451です
うp開始します
一応前編、後編、エピローグの三部構成です
では前編
皆悲しんでいる。当然の事。そういう場所だしそういう時なんだから。
でも、僕はそんな気分じゃなかった。
目が開く。
深呼吸、よし。
時間は朝の六時。目覚ましが鳴る十五分前。何時も通りの目覚め。
布団を押しのけて手早く普段着に着替え、カーテンを開いてから台所に足を運ぶ。
朝食を作る。と言っても火を通せばお終いの、簡単な物ばかりだけど。
テーブルに食器を並べて親父を待つ。
親父の出勤は早い。六時半には玄関を出なければならない。
と、我が家唯一の稼ぎ役が居間に入ってくる。その足取りはしっかりしていて、
起きて数分後とは思えない。
「おはよう」
「ん、おはよう」
短い挨拶。それきり沈黙したまま親父は食事を始める。
仲が悪い訳じゃない。もう何年もこうしているから、お互いに言う事もなくなっただけ。
僕はまだ食べない。今食べたら昼までもたないからだ。
「ご馳走さん」
きっかり五分で終了する。立ち上がり、洗面台へ向かう。
僕は使い終わった食器を水に浸し、ついでに仏壇に線香をあげる。
もう一人の住人だった母さんは僕が高校に入る前に死んだ。
急性の白血病。本当にあっという間に死んでしまった。恩返しをしたかったけど、
もう叶わない。その分を親父にしてやりたいけど、それも出来るかどうか。
洗濯機を回して居間に戻ると、ちょうど親父が部屋から出てきた。
鞄を持ってスーツ姿、髪も整っている。
早い人なら額が広くなり始める年だけど、その兆候は全くない。
「気を付けてね」
「ん、行ってくる」
これまた短い会話だ。時間もないし、驚くような事件がある筈もないし。
起きぬけと変わらず全然危なげない歩き。
僕も寝起きが良いのは親父の遺伝か。はたまた生活環境への適応なのか。
どちらかと言えば前者だろう。僕は未熟児で生まれてしまい、理由は忘れたが親父と
血液を交換したのだ。その傷跡はまだある。その行為には長い時間がかかったのだろう。
親父を見送ってから、ようやく食事を摂る。
494 :
名無しさん@ピンキー:04/08/27 12:44 ID:Ko34c+6d
食器が触れ合う音が響く。テレビは見ない。新聞は一応は目を通すけど、
その後は必ずインターネットでチェックする癖がついた。
テレビの反対側に置いてあるPC。2台とも電源は入れっぱなしだ。
食器を洗ってから、右側の一番機のマウスを揺らして定番のサイトを表示させる。
…やっぱり、ウチで取ってる地方紙は偏ってるよなあ。所謂「左」の方へ傾いてる感じ。
ま、それをどうこうするつもりもないけど。どうなると期待もしてないし。
一通り見終わって、右下の青い豆としか表現できないアイコンをダブルクリック。
母さんが死んでからこれを、UDがん研究プロジェクトに参加した。白血病や癌の治療薬を、
世界中のPCを繋いで作り出そうというプロジェクトだ。
母さんの命を奪った病が憎いという事もあるけど、
それ以上に僕のような家事に時間を費やす男子高校生を増やしたくはないし、
何よりも『何かを残せる』というのが一番の理由だ。
サーバーから課題を受け取り、解析が済めば自動的に戻されて新たな課題がやってくる。
その繰り返しで薬が出来てしまうのだ。えらく簡単なカラクリだけど、それ以上の説明もない。
電気代以外の費用は必要ではないし、そして何か物理的な対価を得られる事もないけど。
興味があるならこちらまで→
http://ud-team2ch.net/ 課題の提出回数と、それに付随するポイントは確実に伸びている。
PCはメーカー品じゃない所為か一時期やたらと不安定だったけど、
それも今は落ち着いている。さらに興味半分でCPUクーラーやら電源やらを何度か変え、
随分と静かなマシンになった。
二番機はもう少し値が高くてCPUメーカーが違う物なんだけど、解析の進み具合はあまり変わらない。
人間と同じく向き不向きがあるらしい。
二番機も、止まっていない。よし。
三番機も組んでしまう予定だ。親父は僕に家事を任せきりなのを負い目と思っているらしく、
『財布は預ける。上手く使え』と出費の方針には無関心を決め込んでいる。
それでもまぁ、この二台に関しては一応の説明もしたけど。
…そろそろ時間だな。
洗濯物を脱水にして、部屋に戻って制服に着替える。
鏡を見ながら短い髪に手櫛をかける。くせのある髪は簡単にいつもの形になった。
三度洗濯機の前に立つ。手早くしわしわの洗濯物を取り出して縁側に干す。
男二人だと数えるくらいのものだ。秋も半ばになった。空気が冷たい。
塀の外に黒い髪が覗いている。…もう待ってるのか、早いな。
いかに幼馴染とはいえ、待たせるのは好みじゃない。
ばたばたと小走りで準備を済ませ、玄関をくぐる。鍵、よし。
「おっす」
「おはよ、ひろちゃん」
静かな返事で、相変わらずの『ちゃん』付けだ。
角倉美里。顔はそこそこの造形だと僕は思うのだが、親しい友人から言わせると『かなりの上玉』
だとか。どうしてもそこまでは評価出来ないんだけど、価値観の相違は無くしなければならない!
なんて宗教はやっていない。違うから他人。違わなくなったら自分がなくなる。それだけの話。
癖のないセミロング。頭のてっぺんは丁度僕の鼻と同じ。幼い頃から背丈の関係は全く変わらない。
てくてくと無言で僕たちは歩き始めた。
ここ最近、女の匂いになってきたなぁなどと妙な感慨を持っている。
これまでは半分妹みたいに扱っていたけど、それも改めなきゃならないかな。
こいつとは驚くべき事に保育園からずっと同じ学び舎なのだ。小中高、そして大学も、だろうか。
嫌とは思わないが、良いと肯定もし難いというか。
保育園の頃。美里がひどくいじめられていたのを偶然発見してしまい、
いじめていた連中を力づくで追い返してから何かと関係を持つようになった。
本人もいじめられていたのが積極性のなさだと自覚したらしく、助けた次の日からは明るく振舞う
ようになって、今では結構な人気者である。あるのだが、僕だけには昔と同じ姿を見せる。
猫かぶりもここまで徹底しているなら尊敬すべきかな。
「そうだ」
とある事を思い出す。
「何、ひろちゃん」
「姉御、どうしてる?連絡とかある?」
「お姉ちゃん?…どこにいるんだか」
「ふうん。そうか」
僅かに心配しているようだけど、あの人ならどんな問題も蹴散らすだろうな。
美里には五つ上の姉が居る。
あらゆる事に秀でた才を発揮し、性格も『剛毅』としか例えられないものだった。
背が高く、艶のある長髪に引き締まった美貌。
大学では数々の伝説をぶち上げ、卒業とともに失踪。それでも毎月結構な額の仕送りがあり、その
生存だけは間違いないそうだ。しかし、あの人が似合う仕事は…
正義の味方、万能の請負人、まあそんな所か。
美里に対する評価が高くないのも、多分姉御の所為だろう。
校門を通り、上履きを換える。僕と美里は同じ教室なんだけど、下駄箱は随分と離れているから
ここで肩を並べて歩くのは終わりだ。
「いよう、今日も元気かい?」
「…、そりゃどうも」
唯一と言える友、阿川桂介がばんばんと僕の背を叩く。
ぼさぼさの髪を揺らし、曇る事を知らない眼。珍しいくらいに活気を持つ男だ。
「良いぞ良いぞ!」
人目を気にせずからからと笑い声を響かせるその様は、こいつと縁を切りたいと
思わせるに十分だったりする。
ぐあ、見知らぬ人々が注目している。絶対同類扱いされてるよなぁ…
「おい、早く教室に行くぞ」
「せっかちね、外崎浩史くんは!」
うるせー馬鹿。
ここでやり合うだけ無駄、つーか不利益だ。
しかしまぁ、小学校の頃と変わらないヤツだ。中学は遠い私立に通い、公立高校で再開という
やや変則的なパターンである。
こいつが通ってた中学は県内でもトップ級の学校だったのに、こうして進学校としては二流の
公立高校にいる理由は不明だ。訊くつもりもないけど、何かあったんだろう。
で、教室に到着。
ざわめく級友達の間を縫い、窓際の後ろから二番目の席につく。
続いて桂介が後ろの机についた。
明るい笑い声があちこちから聞こえる。
「やだ、さっちゃんたらぁ!」
美里も僕以外の人がいればあの様に笑う。
その辺りに釈然としない気持ちはあるけど、他人を全て解ろうなんて冒涜はしたくない。
天気は良い。気分も良い。僕の場合は天気と気分は大概同じなのだ。
晴れの日はそれだけで心配が減るからだ。
滞りなく授業は進む。
とはいえ、こうして夜の献立が脳内で生成されていくのはいかがなものか。
近所のスーパーのチラシはとうの昔に分解され、整理と整頓も終わっている。
家計が厳しい訳ではないのに、あれこれと安く仕上げるようにメニューが構築されてしまう。
まあ、こうして考える事自体が僕にとっては気持ち良い行為だ。
頭脳が普通に回るのは幸せだ。体が普通に動くのと同じ。
「外崎、この問題を解いて」
白髪の先生が言う。黒板の数学の問題。大したは事はない。
かつかつと小気味良いチョークの音。ちと丁寧に書きすぎたかな。
「よし、正解」
渋い声だ。この声で昨年の学園祭にて『一番好きな先生』に選ばれたんだよな。
性格も予想を裏切らない堅実な人だ。
席に戻った途端に思考は献立に戻る。授業の事も動いてはいるんだけど、解りきったものに
そんなに大きく思考を割く必要はない。今は良くて二割程度か。
とんとんと肩を叩かれる。犯人の要求は手を伸ばせ、と相場は決まっている。
左手を後ろに伸ばすと、紙切れを押し付けられた。
『えらく簡単に解いたな。予知能力?』
阿呆か。
『うるせー馬鹿』
と書き足して返してやる。
いつだったか、桂介に稀だけど正夢を見ると言ったことがある。
正夢といっても数秒程度の長さしかなく、もしその場面に出くわしても、
『あ、夢に出たな』
と思った頃には見ていない場面に進展しているのだから、全く意味がない。
僕が考えるには、時間というのは深くて大きな河みたいなものだ。
普通の人は頭のてっぺんまで水に浸かっている。で、何の拍子か顔だけその河から出てしまった時に
正夢というのを見れる。流れの外なのだから、どんな流れになっているのかを知る事が出来る。
では川岸はあるのか。当然のように空気に相当するものだってある筈だ。
流れがあるのだから、源流は高い山の中にあるのは間違いないだろうし、その山に
登って振り返ればどんな世界があるのか。
山と水で河になる。こうしてここにいるのは偶然であり必然でもある。
河が流れつく先は海。海の水はどういう仕組みで山に戻るのか。
河の中と海の中では何が違うのだろうか。
・・・しかしまぁ、つくづく意味がない思考だよな。心で苦笑いをしつつ授業を意識する。
こんな感じで僕の授業時間は過ぎていく。
何回見ても飽きないよな。
ここは学食。目の前には僕の昼飯があり、その向こうに桂介と彼の分の飯がある。
「・・・・・・・・・」
桂介は親の仇のように飯を睨み、無言で口を動かし続ける。
普段なら何かと口に出す奴なんだけど、飯の時間だけは別人に見える。
で、僕が何か言うと不機嫌そうに睨まれるし。桂介に倣って黙々と食べるしかない訳で。
「・・・・・・・・・・・・」
髪は自分で切るし言動もかなり大雑把なんだけど、やっぱり良家の御坊っちゃんなんだよなぁ・・・
躾が半端じゃない。
中学が私立だったのも、家の事情だとか。高校も私立の予定だったらしいけど、
どんな手を使ったのかこうして公立にいる。
その辺に結構な怖さを感じるのは僕だけかな。
学食は安いんだけど、自分で弁当を作れば更に安上がりだというのは知っている。
夜に作っておくのは十分可能だけど、それだと課題を処分する時間がなくなってしまう。
かといって朝だと確実な実行は出来ない。
時間を買えるなら安いもの、だな。
時々は購買で済ませる事もあるけど、こいつは教室でも全く同じ様子で食べる。
将来はきっと頑固親父だろうな。いや、何となく。
全ての授業が終わる。少し前までは美里と一緒に帰るのが日課だったけど、
最近あいつは終業と同時に学校を出てしまう。教室を見回す。…今日も、既にいない。
横から桂介が言う。
「浩史、どっか行かねえか?」
「また今度な、悪い」
僕の返事を聞いた桂介は少しだけ考え込み、いつも通りの明るい声で言った。
「遊びたいんならいつでも言えよ。KOするまで連れまわすからよ」
ふ、と笑ってしまう。たしかに、こいつならやりそうだな。
「期待しとくよ」
桂介は僕の肩を軽く叩いて教室から去った。
そういう事に興味がない訳じゃないけど、やることがある。
「外崎君」
振り返ると、美里と親しい水原小夜がいた。ウェーブがかかったやや茶色の髪が印象的な子だ。
「美里ならもういないよ」
一応、訊いておくか。
「あいつ、どこいってるの?」
「市立図書館。何か調べてるみたいだよ」
図書館。何日もかかるような調べ物。何だろう?
まあ、危ない事をしていないなら心配はいらないか。
「ギブアンドテイクって事で、一個だけ訊いて良い?」
ぴ、と人差し指を立てて言う水原。
「良いけど、何?」
「課題しかやってないのに、何であんなに点数取れるの?」
僕は課題以外の勉強は一切してないと美里に言っている。あいつから聞かされたのは
予想に難しくは無い。あんなに、とは試験での順位の事だろう。
入学以来、学年で三位より下に転落したのは一度もない。
課題だけでその学力は納得出来ない、と水原は言っているのだ。
・・・まぁ、これも望んで努力した結果なら、多少は自慢の種にはなるんだろうけど。
納得してもらうには一番解りやすい二番目の理由が良いだろうな。
「集中力。水原も集中力をつければあのくらいは簡単だぞ」
「えー?本当に、それだけ?」
「だけ。じゃあな」
不満そうな表情。それ以上の追求を避ける為に背中を見せ、教室から出た。
水原の問い。一番目の理由。
僕は思考する事に快感を覚えるから、だ。
裏を返せば思考出来ない苦しさが身に沁みているから、とも言える。
人に限らず全ての動物は快楽を追いかける。快楽には本当に果てが無い。
ただひたすら『気持ち良いから』という理屈ですらない感情を満足させるべく続ける。
僕にとって、それに値する行為の中で『思考する』が最も強い。
何時だって思考は出来る。朝ごはんを作る。学校に向かって歩く。授業中。下校途中。
常に情報の柱は何本も立っている。霧のような小さな情報が固まり、崩れ、変質し、舞い上がる。
意識を向けない情報も止まる事を知らない。
頭の底から引き上げる必要なんてない。ただ目を向けるだけでいい。
もちろん底辺に沈んだ情報も多い。僕がいらないと判断した物から、
いらないと判断しなければならなかった物まで。
・・・・・・ごみ捨て場だな。拾えるのは、どれだって手にするのが嫌な物ばかり。
だから、可能な限り様々な情報を沈ませないのかも知れない。
家に着く。
着替える前に洗濯物を取りこむ。うむ、しっかりと乾いているな。
親父と僕の下着やら靴下をたたみ、いつもの場所に置く。
そして着替えてから買い物だ。夕方と呼ぶにはまだ早い時間で、僕のような若者が買い物カゴ
を持つ姿は目立つ。もっと遅い時間なら人も多く、そんなに珍しいものではなくなるけど、
それだと目的の物が買えなくなる恐れがある。
こうして買い物をするようになって二年が経つ。レジのおばさんとも馴染んでいて、
『いつも感心だねぇ』という笑みすら見せてくれる。
何事もまめにすべし。母さんの教えだ。
家事を覚えたのは小さい頃に友達を作らなかったのが大きい。
余る時間。退屈しのぎに家事を手伝い始め、洗濯や掃除、料理も覚えてしまう。
母さんにとって、僕は良い生徒だったらしい。
面と向かって『女の子だったら良いのにね』などと言われる事もあった。
女の子だと何が違うのか…ああ、そうか。もしそうならもっと色々な事を伝えられるから、
そう言ったのだろう。僕は十分だと思ってたけど、母さんは更に仕込みたかったのだろう。
ま、それも中学三年の春で終わり。
それ以来、僕が家事全般を仕切るようになった。
慣れてるとはいえ、最初は結構失敗をやらかした。ずっと見ていた母さんがいなくなっただけで
あんなにも不安になるとは予想外だ。
最近では迷う事はなくなった。我流ながら新しい料理なんかも身につけてしまう。
本当に、一般の男子高校生とはかけ離れてしまったかな。
世間の流行には疎いし、遊びまわる事もないし、金銭感覚もあるし。
若年寄確定である。
昨日まではあっさりした献立だったから、今日は辛めの方向で。
親父が帰ってくるのは八時半を過ぎてしまうから、何かない限りは先に夕食を済ませてしまう。
今日もそのつもりで台所に立つ。
もう少しで完成することろで電話が鳴った。
液晶画面に写る相手の番号。見慣れた数字の列だ。
『私、美里だよ』
「どうかした?久しぶりに電話で話すけど」
『ええと、今日、晩御飯一緒にしていい?』
美里のお母さんは市立病院の看護婦だ。勤務時間が度々変わってしまい、ひとりきりで夕食を
摂らなければならない時がある。その寂しさを紛らわす為に僕と一緒に食べる、というのが
以前から何度かあった。
ま、断る理由はない。
「おう。手ぶらでもいいよ」
『お米くらいは持っていくよ。・・・ありがと、ひろちゃん』
ちなみに、美里の親父さんは単身赴任中だ。
当時は揉める事もなく、すんなりと決定したようだ。
・・・どうも僕は角倉一家から当てにされてるらしい。
美里は明言を避けているけど、どうやら『困ったら僕に相談してみろ』と言われているようなのだ。
年頃の女の子を、同年代の男に任せるなんてどうかしてる!と言いたいんだけど、
そうも言い難い感情もあり、表面上は渋々、内面的には期待しつつ面倒を見ている。
最近の美里。
外見はその期待を裏切らず、変化をしている。
心情面は推測のしようもないが、まあのんびりと待つ事にしよう。──って、何を?
『ぴんぽん』
とチャイムが鳴る。美里の家はすぐ近くだ。丁度斜め前にある。
相手が美里ならエプロンを着けたままでも構わないか。
開錠し、玄関を開ける。
薄い桜色のシャツと白いスカートの美里が居た。
赤い手提にはさっき言っていた米が入っているのだろう。それとは別に小さい鍋を持っている。
「お邪魔するね、ひろちゃん」
「それは?」
顎で指して訊いてみる。
「うん、作ってみた。味見してよ、コック長」
こりゃまた懐かしいあだ名を。
小学の家庭科で、料理実習をやった時の話だ。
その頃は既に料理の仕方も覚え始めた時期で、授業での作業は呆れるくらい簡単だった。
つまらないから早く終わらせようと包丁を振るう僕。黙々と作業するその姿がいかにも
『レストランのコック長』らしかったようで、その後暫くは『コック長』と呼ばれた。
「うん、任せろ」
美里を家に入れる。ふとシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
・・・こいつは、僕をどう想っているのかな。
洗髪してきた理由は何だろうか。他人の家にあがるからなのか。それとも、
僕を異性として意識しているからなのか。
その後姿だって、もう女性らしい曲線で創られている。目が離せない。
くそ、どうにも意識してしまう。
「どうしたの?ひろちゃん?」
気が付けば美里は食器を並べ終えている。
「いや、大したことじゃないよ」
熱っぽい感情を押さえつけ、台所の夕食を運んだ。
「ん、まあまあだと思うよ」
「本当に?良かった…」
珍しく微笑んで答えてくれた。
実際、美里の作った料理はなかなかの出来だった。
僕の真似から始めたようだけど、やはり感性の違いは否めない。
しっかりと美里の味になってる。僕を目標にしているみたいだけど、この分じゃ将来的には
随分と違うものを作るようになるだろう。
「ご馳走さまでした、ひろちゃん」
「うん、お粗末さま。いつでも食わせてやるから」
二人で食器を台所に運ぶ。何も言わなかったのに協力してくれるのは躾が出来てるからだな。
そういえば箸もきちんと持っていたか。
「ひろちゃんはさぁ、・・・」
やや暗い声で言い出す美里。少し待ったけど続きを言わない。
「・・・ごめん、何でもない」
「?言いたいなら言ってくれよ。何でも聞くよ」
「いいの、うん・・・あ、そうだ。今日の数学の問題、どうやって解くの?」
誤魔化すように話題を振ってくる。無理に言わせる必要もないか。
「あれは・・・、書いて説明するか」
電話の側のサインペンを取ってテーブルに戻り、裏が白いチラシに問題を書く。
美里はちょこんと僕のすぐ隣に座り、紙を覗いている。
「うん、で最初は?」
「まずはだな・・・」
つらつらと書きながら、ちらちらと美里の胸元に目が行ってしまう。
白い下着。その膨らみは予想以上に大きい。着痩せするタイプだったんだな。
「うんうん」
「で、こうなるだろ」
肩が触れ合う。柔らかい。美里の匂いだ。
いつから、こんなふうに女として見るようになったのかな。
「ちょっと待ってよ。ここって、何で?」
「ん?じゃあこれは解る?」
さらさらと流れる髪。触ってみたい。
出来る事なら、それ以外の部分も触れたい。見たい。
「え?こうなるんじゃないの?」
「違うって。こうきて、こうだろ」
美里は僕をどう見ているのか。
まだ幼馴染なのだろうか。仲の良い友達なのか。
まだ、異性ではないのかな。
「え、あ!そっか!」
「何勘違いして覚えてるんだよ。これで解るだろ?」
どうしたら異性として見てもらえるのかな。
強引にでも、そう見て欲しい。駄目だ傷つけるだけだろ。僕は美里を、どうしたいのか。
「そっか、うん、解る」
「そんなに難しい問題でもないだろ」
美里は僕にどうして欲しいと思ってるのかな。
聞きたいけど、聞いていい事なのか。その時まで待つべきじゃ、ないのか。
「流石ひろちゃんだ。私、やっと解ったよ」
「そりゃどうも。授業中で理解しろって」
こんな事を考えるなら、僕の気持ちなんて決まってるのも同然。
思い切って、言うか──
「ひろちゃん?顔、赤いよ?」
その言葉と目でようやく正気に返った。それでも、はっきりと固まった気持ちが消える訳じゃない。
それが動き始めないように、なるべく平静を装って答える。
「気のせいだよ。で、あとは解らないこと、ある?」
僕は美里の気持ちが解らない。
この問題、どうやって解いたらいいのか。
「え、…うん。ない、みたい」
二人で沈黙する。肩は依然触れたままだ。温かさが伝わってくる。・・・僕は動けない。
失うにはあまりにも勿体無い時間だから。
静かな時計の音をやっと意識出来た。見ると、美里が来てから随分経っている。
「そか。もう遅いんだから帰った方がいい。送るよ」
「・・・うん、もう、そんな時間だったね」
それきり僕達は何も言えないまま立ち、半ば機械のように一緒に玄関を出る。
やっぱり、言えば良かったかな。・・・後悔しても遅い。
次の機会なら、きっと。
美里の家に着く。一分もかからない近さだ。用があれば便利な距離。
でも、もっと遠くても良いと初めて思った。
玄関前で美里が振り返る。薄暗くて表情はよく見えない。
何となく僕と同じ顔になってる気がした。後悔と、その下には期待。
「おやすみ、美里」
「おやすみ、ひろちゃん」
美里が見えなくなって、僕はため息をつく。
全く、どうしたらいいんだろう。・・・いや、布団に入ってから考えよう。
朝食の準備をしなければ。それから課題を済ませて、風呂に入ろう。
美里の事を考えるのはその後だ。
一番大事なことだっていうのに、何で一番最後にしなきゃいけないのか。
朝。目が開いて、深呼吸。
今日も何の変化の無いサイクル。
朝飯。授業。昼飯。放課後。夕日。
いつものサイクル。安定した一日。安心する、一日。
大丈夫。大丈夫なんだ。
不安ならどうにかしろ。当然の思考。どうにかなるなんて幻想。体験からの答え。
誰にも解ってもらえない。誰にも解ってほしくない。
誰にも──背負わせるなんて不可能。支えてくれるのも絶対無理。
それで良いんだ。僕は、その道を選んだ。
だったら、何故。
『プルルルル』
・・・電話だ。
『ええ?何で?ひろちゃん助けてよ』
何だか力が抜けた。緊張感の欠ける援護要請だな。
「美里、何?」
予想はつく。大方、
『揚げ物上手くいかないよ。こうして、ええ?』
だろうな・・・じゅうじゅうと音が聞こえる。
僕は無料サポートセンターじゃないぞと思いつつ返事をする。
「火、止めて待ってろ。すぐ行くよ」
昨日の失敗を取り戻す機会だと確信。今日なら、言えるか。
幸いにして親父と僕の晩飯は準備が済んでる。
そんなに長い時間はかからないだろう。親父が来るまでは時間もあるし。
とにかく行くか。
角倉家の玄関でチャイムを押す。
「入って!」
まだやってるらしい。
止めろって言っただろうに。火傷したらどうするんだよ。
引き戸の玄関はからからと軽い音を立てる。
中に入って、台所に行く。
髪を後ろで結ってる美里。難しそうな顔で失敗作らしい揚げ物を凝視していた。
「で、何?」
「ひろちゃんのみたいに、サクサクしない。何でだろ?」
周辺には使用する物がいくつか置いてある。
ふむ・・・そうだな・・・
「パン粉がちょっと少ないかな。あと油の温度、低い感じだよ」
コンロの火力を調節して、実践して見せる。
「・・・うわあ、ぜんぜん違う・・・」
赤いエプロンの美里が心底関心したと言葉で表す。
しかし。
「結構な量、作るつもりなんだな。二人でこんなに食べるのか?」
「うん、・・・多分ね」
その声音で解る。失敗したなぁ、と感じているのだろう。
丁度いいか。昨日の続き、出来るかもしれない。
「食えないならそう言えって。手伝うよ」
目を大きく開いて僕を見つめる美里。
「え?いいの?」
「いいの。んじゃ家から適当に飯とおかず持ってくるよ」
疑問を肯定に変えて返事にした。こいつの好意を無駄にはしたくないし。
揚げ物の数はやはり多すぎたけど、三人分にする事で普通の量になった。
僕と美里が作ったものを美里のお母さん、聡子さんにも食べ比べてもらおう、ということに。
「ご馳走様。美味かったよ」
「揚げ物、駄目だったでしょ・・・」
「そんに悪くはないよ。それに他は良かったっての。本当だよ」
二人で昨日の様に肩を並べて食べ終わる。
聡子さんの分以外はきれいになくなってしまった。
育ち盛りが二人も居れば当然かな。
さて。
昨日の、続きか。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
僕が話題を振る場面だ。どうにも不自然な雰囲気だけど、言うしかないんだ。
緊張する。もし、僕の一方的な感情だったら、・・・聞いてから判断する事だろ。
美里の顔を見ながらだと流石に言えない。何となく、という感じで言うんだ。
「なあ、美里・・・」
「なに、ひろちゃん・・・」
ごくりと喉が鳴る。・・・よし、言うぞ。
『がらがら』
「ただいまーぁ。美里、お客さん?」
・・・人生なんてこんなもんさ。そうとも。簡単に思い通りに行くかっての。
「・・・お母さん、帰ってきたね」
「・・・そう、だね」
どすどすと元気な足音。
さて。僕は立つ。すぐ後にショートカットの聡子さんが居間に着いた。
予想通りとの表情で聡子さんは言う。
「あらいらっしゃい」
「お邪魔してます」
言ってから頭を下げる。親しき仲にも礼儀ありだ。
聡子さんはにっこりと笑い、
「そんなのいらないから、ゆっくりしてていいの」
と鷹揚に応えた。
曇りのない笑顔だけど、僕に向けられた目には微妙な光が灯っている。
下心、見透かされてるな。絶対。
この母ありてあの姉あり、だな。
「珍しいわね、浩史くんがウチに来るなんて」
「私が呼んだの。揚げ物、失敗したから・・・」
美里が言いにくそうに僕がいる理由を説明する。
聡子さんは、んん?と首を傾げて疑問の顔で数秒止まる。
そのまま美里の揚げ物を口に入れた。
もぐもぐと咀嚼して飲み込む。数瞬して、またしてもにっこりと美里に笑う。
「こんな日もあるわよ。次は上手くいくって」
何回かは成功しているのか。この腕前なら納得できる話だけど。
「解ってるよぉ・・・」
頬を膨らませ、不機嫌な声で美里が言う。そんなに気にする事なのかな。
下手なら失敗しても当然だろうに。
ま、何にせよ帰るか。もう昨日の続きは無理だな。
聡子さんは着替えの為だろう、自室に戻っていく。
「じゃ、帰るよ」
家から持ってきた食器をお盆に載せる。
今日も駄目だったか。・・・仕方ない。落胆が大きくなる前に帰ろう。
「ひろちゃん」
お盆を持つと、美里が言う。
「次は、もっと上手に作ってみせるからね」
その顔は何か強い決意が漲っている。僕も、そうなって欲しい。
「そうだな、期待してるよ」
ゆっくりと美里は笑顔になる。僕だけの為の笑顔。どくん。跳ね上がる心臓。
見惚れそうになって無理やり目を逸らす。
もう幼馴染じゃ満足できない。
完全に想いを寄せる女の子になってしまった。
「?」
「何でもない。じゃあな」
別れの挨拶もそこそこに家に帰る。
全く、上手く行かないよな。
鳥居。このむこうに、みさとちゃん、いるかな。
すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。
わかってるよ、かあさん。じかんがかかるけど、やれないことなんてないんだよね。
神社のしょうめんにあるブランコ。・・・いた。みさとちゃんがいた。
苦。苦。──苦。
苦。吸う、苦。吐く、苦。
くそ、苦、せんそく、発作、苦─苦。ついて、苦、ないな。・・・苦。
身体、起こさなきゃ。苦。吸う、吐く苦。
何時、苦、だろう。苦、苦、三時、半。苦、今日は、もう、苦寝れないな。苦苦。
ゆっくり、吸え。苦──ゆっくり、吐け。苦、冷静に苦、繰り返すんだ。
「は、ひゅーーぅ、・・・は、ひゅーーぅぅ、かはっ」
痰が出る。苦。ゴミ箱に捨て、る。苦。もっと出せ。出さないと、苦、楽にはなれない。
何度か痰を出す。はぁ、はぁ。少し、楽になった苦かな。
水が欲しい。苦、気管を湿らせて、痰を出したい。苦、苦。
まだだ。もっと、苦。酸素を貯めないと。とりあえずは、肺。
吐く。吸う。苦、苦吐く、吸う。もっと動けよ肺。
ようやく、脳が、思考がナメクジのように苦、動き始める。遅い。苦いらいらするなぁ苦。
違う。苦。絶対にそんなのは、正確じゃない。苦。本当、どうかしてる。
インターネットじゃ、く、苦。何だっけ、『ストローをくわえたまま息をする苦しさ』苦、
だったか、そんな例えをしてるけど、苦違う。馬鹿にしてるのか、それは。
そんなの、医学的な苦説明でしかない。気管の、苦、状態を例えているだけ。苦。
誰が例えられるか、こんなの。苦・・・苦。
腕も苦脚も、頭も、肺も苦。全部が苦酸素を失ってるなんて、どう言えばいい?
全身全霊で苦呼吸して、ようやく意識を失くさないで済んでる感覚って苦、的確な表現はあるのか?
まともに考える苦事も許されない苦状態で、どうしてそんな表現を苦思いつけるのか?
だから、理解されない。苦、どれだけきついかなんて、伝えられない。苦。
雨、降ってるな。
何で気圧の低下が、発作の原因になるんだろう。
水が欲しい。苦、まだだ。今、苦動いたら、手足に酸素を分けたら苦、肺を動かせなくなってしまう。
ちょうど四時半だ。何度か呼吸。
なんだ、もう五時半。早いぞ、時計。
でも、少しだけ動けるか。ああ苦そ、折角酸素、貯まったのに、使い切ってしまうな。
「ふ、っ!」
気合を入れてベッドから降りる。着替えて、台所に向かう。
「は、す、・・・は、すーぅ」
目が覚めた頃からは、楽にはなってる。といっても、毛の先程度だな。
たった数メートルを、何回も足を止め、何十回も呼吸して到着。
腕に酸素がまわるのを待って、水を飲む。
ごぼ、と大量の痰が出る。透明で、指で摘まんで持ち上げても切れない硬さ。
「は、あ、ふぅ、は、」
また一段階、楽になった。薬、飲まないと。
苦い薬。飲み終わってからも水を何度も飲む。
「はあ、ふう、ふ、う」
とっくに汗だらけだ。脚の筋肉は大した運動をしてないのに張ってる。ぎしぎしと動きが悪い。
腕も重い。味覚もろくに働いてない。
こんなだから、朝は簡単なものしか作れないようにしてる。
さて、もう一回動くか。親父の朝食、作らなきゃ。
親父が起きてくる。
「おはよう」
挨拶をしてくれるけど、答えるだけの活力は使い切ったばかりだ。
ソファに座って、頷くので精一杯。それを見ただけで親父は僕の状態を把握した。
「無理そうなら、休んでもいいんだぞ」
解ってるけど、そんな事はしたくない。
・・・?親父がいない。って、当たり前か、出勤時間はとっくに過ぎてる。
のろのろと冷えた食器を片付ける。今日は朝食の時間はないか。洗濯も無理らしい。
でも仏壇に線香はあげる。微量の香りが気管を通って、症状が悪化。
それでも、これだけは守らなきゃ。
身体を引きずるように部屋に戻って、制服を着る。
本日木曜一時限目、体育。見学、するか。
外に出ると、美里がこっちに歩いてくるのが見えた。
「おはよ、ひろちゃん」
「・・・・・・」
片手を上げて答える。声を出すのもきつい。
薬は飲んだけど、完全に収まってくれるのは昼頃、じゃないな。下校時間にはそうなるかな。
「ひろちゃん、大丈夫?」
美里は気付いている。病気の事も言ってある。
「ああ、・・・いつもの、事だよ。慣れてる」
そう。こんな事、何回もあった筈だ。
──何回目なのか解らないし、前はいつだったかな・・・最近もあっただろうけど、思い出せない。
「・・・行こ、遅刻しちゃうよ」
美里の言う通りだ。早く行こう。
「おーす、浩史」
「・・・、おはよう」
「・・・そっか。早いトコ教室行くか」
同級生で僕の状態を見定めることが出来るのは桂介と美里だけ。
普段とどのように違って見えるのかは知らないけど、聞いたところでどうにもならないだろう。
どすんと椅子に座る。ああ、疲れた。
いつもならどうでもいい話題を振ってくる桂介も、こんな日は静かなものだ。
助かるけど、気を遣わせてる自分が嫌だ。
HRが終わり、一時限目。
担当の先生に体調不良で見学したいと伝える。
「精神が弱いから、そんな病気になるんだ」
……何と言ったか。こいつは。
弱い、だって?ふざけるな。ただの思い込みだと言うのか。
そんな事で、あそこまでなってしまうと、言うのか。
「大した事ないんだろう。甘えるな」
頭にくる。頭にくる。
そうまで言うなら解らせてやろうかこの場で徹底的に容赦なく皮肉血骨髄液まで
一生涯忘れられないように毎夜悪夢として出るように。
こいつが、どんなに──
「俺からも頼みますよ、先生」
・・・桂介。
沸騰しかけていた脳が静まっていく。
「無茶させて救急車なんて、一番拙いのは先生じゃないですか?」
ちらと桂介を見る。その目も口調も真剣そのものだ。
また助けられた。『ダチに貸し借りなんてねーんだよ』とこいつは言うけど、
いつか、なにかをしてやらないと。
「ふん、休んでろ」
不機嫌なのを隠そうともせず、僕を体育館の隅に追いやる先生。
桂介は『してやったり』と会心の笑みを僕に見せて、休んでろと手で表現する。
精一杯の笑みで返事をする。後で礼を言わなくちゃ。
二時限目からは寝不足による吐き気との戦いも加わる。
対策には、水原が言った問いへの二番目の答、集中力を高めて押し出すしかない。
発作もまだあるけど、朝に比べれば少しは楽か。
さて、集中だ。授業の情報に意識を向ける。平時よりは動きは鈍いけど、まあ何とかなるかな。
雑音が五月蝿い脳。こんな時に普通に思考出来る幸せを思い知らされる。
昼飯の時間になった。
学食に行かず、購買にも行かず。
水飲み場でがぶがぶと喉を鳴らし、貯まってた痰を出し尽くす。
あー、・・・腹減ったな。やっぱり朝飯抜きは堪えるな。
今から学食に行っても席はないだろう。購買に至っては運動部連中の買占め政策で売り切れだろうし。
仕方ない。帰るまで我慢するか。
「ひろちゃん」
美里の声。背を伸ばして彼女に向きなおす。
「これ・・・」
おずおずと伸びた手にはパンが二つと缶ジュース。
「悪いな美里。ありがたく貰うよ」
行儀が悪いと知りつつ、その場で袋を開けて噛り付いてしまう。
うむ、美味い。『空腹は最高の調味料』とはよく言ったものだ。
一つ目を胃袋に収納し、美里の思い詰めたような顔に気付く。
「ひろちゃんはさ、・・・」
「何?どうかした?」
やや俯いて、続けた。
「今日、一緒に帰ろ。絶対だよ」
珍しく強い口調だ。何か話したいことでもあるのかな。
「わかったよ。そうだ、調べ物はもういいのか?」
「・・・うん、・・・校門で、待ってるから」
そこまで言った美里は教室に戻っていく。
残ったパンをジュースで流し込み、身体の状態を確認。
・・・ふう、八割方回復か。
後は眠気をどうやり過ごすかが問題。ま、いつもの事だ。
言った通りに美里は校門で待っていた。
教室から一緒にならなかったのは、人目を意識しての事だといいけど。
「お待たせ」
「うん、行こ」
暫くは無言で歩く。すぐにでも話してくれて良いのにな。
それなりの決意が必要とくれば、用件は限られてる。
僕から言い出すべきだったかな、この想いは。
この気持ちを伝えられるなら、言い出すのが美里でもいいだろう。
さっきまで降っていた雨で道路は濡れている。あちこちの水溜りに夕日が写っている。
空には赤い雲。僕の方もほぼ回復し、気分がいい。
「ひろちゃん」
やっとか。
「何?美里」
視線を送ると、ひどく思い詰めた表情だ。
つい理由を聞いてしまう。
「どうかした?」
「その、病気のことなんだけどさ、……」
ちょっと予想外。…いや、僕が期待し過ぎただけだろう。
「きっと大した事ないよ。ちゃんと───、……」
……。大した事ない。
お前まで、そんな言い方をするのか。
「───ゃん、聞いてる?」
うるさいもう口を開くな。
「どうしたの?何か言ってよ」
そうか。聞きたいか。なら言ってやる。
「何で、そう簡単に、否定するんだ」
美里の顔が強張る。ふん。聞きたいんだろう?
腕を掴む。じっくりと聞かせてやるから、そこにいろよ。
「知ってる。重い方じゃないってくらい知ってるよ。
だから何だって?そう言い聞かせれば、少しは楽にしてやれる?
心の持ちようで治るって?妄想だよ。馬鹿にするのもいい加減にしろ。
ああ、確かに精神面の影響もあるだろうな。否定はしない。そういう病気だからな。
で?僕がどれだけ苦しんできたか知ってるのか?
どれだけの時間をこいつと過ごしたのか想像がつくのか?
そうだよな、こいつの事を一握りだって感じた事ないんだっけ。
ただの一回も、こいつで苦しんだ事ないんだよな。
だから、簡単に否定するんだ。大した事ないなんて言えるんだ。
こいつの苦しみを、全く想像出来ないんだ。
僕の体験をなかった事に出来るんだ。
僕の今までをなかった事にするんだ。
言えよ。一体どんな理由で、僕を否定してるんだ?」
美里はうなだれている。謝罪か?遅いぞ。
「精神が弱い。そんな理由で、あんな事になるのか。
・・・そうか、美里は知らないんだよな。
夏休みに親戚の叔父さんが死んだ。僕と同じ病気で死んだ。
夜が明ける前、奥さんが気が付いた時には唇が紫色だったらしいよ。
すぐ救急車を呼んだけど、間に合わなかった。
僕もそうなる可能性はあるんだ。
眠るのが怖いって感じた事、あるのか?
朝、目が覚めるのが嬉しいって感覚は?
噛み締めるように息をした事はあるのか?
明日の存在そのものに不安を抱いた事は?
僕の何を知ってるつもりなんだ。
思い上がるのもいい加減にしておけよ美里」
さあ満足しただろう。何か言えるなら言ってみろ。
手を離す。美里の肩は震えていて、直後に背中を見せて走り去る。
がちゃりとアスファルトと衝突する鞄。見向きもしないで行ってしまった。
「何なんだ、くそ」
美里の鞄を拾う。と、ばさばさと中身が落ちてしまった。
授業で使う教科書、ノート、それに筆記用具。後は何だろう。
白い紙にびっしりと書かれた文字。手にとって目で追った。
「・・・何なんだ、くそ」
美里はあの言葉の後、何を言ったのか。
完治は無理でも軽くする事なら十分出来るよ、と言っていただろう。
それを証明する為の文字列。僕の病気についての出来る限りの情報が載っている。
「何なんだ、くそ!」
三度目の罵倒。馬鹿野郎。僕の馬鹿野郎。
美里の好意を蹴り飛ばしておいて、何してるんだ。
さっきの美里の顔。思い詰めた顔。
早く見つけて、謝るんだ。ありがとうって言わなきゃ。
そうしないと、あいつは馬鹿な事をするかも知れない──!
「くそ、どこ行った・・・っ!」
まずは美里の家だ。
は、はあ、はぁ。
息を弾ませてようやく着いた。暗くなり始めているのに、窓には明かりがない。
そして玄関前には足跡がない。いない、と判断するべきか。
「どこだよ美里、教えろ」
愚痴ったところで意味はない。次に行きそうな所は・・・
と、その前に。美里の鞄を側に置く。
僕の鞄も邪魔だ。素早く家に戻り、靴箱に置く。
「さて、どこだ」
美里と行った所。
美里と行きたかった所。
美里が行きそうな所。
出鱈目に走る。思いつく所に向かって走る。
「は、ひゅーーう、は、ひゅーぅ」
ああくそ、発作がぶり返してきやがった。
それでも走る。今、走らないとずっと後悔する。
「!、っと」
何も無い道路で躓く。転びはしないけど、脚が上がっていない証拠。
心臓がガンガンと五月蝿い。休む?馬鹿言え。美里に何かあったらどうするんだ。
後、美里が居そうな所ってどこだ。
美里。美里。みさと。みさと。
くそ、あたまに酸素がたりてない。思考がもやもやしはじめた。
ここは、そうだ一丁目だろ。しっかりしろ。
まったく、どこいったんだろ、みさとちゃんは。
「は、・・・かはっ!・・・ひゅーーう、はああ、ひゅーーぅ・・・」
なんでさがしてるんだっけ?まあ、いいや。探してから、かんがえよう。
みさとちゃん、と、はじめてあったところは、まだみてないよな。
こんなに暗くなるまで、なにしてるんだろ。
鳥居。このむこうに、みさとちゃん、いるかな。
すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。すこしあるいてひとやすみ。
わかってるよ、かあさん。じかんがかかるけど、やれないことなんてないんだよね。
神社のしょうめんにあるブランコ。・・・いた。みさとちゃんがいた。
「は、・・・、は、・・・」
ちかくの木にせなかをあずける。もううごけない。
けどまあ、ぶじで良かった。これであんしんだ。
「・・・!──、・・・!」
みさとちゃんが、なにか言ってる。すぐちかくでなにか言ってる。
ごめん、もうすこし、やすませてくれよ。
そうしたらなんでもきいてあげるから。
あれ、いない?またどこかに行ったのかな。みず、のみたい。
「が、っぐ、うう!は、・・・!、う、ぐうう!」
くそ、やばい。アかしんごう。きけンとまれ。みズ。みず。
キカンがかたまる。たんがデナい。うまる。うまってしまウ。
クウキがなんのていこうモなくいったりきたり。
いとみたいなくうきガおうふくしてるだけだ。はいなんてうごくハズがない。
・・・なんで、いきてるんだろ。
「ぁ、・・・っ、ぅ、──、・・・」
かたまった。かたちをカエナイ。でない。
あとは、うまる、だけ。
──、おわる、らしい。
くるしいのが、おわるのかな。
なら、いいや。
やっとおわる。おそすぎだろ。
なんで、もっとはやく、おわらなかったのかな──
「 、・・・!──!!」
・・・みさとちゃん、もどってきた。ペットボトルをみっつもモってる。
蓋をねじって、ぼくにおしつける。さすがみさとちゃんだ。わかってるな。
ごくり。がは、ごくごく。げほっ、げほっ。は、ふう、ふ。
くうきが「は、ああ!」気管をとおる。よし、「げほっ!」その調子だ。
焦るな、ゆっくり「が、・・・はあっ!」広がってくれよ。
・・・今、何時だろ。「はあぁ、・・・があっ!」美里の身体、冷えるな。
早く、帰さないと。
「ひろちゃん!何で?何でこんなに無理したの!?」
何でって、・・・何でだろ?
探してた理由。それは。
「好きな女の子が、自棄になりそうなのを、放って置けないだろ」
ああ、頭が、回らない──
「僕の所為で美里に、何か、あるなんて、許せるもんか。
僕はどうなってもいい、んだ。僕が美里より先に、消えるのは当たり前だ。
当然の事なんだ。でも、僕より先に美里が、いなくなるなんて、許せない。
絶対にそんな事に、なっちゃいけないんだ。
・・・うん、何もなくて、良かった。本当に、良かった」
がしがしと美里の頭を撫でる。何もなくて良かった。
あとはどうでもいい。僕はちょっとやばいところだったけど、美里が無事ならそれでいい。
三つ目のペットボトル・・・コーラだったのか・・・に口をつける。額の汗を拭う。
膝が揺れてるな。ま、こんなに走ったのは久しぶりだからな。
「は、すーー、はああ、すーーぅ」
肺がすこしは広がってる。良し、四割、回復。
美里のおかげだ。僕ひとりだったらどうなってるか解らなかったな。
さて、ゆっくり歩くくらいなら出来る、はずだ。
「帰ろう、美里。身体、壊すよ」
「まだ休もうよ、ひろちゃん」
美里、そんなに不安な顔するなって。
「いや、大丈夫、だって。お前に、何かあったら、いけない」
空のボトルをゴミ箱に捨て、美里の手を引いて帰る。
・・・やっぱり冷えてるよな。僕の所為だ。
「え?美里?」
玄関前で別れたはずの美里が、家の中までついて来る。
「本当に、大丈夫なの?」
余程不安らしい。安心するまで帰ってくれないようだ。
「・・・大丈夫、だっての。美里の、おかげだよ」
何度も痰を出してから薬を舌に乗せ、口の中で水と混ぜて一気に飲む。
・・・眠い。今朝の寝不足がやってきた。眠気を感じる程に回復してるんだから、心配はない。
でも、寝るにはまだ早い。ちゃんと回復してから寝ないと、また発作が起こるかもしれない。
ああ、そうだ。
「美里、ひとつ、だけ頼んでもいいか?」
「何?ひろちゃん」
居間に戻りながらの受け答え。
「今から、寝るからさ、十五分くらい経ったら、起こしてくれよ」
「大丈夫、なの?」
「うん、他の人はどうなのか、知らないけど、収まりかけてる時に、ちょっとだけ寝ると、
随分楽になれるんだ。頼むよ、美里」
ソファに腰を下ろす。横にはなれない。横になるにはまだ厳しすぎる。
「・・・解った」
美里も左に座る。幾分ほっとした顔だ。もっと安心させないと。
黒い髪を撫でる。
「悪いな、美里」
背もたれに身体を預けて力を抜くと、すぐに意識が消えた。
「・・・ちゃん。時間だよ」
「ん・・・、ああ、サンキュ」
吸う。みしみし。肺が平時と同じく膨らむ。
空気が引っ掛かる感覚は僅かにあるけど、それでも八から九割、回復。
とはいえ、咳やくしゃみで七割程度には落ちるかもしれないけど、もう安心。
「すーぅ、はぁぁ」
全身に酸素が渡ってる。きりきりと脳が回転している。全身の筋肉が張ってるのは
当然だろうな。いつもの事だ。
「──え、」
・・・手を、握られている。美里の両手が、僕の左手を。
美里が何かを祈るように下を向き、沈黙している。
さっき神社前で言った言葉がじわじわと思い出される。・・・ぐあ、しまった。
「美里、さっきの、その、ええと」
くそ、もっとちゃんと言うつもりだったのに、何であんな状況で言ってしまったんだ。
時間と共に顔が熱くなる。心臓が高鳴る。今、言い直すのか?凄く格好悪い事じゃないか?
「最低、だよ」
絞り出すような、美里の声。
「何で、あんな事、言うの?」
見れば、その細い肩が震えている。
「やっと両想いなんだって解ったのに、何でひろちゃんは私より先に居なくなるなんて言うの!?
ずっと居てよ。お願い、いなくなっちゃ嫌だよ!いつまでも一緒に居てよ!」
驚いた。
こんなに感情を出す美里は初めて見る。言葉も真っ直ぐで、とても──僕の芯を揺さぶる。
「美、里」
何て返せばいいのか解らず、それでも名前を呼んでしまう。
ゆっくりと美里の顔があがる。瞳が濡れている。頬も僅かな赤みを帯びていて、僕は右手を
美里の肩に伸ばしていた。
美里も身体を乗り出してくる。この後にする事は、ひとつ。
どちらからともなく唇を重ねる。柔らかくて、温かい。
離れると、美里は更に赤い顔で目を逸らしている。
恥ずかしさと、嬉しさと、期待で染まった表情。僕は衝動に抵抗しきれない。
しなやかな身体を思いっきり抱きしめる。
はあ、と。美里の息がゆっくりと肩を撫でる。その小さい手も背中を伝う。
女性を表すふくらみが胸に当たっていて、ぞくぞくと本能がくすぶる。
その熱を受けた僕は、無言で美里を押し倒した。
きれいな脚。スカートの皺。ほっそりとした腰。
微かに上下する胸のボタン。受け入れるために開かれた腕。この先を促す、閉じられた瞳。
・・・・・・・・・駄目だ。
惜しいけど、悔しいけど、身体を離す。
「ひろ、ちゃん・・・」
美里を正視出来ない。
気持ちはこんなにも盛り上がっているのに、応えようとしない身体の状態。
今ほどこの病気を恨めしいと思った事はない。
くそ、今を逃がしたら、次はいつなのか。
「今日は、遅いから、帰った方がいいよ。・・・親父、帰ってくる時間だ」
美里の期待を裏切った。この事実は間違いない。
本当に自分を叩き潰したくなる。
「解ってるから、・・・そんな顔、しないでよ」
身体を起こした美里が、さっきと同じように手を握る。
理解してくれているのは嬉しいけど、それでも心が晴れる訳がない。
「でもな、・・・」
「私は、いつでもいいんだから、・・・ひろちゃんがいいって思ったら言ってよ。
・・・その、私、だって、したいんだから・・・」
聞くだけでこんなにも恥ずかしいんだから、言った美里は文字通り茹でたように真っ赤に。
・・・そうだよな。美里も、同じ気持ちなんだよな。
「うん、解った。・・・僕も早く、美里を抱きたい」
僕も素直に言った。紛れもない本音を、正面から。
「…待ってるからね、ひろちゃん」
ほんの少し照れ笑いをしながら美里は返事をしてくれた。
その後は手を繋いで美里を家まで送った。何も言う必要はない。手の感触だけで
十分に心が通じている。
玄関先で見せてくれた美里の笑顔は、一番可愛いものだった。
「おっす」
「おはよう、ひろちゃん」
いつも通りの朝。いつも通りの挨拶。
そして、いつもと違う感情。
お互いに表情を盗み見しあう。普段のように動こうとしても相手を意識してしまい、
うまく次に移れない。
・・・よし、やってやる。
無言で美里の手を掴み、学校に向かう。
「ひろちゃん、ちょっと・・・」
美里の顔なんて見なくても解る。こうして手を繋いでの登校は初めてだから、
恥ずかしいのは当然だよな。僕も、同じ。
「美里」
「え、何?」
足を止めて振り返る。
・・・あ、顔、やっぱり赤いな。
「今日はしないから、安心、じゃないな、がっかりしないでくれよ」
「・・・そうだよね、昨日の今日だもんね・・・」
昨日の事を気にしてるのかな。美里がいたから助かったのに。
だから、今約束する。
「明日だ。絶対に明日だ。いいな?」
「う、ん。解った」
「明日は土曜だろ。時間、あるし」
「・・・・・・!、・・・・・・。──、・・・・・・・・・」
驚いて、恥ずかしがって、俯いて、上目使いで覗く。
くそ、可愛いぞ。こんなに可愛いのは反則だろ。
これ以上話してたら間に合わなくなってしまう。
「ほら、行くぞ」
僕は美里に背中を見せて歩く。手は繋いだままだ。
校門を通ってから何やら視線が集まってるけど、気にしない。
下駄箱に着く。美里を見ると、はにかみながら『ばいばい』と小さく手を振って行ってしまった。
あー、いいな。こういうの。
緩みそうな顔を固める。一応ポーカーフェイスで通してきたから、そのイメージを壊すのは
何となく避けたい。
ふと悪寒を感じて横に身体を移すと、両腕を突き出した桂介が後ろから通り過ぎた。
「んだよ。ノリ悪いぞ浩史」
言いながら僕に向く桂介。
「不意打ちしてその台詞はなんだよ」
男に抱きつかれて嬉しいと感じる人じゃないぞ。
そう言おうとした矢先、桂介の眉毛が片方だけ釣りあがる。
「どした?何かいい事あったか?」
お前に言うかっての。
「ないよ」
「バレてるんだから嘘吐くなって。ま、内容は訊かないでやるよ」
にやにやと意地の悪い笑みだ。言い返してやらないと気が済まない。
「頼まれても言わないよ。安心しろ」
けけけ、と奇怪に笑いやがるし。くそ。
放課後。
毎度のように何かと誘ってくる桂介だけど、今日はさっさと帰ってしまった。
そんなに解るものなのかな。・・・自分で考えて答えが出る問題じゃないな。
今日はちゃんとした晩飯、作らないと。昨日は結局時間がなくて店屋物にした。
朝飯だって簡単すぎる物だったし。
やっぱりそれなりの物でないと駄目だな。腹が持たない。
「帰ろ」
美里の声。
その顔は皆に見せてる明るいものだ。その筈なのに、何となく特別な表情に見えてしまう。
正直言って、誰にも見せたくない。
「帰るか」
僕は短く答え、一緒に教室を出た。
生徒玄関を過ぎた所で合流。歩き始める寸前に、ふわりと手を握られる。
・・・うん、まあ、いいか。
僕たちは無言で歩き始めた。
何回か口を開きかけて、止める。何も言わなくてもいい。そんな滅多にない静けさを
大事にしたかった。例えどんな話をしても、結局は明日のことに辿り着くだろうし、
そうなったら本当に何も言えなくなってしまうだろう。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
家の前に着く。美里の家もすぐそこだ。
足を止めて美里に顔を向ける。穏やかな目で僕を見つめている。
少し手に力を込めて言う。
「じゃ、また明日な」
「・・・あ、そうだ」
今まで忘れていた、と美里が言い出す。
「明日って、お父さんは休みなの?」
言ってなかった、な。うっかりしてた。
「休みじゃなかったら約束してないって。残業ないから親父が帰るのは、六時過ぎだよ」
学校が終わって帰れば一時。大体五時間。
ゆっくり、できる。
う、顔が熱くなってきた。
「う、ん。・・・じゃ、明日」
美里も頬を染めながら言い、ばたばたと帰ってしまった。
明日か。・・・いや、今日は今日のことを考えよう。
まずは晩飯か。
晩飯は昨日の不手際を挽回すべく量と質を両立させた。
あとは寝るだけだからそんなに豪勢にする必要はないとの説はあるけど、
やっぱり晩飯くらいはがっちり食いたいものだ。
しっかり食ってしっかり寝る。精神的な安定にはこれが基本だと思う。
風呂からあがり、あとは朝飯の準備と学校の課題を終わらせれば今日はおしまい。
もうすぐ親父が帰ってくる時間だな。
『プルルル』
受話器を取る。
『私』
「美里か。飯なら食い終わったけど」
流石にこれ以上は食えないぞ。
『そうじゃなくて、今から、会いに行ってもいい?』
「・・・え?」
会いに来る。他の用事はなくて、ただ会いに来る。
生まれて初めての出来事に上手く返事ができない。
断るつもりなんて微塵もないけど、どう肯定していいのか。
『行くね、ひろちゃん』
僕の言葉を待たずに美里は電話を切る。
…来るって、本当に?僕に会う為だけに?
『ぴんぽん』
来ちゃったよ、おい。…こうなったら成り行きに任せるしかないのかな。
玄関に足を運ぶ。
「今開ける」
開錠。かちゃ、と軽快な音でドアが開く。
一見して解るくらいの普段着で美里がいた。服の所々が傷んでいて、しかも
靴下にサンダルという警戒心のなさだ。
『ちょっとそこまでお買い物』どころじゃない。どう見ても『家族だから構わないよ』
との意思表示。表情も演技なんかじゃない、ごく自然な笑顔。
美里にとって僕がそういう存在になっている証拠。明日はもうひとつ向こうの関係になる。
「入っていい?」
「あ、うん」
我ながら気の抜けた返事だと思うけど、美里は意に介さずにあがって、僕に抱きつく。
「あは、ひろちゃん、だ」
胸元には黒い髪。背中には小さい手がふたつ。美里の香りが、酸素と一緒に全身に沁み込む。
美里が、僕の腕の中にいる。
とっくに理性は揺らいでいる。なんとか抑え付けようと力を入れても、美里を抱く腕が余計に
力強くなるだけだ。揺らぎはひどくなる一方。
──このまま、したくなる。明日の予定、今に変えるか。
さらり。黒い艶が流れて、赤い頬になる。潤んだ目になる。魅力的な唇になる。
申し合わせたように口付け。何度も何度も、軽く触れ合わせる。
満足したらしく、再び僕の胸に顔を埋めて熱い息を吐く美里。
熱い。何が熱いって、僕の気持ちが。美里は満足だろうけど、こっちはその先に進みたくて
しょうがない。
「明日だよね」
その通りだけど、・・・くそ。美里との約束を破る訳にはいかないだろ。
今日は我慢。
「そうだな。明日だ」
美里が顔を見せて言う。どうにかしたくなるくらいに可愛い笑顔だ。
「ひろちゃんは、・・・初めてだよね?」
面と向かって言う台詞かよ。・・・まあ、あんまり正直に言うのも何だか格好がつかない気がする。
「そりゃ、まぁな」
「・・・、よかった」
その笑顔が眩しい程の明るさになって、さらに恥じらいの色が加わる。
何だろう。美里はそれきり黙ってしまい、僕はそれでも待った。促す必要なんてない。
美里の準備が出来るまで待とう。
「私も、初めてだから・・・」
うん、まあ、そうだろうな。美里が僕以外の異性と親しくしてる所なんて見た事ない。
女友達は随分居るようだけど、それがかえってよかったのかな。
「それでね、ひろちゃん・・・その、なんにもつけないで、して欲しい」
・・・それは。
「ちゃんと、中で、して欲しいの」
駄目だろ。
それだけは、駄目だ。
「美里、駄目だよ。そういうのは、ちゃんとしないと」
責任が取れる環境じゃない。責任を持てる段階じゃない。
責任を取れる、持てるようになってからする事だろ。
「・・・そういう、お薬、あるから、・・・」
「絶対じゃ、ないだろ。美里、僕は、」
「お願い。初めてなんだから、ちゃんとしてよ。お願い・・・」
目も声も震えている。
僕は──断れない。こんなふうにお願いされるのは、間違いなく初めてだ。
つけないでしたい、というのはあるけど、それ以上に美里の願いを叶えるべきだと思う。
「解った」
「・・・うん!」
さっきの眩しさが戻った。よかった。美里の暗い顔なんて二度と見たくない。
っと、そろそろ時間だな。
柔らかい身体を離す。手だけを握って、僕は言う。
「じゃ、また明日な、美里」
「うん、ばいばい」
別れ際にもう一回接吻。僕たちは無言で手を振り合って離れた。
明日、この指が美里の肌に触れる。唇だって今日とは違う場所に這う。
思考の熱が冷めない。落ち着け。まだその時じゃないぞ。
『かちゃ』
「ただいま」
親父が帰ってきた。ドアを閉めず、外に視線を向けたまま言った。
「今の美里ちゃんだったよな。ちょっと見ないうちに、随分女の子らしくなったなぁ」
振り返った目には優しさがあった。僕とは小さい頃からの仲だ。親父も近所の子供以上の
親しみを感じるのは無理もないことだ。
「うん、そうだね」
明日には『女の子』から『女』になるし、そうするのが僕で、…いかに親父とはいえ、
それを話すのは躊躇われた。
まじまじと僕を見据える親父。感慨深げな表情だ。
ふ、と小さく笑って靴を脱ぐ。
「しっかりな」
昔からの口癖を僕の肩を掴みながら言う。親父の期待を裏切ることはしないつもりだ。
「解ってるよ」
「あちゃ、やっちまった」
火加減、失敗。微妙に納得出来ない程度の焦げ目がついてる。
「浩史、どうした?」
親父が言いながらテーブルに着いた。
「失敗した。今日のは美味くないかも」
親父は飯の出来にあれこれと言う人ではないけど、だからといってまずい物を出すのは
僕が納得出来ない。
「食えるんだろ?なら文句はないさ」
いつものように箸をつける親父。
失敗の理由なんて決まってる。
意識するなと思えば思う程、意識してしまう。
一応の計画としては、昼飯食って一息ついてから、のつもりなんだけど、
上手くいくだろうか。
いや、あまり考え込んでも駄目か・・・細かい所はその場で判断するしかない。
親父が出勤し、毎度の作業をこなして僕も出た。
「おっす」
「おはよ」
挨拶は出来たけど、その後は目を逸らしてしまった。
こいつの顔を見てるだけで、他の事がどうでもよくなってしまう。
「行こ」
手を取られて歩く。美里はきっと笑顔だろうけど、見ない事にする。
見たら、・・・多分、家に連れ込んだだろう。
そして、そのまま。
全く考えない展開ではないけど、やはり最低限の日課は済ませるべきだろう。
生活のサイクルが狂えば、他の事も上手くいかない気がするし。
「ひろちゃん」
いつの間にか生徒玄関。
美里を見ると、少しだけばつが悪そうな表情。
「?どうした美里?」
「授業終わってから、ここで待っててね。すぐには来れないと思う」
土曜の放課後。・・・だよな。友達の多い美里だ。そういった誘いは
僕とは比べ物にならない数だろう。ひとつひとつを断るだけで結構な時間を要するのは
当然かな。
「了解」
笑いかけながら承諾する。これまた写真に撮りたいくらいの笑顔が返ってくる。
心の緊張がやっとほぐれてくれた。
誰もが軽い足取りだ。
生徒玄関から校門までを明るい喧騒が埋め尽くしている。
放課後は大抵こんな感じだけど、土曜となれば殊更賑わう。
眩しい。手が届かないもの。届かないと知っているもの。そうするべきだと決めたもの。
だったら見なければいいだろう。だから、見ているのか。
「ひろちゃん」
声に振り返ると美里が少し息を切らせて立っていた。
「早かったな。もっとかかると思ってたよ」
手を握って歩き出して、会話。
「うん。ちょっと無理して来た」
「大丈夫なのか?仲が悪くなってもいいなんて考えるなよ」
「大丈夫だよぉ。いっつも聞く側なんだよ。偶に断るくらいなら平気だよ」
「ならいいんだ、うん」
周囲に振り回されてる印象はないか。大人数との付き合い方を心得てる様だし。
・・・本当にあの頃とは違う。ひとりでブランコに乗ってた気弱な子が。
変われば変わるよな。
「で、これからどうするの?」
美里の問い。あー、感情の熱が上がってきたな。まだ抑える所だろ。
「飯食ってからだ」
簡潔に答えた。言葉を重ねる程、口が止まらなくなりそうだ。
「・・・うん、そうだね」
美里も感情を冷ましているのだろう。声が小さい。
僕の立てた予定に肯定してくれてるようだし。後は、その衝動をどうやって
やり過ごすか、だな。
家の前に着く。でも手は離さない。
一度だって帰すつもりはないと意思表示する。
美里は、僕を正視していなかった。離さない手に熱のこもった視線を向けている。
表情ははっきりと何かを表していないけど、期待してくれているのかな。
目だけが僕に向いて、美里は頷いた。
美里を家に入れて、ドアを閉じる。
落ち着け。落ち着け。まずは昼飯だろ。落ち着け。
靴を脱ごうとしている美里。やや前屈みの後ろ姿。
「……、──」
…これが、我を忘れるってやつなんだな。初めてだ、こんなの。
一瞬だけ頭が空っぽになって、気が付けば美里を後ろから抱きしめていた。
両手はへそのあたりに。鞄は多分その辺に落ちてるんだろう。
美里の香りに昂ってしまう。計画なんて破棄だ。
「ずっと、美里の事、考えてた」
僕はありのままの本音を口にする。
「ん、は…ひろちゃん」
苦しそうに身をよじる美里。…何してるんだ、僕は。
勝手に先走ってどうする。ちゃんとしてやるって決めてただろ。
「…ごめん」
腕を緩めて美里を楽にする。
美里は鞄を靴箱に置いて、
「正面から、してよ」
言葉通りに僕の胸に顔を埋めた。僅かに覗く耳は赤い。
嫌がってない。だったら、このまま。
美里の顎に手をあてて上を向かせ、口付けた。
…物足りない。もっと深いところまでしてもいいのかな。
舌の先で美里の唇を突いてみる。
「っ!」
びくんと跳ねる身体。やっぱり、早すぎだった。
一旦離れるか。
「っ…、美里?」
離れる瞬間、ちろりと舐められた。僕の、唇が。
興奮を隠そうともしない美里の顔。
「私も、してみたい」
なら、しよう。
小さい背中を抱き寄せながら唇を重ね、舌を伸ばす。
美里の柔らかい唇を押しのけて、歯に当たった。
「ん、っ!」
だんだんと開く口。
待ちきれずに突き入れる。湿った美里の舌が触れた。
途端に引っ込んでしまったけど、すぐに戻ってくる。恐る恐る僕のに触れて、
止まる。安心させてやりたくて、じっと我慢。
少ししてからゆっくりと触れ合う面積が広くなる。きゅ、と撫でられる感覚。
限界、だ。
「ん!っふ!あ、む!」
誰も触れた事がないところに、誰も触れた事がないものを擦り付ける。
性交と何の違いがあるんだろう。その、本番だって同じように濡れているモノを
くっつける訳で、・・・だから、もっとしたくなる。
背にあてていた手を動かして、尻と胸に。
「んん、ぁん、…は、んく」
胸の中で悶える美里。
制服の上からでもこんなに感じてくれている。本当、我慢の限界。
強く揉む程、艶声は大きくなる。
しわが付いてしまうだろうけど、止めない。僕が触れた証拠をもっと作るんだ。
「んぁ…くぅ、ん、あぁ…ん」
首に何度も着地する唇。尻の谷間に指が食い込む。胸にある下着の感触。
もどかしい。直に触れたい。何だって服が邪魔してるんだ、くそ。
『がたん』と鞄を蹴飛ばす音で、思考の熱がやや下がった。
顔を離して美里を見る。高揚した頬と、潤んだ瞳。
前哨戦はこれでお終いだ。次の本戦は布団の上でしなきゃ。
『ぐううきゅるるううぅぅううう』
…最悪。
偶には譲れ、食欲。我も三大欲の一角ぞ!なんて主張は解るけど、時を選べっての。
くすくすと美里が笑い出す。
いや、可愛いんだけど、…この腐れ胃袋め。
「こんなの、考えてもいなかったね」
あははと心底可笑しそうに言う美里。全く・・・何だか、気が抜けてしまった。
「こんなことも、あるんだな…ったく。飯、何でもいい?」
無念さを誤魔化して僕は言う。
「何でもいいよ。美味しく作ってよ」
「おし、まかせろ」
そうして僕達はやっと靴を脱いだ。
飯を一緒に食べる為に家へ入れた訳じゃない。
ということで、手っ取り早く出来上がるチャーハンにした。
美里は大人しくテーブルについて、テレビを見ている。
バラエティー番組らしい。派手な笑い声が響き、大した内容ではないのだろう、
美里は落ち着いた表情でくつろいでいる。
──美里。さっきの、僕の胸で喘ぐ美里。これから、・・・いや、止めよう。
昼飯の完成が先だ。美里のことはそれから。
「はいお待たせ」
二人分のチャーハンをテーブルに並べた。
味噌汁も出して、他のおかずは朝の残り物だ。
「いただきます」
それからは終始無言で食べた。話題ならなくもないけど特別過ぎて話せない。
つまりは、これからの事しかないのだ。
いや、それは僕の考えだ。美里はどう思ってるのか。
「ごちそうさま、ひろちゃん」
「お粗末様」
硬く、そのくせ濃密な雰囲気を感じながら、食器を台所に運ぶ。さてどうするか。
ボウルに食器を入れて水を貯める。
やっぱり、あのまました方が良かったのかな。こうなると上手い具合にきっかけが
作れない。
『ざぶざぶ』
ボウルから水が溢れる。こんなふうに簡単に感情を溢れさせる事が出来たら
楽なんだろうけど、一度抑えた感情はなかなか溢れ出してくれない。
小さい頃からの癖。感情の変化すらも発作のきっかけになりえるから、常に冷静に。
面倒だとは思わない。残念だとも思わない。
とっくに慣れているし、身を守る為でもあるし。
『ざぶざぶ』
…洗うか。水に触れて少しでも頭を冷やせば何か思いつくだろう。
一歩踏み出そうとして、動けない。シャツを背中から引っ張られてる感覚。
見なくても解る。引っ張ってる美里の顔はきっと必死なんだろう。
ちゃんと、答えてやりたい。
水を止めて振り向く。予想通りに俯いているけど、その姿が訴えるのはひとつだけ。
しよ、と。無言で伝えてくる。
「ちょっと待ってろ、美里」
誰にも邪魔なんてさせない。これからは二人だけの時間にするんだ。
玄関に足を運んで、施錠。ついでに電話線も抜く。
僕の行動を見ていた美里は、より不安そうに期待を高めたようだ。
落ち着かない顔で、所在なく両手を組んで立ち尽くしている。
…僕を、待っている。こういう時は男が動くものだろう。
少しでも緊張を和らげる為に笑いかけて、手を取る。
美里も笑ってくれた。
『ぱたん』
僕の部屋の唯一の出入り口が閉じる。
ばくばくと心臓が連打している。抑えようにも方法がない。
脳への血流も格段に激しいのだろう。正気を保ってるのが不思議なくらいに頭が熱い。
初めてなんだから、多少の不手際は覚悟すべきだろう。
・・・・・・──、・・・よし、やるぞ。
思い切って振り返る。
「ひろちゃん」
先手を取られたけど、やり直しなんて不可だ。
とにかく、・・・どうする。
ぐ、と抱きつかれた。黒髪が僕の胸にある。この体勢、さっきの──
「もう一回、してよ」
「・・・解った」
顎に手を当てて、上を向かせる。
とっくに加熱している頬が可愛い。期待してる瞳も。
「ん・・・」
唇を重ねて、すぐに赤い舌を結んだ。
ぐちゃぐちゃに唾液を混ぜあう。二度目だから、どうすれば深いところまで
触れ合わせられるのか、何となく解る。
「は、ん・・・ふは、ん・・・、・・・ん、ぁ・・・」
ドアに美里を押し付け、さらに続行。
唾液が垂れる。追うように唇を外して、首筋まで遠征。
「ふぁ、あ・・・は・・・、っ、やぁ、ん!」
口なんかじゃ足りない。僕の全身で美里の全身に触れたい。
戻して舌を絡ませて、美里の制服のボタンを外す。
「っ!んん!あむぅ・・・は、んん!」
羞恥の声が出そうになる度に、口を塞ぐ。
脱がせる方だって恥ずかしいんだ。一度でも止めたら、続かなくなってしまう。
ぷちぷちと全部外し、開いた上着の中に両手を差し入れてゆっくりと揉む。
「んん!・・・あぁ、ん・・・く、ふぅ・・・ん」
口を離して手の動きに集中する。
美里は目を瞑って胸を突き出して、僕の拙い愛撫に酔っている。
ひとつ揉む度、悩ましげに眉の形が変わって、艶かしいため息が喘ぎ声と一緒に出てくる。
シャツの上からなのに、こんなに乱れている。もっと触れたい。
片手を離して、スカートの中に。足も絡ませて、唇で耳をこねる。
どこも柔らかい。女性の身体。
僕の性器だってとっくに充血してる。本来の役目を果たせる状態だ。
それを知って欲しくて美里に押し当てる。
「──っ!、ひろ、ちゃ、ぁん!」
小さく叫ぶと、急に力が抜けた。
「ん、あぁぁ…、ん…」
甘い声と共に腕から抜け落ちて、ぺたりと床に座ってしまった。
「美里?どうした?」
「ひろちゃん、すごい、上手…」
惚けた顔で、そんな事を言う。
こっちはただ必死だっただけだ。優しく出来たかどうかも解らない。
視線の高さを合わせて訊いてみる。
「そんなに、よかった?」
「…うん、立っていられなかった。…気持ち、よくて」
色っぽい笑顔で答える美里。
ここで、気持ちいいと言ってくれたところで終われたらいいんだろうけど、
まだ先がある。痛い思いをさせなくちゃいけない。
それを考えると気持ちが萎えそうになるけど、ちゃんと最後までしよう。
美里との約束を守るんだ。
「立てる?」
言いながら手を伸ばす。美里は笑顔のまま頷いて、僕の手を取って立ち上がった。
そいて後ろにあるベッドに視線が向く。
美里も最後までするって言っている。・・・躊躇う必要なんてない。
「服、脱ごうな」
流石に脱ぐところを見られるのは恥ずかしいらしく、さっさとパンツ一丁になった
僕に、ベッドに座って目を閉じてて、と美里は言った。
布が擦れる音が何度かして、僕のすぐ隣に美里が座った。
ベッドが軋む音が響き終わって、数秒して美里の声。
「いいよ、ひろちゃん」
「ん」
目を開けて美里を見る。
僕と同じく一枚だけ下着を着けている。形のいい胸。
それとは場違いな程、落ち着いた微笑みを浮かべている。
「ずっと前から、こういうふうになりたかったんだよ、ひろちゃん」
その告白に、頭が真っ白になる。
「あ、・・・うん」
気の利いた返事が出来ないけど、そのくせ馬鹿なことを言ってしまった。
「美里は、落ち着いてるな」
こっちは未だに心臓が鳴りっぱなしだ。
「・・・そんなこと、ないよ」
その顔に、赤みが戻ってくる。瞳に日の光が反射して──
って、
「カーテン、閉めるの忘れてた」
慌てて閉めてベッドに戻る。・・・思わず、苦笑い。
「こんなのばっかりだな」
何をするにも邪魔が入ってしまう。
今度こそは、と思っていても上手くいかない。
ふふ、と小さく笑った美里。僕の手を握って言う。
「これからは、何があっても無視しようね」
「・・・そうだな」
何回しても飽きない軽い口付けと、何度しても気持ちいい深い接吻を
しながら押し倒した。
さらりと広がる艶のある髪。上気した顔。うん、すごく、
「可愛い」
正直に言ってしまった。
今度こそ夕日のように染まった美里。
何かを言おうとして口をぱくぱくさせて、ようやく声を出す。
「・・・ばかぁ」
いや、それも可愛いんだけど。
つられて顔が熱くなる。ちょっとしたやりとりで下がっていた興奮にも飛び火して、
無言で抱きしめてしまう。
「は、ぁ・・・」
美里の鼓動が伝わってくる。とくんとくん。
僕のもきっと伝わっているだろう。すこしの間、お互いの鼓動を確かめ合って、
赤い頬に口付け。
気持ちが盛り上がってきた。美里は、どうだろうか。
「美里、いい?」
「いいよ、ひろちゃん」
幾分余裕が出来たらしい。声もしっかりとしている。
美里を見つめながら鎖骨に唇を這わせ、舌で唾液を塗りつける。
その心を昂らせたくて、意識して音を立てた。
ぬちゃ、くちゃり。
「んん、…ぁ、ん…」
所謂性感帯ではないところ。骨を直接愛撫するのに等しいけど、
それでも感じてくれている。
「何か、くすぐったい感じ・・・ぅ、ん」
つるつると薄皮を撫でながら喉元、そして胸の谷間へ。
喘ぎが少しずつ早くなっていく。膨らみに到達するのを待ちわびているのだろうけど、
まだしない。
胸の上下がさらに加速する。薄く目が開いたかと思うと、僕の首に腕が巻きつく。
「ひろちゃんの、ばかぁ」
恥じらいよりも、その先への好奇心が勝ったからこその言葉だ。
緊張も大分解けているようだ。
「解ったから、離して」
するりと腕が解けて、美里の目が閉じる。
僕は視線をきれいな丘に向ける。…いきなり突起に触れるっていうのは
間違ってる気がする。その少し横に口付け。
「ふ、あ…っ!」
ただ押し当てただけなのに、ぶるりと身体全体が震える。
未知の感覚に慣れてないから、こんな過剰な反応をするんだろうな。
だったら、溺れるくらいにいっぱいしてやればいい。
突起に触れないように何度も口付け、吸い上げ、舐める。
もう片方も手でしてあげる。
「くぁあ…ん!きもち、いい…んん!」
震えは捩れに変化する。ねだるような、妖しい仕草。
美里の手は僕の髪をかき混ぜ、頭皮を強めに撫でている。
やっぱり無意識の行動なのかな。…でも、気持ちいい。
美里の柔らかさを確かめる度に、自制を失っていく。
僕だけじゃ、駄目だ。美里も同じにしてやろう──。
「ふ、ああああん!」
乳首に軽く口付けただけなのに、一番大きな声だ。
硬くて、唇でしっかりと挟める。舌でくりくりと転がる。
周囲は舌で突付いた分だけ形が変わる。ふにふにとした柔軟な感触。
側面の柔らかさとは対照的に、程よい硬さを持つ突起。
女の子のからだって、何でこんなにも色っぽい矛盾があるんだろうか。
美里は荒く呼吸をしながら首を振っている。
今までにない快感を受けるのに必死、という感じだ。
まだだよ美里。もっといけるんだよ。
胸にあった手を、ふとももの内側へ伸ばす。
「ふあぁ、──っ!」
一気に上体が反り返る。そっと撫でてるだけなのに、全身がびくびくと跳ねあがる。
「あぁ、ん、ああああ!」
僕の頭を撫でていた手が枕元のシーツを握り締める。
下着に近づく程、音量はあがる。シーツのしわが深くなる。
──下着に、手が届いた。
「っく、ああぁぁ──っ!」
一際喘いで身体を硬くして、嘘のように弛緩する。
「おい、美里?」
「ん、うぅ・・・ん」
・・・その、達してしまった、らしい。虚ろな目。僅かに痙攣している脚。
少し経ってから、ようやく意識のある目を僕に向ける。
「ごめんね、ひろちゃん…」
「何で?」
「私だけ、気持ちよくなっちゃった」
「いいんだよ…僕なら、これからでもなれるし、その…」
これから痛い思いをさせるんだから、一回くらいは気持ちよくさせたかった。
美里の視線に不安が混じって、直後に消える。
「怖くないって言えば嘘になるけど、…うん、ひろちゃんが一緒なら大丈夫だよ」
覚悟は決まってるみたいだ。だったら、やり遂げるだけだ。
「…解った」
唯一残っている白い下着に指をかける。
美里は羞恥を隠そうともせず、それでも腰を浮かせて協力してくれた。
股間の茂みを開放し、きれいな脚を通り抜ける下着。
そして、おずおずと開く。
「っ、……」
美里の大事なところが見える。もっと見たくて、顔を近づける。
…見てるだけじゃ駄目だろ。ちゃんと、しなきゃ。
指を伸ばして、その入り口に触れた。
「くぅ…っ!」
じりじりと熱くて、同じくらいの熱量を持った液体が零れている。
時間をかけてよかったと思う。この潤滑液がなかったら、本当に痛いだけだろう。
・・・濃密な美里の匂いに、頭がくらくらしてしてしまう。
今すぐ入れたいけど、もっとこの液を出してやろう。
人差し指を入れた。
「ふ、あ、あ、あああ!」
大して太くもない指なのに、こんなにきつい。
ぎゅうぎゅうと肉の壁が押し付けられて、異物でしかないと訴えるようだ。
根元まで入れるのが躊躇われて、途中で抜く。
「ん、くぅ・・・ん」
美里の原液が後を追うように溢れ出して、尻の穴を濡らす。
僕の指だって濡れている。
こんなに狭いんだ。もっと広げなきゃ、充血した僕のなんて入らないだろ。
思い切って指の付け根まで入れる。
「ひぁああああ!」
さっきと同じくきつい。広げようとして円を描くように動かすけど、
みっしりとまとわりつかれて、熱い膣は形を変化させない。
「ああ、ん!・・・や、──っ!」
一本じゃ、駄目か。中指も使わないと。
抜く時もがっちりと掴まれて、その感触に僕も抜きたくなくなってしまう。
正直、本能が狂いそうだ。
狂ったように美里を犯したい。美里を犯してもっと狂いたい。
駄目だよ。ちゃんと抱くんだ。僕だけが満足しちゃ、いけないんだ。
出かけた本能を飲み込んで、濡れた人差し指に中指を添える。
「・・・まって、ひろちゃん」
美里は、より不安を増した顔をしている。
「どうかした?」
「う、ん・・・指で、しなくても、いい」
そうは言っても、
「その、・・・ちゃんと広げないと、痛いだろ?」
その顔に、不安を塗りつぶす程の恥じらいが表れる。
「ひろちゃんのと、・・・、同じかたちに、したいから・・・」
「──っ!」
沸騰した。身体の隅々まで、余すところなく。
もう待てない。美里はひとつになりたいって言ってる。
何が何でも叶えなきゃいけない望みだ。
限界まで漲った性器を露出させる。
美里は驚いた様子で、僕のものを見詰めている。
ぐびりと唾を飲み込んでいる。緊張するなっていう方が無理だよな。
反り返る性器を抑え付け、美里の秘所に少しだけ入れる。
「ん!」
美里は僅かに呻く。
それ以上進まないようにしながら上半身を乗り出し、美里の顔を見下ろす姿勢に移る。
かける言葉なんてない。どんな言葉でも、美里を楽にしてやれる筈がない。
「いくよ」
「・・・うん」
目を閉じる美里。
僕も覚悟を決めて、性器を侵入させた。
「──・・・・・・っ!ぁ、ぅ、〜〜っ!」
痛そうだ。まだ途中だ。止めることは許されない。
女の子の部分が応戦している。必死に、そのままで居たいと。
ごめんね。僕はその先の関係に進みたいし、美里だってそう言っているんだ。
幼馴染はもう十分だ。想いを寄せ合う恋人同士でも満足できない。
男と女の関係に、なるんだ。
もぎ取られるような締め付け。その中でも僕の性器は行為を止めず、
最後の抵抗も貫く。
そして、美里自身も触れたことがない場所に辿りついた。
「ぃ・・・っ!ぁ、っ!・・・は、ああ!」
気を抜けばすぐにでも果てそうだ。
熱いぬめりがぎゅうぎゅうに絡んでくる。それこそ自慰なんて子供騙しの
快感にしか過ぎないだろう。
美里は──痛そうだ。眉が歪んで、呼吸すらも上手く出来ていない。
「美里、大丈夫?」
「・・・、う、ん。何とか、・・・っ」
無理をしてる声音だ。やっぱり、今日はここで終わらせるべきかもしれない。
「はぁ・・・いいよ、ひろちゃん」
その身体を走り抜ける痛みを堪えて、美里は言ってくれた。
「解った」
その痛みが消えることなんてないだろうから、少しでも慣れて欲しい。
ちょっとずつ動かそう。
「くぅ・・・ん、ん!」
声を噛み殺す美里。何か、痛み以外に気を引きつける方法。
この姿勢じゃ、唇を重ねるくらいしかない。
「ひ、ん・・・はむぅ・・・っ!──ん、んん!」
舌を伸ばし合って、性器と同じく密着させる。
じゅぶりと音を立てて、性器の動きは滑らかになる。
美里の中も、微かではあるけど僕の動きに合わせるように収縮を始めている。
膣内を満たすと拒むような締め付け、引き抜くとそれを阻むように掴まれた。
一往復させる度に、理性が蒸発しそうになってしまう。
本能の暴発はすぐそこまで来ていた。
美里は痛そうに喘いでいる。
早く終わらせたいけど、これ以上激しくするのも気が引けるし。
「・・・っ、く、あぁん・・・ん、ふ、ぅん」
その声に理性の大半が揮発した。
僅かではあるけど、快楽の声が混じっている。
・・・くそ、滅茶苦茶に動きたい。もっと美里の悦声を響かせたい。
「ひろちゃ、あぁん・・・」
「美里?」
一見して無理やりだと解る笑みだ。
「そんなに、我慢しなくても、っ、いいんだよ?」
「そう言うけどな、・・・」
「そんな苦しそうなひろちゃんなんて、見たくない」
自分がどんな顔なのか解らないけど、美里が嘘をついているとは思えない。
苦痛の中での艶声も、嘘じゃない。
なら、
「どうしても痛かったら、言えよ。止めるからな」
「うん、言うから、・・・続き、しよ」
薄皮一枚の理性を総動員して深いキスをする。
「あん、・・・ん、んん、・・・ん!、ぅん!」
口付けながら、僕の腰は信じられない強さで美里に打ち付け始める。
半ば他人事のようで、そのくせ快感だけは脊髄を駆け上がってくる。
「い、──っ!ああ!きゃ、あああん!」
勝手に動く腰。邪魔だぞ本能。美里を抱いていいのは僕だけだ。
僕の美里なんだ。
支配権を奪い返して、先端が抜け出る寸前まで腰を引いて、叩き付けた。
「はぁ、っ!」
短い喘ぎを僕は受け止め、もう一回。
がくん。
「〜〜っ!ん、ああ!」
苦痛で歪む顔が、僅かに快楽の色を増していく。
僕の拙い行為で美里が変わっていく様子に、際限なく昂ってしまう。
とっくに出そうだけど、その最後を拒否してしまう僕。
…理由は明確だ。
「はぁあああん!っは、…っ!は、あ!」
何度も何度も、気持ちをこめて打ち付けた。
はじめて見る女らしい美里。ずっと見ていたいけど、こっちが限界だ。
一番奥の所を小刻みに愛撫しながら、言う。
「美里、…っ!出すよ!」
僕の言葉に、美里の膣内はぐんぐんと締まってくる。
「うんっ!うんっ!いいよぉ!」
背中を反らせて、ぐいぐいと膨張しきった性器を押し付けた。
美里の締め付けも今までで一番きつくなる。背骨が反り返って、僕の性器が
より深いところまで埋まっていく。
「く、う!」
「っく、ふぁああああん!」
性器が潰れそうに狭くなる膣内で、射精する。
どくん。どくん。
一回一回に味わった事がない快楽が伴う。精液が尿道を通る快感が、美里の締め付けで
普段より数倍もはっきりと自覚出来る。
「は、──っ!、くぅ…っ」
精液の勢いはもう失われているけど、尚も性器を押しつけ続ける。
一滴だって外にこぼしたくない。全部、美里の中に入れるんだ。
「ん、…ぅ、ん」
美里が僕のを全てを受け入れたのを確認して、脱力。
どくどくと心臓の音が聞こえる。美里を見ると、放心状態だ。
目は半開きで、焦点はどこにも合っていない。
・・・とにかく、一度離れよう。このまま身体を重ねてしまいたいけど、美里の負担を
増やすわけにはいかない。
やや力を失った性器を引き抜く。美里の秘蜜で光り、先端には粘つく精液が糸を引いている。
じわじわと秘所からも精液が溢れ出している。
その、自分でも信じられないくらいの量だったと思う。恐らくは濃さも。
しかもコイツは今だにやる気を失っていないし。ちょっとした刺激で一気に機能を回復
するんだろうな。
シーツには赤い点が幾つかあった。血が出るくらいの損傷。痛かっただろうな。
仰向けの美里に添い寝する。髪を撫でながら、丁度いい言葉を思いつけない。
痛かったか、なんて言えないし・・・それを謝るのもおかしいだろうな。
とりあえず、頬に口付ける。
もう苦悶の様子は殆どない。
と、半眼の黒目が僕に向き直す。
「・・・ひろちゃんは、大丈夫?」
僕の身体を気遣う問いだ。普通なら反対だろうけど、それも仕方ない。
「うん、何とかな」
本心を言えば、こういった行為に耐えられるか疑問だった。
運動で発作を起こす人だっている。僕も何度か運動中に起こった事はあるけど、
それは本当に限界まで動いての場合だ。そうは理解していても、不安はあった。
美里を抱いて、その不安がなくなった。歳を重ねた分だけ少しは軽くなってるのかな。
「よかった・・・」
言いながら僕の腕にしがみ付いてくる。
「じゃあさ、ひろちゃん・・・」
かと思いきや、僕の上に這い上がってくる。
「み、さと・・・?」
「私が、動く番だよね」
未熟ながらも、妖しい笑み。胸に当たる柔らかさと重複して、僕の
性器はあっという間に硬さを取り戻す。
ぶるんと振り上がり、美里の丸い尻をかすめた。
「・・・あは」
胸に顔を載せる美里。やけに嬉しそうに、恥ずかしがる。
続けるつもり、みたいだけど。
「美里、・・・その、痛くないのか?」
「痛かったけど、ちょっとは気持ちよかったんだよ」
囁くような声だけど、何だか──背筋がぞくぞくしてしまう。
「ひろちゃんと私って、身体の相性、いいんだよ」
「・・・ばか、そんな事言うなって」
恥ずかしくて美里を見ているのがつらい。
だからね、と美里は続けて言った。
「次は、もっと気持ちいいと思うよ」
妖艶な微笑みで腰を浮かせ、僕の性器に指を絡める。
「──っ!」
ぎこちない指使い。だけど、がちがちに性器が充血してしまう。
美里がそんな事をしているという事実が、余計に僕を興奮させる。
「ん・・・っ」
ずぶずぶと秘所に性器が埋まる。さっきよりは随分と楽に入っていく。
締め付けも弱く、でも視線は熱いままだ。
突き上げようとする本能を固めて、待った。
美里は自分から動くって言った。ちゃんと待ってあげないと。
「は、あん・・・こう、かな?」
僕の胸に両手をついて、腰を振り始めた。
目は閉じてない。とろんと下がった目尻が、身に渦巻く快感を示しているのか。
「ん、ん、やっぱり、・・・いいみたい、ひろちゃん・・・」
その呼吸はだんだんと浅くなっていく。その合間に色めいた声が混じり始めた。
「ぅん、…あ、んん…ね、知ってる?」
ひどく妖しい顔で美里は言い出した。
「私にこういう事していいのって、ひろちゃんだけなんだよ」
その妖しさは薄れていって、真剣な面持ちになっていく。
「ひろちゃんにこういう事していのは、私だけなんだよ」
ぎしぎしとベッドを軋ませる美里。
視線は強くて、振るう腰にも感情がこもって、
熱にうなされるように僕の名前を呼んでいる。
ひろちゃん。ひろちゃん。ひろちゃん、ひろちゃん。
…思い出す。
美里をいじめっ子から助けた後、僕はひどい発作を起こしたんだ。
動くに動けなくて、ただじっとしてるしかなかった。
ひろちゃん。ごめんね。ひろちゃん。ごめんね。ひろちゃん、ひろちゃん。
何回も僕に謝る美里。答える余裕なんて全然なかったけど、
それでも美里は僕を呼び続けた。美里は全然悪くなんかないのに、謝り続けてくれた。
次の日からは見違えるように明るく振舞うようになった。
おとなしい子が、それこそ人が変わったように明るくなる理由。
自分の為にそうするなら、僕と二人っきりの時でもそうする筈だ。
なのに、そうしない。僕にだけ、おとなしい、本来の自分を見せる。
僕にだけは。
…こんな時だっていうのに、胸がいっぱいになる。
美里が他の人に明るくなった理由。
僕をあの時のように苦しめたくないから、なのか。
いじめられないような明るさを演じているのは、その為なのか。
あんな昔からずっと続けてきたんだ。僕にだけ特別な感情を持っていた、ということだろう。
何で気付けなかったのか、僕は。
「ごめんな、美里」
「…ひろ、ちゃん?」
もっと早く気付くべきだった。
小さい頃からずっと見ていた美里。もっと早くから、報われるべきだった努力。
僕以外に誰が報いてやれるんだ。
「ごめん。気付けなくて、ごめんな」
離れていた美里の身体を引き寄せて、今度こそ正面から言った。
「好きだよ、美里」
「…っ!ひろちゃん…うん、私も、好きだよ」
そのまま唇を触れ合わせて、ベッドの弾みを利用した突き上げを始める。
もう止まっていられない。これまで気付けなかった分を、返そう。
「ん、あ!く、あ、あぁ!」
悦声がひとつ漏れる度に、上体が起き上がって背筋が伸びていく美里。
かたちのいい乳房が上下に揺れて、快感の水かさはどんどん高くなる。
性器と密着している膣も、僕の射精を促すようにきりきりと搾り始めた。
ただきつかった最初の性交とはまるで違う快感。
美里にもちゃんと感じて欲しい。熱っぽい声を浴びながらひたすら突き上げて、
時には尻を掴んで入り口を擦る。
「はぁ、あ、あ、ああ!」
一層美里の声が高まって、それと同調するように射精感も強まっていく。
次も全部注ぎ込む。それには、なによりも勢いが必要。溜めて溜めて、一気に全てを
解き放つんだ。
ありったけの体力を使って美里を踊らせた。
「ひろ、ちゃ、あぁん!こわ、れ、んああ!」
そんなのは僕だって同じだ。溜まりきったのが、今にも爆発しそうだ。
「ひ、あ…っ!──っ!〜〜〜〜っ!」
美里は肺の空気を出し切って、声を出せないまま絶頂した。
僕にも限界が訪れ、放出。
「っ!ふ、ぅ…!」
僕の精液を受け止める美里。全身がわなわなと緊張しながら震えて、数瞬してから
くず折れた。胸と胸が重なって、美里の興奮ぶりがよく解る。
とくとくとくとく。鼓動が全く同時だ。
心拍数が時間と共に落ちていく。二人一緒に。
肩口にあった黒い滝が流れて、美里の笑みになる。
何も言わないけど、それだけで美里が満足してるのが伝わってくる。
温かい身体。いい匂い。離すのが勿体無い。もう少しこのままでいよう。
ひとつの布団の中で向き合って、意味もなくじゃれ合う。
きれいな髪を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じる美里。
しばらくすると僕の手を掴んで頬擦り。うっとりとした表情が可愛い。
何となく掴み返して僕の胸に押し当てた。年相応の、小さい手のひらが温かい。
それを追うように胸に顔を埋めてくる美里。
と、布団に入って初めての声。
「あ、凄い」
「何が?」
僕にやや驚きの表情を見せて、続けた。
「ひろちゃんは解らない?」
何だろう…特別してることなんてないけどな。
「うん、解らない」
「意識してないのに腹式呼吸してるよ。私は、出来ない」
言われてから気付いた。確かに腹だけが動いて、胸は全く動いていない。
意識して胸を膨らませて呼吸。しかし。
「なあ、何でこんな苦しい呼吸してるの?」
本当に疑問だ。僕にとっては苦しいだけの胸式呼吸だけど、美里はこれを自然にしている。
普通はこうなんだろうな。
美里の表情が曇る。
「そうだよね、昔からだもんね…」
何か言いたそうな顔だ。
「どうした?」
「訊きたい事、あるんだけど…」
「何?」
「うん、…答えたくないなら無視していいからね。気分悪くしたらごめんね。
…、ひろちゃんは、ご両親を、恨んだことはないの?」
……?何でだ?
「いや、ないよ」
「本当に?私、今でも思い出せるよ。小さい頃、夜中にひろちゃんの家にタクシーが来て、
すぐに走っていくんだよ。あれって、発作だったんでしょ?」
あー、その話か。
「らしいけど、一回も覚えてないんだ」
母さんや親父から何回も言われた事だ。あんなに連れていったのに覚えてないのかって。
思い出せないんだからどうしようもない。
「何回もあったんだよ?何日も続いた時だってあったんだよ?…本当に覚えてないの?
…そんな身体で産んだご両親に、そういう感情は本当にないの?」
僕の喘息はアレルギー体質によるものだ。
間違いなく遺伝によるものだろう。母さんも親父もそういった症状は少しはあったみたいだ。
美里がそんな事を思うのは当然とも言える。
けど。
「恨むなんて、これっぽっちもないよ」
これについてはまず間違いなく断言できる。
「小学の運動会の、マラソンは覚えてる?」
「…何となく」
だろうな。
美里や他の人にとっては、面倒で疲れるだけのプログラムに過ぎないだろうけど、僕は違った。
「あの時は僕も走った。体力ないのにな。…で、当たり前だけど一番最後にゴールしたんだ。
前にゴールした人の、十分以上も後にね」
途中で何回も歩いたけど、足を止める事はなかった。
「母さんがね、いつでもしつこく言うんだよ。時間がかかってもちゃんと最後までやれって。
やれない事なんてないんだってね」
「……」
美里は黙って聞いている。
「走ってる最中はそればっかり頭にあった。やれない事はない。それを守りたかった。
守ったところを見せたかったんだよ」
ゴール前の拍手。どんな気持ちなのか解らないけど、いらない。僕が欲しかったのはそんなものじゃない。
「で、運動会が終わって家に帰ってから、思いっきり褒めてくれたんだ」
マラソンが終わった直後は普通に振舞ってたけど、それは他人の目があったからだろうな。
子供心にもそのくらいは解った。家に帰ってからは凄かった。
「何ていうか、うん、あれがあったから、こうしていられるんだと思うよ」
やってよかった。諦めなくてよかった。とても、嬉しかった。
苦労する事に価値があるって確信したのは、あれが初めてだと思う。
「母さんがいなかったら、こういう性格にはなってなかっただろうし、
親父がいなかったら、そもそも生活だって出来ていない」
──あ、そうだ。思い出した。
「言うの忘れてた。…ありがとうな、美里」
美里は呆けたような顔だ。どうやら本人も忘れているらしい。
「…?」
「僕の病気、調べてただろ」
「あ、・・・うん、そうだけど、ひろちゃんはさ、」
すこし苦しそうな美里。そのままでいいのか、と続けるのだろうけど。
「…何もしなかった訳じゃないよ」
それなりにはやった。あれこれと試して、効果はあまりなかった。
これからも付き合う覚悟はもう出来てる。治らないと確信さえしている。
それに、
「何もかも損ばっかりって訳でもないよ」
不思議そうな顔で僕を見つめる美里。
まあ、理解するのは難しいか。
「そりゃ、発作は苦しいけどな。…治まった後なんかは『生きてる』っていうのを
本当に実感出来るんだよ。思い通りに頭も身体も動く。当たり前の事なんだけど…
うん、気持ちいいんだ。
友達はいなかったけどな・・・
思考の快楽なんていう簡単には得られない感覚が身についた。
単純な計算だけじゃなくて、普通とはちょっと違う方向の発想もしてくれるし。
多少の寒いのやら厚いのやら、痛いとか苦しいなんて発作と比べれば何てことない。
損ばかりじゃないんだよ」
改めて向きなおして、僕は言う。
「それと、美里とこういう仲になれたし、な」
一番の人が出来た。こんなにも早く。
美里はというと、恥ずかしそうに顔を隠してる。
絶対に守りたい人。これから迷う事はない。僕は、この人を守るんだ。
恩返しなんかじゃない。僕がそうしたいからそうする。
美里だから、そうするんだ。
胸元からのちろちろと窺うような視線に、声が重なる。
「…言ってて恥ずかしくない?」
ぐあ、それを言うか。
なら反撃してやろう。
「言わせた方はどうなんだよ?」
また顔が見えなくなった。照れてるんだ。
それでも背中にまわってくる腕。嬉しさの表れだよな。
少し経ってからそろそろと顔をあげる美里。
「ね、ひろちゃん」
「何?」
「ちょっとだけ、眠ってもいい?」
初めての体験への緊張が解けたのだろう。
忘れていた疲労が噴きだすのも無理はない。
「いいよ。時間になったら起こすから」
「うん、ありがと」
すぐに静かな寝息が聞こえるようになった。
僕も眠いけど美里を起こすまで我慢だ。
過度の熱が冷めて、温かい静謐で満ちる部屋。
同じ布団の中には大事な人がいて、無防備な寝顔を見せてくれている。
・・・きっと、そうだ。
勝手な思い込みだろうけど、
これは間違いなく『幸せ』のかたちのひとつなのだろう。
前編 終
スンマセン予定が狂いやがって時間がなくなりますた
今日はここまで
・・・・・・
言葉もありません。すごいです。エロパロ板でこんな作品見れるなんて
思いませんでした。
喘息の苦しさってやつは体験しないと分からないんですよね。
俺は風邪引いたときにしか出ないから軽い方なんでしょうけど。
描写もすごい良かったです。タダで読めるのが幸せですよ。ホントに。
<真面目モード>
素晴らしい作品でした。
本職の方…でしょうか? このレベルの作品は
一朝一夕には書くことが出来ないと思います。
特に喘息というキーワードを効果的でした。喘息に少しでも
関わっていれば、主人公への共感の度合いが強くなります。
反面、喘息を知らない方には、主人公への共感度が
低くなってしまう諸刃の剣かも知れません。
最後に、残念な点を二つほど。
作品中にUDプロジェクトについて、詳細に言及していますが、
これは全体の雰囲気からすると、大きく扱いすぎかと。
もう一つは、
>>498の「『うるせー馬鹿』と書き足して返してやる」です。
少々興ざめかと感じました。どうしても例のAAが…。
後編とエピローグを、心待ちにしております。
</真面目モード>
新着が70超えててちょっとビビリましたが、丁寧な作風に思わず読み耽ってしまいましたよ。
正にスレッド名に違わぬ、切なくて甘い純愛話。いやほんと、このスレ巡回していて良かった。
四条さん、続き楽しみに待ってます。
普通ならここでエピローグときてEDなんでしょうが、まだ前編が終わっただけなのか……俺には想像もつかん程のスケールみたいだ。
小説書いた事無いけれど、どう足掻いてもここまでレベルの高い小説を自分が書けるとは到底思えん……
中条氏、GJ!!!!!!!!!!!!! です
>>561 『うるせー馬鹿』は俺的にはアリかと。2chに投下された小説である事を嫌でも実感させられるし。
つーか、食ってたカップラーメン吹きそうになりますたw
564 :
563:04/08/28 03:39 ID:23VWpKsV
ぐあ……
× 中条氏
○ 四条氏
スマソ吊ってきます
あのAAはわかるけど、「うるせー馬鹿」程度で2chがどうこうってのは俺には少しわからない。
それはさておき、面白かったよ。
作者は女性でしょうか?
勃ったけど抜けなかった、というより抜くタイミングがつかみづらかった。
その点で作者は男性ではないのでは?などとかんぐってしまいました。
スレ汚しすみません。
内容も文体も大好きです。
皆さんレスありがとうございます
励みになります
>>561 UDはかなーり強引につっこんでありますが、雑談スレで話題を振った野郎として
一回くらいはやっておくべきかな、と。
UDを芯に置いた話も考えたりするんですけどね、一体どうしろと?って感じですな。
「うるせー馬鹿」は全体が重い内容なんでちょっとでも軽いところを作っておこうと
……これも強引杉。反省しろ自分。
>>564 ィ`
>>566 他のスレでも訊かれた事ですが、男です。
身長1850mm体重95000g強のどこからどうみても男です。
が、エロは苦手なので実用性の低い出来になってしまうのですよorz
では後編
でかっ!
「はぁ」
下校途中の重いため息。白く変化しながら舞い上がり、霧散する。
そのはるか向こうに季節外れの風船が浮かんでいた。
たったひとつだけで、どこに行くのだろう。
──思い出す。
小学校の頃だ。風船に将来の夢を書いた紙切れをつけて飛ばすという
他愛のない行事があった。その頃の私はお母さんと同じ看護婦になりたいと思っていた。
迷う事なく札に書き終わって、風船のひもにくくり付ける。
すぐ隣にたひろちゃんの札には何も書かれていない。
色々と考えがあって、どれにすればいいのか迷っているのだろう。
校庭に集まる私達に先生の声が響いた。
『皆書いたわね?合図をしたら一斉に飛ばすんだよ』
ひろちゃんはまだ書いていない。もう時間がないのに、まるで焦っている感じはない。
何もせずに、白いままの札を見つめている。
『いいわね?せーの、それ!』
クラスの皆が手を放して、色とりどりの風船が空に飛んでいく。
私の青い風船も一緒に飛んだ。ひろちゃんの赤い風船はまだ飛んでいない。
飛んでいく風船の群れを見届けたひろちゃんは、ようやく手を放す。
将来の夢を書く筈の札はついていない。それどころか、皆の風船とは全然違う方向に
飛んで行ってしまった。同じ風に乗る事が出来なかったのだ。
なのに、満足そうだ。
『いいの?』
私は訊かずにいられない。何でそんな事に満足しているのか。
『いいんだよ。これでいいんだ』
ふらふらとひとりぼっちで飛んで行く。
私には耐えられない事。それなのに、ひろちゃんはそれを選ぶと言う。
何でだろう。
続いて目を移したのは、手に収まっていた真新しい鍵だ。
一度も使っていないけれど、既に様々な思い出が詰まっている。
ひろちゃんと初めて身体を重ねて随分経つ。
デートらしき事もしたし、身体をひとつにしたのも数える程にはした。
何度目かの温かい時間を共有して、この鍵を渡された。
『僕の家の鍵だよ。美里ならいつでも来ていいから』
その言葉の意味に翻弄されながら、私もスペアの鍵を渡そうとする。
『いらない。行く時は必ず連絡するから、嫌だったら断っていい』
感情の薄い顔だけど、優しかった。
私が嫌な事はしない。私を大事にしてくれると言う。
『…うん、解ったよ』
その気持ちが嬉しくて、真っ直ぐな返事をする。
満足そうに頷くひろちゃん。
そんな顔をさせた事に、私も満足だ。
保育園の頃に助けられ、二度とあんなことにならないように明るい子を演じるようになると
様々なものを得られるようになった。
友達とか、クラスでの今の位置とか、他にも沢山ある。
全部、この人から貰ったようなものだ。
お返しをするきっかけが今まではなかったけれど、これからはちゃんと返せる。
少しずつ、返そう。
だというのに、何でこんなことになっているのか。
ここ二週間、ひろちゃんとまともに会話をしていない。
少し前から何となく避けられてる感じがあったけれど、それを訊く機会がなくて
こんな状況になってしまった。私だけじゃなくて、阿川君とも話をしていないようだ。
今日の登校も別々だ。あの手の感触は失われている。
気付かないうちに傷つけてしまったのか。……それは考えにくい。
どうしても耐えられない失言があれば、それなりの言葉が来る筈だ。
あの雨の日だって私の言葉に激しく反応したし、笑うときは目いっぱい笑う。
クラスの皆はひろちゃんを『感情の薄い人』なんて言うけど、そんなことはない。
薄いというよりも、常に出す状況を選んでいるのだ。
それなりの背丈だし、わりと整った顔だと思う。
試験での点数も高いし、突飛な発想も出来る人だ。
皆の前でも感情を出せば結構な人気にはなるだろう。
なのに、しない。
どこか思いつめたような表情だし、それに加えて無駄のない行動が機械じみた印象を
強めてしまう。友達は口を揃えて言うものだ。
『なんだか近寄りがたい人だね』
実際、私と阿川君以外の人がひろちゃんと親しくしている所は見た事がない。
その事実もあって、彼女達の言葉を否定出来ない。
阿川君がどういったきっかけでひろちゃんと親しい仲になったのかはしらないけれど、
私と同じく、ひろちゃんにとっては特例なのだろう。
……そうなのだ。特例なのだ。
普通の相手だけならば、ひろちゃんの周りには誰もいないのだ。
何故だろう。
逆なら納得も出来る。嫌な人には決して近寄らず、それ以外の人にはそれなりの
対応をするのが当たり前だろう。そうやって自分の許せる相手を探すのがごく一般的な
感覚の筈だ。同姓なら良い友達だし、異性ならば恋愛の対象になるだろう。
なら、ひろちゃんは最初から誰にも理解させない方向なのだろうか。
……思い出してみると、彼は小さい頃からひとりでいた。
特定の誰かを選ばず、不特定の多数にも入らず、
たったひとりきりで過ごしていたのを何度も見てきた。
何よりもひとりを選ぶなんて、それこそ人付き合いで手痛い失敗をすればの話。
しかし、ひろちゃんにはその相手さえいなかった。誰とも接したことがないのに、
誰とも接する事を避けていた。接する事を絶っていた感すらあった。
そういう事に小学校の中学年のあたりで気が付いて、私はひろちゃんに積極的に
触れる行動をとったものだ。時を同じくして阿川君とも話すようになったひろちゃん。
時間を追うごとに私や阿川君とは親しくなったのだから、一度は解決した事だと言っていい。
人と接するというのがどんなものなのか、ひろちゃんは理解しただろう。
問題は、今の状況だ。
特例だった私と阿川君を放棄する理由。
何か──大変な事になっているのではないのか。
「……、──って、角倉」
誰かの声に顔を上げる。
冷えた教室。放課後。阿川君だけがいて、他の人は全員帰ったらしい。……ひろちゃんも。
やや心配そうな顔をしている阿川君が言う。
「どしたい?えらく考え事してたらしいけど?」
「……うん、ちょっとね」
恐らくは水原さんとかが声をかけてくれたのだろうけれど、それにも気付けなかった。
こんなにも悩むくらいなら正面から訊くべきではないのか。
でも、信じて待つ方がいい結果になる気がするのも確かだし。
「あいつ、浩史のことだろ?」
バレてるけれど、隠す事なんかじゃない。
「うん、…ひろちゃん、どうしたんだろうね」
肩をすくめて同意する阿川君。
この人でも解らないらしい。
「帰ろうぜ。じきに暗くなるぞ」
冬の夕暮れは早い。
途中まで送ると阿川君は言ってくれて、私は承諾した。
誰かといるだけでこんなにも心が安らぐ。ひろちゃんだったら、意識せずに笑顔になって
しまったものだ。
私は阿川君と特別仲が良い方ではないので、こうして送ってもらっている事に少しだけ疑問を
感じている。教室では他の子を相手にすることが殆どだ。この人と話す機会なんて数える程だった。
……ひろちゃんともっと話すべきだったな。
昔の、いじめられていた頃の思い出。その再現が怖くて他の友達との付き合いを選んでいた私。
ひろちゃんとは家が近く簡単に行き来できるということもあって、学校ではまず接することが
なかった。──それが、原因なのだろうか。いや、違う気がする。
「お、あそこだな」
阿川君が何かを見つけたように顔の向きを変える。
その先には小さな公園があった。ブランコやシーソー、水飲み場などがある。
「ちょっと話したいことあるんだ。時間、いいか?」
珍しく真剣な様子だ。教室ではどこかおどけたような仕草を絶やさない人だから、
相応の内容なのだろう。
「いいけど、何?」
「長いから、あのブランコに座って話すか」
赤い二つのブランコは両方とも空いている。
近づいて座ろうとすると、
「ちょっと待った」
阿川君はハンカチを懐から取り出して、私が座ろうとしていたブランコに敷く。
こういう風に妙に気がまわる人だ。
「ありがとう、阿川君」
「なに、俺の家ってこんなのには煩いんだ。…ちょっと待ってろ。
飲む物買ってくる」
小走りで近くの自動販売機まで行って、ホットコーヒーを二つ買った。
「お待たせ」
私は受け取りながらお金を出そうとすると、いらないよと制止された。
「俺にわがままに付き合ってくれる相手に、そんなことさせられないって」
阿川君は少し笑いながら隣の席に座る。
コーヒーに口を付ける。熱さが喉から身体全体に沁み行く感覚が気持ちいい。
阿川君も無言で飲み始め、懐かしむように言い出す。
「…ここでさ、浩史と喧嘩をしたんだよ。小学の時だけどな」
目の焦点をどこにも合わせずに、つらつらと続ける。
「いや、喧嘩じゃないか…」
喧嘩だけど、喧嘩じゃない?
「いや、悪い。順に話す。
小学の時だよ。浩史の病気のこと知って、親にどんなもんなのか訊いてみたんだよ。
んで、俺は学校の帰りに浩史の前で聞いたまんまのことを言って、
本当かって訊ねたんだよ。
そしたらさ、何て言うか…能面みたいな無表情で俺の襟を掴んで、
ここに連れ込まれたんだ。
で、喧嘩になったんだ」
ひろちゃんの病気を調べたから解る。
すこし前まで喘息という病気は精神的、心理的なものが原因だとされていた。
今でもそれを信じている人は少なくないようだ。
阿川君のお父さんも、多分これを信じていたのだろう。
「さっき喧嘩じゃないって言ったけどな、要するにそのくらい一方的だったんだ。
俺だけが殴られて殴られて殴られて。
必死に殴り返すんだけど、全部避けられた。
冷静にキレるやつって怖いな。普通なら、がぁーって触れないくらいに熱くなるんだろうけど、
浩史の場合はドライアイスみたいにぎんぎんに冷え切って、触れない感じだな」
感情の爆発ではなく、理屈の狂走。
ひろちゃんらしい怒り方だと思う。
「一発は大したことないんだけどな、あんなに連続で食らえば
さすがに堪えるぜ。…で、こりゃ敵わねぇかなって思った時に、
浩史の手が止まった。
肩で息しててな、そんな体力で喧嘩売るんじゃねえ!って思いっきり
殴ってやろうとして、……出来なかったよ」
阿川君も見たのだ。
私と同じものを見てしまったのだ。
「凄い汗、出してた。目の焦点はどこにも合ってなくて、…聞いたこともないような
音で呼吸してるんだ。
そのときは何も知らなかったけど、ただ事じゃないのは理解出来た。
少し待ってもそのまんまだった。不安になって、声をかけたんだ。
大丈夫かって。…でも、反応しない。
ふらふら歩き始めて、何となく動かすのは拙い気がしてな、腕を掴んで止めたんだ。
……。冷たかった。本当に生きてるのかって思ったくらいだよ。
浩史は俺のことなんかいないみたいに水飲み場まで行って、水を飲んでた。
馬鹿みたいに飲んでて、それでも息は荒いままなんだよ。
飲み終わった後も俺の方を一回も見ないで帰ったんだ。
ふらふら歩いて、躓きかけたりしてな。
…俺は、何も出来なかった。見てるだけだったな」
私も同じだった。訳がわからなくて、なにも出来なかった。
ひろちゃんの名前を何回も呼んだけれど、恐らくは届いていなかったのだろう。
「俺、家に帰ってから考えたんだよ。
あの時のあいつ、どんなところにいたのかなって。
……意識にあったのは家の場所くらいだろうな。
それ以外の、俺の声とか、掴んだ手とか、晴れた空とか、あそこの焼き鳥屋の匂いとか、
涼しい風とか、──ひょっとしたら、色も、名前も、時間も。
……全部が全部、塗り潰されてたんだろ。その発作の苦しさでな。
──どんな世界だ、それは」
理屈だけなら想像もつく。理屈だけだから想像がつく。
実際に体験すれば、想像もしたくないような世界だろう。
「んで、次の日はけろっとした顔で学校に来るんだよ。
俺にちゃんと謝ってくれたよ。浩史は悪くないのにな。
その時の事を聞いたら、いつもなんだから気にしないでいいって言うんだ。
……いつも、だって?そんな世界に慣れてる?
何だそりゃ?そんなのが、日常だって言うのか?そんな日常を認めてるのか?
色んなヤツと知り合ってたけど、あいつが一番解らないヤツだよ。
何とか解りたくて、何回も話しかけてるうちに友達みたいなものになってた。
……なってたつもりだったんだけどな」
阿川君はようやく顔を上げて、私に向きなおす。
やや明るい声で私に訊いた。
「角倉はさ、……浩史とは、深い仲になったんだろ?」
頬は赤くなってるだろうから、言わなくても解るだろう。
でも、ちゃんと言おう。
「うん、……そうだけど」
ふ、と弱々しい笑みになる阿川君。
「だよな……うん、あいつの事頼むよ。
今、俺の声が届かない所にいるらしいんだ。
あの時の、浩史を殺しかけた事への償いをしなきゃいけないのに、俺じゃどうしようもない」
阿川君は立ち上がって、私に頭を下げた。
「……頼む。俺に出来るのは、お前に頼むくらいしかないんだ」
私も座っていられずに立って、しどろもどろに答えた。
「解ったから、頭をあげてよ。……うん、なんとかしてみるよ」
確証なんてないけれど、阿川君に約束する。
私だって以前の関係に戻りたい。戻して、お返しをしなければいけないのだ。
頭をあげた阿川君は私を真剣に見詰めて、もう一度よろしく頼むと言ってから帰った。
迷うのは止めた。ひろちゃんの家に行こう。ひろちゃんと、話そう。
薄暗い夕暮れの中で、真新しい鍵だけが場違いなくらいによく見える。
ひとつの傷もない鍵。こんな気持ちで使うなんて想像も出来なかった。
……使おう。
チャイムを押したとしても、まず反応はないだろう。
その事実は確実に私を萎えさせるに違いない。だから、押さない。
私の重い気持ちを嘲笑うような軽い音で、鍵は開く。
きぃぃ。ドアが開く音も何だか空虚な印象だ。不安になる。
来るのが遅すぎたのではないだろうか。
中の様子は、暗くてよく見えない。
明かりが点いていない。多分、お父さんが帰ってくる寸前まで、この暗さなのだろう。
パソコンの音だけが聞こえる。無機質な起動音。
ざわざわと焦りが濃くなっていくのを感じる。嫌な感じ。
──ひろちゃんが、大変なことになってる。すぐにでも助けなきゃ。
明かりのスイッチを探す時間がもったいなくて、
暗いままひろちゃんの部屋に向かう。何度も往復した廊下だ。
目を瞑ってもどこに何があるのか解る。それ程に親しみのある風景なのに、
暗いというだけで殆ど異世界としか思えない。
……そうだ。こんな所から、ひろちゃんを取り戻すんだ。
こんな所に居ていい人じゃないんだ。
ひろちゃんの部屋。冷たいノブを掴んで、捻る。
開くドアは無音だった。その向こうのひろちゃんの部屋も、無音だ。
横のカーテンは開いていて、僅かだけれど明かりの代わりにはなっている。
正面のベッドに座ったひろちゃんの脚だけがうっすらと見える。表情は全く見えない。
──行かなきゃ。ここから先に行けるのは、私だけなんだから。
踏み出した足が、微かな音をたてる。
みしり。
「……美里、僕をひとりにしてくれ」
ひどく暗い声だ。勢いなんて全然ないのに、気圧されそうになる。
止まってはいけない。もっと近くまで行こう。
歩く度にみしみしと何かに亀裂が入りそうな音がする。
すぐ側まで近寄ると、ふとももの上に投げ出された両手が見えるようになった。
でも、顔は相変わらず見えない。
震えそうな喉に力を入れて、私は言った。
「何で、そう思うの?」
微かに笑ったような気配。こんな、すり潰されそうな暗闇で、笑える意味。
「簡単な話だよ。
欲しいものがあった。欲しくて欲しくて、あまりにも欲しかったから、
僕はそれを考えないようにした。そうやって生きてきたのを忘れてた。
忘れてればよかったけど……思い出した」
見えないけれど、その笑みが深くなっていくのが解る。
自分を笑うための表情。
「絶対に手に入らない欲しいもの。そんなものの中にいたらおかしくなるのは当然だ。
だから、欲しくないと決めたんだ。
──そう決めなきゃ、壊れるだけだ。壊すだけだ。
でも欲しい。その気持ちは、やっぱり消えてくれなかった。
ずっと殺し続けたんだけど、死んでくれなかった」
ひろちゃんが欲しがるもの。それでも絶対に得られないものなんて、
ひとつしかない。
「まだ羨ましいって所で止まってる。
何とか止められている。……誰かといたら、その先に進んでしまう。
だから僕の側にいない方がいいよ、美里」
その先が何なのかは予想はついてる。高く積まれた嫉妬が崩れる時、それは大量の暴力を伴う。
でも、ひろちゃんをひとりになんかさせない。
私はその気持ちをこめて、ひろちゃんの両手を握った。
それに応えるように、ひろちゃんの指が絡まってくる。
「なぁ、解るだろ?
美里に、ひどい事、したくないんだ。
離れてくれよ」
私はそういう事にはならないと思う。
だって、
「……大丈夫だよ。ひろちゃんは、ずっと頑張れたんでしょ?
私にはとても出来ない事をしてきたんだよ?
ひろちゃんは強いんだから、そうはならないよ」
何年も耐えられたなら、それ相応の強さがある筈だ。
「……強い?お前、何言ってるんだ?」
しかし否定される。
肯定して欲しくて、私は必死に続けた。
「前に、損ばっかりじゃないって言ったでしょ?
あんな風に受け止めるなんて、強くなかったら出来ない事でしょ?
私には出来ない。そんな事が出来るひろちゃんは強いんだよ?」
「本気にしてたのか、あれを」
またしても否定された。
ひろちゃんの息が、荒くなっていく。
「ああ、そうだ。損ばかりじゃないさ。
……そう思わなきゃ、やってられないんだ。確かに嘘じゃないけど、
本音でもない。建前ってやつだよな。
──そんな、建前にしがみ付かなきゃ立ってられないなんて、どこが強いんだよ。
そんなのは強さじゃないだろ。
どう考えたって、弱さでしかないだろう」
ひろちゃんの手が少しだけきつくなった。
「だから、離れろ。こんな弱いヤツ、何するか解らないんだぞ」
はぁはぁと荒い息。
嘘だ。その言葉は絶対に嘘だ。
これも建前だ。誰も近づけさせない為の壁だ。
「……本当に、そう思ってるの?」
もし本当なら、私の手をこんなにも優しく握るなんて不可能だ。
「本当だ。……これ以上僕に近づくな。
美里に、ひどいことするんだぞ」
……これも、建前。
手の優しさは変わらない。本心では行くなと言いたいのだ。
もうひとりは嫌だと訴えている。
それなのに口からは離れろ、という言葉。
「──違うんでしょ?」
本当にしたい事はもっと違うはずだ。
「…………」
答えはない。
私とより距離を置こうとしているのが解った。
そんなところに行ってもなにもないだけなのに、何故行きたがるのか。
私は、行って欲しくない。ちゃんと恩返しをしたいのに。
不意にひろちゃんの手から力が抜ける。
慌てて掴みなおし、強めに力を入れると僅かだけど反応があった。
本当は行きたくないのだ。なのに、行こうとしている。
理由も語らずに、誰も触れられないところに消えようとしている。
許せなかった。こんなに苦しんでるのに解らなかった自分が。見ているだけで良くなるなんて
思い込んでいた事が。待っているのが一番の解決方法だなんて決め付けていた私が。
全て、この人を知っているという傲慢が生んだ結果だ。
数回身体を重ねただけなのに、知った気でいた。
……私はひろちゃんの事を何も知らない。知っていたら、こんな目に会わせることなんてなかった。
「ひろちゃん……」
「………」
答えはない。
あの時と同じだ。
ひろちゃんはひとりで必死に耐えている。私は、見てるだけだ。
あの時と同じで良いのか。何も出来ないと諦めたいのか。諦めて、抜け殻のように歩くひろちゃんを
見たいのか。私の想いが全く通じなかったひろちゃんにしたいのか。私への想いが全くないひろちゃん
にしたいのか。
私は、この人を喪いたいのか。
……嫌だ。それだけは嫌だ。やっと掴まえたひろちゃんの手。絶対に離しちゃいけない。
この向こうに隠れているひろちゃんを、助けなきゃいけない──!
「ひろちゃん!」
握っていた手を、思いっきり引っ張った。
ずるりとひろちゃんが闇から出てくる。その勢いで、私に圧し掛かってくる。
月に照らされたその顔は苦痛に歪んでいて、今にも泣き出しそうだ。
これが、ひろちゃんの素顔だ。誰も見せた事がない、本当の顔。
「……駄目だよ。僕に触れるな」
「何で、そう思うの?」
ぎり、と歯を食い縛るひろちゃん。
そして抱きしめられた。ひろちゃんの顔は私の肩に埋まって見えないけれど、
さっきと変わらないだろう。
ぼそぼそとひろちゃんは語る。
心の闇で色づけした暗い声だ。
「……。この心は病んでる。こいつの芯は、苦しみで出来てるんだ。
何度も何度も苦しんで、それにも慣れてしまって、……どうかしてるよ本当。
苦しいのが正常。楽なのが異常。
この苦しみがなくなったら、それこそ僕は狂ってしまうんだよ。
……こんな考えは絶対におかしい。おかしいのに、僕にとっては絶対の真理だ。
だから、こんな危ないヤツは捨ててしまえ。
美里までこんな風になる必要なんてないだろ。
触れたら、僕みたいになるんだぞ?」
ならない。そんなことは嘘だ。
「大丈夫なんだよ?ほら、私なら全然平気だよ?」
「それでも、だ。……僕は、美里とは違う。同じ事が出来ない。同じものが見れない。
同じように歩いて、将来に向かえないんだ。
誰とも一緒になれないなら、皆から離れてしまえばいいんだ。
解るだろ?
……だから、捨ててきたんだ。走ったり跳んだり投げたり、友達も知り合いも先輩も後輩も。
全部捨てて生きてきたんだ。いつ消えてもいいようにしてきたんだ。
繋がりが多ければ多いほど、残る悲しみは大きいだろ。
だから、ひとりになるんだよ僕は。
どんな時に何があっても、誰も苦しまなくてもいいようにするんだよ。
僕の所為で、美里を苦しめたくないんだ。
……美里を、不幸せにしたくないんだよ」
その言葉で私は確信する。
ひろちゃんを取り戻すことが出来る。こんな暗い所から連れ出せる。
「……だったら、余計離せないでしょ?」
「どうして、そんなことが言えるんだよ?」
ひろちゃんと過ごした時間が次々に思い出され、胸に湧き出る感情は確かに本物なのだ。
「今、私は幸せなんだよ?」
「……っ!」
ぐらりと揺れる大きな身体。
「私を不幸せにしたくないなら、ずっと傍に居てよ。ひろちゃんが居なくなったら、
私は不幸せになるんだよ?」
「……みさと」
「ひろちゃんだって、私が傍にいる時は幸せなんでしょ?私から離れて不幸せになりたいの?
……本当に、ひとりに戻りたいの?」
はぁはぁとひろちゃんの呼吸が荒くなる。
「……ちがうに、決まってる……っ!」
搾り出すような声で、ひろちゃんは最奥の感情を形にし始めた。
「ひとりは、もう嫌だ。寂しいのは嫌だ。やっと美里と一緒になれたのに、離れるなんて事は
したくない。ずっと一緒に居たい…!」
ぎゅう、と私を抱く腕に力が入る。
私を離さない為の言葉と行動だ。これで、ひろちゃんは何処にも行かない。
私の傍にいる事を選んでくれたのだ。
「ねぇ、……もっと言いたい事、あるんでしょ?いくらでも聞いてあげるよ?」
ひろちゃんは全体重を私に預けている。今にも倒されそうだけれど、重くなんかない。
この人は、もっと重いものを背負ってきたのだから。
「私なら大丈夫だよ?ひろちゃんの代わりに支えてあげるから、
全部支えてあげるから!…ちょっとだけ楽になってもいいんだよ?
休んでもいいんだよ?
もう、我慢しなくてもいいんだよ?」
いつも疑問だった。
興味本位で何度も訊ねたものだ。どのくらい苦しいの、と。
決まってひろちゃんは同じ答えをする。つくりものの笑顔で、機械のように全く変わりなく。
『きついぞ』
そんな顔と声で塗り固めなければならない程、膨大な感情が渦巻いているのに、
何でそんなに我慢してるんだろう。
苦しい、きつい、楽じゃない。もっと適切な表現があるのに、それを使わない。
何故、それを言うのを我慢してるんだろう。
「ねえ、誰もいないんだから、私しかいないんだから、
言いたい事、言ってもいいんだよ?」
それを言わせたいと思う。
ずっと溜め込んでいた感情を、その言葉と一緒に吐き出させてあげたい。
「……意味ないだろ、そんなの」
「言ってよ。滅多にない機会なんだよ?」
「馬鹿。そ、んなこと、言えない。美里に、聞かせられない、だろ」
とっくに出掛かっている。言葉を詰まらせながら、ひろちゃんは言おうとしない。
多分、私が特別な存在だからだ。自分への評価を下げまいと頑固に意地を張っているのだ。
私は腕に力を入れ、胸と胸をより密着させる。何を聞かされてもどこにもいかないと伝えたかった。
「……、みさと」
「なに?」
数秒だけ沈黙して、その身に満ちていた誰にも言えなかった感情が、ついに噴き出した。
「みさ、とぉ……ぐ、うう!」
震える声と、身体。
「──つらかった、よぉ……っ!」
意味のある言葉になったのはそれだけだった。
その後からも出てくる感情は涙と嗚咽にしかならなかった。
長年の蓄積。時間がどれだけかかるか解らないけれど、全部を出させてあげて、
全てを受け止めよう。
そして、私が大丈夫なところを見せてあげるんだ。
もうひとりにならなくても良いと教えてあげよう。
意地を張る必要がない、素直になれる相手がいる事も解らせてあげるね、ひろちゃん。
ぐしぐしと顔を拭いて、ひろちゃんは暫くぶりの言葉を発した。
「ああ、泣いた」
私と一緒の時に見せる優しい笑み。ほっとする。ひろちゃんはやっと戻ってきたのだ。
私は彼の頬に口付け、迎えの挨拶。
「お帰り、ひろちゃん」
「……うん、ただいま、美里」
もっと実感が欲しくて、何度も軽い接吻をする。
ひろちゃんも嬉しいのだろう、月明かりに照らされた頬が赤くなっていく。
「ん、…は、んん……」
ひろちゃんの勢いが増していく。抱きしめる腕にますます力が入っていく。
どうやら私を抱きたくなったらしいけれど、今はしない。
「は、あ。待って。時間、ないんでしょ?」
ひろちゃんのお父さんが帰る時間までは少ししかない。
そういう仲だと知らせる良い機会だと言えなくもないけど、私としては
そんな事を気にせず行為に没頭したい訳で。
「……うん、そうだよな」
やや残念そうな顔と声音。
それも一瞬だけで、すぐに両方とも真剣なものになる。
「ありがとうな、美里。助かったよ」
「……うん、もうこんな事しちゃ、駄目だよ」
頷くと、もう一度肩口に顔を埋めるひろちゃん。
「でかい貸し、作っちまったな」
そんな事はない。私が貰ったものに比べれば大したことがない程度だ。
それに私一人の力なんかじゃない。こうしてひろちゃんを戻せたのは、阿川君の言葉もあったからだ。
「阿川君も心配してたんだからね。ちゃんと言わなきゃ駄目だよ」
「……うん、解った」
それから少しの間、私達は無言で抱き合った。
私よりも太い腕。厚い胸。ゆっくりとした鼓動。
──身体の芯が、じんじんとむず痒くなっていく。抱いて欲しい。ひろちゃんを、
全身で感じたい。
けど、今日は駄目だ。
「ね、三つだけ、お願いしていい?」
気付けばそんな問いを口にしていた。
その三つは既に頭にあって、そんな馬鹿な事を言わなければならないことが恥ずかしい。
「なに?」
ひろちゃんの声は穏やかで、その内容を全く想像できていないようだ。
恥ずかしいけど言いたい。この疼きをきれいに消化したい。
「一週間後、お昼ご飯食べてから、私の家に来て」
顔が熱い。ひろちゃんの耳元で、私を抱いて欲しいと宣言したのだから当然だろう。
「……明日じゃ、駄目か?」
それも悪くはないけれど、どうせなら思いっきりしたいのだ。
一週間後も経てば冬休みに入る。そうなればお母さんに気を遣う必要もないし。
「うん、駄目。で、二つ目はね」
ひろちゃんの首に腕を巻きつけて引き寄せ、口付け。
「ん、っふ……ぅん、……っ」
とろとろの唾液と熱い舌を吸い合った。
思考が熱を持ち始めて、でも支配されないように気合を入れながら続ける。
くちゅくちゅと淫らな音。意識がはっきりしてる分、普段よりも強い快感。
「は、んん、みさ、……っ、は、むぅっ……」
息苦しいけれど、もっとしよう。
もっとして、ひろちゃんの心を私の感触で埋め尽くしてあげよう。
「…っ、……っ!ふはぁ……」
月明かりが伸びながら落ちる透明な糸を万色に彩る。
ぞくぞくと燃え盛る本能を力づくで抑えて、私は言った。
「こういう事、毎日しようね」
自分でも解るくらいに艶めいた声だった。おそらくは顔だって相応のものになっているのだろう。
ひろちゃんは苦笑いして答える。
「この先までってのは、駄目か?」
ひろちゃんは私よりも盛り上がってるらしい。私の身体に直に触れたいと言う。
けど、そこまでしてしまったら絶対に止められなくなってしまうだろう。
だから、ここまで。
「うん駄目……それで、三つ目、なんだけどさ……」
これを言うのが一番恥ずかしい。
ひろちゃんは僅かに笑っている。どんな言葉が出るのか楽しみにしている感じだ。
「えっとねぇ、その時まで、ひとりで慰めちゃ、駄目だよ」
我ながらひどい事を言うよなぁ……
「美里、それは、……流石にきついぞ」
何だか今にも死にそうな顔になった。私は笑いを噛み殺して、止めを刺す。
「その、いっぱい、したいんだから、……頑張って溜めてね」
……凄い恥ずかしい事言ってるな、私。
もうちょっとは遠まわしな言い方をしたかったけれど、そんな余裕がないくらいに
昂っているのは確かだ。
はしたないと思われそうだけれど、そういった欲情を溜めに溜めて、一気にぶつけ合いたい。
ふ、と何か諦めるような笑いでひろちゃんは承諾してくれた。
「ま、頑張るよ」
ひろちゃんの事だ、間違いなく守りきるだろう。
「うん、頑張って」
励ましの言葉を言うけれど、こんな使い方をする人なんて私くらいだろう。
「な、美里」
「なに?ひろちゃん」
「美里も我慢しろよ。僕だけじゃ、意味ないんだからな」
かぁ、と思考が白熱した。
言われると、その言葉の凄さが解る。その、本当に──我慢するのが難しいことなのだ。
しかし約束したのだから、私も守らなきゃいけないのだ。
「……解ってるよぉ……」
「よろしい」
ひろちゃんは笑いながら私の頭をガシガシと撫でた。
私を褒める手。いつもの手の感触。
──って、簡単に立場が逆になってるけれど、まぁいいだろう。
私の表情の変化を見届けたひろちゃんは、腕を伸ばして部屋の明かりを点けた。
『ぱちり』
明るい部屋。本来の明るさ。いつものひろちゃんだ。
安心したのを知って欲しくて、その胸に頬擦りする。
これは私にとっての求愛行為の一歩手前だったりする。
両手でひろちゃんの腰を必要以上に突き出させて、そのまま胸から覗きあげれば
私がその気なのだとひろちゃんには伝わる。
ちなみにひろちゃんの求愛行為というのは私のそれよりも思いっきり直球で、
私を正面から抱きしめて、耳元で『お前を抱きたい』みたいな事を囁くのだ。
その仕草と言葉に凄く感じるものがあって、わざと言わせるように振舞った事もある。
私の中途半端な行為に、ひろちゃんはお返しとばかりに耳元で囁いた。
「じゃ、一週間後」
ふるふると私の大事なところが悦んでいる。予行練習のように収縮して、
顔に出ないようにするのがやっとだ。
待ち遠しい。これからの一週間は天国か地獄なのか、その判断が難しいところだ。
「ん、……一週間後ね」
同意と性的な喘ぎが混じった甘い鼻声が出た後に、確認の言葉。
お互いの言葉が届いたのを確かめ合って、私達は無言で部屋を出た。
ぱちん。ぱちん。
弾けるようなスイッチの音と共に明かりが戻る。廊下、居間、台所。
戻った。これで、元通りだ。
何の不安もない日常が蘇ったのだ。
「……よかった」
「──そうだな。……悪かったな、美里」
手を繋いでいたひろちゃんが謝罪の言葉を言う。
何も悪くなんかないのに。いつかは整理しなければいけない事なのに。
でも、この言葉で全てが終わるならば否定ではなく肯定すべきだろう。
「うん、許してあげる」
その後は久しぶりに送ってもらって、私は自分の家の前で振り返る。
「じゃ、また明日ね、ひろちゃん」
ひろちゃんはにっこりと笑って、
「──っ!」
無断で私に唇を重ねた。
軽くなんかない。舌を噛み合わせる深い口付けだ。
「は、ん……ふ、はふ……」
予期しない快感に、私はあっさりと陥落した。気が付けば
ひろちゃんの胸に指を食い込ませて、より深く結合出来るように顎を差し出していた。
辺りは真っ暗だけど、誰かに見られるかもしれないという事実が余計に私の気分を
盛り立てる。
「ん、……ぁ、ぅん……」
寒い屋外は熱い吐息を白いかたちに変えた。
とすんと玄関に押し付けられながら、私はひろちゃんの胸で悶える。
私を抱く腕は力強くて、停止と続行の決定権はひろちゃんだけが持つ状態。
不快じゃない。求められ、与えることが出来ているのが素直に嬉しいと思う。
かちかちと歯が当たり、つるつると涎が行き来する。
口からの音響が全身に響いて、これ以上喘ぎが大きくならないように
自制しているのがつらい。
気持ち、いい。
「……、っ!、──、は、あぁ……」
快感の残滓を拾い上げるので精一杯。他の事に意識が向けられない。
鼻先が擦れるくらいの距離で、雄性を剥き出しにしたひろちゃんは言った。
「今日の分だよ、美里」
これが、一週間も続く。とっくに身体は加熱していて、ひとりの時でも冷ます事も許されないのだ。
やっぱり地獄だ。幸福の地獄だ。
とんでもない約束、しちゃったなぁ……
「頑張れよ美里」
ひろちゃんの声でやっと現実に戻れた。
目の前の人だって同じ気持ちなんだ。その言葉の半分は自分を励ます
つもりで言ったに違いない。
「うん、頑張ろうね、ひろちゃん」
私は目一杯力を入れて返事をした。
ひろちゃんは軽く頷くと、おやすみと言って帰っていった。
……本当、約束しなければ、すぐにでも部屋にこもって自慰に耽っていただろうな。
ひろちゃんの指とか、唇とか、充血した性器を思い浮かべながら、……待った。
そこで終了だよ、私。
「ねぇ美里、なんか変だよ?」
「何でもないったら、大丈夫だってば」
「具合が悪いんなら、早退しなよ。終業式終わるまで、本当に持つの?」
「平気だって」
不審がる水原さんを必死に誤魔化す私。
明後日だ。
とっくにそういう欲は臨界まであがっていて、ちょっとした刺激、例を挙げるなら
着替えの時の下着の感触とか、お風呂上りのバスタオルが撫でる感覚とかに
私の身体は正直に反応してしまうのだ。
心だってそうだ。何かある度に、これがひろちゃんの手だったらなぁ、とか思ってしまう。
普段の何気ない会話や行動にも影響してしまい、こうして水原さんにも心配されてしまう。
ひろちゃんは何も変わらない雰囲気だけど、阿川君のイタズラが回数を増している
辺り、私には読み取れないような変化があるのだろう。
あの日以来、ひろちゃんは阿川君に話しかけることが多くなった。
阿川君も驚いていたようだったけれど、すぐにその理由を察したらしい。
時折私に視線を投げかけ、笑いながら頷いたものだ。
ひろちゃんが私との事を話すとは思えないけれど、それ以上に阿川君の
眼力が優れていたのだろう。阿川君にもそれなりの経験があったから、
それほどのものが身についたのだと思う。
私がこれから得る様々な経験は、どんなものをくれるだろうか。
弛緩した空気で終業式が終わり、HRも問題なく終了。
がやがやと教室が賑わい、波になって流れ出した。
私とひろちゃんは事前に申し合わせた通りに教室に残って、静かな廊下を
ふたりっきりで歩く。
学校で指定している内履きの底は決して硬くはないけれど、廊下の硬さと
衝突すると小気味よい音を生み出す。
とつとつとつとつ。
こんな時が一番困る。ひろちゃんを意識せざるを得ない状況。
私の中の本能がむくむくと首をもたげる感覚。
少しでも抑えつけようと、考えなしのまま言葉を発した。
「今年は、色々あったね」
「全くだ。随分、変わったよな……」
それが誰のことを指しているのかは定かではないけれど、
この場で該当するのは二人だけだ。
ひろちゃんの顔を盗み見る。平時の、感情を抑えた表情。
この人とはちょっとしたきっかけで近づいて、ちゃんとした理由があって離れ、
それを乗り越えて元に戻る。
これからの人生から見れば些細な事だろう。
それでも今の私達にとっては重大な出来事だし、ずっと忘れないと思うのだ。
「………」
「………」
明後日の行為は今年最後の総決算みたいなもの、かな。
生徒玄関、校門を通り抜ける。
それでも私達は言葉を交わさなかった。伝え合う事なんてないし、話題も特に──
あ、そうだ。
「ねぇ、ひろちゃん」
「ん、なに?」
「初詣、一緒に行こうね」
不思議そうな表情だ。私、変なこと言ったのかな。
「当たり前だろ。他に誰と行くんだよ」
……どうやらひろちゃんの中では既に決まっていた事項らしい。
「だよね、うん」
嬉しい。どうって事ない約束だけど、きれいに積み重ねていけば絶対に崩れない絆に
なりえるだろう。
どうせなら少しは驚かせてあげよう。数年ぶりに振袖姿でひろちゃんの家に迎えに行こう。
お母さんの実家がそういう事にうるさくて、私も少しだけ作法を習ったし、
ちゃんとした振袖も作って貰っているのだ。
振袖姿はクラスの友達には見せた事がない。ひろちゃんだけが知っている私の秘密。
子供じみたくすぐったい嬉しさが湧き上がる。
どんなに大人になっても、こういう気持ちをずっと持っていたいものだ。
「?」
「何でもないって」
そして、ひろちゃんの家の前。
いつものように私の手を放さずに、ひろちゃんは鍵を開ける。
私も無言で引かれる手に従うだけだ。変なことを言って、これから起こる欲情の津波に堤防を
作ってあげる気がないからだ。
『ぱたん』
まだ、しない。
私達は靴を脱いで、ひろちゃんは暖房の電源を入れて制服の上に着ていたコートを脱ぐ。
私は先に脱いで居間のソファに座り、ひろちゃんを待った。
鞄はテーブルに立てかけてある。私達がこれからそうするように、二つは寄り添っている。
きしり。ひろちゃんは落ち着いた感じで私の隣に座った。
私の中にある雌の部分に、厳重な檻で囲むイメージをした。
勝手に暴れても良いようにする。とりあえずは表に出ないだろう。
僅かな衣擦れの音に顔を向けると、ひろちゃんが私の頬に手を伸ばしてきている。
迷いはない。その表情からは抑えられた興奮を感じ取れた。
頬に添えられた手に、私も手を重ねる。離れないように。放さないように。
ゆっくりとひろちゃんの顔が近づいて、言葉もなく私達は口付け合った。
初めは軽い触れあい。唇の柔らかさとお互いの存在を確認する為の行為だ。
ひろちゃんのもう一方の腕が背中にまわって来て、私の自由を奪う。
本格的な交わりの為の布石。
「ん……、──っ」
592 :
名無しさん@ピンキー:04/08/28 14:21 ID:+Ao1B1Yw
支援AGE
私の閉じられた口内で生まれた喘ぎにひろちゃんはしっかりと反応する。
「は、ふん……ん、あん……」
開いた二つの唇の間で二枚の赤い舌が踊っている。
表面の唾液を奪い合って、擦り付け合う。
更に吸って吸われて。唾液の量はますます多くなって、だらしなく
口の端から垂れ下がって、落ちる。
「んぁあん……ん、んん」
くちゃり。ぬちゅ。
音がする度にどちらのものと言えない唾液が舌に乗って相手に渡る。
何度も往復する熱い液体。思考を吸い取る粘液。
「ん、ん、ん、……っ、ぷはぁ……」
一度だけ大きく空気を吸いたくて唇を離した。
「や、ぁあ…ぁ…っ!」
ひろちゃんの唇は離れない。私の首筋にくまなく吸い上げて、それでも
飽き足らずに耳まで愛撫し始めた。
「ん!く、う!ひ、ろ、……っ!」
耳の穴に吹き付けられる吐息が脳髄を痺れさせる。ぐらぐらと檻が揺れている。
……止めよう。今日は、もう止めよう。
我慢出来なくなってしまう。ひろちゃんとの約束、守れないよ。
身を縮ませて必死に耐えるけれど、ひろちゃんの勢いは増すばかり。
つるりと耳を舐められた瞬間、檻が爆ぜた。
「ひろ、ちゃん!」
抑圧されていた雌性が躍り出た。
襲うようにひろちゃんをソファに押し倒して、お返しとばかりに耳を咥えていた私。
腕はがっちりと頭を抱きしめ、その上、恥じらいもなく囁いた。
「しよ。ひろちゃん、しようよ。我慢出来ないよぉ。
ひろちゃんだってしたいんでしょ?私だってしたいんだよ?
我慢するの、止めよ?私も我慢したくないんだよ?
ほら、こんなにどきどきしてるし、……ここだって硬いんだよ?
ひろちゃんはしたいんでしょ?私もしたいんだよ?
ね、今しようよ。明後日なんて待てないよ。
ひろちゃん、私を、抱いてよ。抱いてよぉ」
その全身を撫でながら内側の猛りをぶつけた私は、ひろちゃんの顔を覗く。
驚きと羞恥と欲情と興奮と抑制と暴発。
どれを取ろうか迷っているひろちゃん。私は迷っていない。
迷いを捨てさせるには、──そうだよね、それがいいんだよね。
雌の教えに私は素早く従った。
身体を起こして上半身の制服を脱ぎ捨て、下に着ていたセーターのラインがはっきりと
見えるようにしてから、スカートをたくし上げた。
薄いセーターに手を入れて、あまり大きくない乳房を揉む。
形の変化が解りやすいように目一杯手を動かす。
開かれた両足。丸見えになっている下半身の下着にも指を当て、秘所の入り口を
くりくりと擦った。
「くああ、ひろちゃん!ん、はぁん!ひろちゃぁぁぁん!」
ひろちゃんの前で、私は激しい自慰を始めた。
男の人にとって、大事な女の子が触れもせずに自分の意思に反して絶頂を迎える様を
見なければならないのは、多分、一番つらいことだ。
私の雌の部分が教えてくれた事。間違いじゃない。
今だにひろちゃんの奥にいる雄の部分は出てきていないけれど、
すぐにでも顔を出すに違いない。
「ん!くぅん!──っ、……っ!ひあぁぁああん!」
ひろちゃんだって我慢出来ない筈だ。私の痴態を黙って見届けるような人じゃない。
絶対に何かをしてくる筈なのだ。
「はぁー、はぁー、しよ、ひろちゃん……」
下着の透明な染みが表面に出たのだろう。指の動きに合わせてごしごしと
湿った衣擦れ音がするようになった。頬だって真っ赤、目尻も下がっているに違いない。
…まだ、駄目なのかな。もっと激しい媚態をさらすべきなんだろうか。
だったら、もっと解りやすいように、見えやすいように脱いでしまえ。
セーターに手をかける。指に力を入れて、
「待て、美里」
「──っ!」
大事なひろちゃんの言葉、あるいは最愛の雄の命令に私は停止した。
でも、停止したのは外側だけだった。中はこれ以上ないってくらいにぐるぐると
悦びが走り回っている。
ひろちゃんに抱いてもらえる。やっとしてもらえるんだ。
「待てってば……な、美里」
私を優しい笑顔で押し倒しながら、そっと言い出したひろちゃん。
「僕との約束、どうするの?」
でも、したいんだよ。
「僕は美里との約束、守りたい」
守らなくていい。したい。
「美里は僕との約束を破りたいの?」
守りたいけど、……。
うん、守ろう。破っちゃいけない事なんだ。
「……ごめん、ひろちゃん」
すう、と激情が冷める。……馬鹿みたい。一人で勝手に、何してたんだろ。
ひろちゃんに約束させたのは私だ。
私が守らなきゃ、ひろちゃんだって守らないだろう。
「よろしい」
「……うー」
がしがし。頭を撫でられる。
約束を取り付けたのは私なのに、何故守った事で褒められているんだろう。
世の中は不思議だらけだ。
「けど、なんだ、あれだよな」
ひろちゃんはあやふやな言葉を口にする。視線は中空を泳いでいて、
その顔もさっきとは全然違う年相応のものだ。
何を言いたいのだろう。
「すげー声だったよ、うん。びっくりした」
「……わ、忘れてよぉ!」
あの痴態を見せつけた事自体は納得してるけど、だからって言われてしまえば
どうしようもなく恥ずかしい。
ひろちゃんのからかう口調はまだ続く。
「色っぽかったしなぁ。一生忘れられないだろうなぁ」
にやにやと意地悪な笑み。私が嫌がってるのを知ってて、続けようとしている。
「駄目!今すぐ忘れて!」
こんちくしょう。こうなったら力づくだ。
「だってさ──」
「このっ!」
その口を塞ごうと両手を突き出して、あっさりと抱きしめられた。
ぼそぼそと私だけに聞こえるようにひろちゃんは言う。
「あんな可愛い美里、初めてだったからさ」
「〜〜〜〜っ!」
ずるい。
そんな事を言われたら、抵抗出来なくなってしまう。
胸元に顔を埋めて、せめて羞恥の表情だけでも隠そうとする私。
ひろちゃんはそれを咎めることなんてしない。私の心を安心させるように
頬を頭髪に押し当て、私達が触れ合う面積は最大になった。
「………」
「………」
静かな時間。
さっきの自慰で多少は欲情を吐き出せたのだろう、昨日とは比べ物にならないくらいに
心身が落ち着いている。……そんなの、私だけだ。
ひろちゃんはそれなりにこみ上げるものを耐えているに違いない。
だから。
「ね、ひろちゃん」
「なに?美里」
「さっきは、ごめんね」
「いいんだって」
「ひろちゃんがしたいなら、もう少し先まで、してもいいよ」
「………」
「ちょっとだけ、楽にしてあげたいんだよ」
私だけが楽になるなんて許せない。この身体をちょっとだけ自由にさせて、
ひろちゃんにも楽になって欲しい。
もっとも、男の人が欲情を吐き出せる行動なんてひとつしかない訳で、
それをしてしまったら約束を破らせるだけなのではないだろうか。
「ごめん、……無理だよね、そんなの」
「あ、と……そうでもない、かな」
身体を離して向き合うと、ひろちゃんは恥ずかしそうにぽりぽりと頬を掻いている。
詳しい説明が始まらない。言葉を必死に選んでいる様子だ。
「ひろちゃん?」
「えっとな……」
待ってあげよう。そんなに難しい内容なのだろうか。
数秒して、意を決したらしいひろちゃんが言い出す。
「美里はさ、さっきので、……イったのか?」
興奮で赤い頬を隠そうともしないで、とんでもない事を口にしている。
「あ、あの、…その……」
私だって恥ずかしいし、その興奮もうつってしまう。
どんな意図があるのだろう。私をからかっている様子ではない。
ちゃんとした問いなんだから、ちゃんと答えないと。
「…イってない、と思う」
達するところまではしなかった、ような気がする。
ひどく盛り上がっていたから、あまり明確に覚えていないのだ。
「あの約束のひとつは『自慰するな』だよな。なら、その、
相手に慰めてもらうってのは、ありだよな?」
私にして欲しい、ということだろう。
でも、
「それ、だと、」
「解ってる。…ええと、出る寸前まで、して欲しいんだ。これなら約束を
破ったことにならないだろ。さっきの美里のは、半分くらいは僕がさせたことなんだから、
これでおあいこだよな」
必死に理屈を言葉にするひろちゃん。
この理屈がなければ一気に最後までしてしまうと感じているのだ。
大した自制心だと思う。
「う、ん、そうなる、かな」
「もし我慢出来なくて…出たら、この場で美里を抱くよ。……これで、いいか?」
断る理由なんてない。少しでもひろちゃんの為になるなら、なんでもしてあげたい。
さすがにこの提案は思いもしなかったけど、ひろちゃんが望むならしてあげたいと
思う。
「うん、いいよ」
なるべく真剣な表情で私は答えた。
ひろちゃんも戸惑いを隠しきれず、それでも頷いてくれた。
ズボンを足首まで下げたひろちゃんがソファに浅く座っている。
やや開かれた股間に、硬直したひろちゃんの性器が天井に向いている。何もしてないのに
先端が濡れていて、凄くいやらしい印象だ。
私は彼の両脚の間に身体を潜り込ませ、その熱棒をまじまじと見詰めていた。
最初はファスナーを下げて、ズボンの中から屹立した性器だけが飛び出していた状態だったけれど、
私は全部見たかった。お願いしてズボンを下げてもらったのだ。
こうして間近で見るのはこれが初めてだ。汗とは違う匂い。鼓動にあわせてゆらゆらと揺れている。
見ているだけなのに、体温が上昇していく。やっぱり、本能的なものだろうか。
その熱さを吐き出すようにため息を吐くと、ひろちゃんの性器がびくりと震えた。
「ひろちゃん?」
「…うん、そんなもんなんだよ。美里の大事なところと一緒だよ。
……敏感、なんだ」
頬を赤らめて言うひろちゃん。息がかかっただけなのに、大きな反応だった。
その言葉は嘘じゃない。あんな事でも感じるんだ。
「………」
…見惚れてる場合じゃない。
ちゃんと、してあげなきゃ。
「いい?」
「うん」
私は決意して、指を数本だけ側面に触れさせる。
「っ!」
どちらかといえば色白のひろちゃんの身体で、唯一黒ずんだ所。
その反応。同じ身体なんだ。そう知ってしまえば、触れることへの抵抗感は格段に減った。
右手の指を全て使って、掴む。それだけで性器は僅かに太くなった。
これって、
「気持ちいいの?」
「…いいよ、うん」
なら、もっとしてあげよう。ゆっくりと手を上下させてみる。
じんわりと漏れ出す液体が増えた。裏の筋を伝って、動いていた私の手に絡み付いた。
じゅ、くちゅ、にちゅ。
「ん、……く、ぁ……っ」
粘っこい音だ。恐らくは相応の粘度なのだろう。私との性交を思わせるひろちゃんの表情。
眉毛が寄って、目は閉じられている。私の手の動きに集中しているのだろう。
ひろちゃんが私の行為に酔っている。加減も知らない愛撫なのに受け入れてくれている。
興奮、してきた。
手が往復する度に性器は熱くなる。太くなって、ふるふると悦んでいるようだ。
私もうれしい。ひろちゃんに快感を与えることが出来ているから。
「はぁ、はぁ、は…ぁ」
私の呼吸も荒い。あそこがじんじんと疼いて、手を伸ばしたくなる。
一緒にすれば、もっと気持ちいいんだろうな。──待った。今は、してあげるのが優先だ。
黙って自慰をしても気付かれないだろうけど、約束は守ろう。
万が一にも伸びないように両手でがっちりと掴んで、より力強く擦った。
「は、……ぁ、いいよ、美里……っ」
てらてらと光る性器が時折跳ね上がる。
足りない。もっと、直に感じたい。指よりも繊細な神経が通っているところ。
指よりも様々なものを感じる器官。膣内が一番だけど、それは駄目。
二番目は、やっぱりここなんだろうな。
「ひろちゃん、聞いてる?」
夢中になっていた彼を快感の渦から引き戻す。
何も言わないで始めてよかったのかも知れないけど、私は知って欲しい。
「ん、んん、なに?」
「口でしてあげるね、ひろちゃん」
「無理、しなくても、──っ!」
先端に口付けると、腰すらも跳ねた。
「は!……ああ!ぅ……っ!」
私の大事なところと同じだ。その形の頂点が、一番敏感なんだ。
ひろちゃんは喘ぎ、爪をソファに突き立てて狂っている。
私がもたらす快楽に狂っているのだ。
濡れた手を放して、ひろちゃんの手に重ねる。とたんに掴まれ、私は口だけに集中出来るようになった。
出来るだけ膣と同じ形にしよう。歯を立てたら駄目だ。顎を開いて、唇はすぼめる。
そして、挿入。
「ふ、……ん、んん!」
さらに太さを増したひろちゃんの性器が口の中で暴れている。
膣と間違えて蹂躙しようと動いているのかな。
どっちでもいい。もっと、悦ばせてあげよう。
奥深くまで含んで、裏筋を舌で撫でる。少しだけ口から引き抜いて、先端の割れ目に舌を押し付け、
頭を退かせながらずるずると唾液を塗りたくる。
「ふ、あ!美里、すご……っ!」
ゆで卵みたいな先端への口付けに戻って、もう一度。
「くぅぅぅぅ……っ!」
ひろちゃんの性器を口いっぱい頬張って、続いて匂いも鼻腔に充満。
昂られずにはいられない匂いと熱さだ。頭がぼおっとする。
脳にきめ細かく造形を写したくて、先端を中ほどに位置させてから、
頭の角度を変えながら舌に神経を集中させて、僅かな凹凸を確かめた。
皺ひとつない先端。その向こうには鋭角な角があって、私は納得する。
こんなので掻きまわされたら気持ちいいのは当然だ。
その角を一番上からなぞると、だんだんと先端に近づいて割れ目のすぐ下に到達。
びくんびくんとひろちゃんの腰が蠢く。ここが、一番いいらしい。
「ふっ、……く!そこ、待てって……!」
強すぎる刺激から逃れるように私の奥まで入ってきて、ひろちゃんは一息ついた。
「は、あ。美里、もう、いいよ。これ以上は、ちょっと…」
私は性器を口から抜いて、答えた。
「駄目ぇ。もっと、ぎりぎりまでしよ?」
そうなのだ。私はひろちゃんの追い詰められた顔が見たいのだ。
それを見届けたくて、竿の横腹に口付け。
「こら、美里、……うぅ!」
つるつるの先端とは全く違うごつごつとした感触。逞しいとさえ感じてしまう。
先端ののように敏感ではないらしいけれど、逆に鈍い快感がひろちゃんの心を煽るのだろう、
さっきよりもずっとつらそうな、いい顔だ。
「ん、んん、……はぁっ、は、ぁっ」
目は閉じられているけど、これは無意識なのだろうか。
ひろちゃんの腰が、僅かに前後している。性交の時のように、淫らにうねっている。
やっぱりしたいんだよね。私の所為で、一生懸命耐えてるんだよね。
……出させてあげよう。今日は本番をしなくてもいい。
一回だけ射精させて、ひろちゃんを助けてあげよう。
私は鼻先を擦り付けて匂いをかいで気分を盛り上げ、本格的な擬似性交を始めた。
「ん、ふん!──ん!んん!」
最奥まで届かせ、じゅぷじゅぷと表面の唾液ごと性器を吸い上げ、射精を促した。
顎が疲れているけれど、気にしない。可能な限り、強く吸いついて、搾る。
滅茶苦茶に頭を動かして、私自身も口内からの強烈な快感に溺れ始めた。
「は、うう!美里ぉ!……う、ぁあ!」
ひろちゃんの顔を見上げると、本当に達する寸前らしい。
我慢しなくていい。出してもいいんだよ?
頑なに耐え続けるひろちゃん。突破口を開けたくて、性器の割れ目に舌をねじ入れた。
「うああ!やめ、出……っ!」
ぐちゃぐちゃの口内をひろちゃんの膨張しきった性器が踊っている。
こときれる寸前の舞。もうすぐ、陥落するんだ。
「美里、っ!うぅ、……っ!は、う!」
私の頭をひろちゃんの手が掴んで、ごつんと一気に貫かれた。
がくがくと振動する灼熱の性器ときりきりと収縮する私の膣。
そして──
「……っ!う、はぁ!は、はあ……」
出なかった。どくんどくんと脈動してるけど、射精しなかった。
最後の一手を私にさせない為の貫通だったのだ。
息も出来ない程、深くまで貫けば私は何も出来ない。それを知っての行為だ。
本当、残念だ。私の顎は長時間の奉仕で疲弊しきっていて、もう動かせない。
「ん、……は、くぅ、……ふう」
ひろちゃんは快感が収まるのを待ってから、私の口から性器を抜いた。
果てなかった性器は硬くて。まだ力を失っていないのに、私だけが続行不能。
何だか、悔しい。
「これで、おあいこだよな、美里」
ひろちゃんは全身から快感の余波を滲ませながら言った。射精寸前の快感で
少しは気持ちが晴れたのだろう、興奮が抜けきらないけどさっぱりした、という表情。
いきり立っていた性器が、今日は終わりとばかりに垂れ下がってしまう。
芯には硬さが残っているのか、完全には戻らない。
私の秘所も蜜を滲ませていて、じくじくと疼いている。
……うん、これなら良し。
今日の分が上乗せされた明後日の性交は激しいものになるのだろう。
ひろちゃんはティッシュで私の口を拭って、同じように性器を拭いてから
下着とズボンを戻してから小さい声で言う。
「なぁ、美里。……明日、どうする?」
視線を合わせると、ひろちゃんは迷っている様子だ。
毎日するって約束はどうなるんだろうか。
「いや、明日もするけど、今日みたいに深いのはしない方がいいと思うんだ。
……多分、我慢出来なくなる」
ひろちゃんは何が何でも明後日にするという約束を守りたいのだ。
その為の妥協。私の為の、提案だ。
「私も、多分そうなると思うから、…うん、明日は軽く、しよ」
私もひろちゃんの気持ちと同じだった。明日ならひろちゃんを落とせるかな、なんて
少しは考えていたけれど、今の言葉でそれは却下だ。
全力で明後日に備えよう。
「よかった」
ほっとしたように胸をなでおろすひろちゃん。
心底思う。本当に私のことだけを考える人だ。
……想像も出来ないくらいに深い孤独だった証拠。
信じられないくらいに誰にも触れたことがない証明。
それが覆った事を、もっと確かなものにしてあげよう。私の時間をひろちゃんの為に
使いたいと本気で思い始めた瞬間だった。
焦る必要はない。確実に進めるのが第一だ。
私は制服の着て、乱れを直す。家に帰ったら、とろとろに濡れきった下着を換えなきゃ。
幻想じみた交わりの時間は終わりだ。明日の幻想時間まで、現実に戻ろう。
「じゃ、また明日ね、ひろちゃん」
「うん、いつでも来ていいからな」
昨日の口付けは本当に軽く、時間も短いものだった。
それでも終わってから長い事見詰めて、明日、つまりは今日の情事を想像していたのだ。
まあ、ひろちゃんはどうなのかは解らないけれど、……何の証拠もない妄想だけど、
同じ事が頭をよぎっていたに違いない。
早めの昼食を摂った私は、服装の事で悩んでいた。
待ちに待った日なんだから一番いい服だろうか。でも、普段着の方がどう考えたって自然だし、
ひろちゃんも落ち着くだろう。とはいえ、少しでも私を女の子だと感じて欲しいなら、
いい服を選ぶべきじゃないのか。あからさまだけど、気を遣っているのを教えたいし。
無理したところで不自然なだけだ。意味ない。でも、特別な日なのだ。普通が適切とは思えない。
……朝からこの調子だ。終わらない。普段着の、膝まである長いスカートと厚手の長袖で
家のあちこちをうろうろしている。
とりあえず、下着は新しいのをおろした。ブラジャーはフロントホックのを選んだし、
これは正しい選択だと思う。
普段着にしろ外行きの服にしろ、ひろちゃんが脱がせやすい服なんてそう多くはない。
……だからこそ、こんなに迷うのだ。
『ぴんぽん』
来た。
『からからから』
早いよひろちゃん。もう少し時間頂戴なんて考えは今更無意味。
玄関に急行する。
硬い顔。やっぱり緊張してる。ひろちゃんも普段着だったのが救いかな。
「……美里」
「……なに?」
はぁ、とため息をはいたひろちゃんは背中を向ける。
直後にかちりと鍵をかけた。
振り返って、ずいっと私の前に立つ。
「戸締りはちゃんとしろって」
あう。早くも失点だ。機嫌、悪くしたかなぁ……
ぐ、と両肩を掴まれて、
「邪魔入ったらどうするんだよ、美里」
甘い声音が耳に飛び込んだ。
…本気だ。本気で、私を抱こうとしている声音だ。
身体の芯が電熱線みたいに赤く、熱くなっていく感覚。
私も対抗するように胸に飛び込んで、ひろちゃんの腰に手をまわす。
頬擦り。そして上目で覗く。
「いっぱいしよ、ひろちゃん」
「うん、いっぱいしような、美里」
いつもしていた、気持ちを確かめ合うような触れ合いは無しだ。
私達は荒っぽい口付けで今日のスタ−トを切った。
「ん、はぁ、ん!……ぅ、ぁん!」
遠慮なんて微塵もない激しい結びつきが口で行われる。
ずっと待っていた感触。背筋がびくびくと痙攣しながら伸びて、ひろちゃんの身体と
ぴったりと重なるようになる。押し付けた胸はその鼓動を感知し、密着した腰はひろちゃんの性器が
膨れ上がるのを感じ取っていた。
私の血流も速くなる。大事なところが微妙な動きをして、私を責め立てる。
早くひとつになれ。一番奥まで満たしてもらえ。
「く、うぅぅん……ひろ、ちゃあん……」
興奮に歯止めが効かなくなっていく。一度でもそれが暴れてしまえば、理性的な行動は不可能だろう。
今、言わないと。
「待って、ぁん、ちょっと、待ってよ」
「どうした?」
ひろちゃんは耳たぶを甘く噛んで、私のお尻の丸さを強調するような愛撫で言葉を遮ろうとしている。
今すぐこの場で、強引にひとつになってもおかしくないくらいの獰猛さだ。
嬉しい。けど、ちゃんと言わないと。
「うん、聞いて、よぉ……今日は、つけないで、しよ?」
ぴくん、とひろちゃんの身体が緊張して、私を正面から見据えた。
避妊薬を使うことにひろちゃんは強い抵抗感を示す。それを使ったのは最初だけで、
それ以外はひろちゃんは避妊具を使ってくれた。
避妊具を使った方がより安全だとは知っているけれど、
今日は直に触れてほしい。直接、ひろちゃんの想いを受け止めたいのだ。
「………」
興奮の中には決して小さくない躊躇が混じっている。
……止めよう。
私のわがままでこれからの行為に水を差すなんて、ひどい裏切りに思えた。
撤回しよう。ひろちゃんには安心して私を抱いて欲しい。
「解ったよ、美里」
と、同意の返事。
「本当に、いいの?」
その顔から緊張が抜けて、照れくさそうな表情になる。
「一週間も頑張ったからな、ご褒美だ」
ちゅ、と私の頬をひろちゃんの唇が吸う。
私もお返し。どうせなら三回して、嬉しさを教えてあげよう。
心地良さそうに受け取ったひろちゃんは耳元に口を寄せる。
「……どうする?ここで、する?」
もし良いなら、ここでしたいとひろちゃんは思っているのだろう。それほどまでに
昂っているのだ。
鍵はかかっている。誰も来ない。ちょっと迷ったけど、私は決めた。
「部屋で、しよ」
「随分変わったな、うん」
ひろちゃんは私の部屋に入るなり、そんな事を言った。
前に入れたのはいつだったかな……たしか、中学の頃だった。
受験勉強中にどうしても解らない所があって、ひろちゃんを呼んで教えてもらったのだ。
その頃は完全な幼馴染だった。どこか大人っぽいひろちゃんは、子供っぽい私を
妹のように扱っていたと思う。ひとつひとつを手取り足取り。厳しいようで、実は甘い。
思い出してみると、あれはあれで恥ずかしい事だ。当時はそんな考えを持てなかったけれど、
今では赤面するほどの思い出だ。
──そして、今日。
この部屋にひろちゃんとの新しい思い出が刻まれる。
「変わらない方がおかしいでしょ」
あちこちを眺めるひろちゃんにそう言って窓のカーテンを閉めようとすると、
ぐいっと後ろから抱かれる。
「女っぽくなったよ、うん」
耳元での囁き。私の背中はひろちゃんの胸よりも小さい。
包むような腕も太くて力強い。あの頃とは違う。男らしくなった、と思う。
女っぽくなった。それは何の事を言っているのだろう。
「それって、どんなところが?」
「いい匂いがするようになったよ。見た目も、昔とは全然違うし」
「本当に?」
「本当に」
即答だ。
偽りのない言葉。誰にも言えない、私だけに言える本音だ。
それに対して、私は本音を言い返さない。ひろちゃんも男らしくなったよ、と。
言葉では限界があるし、いくらでも嘘を吐ける。だから、行動しよう。
「待ってよ。ちゃんと見せてあげるから、……その後で、もう一回言って」
首をまわしてひろちゃんに向けると、唇が重なった。
力強く引き寄せられ、私は半ば倒れこむような姿勢になってしまう。
ひろちゃんの身体はびくともしない。私の体重が加わっているのに、何ともないらしい。
……私が思っていた以上にひろちゃんは成長している。
成長期だから当然だけれど、そんな事にさえ、私は喜びを覚えてしまう。
頼もしい人なったから。身体と心を預けるのに相応しい存在になったから。
私のひろちゃんが、大きくなったから。
吸い合っている唇に神経を集中していると、不意にスカートが脱げ落ちた。
スカートを脱がして腰をまさぐっていた手が気持ちよくて、うっとりしてしまう。
「んっ、はぁ、……、くぅん」
それでは物足りないと、長袖のシャツに潜り込む。
胸まで登ろうとしている手を、へその辺りで私は止めた。
「ちゃんと脱がせてよ、ひろちゃん」
「うん、解った」
昂った声が聞こえて、私の身体はひろちゃんと向き合うように回転する。
幾分楽しさが増した視線。服を脱がしてもらうのは前に抱いてもらった時が初めてで、
ひろちゃんはやけに嬉しそうだった。目の前で私が裸になっていくだけじゃなくて
そういう事をさせてもらえる、というのも嬉しいらしい。
私としても間近で見てもらえる訳で、はっきり言えば気に入っている行為だ。
ひろちゃんは笑みを浮かべて私の服を脱がす。
優しい笑いの中には隠しようがない興奮が読み取れる。
私もだんだんと気持ちが加熱していく。ちりちりと、日向ぼっこをしているような感覚。
……私にとっての太陽、というのは大げさだろうか。
私を下着だけにしたひろちゃんは額に軽く口付け、私達はベッドに座る。
ぎしりと昔から使っているベッドが初めて軋んだ。
「──あ」
「どうした?」
隠すことじゃない。教えてあげよう。
「うん……私ひとりだと、こんな風に音がしないんだよ。こんな音、初めて聞いた」
「ふたりであがってるんだもんな……」
誰かと初めて使うベッド。その相手はひろちゃんなのだ。
心拍が速くなる。……何だか、初めて抱いてもらった時みたいだ。
「美里」
声に振り向くと、ひろちゃんの手が伸びてくる。
腰に巻きついて、胸も抱き寄せられる。……難しいことを考えるのは止めよう。
ひろちゃんに、全てを任せよう。
ひろちゃんは私を抱きしめながらベッドに押し倒す。ぎしり。
また鳴った。お互いの舌を触れ合わせ、私はそんなことを考える。
私が僅かに身体を捩るだけでも鳴っているようだ。
これなら、
「もっと鳴るな、美里」
…ひろちゃんも同じ考えだった。
さすがに壊れるなんてことにはならないだろうけど、少しは不安かも。
「にしても、美里」
ひろちゃんは私の胸の谷間に顔を埋めながら言う。
「いい匂いだよ、うん」
くりくりと鼻先で乳首をブラジャーごしに撫でている。
敏感な突起から鈍い快感が染み渡るように広がって、自然に音声になってしまう。
「ぁ、ぁぁん……きもち、いいよぉ……」
頬や唇での愛撫も始まって、頭の芯がじんじんと疼いていく。
「ん、あれ?」
ひろちゃんは私の背中に両手をまわし、疑問の声をあげていた。
「……あ、今日のは、前なんだよ。今、外すね」
ブラジャーを外そうとしていたらしい。
ひろちゃんは身体を少しだけ離して、私の行動を見守っている。
羞恥を押しのけ、外れたとたんにひろちゃんの顔が真っ赤になった。
「ひろちゃん?」
「あ、いや、すげーえっちな感じだよ」
「……そうなの?」
まだ脱ぐところまではしていないのに、随分と興奮しているようだ。
「うん。微妙に隠れてる感じがいいんだ」
ひろちゃんはブラジャーと胸の隙間に手を滑り込ませ、すくい上げるように揉み始めた。
優しく撫でるように、そうかと思えば握るように強く搾る。
じいん、と身体全体の神経が敏感になっていくのが解った。
「ん、熱くなってきたよ、美里」
ひろちゃんも抑えが効かなくなっているらしい。だんだんと、手の動きが大胆になっていく。
私達の呼吸のペースは変わらないけれど、一回毎に行き来する空気の量は格段に多くなっている。
はぁー、はぁー。
理性が崩れていない証拠。
もっと、崩してあげよう。崩れてみせよう。
「んぁあん…ひろちゃん、…ぅん、早く、してよぉ……」
秘所の疼きを感じて欲しい。沸騰しきっている事を知って欲しい。
黒い短髪に手を添えて胸に吸い付いている唇を剥がし、私の唇と密着させる。
何度も何度も舌を押し込んで、こんな事をして欲しいと私は訴える。
「ん、ああん、してよ、ひろちゃん、ねぇ、してよぉ……」
「解った、んん、美里、離してくれなきゃ、出来ないぞ」
知らず知らずにひろちゃんの首を腕で固定していた。
「……、ごめん」
力を抜いて、絡んでいた腕をほぐす。
どんな顔をしているのだろう、ひろちゃんは数秒だけ私を見つめた後に、残った最後の下着に
指をかける。
皮膚に指が食い込む僅かな感触。ひくりと腰が震え、ひろちゃんは構わずに下着を脱がす。
するんとあっけないくらいに簡単に引き抜かれ、私の両膝を思いっきり開けるひろちゃん。
あそこの入り口も開いて、とくとくと液体が零れてお尻の穴が埋まる。
「やぁ……恥ずか、しい」
こんなにも淫らになっている事に激しい羞恥を感じてしまう。
ひろちゃんは股間に顔を近づけ、私の大事な所を観察するように言う。
「濡れてるよ美里。どんどん溢れてくる」
言葉と視線に刺激された私はより高く興奮し、本当にどうにかなりそうなくらいに
ひろちゃんが欲しくなった。
その想いが自然と口から出た。
「なら、しよ?」
「うん、そうだな」
ひろちゃんはそう言うと背中を向けてトランクスを脱いだ。
振り返り、私の目は最大限に大きくなった性器だけを見ていた。
これから一仕事しようという決意。
最も深い所まで愛そうという意思。
ごくり、と私の喉が鳴る。
「……じゃ、いくよ」
腰を落とし、反り返る性器を抑え付けながら前進するひろちゃん。
じれったい。もっと一気に来てもいいのに、何でこんなにも慎重で、……優しいのか。
つぷ、と先端が埋まっただけなのに、私の下半身は跳ね上がった。
「……っ!」
ふるふると膣が踊っている。待ちわびた瞬間の訪れに、最大の蠢動で悶えている。
一呼吸したひろちゃんは、腰を進めて私と深く繋がった。
「ひ、んんあぁぁあああぁああ!」
直後にぱちんと意識が弾け、心が真っ白になる寸前に布団と背中の隙間に
腕が差し込まれた。その感覚でどうにか失神を免れる。
「ぁ、ぁ……ん」
私を塗りつぶそうとする快感を際どい所でやり過ごしてひろちゃんを見ると、
悩ましげに眉が寄っていて、濃密なため息を漏らしている。
なんだか、凄く気持ち良さそうだ。
「……ひろちゃん?」
「うん、……美里の中、気持ちいいよ」
目が開いて私を捉える。……私の心が落ち着くのを待ってくれているようだ。
出来る限り私に優しくしようとの心遣いが嬉しい。
「うん、いいよ」
ひろちゃんは無言で頷くと、ゆっくりとした抽送を開始した。
一秒近い時間をかけて腰を引いて、同じだけ時間をかけての挿入。
「……ぁ、ぁああん……」
聞き届けてから、もう一度。
私の存在を確かめるような愛撫。
「は、……んぁああ、ん……」
ひろちゃんとの性交で、この時が一番好きだ。
一緒に絶頂までの階段を登っている感覚。一歩一歩、着実に足を進める感じがたまらない。
……今更だけど、実感した。ひろちゃんが戻ってきた事を。
嬉しくて嬉しくて、何だか泣きそうになってしまう。
「ん、どうした、美里?」
「……やっと元通りなんだなって、思ったらさ、……うん、ごめん……」
ひろちゃんは微笑んで、私に口付け。
「こっちこそごめんな。寂しかったよな……」
「ん、許してあげるから、……もっと、してよ」
ゆったりとした快楽に身体が慣れてしまい、物足りなくなっていた。
快感の小波よりも、その後からやってくる余韻の疼きの方が強いのだ。
これはこれで感じるものがあるけれど、もっと大きな快感が欲しい。
ひろちゃんは私を少しでも満足させようと舌を求めて、より強く腰を叩き付けた。
「ん、……っ……は、ん……」
私はひたすら酔った。喘ぐ声すらも快感に変換され、体内でうねっている。
「……っ、ふは、ああん、くあぁ、……ぁあ!」
唇が離れた途端に溢れ出す悦声。こうして間近で聞かれるのは恥ずかしい事なのかもしれないけど、
私は聞いて欲しい。ちゃんと感じているのを理解して欲しいのだ。
ひろちゃんは一定の間隔で私を突き上げる。気持ちよさそうだけど、私を観察する程度の
余裕はあるらしい。
「可愛いよ、美里」
私だけが感じているみたいだ。ひろちゃんもそれなりの快楽を得ているらしいけど、
もっと感じて欲しくて下腹に思いっきり力を入れた。
「くぅ…っ!」
ひろちゃんの顔から一気に理性が消えていく。
「うわ、……ちょっと、待て……っ!」
急激な刺激から逃れるように性器が引き抜かれ、腰に絡む私の両脚がそれを阻んだ。
どすんと腰が密着する。
「は、ああぁっ!」
ぶるぶると太さを増した性器が振動している。
私の膣にも伝播して、その快楽の大きさがよく理解出来た。
「……美里、何するんだよ」
「よかった?」
苦笑いし、答えてくれた。
「かなり、な」
私だって好きな人に感じてもらえるのは嬉しい訳で、力を緩めないように気をつけながら口付け、
ひろちゃんを促す。そろそろ高みに連れて行って欲しいと。
ひろちゃんは止まっていた性器の運動を再開する。
「ん、……絡みつくみたい、だ」
見えないけど、繋がっているところがどんな状況なのか細かく想像出来てしまう。
ひろちゃんの性器が往復する度に私の秘所からは液体が溢れ出し、
じわじわとシーツを濡らしているのだろう。
私から快楽を引き出して、叩きつける。もっと私を快楽まみれにしようとひろちゃんの
ペースはあがっていく。
「は、ああ!いいよぉ、んん!ひろちゃぁん……っ!」
荒い息をしながらひろちゃんは行為を続行する。
私を締め付ける腕に力がこもって、まるで抱きかかえられているみたいだ。
「くう……美里、……、どんどん、締まってくるよ」
がくがくと私の身体は揺さぶられ、絶頂に近づくほど、全身から力が抜けていく。
快感への抵抗が弱くなってしまう。心も身体もひたすら快感を貪り、
もっと脱力する身体とは裏腹に私の膣はより快楽を搾り出そうと収縮している。
それに応えるようにひろちゃんの性器も膨張し、より深い所まで届く。
「ふあぁ……んは、ぁあ、あああ!」
奥深くまで触れて、ごりごりと肉壁を引っ掻きながら次の突入に備えるひろちゃんの棒。
私はその摩擦が生み出す感覚に必死に耐えるだけだ。可能な限り、達してしまうのを
遅らせようと快感を抑え付けるけど、余計に興奮の度合いが高くなってしまう。
結果として快感がどうしようもないくらいに大きくなるだけだった。
ひろちゃんの抽送は素早く、そして強いものになっている。
口からは色めいた溜め息が何回も零れて、もっと動こうとする身体にブレーキをかけている
ように見えた。
「ひろ、ちゃん?」
「ん、どうした?」
停止したひろちゃんが私を見つめる。それだけなのに体温が上昇し、言葉を形にするのが
難しくなってしまう。
「……あの、我慢、しなくてもいいんだよ?」
「……」
ひろちゃんは丁度いい言葉を見つけられないのだろう、数秒だけ沈黙して、
決意を私に伝えた。
「痛かったら言えよ。すぐ止めるから」
先ほどの行為は慣らし運動だと言わんばかりの律動。
私は声すらも押し殺して、ひろちゃんの身体を抱き締める。
「……っ!ん……ん!」
一握りだって外に漏らしたくなかったのだ。この行為がもたらす幸福感に、
思う存分浸りたかった。激しく愛される事の嬉しさをそのまま飲み込みたい。
ひろちゃんの性器が私の子宮に直接精液を注ぎ込もうと、さらに膨張していく。
「ふく、ぅう!当たっ……は、ひあぁあぁ!」
「は、……ぁあ!美里……っ!」
返事をする間もなく、私はひろちゃんに抱きかかえられた姿で真っ白な絶頂に到達した。
最高の恍惚から覚めてひろちゃんを見ると、今だに射精の最中のようだ。
眉が皺を作っていて、微かな呻きと共に何度か性器を往復させている。
……お腹の中に、原始的でありながら官能的な熱さ。じんわりと全身に沁み込んで、心が高揚する。
本能的なものだとは考えたくない。ちゃんと愛してもらった証拠だ。
ひろちゃんの想いを直に受け取る事は、私にとってはこの上ない悦びなのだ。
「ん……ふ……」
重い艶声を漏らし、ひろちゃんは性器を引き抜く。
快楽の余韻も重くて、全身から力が抜けてしまう。目を開ける分すらも溶けてしまったようだ。
きし、とベットが鳴る。
そして、ひろちゃんも身を横たえて、私を広い胸に抱きしめ──ない?
予想を裏切られ、薄目でひろちゃんを見ると、座った姿勢で何だか思い詰めた表情だ。
「美里、いいか?」
「…え、なに?」
少しだけ顔を伏せて、戸惑うようにひろちゃんは言い出す。
「もっと抱きたい。もっともっと、美里の中に出したい。……つらくなったら言えよ。
自分でも、何回すれば収まりがつくか予想出来ないんだ」
寝ている私からも見えるくらいに反り返っていくひろちゃんの性器。
どくんと心臓が叫ぶ。私の身体も応えるように艶と力を取り戻したと思う。
「……可愛いよ美里」
ひろちゃんはくの字に重なった私の足を開こうとせず、覆いかぶさるように
再度の挿入を始めた。
その後、ひろちゃんは三度も想いを放ち、私が絶頂に至ったのはそれを超える回数だった。
獣のように相手の身体を貪り合い、何ヶ月も逢えなかった恋人同士のように自らの愛を見せつけ合う交わり。
「は、ぁ……」
ようやくにして私はひろちゃんの胸に収まる。
至福の時間。
心地よく気だるい疲労を噛み締めあいながら、微笑みを見せる。
ひろちゃんも荒い呼吸をしているけど、発作は起こっていないらしい。
あれだけ激しい交わりだったのに、しっかりと体調を崩さないペースを守っていたようだ。
この行為に慣れた証拠。その相手は私なのだ。
私の気持ちには何の隔壁もなくて、ちょっとだけ考えた事が簡単に口から出てしまう。
「もっと、こういうこと、したいね……」
「毎日?」
羞恥を覚えながら、素直に私は答える。
「うん、出来れば、ね」
「僕は月一回くらいにしたいけどな」
……そんなものなのだろうか。この年頃の男の子なら、それこそ毎日でも可能な時期だと
思うし、そういう欲情だってある筈ではないのか。
「ま、そりゃあ、発作がない限りはしたいけどさ……」
疑問の表情を覚えつつ私は訊く。
「じゃあ、何で?」
照れを隠そうともせず、ひろちゃんは私を見据えて言った。
「今日の美里、可愛かったからな。前にした時よりもずっと可愛かった」
咄嗟に返事が出来ない。何て言えばいいんだろうか。
肯定するのはおかしい気がするけれど、否定したところでひろちゃんの気持ちは変わらないだろうし。
悩んだ結果、
「……本当に?」
芸もなく確認の言葉が言えただけだった。
ひろちゃんは何の臆面もなく私に言う。
「うん、本当。ちょっとだけ我慢して今日みたいな美里を見れるんだったら、
毎日はしたくない。……美里はどう思う?」
どうもこうもない。ひろちゃんが見たいものを見せてあげたい。
「ひろちゃんがそれでいいんだったら、…いいけどさ」
了承の印としての口付け。じっとりと汗ばんだ肌が重なる。
さて、今日の目的を果たそう。
「ひろちゃん、お風呂に入ろ?」
かあ、と頬を染めたひろちゃんがしどろもどろに言葉を紡ぎだす。
「その、一緒に?」
「うん、一緒に」
「ば、馬鹿、恥ずかしいだろ」
「何で?こういう事しても、恥ずかしいの?」
「いや、そうじゃないけどな、……いいけどさ……」
何となく理解出来た。
性交を前提にしないでの裸の晒し合いが恥ずかしいのだろう。
私としては欲情を抜きにした冷静な目で見て欲しいのだ。
「じゃ、行こ?」
身体を起こしてひろちゃんの手を引く。
「ふ、仕方ないか」
苦笑いを浮かべ、ひろちゃんはベッドから降りた。
すぐに脱ぐと解っていても、私達はきちんと服を着てから部屋を出た。
裸を見せ合っても良いのはベッドの上とお風呂だけだ。……今のところは。
部屋を出てすぐにひろちゃんが言った。
「水、飲んでもいいか?」
訊かれて私も意識した。随分と喉が渇いている。
ひろちゃんはずっと動いていたのだから、私よりも数段渇きは上だろう。
二人並んで台所に立って水を飲む。
私は一杯だけだったけれど、ひろちゃんは三杯も飲んでいた。
「そんなに渇いてた?」
「まぁな」
コップを置いたひろちゃんが思い出したように口を開く。
「美里、バスタオルとかは、──」
「あ、脱衣室にあるからね」
「準備いいな、──って事は」
「うん。今日の本題だよ」
ひろちゃんは私の目を見詰めて、軽く笑った。
「大胆になったよな……」
「ひろちゃんも、だよ」
私に断りもせずがっちりと肩を抱き寄せたあたり、ひろちゃんが変わった確かな行動だ。
そして平然と許す私。男女の仲、とはこういうものだと思う。
「後から来てね」
私はそう言い残してひろちゃんを脱衣所の外で待たせた。
狭いというのもあるけれど、やっぱり恥ずかしさの方が理由としては上なのだ。
服を脱ぎながら思う。
ひろちゃんは私のスタイルについては一度も言及することがなかった。
私のお姉ちゃんをよく知っている人だ。比較されるのは無理がないし、今でもお姉ちゃんのスタイルには
全く太刀打ち出来ないだろう。
可愛いとの言葉には嘘はない。けれど、実際はどうなのだろうか。
お世辞にも豊かな胸ではないし、お尻だって体格通りに小さいと思う。
私が思っている以上に、魅力に欠ける気がしてならない。
浴室に入って、湯船の蓋を取り除いて温度を確認。
私のお母さんはお風呂が大好きで、湯船の温度が常に一定になる電気式のものにしてある。
夏でもこれに入るのだから筋金入りだ。
私が浴室に入ったのを察したひろちゃんが脱衣所に入った。
曇りガラス越しにひろちゃんの身体が動いている。
迷いは感じられない。ちょっと無理な提案だったと思うけれど、ひろちゃんは文句も言わず受け入れた。
……沢山の恩があるのに、なかなか返せない。焦っては駄目だと自制している間にも、
こうして良くしてもらっている私。今日のも半分くらいは空振りのような気がする。
──と、ひろちゃんがこちらに歩いてきた。
背中を向けて正座する。正面の鏡は水滴で曇っていて、室内に入ってきたひろちゃんの身体が
見えない。
ぺたり、と肌と床が触れる音。
「お湯、かけるよ」
「うん」
ひろちゃんは桶を使って湯船からお湯を汲んで、私の背中を流す。
ざざぁ。顔が熱くなっているのはお湯の温かさが沁みただけじゃない、と思う。
性的な感情がないからこそ、こんなにも恥ずかしさを覚えてしまうのだろう。
「スポンジとボディソープ、取って」
「あ、うん」
振り返らないように後ろ手で渡す。ほどなくして冷たい感触が背中に触れた。
「っ、……」
ごしごしと遠慮のない手つき。
さっきまで考えていたスタイルへの不安のようなものが湧いて、少しだけ迷ってから
口にする。
「ねぇ、私の身体って、……どうなの?」
動いていた手が止まる。
突然の問いに戸惑っているのだろう。
「……どうって?」
「その、……大したこと、ない?」
泡を生み出す作業が再開する。
肩から肩甲骨へ。
「あー、そうか。姉御と比べてるんだな」
「うん、まあ……」
さすがに読まれたようだ。あからさま過ぎたけれど、訊けるなら良しだ。
「姉御のは、……そうだな、格好が良いって感じだろうな」
「格好が良い?」
「うん、モデルみたいに形が整ってて、……はっきり言えば、触れるのにはかなりの勇気が要るな。
確かに目を離しにくいし、良いスタイルだなって思うんだけど、……どうしようもない壁が
ある感じだよ。どことなく現実離れしてて、自分のものにしたいって気にはなれにくい、かな」
理想ではあるけれど、理想であるがゆえに触れにくい。
……もしひろちゃんがお姉ちゃんと並ぶくらいの美形だったら、私は近づけないだろう。
ひろちゃんがお姉ちゃんをどう見ていたのか、ようやく理解した。
「そういう意味じゃ、美里の方がいい身体してるよ。よいしょっと」
ひろちゃんは私の身体を持ち上げて、胡坐の真ん中に座らせた。
って──硬い、ものが、お尻に……!
「っ!……ひろ、ちゃん?」
ひろちゃんの顔は見えないけれど、隠しようがない興奮を帯びている声が響く。
「うん、色っぽい身体だよ、美里」
スポンジは捨てられていて、泡だらけの手が私の胸を弄んでいる。
ぐちゅぐちゅと理性を掻き混ぜるような音。快楽が呼び起こされる艶音だ。
「ぁあ、ん……さっき、あんなにした、んんっ、でしょ?」
「さっきのは昨日までの分な。これからは、今日の分だ」
首筋を舐められ、私の身体は勝手にうねり始めた。
私の背中とひろちゃんの胸がいやらしい音をたてる。文字通り、身体全体を使った愛撫だ。
「ふ、うぅん、……あ、……ふああああ!」
「美里って、ここが弱いんだよな」
太ももの内側。私の一番敏感な性感帯をひろちゃんはゆるゆると触れる。撫でる、ですらない
感触に信じられないくらいの快感を得てしまう私。
「んん!く、ああ……っ!」
身体は正直に反応して、ひろちゃんの腕の中で激しく跳ね回った。
かくかく、ひくひく。
見れば、胸元から爪先まで泡が着いている。ひろちゃんの指が伝った証。
「流すよ」
ざぶざぶとお湯で押しのけられる白い泡。
艶やかに光る私の身体がひろちゃんの理性を排除させたらしい。
本能を剥き出しにした口付けの後に、私に命令が下された。
「立て、美里」
「……は、い」
快感で力が抜けそうな膝。やっとのことで機能させて立つ。
直後に後ろから性器を突き立てられた。
「ふ、はぁ……っ!」
悦びのため息が漏れ、目尻が下がるのが自覚できた。
私を抱きしめたひろちゃんは顔を横に向かせて、口付ける。
「ん……む、ぁん……」
踊る二枚の舌。勢いは完全にひろちゃんの方が上だ。
ただただ翻弄されるだけの口付けなのに、この上ない悦びを感じている。
私の口内を存分に味わったひろちゃんが言う。
「見ろよ、美里」
ひろちゃんが指差す先には、室温と同程度に温まって曇りがなくなった鏡。
逞しい腕に抱かれ、性交渉の真っ只中にある私がこちらを見ている。
「ほら、どんどん、色っぽくなる、よ?」
ごつごつと子宮を攻められる私が、ひろちゃんの言葉通りに淫らになっていく。
口は半開きで、涎を拭こうともぜずに快楽に溺れている。突き上げる肉棒に自らの蜜壷を
突き出している。
これが、私。
「ふ、ああ、すごい……」
「だろ?……ん、締まる……っ!」
ぱんぱんと濡れた肌が弾け、その音が部屋中に響き渡る。その大部分は私とひろちゃんが吸収しているの
だろうか。快感が天井知らずに高まっていく。
お腹から迫り来る途方もない快感に、私は我を失った。
「ん!……くぁああん!っ!……っ!ふああぁぁ……ん!」
一緒に果てた私達は今度こそ身体を流し合い、手を繋いで湯船に入った。
さっきと同じようにひろちゃんは胡坐をかいて、その中に私は収まる。
背中を好きな人に預ける感触がたまらない。ひろちゃんの呼吸の度にお腹が膨らんで、
私を僅かに揺らす。ゆりかごを連想させる優しい揺れ。とても安心出来る。
……ひろちゃんにも感じて欲しい。
ばしゃばしゃとお湯を掻き分け、湯船の反対側に移動する。
「美里?」
「ね、こっち来てよ」
「重いだろ」
「お湯の中なんだから平気だって」
「だったらいいけどな」
ひろちゃんは楽しそうな顔で私の胸に背中を預ける。
……大きい。昔とは全然違う。家事でそれなりに鍛えられた筋肉が逞しい。
私はひろちゃんの首に腕をまわして、密着する面積を増やす。
もう離さない。私の傍に居てもらうんだ。
「ここが、ひろちゃんの居場所なんだからね。どこにも行ったら駄目だよ?」
ひろちゃんは私の手を掴んで、同意した。
「ん、そうだな」
お互いの身体を確かめ合う沈黙。
……そうだ、言い忘れてた。
「ね、ひろちゃん。あのバスタオル、あげるからね」
「……了解」
「私が呼んだ時は、必ず持ってきてね」
「ん、了解」
次の機会も、この時間を味わいたい。
もう暫くしてから、ようやく私達はお風呂からあがった。
洗面台で湿った髪をドライヤーで乾かしていると、ひろちゃんが私に声をかける。
「コーヒー淹れるけど、美里も飲む?」
淹れてもいいか、ではない。ひろちゃんがこの家に馴染んでいるからこその問いだ。
それほど喉は渇いていないけれど、ありがたく飲ませてもらおう。
「うん。美味しく淹れてね」
にっこりと笑うひろちゃん。
「期待して待ってろ」
どたどたと台所に向かったひろちゃん。私のお腹に計五回も出したのに、元気だ。
やっぱり年頃の男の子なのだと認識してしまう。
私も満足だ。嬉しい疲れが溜まっている。
多分、ひろちゃんが帰ってすぐにベッドで眠ってしまうだろう。
ひろちゃんの匂いに包まれて眠る。……うん。待ち遠しい。
お風呂では髪までは洗わなかったから、すぐに乾いてしまった。
居間に戻ると、丁度淹れたコーヒーがテーブルに置かれているところだった。
「ありがと、ひろちゃん」
「いいって」
早速テーブルについてカップに口をつける。
温かいコーヒー。微かな甘みが舌に拡がって、喉を過ぎてから少しだけ苦味が残る。
私は結構な甘党だけど、これはこれで美味しいと思う。
「どう?」
「うん、美味しいよ」
答えてからもう一口。
私の様子を見たひろちゃんもカップを持つ。
こくりと喉を鳴らして、ふぅ、とため息を吐いている。
ようやく人心地ついたという感じだ。
「そんなに渇いてたの?」
「あー、……いや、隠すもんじゃないな」
ひろちゃんはカップに視線を向けながら言う。
「発作、起きてるんだ」
「……本当に?」
全然そんな風には見えない。
こんこんと爪でカップを叩き、ひろちゃんは言った。
「そうだな……『軽い』の『軽』くらいだな。放っておいても治まるかなって思ってたけど、
その先まで進む気配があるからこうして対策してる」
……心が沈んでいく。
私を抱いてくれたから、そうなったのかな……。やっぱり、あんなにしたのが拙かったのだろうか。
「気にするなって。美里を抱いたからじゃないよ。こんなの、週に何回もあるんだ」
「……本当に?」
ひろちゃんは頷いて、また一口飲んだ。
長い体験に基づく対処法なのだろう。……そういえば、
「ひろちゃんはさ、吸入薬って言うの?あの小さい筒みたいなのは使わないの?」
「あれは、なぁ……」
少し困ったような表情で天井を見上げて続ける。
「簡単に発作が治まるけど、使いたくはないんだよ」
どういう事なんだろう。簡単に治められるなら、使った方がいいのではないのか。
ひろちゃんは視線をカップに戻して、とつとつと語る。
「最初使った時はびっくりしたよ。こりゃいいや、ってな。……何回か使って、いつも視界
にないと気がすまないようになってた。目に見えないところにあるだけで、不安になってしまうんだよ。
……それが、良くない。今みたいな軽い発作でもちらちら目を向けて、結局は使ってたと思う。
すぐに治めさせる事が出来るって知っていれば、それだけで普段からの予防方法が疎かになるし。
そのくらいに依存してしまう自分が嫌になって、使うのを止めた」
「………」
「僕のは重くないんだから、それを使わなくてもいいんだって身体に言い続けなきゃいけないと思う。
……ま、いつも薬があるとは限らないし、こうやって薬以外のもので鎮める方法を一つでも多く
覚えておきたいしな」
「……そう、なんだ……」
軽めの口調だけど、こうした結論を得るまではそれなりの苦しみがあったのは想像に難しくない。
ひろちゃんは自分のことを弱いと言うけれど、私から見ればやはり強いと思えてしまう。
思い切ったようにひろちゃんが言う。とても真剣な顔だ。
「……な、美里もさ、薬使うの止めろよ」
避妊薬の事だろう。お母さんから貰ったのは所謂『後飲み』の薬だ。
お母さんはこの手の知識には随分と詳しく、私には徹底した教育を施しているのだ。
「詳しくは知らないけどさ、お前の身体にも負担をかけるものなんだろ?」
「……うん、そうなんだけど……」
副作用は思っていたよりもはるかに少なく、こんなので効いているのか?などと相談したものだ。
しかし月に一回だけと強く言われている。自覚出来ないだけで、負担は決して軽くないのだろう。
不安を少しでも軽くしてあげようと私は言った。
「その、ひろちゃんも、着けないでしたいんでしょ?ちゃんと使えれば、そんなに
心配する必要もないんだよ?」
ひろちゃんの真摯な表情は変わらない。
「駄目だって。万が一、美里の身体が壊れたりしたらどうするんだよ。
焦んなくてもいいんだよ。僕が責任取れないような事はするな。
……必ず責任取れるようになってやるから、使うな。いいな?」
その言葉の意味は、ひとつしかない訳で、……困った。どんな返事をしたらいいのだろう。
「……あの、それって」
「悪い。忘れてくれ」
ひろちゃんは頭を抱えてテーブルに伏せてしまった。
勢いにまかせた告白なのだろう。それなりの状況と雰囲気を作ってから言いたかったのに違いない。
でも、嬉しい。これ程までに私の身体を心配してくれて、なおかつ一生大事にすると言う。
「……いいよ」
「……ぇ?」
この際だ。私も言ってしまえ。
「何回言い直されるか解らないから、今のうちに言うの。──いいよ、ひろちゃん」
恐る恐る伏せていた顔があがる。
様々な感情が渦を巻いていた。数秒間混乱は続いて、
「はぁ〜」
と安堵のため息。
ひろちゃんは心底ほっとしたようだ。
両手を後ろについて、天井を見上げている。
「……、よかったぁ……」
「そんなに安心した?」
「そりゃ、な。男としては一大決心なんだぞ」
余裕を取り戻したひろちゃんは笑いながら言う。
女の子としても滅多にない出来事だろうけど、あまり吃驚はしなかった。
突然言われた分だけ戸惑いの方が大きく、衝撃を吸収したのかもしれない。
ぐい、とひろちゃんはカップに残っていたコーヒーを飲み干し、落ち着いた顔になった。
「断られたらどうしようかって思いっきり悩んだぞ」
そして、驚いた。
ぱたぱたと水滴がテーブルを叩くから。
「本当に…ひとりにならなくても、いいんだよな」
表情をそのままに、涙だけが不自然に流れている。
止めさせようとして、思い止まる。この涙は全部出し切らせるのが一番いいのだろう。
「今、美里がいてくれて本当に良かったって思ってる。この前、もう少し遅かったら
ずっと一人で生きようって決めてたと思う。絶対に一人で死ぬんだって気持ちを固めてた」
綺麗な瞳に射抜かれ、私はどきりとした。
誰も触れられなかった心が私に姿を見せてくれているのだ。
「ひろ、ちゃん……」
「何かあったら、何でも言ってくれよ。美里の為なら何でもしてやるからさ」
いつになるかは解らないけれど、本当にどうしようもない問題があったら言おう。
その時までは私も頑張ろう。
「とりあえず、顔拭いて。そのまま帰って欲しくないよ」
「ん、そうだな」
時間が随分と経っている。
そろそろ帰ってもらって、休ませてあげよう。
「じゃ、今日はここまでね」
「…そうだな」
今一番したいのは、一緒に布団に入って気が済むまで眠り続ける事だ。
ひろちゃんも同じ考えだろう。
残念だけど、それを実行できる関係ではないのだ。
「送るね」
「いいって。玄関までで十分だよ」
私はひろちゃんの背中について行く。あっという間に玄関だ。
ちょっとでも多くこの人を見ていたいけど、ひろちゃんは私の身体を考えて、ここで
別れようと言ったのだ。
靴を履いたひろちゃんが私に向きなおす。
「じゃ、またいつかな」
「うん、バイバイ」
『からから』
玄関が開くひろちゃんの動きが止まる。
「どうしたの?」
「あれ?勘違いしてたかな…?」
何だろう?勘違い?
ひろちゃんは強引にその疑問を打ち消したらしい。顔だけ私に向けて言った。
ニヤリとからかう表情。
「明日でもいいぞ」
「えっち!」
ははは、と笑いながらひろちゃんは出て行った。
反射的に言い返したけど、余裕でかわされてしまった。
というか、予定通りの対応だったのか。
「ふあ……ぁ・……っ」
大きな欠伸。ひろちゃんがいなくなって、一気に緊張が緩んだみたいだ。
さて、薬を飲んで、鍵をかけて、眠ろう。
数日後。
勉強していると、宅配便の車が家の前から発進して行ったのに気付く。
荷物、かな。
一階に下りて玄関まで行くと、休みのお母さんが荷物に貼ってある伝票を見ていた。
「あら、あの子からだわ」
「お姉ちゃん?」
お母さんは頷きながら、荷を解く。
もち米と、小豆だけが入っていた。
手紙とかは入っていない。他に渡したいものはない、という事らしい。
この二つが伝えたい事なのだろうか?
お母さんがぼそりと口にする。
「……赤飯?」
めでたい時に食べる物。祝い事。
「……あ」
鍵。この前に、ひろちゃんが帰る時に言ってた。勘違いかな、と。
かけたはずの鍵が開いていたからだ。思い出してみれば、確かにひろちゃんは鍵をかけたはずだ。
『戸締りはちゃんとしろって』と。
なのに、帰る時は開いていた。
──あの日、お姉ちゃんは帰って来てた?あの情事の一部始終を聞いてた?見てた?
そういう事なんだろうか。……それ以外に説得力のある仮説はない。
加熱する頬で我に返ると、お母さんが優しそうな笑みで私を睨みつけていた。
「あの薬の在庫状況なんかを聞きたいな〜」
私の思考は見抜かれてるらしい。
どうせなら、正直に言った方が被害は少ないだろう。恥ずかしいけれど。
「使ったけど、……もう減らない」
使わないと決めた。ひろちゃんが言うとおりに、彼に責任が取れないようなことはしない。
予想外の答えだったらしい。お母さんはぱちぱちと大きな目を瞬かせ、直後に笑い出した。
「お、ほほ!おほほほほほ!今夜は豪勢にしましょうね!
いやいやそれだけじゃ駄目ね、外崎さん家のふたりも呼ばなきゃ!ね、美里!」
……私の一言で全てを察したようだ。恐ろしい推理力。
ずっと前、ひろちゃんを家に呼ぶ為にわざと料理を失敗した事があったけれど、
あれも結局は見破られていたし。
流石、我が姉の母だ。
で、お母さんは嬉しそうに電話のボタンなんかを押してるし。
夕食はどんな会話になるんだろう……覚悟ならどれだけしても、十分じゃないんだろうな。
後編 終
支援。
エピローグは短いです
ではうp開始
親父が死んだ。
三年前の春。僕の入学式を見届けた次の日に倒れ、それきりベッドから降りることはなかった。
そんなにも重い病魔に冒されながらも三年も生きたのだから、驚嘆すべきなのだろう。
仏間に入り、こうして遺影を見ているだけで思い出す。
「どうしたの?」
僕は声の主に向き直さず、考えていた事を口にする。
「なんで、あんなに幸せそうにしていたのかなって。……それが今でも解らないんだ」
病院では親父の最期が今でも語り草になっているらしい。
──昏睡状態が続き、後は心臓が止まるのを待つだけ、という状況での診察中に突然に目を覚ます親父。
驚きながらもあれこれと言葉を並べる医者を全く無視して、親父は言ってのけた。
『あと二時間しかない。人を呼んで欲しい』
その人数は両手の指で足りる程で、僕もその中に入っていた。
報せを聞いた僕が到着した時には既に何人かいて、親父は身体を起こして──名前、思い出せないな──
知り合いの医者と言葉を交わしている最中だった。
他の人は最期の挨拶を済ませてしまったのだろう、部屋のあちこちに所在無く立ち尽くし、皆違う
表情だ。涙を流し床に目を落とす人。潤んだ目を親父から離さない人。
壁に身体を向け歯を食いしばる人もいた。
そして親父は、元気そのものだ。病気が発覚する前の明るい顔と明瞭な声。
…白い入院着には、びっしりと汗が染み込んでいる。髪からもぽつぽつと流れ落ちている。
その身体は間違いなく絶叫している。苦しいんだから眠らせろ、さっさと失神してしまえ、と。
親父はそれを無視して、身体を使う。ひょっとしたら、その苦痛も感じない程に心と身体の繋がりが
薄くなっていたのかもしれない。
親父がばんばんと話していた人の肘を叩き、これで最期だと頷く。
そして僕を手招きした。
最期なんだと動かない脚を叱咤して、どうにか親父の傍に立つ。
……何も言えない。親父も何も言わない。言葉もなく、ただ見詰めあうだけだ。
思い出が次々と浮かんでくる。一般的な父親よりも、実の息子である僕との会話は多かった方だろう。
所謂スキンシップも堂々とやってくれた。
ことある毎に大きな手が頭を撫でたり、僕の手を優しく掴んだり、時には拳骨と化して脳天を
直撃したり。…思わずやりかえしてしまい、きっちり三倍返しされた事もあったか。
その手と言葉が今日限りになる。
──何も、言えない。何か言わなきゃいけないのに。
言葉を捜して俯きかけ、不意に肩を掴まれた。
倒れる前の力強さがひしひしと伝わってくる。……ちゃんと顔を上げよう。
最期なんだから、親父の気が済むまで観察させてやろう。
僕はとっくに子供じゃないって事を。
時間が止まったように僕と親父は視線を外さなかった。数秒か数分か、随分と長い瞬間見詰め合ってから
親父は納得し、僕に一言。
『しっかりな』
いつもの口癖だった。僕を戒め、正しい方向に伸ばしてくれた言葉。
──最期の、言葉だ。
『……っ!』
ごうごうと荒れ狂う感情を塞き止め、僕は頷く。
親父の期待に応えるんだ。しっかりしているところを見せてやるんだ。
唇は震えているし、涙だって今にも流れそうだけど、親父の教えが身についている事を証明するんだ。
それを見た親父は噛みしめるように頷いて、ぽんぽんと肩を叩く。
終わった。僕との時間は、僕が何も言えないままに幕を閉じてしまった。
床に貼りついた足の裏を剥がして、壁際に移る。
後悔しても遅いんだ。せめて感謝くらいはすべきだった。
全員に挨拶を済ませた親父は清々しい表情をしていた。
その場に居る人達を網膜に焼き付けるようにゆっくりと見渡し、遊び疲れた子供のように
欠伸をする。
『やっと安心して眠れるんだから、出来るだけ起こさないでくれよ』
傍に控えている医者にも目を向け、蘇生措置は遠慮すると伝える親父。
誰もその言葉を訂正させようとしない。
皆、納得しているから。仕方がない事なのだと。
『じゃ、またな』
極めて簡単な別れの言葉を言って、親父は横になって眠った。
部屋は静かだ。ぐにゃりと親父が歪んで、光の波だけが見える。
……こんな世界に行くんだな、親父。
光が集束して、頬から滑り落ちる。
僕はまだ行けないけど、いつかは必ず行く。その時までに沢山の思い出を作ろう。
全部、親父に聞かせてやろう。
「孫の顔だって見てないのに、まだまだ色々やれた若さなのにさ、……あんな顔で逝けるものなのかな」
「そうね、まぁ……出来る限りの事をやれたから、でしょ」
あの歳、あんな身体で、満足出来た人生。
どうすればあんな風になれるのか。
「………」
「ほら、しっかりしなさいって」
落ち込んでいると思っているのか、明るい声で僕を励まし始めた。
「お父さんに立派なところ、見せなきゃ駄目でしょ?
もう三年生なんだから、ちゃんと出来るって」
全く、落ち込んでなんかいないってのに。
「……三年って言うけどさぁ」
僕は座ったまま身体ごと振り返って言う。
「中学三年生に何が出来るって言うんだよ、母さんは」
それを聞いた僕の母、外崎美里はころころと笑う。
「その調子よ、一浩(かずひろ)」
元気付けようとわざと言ってたらしい。
すんなりと感謝の言葉なんて出るはずがなく、ついつい反抗してしまう。
「で、何が出来るって?」
優しく微笑みながら母さんは答えた。
「沢山あるでしょ?」
『どたどたどたどた』
「兄ぃ!」
「あにー!」
「夜宮に行くぞー!」
「いくぞー!」
騒々しく乱入してきた六つも違う双子の妹、真樹(まき)と千花(ちか)が僕の両腕に掴みかかり、
手漕ぎトロッコよろしくギッコンバッタン。
まだまだ日は高いってのに、母さんに浴衣を着せられてとっくにその気になってるようだ。
「着せるのはいいけどさ、早すぎじゃないか?」
「可愛いんだから早く見たかったの」
まぁ、確かに絵にはなるんだろうけど、こんなにも活発だとそれもぶち壊しだ。
チビ二人が交互にまくし立てる。
「綿飴!」
「たこ焼き!」
「リンゴ飴!」
「お好み焼き!」
食い物しか頭にないのか、お前らは。更に爺さんまでもが仏間に来てしまった。
「よしよし、爺さんとちょっと覗きに行こうか?」
二人はぎゃあぎゃあと騒ぎながら爺さんにまとわりついて、行ってしまった。
真樹と千華は親父と一緒に遊び倒したお陰で、度が過ぎるくらいに懐いてしまったな。
悪くはないと思うのだが、これからの事を考えれば失敗だったかもしれない。
女の子がタンコブ付きの男と上手く付き合うってのは難しいのではないだろうか。
「夕食の下ごしらえ手伝ってね、一浩」
受け入れるのを全く疑わない口調で母さんが言う。
「まだ教える気かよ?」
僕ほど料理が出来る友達はいない。そんなに仕込みたいのか。
「そうよ。お父さんはもっと出来たんだよ?」
「知ってる。何でそんなに料理させたいのかって事だよ」
「あら、絶好のアピールポイントになるのよ?」
ああ、意地悪な笑みだ。こんな顔の母さんが言う事は決まっている。
「あの子とは上手くいってるの?」
「……うるせー」
塾帰りにあいつと歩いている所を見られたらしい。事ある毎にこうして母さんは僕をそそのかす。
母さんと親父がかなり早い時期からくっついていたのは聞いている。
が、僕までそうさせようってのはどうかと思う。
「ほら、行くわよ」
「はいはい」
母さんに続いて部屋を出ようとすると、風鈴が鳴った。
多分、親父が鳴らしたのだろう。顔だけ後ろを向けると、触れそうな程に親父の気配がする。
あの日に言えなかった言葉、言おう。
「大丈夫だよ。親父の分まで頑張るよ」
エピローグ 終
飽きもせず読んでくれた方、ありがとうございました。
で、投下直後にこんな事を書くのは何ですが、
正直言ってオリジナルSSを書ききったとは感じてないのです。
ひたすら自分吐きしてただけです。
オリジナルというのはこの向こうにあるものなんだろうな、と。
何と言うか、目指す処がえらく高いお方ですな。
一応私はエロパロ書きですが、これだけの物を書けたら自分で絶賛してますよ。
若々しいエロスの迸りに狂おしいほど発情。
本当に、モニターへ手を合わせて拝みたくなる良作でした。心より感謝!
>>636 素晴らしい作品を読めたことを心から嬉しく思います。
本当に感謝したいです。ありがとうございました。
>UDプロジェクト
こういうプロジェクトがあることは知っていましたが…
作品を読んで自分なりに前向きに少し考えてみようかと。
貧弱なPCですが。
読めてよかったです。
最後まで読めたんだなぁ、っていう余韻を味わえるような
作品に出会えるとは思ってませんでした。最高でしたよ。
ありがとうございました。
吸入薬は早めに使えと医者に教わったんだが、とか
(もちろん1日あたりの使用回数はともかく)
発作じたいが心臓に負担かかってよくないんで
軽めの発作が起きたくらいで吸入して止めるべきと言われたんですけどとか
(吸入使わない理由を言っていたけど、あれが逆によくないと教わったんで)
抗アレルギー薬ちゃんと飲んでるかー?とか
最近は結構いい薬とかでてるよー?とか
同じような症状を持つ者としては”彼”にいいたいところとかはあったりしますが^_^;
・・・アレルギーにもいろいろあるからっていうか、
はっきり言ってスレ違いorz
そんなはなしは、ほんとはどうでもよくて。
大変素晴らしい作品でした。
生きてると言うことと、
人を好きになったり、大事に思ったりすることと、
セックスすることと、
全部つながってて、全部意味があるって
そう思わせてくれて。
ついでに、・・・こんな可愛い彼女欲しいぞとか
(「しよ?」っていうのがすごく可愛い!激萌えです!)
いい恋愛したいなとか思わせてくれて。
一言で言えばアレですか
ネ申
GJでした!
はぁ……………すごいものを目撃してしまった。なんて緻密で、そして立体感のある文章なのだろう。
自分ではまだまだ満足してない様子だけど、あなたの書いた小説を読むことができて、本当によかったと思うよ。ありがとう。
こんなに暖かいレスがついたの初めてで、いやー嬉しいです
>>641 ちゃんと喘息と向き合ってる人から見れば作中の野郎って言うか漏れは
全然『やってない』方だと自覚はしてます。
リアルだと作中よりもちょっとだけ放置されて育って、何倍も周囲を放置して過ごしてきた
奴なのですよ。
うーん…まぁ、こういう付き合い方をしてる香具師もいる、という事で。
ますます拙いモノが書けないっすね……
ま、頑張ります