってもいいか、という気になれたし、他のメンバーも反対はしなかった。
彼女も……パステルも。
もっとも、パステルはルーミィとシロと同室だけど。
男四人、俺とトラップ、キットン、ノルが全員個室、と聞いたとき。彼女ははしばみ色の目をいっぱいに見開いて、言ったっけ。
「え、何で?」
その言葉を聞いた途端、心底情けなさそうな表情を浮かべたトラップ。あの顔を思い出すと、今でも笑いがこみあげてくる。
彼女が鈍いのは、今に始まったことじゃない。それを承知で恋人に選んだんだろう? 頑張れ、トラップ。
心の中で密かにエールを送ったもんだ。
そうして、無事に家を完成させて、数ヶ月。
最初のうちは、あまりにも部屋が静かなのがかえって落ち着かなかったものだけど。今はすっかり慣れてしまって。
賑やかなのもいいけれど、一人になれる部屋があるっていうのは、やっぱりいい……そんな風に思えるようになった。
俺だって悩みの一つや二つはある。もっとも、あまり深刻に考えないようにはしているんだけど。
ふう。ちょっと悔しいけれど。トラップの奴に感謝しないとな。
そんなことを思いながら、手入れの終わったショートソードを片付けて、ロングソードに手を伸ばしたときだった。
とんとん
とても小さな音が、響いた。ドアをノックする音……だよな。
「誰? パステルか?」
この家に住んでいる人間で、ノックをしそうな人と言ったら彼女しかいない。
そう思ったのだけれど。ドアを開けたのは意外な人物だった。
「ルーミィ。どうしたんだ?」
「くりぇー」
部屋の前に立っていたのは、ルーミィ。
いつの間にノックすることなんて覚えたんだ? 子供っていうのは、日々成長していくものなんだなあ。
まるで父親みたいなことを考えていると、ルーミィは、ぎゅっ、と俺のズボンをつかんで言った。
「あのね、あのね。ぱーるぅととりゃーがけんかしてるんだおう」
「喧嘩?」
あの二人の喧嘩なんか珍しくもない。トラップはパステルをからかうのが面白くて仕方がないみたいだし。またそれにパステルが素直に反応するものだから。
一日に三回は口喧嘩をして、でも結局最終的には仲直りをしている。それがあの二人だ。
「ルーミィ。心配することはないよ。トラップとパステルの喧嘩なんか、いつものことだろう?」
「んーん。だってだって、変なんだおう!」
俺の言葉に、ルーミィは白いほっぺたをぷーっと膨らませて言った。
「変、って? どうしたんだ?」
「あのね、あのね。ルーミィね、部屋でお昼寝してたんだおう。しおちゃんと一緒に」
言われて気づいたが、いつもルーミィと一緒にいるシロの姿が見えない。
「シロは?」
「まだ寝てるんだおう。しおちゃんはルーミィと遊んで疲れてるから、起こしちゃ駄目ってぱーるぅが言ってたんだおう!」
何と、まあ。
いつの間にか、気遣う、ってことまで覚えたのか。これは、一緒にいるパステルの躾がいいせいだろうな?
彼女はいい母親になりそうだ。よかったな、トラップ。
心の中でそんなことを考えていると、ルーミィは、ぐいぐいと俺の服をひっぱって言った。
「そいでね、そいでね、変なんだおう」
「わかったわかった。で? 何が変なんだって?」
ひょい、とその小さな身体を抱き上げると。ルーミィは、大きな青い目をいっぱいに見開いて言った。
「あんね、ルーミィが起きたら、ぱーるぅがいなかったんだおう。そいでね、捜しにいったら、とりゃーの部屋からぱーるぅの声が聞こえてきたんだおう」
「トラップの部屋から……?」
ぎしり、と抱いている腕が強張るのがわかった。
人より鈍い、鈍いと言われる俺だが。
何となく話の先が読めたのは……「個室が欲しい」と言い張ったトラップの気持ちを、察していたから、なのか。
「る、ルーミィは、それでどうしたんだ?」
ひきつる笑顔を向けると、ルーミィはあどけない顔で言った。
「あんね、ドアがちょっと開いてたんだおう。そいでね、中を見たらね、とりゃーとぱーるぅがベッドの上で喧嘩してたんだおう!」
とてもじゃないが、それ以上話を聞く勇気は無かった。
「るるるるルーミィ。な、俺と一緒に散歩に行こうかっ!?」
「だって、ぱーるぅが。くりぇー、ぱーるぅを慰めるんだおう! とりゃーと喧嘩したら、ぱーるぅ泣いちゃうもん」
「いやいやいやいや絶対に大丈夫だ。俺が保証するから。あのな、ルーミィ。それは……別に、喧嘩してたわけじゃないんだよ」
「だって、だってー!」
納得いかないのか。ルーミィは、ぽかぽかと俺の肩を叩いて言った。
「ぱーるぅ、『痛い』って泣いてたんだおう! とりゃー、ぱーるぅの上に乗ってたんだお。ぱーるぅをいじめてたんだおう! くりぇー、ぱーるぅを助けてあげて。とりゃーを怒るんだおう!」
どこまでも無邪気なルーミィの言葉に、俺は眩暈すら覚えた。
トラップ。パステル。
き、気持ちはわからなくもない……二人がお互いを好きあっていて、なかなか素直になれなくて随分遠回りをして、でも、どうにか気持ちを伝えることができた……それが嬉しいのは、俺にもよく理解できる。
けどなっ……ちょ、ちょっとは時と場所を考えてくれっ!!
ルーミィはまだまだ子供だけど。それだけに、一度思い込んだら頑固だ。
このまま家にいたら、トラップの部屋に殴りこみでもかけそうな勢いだったから、外に連れ出したんだけど。
散歩に出て、目につく花やら鳥やらを指差しても、彼女の追及がやむことはなかった。
「ねえねえ、くりぇー。ぱーるぅ、大丈夫なんかあ?」
「だから、大丈夫だって……」
一体何十回この台詞を繰り返しただろうか……俺がどれだけ「大丈夫だ」「喧嘩じゃない」と言っても、ルーミィは納得しそうもない。
それだけ、彼女はパステルのことが大好きなんだろう。本当の姉みたいに、母みたいに思ってるんだろうな。
それはいいんだけど……
「じゃあ、一体何してたんだあ?」
「え、ええっと、な……」
「ぱーるぅ、泣いてたんだお。何で、泣いてたんだあ?」
「ええっと……」
「赤ちゃんはどこから来るの?」と聞かれる親の気持ちがよーくわかった。
一体、一体このルーミィに、トラップとパステルが行っていた(らしき)行為を、どう説明すればいいんだ!?
ちなみに、外に出るときトラップの部屋の前を通りかかったが、本当に扉がほんのわずかに開いていた。
ドアを閉める暇すら惜しかったのか……
中から漏れてくる声からはしっかりと耳を塞いで、そっとドアを閉めてやった俺は、我ながら人がいいと思う。
これは……まずいかもしれないな。
しつこく「ねえねえ」と聞いてくるルーミィの頭を撫でながら、ぼんやりと思う。
ルーミィだって、今は子供だから何もわかってはいないけど。いずれ、嫌でも色んなことを知ることになるだろう。
だけど、それはまだまだずっと先の話……のはずだ。少なくとも、今は知る必要はない。
情操教育によくないというか……パステルはともかく、トラップの奴には、しっかり釘を刺した方がいいかもしれない。
せめて夜にやれ。
ルーミィの言葉と、わずかに聞こえた声。それらが思い出されて、かあっ、と顔が染まるのがわかった。
考えるな、と言い聞かせても。頭の中で色々と想像……いや、妄想というのか? してしまうことをやめられない。
一応、俺だって健全な若い男なわけで。
相手がいないから今のところ経験は無いけど。人並みに欲望くらいは、持ち合わせている。
ま、まずい……
自己嫌悪の海に溺れそうになって、膝の間に顔を埋める。
いつかは、こういう悩みを抱く羽目になるだろうなあ、と予想はしていた。
クエストの最中。出会ったときから、パステルはいつもミニスカート姿で。その……見る気はなくても、走ったりこけたりするたびに、中が見えるんだよな。
金が無いからと同じ部屋で寝泊りすることもしょっちゅうだったし。そうでなくても野宿のときはみんなで雑魚寝だ。
俺はパステルに特別な感情を抱いていたわけじゃないけど。それでも、同じ年頃の女の子のあんな無防備な姿を見たら、ちょっと、まあ……よこしまな思いを抱きかけたことも、何度かある。
理性で抑えられる程度のものだったのが、幸いだったが。
俺ですらそうだったんだ。多分、ずっとパステルを想っていたトラップの苦労は、こんなものじゃなかったと思う。
それがわかるから……トラップの行為を、表立って責めることも止めることもできないんだけど。
「はああああああああああああああ……」
「くりぇー。どうしたんだあ?」
きょとん、としたルーミィの声が耳に刺さる。
俺って、どうしていつもこう……面倒な役目ばっかり押し付けられるんだろうなあ?
不幸の代名詞だとか不名誉な二つ名をつけられてたけど。それを自分でも否定できないから怖い。
「くりぇー?」
「あのな、ルーミィ」
ぴしぴしとあっちこちがひきつった笑顔を浮かべて、ルーミィに目線を合わせる。
「パステルとトラップがやっていたのはな……ええと、遊び、なんだよ」
「遊び?」
「そう。遊んでいたんだ。ルーミィとシロが遊んでるのと同じように、あの二人も遊んでたんだよ」
「だって、ぱーるぅは泣いてたんだお?」
「それはな……」
こういうときは、トラップの口のうまさが羨ましい。
必死に知恵をしぼって、うまい言い訳がないものか模索する。
「あのな、ルーミィだって、遊んでいて夢中になって、怪我をしたことはあるだろ?」
「うん」
「パステルもそうなんだよ、きっと。遊びがあんまり楽しくて、夢中になって、それでちょっとだけ痛い思いをしてしまって……でも、パステルにとって、それは楽しいことだから。だから、心配することはないんだよ」
「楽しいんかあ?」
「ああ」
そう言うと、ルーミィはキラキラと目を輝かせて、言った。
「ルーミィもやりたい!」
「……は?」
「ルーミィも遊びたいおう! くりぇー、ルーミィもぱーるぅと同じことがやりたいんだお!」
「…………」
びしいっ、と全身が強張るのがわかった。
しまった。もしかして、俺は墓穴を掘ったのか……?
「る、ルーミィ? あのな、それは……」
「とりゃーに、ルーミィも仲間に入れてって頼むんだお! くりぇー、帰ろお!」
……まずい。
このままルーミィに部屋に乱入でもされてみろっ。俺は一生トラップに恨まれかねないぞ!?
「あ、あのなっ、ルーミィ。それは、駄目なんだよ」
「駄目?」
「え、ええっとな。トラップは、パステルと二人だけ……で遊びたいんだよ。トラップは、パステルのことが大好きで、パステルもトラップのことが大好きだから」
「ルーミィも、ぱーるぅのこと大好きだお!」
「ええっと、その好きじゃなくて……」
きっと、「赤ちゃんはどこから〜」質問を受けた親達も、今の俺と同じ顔をしてるんだろうな。
自分でもそれとわかるくらいうろたえながら、俺は何とか続けた。
「あのな、その遊びは、とっても危ないから、ルーミィにはまだ無理なんだよ」
「まだ?」
「そう。もうちょっと大きくなったら、な」
……嘘はついていない。もっとも、「もうちょっと」どころじゃなく。エルフであることも考えれば、それなりの年頃になるまでには何十年もかかるかもしれないけど。
「大きくなったら、いいのかあ?」
「そうだな。そのときになったら、誰かが教えてくれるよ。あっ、でも……」
慌てて釘を刺す。
「パステルとトラップには、聞くなよ? この遊びはな、本当は誰にも言っちゃいけない遊びで、二人は内緒にしてるつもりなんだから。ルーミィが知ってるって聞いたら、きっと二人はすごく悲しむから」
悲しむというよりは多分真っ赤になって焦りまくるだろうな。そう考えると、少しおかしい。
「だから、二人以外の誰かに聞くんだよ。ルーミィは、パステルが悲しむところなんか見たくないだろ?」
「うん!」
「じゃあ、約束な」
「約束だおう!」
そう言って、ルーミィの小さな小指と指をからませる。
そうして、ルーミィは、俺の手をそのままぎゅっとつかんで、満面の笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、くりぇー」
「ん?」
「大きくなったら、くりぇーが教えて!」
「……ああ」
まあ、そうだろうな。トラップとパステルが駄目だったら、教えられる相手なんて俺しかいないだろうな……
残る二人、キットンとノルの顔を思い浮かべ、苦笑しつつ頷く。
まあ、まだまだずーっと先の話だ。正直、俺が生きてる間なのかどうかすら疑わしい。
エルフである彼女と人間である俺では、時間の流れが違うから。
「約束だおう!」
「ああ、約束な」
無邪気に笑うルーミィの顔を、かわいいと思った。
ずっと、小さなルーミィのままでいて欲しいと思った。彼女には、何ていうか……そういう、大人の汚い欲望、みたいなものを、知ってほしくはないと思った。
純粋で、綺麗なルーミィでいて欲しい。
そう心から願って、俺はルーミィの身体を抱き上げた。
俺の願望が甘いものだったと思い知ることになったのは、それから数日後のことだった。
結局、何をどう言い出せばいいものかわからなくて。
何も言えないまま、数日が無駄に過ぎた。
まあ、しょうがない。あれはたまたま間が悪かっただけで……あの二人だって、まさか何も考えてないってことはないだろう。
そう思いなおし、俺は楽観的に構えることにした。
……これ以上悩むのが辛かった、とも言えるけど。
そんな、静かな午後のこと。
キットンとノルとシロは薬草運びのバイトに出かけていて、トラップとパステルはデートに出かけてしまっていて。
出掛けに、「ルーミィがお昼寝してるから、よろしくね」とパステルに頼まれてしまい、俺一人、外出もままならず部屋でのんびりと剣の手入れをしていたときだった。
廊下から、足音が響いてきた。
……誰か帰ってきたのか?
妙に重たい足音。ずるずると何かをひきずるような音。
家中を歩き回っている気配……そこまで悟ったところで、俺は顔を上げた。
……おかしい。誰だ? まさか、泥棒?
そっとショートソードを懐に忍ばせて、ドアを開ける。
この家に、盗むようなものなんか何も無いはずだけど。万が一、ということはある。
細く開いた隙間から、そっと顔を覗かせる。
そして、思わず腰を抜かしそうになった。
「な、な、な……」
ぎぎいっ、と音を立てて、ドアが大きく開く。
その音に、廊下を歩いていた人影が振り返った。
「……くれぇ」
ふわふわのシルバーブロンド。ぴょこんととびだした長い耳。大きなブルーアイ。真っ白な肌。
その特徴は、俺の知っているある人物とぴったりと一致したけれど。
それでも、そのある人物と目の前の人物を結びつけることは、どうしてもできなかった。
女性。
そう、女性……だった。多分、年の頃は18歳くらいか……パステルと同い年くらい。俺より少し年下に見える。
すらっと伸びた細い手足。やけに存在を自己主張してる胸。きゅっとくびれたウェスト。
文句の無いプロポーションだと思った。そして、どうして俺にそれがわかるのか、と言えば。
女性が全裸だったからだ。
「…………!!」
バンッ、とドアを閉める。ばくばく言う心臓を押さえて、うずくまった。
な、何だ、今のは?
見間違いか? 実は俺は密かに欲求不満にでもなっていて、それがありえない妄想を見せた、とか?
まだ夢を見るには早いだろう!?
明るい窓の外を見て、俺が頭を抱えていると。
どんどん、とドアを叩かれた。
「くれぇ。くれぇ、開けて」
知っている声、だった。
記憶にある声より呂律がはっきりとまわっていて、やや大人びていたけれど。
それでも、その甲高くて、透き通るような声は……俺の知ってる、彼女の声だった。
ベッドのシーツを引き剥がして、そっとドアを開ける。
「くれぇ……」
大きな目に涙をいっぱいためて、じっとこちらを見ている女性。その身体は、相変わらずの……裸。
ばさっ、と頭からシーツを被せる。可能な限り目をそらし、俺は震える声で聞いた。
「ま、まさか……あの、人違いでしたら、すみません」
いや、いっそ人違いであってくれた方が嬉しいかもしれないけど。
「ルーミィ、なのか?」
何とか声を絞り出すと。
身体にシーツを巻きつけただけの格好で。女性……ルーミィは、こっくり頷いた。
「くれぇ。ルーミィ、大人になったよ?」
ルーミィの話しによると。
どうやら、全てはキットンの仕業らしい……
シーツ一枚で身を包んだルーミィを見て……俺は、全力でその身体から視線をひきはがした。
自分の浅はかな言葉を後悔したところで、今更言ってしまったことを取り消すことはできない。
大人になれば、教えてあげる。
俺の言葉を間に受けて、ルーミィはキットンに言ったらしい。「大人になるにはどうすればいいのか」と。
そうして、相談を受けたキットンは、バカ正直に「成長促進剤」なるものを完成させたらしい。
キットン……おまえって奴はっ……
どういう事態になっていたのか全く知らないキットンを恨むのは筋違いだとわかっている。
それでも、俺は恨まずにはいられなかった。
どうやら、薬を完成させて、そして実際に飲ませてみたところ、最初は何の変化も起きなかったらしい。
それで、キットンはそれを「失敗した」と思い、誰にもそのことを話さなかった。
それが昨日の話で……そのまま本人はバイトに出かけて。
ところが、薬は成功していた。ぐっすり眠って、目が覚めたとき。ルーミィの身体は、急成長を遂げていた、ということだ。
目を覚ましたとき、ルーミィ本人がどれだけショックを受けたのか、俺には知るよしもないけれど。
自分の身体がいきなりここまで成長したんだ。並大抵の驚きじゃなかっただろうな、ということは想像できる。
それに、だ。
間が悪かった。パステル達は出かけていて、薬を作った当の本人もいなくて。
誰にも事情を説明してもらえなくて、ルーミィは相当に不安だったらしい。
唯一家に残っていた俺に向けてくる、すがるような視線。
ありていに言えば、それは……何というか、ひどく魅力的だった。
「くれぇ」
「な、何だい?」
ひきつった笑みを向ける。焦点をルーミィではなく背後の壁に合わせて、ゆっくりと視線を戻す。
まずい、とわかっていた。
心の準備もなく見てしまったルーミィの裸。それは、俺の脳裏にしっかりとこびりついている。
じいっと見つめてくる顔立ちはとてもとても愛らしく……ぐらぐらと心が揺れるのが、わかった。
ば、バカか俺はっ!? 何を考えてるんだ……相手は、ルーミィなんだぞ!?
必死に、つい数時間前までの小さな姿を思い浮かべようとする。
そうすることで、自分の脳に浮かんだあさましい考えを追い払おうとするが。
その努力は、どうも空しい結果しか生みそうにない。
「ねえ、くれぇ。ルーミィ、大人になったよ?」
「あ、ああ……」
大人、だ。確かに、姿だけは立派に大人になっている。それも、すこぶる魅力的な。
ただ、精神年齢は、あまり変わってないようだけど。
「くれぇ。ルーミィ、大丈夫だよね?」
「ああ……」
何が大丈夫、なのかはよくわからないけれど。
とりあえず、頷く。多分、薬の副作用とか……そういったことを心配しているんだろうけど。
まあ、多分……薬って言うくらいだから、一時的なもののはずで。
いや、そうとでも言い聞かせなければ、とてもじゃないが平静を保っていられない。
「そうだな。大きくなったな、ルーミィ」
そう言うと、ルーミィは、ぱあっ、と輝くような笑みを浮かべた。
そして。そのまま俺に抱きついてきた。
「ぶっ!?」
豊かな胸がもろに顔に当たって、背骨が折れそうなほどにのけぞる。
必死に体勢を立て直してその身体を抱えると、ルーミィは、無邪気な顔で言った。
「じゃあ、教えて」
「……は?」
「約束したよ? ルーミィが大人になったら、教えてくれるって」
「…………」
「とりゃーとぱーるぅがしてた遊び、ルーミィにも教えて」
「あ、いや……」
数日前の自分を思いっきり締め上げたい。
お前の、浅はかな発言のせいでっ……俺が今、どんな目にあってるとっ……
「る、ルーミィ。あのな……」
「約束したもん」
頑固なところは、子供の頃とちっとも変わってないようだった。
「くれぇ、約束したもん。約束は守らなきゃいけないんだよ?」
「ええっと……」
どばっ、と一気に全身からふきだす冷や汗。
嫌、なわけじゃない。
むしろ、本能が……もともと、トラップとパステルにあてられたせいで、最近自覚しつつあった男としての欲望が……目の前のルーミィの身体に、ひどく敏感な反応を示していて……
ま、まずい。これは……まずい。
「ルーミィ。あのなっ……それはな、お互いのことが大好きでないと、駄目なんだよ」
「え?」
「トラップとパステルは、どっちも大好き同士だったから、できたんだ。この遊びは、そういうものなんだよ」
そう言うと、ルーミィはじいっと俺を見上げて、言った。
「ルーミィは、くれぇのこと大好きだよ?」
「…………」
「くれぇは、ルーミィが嫌い?」
「…………い、いや」
「じゃあ、教えて」
嫌いだったらまだよかった。自制することができただろうから。
薄いシーツ越しにあらわになっている身体の線。
どこまでもあどけなくて、俺のことを心の底から信頼しきった表情。
何もかもが……魅力的だった。
「くれぇ」
何も言わない俺に不安を感じたのか、ルーミィは、もう一度聞いた。
「くれぇは……ルーミィが、嫌い?」
「いや」
その言葉が、俺の理性を丸ごとふっとばしていた。
どれだけ後悔することになろうとも、構わない。心の奥底では、そんなことすら考えていた。
あさましい、と思った。それでも……止められなかった。
抱き上げたルーミィの身体は、軽かった。ベッドに横たえると、ぽすん、という軽い音が響いた。
太陽の匂いがするシーツを払いのけたとき。眩しいほどに白い裸体が、俺の目に、とびこんできた。
「くれぇ?」
「ルーミィ。この遊びは……な、ちょっと、痛いかもしれない」
そう言うと、ルーミィは眉をひそめた。
ここで、嫌だ、と言ってくれれば。怖いと言ってくれれば。今なら、まだやめれるかもしれない。
そう密かに願ったけれど。ルーミィは、首を振った。
「ぱーるぅは、楽しいから大丈夫だったんでしょう?」
「……ああ」
「じゃあ、ルーミィも大丈夫だよ」
……いい、のか。本当に。
ここで、ルーミィを抱いてしまって……いいのか?
よくない。答えなんか決まりきっている。
それでも、俺は……
白い頬に手を伸ばす。桜色の唇に、そっと口付ける。
暖かくて柔らかい感触がかえってきた。
「くれぇ?」
「……これが、キス、って言うんだ」
「きす?」
「そう。大好きな人とだけできる、遊び……だよ」
遊び、なんて言葉が悪いかもしれないけれど。
最初にそう言ってしまったんだから、仕方がない。
そう言うと、ルーミィはこっくりと頷いて、言った。
「ぱーるぅととりゃーも、よくやってるよ」
「……そうなのか?」
「うん。二人だけになってるとき、よくやってたんだ。ルーミィ、何回も見たんだよ」
……機会があったら教えてやろう。トラップの勘の鋭さを考えればちょっと信じられない話だけど。それだけパステルに夢中なんだろうな。
そんなことを思いながら、もう一度唇を押し当てる。酸素を求めるようにわずかに開かれた隙間から、自分の舌をもぐりこませて、ルーミィのそれとからめあう。
深い、熱いキス。たったこれだけの行為なのに、ひどく気持ちがいい。
「……くれぇ?」
「嫌、だったらすぐ言うんだよ? ……どう?」
「嫌じゃないよ」
そう答えて、ルーミィは幸せそうに笑った。
「何だか、すっごく気持ちいいんだよ」
「……そうか」
キスにも上手い下手があるらしいけど……俺のキスは、上手いんだろうか?
誰にも答えられないような疑問が浮かぶ。
そのまま、唇を首筋の方へと移動させた。うなじのあたりをそっと撫でると、華奢な身体がびくんっ、とのけぞった。
「くすぐったい」
「……そうか」
ここが、弱いんだろうか?
うなじから背筋へと、指を滑らせる。とても滑らかな肌触り。ひっかかるところが何もなく、一気に腰のあたりまで滑っていく。
「ひゃんっ!」
びくんっ、びくんっ、とのけぞりが大きくなる。
敏感だ、と思った。他の女の子を抱いたことがないからわからないけど。それでも、この反応は大げさな気がした。
「どう?」
「くすぐったい……」
今にも泣きそうな目が、俺をじいっと見つめている。
……嫌だ、と言うなら、今のうちだぞ?
言葉に出せない。それは、本当に言われるのが嫌だからなのか。
胸中でだけつぶやいたけど、ルーミィは「くすぐったい」と繰り返すだけで、やめて、とは言わなかった。
……いいんだな。
つきあげてくる欲望。はやる思いを抑えるようにして、豊かな胸にそっと唇を近づける。
やわらかかった。そっと手を当ててみると、それはとても柔らかく……そのくせ、確かな弾力を持っていた。
思いもかけない手触りに思わず指に力がこもる。白い肌に赤い痕が残り、ルーミィは、微かに顔をしかめた。
「くれぇ……痛い」
「あ、ごめん」
女の子の身体は、優しく扱ってあげなくちゃいけない。
とても傷つきやすいから。俺達男の身体とは違うから。
誰かから……多分兄さんだと思うけど……聞いた言葉が思い出される。
優しく、してあげなくちゃ。
たっぷりと時間をかけて、ルーミィの身体をまさぐり続けた。
我慢を強いられるのは辛かったけれど。手を滑らせるたびに彼女の唇から漏れるあえぎ声は、俺をどこまでも高めてくれて……
何も知らないルーミィを汚そうとしている罪悪感とあいまって、限界まで欲情を煽った。
白い肌がピンクに染まり、青い目には涙がいっぱいたまり。唇から漏れる声は切なげで、色っぽい。
「くれぇ……ルーミィ、何だか変だよ……」
「変って、どこが……?」
長い脚。その内股のあたりに、手を這わせる。
初めて目にするソコからは、粘ついた液体が溢れ出していて。それが指にからみついてきた。
「くすぐったくて……熱い……」
「嫌、とか。気持ち悪い、とか。そんなことがあったら、すぐに……言うんだよ?」
「ううん、大丈夫」
ずぷりっ、と指を深く潜らせる。
「ひゃあっ」という声とともに、俺の背中に、ルーミィの指が食い込んだ。
「やあっ……あ、ふわあっ……」
「気持ち、いいか?」
そう聞くと、ルーミィは真っ赤になって頷いた。
彼女は、何も知らないはずだ。
この行為の意味も、理由も、目的も。何も知らないはずなのに。
どうしてだろう? その目の中に、「欲情」という感情が浮かんでいるように見えたのは。
もっと、と求められているように思った。それは、俺の勝手な思い込みかもしれないけれど。
「ルーミィ」
「…………」
「俺のことが、好きかい?」
そう聞くと、素直にこっくりと頷かれた。
彼女の言う「好き」は、俺の求める「好き」とは違うんだろうけれど。
そうとわかっていても、満足だった。
「俺も好きだよ」
「くれぇ……?」
「俺も、ルーミィのことが大好きだよ」
そう言うと、ルーミィは、心底嬉しそうに微笑んだ。
……俺は、卑怯だ。
何もわかっていないのをいいことに、勘違いにつけこんで、ルーミィを汚そうとしている。
それでも。
俺は、彼女のことがっ……
「痛いかもしれない」
ぐいっ、と脚を開かせて、その間に自分自身を割り込ませる。
「かなり痛いかもしれないけど……我慢できるかい?」
「……痛いのは、嫌」
「……そうか」
「でも、くれぇは優しいから……大丈夫だよ?」
「…………」
「ルーミィ、我慢する」
「……そうか」
優しい、か。
俺の優しさは、本当の優しさなんかじゃ……ない。
そう言おうとしたけれど。言葉にはならなかった。
そのまま、俺は、ルーミィの身体を貫いていた。
相当に痛かったと思う。貫いた瞬間、ルーミィの唇からは悲鳴が漏れて。目にたまっていた涙は、一気に溢れ出した。
それでも、彼女は「やめて」とは言わなかった。
俺が動き出しても、ただされるがままになって。うわごとのように、「くれぇ、くれぇ……」とつぶやいていた。
罪悪感と本能の戦いだった。そして、本能が、あっさりと勝利を収めた。
爆発する寸前にその身体から逃れるように自分自身を引き抜いたのは、せめてもの罪滅ぼしだ。
これ以上、彼女を汚したくない。
溢れ出す欲望を自分の手で受け止めて、俺は自虐的につぶやいていた。
「ねえ、くれぇ」
タオルで手を拭って。そうして、俺のシャツをルーミィに被せてやってると。
ルーミィは、ひどく嬉しそうな顔で、言った。
「ありがとう」
「……ありがとう?」
「教えてくれて、ありがとうだよ。ルーミィ、楽しかったよ?」
「た、楽しかった?」
「うん」
にこにこ笑って、ルーミィは言った。
「ぱーるぅも、すっごく嬉しそうだったんだよ。とりゃーのこと、大好きだからだよね? だから、ルーミィも嬉しい。くれぇのこと、大好きだから」
「……そうか」
その「大好き」と、パステルのトラップに対する「大好き」は違うものなんだ、と。
教えてやれたらいいんだろうけど……うまく説明できる自身は、なかった。
「俺も、大好きだよ」
そう言ってやるしか、なかった。
俺の言葉に、ルーミィの表情が輝いて……
そして、突然。
目の前で、ルーミィの身体が、消えた。
「……ルーミィ?」
視線を下に向ける。
被せてやったシャツに埋もれるようにして、綺麗なブルーアイが、じっと俺を見上げている。
「くりぇー」
舌ったらずな声で、ルーミィは言った。
「くりぇーが、大きくなったおう」
「……違うよ」
シャツごと、その身体を抱き上げる。
薬の効果が切れたんだな、と、何となく悟っていた。
それに少しホッとして。少し……残念だった。
「ルーミィが、小さくなったんだよ」
「ルーミィ、大人になったんだお?」
「うん。だけど、それは本当になれたわけじゃなかったんだ。キットンの薬で、ほんのちょっとの間なれただけなんだ」
「……本当じゃ、なかったんかあ?」
「ああ」
そう言うと、ルーミィはしょんぼりうつむいた。
「大人になりたいおう」
「……そうなのか?」
「うん」
ルーミィは、じいっと俺を見上げて、言った。
「また、くりぇーと遊びたいもん」
「…………」
ルーミィ。
その発言がどんなに危険なものか……君は、わかってるのか?
……わかってないんだろうなあ……
トラップの苦労が、少しわかった。
はあっ、とため息をついて。俺は、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
間がさした、とか。一夜の過ちだ、とか。そんな卑怯な言い訳はしたくない。
大人になったルーミィは確かに魅力的で。だけど、欲望だけで抱いた、なんていうのは、もっと許されないと思った。
俺は確かに、彼女に愛情を抱いている。
もしかしたら、それは保護欲を勘違いしているだけなのかもしれないけれど。
少なくとも、「大好きだ」と言ったことに、何の偽りもない。
……それは、決して表には出せない思いだけれど。
「いいかい、ルーミィ」
服を着せてやりながら、俺は、ルーミィの小さな小指に自分の指をからませた。
「前にも言っただろう? この遊びは、本当は内緒にしなきゃいけない遊びなんだ」
「うん」
「だから、絶対誰にも言うなよ? 内緒にしておこうな」
「うん。約束だおう!」
「ああ、約束だ」
そのかわり、忘れないから。
ほんの数時間の間に起こったこの出来事を、俺は決して忘れない。
それが、君にできるせめてもの償いだから。
「くりぇー、大人になったら、また遊んでね」
「ああ。約束だ」
エルフである彼女と、人間である俺。
その約束は、決して叶わないものかもしれないけれど。
俺は、死ぬまでそれを忘れないから。
ルーミィ。
いつまででも、君を待ってる。
あどけない笑顔に微笑みを返して、俺は、そうつぶやいていた。
完結です。キットンの便利な薬シリーズとでも銘打ちます。
明日は新スレ立ててそっちにトラパス原作重視作品投下します。
334 :
名無しさん@ピンキー:03/11/11 11:02 ID:LPznwgdJ
クレルミ、良かったっすよ!クレイの色んな心の葛藤とか面白かったです。
ルーミィも成長バージョンで内心、ホッとしました! しかし、最後の
「エルフである彼女と、人間である俺。その約束は、決して叶わないものかもしれないけど」
の所はチョット切なげな感じがしました、いや〜良かったです!
でもあれですね、トラパス作家さんのキットンは少しドラえもん扱いになってるな〜と
思い、それが面白かったです(以外に物語のキーマンだったりする事が多いな)
もはやキットンに作れない薬は無いだろう(地味なくせに良いポジションに居るよな)
ではこの辺で、次の作品も楽しみにしてます!
>>334さん
早速の感想ありがとうございます。
気になって一度まとめてみたキットンの怪しい薬シリーズ……
好きな相手の心が読める薬(深層心理編)
若返りの薬(子供返り編パステルバージョン)
身体が急成長する薬(シロ×ルーミィ、クレイ×ルーミィ)
前世を経験する薬(運命編、運命編if)
今後登場予定な薬→タイムスリップする薬(いずれ書く予定)
本当にドラ○もん扱いになってますね……
頑張って新しいネタを開拓してきます。
クレイ×ルーミィおもしろかった!
ていうかここの神様の方々が書かれるクレイに激しく萌え。
クレイってこんなかっこよかったんだ、と初めて気づかされましたよ。
トラパス作者様、近頃の大作はさらに文章が練りこまれていて、
圧倒されっぱなしです。
トラパス作家様、いつもいつもお疲れ様です。
クレイ全然かけるじゃないですか!!
っていうか、とっても魅力的でしたよ。
そういえば悲恋編で原作の世界のものってまだありませんよね。
かなり難しいと思うけど、お暇があれば挑戦してみたらいかがでしょうか?
感想くださった方々、ありがとうございます。
新作投下しようと新スレ立てようとしたら、このホストでは立てられないって出てしまいました……
よろしければ、どなたかスレ立てお願いします……
前スレも読み切ってないというのに、なぜ既にこのスレ埋まりかけですか(w
職人様方、激乙です。
週末ですし、リレー小説やりません?
「雨降りのトラパス」
「本当にごめん」
目の前には不機嫌そうなトラップの背中。つながれた手はぐいぐいひっぱられていて、足がもつれそう。
でも、不満とか言えないよね。わたしが悪いんだし。ポツポツとあたる大粒の雨が、ますますあせりを誘う。
ことの起こりは、少し前のこと、時間指定のおとどけものクエストの途中に起こった。わたしはパーティーの全財産を入れた財布を、落としてしまったのだ。
当然、最初は全員で探していたんだけど、時間制限(今日の日没まで)があるから、ほかのみんなは先に行ってしまった。
トラップとわたしだけが残って、幸い財布は見つかったんだけど。思ったより探すのに時間がかかってしまった。急がないと、今日中にパーティーのみんなと合流できない。
でもまぁ、今日一日ぐらいなら、残りのみんなも誰かのおこづかいで宿には泊まれるかもしれないんだけど。もしかして、ここまで急ぐことないのかも。うぅ、疲れててだんだんダメな方向に、考えが走っているなぁ。
すると、まるでわたしの考えをみすかしたかのように、突然トラップが足を止めた。
「なぁ、とりあえず雨宿りしねぇ。」
雨足は激しさをましてきた。彼の視線の先には、雨がしのげそうな、山小屋があった。わたしはうなずいていた。
続きお願いします。しかし、このスレ見ている住人はいるんかな。
わたしでよければ……
本スレが気になって眠れないんですが、わたしが書き込むと余計に問題がややこしくなりそうなので……
続き
山小屋の中には、何にも無かった。
ううっ、せめて毛布くらい欲しかったなあ……まあ、文句を言っても仕方ないんだけど。
「……ここで火ぃたくわけにはいかねーし……ま、雨があたらねえだけマシだな」
そう言うと、トラップは自分の上着を脱いで、ぎゅーっ、としぼり始めた。
飛び散る水滴に慌てて顔を背ける。
「もー! 外でやってよ外で!」
「ああ? 外に出たら濡れるだろーが。あに言ってんだおめえは」
そ、それはそうなんだけど……
チラリ、と視線を戻そうとして、慌てて再びそらす。
だ、だって……上着を脱いでるから、当たり前だけどトラップは上半身裸でっ……
彼は、ばんばんと水気をとばして、上着を床に広げていた。つまりは、しばらくそのままでいるつもり、ってことで……
うっ、初めて見たわけじゃないけどっ……や、やっぱり照れるよう……
「パステル」
「は、はいっ!?」
急に話しかけられて、思わずどもってしまう。
トラップは、わたしをジーッと見て、言った。
「おめえは脱がねえの? 風邪ひくぜ、そのままだと」
そう言って、彼は実に意地悪そうな笑みを浮かべた……
「脱がないわよ!もうっ」
ほおが熱い。変にトラップのことを意識している自分に腹が立つ。
「ふぅん、ならいいけど。風邪ひいてもしらねぇぞ」
トラップはあっさりとそう言うと、そのままそっぽをむいてしまった。
それから気まずい沈黙が訪れた。
夕日が沈みかけていた。
というわけでおねがいします。
雨が降っているせいかもしれないけど。
夕日が沈むと、あっという間に小屋の中は真っ暗になってしまった。
明かりといえば、トラップがつけてくれたポタカンのぼんやりとした光だけ。
「……いつになったらやむのかなあ……」
相変わらず外から響いてくる雨音。
わたしのつぶやきに、トラップは床にごろっと転がって言った。
「いずれやむだろ、そりゃ」
……だから、そのいずれがいつ来るかを知りたいんだってば。
「はあ……」
ため息をついて、壁に背中を預ける。
ひんやりとした冷たい感触に、ぞくぞくっ、と震えが走った。
「……寒い……」
大きな声を出したつもりは全くないんだけど。
わたしがそうつぶやくと、トラップは顔だけこっちに向けて言ってきた。
「だあら、言ったろー? そのままだと風邪ひくって」
「だ、だってっ……」
「おめえみてえな幼児体型、誰も見ねえから安心しろ」
きいいーっ! し、失礼なっ!!
そ、そりゃ確かに、わたしの胸はそんなに大きくはないけどっ……
「だ、大体ねえトラップ! あなた、見たこともないくせにいっつもいっつも『幼児体型』だの『出るとこひっこんで〜』だの、ちょっと失礼じゃない!?」
「見なくたって大体わかるっつーの、見事な直線描いてるしな」
「着やせしてるだけかもしれないでしょ!?」
売り言葉に買い言葉。わたしがそう叫ぶと、トラップは「ほー」と完全にバカにしきった顔で身体を起こした。
>トラパスさん
ごめんなさい・・・・・・。なぜに雨なのに夕日。きつねの嫁入りなのか?
とりあえず逝ってきます、吊ってきます。
続き
「じゃ、脱いでみそ」
「いいわよ、脱いでやるわよ。見て驚かないでよ」
勢いで、ボタンに手をかける。
わたし何してるんだろうと思わなくもない。
でも、あんなに言われてひきさがれないでしょう。
一気にブラウスの前をはだけ、そのまま、脱ぎ捨ててしまった。
「どう、これでも幼児体型っていえる?」
ちょっと挑戦的に笑う。
トラップが息をのむのがわかった。
しかも原作壊しそうです自分・・・・・・。どうしよう。
「天気雨」という言葉があります。雨降ってても夕日が見えることはあります。お気になさらずに……
「…………」
「ほらあ、何とか言ってみなさいよ!!」
勢いでわたしが詰め寄ると、トラップは音を立てて後ずさった。
彼の目は、わたしの胸をじーっと凝視していて……
そ、そんなに見ないでよっ……恥ずかしくなるじゃないの、今更っ……
「ほ、ほら、どうなのよ?」
「……あー、あー……そのっ……」
トラップの顔が、みるみるうちに真っ赤に染まった。
そのまま、彼はかすれた声でつぶやいた。
「たっ……たた、大したこと、ねえな、やっぱ」
「な、何ですってえ!?」
後になって冷静になってよーくよーく考えれば。
そのときのトラップの表情を見れば、強がりを言ってるってことくらいわかったはずなんだけど。
どうやら、寒さと疲れて、わたしの頭は変な風にハイテンションになっていたらしい……
「じゃあ、これならどうなのよっ!」
ブラウスを脱ぎ捨てた勢いそのままに。
わたしは、スカートを床に叩き付けた。
びしゃんっ、という音とともに水しぶきが飛び散って、トラップが目を細めた。
>トラパスさん
遅筆につきあわせて申し訳ないです。
しかも、自分もう眠さ限界かもしれません。
まだエロに到達してないのに・・・・・・。
後日にしますか?フィニッシュしてもらえますか?
どうしましょ。
トラップの視線が外れた一瞬に、わたしはさらに一歩トラップに近づいた。
「いいかげんに、わかった?わたしの魅力」
「・・・・・・おめぇ、何を・・・・・・」
目の前に立つわたしを、トラップは見上げている。
雨にぬれて重そうな、その赤毛よりトラップは赤い顔をしていた。
「マリーナより魅力的だってわかった?」
「マリーナ?」
「そう、マリーナ。あんた好きなんでしょ、目の前にあんたを思っている女の子がいるんだって気づかないで。ずっと彼女のことを見ていたじゃない」
こんなことを言うつもりはなかった。
でも、もう止まらなかった。下着姿のままで、わたしはボロボロと泣いていた。
自分も眠さ限界です……かなり無理やりですがフィニッシュさせます。
「何で……そう思うんだ?」
「だってっ……トラップは、いつだって、女の子は美人でスタイルがいいのが一番だって……」
しゃくりあげながら言うと。トラップは、黙ってわたしに手を差し伸べた。
そして。そのまま抱きしめた。
「トラップ……?」
「おめえは、顔とか身体とか……そんなもんに魅力を感じるような男を、好きになったつもりか?」
「え……?」
「俺がそんなつまんねえもんに拘るような男だと……本気で思ってんのかよ?」
そう言って、トラップは……優しく、わたしの唇を塞いだ。
これって……キス?
「……俺の気持ち」
「トラップ……?」
「おめえは、魅力的だよ。胸なんざなくたって、ガキくさくたって……十分、魅力的だ」
がしっ、と肩をつかまれた。そのまま、柔らかく床に押し倒される。
「トラップっ……」
「でなきゃできねえだろ、こんなこと」
そう言って、彼はわたしの涙を拭うようにして、頬をなでた。
「おめえが魅力的すぎるから」
耳元で囁かれる言葉。
「俺、我慢できそうもねえんだけど……いいか?」
その言葉に、わたしは頷くしかなかった。
優しくわたしの身体に手を這わせながら、トラップは言った。
「好きだ」
無理やり完結っ。エロは皆様の脳内保管でお願いします……
わたしこそ、つき合わせていただいてありがとうございました。
リレーは久々だったので楽しかったです。
>349
お疲れ様。
余計なお世話かもしれないけど、貴方が出て行って意見を書いた方が纏まりやすくなると思うよ。
一番大切なことは、貴方自身がどうしたいか、だと思うからね。
351 :
342:03/11/22 03:54 ID:cXJ5/DOY
>トラパスさん
本当に楽しかったです。ありがとうございました!
また、リレーしかけたときは、よろしくおねがいします!
>>351さん
またできるといいですね!<リレー
ところで、このリレー小説はうちの保管サイトにのせてしまってOKでしょうか?
OKな場合、あなたのお名前は8−342さん?
>>350さん
ええっと……今からバイトですので、その間に今後の対応を決めたいと思います。
余計なお世話ではないです。心配していただいて、ありがとうございました。
353 :
342:03/11/22 22:16 ID:WAi2my1m
>トラパスさん
載せてかまいません。名前は適当で・・・・・・。
変更などがある場合は、トラパスさんの掲示板に連絡します。
たまにはチェックしてみるもんだ
エロの部分だけリレー続けたいと言ってみるテスト
355 :
342:03/11/23 17:48 ID:tCtK7Zw+
>>354 ぜひ続けてください!
自分、続きに参加できるかわかりませんが。
複数の人に参加してほしいなと思って考えたリレーなんで。
萌えるやつお願いします。
ちょっと書いてみました…
こういう行為、知識としては知っているんだけど、やっぱりいざこうなって
しまうと、気が動転して、トラップにされるがままだった。
トラップがもどかしそうに、わたしの下着を剥ぎ取る。彼の指が
わたしの胸を這い回った。わたしは目をぎゅっと閉じて、唇を噛み締めた。
き、気持ちいいっ…
そんな言葉、出すのが恥ずかしくて。わたしは必死に耐えた。
わたしの胸のあたりに、濡れた髪の毛の感触。
これは、トラップの髪…?トラップが、わたしの胸に顔を伏せている?
そう思った次の瞬間、熱く湿ったものを感じた。
こ、これトラップの舌!?舐められてる…!
「…っあ、…ああ…」
食欲と睡眠欲。これは、わたしも日常生活でよく感じる欲なんだけど。
性欲を感じたことは正直言って、なかった。でも、本能でわかる。わたしが
今トラップに感じているのは、それなんだ。
すいませんこんなんで。トラップの舌攻め書いてみたくて…
へぼすぎ。逝ってきます
んじゃ短いけど。
トラップの舌が私の胸を這う・・・・・・
つ・・・と這わせては止まり痕を残してゆく。
抵抗なんて・・・出来ない。
だって、気持ち良くって。
まるでトラップのがわたしを舐めて溶かそうとしてるみたい。
もっと・・・して欲しい。溶かして欲しい。
堪らずトラップの頭に手をのばした・・・。
続きをよろしくです。(汗
リレー続きキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
濡れた頭を抱えるようにして胸に押し付ける。
「あぁ・・・っ」
先端を舐められてると本当に溶けちゃいそうだった。
舐められ吸われ甘噛みされながらもう片方の胸にも指が這い回るたびに
今まで知らなかった感覚に襲われる。
これが快感っていうものなんだろうなあ・・・なんて頭の片隅で考えられたのもそこまでだった。
いつの間にか腿を這うトラップの指が際どい場所に触れてきて・・・
最近違う小説読んでたからパステルの一人称難しい_| ̄|○
こそっと続き。
さ、触られる!と思った瞬間、彼の指がふっと離れた。
ほっとしたような、残念なような。視線を胸元のトラップの顔のほうへ向けると、
ひどくまじめそうなトラップの瞳とぶつかった。
トラップはニッと笑うと、わずかに腕を立てて身を起こし、
またその舌を使ってわたしを舐めはじめた。
おなか、太もも。トラップは体を起こしてわたしの足を持ち上げ、
ひざ、ふくらはぎに唇を動かした。
そして!彼の口はわたしの足の指をくわえた。
うそ。そんなこともするの!?
足の指に感じる、トラップの舌。
ああ、なんだかもう、ほんとに。
今、ぎゅーっと抱きしめてほしい!
む、むずかしい。トラップに言葉を吐かせられない。
どなたか…続きをおねがいします
かなり短いですが続きです。
「・・・・・・おめぇさ。もっと声出していいんだぜ」
舌を、足の指にはわせながら、トラップが言った。
「・・・・・・どうせ、聞いてんの、俺だけだからさ」
トラップの動きは止まらない。
一生懸命我慢してたのに、そんなことを言われると。
もう、我慢できない。
ヘタレですが、ここまでで。どなたか続きをお願いします。
続いてる……感激です。こそっと参加
「やああっ……」
漏れた声は、自分で言うのも何だけど、かなり大きかった。
「ひゃあんっ……あ、あっ……」
舌が、足の指から、くるぶしへと。
そして、ふくらはぎへと。徐々に、徐々に這い上がっていった。
「も……やだっ……やだ、やだやだやだっ!!」
やだ、と言いながら。本心は別にあることは、わたし自身が一番よくわかっていたんだけど。
でも、それをどう言えばいいのか……
……ううん、本当は、わかってた。わかってたけど、でもっ……とても言えない、そんなことっ!
「やだっ……や、ああっ……」
「やだ……ねえ……」
わたしの言葉を聞いたトラップがつぶやく。それは、ひどく意地悪な声音。
「なら、やめようか?」
「……え?」
不意に、這い回っていた舌の動きが、止まった。
瞬間、かっと全身が火照った。
「あっ……」
「声を出せ、っつったけどなあ……嫌がる女を抱くなんて、したくねえし? ほら、俺って紳士だから」
にやにや笑いながら、トラップはなめるようにわたしの全身を眺め回した。
震えが止まらない。身体が熱い。
この火照りを止めたい。止めるため、には……
「と、トラップ……」
「どうした? ……やだ、っつったのはおめえだぜ? それとも……」
トラップは、手を伸ばしてゆっくりとわたしの頬に触れた。
わたしの目を覗き込むようにして、つぶやく。
「やだ、っつったのは……嘘なのか? じゃあ、どうして欲しいんだ? 言わなきゃわかんねえぜえ……パステルちゃん?」
……絶対、絶対わかってるくせにっ……意地悪っ……!!
エロくなってまいりました…
続き書きたいけど筆が追いつきません
書けたらまた書いてみようと思います。明日くらいに。
エロキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
とか言いつつ、ヘタレな自分にも続き無理っぽいです。
がんばってください、どなたか。
コソーリと続き…
いつものわたしなら、他のことでなら、「あーら、トラップもやめちゃっていーの?」なんてイジワルな口きけるんだけど。
このときばかりはそんな余裕なかった。わたしはトラップの手を握り、じいっとトラップの目を見つめた。
「お、お願い…舐めて」
「何を」
「…わたしを…お願い、トラップ…」
「わたしの、どこだよ?言ってくれないとわかんねえなあ、おれ」って言葉がくると思った。だけどトラップは半ば泣き声だったわたしの言葉を聞き、
「…上出来。おおせのままにいたしましょう」
なんて実にうれしそうに笑ったのだった。
そして、ついに。
ついにトラップの手が、指が、わたし以外の人が触れたのことのない場所を触り始めた。
こんな誰もいなさそうな場所でコソリとリレーできて嬉しいっす。
しかしこれ、スレが埋まる前に終わるんだろうか…
そして続きを書いてくれる人はいるんだろうか
続き待ってました(w
くちゅっ……
響いたのは、小さいけれどやけに生々しい音。
「ひゃあっ!!」
「……もーちっと色気のある声出せねえか?」
囁かれる声は、意地悪ではあるけれど嬉しそうだった。
だけど、それに反論する余裕は、わたしにはなかった。
くちゅっ……ぐちゅっ……
トラップの指は、細い。細くて骨ばっていて、わたしよりもずっと長い。
その指が、わたしの中で、ひどく巧みに暴れまわっていた。
決して痛みは与えないように、それでいて最大級の刺激を。そんな動き……
「やっ……や、や、ひゃああああああああっ!!」
「……すげえな」
ずるり、と指が引き抜かれる。そして。
つつっ
太ももを這い上がるざらりと湿った感触に、わたしは背筋をのけぞらせた。
快感……なのかな?
寒気とも違うぞくぞくした感覚が、全身を駆け巡る。
「ああっ……」
「…………」
ぴちゃり
さっきまで指が暴れまわっていた場所。
そこに顔を埋めるようにして、トラップは、舌を動かし始めた。
まったりリレー楽しい……
スレが埋まる前に完結させたいですね。
というわけでどなたか続きよろしくお願いします。
おおっと、話が進んでるよ。じゃ、続きいきます。
いつか。全然別のときに。
トラップって舌ながいねって言ったことがあった。
そのとき、真っ赤になって横をむいてしまって。
どうしてだろうって思ってたんだけど。
ねえ、トラップ。あのときわたしとこうしたいって・・・・・・。
考えていたの?
長い舌が、わたしの例の部分をなめあげる。
今までで一番強く、全身に不思議な感覚が走って。
一瞬意識がとびそうになった。
もどかしくて、よくわからない期待が高まる。
も・・・う・・・だめ。
楽しい、すごく楽しいです。
つづきおねがいします。
続いてしまいます。
声を出したのか、出さなかったのか…
目の前が一瞬真っ白になった気がして、気がつくと…
トラップがわたしの目をじっと見ていた。
わたしの膝を掴んで、ぐっと開いている。
トラップ?
「…挿れる、ぜ」
小さくつぶやく。
そして、ぐっ…と何か熱いものが身体の中に捻じ込まれるのがわかった。
本スレよりこっちのが盛り上がってるかもw
続きお願いします〜
さっき名乗り忘れてた……365=わたしです。続きます。
「ふっ……あああああっ!」
ぐいっ、とねじこまれたものは、とても熱く……とても、大きかった。
「い、痛いっ……痛い、痛いよトラップっ……」
「っ……」
わたしの悲鳴に、トラップの表情が揺れた。
しばらく動きが止まる。かなり躊躇したみたいだけど。やがて……
「わりい。……わりいな、パステル」
「いっ……やああっ!!」
ぐいっ
より深いところまで。熱い塊が侵入した。
傷口を無理やり引き裂くような、そんな痛み。目に涙がにじんできた。
「やあっ……痛い……」
「…………」
わたしの涙を見て、トラップはぎゅっと目を閉じた。
そのまま、彼は腰を突き動かし始めた。
「ひっ……あ、ああっ……あああああっ!!」
「…………っ」
トラップの表情に浮かぶのは、苦痛をこらえているかのような、そんな表情。
あまりの痛みに、頭がくらくらしてきた。
だけど。
痛みの中に、わずかに混じる……この、熱いような感覚は……一体何っ……?
「あっ……ああっ……ひゃあんっ……」
もう、駄目。
さっきも感じた思いが、また頭に浮かんだ。
何が駄目なのかわからない。だけど、わたしの頭の中から、「理性」と呼ばれるものが少しずつなくなっていくのは、よくわかった。
容量がそろそろ危険っぽいので……後2〜3レスでフィニッシュさせないとまずいですよね…
つ、続いてる。
目の前にトラップの顔があった。もう無我夢中でその首にしがみつく。
トラップが、荒い息をついているのがわかる。どちらからともなく激しく唇を求め合った。
「…好きだ。すげえ、好きだ」
低くて掠れた、声音。その甘い言葉を聞いた瞬間、わたしの中にまだほんの少しだけ残っていた恥じらいとか、そういったものが全部なくなった。
わたしの体が全部、反応して、狂おしいほど、ただトラップが欲しい。
「あ…あ、わたしも、わたしも好き…トラップ…!」
「パステル…!」
巨匠の方々にまぎれて自分なぞが書いていいものでしょうか。
けっこうここ人いたんですね。嬉しいです
この続き、うちのサイトでアップしたいけど書き手さんが何人もいるから無理だろうなあ。
大人数リレー、すごく楽しいです。
というわけで続き
耳に届いたとても甘い声。
ただ激しく、トラップが欲しいとそれだけを願うわたしに。
彼は十二分に答えてくれた。
激しく突き動かされたその直後。彼の手が、ひときわ強くわたしを抱きしめて。
そしてその瞬間、わたしの中で、動きを止めた。
「トラップ……トラップ、トラップっ……」
「パステルっ……」
わたしはともかく。トラップがこれほど息を乱すのはひどく珍しいことだった。
しばらく何も言うことができず。わたし達は、ただ、お互いの身体にしがみついていた。
……次でフィニッシュくらい……でしょうか? どなたか続きお願いします〜
その瞬間を書いてくださったのでよかった…自分には無理ですた
で、続き…
汗ばんだ体で寄り添って、息が整うのを待った。わたしがそっとトラップの胸に頬を寄せると、トラップが優しい声で言った。
「その…大丈夫だったか?痛かったんだろ。わりい、おれ、夢中で…」
「うん、痛かった」
わたしの言葉に、トラップの顔がすまなさそうな表情になった。あ、こんな表情、きっとめったに見れるものじゃない。
「最初はね。でも、気持ちよくなった。それに、すごく幸せだった」
わたしが笑ってそう言うと、トラップもうれしそうに笑った。
スレの容量、もーちょいいけるか?どなたか次かその次くらいでシメを。さわやかに。
>>370 自分はぜんぜんかまわないですが。こんなヘタレでよければ。
フィニッシュさせます! さあ、容量内におさまるでしょうか……
雨がやんだのは、結局夜が明けてからだった。
わたしとトラップは、よりそうようにしてみんなが待つ宿へと向かった。
内股あたりにしびれるような鈍い痛みが残っていたけれど、でも、それは決して不快なものじゃなかった。
ぎゅうっ、とトラップの腕にしがみつく。その暖かさが、昨夜の素敵な記憶を何度でもよみがえらせてくれる。
……と。
「……なあ」
「ん?」
「両思いになったんだよな、俺ら」
トラップの不安そうな声が、妙におかしかった。
「そうじゃない、って言ったらどうする?」
ぎくり、とトラップが身を強張らせた。ふふっ、わかりやすーい。
いつもいつもわたしがからかわれてるんだもん。たまには……ね。
「冗談だよ」
そう言うと、「おめえなあ」と言って軽く小突かれたけど。
その表情が、すぐにいたずらっこみたいないつもの表情へと、変わった。
「ま、別にいいんだけどな」
「え?」
「例え両思いじゃねえって言われたって。おめえを俺に惚れさせる。どんな手を使っても、な」
「……自意識過剰」
「ばあか。実際惚れてる奴の言うことかっつーの」
視線がからみあったとき。自然に唇を重ねていた。
遠くの方から、「おーい」という妙に懐かしいみんなの声が、聞こえてきた。
完結させました。いいのでしょうかこれで……
>>371さん ありがとうございます。……載せましょうかね? 中途半端なところまでアップしてるし……
駄目、とおっしゃる方がいらしたら、第八スレあたりにでも(多分このスレはもう無理でしょう……)