R.O.D -ERO OF WRITE-

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786749:04/11/09 23:02:18 ID:ke97BUB3
 ぼくは宿屋の玄関先で「電話はどこだい?」とボーイに訊く。
 カイロはやはりまだ暑い。
 ボーイが指さすところに行くと、懐から特殊工作部の備品を取り出し、それを通話口にか
ぶせてダイヤルをまわす。
「……もしもし、やあ、マリアンヌ。ジョーカーを……………………ドニーだ。ベイルートに船
が来ない、どうなってる?……荷物の積み降ろしを……トリポリ沖で?……なんでわざわざ
洋上でやるんだ!……監視はしてなかったのか。衛星写真で分かった?……それはお互
いにぬかったな…………ああ……ああ……分かった。引き継ぎをすませたら、ぼくは日本へ
向かうよ。それで『ロゼッタ』の監視は?……『ヴィクトリアス』が……新鋭艦だな……紅海か
らインド洋をカバーできる?……それはよかった……それにしても、あの怪しげな会社の船
に便宜をはかる者がいるとはね…………なんだって!?横浜の華僑が死んだ?……いつ
……『ロゼッタ』号が出港した日に……ああ……ああ、分かった、それじゃ」
 電話をすませると、ぼくはすこし乱暴に宿屋のドアを開いて足早に外に出る。
 ――またひとり、ひとが『静かに』なった。
 階段を怒ったように小走りに駆けおりると、白い鳩が一羽、驚いて足元から飛んでいく。
787749:04/11/09 23:03:16 ID:ke97BUB3
 電車がとまったので、ぼくは電車を降りる。
 神保町駅で降りてA6岩波神保町ビル出口へ、階段をのぼりきって右に折れると、そこに
もう児童古書の露店がある。
 その露店のよこの店で『英国植民地経済史』を見つけて手に取ってみる。
 二万四千円が八千五百円、食指がうごくがまずは用事をすませよう。
 今日もいい天気だ。
 神保町交差点の集英社とキムラヤの看板を見て深呼吸をすると、「帰ってきたんだ」と思
うのはぼくだけだろうか?

「……連日のお運びありがとうございます……東京名物神田古本まつりは明日まででござ
います……この機会にどうぞたくさんの本をお買い上げください……」

 古書市では、背文字で本と会話しなければならない。
 欲しい本とは目線が合うものなのだ。
 『ハンニバルの象』 『シェイクスピアの鳥類学』 『昆虫学の楽しみ』 『人はなぜ殺すか』
…………。
 ぶっくたうん神田とロゴのある黄色いエプロンをつけた売り子が露店ごとに立ち。
 岩波ブックセンター横の、普段は目立たないさくら通りへとぬける通路も、今日は紅白の
幕と万国旗にかざられた祝祭の空間である。
788749:04/11/09 23:04:05 ID:ke97BUB3
 神田古書センターの前では中古レコードとLDの売り出しをやっている。
 さてエレベーターに乗るときはともかく、問題は乗ってからだ。
 通過儀礼を行うには、ガラス張りの外に背を向けなければならない。
 だから、誰かがワゴンから顔を上げてこちらを見ても、ぼくには分からないのだ。
 エレベーターの中に入り、しばし外をうかがう。
 ――頃合だ。
 各階数のボタンを、一階を三度、二階を二度、そして図書券をスリットに……。
 財布が、ない。
「……へえー、そうなっているんですか?」
 固まったぼくの背後から、少女がそう問いかける。
 ぼくがふり向くと少女がにこ、と妖しく笑う。
「…………きみは誰だ?」
「申し遅れました……」
 少女は妖しく笑った。
「……わたくし読仙社の紙使い、ミシェール・チャンと申します。以後、お見知りおきを」
789749:04/11/09 23:05:15 ID:ke97BUB3
 まねき猫が、『トト・ブックス』の店先でわたしたちに挨拶をする。
「……なぜ財布だと?」
「改札を出て、階段をのぼりながらあなたは財布のなかみを確認なさいました。あれはあきら
かに無駄な行為でしたので……その図書券を確認なさったんでしょう?」
「……金があるかどうかを確認したかもしれない」
「それは切符を買うときにわかるはずですわね。それに、もしそうならば露店をひやかした際に
なさるはずですわ」
「……露店をひやかしたのは、あれは無駄な行為ではないのかい?」
 あら――。ミシェールは妖しく笑った。
「それは当然のことですわ……それより、早く入りませんこと」
 気を取り直してぼくは『トト・ブックス』へと足を踏み入れ、嬌声をあげるミシェールを尻目に
親父さんに挨拶をする。
「やあ、マイケル。元気そうだね…………盛況ですね」
「…………なに、不景気さ」
 会計の奥に座る老人は、こちらに背を向けたまま無愛想にそう言った。
790749:04/11/09 23:05:55 ID:ke97BUB3
風呂敷は小さくたたむと小さくなってしまいます。
大きくたたむと、わたしの手には負えません。

ですから、ギリギリのところでお送りします。

今回のテーマは、ドニーとミシェールによるペーパーアクションです。
三回にわけてお送りする予定でいます。
二回目までは間をおかずにうPできると思いますが、最終回はすこし手間取るかもしれませ
ん。とりあえずご挨拶まで、どうぞ宜しく<(_ _)>
791名無しさん@ピンキー:04/11/10 16:02:28 ID:/D2dPwwQ
むむむ、、もうちょっと読まないと評価できない……
つづきがんばてください。
792名無しさん@ピンキー:04/11/13 14:08:58 ID:pHJLldBR
国会図書館の女子トイレでぬぬぬを想って手淫するフタナリ読子さんと、
壁ぬけ能力でそれを覗き見てぬぬぬに嫉妬するナンシーさんを想像してハァハァ
793名無しさん@ピンキー:04/11/19 09:14:43 ID:Ym+UrP7t
794名無しさん@ピンキー:04/11/24 04:20:03 ID:8fHpIPKv
読子さんの尻穴を激しく犯して悶絶させながら保守
795749:04/11/26 03:28:38 ID:1KjLVkOI
(・ω・)ノシ それでは送ります。

>>791
読子(偽 「は、はい!がんばりますっ!」
796749:04/11/26 03:29:37 ID:1KjLVkOI
 わたしは夜、星をみる ♯2

『――注意しろよ、夜だぜ」
 同僚の忠告も耳には入らなかった。両手をすっぽりポケットに入れ、頭を後ろへそらせ、顔
は、雲に、山々に、河川に、海に向けたまま、彼はいま無言のまま微笑しだした。それはか
すかな微笑だったが、しかも、あの雲よりも、山よりも、川よりも、海よりも力強い微笑だっ
た。
 ――どうしたんだ?」
 ――あのわからずやのリヴィエールめが……僕がこわがると思っているんだよ!」』
 サン=テグジュペリ 「夜間飛行」

 ――ふにゃあぁぁぁぁ……。
 猫の目は良心的ではない、と言ったのは誰だったか?
 親父さんの禿頭ではなくマイケルを見ていると、なんだか猫と話している気分になるから妙
だ。
「…………似ているな」
「似てるって、誰にです?」
「お前さんがこないだ連れてきたお嬢ちゃんにさ…………あれは傑作だったな……」
 親父さんは青いベレー帽をのせた禿頭を紅潮させて笑った。
「おれがはじめて読んだ本はなんだ?と聞いたら…………言うにこと欠いて母子手帳だと、
それも……それも、どうやら冗談じゃなさそうだ……」
 ふひゃははははは、と親父さんは肩をゆすって笑う。
797749:04/11/26 03:31:10 ID:1KjLVkOI
「ええ、憶えてますよ……本についてはぼくも彼女にはかなわない……だけど、似てますか
ね?」
「ああ、似ているよ…………それにお前さんにもな……」
「……なんだ、それじゃみんな似てるんじゃないですか」
「『みんな』?とんでもない!…………お前さんたちは『特別』なのさ、その『特別』なところが
似ているというのさ……」
「…………待ってくださいよ。そもそも親父さん、ぼくの顔を見たことがあるんですか?」
「見なくても、そいつの性格は話せば分かる…………人間の性格は容貌より、そいつの書
き言う言葉にあらわれるのさ……」
「……………………」
「お前さんが今日連れてきたお譲ちゃんも同じことさ…………なにやら事情はありそうだが」
「…………ぼくたちのことはともかく、今回の件について親父さんはどう考えているんです
か?」
「…………アメリカだろうな……」
「なぜ?」
「お前さんとこでなし、『読仙社』でなし……PLO(パレスチナ解放機構)は滑稽だ……フラ
ンスでもない……そしてレバノン沖で問題の船に便宜をはかれる力のある組織、あるいは勢
力……」
「……………………」
「……トルコからシリアにかけて力を揮える国家……イスラエルならばその能力はあるだろう
が、それではこの『ロゼッタ』号の馬鹿な長旅には説明がつかなくなる……」
「PLOの例の声明ですが、やらせだろうという意見が特殊工作部では主流です。しかしCI
A(中央情報局)中東課の連中が有り難いことにリストを提供してくれましてね……なるほ
ど確かにやりそうな奴らばかりです。滑稽だと分かっていても検証せざるを得ません。特殊工
作部はその調査のためにだいぶ人数をさいています」
「……陽動だと分かっていても、それに乗らざるを得ない?」
 ぼくは肩をすくめて笑う。
「ええ……なにせレバノン沖での荷物の積み降ろしを、我われは見落としてしまいましたか
らね。しかし、なぜフランスやドイツから直接持ちださず、こんな回りくどいことをしなければな
らないんですかね?」
798749:04/11/26 03:31:57 ID:1KjLVkOI
「さあな……それじゃ見え透いてるからじゃねえのかな。それに船旅は時間がかかる……時
間がかかればその間にいろいろと用意ができる……連中、この日本でなにか仕掛けるつもり
だろうよ」
「…………でしょうね」
「日本で仕掛ける利点はふたつ。そのひとつは『呪いの書』とやらが、それで完全にロストして
しまうこと、もうひとつは横田や横須賀が使えること……そこまで持ち込めばあとはノーチェッ
クだ……なんでもできる」
「香港の『読蛇』や横浜の華僑を使って、いろいろと小細工もしていますよ」
「……表向きはいかにも『読仙社』の仕業です、ということにしてな……みえみえの嘘でもお
れは知らないと言うことができればそれでいいと……まあそんなところだろうな」
 ――かもしれませんね。ぼくがそう言うと、親父さんはお茶をひと口すすって。
「…………それにしても、度し難い話しだ。たかが古文書の束ひとつで何人もひとが死ん
で、しかも国家がらみときた……その『呪いの書』てえのはいったいどんな代物なんだ?」
「さあ……シリアのキリスト教寺院跡で発見された、ネストリウス派の伝道記録だといわれて
いましたが…………内容については我われも知りません」
 やはり肩をすくめて、ぼくは親父さんに嘘をつく。
「…………そうか、なら訊かないことにするさ……くわばら、くわばら」
 勘のいいひとだ――……。すみません、親父さん。
 この借りはいずれ精神的にお返ししますから。
「…………それで連れのお譲ちゃんはどうしているんだ?ずいぶん静かになったようだ
が……」
 そういえば、そこらをくるくる廻りながら嬌声を上げていたミシェールがだいぶ静かになった。
 まさか興奮して卒倒したりはしてないだろうが……。
「それにしても、お前さんだいぶ年下にはもてるようだな…………いや、結構なこった」
 親父さんが肩をゆすって笑うと、マイケルがふにゃあ、と鳴いた。
 やめてくださいよ――。ぼくは仄暗い店の奥にミシェールをさがしに行く。
799749:04/11/26 03:33:07 ID:1KjLVkOI
 蛍光灯が明滅する店内を奥に向けてすすみ、本棚にあたると左へ七歩。
 そこに彼女がいる。
 見ればミシェールは床にぺた、と尻もちをつき足を前になげだして、頬を上気させてだらし
なく口を開けている。
「ああ…………なんですの?この店は……シェイクスピアの『フォリオ初版』なんて、はじめて
見ましたわ……」
 彼女の口から、ながく糸をひいてよだれが垂れた。
 息があらい。
「……………………」
 ……なんなんだ?この娘。
「…………ぼくはそろそろ帰るよ。機会があったらまた逢おう……それじゃ」
「!?…………やあっ!!」
 ――……やあっ!!じゃない。
 やめろ、はなせ!!
 ぼくは転びそうになる。
 彼女はぼくにしがみついて、ふるふると首を振る。
 そして捨てられた子猫が哀願するように、目を潤ませてぼくを見つめる。
 そんな目をするな!
 だからそんな目でひとを見るのはやめろ!!
 ――わかったよ、わかった!!それじゃまちを案内してあげるよ!だから……。
「…………本当に?」
 ――本当に!だから放してくれ!!
 すると彼女はぱああ、と目をかがやかせて、子供らしく勢いよく立ちあがる。
「ならば参りましょう。青い鳥はすぐそこですわ!」
「……………………」
 ミシェールはぼくの手をひいて歩きだす。
800749:04/11/26 03:34:30 ID:1KjLVkOI
「…………ちょっと待って……」
 さきほど彼女が座っていたところの、うえから四段目の棚から一冊抜き出してひろい読みを
する。
 Jack Miles,『God:A Biography(神の伝記)』……。
 ……この本は手になじむ。
 本の表紙を隅々までながめて、ぼくはつぶやく。 
 ――……間違いない。
 これはぼくに『探されていた』本だ……――。
 その本を手にして、ぼくはミシェールに手を引かれて明るいほうに向かって歩く。

 時刻は、もう昼にちかい。

「早く!もう行きますわよ〜」
 ミシェールは逸りたった競走馬のように地団駄をふむ。
「二千円……今日はお祭りだ。千五百円でいい……」
 ――そうですか。
 ぼくはマイケルから受けとった領収書を懐にしまいながら訊く。
「……今回も例の口座でいいですか?」
「……………………」
「……それじゃ世話になりました。近いうちにまた寄りますよ」
「おい!いいか……『それ』はうちには決して持ちこむんじゃねえぞ……おれはそんなもの消
毒済のサオをもたされても触りたくはねえからな」
「…………分かっていますよ」
 苦笑してぼくは答える。
 ――それからな。
 外で口をとがらせている彼女に向かって歩きだすと、親父さんがつぶやく。
「…………無茶するんじゃねえぞ」
 ……本当に、勘のいいひとだ。
 ぼくは苦笑をする。
801749:04/11/26 03:35:22 ID:1KjLVkOI
 ぼくたちはすずらん通りをぶらぶらと歩く。
「この書店は『書肆アクセス』といってね……地方の自然や郷土史についての本が多い、と
いうのもこの店は地方・小出版社の本を専門に扱っていてね……ぼくは残念ながらあまり
利用しないけど、この店の姿勢には頭が下がるんだ。この通りを歩いていて、ここが営業して
いると、ぼくはホッとするん……だよ…………?」
 彼女がいない。
 ミシェールはどこへ行った?
 !?――……財布!!
 『書肆アクセス』に向かって、ぼくはあわてて走る。
「…………ください……」
 ミシェールの目は妖しくかがやく。
「…………はあ?」
 店員はけげんな顔で彼女を見つめる。
 みれば彼女ははげしく発汗し、その息はあらい。
「……全部ください…………」
「……………………」
「なんでもないんです!」
 店に駆け込んだぼくは彼女をうしろからはがい絞めにすると、猫のように身をくねらせて抵
抗するミシェールを引きずりながら、出口に向けて後ずさりする。
「なんでもないんですよ!……この娘、すこし頭があれなんで……いや!お騒がせしました」
 うでを彼女に咬みつかれてぼくは悲鳴をかみ殺す。
 この娘…………どうしてくれよう!?
802749:04/11/26 03:36:55 ID:1KjLVkOI
 『古書かんたんむ』の前で、ミシェールは大声をだす。
「あなたはひどいひとですわ!畜生です。鬼のようです!……可愛らしい少女に本の一冊
も買い与えられない甲斐性なしなんて死んだ方がマシですわ!……あなたなんて消えてな
くなってしまえばいいのに!!」
 ――……きみ、さっき『全部』とか口走ってなかったか?
「…………とにかく、財布をかえしてくれ!」
 ぼくは財布の中身をたしかめてから懐にしまう。
 ……まったく、どうやって抜くんだ!
「……………………」
「なんですの?」
「……いや、なんできみはジャージなんだい?」
 ――それも、あずき色の。
 胸の名札には、みしぇーるとひらがなで書いてある。
「……変ですか?」
 ――いや、そうでもないさ。ここが田舎で、きみが部活のあとで帰宅する中学生ならね。
803749:04/11/26 03:37:49 ID:1KjLVkOI
 ぼくがそう言うと、彼女はみるみる顔を蒼くして。
「!そんなっ!?日本では制服を脱いだ学生はみんなこの格好だって、連蓮姉さまに教わ
ってきたのに……」
「……………………」
 『読仙社』にもだいぶいい性格の人物がいるらしい。
 ぼくの友人と、きっと気が合うことだろう。
「……ああっ!!ナゾの美少女として、さっそうと登場したはずなのに!……」
 なにがナゾの美少女だ!いいからよだれを拭け!!
 それにしても恐ろしいのは、この娘が本のつまった紙ぶくろを三つさげていることだ。
 そのすべてがぼくの嚢中から出ていることは特筆すべきだろう。
 本当に恐ろしい娘だ……。
 ぼくは戦慄をする。
 そろそろこの辺で、と言い出しかねていたが…………頃合いかもしれない。
 ぼくは口をひらく。
「なあ、ミシェール。そろそろ……」
 ぐぐぅ〜〜きゅるる〜〜。
「……………………」
「……お腹が、すきましたわ……」
 頬をあかくしてミシェールはちら、とぼくを見る。
 殴りたい。
 ぼくはいま、たしかにそう考えた……――。
804749:04/11/26 03:39:03 ID:1KjLVkOI
 今日も『キッチン南海』は混んでいる。
 店の外で待っているひとびとのうしろにぼくたちは並ぶ。
 すると店のお姉さんが外に出てきて、色違いのフダを繰ってすばやく注文を聞いていく。
 プラスチックのフダの色はメニューによって異なっているらしい。
「カツカレーで」
「…………わたしもそれで」
 ぼくたちはやがて暖簾をくぐり、声がかかったので相席のテーブルにつく。
 目の前には紙ナプキンでくるんだスプーンとお冷が置かれ、厨房をながめると四人のコックが
目配りもするどく働いている。
「……待つんですか?」
 ミシェールはせまい店内をみまわして言う。
「いや、すぐ来るよ」
 相席のふたりは学生と上着を脱いだ若いサラリーマン。
 ふたりはただ黙々とスプーンを口に運んでいる。
 ぼくの前にカツカレーが運ばれてかたり、と音をたてると、その場には湯気がたつ。
 ゆびをくわえるミシェールに「お先に」と声をかけてから、ぼくはカレーを口に運ぶ。
 『キッチン南海』のカレーは黒くてさらりとしている。
 千切りされたキャベツのうえに、細く切られたカツがのせられ、カツにはルウが半分ほどかかっ
ている。
 カレーの味はからいというよりは苦くて、カツをかむと甘い。
 だからカツを先に片づけると、カレーのからさにあとで泣くことになる。
 ……スプーンでキャベツをすくうのは骨だが、そこを器用に片づけて鼻の先に汗をうかべな
がら食べる。
805749:04/11/26 03:40:06 ID:1KjLVkOI
 ぼくが半分ほど平らげたころ、ミシェールの前にもカレーが運ばれてかたり、と音をたてた。
 びんの福神漬をつまんで皿にのせてやると、彼女は「ありがとう」と素直に言った。
 彼女は「いただきます」と言ってからカレーを一匙すくって口に運ぶ。
 そしてミシェールが「おいしい!」と大声でつぶやくと、店内の皆が一斉にこちらを向く。
 ミシェールは口をおさえて、きょろきょろと周りをみまわす。
「……わたし、なにかまずいこと言ったかしら?」
 相席のふたりが口元に笑みをうかべている。
 おかしいので、ぼくも笑った。
 そりゃおいしいよ。
 うまいからみんなここに来るんだ。
 ……だけど。
 だけどこの場でうまいと言ったやつを、ぼくははじめて見たよ。
 だからぼくも笑う。
806749:04/11/26 03:41:10 ID:1KjLVkOI
 今日はお祭りなので、すずらん通りの書店は店先に文庫本をならべたワゴンを出す。
 歩道に置かれたワゴンにならんだ文庫本を読みながら、ふたりは会話をする。
「…………釣れなかったみたいですわね」
 ミシェールはハヤカワSFの『人間以上』をワゴンに戻して、『ソラリスの陽のもとに』を手にと
って読む。
「…………なにが?」
 ドニーは『百億の昼と千億の夜』を読みながら、それを買ったものか悩んでいる。
 かれはすでにそれを所有しているのだが、いまは読むためにそれを買いたいと考えている。
 ところがそうした買い物をすると、自分のことを棚にあげて小言をいう女性がいるのである。
 そのことがかれを逡巡させる。
「『トト・ブックス』から、特殊工作部のエージェントが日本に滞在していると情報を流していた
でしょう?……成果がなさそうでしたので、思ったところを口にしただけですわ……それにし
ても……」
 ――ずいぶん自信家でいらっしゃるのね。
 『ソラリスの陽のもとに』を読みながらミシェールは言う。
「時化だね……海が荒れてるとみえる」
 ……二週間待ったが当たりはない。
 魚がいないか、その気がないか。
 前者はありえない。
 とすれば奴らの台本に、ぼくにもなにかの役が振られているのだろう……。
807749:04/11/26 03:41:50 ID:1KjLVkOI
「……きみは自信家と言ったが、このままではぼくは相手が準備万端ととのえたなかに飛び
込まなくてはいけない。『ロゼッタ』号が日本に着けば嫌でもそうなるんだ。それよりぼくとして
は相手に喰いついてきてほしかったんだよ……柔道の手とおなじさ、動いてくれれば足をすく
うこともできる……せめて相手の正体が分かればいいと思ったんだけどね」
 ――決して自信家なわけじゃない。
 ドニーは『百億の昼と千億の夜』に加えて『たそがれに還る』 『喪われた都市の記録』をワ
ゴンからぬき出す。
「ぼくのことはともかく、きみはどういうつもりなんだ?素生をあかした以上、きみはぼくの敵な
んだよ…………きみたち読仙社と闘ってたくさんの仲間が死んだ…………ぼくたちはそうい
う間柄なんだよ」
「…………それはお互いさまですわ」
「きみの目的はなんだ?」
 ミシェールはドニーをちら、と見て妖しく笑う。
「…………あなたとおなじですわ。ドニーさん……」
 ドニーはミシェールを見て、目を細めて笑う。
「馴れあいはここまでにしよう、ミシェール……つぎに逢うときはきみを殺さないといけない」
 ドニーは不敵に笑ったつもりだが、ミシェールには悲しげな微笑に見えた。
 三冊の文庫本をさげてドニーは店に入る。
 支払いをすませて外に出ると、彼女はもういない。
808749:04/11/26 03:43:12 ID:1KjLVkOI
 黄昏時。
 花に満ちた温室で、ひとりの老人が考えごとをする。
 四季をつうじて花にあふれたこの温室はうつくしい。
 だがしかしこの花園はひとびとに恐れられる場所でもある。
 老人の招きをうけてこの花園をおとずれるものは人生が変転してしまう。
 ひとは『神』さまを見たいと願うことはあっても、お近づきになろうとは思わない。
 理解をこえたものは凡俗の身には恐ろしい。
 その老人はたいへん長生きしたおかたで。
 遠い遠い。
 むかしむかし。
 そのかたは喩え話ふうに。
 或るときはプロメテウスと呼ばれ。
 また或るときはアダムと呼ばれていた。
 そのかたは或るときは誰よりも貧しく。
 また或るときは王の王と呼ばれていた。
 いまそのかたは『紳士』と呼ばれて花園でひとり考えごとをする。
 その顔は花壇を向いているが、その目は花を見ない。
 見ようとしなければ、花は見えない。
 ……もしかしたら『紙使い』は……。
 『紳士』は花園でひとり夕陽をあびて考えごとをする。
 車椅子にすわるようになって、かれはいよいよ老いを感じるようになった。
 ……もしかしたら『紙使い』は、わしの良心としてはたらいていたのかもしれん。
 『紙使い』と言うときに『紳士』の脳裏にうかぶのはどうかすると数代まえの『紙使い』であっ
たりする。
 かれの膨大な記憶のなかに、ドニー・ナカジマのすがたは混沌として消えてしまった。
809749:04/11/26 03:43:57 ID:1KjLVkOI
 ……もしかしたら『紙使い』は、恣意的な良心にしたがってはたらいていたのかもしれん。
 …………『売女』めが……『あれ』はわたさんぞ!……『あれ』はわしのものだ……。
 『紳士』の思念はまことに取りとめがなくて。
 その取りとめのないことを、ひまにまかせて考えるのだから恐ろしい。
 …………これまでのことは良い。
 わしは寛大にも、それを冗談として笑ってやってもよい。
 だが、今回の件で奴が『呪いの書』を持ち帰らなければ……。
 ……わしは奴に罰を与えねばならん。
 『奴』と言うときに『紳士』の脳裏にうかぶのはどうかすると数代まえの『紙使い』であったりす
る。
 かれの膨大な記憶のなかに、ドニー・ナカジマのすがたは混沌として消えてしまった。
 …………『グーテンベルク・ペーパー』がようやくドイツで見つかった。
 その真贋はまださだかでないが、それが本物であるとしたら……。
 今回の件でドニーが『呪いの書』を持ち帰らないとしたら……。
 …………奴に『グーテンベルク・ペーパー』を任せるわけにはいかん。
 そのときは…………。
 …………わしはドニーに罰を与えねばならん。
 『ドニー』と言うときに『紳士』の脳裏にうかぶのはどうかすると数代まえの『紙使い』であった
りする。
 かれの膨大な記憶のなかに、ドニー・ナカジマのすがたは混沌として消えてしまった。
 ……もしかしたら『ドニー』は、わしの良心としてはたらいていたのかもしれん。
 かれは花園でひとり夕陽をあびて考えごとをする。
 『紳士』は花を見ない。
810749:04/11/26 03:44:41 ID:1KjLVkOI
 夜のJR渋谷駅、駅前交差点の前は今日もひとで埋まり、それにゆきかう車の騒音。
 ……音声の変換をしているのと、掛けた先が遠いので通話が困難なのではないか?
 駅を出て右側の、交番近くの公衆電話ボックスでぼくはすこし心配をする。
「…………やあ、ジョーカー。ドニーだ……船は?……予定通り横浜港に……いよいよ来
たな。それでどの埠頭だ?…………そうか……動きは?……それで『ロゼッタ』に張り付い
ていた米軍の原潜は?……横須賀に……そうか…………!?アメリカ議会図書館で…
…盗難が?…………リドリーを……コール上院議員の要請で…………ああ……ああ…
…分かった。サポートがなくてもうまくやるよ……今夜だ!朝までに『ヴィクトリアス』を横浜港
に回しておいてくれ……それにしてもコールね。いや、きみも大変だな……ああ、分かった、
それじゃ」
 特殊工作部の備品を通話口からはずして懐にしまうと、電話ボックスを出て足早に渋谷
駅に向かって歩く。
「さて、今夜は忙しくなるな…………」
 ぼくは歩きながらそうひとりごちた。
811749:04/11/26 03:45:23 ID:1KjLVkOI
 滞在先のホテルシーサイドビュー横浜で軽く食事をして部屋にもどる。
 ……フロはやめておこう。どうせ夜中には港で運動をしなければいけない。
 最近、朝晩はだいぶひえこむのだから、それで風邪をひいてはつまらない。
 『トト・ブックス』で買った本を手にすると、ベッドに倒れこんで枕元のライトをつける。
 ……シングルで予約したはずなのだが、なぜかダブルの部屋だった。
 まあそれもいいだろう。ぼくの懐はいたまない。
 マリアンヌもまさかこれくらいでとやかくは言わないだろう。
 ぼくはベッドの上でひじを立ててうつ伏せになると、『神の伝記』のページを開く。
 キーノート『イメージとオリジナル』を読み終えると、序幕にはこう書いてある、曰く『神の生
涯は描き得るものか?』……――。

 ――……それにしてもジョーカーも可愛そうに。
 この苦悩が、はたして胃にくるか?心臓にくるか?それとも頭にくるか?
 頭をかきむしりたくても、髪のみだれを極端にきらうぼくの友人にはそれができない。
 ジョーカーの頭髪についてはともかく、『ロゼッタ』号がレバノンで降ろした積荷のなかに『呪
いの書』はなかったことが確認できた。また例の武装強盗によるフランスでの書庫襲撃事件
も、CIAがリストアップした連中とは関係がなかったようだ。
 ……もっとも、それはもはやどうでもいいことだ。
 『敵』の意図はいまやあきらかだ。まずレバノンでの調査で我われを分散させ、そして日本
でぼくをサポートするはずだったリドリーたちは、いまワシントンDCに向かっている。
 これでぼくは孤立してしまった。
 アメリカ議会図書館の稀覯本数百冊となれば、出自の怪しい『呪いの書』などは比較に
もならない。
 しかも、これは合衆国政府からの正式な捜索依頼なのだ。
812749:04/11/26 03:46:02 ID:1KjLVkOI
 コール上院議員か……野心家で実力もある男だが、これだけのことを構えるには役が足
りない。
 上をたどれば、あるいは閣僚や大統領の名前も出るのかもしれない。
 ともかくこれで『敵』の正体はかいま見えた。
 みえみえの嘘をついて恥じないその厚顔ぶり。
 さすがにアメリカは大国だ。
 敵は敵として振舞ってくれるほうが始末にいい……ぼくはふとミシェールのことを思いだす。
 敵に味方づらされるのは具合がわるい。怪しい手合いを味方として扱わなければならない
うえに、こちらは知っているぞと匂わせたが最後、そいつはなにをしでかすか分からない。
 ……それにしてもジョーカーも可愛そうに。リドリーのワシントン派遣には部内でただひとり
頑強に抵抗したらしい。
 その若さと性格ゆえにかれには敵が多い。
 しかしジョーカーには類いまれな演算能力――応変の才がある、指揮官向きだ。
 『紳士』の覚えがめでたければ、いずれはかならず責任ある地位にのぼるだろう。
 それにかれは執念ぶかい。『敵』はやがて煮え湯をのまされることだろう。
 ……すこし寝ておくか?
 これから数時間あとには孤立無援で八面六臂の活躍をしなければいけない。
 ぼくはひとつあくびをして、『神の伝記』のページを閉じる。
 ……なかなか面白い。著者によれば、『神』のイメージは変遷するものらしい。
 この著者が『紳士』とお近づきになったとしたら、はたしてどんなものを書くだろうか?
 枕元の時計は午後七時を表示している。
 窓の外では風が鳴る、外はいかにも寒そうだ。
 港ではぼくの『歓迎委員会』が身震いしていることだろう。
 さて――。ライトを消して、ぼくは眠る。
813749:04/11/26 03:46:37 ID:1KjLVkOI
 もえさかる炎のなかで。
 読子が泣いている。
 ああ読子。
 そんな顔をしないでおくれ。
 どうか、お願いだから。
 ぼくは声がでない。
 ぼくが悪い。
 たしかにぼくは不器用でだらしがない。
 だけど。
 だけどきみにそんな顔をさせるような。
 そんな悪いことはしていないつもりだ。
 読子は声をあげて泣く。
 困ったな……。
 どうすれば彼女は泣きやむだろう?
 そうか……。
 笑えば。
 笑えばいいのかな?
 ぼくは笑う。
 だから泣きやんでおくれ。
 読子、読子……。
814749:04/11/26 03:47:13 ID:1KjLVkOI
 ひどい寝汗をかいて、ぼくはじぶんの声で目を覚ます。
 ……最近よくへんな夢を見る。
 彼女と出逢って、ぼくは臆病になったのかもしれない。
 ……リビアの砂漠で遭難したサン=テグジュペリが、彼の愛するひとびとを思って、砂漠の
まん中で『ぼくらこそは救援隊だ!』と叫んだ気持ちが、いまのぼくには理解できる。
「…………死にたく、ないな……」
 両手でごしごしと顔をこすって、ぼくはつぶやく。
 ふと耳をすませば、遠くで川のせせらぎの音がきこえる。
 ――…………!?
 バスルームの方を見やると、ドアの下からかすかに灯りがもれている……。
 ふわり、と音もなくぼくはベッドからおりて立ちあがる。
 音のしない動作は訓練のたまものだ。
 黒の上着のそでを手繰って、紙をつまみ出して身構える。
 着たきりスズメには意味がある。
 読子は……。
 ぼくは苦笑をする。
 読子はいろいろと小言をいうがこれは必要なことなのだ。
 ……ようやく来たな。
 このタイミングで仕掛けてくるか。
 脅迫か?懐柔か?それともここで勝負をつけるつもりなのか?
 いいだろう……とにかく話しだけは聞いてやる。
 あとのことはそれからの話しだ。
815749:04/11/26 03:47:56 ID:1KjLVkOI
 壁に背を向けて張りついて、バスルームと出入り口のドアをちら、と見てすぐに頭をもどす。
 誰もいない。
 あとはこの壁の向こうのバスルームだが……はて?
 シャワーの音は続いている。
「……………………?」
 ぼくは壁に張りついたまま、ちらりちらりと顔をだして、下から灯りのもれるドアをうかがう。
 ……この違和感はなんだろう?いまやすっかり目覚めた頭で考えると、どうもおかしい。
 もの慣れた襲撃者が仕事の前に物音をたてることはまずありえない。
 じぶんはフロを使っていない……これは確かだ。まさかここで怪談話でもあるまい?

 ……数分がすぎた。
 こうしていても仕方がない。
 ぼくは物音の正体を確かめるべく壁づたいにバスルームのドアまで行き、後ろ手にドアのノ
ブを……。
816749:04/11/26 03:48:33 ID:1KjLVkOI
 ……おフロ、おっフロ〜〜♪…………

 ドアは独りでに開いて、ミシェールがそこにあらわれる。
 全身に湯気をまとって、濡れたブロンドの髪は栗色にみえた。
 細かな水滴がその肌をすべり、白磁のような肌は上気してピンクに染まっている。
 水滴はからだのわりにおおきい、かたちのよい乳房をつう、と幾筋もすべり、そのかたちのよ
い乳房のさきには赤くて可愛らしい乳首がある。
 水滴のすべるへそのよこにはなめらかな肋骨がみえ、灯りを背にした彼女の腰はやわらか
な曲線を描いてそのすらりとした脚のつけねには、うっすらと恥毛におおわれたふくらみがみえ
る。
817749:04/11/26 03:49:20 ID:1KjLVkOI
「………………………………」
 彼女は手に持っていたタオルでからだをおおって、その場にぺた、と尻もちをついて弱々しい
悲鳴をあげる。
「…………やあっ!!」
 ――……だから、やあっ!!じゃない……。
 彼女はしりもちをついたまま、ぼくを見上げて言う。
「……ひ、ひとを呼びますよ……」
 …………ひとを呼びますよ、じゃない!それはぼくの科白だろう……。
 ――なにをしている、という言葉がうまく出てこない。 
 ぼくはただ陸にあがった魚のようにくちをぱくぱくさせるばかりだ。
 ごくりという音がじぶんでも驚くほどおおきく聞こえて、それが彼女に――ミシェールに聞こえ
ていなければいいのだが……。
 ぼくは彼女から目をそらすと、あわててドアをしめる。
 ――……ごめんよ、だ、だけどなんでここに……この部屋にいるんだい?
 われながら情けない声だ。
「この国では未成年者を泊めてくれる宿がありませんので……野宿ではこのごろさすがに寒く
て……おフロだけでもいただきたいと思ったんですが……」
「……どうやって部屋に入ったんだ?」
「『紙』で……部屋はフロントで教えてもらって……」
 ――とにかく……とにかく服を着てくれ。それからくわしい話しを……。
 フロントで教えてもらって?
「ミシェール、なぜフロントがきみに部屋を教えるんだい?」
「さあ……わたしがあなたの『恋人』だと告げたら教えてくれましたわ」
 !!――……恋人!?
「ミシェール!それはどういう……」
 だしぬけに部屋の電話が鳴り、同時に出入り口のドアが規則正しくノックされる。
818749:04/11/26 03:49:58 ID:1KjLVkOI
「ドニーさん……ドニー・ナカジマさん、居られますか?神奈川県警のものですが……事情
を伺いたいことがあるんですが……ドニーさん、居られますか?……」

 ドアは規則正しく、三度ずつノックされ続ける。
「は〜〜い、ただいま!」
 ミシェールは素肌のうえに『We are Mother Fucker』とロゴの入ったTシャツを着て、下
はパンツを穿いただけのすがたで、バスルームからひょいと顔をだすと外に向かって返事をす
る。Tシャツが肌に張りついて、彼女ははだかでいる以上にセクシーだった。
 ……ぼくにとやかくいう権利はない。それは確かだがそのパンツの色は……お兄さん、黒い
パンツだけはこの場では穿いて欲しくなかったな……。

 執拗なノックの音と電話が鳴り響くなかで、ぼくはいま、どうやら泣いているらしい。
819749:04/11/26 03:53:35 ID:1KjLVkOI
 ――あひぃ〜〜ん、うう、うっ、うっ…………。
 先程から妙な鳴声をあげながら、ミシェールはしきりに頭のコブをさすっている。
 彼女はその青い瞳で、ぼくをきっ、とにらんで言う。
「……あなたはひどいひとですわ!畜生です。本当に鬼です!……いたいけな美少女に
暴力を振るうひとでなしなんて死んだ方がマシですわ!……あなたなんて消えてなくなって
しまえばいいのに!!」
 時刻はいま午後九時半をすぎた。
 彼女のコブは警察の方がたに引きとっていただいたあとに、ぼくが落とした拳骨によるもので
ある。
 『美少女』に暴力を振るうのは、おそらくこれが最初で最後のことだろう。
 ポットのお湯が沸いたので、ぼくはお茶を淹れる。
「…………ほれ」
 彼女にもお茶をすすめて、ふうふうとさましながらひと口すすると、いまの騒ぎですっかり渇い
たのどが潤うのが心地よい。
「ミシェール……警察を呼んだのはきみだね」
「あら!どうしてですの」
 あずき色のジャージを着たミシェールは、ぼくに向かって挑戦的に微笑む。
「先程ぼくはその電話をとった、するとフロントはこう言った――『警察のかたがあなたに事情
をうかがいたいと』……ホテルのひとたちが呼んだならばそんなことを言うかね?」
「呼んだかたと応対したかたが違うのかもしれませんわ……そんなことはよくありましてよ」
「きみは『冗談に悪戯をしたんだ』と言ったね……あれはホテルのひとに言ったのかな?それと
も警察の方にかな?」
「あなたはイジワルなかたですわね……せっかく調子を合わせてあげましたのに」
「ここにきた理由は『ロゼッタ』が今日横浜に着いたからなんだろう。対象のそばにいた方が監
視をするには具合がいい……違うかい?」
「知りませんわ……わたしはおフロとあたたかいベッドが恋しかったともうしましたのに……」
820749:04/11/26 03:55:01 ID:1KjLVkOI
 ――……それにしても。
 ミシェールはふうふうとお茶をすすりながらぼくを見る。
「わたくし、数年前に生き別れたあなたの腹違いの妹でしたのね……すこしも知りませんで
したわ」
 感にたえぬというふうに、込み上げてくる笑いをこらえながら彼女は言う。
「可笑しい!あのときのあなたの顔といったら……しきりにわたしに目配せをして……」
「……きみがぼくのところに居ることは、ホテルのひとたちだけじゃなく警察も知ってる……これ
ではきみをどうこうするわけにはいかない……ミシェール、きみは恐ろしい娘だね……」
「…………先程から違うともうしてますのに、わたしはそんな計算高い女じゃありませんよう」
 ……どうだか、この部屋がダブルベッドなのもきみの所為ではないのかい?
 そう言いたいところだが、しかしそれでは電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのもみんな
『読仙社』の所為ということになってしまう……。
「もうし……どこに行きますの?」
「なに……シャワーを浴びようと思ってね。いまの騒ぎでだいぶ汗をかいたからね…………覗
かないでくれよ?」
 ふと思ったことをぼくは口にする。
「……………………覗いて欲しいんですか?」
「…………ぼくはそんなまわりくどい行為で快感を得ようとしたことはないよ」
 この忌まわしいドアを閉めると、ぼくはシャワーを浴びる。
821749:04/11/26 03:56:17 ID:1KjLVkOI
 灯りを消したので部屋は暗い。
 ミシェールはベッドから顔をあげると、床のうえで毛布をかぶって横になるぼくを見て眉をしか
める。
「……あなたは嫌味なかたですね。一緒に寝ればいいじゃありませんか……あなたがしっか
りしていれば、間違いは決して起こりませんわ……」
「そうだね。確かにこれはぼくの問題だ……だから放っておいてくれ」
「…………知りません!もう……」
 ぼふ、とまくらに倒れこんだので、彼女はぼくからは見えなくなった。
「……明日は早いようですわね」
「なぜだい?」
「いい若い男が夜の八時から寝ている理由はほかには考えられませんわ……ずいぶんうなさ
れていたようですけど」
「…………きみにはかなわないな」
 言葉が途切れたので、ぼくたちは黙る。
822749:04/11/26 03:57:18 ID:1KjLVkOI
 ――……ねえ、ドニーさん。
 あらたまってミシェールは訊く。
「…………なんでこの仕事をしているんですか?」
「……きみはなんでこんな仕事をしているんだい……?」
「…………本が好きなので、本に関わる仕事をしたいと思いましたの……」
 ――……馬鹿々々しい!!
 読子のことを思いだして、ぼくはたまらなくなる。
「もうきみは分かっているんだろう?これがどんな仕事なのか……もしも時間が戻せるなら、
ぼくは決してやらないよ……」
「……………………」
「悪いことは言わない、こんな仕事は早くやめるんだね……これはきみを子供あつかいして
言ってるんじゃないんだ……」
 言葉が途切れたので、ぼくたちは沈黙をする。
 これはあのとき彼女にぼくが言えなかった言葉だ。
 かるい既視感にとらわれて、だからぼくは、あのときと違う言葉を口にしなければいけない。
 長い沈黙のあとで、こんどはミシェールが口を開く。
「……………………ドニーさん……」
「……なんだい?」
「今日は楽しかったですわ……」
 彼女のすがたは見えないが、ミシェールはそう言った。
 窓からは星が見える。
「お休みなさい……」
「……お休み、ミシェール」
 ぼくたちは目をつむる。
823749:04/11/26 03:58:15 ID:1KjLVkOI
 暗い部屋のなかで、ミシェールがおもむろにつぶやく。
「……………………起きてます?ドニーさん……」
「…………眠れないのかい」
「ええ……知らないひととお泊りをするのは久しぶりですので……」
「実はぼくもあまり眠くない」
「あなたは先程眠っていましたもの…………ねえ、ドニーさん」
「なんだい」
「読子さんてどんなかたですの?」
「…………なぜだい?」
「先程うなされていたときに、うわ言でその名前を呼んでいましたので……」
「……………………」
「ねえ、どんなひと、ですの……?」
 ミシェールはベッドからからだを起こして興味津々といったふうに訊く。
 困ったな……。
「……本が好きでね……おしゃべりで、ぼくに本の感想をそれこそ一日中でもしゃべるような
女性だよ……」
「まあ、お似合いですわね……うらやましいですわ」
 ――御馳走さま。
 部屋が暗いのと、まくらから顔を上げていないので、彼女はぼくがどんな顔をしているか知ら
ない。
 暗い部屋のなかで、ぼくはおもむろにつぶやく。
「…………ぼくたちは出逢うべきではなかったのかもしれないよ……」
824749:04/11/26 03:59:21 ID:1KjLVkOI
 彼女はおしゃべりで。
 底抜けのおひとよしで。
 わがままで、よく泣いて。
 だまされやすくて、でも嘘つきで。
 嘘がへたで。
 でも、すごくがんばりやで、努力家の女の子。
 本が好きで。
 どうしようもない。
 ほんとうにどうしようもない女の子で……。

 ミシェールに顔を見られたくなかったので、ぼくは星の見える窓に背を向けてごろりと寝がえ
りをうつ。
 気配がするのは、おどろいた彼女が顔を上げてこちらを見ているからだろう。
「……………………どうしてですの?」
 白い壁を見つめてぼくは答える。
「彼女にはじめて出逢ったとき、ぼくはこの娘の笑顔を見てみたいと思った……ぼくは彼女の
泣顔だけは見たくない……」
「……………………」
「……だけどこんなことをしているからには、ぼくはいずれ死んでしまうだろう。ぼくと彼女では
住む世界が違う……どれだけ話しがあおうと、気持ちが分かろうと、そのさきに進んではいけ
ない……ぼくは彼女と距離を置こうとした……だが、ぼくには、それができなかった……」
 ――どうしてできなかったのか……。
 ぼくは、壁に向かってつぶやく。
 すると部屋を沈黙が支配する。
 長い沈黙は会話を終わらせる暗黙の了解だった。
「…………ねえ、パリの続きを話してくださらない?」
 空気が変わったころを見計らって、ミシェールは口を開く。
825749:04/11/26 04:00:19 ID:1KjLVkOI
「パリの続きというと……?」
「メトロでお話しをしたじゃありませんか」
「ああ、そうだったね……続きねえ…………ミシェール、きみは『生きる』ということをどう考え
ているのかな?」
「また答えづらい質問ですわね……子供の人生哲学に興味があるとも思えませんし……」
「いや、別に意地わるで訊いたわけじゃないんだよ……ただ……もしかしたらきみは、生きる
ということを『死ぬまでの時間』のことだと考えているんじゃないかと思ってね」
「…………どうしてですの」
「なに、きみぐらいのころ、ぼくがそう思っていたんだよ…………育ちが悪いもんでね……」
 ぼくはあお向けになって、白い天井を見つめる。
 ……特殊工作部の地下訓練施設の『反省房』の天井は灰色だった。
 ――ちくしょう!……なにが『特殊教育的指導』だ、笑わせるな!!
 孤児院の奴らが飢えないようにと売られてきて。
 来たらこんな地獄じゃ泣くに泣けない。
 天井のすみのスピーカーが食事を告げる。
 うるさい!!聞こえてるよ、馬鹿野郎!!
 すこしボリュームを下げたらどうだ!難聴になるだろうが!!
 それで来る食事といえばカビの生えたパンがひとつだけ。
 こいつはなんの冗談だ!だがぼくはそれを食わずにはいられない……。
 ……ちくしょう!……ちくしょう!……ちくしょう!……。
 ……殺してやる……!!殺してやる!!……殺してやるぞ!!……。
 ぼくは声をあげて泣く。
 ぼくは虫けらだ……。

 ここで嬉しいことはただひとつ、本が読めることだけだ。
 孤児院にいたころは、読む時間も買う金もなかった。
 だから、ぼくは泣く。
 ぼくは、本が好きだ…………――。
826749:04/11/26 04:01:36 ID:1KjLVkOI
「…………ミシェール、きみは芥川龍之介という作家を知っているかな……?」
「アクタガワ……?」
「いるんだ……短編小説の名手でね……いまでも読まれる作家だよ。そのなかに『羅生
門』という作品があってね」
「……どんなお話しですの」

 ――ひとりの困窮した男が都大路の門で雨やどりをしていてね。
 当時は地獄のような世相で、地震、旋風、火事、飢饉が続けざまに起こっていた。
 そんな時世に男は主人に暇をだされて生きる当てもない。
 男はもう飢死にするか、盗人になるしかない。
 やがて日が暮れて、寒くなったので男は門の楼にのぼる……。
 するとそこにはひとの屍骸がいくつもならんでいてね。
 そのころ都の正面玄関は死体を捨てていく場所になり果てていたんだ。
 男が楼にのぼると、そこには灯をともして女の屍骸から髪をぬく老婆がいる。
 男は最初おどろいたが、やがて老婆が許せなくなってね……。
 先程じぶんが盗人になろうかと考えていたことも忘れて、老婆を叱ったんだ。
 男がなぜそんなことをする?と訊くと、老婆は髪をぬいて鬘にしようと思ったというんだ。
 ……せねば飢死にするばかりだ、と言ってね……。
 飢死にするか、盗人になるか、老婆の言葉を聞いて男の覚悟はさだまった。
 そして男は老婆に言うんだよ。
 ――『では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ』
 そう言うと男は老婆の着物を剥いでどこかに行ってしまった。
 男の行方はだれも知らない――。
827749:04/11/26 04:02:41 ID:1KjLVkOI
「…………わたしはその男の気持ちが分かりますわ……」
 ――育ちが悪いものですから……。
 どこか物憂げな調子でミシェールは言う。
 彼女がどんな顔をしているのかぼくからは見えない。
「ぼくは子供のころ、この話しを読んで感心したんだよ……ずいぶん気のきいたことをいってい
ると思った…………だが……」
「…………だが?」
「……サン=テグジュペリの『人間の土地』の話しは?」
「うかがいましたわ……」
「ぼくは『人間の土地』を読んで感動した……すると『羅生門』に感心したじぶんが、ぼくは
許せなくなった……なるほど、男の――下人の境遇には同情する……だけどぼくはそうし
た絶望的な境遇にあっても、『引剥をしようと恨むまいな』と言うのではなく『人生万歳!』と
叫びたいと思った……」
「…………理想論ですわ……」
「たしかにそうかもしれないな……だけど『人間の土地』を読んで感じたことの方が、ぼくには
どう考えても本当に思えたんだ……ミシェール、ぼくにとって、それはリアルだったんだよ……
すくなくとも、ぼくは『羅生門』を読んで泣きはしなかった……」

 『僕の買われた金でみんなが飢えずにすむ』
 『ハッ、お前はとんでもないお人好しだな』

 『訓練中の事だ、罪にはならないぜ』
 『いいや罪だ、法がどうあれ規則がどうあれ、僕には罪だ』

 『お前は信じているのか?』

 『僕は本が好きなんだ』
828749:04/11/26 04:03:37 ID:1KjLVkOI
「それに、もういいんだよ。ミシェール……理想だの、現実だの、そういったことはもうどうでもい
いんだ。ぼくは見たんだよ、ぼくは確かに見た……かつてぼくがあこがれ、そうなれたらどんな
にすばらしいだろうと思った存在を、いまぼくは知っているんだ……それだけで、ぼくは幸せな
んだよ……『されど我より後にきたる者は、我よりも能力あり、我はその鞋をとるにも足らず』
……」
 ぼくは暗い部屋のなかで詠うようにつぶやく――。
「…………わたしには分かりませんわ……」
「それでいいよ、分かったふりをするよりもずっといい。ぼくも分かるまで時間がかかった……も
しかすると……」
 ぼくはあお向けに、白い天井を見つめながら言う――。
「きみにも『大切な人』があらわれたら、それが分かるのかもしれないね……さて、ぼくはそろ
そろ寝るとしよう……」
 ――お休み、ミシェール。
 ぼくが目をつむると、世界は暗転する。
829749:04/11/26 04:04:39 ID:1KjLVkOI
 ――ミシェール、ミシェール……。
 暗い部屋のなかで、ぼくは彼女の名前を呼ぶ。
「……………………むにゃ、むにゃ……」
「…………ミシェール?」
「……むにゃ……………………」
 あまりにテンプレートな寝言なので疑ったが、どうやら彼女はほんとうに眠ったらしい。
 ――さて……。
 ぼくの目はさえる。
 仕事だ!
 ぼくは不敵に笑う。
 引剥のように足音を殺して、ぼくは廊下に出る。
 外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。

 今回も急いで慎重に通りぬけなければ。
 天上から、この世を通って、地獄へと。
830名無しさん@ピンキー:04/11/26 18:38:17 ID:Nlz8K4tZ
結構時間経ってるから、投下は終わったのかな?
投下が終わったら、「続く・完」とか入れて欲しい
感想書く人も割り込みかどうか判りにくいので
831749:04/11/26 22:57:19 ID:R+bL6u+7
>>830
ごめん。チカラ尽きて寝てしまいました。

次回から気をつけます。>投下が終わったら、「続く・完」とか入れて欲しい
832名無しさん@ピンキー:04/11/28 21:10:37 ID:bDH2KpTu
(・∀・)イイ!!
833名無しさん@ピンキー:04/11/28 22:25:21 ID:3rA6ptg7
ところで、現在容量が497KB
あと3kbしか書き込めません。
直ちにテンプレを準備し次スレを立てましょう。

もし立てる前に容量を使い切ってしまった時はここで話し合いましょう。
■ エロパロ板総合雑談スレッド・2 ■
http://idol.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1069999953/
834749:04/11/29 00:30:34 ID:4zjGChpZ
(lll゜Д゜)<わー!どうしよう、知らんかった!スレの立て方知りません、どうかエライひと立ててください。
ちゃんとこの続きを書きますし、次はアニタでエロをやりますから……どうか是非!
835名無しさん@ピンキー
新スレ。即死回避を。

R.O.D -THE SS- 2枚目

http://idol.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1101662948/

>>834
スレ終わるからちょっと言うが、自分語りが多いSS書きは時に荒れる元だ。
それと、立て方知らんならいちいち書き込まなくてもいい。

SS書きの控え室 22号室@エロパロ
http://idol.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1101212610/