思いっきり叩かれそうなネタをコソーリうP。
ズキズキ
蝉が鳴いている。
久しぶりに、高校の近くを通りかかった。この信号を渡ってあの路地を抜ければ、校舎が見えてくる。
夏休み中の日曜日だけど、職員室はカラではないはずだ。卒業式以来会っていないかつての担任教師は、きっとあの暑い部屋でそれでも汗一つかかずに書類に向かっているだろう。
行ってみようかな……。
ちょっと迷っている間に、青信号を逃してしまった。
まあ、いいか。だって会ってどうしようって言うんだろう?
そう考えてちょっと悲しくなってしまう。
わたし達のあの学校にはちょっと素敵な言い伝えがあって、裏庭に位置する『開かずの教会』でお姫様は運命の王子様に出会うんだと言われていた。
馬鹿馬鹿しいと思いつつも、わたしは試さずにいられなかった。
卒業の日、わたしの足はその教会へ向かっていた。一縷の望みをかけて。もしかしてあの人が、これを限りに会えなくなってしまうかも知れないあの人が、わたしを探しに来てはくれないかと。
彼は現れなかった。
わかってる。ただ待っていて手に入るものではなかった。これは、わたしの弱さ。一度だって自分で想いを告げようとしなかったわたしの怠慢。
なんだか落ち込んできたので、わたしはものすごい勢いで学校とは反対方向へと歩き出した。少しでも早くあの学校の面影から遠ざかろうとして。
けれど。
―――あれ。
信号待ちをしている車がわたしの視界に飛び込んできた。見覚えのあるあのフォルム、いつもながら洗車したてみたいに磨き上げられたボディのあの色、語呂合わせみたいに暗記してしまったあのナンバー。
そのまま脇を通り過ぎてしまうことなんてできなかった。わたしはゆっくりと車に近づき、運転席を確かめずにはいられなかった。
目が、合った。ウィンドウガラスが静かに下げられ、驚いた顔の運転手がわたしの名を呼んだ。
やっぱり。わたしは一卒業生として違和感がないように、そして努めて明るく楽しげにお久しぶりですと声をかけた。ええ、これから帰るところです。先生もお元気そうですね。あ、信号変わりますよ。それじゃあ、失礼します。
「待ちなさい」
先生は後続車を気にしながら、早口で言った。
「次の角を左折した所で待っている。乗って行きなさい」
返答する隙は与えずに車は走り出し、ウィンカーが上がった。宣言通り交差点を左へと消えてゆく姿をわたしは追った。ハザードを出して止まっている、乗りなれた車。
久しぶりの助手席は懐かしく、だけど凭れ掛かるとなんだか違和感を覚えてしまった。
時間が経つってこういうことなんだ。毎週のようにここに座っていたあの頃は、まるでわたしのために用意された場所みたいに感じていたのに。
「シートベルトは締めたな」
いつもと同じ台詞。ハイと頷くと、滑るように車が動き出す。
「元気そうだな」
「ええ」
「同級生とは連絡をとっているのか?」
「あ、ハイ、女の子チームで小旅行に行ったり。地元に残らなかったコとも、メールのやりとりをしてるんですよ。皆元気です」
「そうか。それは結構。…………その、彼とは?」
うっかりこぼしてしまった、という風に先生の口から漏れた名前は、高校時代仲の良い友人として過ごした男子生徒のものだった。同じ学校に通わなくなってからは、ほとんど顔も合わせなくなってしまったけれど。どうして先生が彼の名前を挙げるんだろう?
「あ、そう言えば先月偶然会いましたよ。元気みたいでした」
「……うまくいっていないのか?」
「はい?」
「いや、だからその。つ、つまり、覗き見るつもりはなかったんだが」
「……は?」
はぁ、と観念のため息をつき、先生は弁明を始めた。
「すまない。卒業式の後、君を追って彼が教会へ入るのを目撃した。
それで、そっその、意図したわけではないんだが、会話が、聞こえてしまったんだ」
「……え?」
卒業式、教会。ふたつの単語がぐるぐる回った。
そう、教会に現れたのはわたしの待ち望んだ相手ではなかった。
あの日重たい扉を開けて現れた彼は、驚くわたしを前に真摯に語ってくれた。
どんな風にわたしのことを想っていてくれたのかを。これからも傍にいたいと、そう言ってくれた。
親しくしていた友人のひとりではあったけれど、いや大切な友人のひとりだったからこそ、わたしはどうしても彼の気持ちを受け止めるわけにはいかなかった。
だってわたしはあの場所で、違う人を待っていたのだから。
正直に、精一杯誠実な言葉でそのことを告げると、彼は小さく笑って頷いた。そしてわたしを残して教会を後にした。
待って。
先生が、あの場に居た?あれを、聞いていた?どうして?どうしてあんなところにいるの?
「ま、待ってくださいっ!!」
掴みかからんばかりの勢いで、思わず大声を上げてしまった。驚いた先生はハンドルを切り損ねそうになる。
「運転中になんて声を出すんだ!危険だろう!」
先生に怒られるなんていつ以来だろう。ふと時間が巻き戻ったように感じて、
怒鳴られたはずなのに何故だか少しだけほっとする。
「あ、いや、すまない。言い過ぎた」
「いえ、わたしが悪かったです、ごめんなさい」
素直に頭を下げる。先生は怒りながら照れてるみたいな、あの懐かしい表情をしている。
今でも、わたしはこの人に見とれてしまう。ああ未だに、わたしはこの人を諦めていないんだろうか。
「先生」
「何だ」
「―――誤解、です」
「?」
「最後まで聞いてはいらっしゃらなかったんですね、あの会話」
「私はそこまで悪趣味ではない」
「わたし、お断りしたんです、彼のこと」
「何?」
「わたしはあの日あの教会で、待っていたんです。
彼のことをじゃありません。もしかしたら来て下さるんじゃないか、って。
もしかしたらわたしが見ていたのと同じように、わたしのことを見ていてくれたんじゃないだろうか、って」
「それ、は、まさか」
「わたし、先生を待っていました。わたしが好きだったのは、先生なんです」
予告なしに車が停まった。交通量の少ない路地。風すら吹いていない今、動いているものは何ひとつ見当たらない。
先生は片手をハンドル、もう一つの手をサイドブレーキにかけたまま微動だにしない。表情が読めない。
まだ、間に合うだろうか。手を伸ばせばまだ、届くだろうか。こうして望めばまだ、手に入れられるだろうか―――
ゆっくりと先生がこちらを向いた。表情が無い。いや、顔色が無いと言った方がいいかも知れない。
元々決して血色の良い人ではないけれど、今の先生には蒼白に近い色が張り付いている。
つられたかのようにわたしも言葉と表情を失った。予測、できたから。
「すまない」無表情のまま言い渡される言葉を、わたしも無表情のまま受け止める。
「私には―――今の私には、応えられない」
その言葉に被さるように蝉が鳴き出した。ほらみろと笑われているようで、退場を促されているようで、
わたしは笑うことも泣くこともできなかった。
「いいんです。謝らないで下さい。わたしが、勝手に」
「そうじゃないんだ!私、は」
「ムリしないで下さい。困らせてしまってごめんなさい。卒業しても問題児ですね」
これ以上問題児になってしまう前に、去らなければいけないと思った。
シートベルトを外す音に反応し、先生の顔に表情が戻った。わたしは目を逸らしドアに手をかける。
「一人で帰ります。本当にありがとうございました」
名前を呼ばれたような気がしたけど、空耳だったことにしてわたしは足早に立ち去った。
三年間。三年かけてゆっくりゆっくり好きになっていた。
あの三年に比べて、そして諦め切れなかったこの数ヶ月に比べてさえも、
失うのはなんて一瞬で容易い作業なんだろう。
まだ間に合うかも知れないなんて虫の好いことを、考えてしまった自分すら可笑しい。
帰ります、と言ったくせに足は自宅へ向かってはいなかった。やっぱりまた学校だ。
無意識にたどり着いてしまうくらいわたしはここが好きなんだろうか。
手に入らないと分かった今でも、あの人に出会うことができたこの建物が。
とてつもなく暑い。
野球部の掛け声がチアリーダーの笛の音がプールから響く水音が女生徒の嬌声が夏の日差しが草の香りが生ぬるい風が渦を巻く。校舎が、揺れる。
あ、やだ。貧血かも。
わたしはふらふらと校庭の大木に近寄り、凭れ掛かって座り込んだ。
部活動なのか補習でも受けるのか、生徒の出入りは割とあった。
あのセーラー服も短いスカートも、もうわたしの世界には属さないんだ。
まだあの群れの中にいられた頃から、その制服が違和感を帯びる日をぼんやりと恐れていた。その日がこんなにも早く来てしまうなんて。
「あら?どうしたの?」
声をかけられた。顔を上げると見覚えのある女性が見下ろしていた。図書館の司書をしているおねーさんだ。
朗らかで話し好きで、ときどき、ちょっと口が軽いと言われている。
「あ、ちょっとフラっとして」
立ち上がろうとするわたしをおねーさんは手で制し、自分も木陰に座り込んだ。
「大丈夫?今日暑いものね。学校に用事だったの?」
「いえ、なんか何となく来ちゃったんです」
「うん、そういう卒業生割と多いわよ、夏休み。職員室行ってみた?」
「いいえ。でも、いいんです。もう帰ろうと……」
「そう?あなたよく担任の先生と図書室で予習してたでしょ。会って行けば
……ああ、今日はもう帰られたかしらねえ」
そのはずです。だからもう職員室に用は無いんです。心の中でそう呟いた。
おねーさんはそう言えば、と切り出した。
「聞いた?先生の話」
聞いてはいけないような気がした。けれど聞かずにはいられなかった。
「何、ですか?」
「ご婚約が近い、って話」
案の定、おねーさんの台詞はわたしに致命傷を与えた。血の気が引いた。
けれど彼女はわたしの声が震えていることにも気付かない。
「嘘」
「あ、やっぱりそう言った。生徒さん、間違いなく同じ反応をするのよね。
あの先生じゃもっともだと思うけど。あのね、理事長が勧めたお話らしいんだけど。
って理事長もご自分の心配を先になさればいいのにねえ。
ともかく、先生春ごろちょっとおかしかった時期があるのよ」
「おかしかった?」
「うん、故障だなんて言われてたけど。春休みに大失恋したらしいって話もあって
――これは未確認なんだけどね。で、いつもなら突っぱねるお見合いの話も、断りきれなかったらしくて。
それからもう数ヶ月経ってるし。ある意味理事長の作戦勝ちよね」
おねーさんの話はまだ続いていたが、聞いているどころではなかった。
わたしは座っているのに立ちくらみを起こしたみたいで、
おねーさんの声も目に入る花壇も蝉の声も浮かぶ雲もすべて一緒くたになってぐるぐる回っているようにしか感じられなかった。
どうやって話を切り上げて挨拶をして立ち上がったのか覚えていないけど、
わたしはかつての通学路を駅に向かって歩いていた。日差しに刺されそうだ。見上げたらきっと目を潰される。
潰して欲しい。刺して欲しい。太陽でも雷でも獣でも闇でも何でも構わないから、わたしを壊してしまって欲しい。
失うってこういうことなんだ。
手に入らないだけじゃない。あの人はもう、他の誰かのものなんだ。
助手席の違和感。あれはもうわたしの場所なんかじゃない。制服の違和感。わたしはもうあの人の生徒ですらない。
もうわたしはあの人の過去。あの人の今にわたしはもう入り込めない。
―――怖い。
キャミソールから覗く剥き出しの肩を自分で強く抱く。血が滲むほど爪が食い込む。
ちっとも痛くない。ただ恐ろしい。
誰でもいい何者でもいい。
お願いだからどうか、今すぐわたしを壊してください。
やけに人通りが激しい。皆同じ方向に歩いてゆく。意味も無くわたしも人波に流される。
妙に浴衣姿が多いことで、今夜は浜辺の花火大会なのだとようやく知る。
花火、見て行こうかな。何も考えずに何も感じずに見上げていればいいから。
部屋に帰ればきっと考えてしまうから。
会場にたどり着いたわたしは、ひしめき合う観客からほんの少し離れた所に立っていた。
もうそろそろ始まるはずだ。
不思議なくらい何も感じない。ワクワクもしないしちっとも楽しみじゃない。
花火、あんなに好きだったはずなのに。
と、若い男の子に名前を呼ばれた。俺のコト覚えてる?
ごめん、覚えてない。え?三年のとき隣のクラス?ああ、見たことあるような気がした。
今日?うん、一人。そっちは。え?いーよ、別に。絶景ポイント?へえ、詳しいんだ。うん、行く。
連れられて行った場所は確かに絶景ポイントで、誰にも知られていない本当の穴場だったらしい。
わたしはそこで名前も思い出せない同級生と並んで腰掛け、色づく空を見上げた。
ああ、赤い、青い、それだけ。だけどわたしはわざとらしくキレイだねなんて言ってみる。
彼の手がわたしの肩に伸びる。わたしは抵抗しない。背中に草がささって少しちくちくする。
彼の手がわたしの胸元を這い回っていて、顔は目の前にある。
あの人に誰より先に触れて欲しかった場所に、ほとんど見ず知らずの少年が触れる。
痛くも痒くもないしくすぐったくもキモチヨクもない。丹念にあちこちを撫で回した手がやがてスカートの中に入り込む。
わたしは腰を軽く浮かし、そのまま下着が剥ぎ取られる。長くはない彼の指を感じたとき、
初めて軽い痛みがあった。声を上げてしまったのかもしれない。
彼は怪訝そうな顔を向けて言った。
もしかして、初めてなの?アンタ周りに色んなオトコいたから、絶対やってると思ってた。
じゃあ、ヤサシクしてやるからさ。
いいよ、ヤサシクなんかしなくて。どうかどうか、わたしを壊して下さい。
もう完全に痛みも感じなくなるくらいまで壊してしまって下さい。
ここがどこであなたが誰なのか、何を求めていて何を失ったのか、
何も思い出せなくなるくらいまでボロボロにしてしまって下さい。
けれども彼はその方面の技能に長けていて、そしてきっと本来『ヤサシイ』人間だった。
多分彼はわたしが彼自身に何の興味も持っていないことを見抜きながら、
それでもまるで大切な存在であるかのようにわたしを扱ってくれた。
わたしが望んだのは何も感じないほど打ちのめされることだったのに、
彼は細心の注意を払って、少しずつ、わたしの感覚を呼び覚ましていった。
まず感じたのは彼の温かさ。
そうして痛みとは別のものに起因する声が覚えず自分の喉から漏れてくるようになった頃、
彼の肩越しに咲く花火の美しさに気付いて、私は涙を流した。
花が開き、名残惜しそうにしながらも散って行く。美しいと心から感じた。
それに引き換え今日一日の自分がものすごく厭な奴だったと思い返して、
涙を止めることはできなくなった。どこまでもヤサシイ目の前の少年は、
こぼれる度にわたしの涙を指で唇で拭ってくれた。
ごめんなさい、ごめんなさい。わたしのためにこんなにしてくれなくていいのに。
泣きながら言った。巧く言葉にできていたかどうかわからないけれど。
でも多分彼には届いていた。困ったように微笑む彼の顔が見えたのが最後。
あとはよくわからない。全身が、痺れた―――――。
電話が鳴ったのは秋が始まった頃だった。
わたしはその間、すぐにでも屍になりたがる自分と世界を取り戻そうともがく自分の
両方に苛まれ、結局簡単に両方を打ち砕く方法として勉強に没頭していた。
友達の誘いも全部断り、とにかく一人で図書館へ通いつめていた。
花火大会の少年とはあれ以来会っていない。ついに名前すら聞かず仕舞いだった。
夕刻、市立図書館からの帰り道で、鞄の中から存在を主張するメロディが流れ始めた。
「もしもし?」
耳を疑った。返ってきたのは懐かしい名前を名乗る声。
「せん、せい?」
『今から出られないか?君に話がある。会ってくれ』
この期に及んでさえも、いいえと言うことができない。断ることができない。
わたしは分かりましたと答え、迎えに行くと言う先生に自分の居場所を告げて電話を切った。
程なく現れた車にわたしは乗り込んだ。やはり拭いきれない違和感。
ここはもう他の誰かのテリトリーなのだ。わたしこそが今この車内では異端者なのだ。
安全確認と発進の宣言が行われた以外、終始車内は無言だった。
先生はやっぱり無表情で、窓の外を見慣れた景色が流れ、行先に察しがついても
わたしは声をかけることができなかった。
下校する生徒の群れを逆流し、わたし達――いや先生の車は職員駐車場へと向かった。いつもの位置。
駐車場番号もわたしが覚えている通りだ。
「降りなさい」
「はい……」
車を降り、わたしは早足で先生を追いかけた。
駐車場を抜けたら花壇を横切って校舎を離れ、裏庭へ。
「先生?」
わたしの呼びかけには答えず、先生はまっすぐに教会へ向かう。
扉の前で立ち止まり、わたしが追いつくのを待って手をかける。扉が、開いている。
「理事長に無理を言って開けて頂いた。この所あの人には頭を下げてばかりだ」
後半部分は独り言だったようだ。まだ何か呟いたようにも思えたが、聞き取れなかった。
先生はわたしの背をそっと押して、中に入るように促した。
本当に軽く触れられただけなのに、それだけで電流が走る。
中には誰もいなかった。先生は後ろ手に扉を閉め、
ステンドグラスから入り込む明かりを頼りにパイプオルガンに近寄った。
けれど蓋を開ける気配も、かと言ってわたしに向き直る気配も無くじっと立っているだけなので、
わたしはついに声をかけた。
「あの、先生?」
「ああ、待ってくれ。やはりもう少し落ち着きたい。話を始める前に一曲弾いていいか?」
「ええ……」
私は木製の長椅子に腰を降ろした。先生もオルガンの前に腰掛けガタンと音を立てて蓋を開けると、
何と言う部品だろう、ノブのようなものを捻ったり引いたりして音色を調整し始めた。
芸術家の背中を私は見つめた。
やがてその指先から荘厳な音色が流れ始めた。ああ、聴いたことがある。
バッハの、何だっけこれ。そうクリスマスだ。軽やかにジャズアレンジされたものを、
先生はピアノで弾いてくれた。あの曲のオリジナルだ。
もちろん原曲を聴いたこともあるけれど、こんなにも厳かで悲しげな印象だったっけ。
演奏が終わると先生はオルガンを降り、歩み寄って私の隣に腰を降ろした。
「覚えてます、今の曲」
「そうか。ありがとう」
ふわりと先生は笑う。胸が痛む。
「話が、あるんだ」
「はい」
「…………端的に言おう。つまり、その、前回君と会ったとき、
君は私の勘違いを指摘しただろう」
ちっとも端的じゃない。あんまりにも以前と変わらないので、あの頃に戻ったみたいに思えてしまう。
わたし達の関係もわたし自身も、もう取り返しがつかないくらい変わってしまったと言うのに。
「……端的ではないな。すまない、性分なんだ。その、それで、だな。
あのとき君は私に好意をもっていると言ってくれた」
きっと先生は気に病んでいると思っていた。
けれどそのことはもう聞きたくも話したくもなかった。
わたしは首を左右に振った。先日あんな風に口走ってしまったことを、後悔していた。
「もう、いいんです。混乱させてしまったんだったらすみません。忘れて下さい。
ご婚約、なさるんでしょう?」
「違うんだ!」
「いいんです、わたしに気を遣って下さらなくて」
「違うんだ、本当に。そういう話があったのは事実だ。だが断った」
「え?どうして?」
思えば間の抜けた質問を、わたしはしてしまっていた。
それこそ『端的に』答えられる類のものではないだろうに。
「一時期……ひどく自暴自棄になっていた頃に、理事長に半分丸め込まれて彼女と会った。
だが何度彼女と過ごしても私は何も感じなかった。彼女ではダメなんだ。
そんなこと、会う前からわかっていたはずなのに。
――彼女には昨日、正式に非礼を詫びてお断り申し上げた。そして理事長にも」
「先生……?」
「この教会で君達を見かけたと言っただろう。何故私がこんな所にいたかわかるか?
私もあの日ここへ君を探しに来たんだ。彼と同じことを君に告げるために。
だが彼に、そう先を越されて、私は逃げてしまったんだ」
「え」
「あの日逃げ出さずに、彼を押しのけてでも君に伝えれば良かったんだ。
これは私の弱さであり怠慢だ。今からでも間に合うだろうか。
どうしても伝えたいんだ。君を愛してる」
打ちのめされる、ってこういうことを言うんだろうか。
わたしは口を開くことも身動きすることもできずに、ただ呆然と先生の顔を見つめるだけだった。
「今更、と言われることはわかっている。しかしどうしようもないんだ。
この数ヶ月、君の居ない世界を生きた。もうこれ以上耐えられない。
私の生活に、戻って来てくれ」
わたしはいつの間にか泣いていた。だって何か言わなくてはと開きかけた唇の端を、
涙が伝って降りて来る。拭おうとして頬に伸ばした手が先生の綺麗な指にぶつかる。
おそらく同じことを思って先生もわたしの頬に触れようとしていた。
長い指がわたしの指先を捉える。先生の指はキレイ。長くて冷たくて、とてもキレイ。
「ダメ……だよ……」
搾り出すようにわたしは言った。
ダメだよ。だってわたしは、先生を失ったと思って自棄になって、
名前も知らない行きずりの男に体を開いてしまうような女だよ?
先生のこのキレイな指で触れてもらう資格なんてないよ。
わたしは、周り中全部を傷つけて、それでもなお自分のことすら守れずにいるような女だよ?
先生のことも教会に来てくれた彼のことも花火大会で出会ったあの男の子のことも、
多分、わたしを気遣ってくれている女友達のことまでもみんなみんな傷つけて。
ダメだよ、もう。もう遅いよ。
間に合わなければ次の電車に乗ればいいって以前は思ってた。
だけど待合室にいる間に、あまりにも全てが変わってしまうこともあるって知ってしまった。
もうわたしは、どの電車を捕まえても目的地にたどり着く自信がないよ。
ズキズキする。涙の伝う頬が、触れられている指先が、ズキズキする。
痛くて苦しくて大好きでズキズキする。振り解かなくては息ができなくなる。
だけど先生は手を放してくれない。わたしがどれだけ引き剥がそうとしても指を解放してくれない。
「ダメ、だよ、せんせい」
「そんな返答は聞こえない」
ぐい、と手を引かれ、そのまま抱きすくめられた。目の前でタイピンが光った。
ぼろぼろこぼれる涙で、先生の上着にはあっと言う間に染みが広がってゆく。
髪を撫でる手のひらを感じる。この場所は居心地がよくて、なのに息苦しくて、
ずっとこうしていたいけど今すぐにでも去ってしまいたい。
怠惰で弱いわたしは、自力で逃げ出すことも留まることもできないから、
ただこうやって涙を流し切ってしまうしかない。
どこへ向かって動き出せばいいのか、決めることもできない。
どのみちもうここには居られないけど、居られないから、この涙が乾いてから考えよう。
ここは余りにも心地よくて、今すぐに振り払うことはできそうもないから。
今はただこうやって包まれている体中がズキズキして、甘くて、とてもあたたかい。