「次の連休、少し遠出をしようと思う」
私がいつものように先生の背中にじゃれ付いていると、分厚い本のページをめくっていた先生が
急に口を開いた。
「遠出、ですか?」
「ああ。知人の別荘へ行く。……君を、連れて行きたい」
構わないだろうかと私の方を見るので、私も笑顔で頷いた。
大きくて奇麗な湖のあるところ。……らしい。
「すっごく楽しみです! 母にも先生と一緒だって言えば平気です」
「いや、私から直接連絡しておこう」
次の連休。来週の土曜日から3日間。
いつも一緒にいられるのは金曜の夜とたまの日曜だけだから、私はとても嬉しい。
先生も嬉しいのかな。目元が優しくなってる。ご機嫌で“結構”とか“よろしい”とか言う時の顔。
左の耳に軽く口付けたら、先生は全身をビクッとさせて慌てた。
土曜日の早朝、家の前で待っていた私の前に、先生の車がとまった。
「おはようございます」
ドアを開けた先生に頭を下げると、先生も
「おはよう」
と微笑んだ。それだけで、なんだかとても幸せな気分になれる。
今日も、先生の好きそうなガーリーっぽい服装。卒業してもしばらくは癖だったみたいで、
会うたびに“氷室学級の生徒に相応しい服装”とか言っていたっけ。
「乗りなさい」
そういって助手席のドアを開ける先生は、やっぱり私を教会に迎えに来た王子様。
「先生、天之橋理事長みたい」
くすくすと笑みがこぼれる。先生が呆れ顔で溜息をついた。
住宅地を抜け、繁華街を抜け、車はやがて高速に乗る。
先生は上手にほかの車の間をぬって行くけれと、やっぱり渋滞に引っかかってしまった。
前も後ろも右も左も車、車、車。
これを抜けるには、当分かかりそう。
先生もしかめっ面で、苛立たしげに髪を掻き混ぜた。
「先生、先生、疲れちゃったんじゃないですか? もう3時間以上運転してるし、今朝は
早かったでしょう?」
「いや、心配ない。朝早いのはいつものことだし、これぐらいで疲れはしない」
でも先生、明らかに参ってる声ですよ、それ。
私は持ってきたバスケットを膝の上にどさっと出した。
「じゃあ先生、私せっかくお弁当作ってきたんで、次のサービスエリアで休憩しましょう。
コーヒーもありますから」
ついでに魔法瓶も出して見せる。
そうしたら彼は観念したという顔で溜息をついた後、少し笑って私の頭に手を伸ばした。
軽く撫でられる。
「分かった。味に期待している」
「はい! 任せて下さいっ」
車が、少し前に進んだ。
正午にさしかかった頃、ようやく車の行列を抜けてサービスエリアに入れた。
駐車場の隅に停車したのを確認して、私はバスケットと魔法瓶片手に車のドアを勢いよく開く。
「どうした、外に出るのか?」
きょとんとして尋ねる先生に、首を振った。
「後ろで食べるんです! 前だと、先生と距離があるんですもの。
ほらっ、先生も移動、移動」
「なっ! ……コホン。わ、分かったから少し静かにしなさい」
さっさと後部座席に座ってはしゃぐ私に、先生は渋々と言った感じで席を移った。すぐにドアが
開いて、先生の体が隣に滑り込む。
お弁当のメニューはサンドイッチとポテトサラダ、チキンナゲット。それからデザートには
リンゴとブドウ。
「……では、いただこう」
律儀にそんなことを口にしてから、卵のサンドイッチを一つ手に取る。
私が見ている前でそれを口に含み、何度も咀嚼して飲み込むまで、言葉は一切発さなかった。
黙っている先生に不安がよぎる。
「……もしかして、摂取量過多ですか? あ、美味しくなかったとかっ!?」
「問題ない」
慌てた私の声は、先生の一言で遮られた。
「大変結構。手が込んでいるな。……苦労したろう」
よかった、大丈夫だったみたい。にっこりと笑みまで浮かべて、おかずにも手を伸ばしている。
カップにコーヒーを注ぎながら、私も嬉しくて微笑んだ。
「もう、失敗しちゃったかと思いましたよ」
「いや……。その、君の料理の腕前は合宿のときに拝見している。
はじめから心配などしていなかった。……期待通りだ」
こんなに褒められるとは思ってなかったので、顔がカッと熱くなる。
「あ、ありがとうございますっ」
照れながら言うと、彼は
「いや……」
と黙り込んでしまった。先生の噛むリンゴがシャキリと音を立てる。
私も幸せを感じながら、ハムサンドを口にした。
「では、今から15分間トイレ休憩にする」
先生の言葉で二人とも車から降りる。
私はトイレに行って用を足し、お化粧を少し直した。先生あんまりつけすぎるのは好きじゃ
ないから、淡いピンクのリップだけ。
髪の毛もチョコチョコと弄ってから、小走りに車に戻る。
と、戻ってみたら、先生は居心地が良いのかまた後部座席に座っていた。やっぱり疲れてる
みたいで、目を伏せてじっとしている。
(寝てる……のかな?)
私が右後部のドアを開けたら、彼は目を開けてしまった。
「あっ……すみません、寝てました?」
「問題ない、起きていた。そろそろ出発しよう」
言うなり、運転席に行こうとする。私は慌てて先生の腕を掴んで引き止めた。
「先生っ、もう少し休んでいきましょう」
「君は……。しかし、もう出ないと予定通りには着かないぞ」
「構いません! まだ2日あるんですよ? あのっあの……わ、私っ、膝枕……しますから」
ああ……私、何言ってるんだろう。自分で自分に呆れてしまう。
でも先生にちゃんと休んでほしいと思ったら、つい。
彼の方を見てみたら、案の定目を見張って顔を赤くしていた。
「君は、何……をっ」
「ごっ、ごめんなさい! あ、あのでもっ、多分……寝心地は良いかと……」
なんだか2人して真っ赤になってる。
でもどうしても引きたくなくなってしまって、先生の腕を掴んだ手に力を込めた。
「……コホンっ。で、では……10分だけだ」
折れたのは先生だった。声まで裏返しちゃって……なんだか、すみません。
先生は背が高いから仰向けに寝ることはできない。だから座ったまま私の方にコテンと倒れて、
膝の上に先生の頭が乗るカタチ。
「えっと、どうですか?」
「どう、とは……?」
「あの……その、寝心地というか、こう……色々と」
すでに目を閉じていた先生は頬を赤くしたまま眉間に皺を寄せて、ボソリと呟くように答えた。
「悪くない……―――」
それだけで、もう幸せ。
5分ほどそうしていたら、いつの間にか先生の方から規則的な寝息が聞こえてきた。
(ホントに寝ちゃったんだ……)
サラサラの前髪が私の膝に時折触れる。少し、くすぐったい。
「先生、眼鏡かけたまんまですよ」
起こさないように囁いて、そっとフレームに手をかける。ゆっくりと、外す。
それを勝手に彼のワイシャツのポケットに引っ掛けて、私は先生の顔を見つめた。綺麗な、顔。
ふわりと、そのスミレ色の髪に指を絡ませる。
すべてが愛しい……先生……。
指先がひとりでに彼の頬の輪郭を辿り始める。先生の瞼が、動く。
私はこめかみにキスを一つ落とした。
「……ん……―――」
先生は小さく身動ぎするだけ。まだ、起きない……。
私は先生の寝顔をあまり見たことがない。高校1年のとき、赤点の補習授業でちらりと見ただけ。
先生は、否定していたけれど。
好きな人の寝顔って、どうしてこんなに見ているだけで愛しくなるんだろう。
長い睫毛の目元にそっと口付けると、先生はようやく目を覚ました。
それでも私は、頬にキスをする。
「な……っ! や、やめなさいっ」
起き上がろうとする先生を無理矢理に押しとどめた。
「先生、もうちょっとだけ……。キス、させてください」
「ダメだ」
一応抵抗はしないでくれるけれど、冷たい返事。
どうして……どうして……。そんなに予定が大事? 私よりも?
ちょっと、哀しい。名残惜しくて、体を起こす先生の背中を指先でなぞった。
と、急に先生の顔から一切の表情が消える。それから強い力で腕を掴まれ、あっという間に
座席に押し倒された。
「せ……先生っ!?」
「…………」
何も言わないまま、荒々しい口付け。噛み付くように激しいキスは、相手が先生だということさえ
忘れさせようとする。
「んっ、嫌……っ!!」
Tシャツの裾から大きな手が侵入してくる。肌をすべる。
怖くて、先生の顔が見られない。
うそ。うそ。初めてのときはあんなに優しくしてくれたのに。
先生じゃない。どうして。どうして……。
「やっ……先生、せんせ……離してっ」
こんな所で。まだ明るい駐車場で。車の中で。嫌だ。嫌です。
先生。先生。先生……―――!!
力いっぱい先生の体を押しやったら、細い糸を引いて彼の唇が離れた。体の上から重さが消える。
恐る恐る目を開くと、はっとしたような先生の顔が、私を見下ろしていた。
私の目尻から冷たい感触。やっと、自分が泣いていることに気付いた。
「先生……ひどい……――――――。ど、して……っ」
あとから、あとから、嗚咽が溢れる。
「ひどいのは、君の方だ」
降ってくる、声。苦しそうな表情。
私は、ただ言われた言葉に驚いて何も言えなかった。
先生が運転席に戻り、まっすぐ前を見ながら呟くように言った。
「君はそのままそこに座っていなさい。それから……―――」
車は発進し、再び高速に乗る。
「私も、君の前ではただの男になる……。覚えていてほしい」
景色はやがて、コンクリートの壁に遮られた。
《続》