マラソン大会の日、由希は風邪で倒れた。
何かをうったいかけるようなあの目。苦しそうなあの表情。
(―――お前はそんなんじゃないだろ!?俺が目標にしてきた奴は、こんなに弱い奴じゃない!!そうだろ!?)
由希のその表情は、いつか本家で逢った、傷だらけの女の子を思い出させた。
あれは師匠の言付けで、紫呉に会いに行く途中。
普段は近寄りもしない、あの憎き慊人の部屋の前にいた、
いっそ殺してくれというような虚ろな瞳で、まだ幼かった夾を魅了してやまなかった綺麗な子・・・。
・・・夾の初恋の人・・・。
大嫌いなクソ由希に、よりにもよって初恋の人の面影を見てしまった。
そのことが余計夾を腹立たせた。
潑春によって自室に運ばれた由希。
透はもちろん紫呉さえも寝静まってしまったその日の夜半、昼間のことで寝付けなかった夾は、
台所で夜食でも作ろうと思ってふと、由希の部屋のドアの前で立ち止まった。
聞き耳を立ててみると、苦しそうなうわ言が聞こえる。
「ごめ・・なさい・・・ごめんなさい・・・もう・・・しないから・・・あき・・と・・・」
最後の言葉にギョッとした夾は思わずドアを開けた。
・・・そこにはかつて出会ったあの女の子が横たわっていた。
いや、由希は男に違いなかったが、元々女性顔であるのと、風邪で弱っているためか、
遠くからみるともはや女性にしか見えなかった。
夾は何かに取り付かれたかのように、いや部屋中にむせかえる強い花の匂いに誘われるように、
普段なら絶対に近寄りたくない天敵由希の側にゆっくりと歩み寄った。
さっき、勢いよくドアを開けてしまったにもかかわらず、悪い夢から目覚めることのない由希。
その額につたう冷や汗、そしてそれに張り付く色素の薄い髪、赤らんだ頬―――。
綺麗な顔をゆがめて苦しむ由希―――それらのすべてが美しく、そして中性的で色っぽかった。
夾は額に手をあて、そして知らず知らずのうちに由希に口付けた。
「―――っ!!」
何よりもびっくりしたのは唇を奪われたほうでなく、奪った夾本人だった。
そして、驚くと同時に由希から勢いよく体をそらした。
由希は目覚めないままだった。
いや、それどころか、悪夢はどんどん酷くなるばかりで、
「い・・や・・・行かないで・・・僕だけ置いてどこかへ行かないで・・・っ!」
と涙をひとすじ流しながら呟き、中に向かって手を伸ばし、誰かに助けを求めた。
思わず夾はその手を手にとり、「大丈夫、大丈夫だから・・・お前は・・・そんなに弱くないだろ」と語りかけた。
寝汗をかき、ほてった顔の由希の額に手をあると、由希が少し微笑んだような気がした。
無理して笑っているようなその顔があまりに痛々しくて、でも艶めいていて・・・。
夾は自分の理性が飛ぶのをまるで他人事のように感じていた――――。
ネズミは元来、ネコによって食されるもの―――。
その日由希は夾によって屠られた。
ネコが毛づくろいをするように全身を舐められ、薄っぺらな胸板をまさぐられ―――。
「夾・・・夾・・・っ!」
熱におかされたように繰り返す由希の声は、夾をますます奮い立たせた―――。
朝日が差し込むころ、夾は隣で寝ている由希を眺めていた。
由希は先ほどとはうって変わって、穏やかな寝息を立てていた。
多分由希は今夜のことを覚えていないだろう。あの悪い夢の続きとしか思っていないに違いない。
このまま何事もなかったかのように去るのが一番いい。
ネコとネズミは・・・いや十二支は、お互いに馴れ合ってはいけないのだから――――。
そう自分に言い聞かせた夾は、静かに由希の部屋を去った。
その朝、由希は何事もなかったかのように朝食をとっていた。
夾もそう振る舞おうとしたが、なまじ記憶に生々しく残っている分それは難しい話だった。
だからできるだけ由希と目を合わせないようにし、由希よりも早く学校へ向かった。
紫呉はどうやら夾の変化に気がついていたようだが、
小説のネタかからかいの種にされるだけだと分かりきっていたので取り合わないことにした。
(――――あれは何かの間違いだったのだ。あの晩俺も由希もどこかおかしかった・・・)
夾は無理やり自分の気持ちに整理をつけた。
余談だが、あの日由希の部屋に、紫呉によって、とある妖しいお香が焚かれていたことを
紫呉以外の誰も知らない・・・。