スレH板のコテ出し・渾名出し・スレ出しは禁止
★違反以外でレス貼りはやめよう。粘着はみっともないぞ
★キモイ・ウザイは嫉妬の裏返し、スルー推奨
★ガッツキがいてもコテ・あだ名は出さずにニラニラ泳がせること
★
>>950 踏んだ人が次スレ立てること
・GLを守れない人は荒らし、荒らしを相手する人も荒らし
・荒らし・釣り・煽りは徹底的スルー
・自助救済が基本 自分で調べる
・自演ダメ!絶対!
・初心者や携帯など言い訳しない
・分からないなら分かるまで黙ってロム専
・コテ叩き禁止
・クレクレイクナイ
・このスレはスレH板の自治スレ、凸依頼所ではない
前スレ
【スレH】生温くヲチ1006【おいロ禁】
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/eromog2/1367826007/
ここでつか?
おまんこかゆいお
ゲス裏やちか劇場まだでつか?
・コテ叩き禁止
テンプレ変えたんだね
やっと俺のスレが立ったか お疲れさんU^ェ^U
>>9 俺にも使わせてww
これで…このスレッドも…
1000までいくねぇww
ようこそ! いつでもおいで下さいU^ェ^U スレH板の今後についても語り合いましょうU^ェ^U
やっと本家に統一されたか 良かった良かった
またキチガイがガマンできずに立てますよ そしたら書き込んで使ってやるんだ〜キヒヒ
本家というか、すでに俺のスレみたいな感じですけど… どうせまた分家立つんでしょうし
前スレでひどい目にあったコテ酉が常駐するスレですね 落ちてよかったねぇ
翔と会話してるつもりが 従者認定されたでござる なんじゃそりゃ
誰がひどい目にあってたの
ひどいなー
>>15 は見てみぬフリかよ
いじめ黙認するのもいじめだかんなーいけないんだぞー
ねえ煽ってたのしい?
生が叩きのすくつとかいうのは叩きだけ!
>>20 だおね
まったり話してんのに何言ってんだぁ
>>16 でも、何となく湿っぽさは無い今夜生ですよね
人が楽しくほのぼのしてると めちゃくちゃにしてやりたくなる性質のようです
つうか変なのは今や一人だけのきがす
別の板でやっぱり生は叩きばっかりとか言ってる人がいたんだよなぁ たぶん別の生なんだろうね
>>22 湿っぽいのは逃げちゃったんじゃね
鬼瓦見てw
叩きやってたのを誤爆♀のせいにしたいから静かなんだとおも
サザエさんじゃん拳見逃した
3人くらいはいるのか? (見えてるだけで)
叩きがいる時は叩きへの反論があるだろ それを見て「生は(俺を)叩くレスばっかりだ!」って思ってたりして
生も夏休みだなあ
>>27 なるほど
叩き自分で自分の首絞めとるなあ
退屈なのは変わらんからどうだっでいい
叩きは雑の時はいないし、いても自分の話をしてくれないから叩かれてると思ってるのか つまらんとかわざわざ言って泣いてる
連鎖過疎だぬう
今意地でも新スレ立てないぞうと思って耐えてるのかもなー
別に強がらんでもいい
>>26 マジレス、明日から仕事の人が多いのかも(笑)
表はそこそこにぎわってるからいい感じなのかもしれない いつもの生になってきた
テンプレなんて関係なくてメンバーなんだろうな まったく俺にとって不愉快なレスがない
それでは皆さん、ちょっくら歯磨きしてチョコラBB飲んできます。
今はアテシもいい感じだと思うよ まあキチにも人生があり、お風呂入ったり早寝しなきゃならんときもあろう
そだね。飛んでるのが気になるけど叩きレスは無いから俺もついに設定に成功したんだろう
たまーにしつこく酷い時、厄除け鬼瓦あるといいな
あー生がひとつになってよかった
コピペ貼るのが好きな人が来れば またルール無用生立てるだろうけど
さやかなんてもういねーだろw
国道とかのコピペの人も生がほしいんだね 変なの
あれカムフラージュかもとオモッちった 国道コピペなんてウィキ貼るだけでしょ? 会いたいこぴぺしたくて立てたと思われるのが癪でさきに国道を… なーんて生脳すぎるかな
いや、当たってると思う なんか国道コピペとかも途中から粘着気質が見て取れるようになったから
ほんとに国道が好きな人がやってるんじゃないかもね
粘着っていうかやめるきっかけを失ってるような気がする
やめるきっかけって貼らなきゃいいだけかと
依存になってしまうと簡単にはやめられないのかも
テンプレ無し生に拘る人はいる
たばこや酒と一緒か
叩きたいから拘るのかね まさか国道や小惑星コピペのために拘ってるとかはないでしょ
人がいる方に流れるのが生民なのは変わらないけどね
なんか痛い人が息巻いてますよあちら
テンプレ生はいい思い出がない
なんだかわからんね でもちょっと頭がやばくなってるんだろうとは思う だってなかなかあんなにいつもスレ立て時にコピペ貼れないでしょう 普通の情熱では
国道は会いたいコピペより後に見えるのは俺だけなのか?
スレ立てして告知する前に麺基地外コピペが貼られてると戦慄する
そうだったねw 先にあるのあれ何?駅? 最近は色々あるんだね・・・
スレ番に拘るのと同じあれじゃないかぬ
>>65 今回はそうだけど会いたい麺より前のこともあるって話だろう?
人は人、自分は自分 関わりたくないなら話題にもしない それが今時の生です
いや 会いたいの前になんかなぞのコピペがあるんだよ
正直、時報の人も怖い
え?そう? 時報は結構楽しみにしてる 時間忘れてるときも多いから助かるし あれを潮にPC切って別の用事したり
時報は何人もやってるからいつも同じ人じゃなさそうじゃないか
時報は誰でもできるからな そりゃ国道とかのコピペもできるけど手間が違う
あー、時報の人も怖いなんつって さてはさりげなくもうじき0時だって教えてくれたんだな このツンデレめ
時報はムダレス
せっかくだしやってみようかな
普通の人ならこれで国道コピペもやめそうだけど 会いたいや麺コピペと同じで絶対止めない気がする
無駄なことしか喋ってないじゃないか
みんなこっちにいたのねw
検索のパターンさえ確立してれば簡単でしょう てかまだ嫌いな人々の話なの?
時報もやめてくれたらいいんだけど
いたの マッタリの方歓迎
いいえ嫌いじゃないって話です
検索パターン云々じゃなくてもうやめてほしいってことだよコピペはなんでも
引き際をわきまえるのが日本人の美徳
0時〜
適材適所って言葉があってだな 地獄に行くべき人が天国に行っても違和感を感じて幸せではないらしい
あれ早すぎら
ああ、最近の生に足りないのは「程々」かも
0時
0じ
でろ池
ほどほどって大勢で実践するの難しいお
時報だの国道だのいい加減スレチって気づけな
子どもっぽい人がいるとは思う
ワン・フォー・オール オール・フォー・ワン
昔はさ、ヲチ話題の合間に雑してでろ池でやめてまたヲチ話題の合間を見つけてって そゆのが楽しかったな
スレH板のコテ出し・渾名出し・スレ出しは禁止
★違反以外でレス貼りはやめよう。粘着はみっともないぞ
★キモイ・ウザイは嫉妬の裏返し、スルー推奨
★ガッツキがいてもコテ・あだ名は出さずにニラニラ泳がせること
★
>>950 踏んだ人が次スレ立てること
・GLを守れない人は荒らし、荒らしを相手する人も荒らし
・荒らし・釣り・煽りは徹底的スルー
・自助救済が基本 自分で調べる
・自演ダメ!絶対!
・初心者や携帯など言い訳しない
・分からないなら分かるまで黙ってロム専
・コテ叩き禁止
・クレクレイクナイ
・このスレはスレH板の自治スレ、凸依頼所ではない
日本語読めるか?
ここはヲチスレだ
その頃の人の大半は卒業した
今はヲチも叩きも無理矢理感がある
そうまでして向こうの生に戻って欲しいのか 必死ですね
卒業した人がひょっこり戻った時、今の生見たら表行かずに帰るだろうなw
今も昔も変わらんよ 人が減り特化した人が浮くようになっただけ
どっちでもいいんだけどな 両方あってもかまわないし
まあいいじゃん ヲチスレつってもヲチるとこがないもんなー たとえヲチてもここで話すと迷惑になるし
NGWord推奨 『ここはヲチスレだ』
人は減ったねえ
>>106 表に先に行かない時点でもうあれだとおもうw
減ったねえ ♀がぽつんと相手がいなくて落ちるなんて 自分が来た頃にはありえなかった
人が減った誰かのせいだ こう考えちゃう人はあれな人
雑にしてもコピペにしてもとにかくしつこい印象
雑? しつこいなあと思うのはやたらなヲチ推奨と 叩き誘導レスだわん
2ちゃん最盛期は嵐も叩きもひどかったもんな 今じゃしずかなもんだ 生や表もきっとそういうことなんだろう
♀も釣りかどうか怪しいから声かけにくい
叩きについての話題がもうしつこいよぬ
コテ出しもしつこいのとそうでないのとがあってなんとなくわかるようになった
オモシロイことを見つけるのが至難の技だお
コテ出しはもうそれだけで変な人だから
そういう時はやめればいいのよ
叩きも行きすぎた叩き反論も荒れるのが好きな印象だよ
面白いことを書く気も失せるというかw
何度も言ってるが生温く(拘りなく曖昧に)ヲチになっただけ なんら問題はないと感じてる
雑で悪口がかき消されるなら雑のほうがいい
穏やかにコテ出ししてるのを見てびっくりしたことがあってな 今はもうそういう人たちもコテ出しはしてないと思うけど
隣のぬこは尾も白い
話題が出るのも嫌な人が増えたんだろうな
あたしも嫌だったし今も話題なるの嫌だw 今は表にすら行かないからねえ
自分が表でコテもってたときはやっぱイヤだったな たとえ褒めてくれてその場が終わったとしても あとでそのレス貼られて自演自演って狂ったように叩かれたりするし
あるあるw
自分も嫌だったな 表って行ったこと無いけど
そんな深刻な出され方じゃなくてだね
イヤな人もいれば ここで書かれて嬉しい人もいるわけで
いるかなあ 嬉しい人なんて
懐古になるけど昔は叩きもあったが人が多いせいでわりと流れた 今は叩きは減ったが人が少ないので異常執着し続けている 叩きたがりは今も昔も変わらない
嬉しくない人が大半だと思うw
昔のほうが激しかったけどしつこくなかった
異常執着は昔の方が多かったよ 今は表で粘着される人がほぼいないもの
激しかったけど 確かに半日後に蒸し返しなんてするやつは 「散々既出」とか「どんだけ亀」とか言われてたな
特定と会ってる時にAA荒らしされたことはザラだった
今の叩きたがーりは 満遍なくいろんなコテだしてくるイメージ どれかのたたきに誰かが乗ってくれないかなーって
>>140 そんな人いないと思うけど
じゃあなたは自分のコテ出せる?
自分がイヤなことは人もイヤなんじゃないかな
おかしくなったのって鸚鵡粘着あたりからだと思うんだよね
スレタイ通りに客観視してヲチてればわかるんだよね 参加してあれはこれは言ってたら難しい
今はネタ枯れのせいもあり飽き飽きの既出話題にもすぐ食いつくしw
オウムオウムってすごかったなあ 何を言ったか忘れたけど急にオウム認定されたりねw びっくりするよ、オウム本人を見たこともないのにオウム認定されて
そりゃ75%減だもの利用者が 表行ってもつまらんよカポ以外
オウムというあだ名が誰を指すのかすらわからなかったw
それでも活動してください 自分がカポしてるから気楽に言ってしまいますが
もう誰かとカポる気力はないなあ だんだん生にも来なくなっていくのかな 雑で楽しいときは名残惜しい
鸚鵡粘着も一覧作ってコピペ貼ってたよね
時代の流れもあるが規制の影響は大きい
あの頃の人はみんなどこにいるんだろう そっちへ行きたい
そんなに規制多いんだね 知らなかった
穏やかな生だな これがいい
規制があるのは気が狂った嵐が多いせいで 匿名性のせいでそういう嵐がいっぱいいて不愉快な思いするから 若い子は別なとこで遊ぶようになったろうしね
>>160 一応あの頃もいました
進歩ないけど長くいる
大好きだったあの人ともしかしたらここでお話出来てるかもしれない そう思うからたまには覗く
>>163 もっと大勢いたあの頃の人たちだよ
どこか別の場所で遊んでるんだと思う
規制増やすなら忍法帳はずしてほしいわ
シチュ専とカポ以外は残りにくいかも 雑談程度だったらいくらでも他で出来るし
twitterとかで炎上するのをみると どうして2ちゃんでやらなかったのか、 2ちゃんだったら流されてるのにって思うのもあるんだよな そもそも知らないし来る気もないんだろうな
♂からしたらやらしいことしにPINKに来てるのに 雑希望の♀が多かったらつまらないかもね いや、男心よくわからんけども想像
表の雑スレは死んだねここ数年で完膚なきまでにw
あの表コテが遊んでる場所があるなら、俺もそこへ行きたい
雑スレにいると生のおかしな人に叩かれたり粘着されるから
2ちゃんの他版も最近の生っぽいんだよぬ 子どもっぽいっつか
何でも待ち伏せにされるからな
そりゃ書き込める人間の大半が今は●持ち ●買ってまでやる人の大半は変な人 仕方ない
しっかりした文章が書ける人にはやっぱり表がいいよね
俺は生が昔の2ちゃんっぽいと思ったけどな ID無しでまたーりと殺伐が突然交代したりして面白い
自分は●持ってないけど変な人じゃないからではない ケチだからだ
>>172 理由はひとつふたつあげられるが
今は言えぬ、荒れる
昔は待ち伏せになるほど利用者が少ないってこともなかった 複数雑スレには複数の人が同時にいたり
規制かかったら生も表もやめる その時特定いたら……どうなるかなぁ、その時にならないとわからないな
足湯でも深夜でも複数雑だったよね
どろの牽制しあい毟りあい大好きだった もちろん参加するのが
どろは昼間でも数人いたもんな
さるが入ってから、なんか小難しくなった希ガス
>>171 雑希望の♀落とすのが好きなのもいる
すぐヤレるのは風俗感覚で楽だか後に残らん
スレHバブル期の話は聞いてて面白い@新参
足湯は私の書いてたころはなんか不思議な場所でしたね。ギミックアイテムいっぱいとか
みなさんはなぜ表に行かないの? 私はやっぱり実況されるからかな 見られてるのはまだしもいろいろ言われると何も話せなくなっちゃう
足湯は意味深な人がよく居たな
さるとか忍法帳とか小難しいことが敷居高くしている
足湯は深夜に変な人が現れてたよ 足湯の水飲む♀とか
自分は前に特定いたときに おかしな粘着につかれてしまってそれがトラウマかなー 表行って嫌な思いしたくなくて
はっきり言うとカポだから 生なんて特定と会わない時の暇潰しだから
滅びの様を見に戻ってきただけだから
実況はされる人とされない人がいると思っていたんだが間違っていた 実況する奴がいる時といない時があるんだは
廃墟マニアだから
神社も毎日参拝してる人いたね
あの人が帰ってきたら表行くおー
目立たないように目立たないように そう考えると窮屈だよね
ドロシーに戦いを挑む♂もいた
>>203 純粋に楽しめない
生を知らなかったあの時が一番楽しかったw
男尊女卑に聴こえたら申し訳ない しかし粘着されようが叩かれようが♂に度量さえあればなんとかなる 自分は頭のおかしな人に屈する気はまったくないし
また叩きの話か
けっこう表行ってるぞ 生に「表行く」って書かないときに行ってるw
生と必死を知ってつまらなくなった
湿っぽくなったね
筋の通った叩きなんて久しく見てないしな
粘着にあった人いるの?
叩きのない時に叩きの話はうんざり
変わったことをすると実況されやすいからなぁ フリーの捨てコテなのに何度か実況された
でも生があったからみんなルール守ってたし 変なヤツいたらすぐ助けに来てくれた
きっと自分はそこまでの強い気持ちを持ってもらえてなかったんだと思う 表出るたび嫌がらせされるなんて面倒だろうし、結局別れた しんみり
そんな時は電源落とす
必死の影響は認めざるを得ない
あえて必死は見ない
ID無いとカオスなんだろうがそれはそれでおもしろいのかもな
>>213 ちょこっとね
有名コテさんみたくすごくないけど
あとで見ることが多かったけど生でたまに反論も
スルーもありがたいと思ってたよ
世の中には無いほうが良い物もある
あのカポはもはやWと同等かそれ以下だな
粘着はうざいわな 苺でもやられるとうざいもんな
必死なんざ昔からあったじゃないか
粘着されたよ生の動向も見てたし 自己満足で守られっぽかったからそのまま続けてた
かそかそ言う割にぼしうは動いてる 他の雑スレが死んだ分一極化してる
叩き3:擁護5 くらいの割合に見えたら安心してた
叩き98だったな
当たり障りなく普通に遊んでる人は話題にならないしね 新規ではないだろうがそれなりに楽しんでる
>>233 いや数年前だよ
ただ叩いてた人が多分一人だったような気がする
他の人には眼中にないようなwで、安心してた
表でマターリ雑が好きだった なので行かなくなった
そういういい方しちゃうと 話題にされるほうに原因があるかのようじゃあないですか
メンバーさえ良ければここですれえち関連の雑してると楽しいしね
下手だろうと日参だろうと話題にしても叩く事じゃないと思うの
ときにあるよ 賛否両論で盛り上がらない 「お前なんでそのコテがそんなに嫌いなの?」って粘着 あまり叩くから見に行っても空気にしか見えん
当たり障りなく普通に遊んでる人は話題にならないしね =当たり障りがあるから話題にされる こう見てしまうアテシ生脳?
別れそうで気になってる人がフリーになったら表に行くかも
誰かの事に執着してヲチるからそうなる あくまでも生温くだし 今更言ってもしょうがないけど
生脳だーw 俺もだけど
何でそんなに嫌いなの?って叩いてる人に聞いたら シネって言われたことある
普通に遊んでるならいいんだは 生で話題にならないように当たり障りなくするってのが気になるんだゆ
何度も確認作業しなくてもいいんじゃないかぬ
当たり障りなくする必要なんてないんだけどね 生に気を使ってばかりですれえちが画一的になって 裏篭りが増えた、のかもしれないって言う個人の感想
箸が転んでも叩きの人を気にしてもしかたあるまい 言い分はかなりよくわかる
裏ごもりってほど生にもいなくなったな
まあね 気にしても仕方ないんだけどね 結果、裏にしかいなくなった 出なきゃ叩かれることもない
何等かのトラウマを抱えた人多いんだね
今はあっちで忙しいんだろう?
なして煽るのかねえ ガキ臭い
あっちで誰にも相手にされなくて寂しくなってこっちに来ました
別に生を気にして当たり障りないようにひてる訳じゃ 祇園祭とかやったら落ちられそうだからやんないだけ
眠れない夜〜
思う存分誰にもジャマされずに叩けてるのに なぜ寂しくなるんだ ルールのない生で好きなようにしたらいい
♀の泣き言なら俺が庇うから表に行こうよ ♂の泣き言ならお前男なんだから度量出せよ
あてしとバカップルになってくれゆような漢はいないかちら
独り言はやっぱり寂しいからな 特に寂しがりやには堪えるだろう
生を気にして表行かないわけじゃないよ自分も
最近自分の歳がわかんなくなる
>>234 当たり障りなく遊んでいても叩かれる時はある
叩かれる人に原因があるみたいに言わないで
生の雑が楽しくて行き遅れることはある
特定と会ってても生の雑が楽しくて レスがきたのに気づかないときもあった
ヲチられたって自分が生を見なきゃいい
>>263 週一程度じゃバカップルとはいえませんよねですよねぇ
まあそれはいろいろだよ 生見ないで表に行く人もいれば 表に行くのをやめる人もいる
正直飽きた 生は惰性
週一で会ってくれるなら上等
表行って書き始めてからの1ヶ月くらいが一番楽しかった まだ最近のことなんだけどもう飽きてる
テンプレ無し生がまた立ってたよ
マイナスレスが垣間見えるようになったのは やはりここではないとこから誰かが来たからなのか
いつもの一行コピペっぽいレスだから読み飛ばしてる
何とかしたい人は表や裏にまだ熱意があるんだろうさ
バカポやってます 二股は出来ませんごめんなさい
たまには初々しいカポを見て心を浄めよう
初心者同士っぽなカポを見たい
扉カポオススメ 結構いゆよ
見たいんじゃないだろ? もう一度あのドキドキを自分もしてみたいんだろ? 表に行こうよ
初心者ヲチは心洗われるお 昔の自分を思い出す
ドキドキドン 一年生
まったく生を気にしてない感じがいいお
過疎解消に昼間は♀で夜は♂、1人二役がノルマで表にいけばいいと思うの
>>255 あのさ、そういうレスも良くないよ
スルーしたら沈黙するんだから
だから過疎ってないって そりゃ2年前と比べりゃひどいが 今夜は結構動いてる
なんで過疎解消に協力しなければいけないのか
昼間と夜性別違って同じIDって粘着されろってことかいw
じゃあ俺が行くからお前も来いよと言えない弱さもある カポ解消したら暫くはフリーする だから完全に引退はしないでくれ これじゃ駄目ですか?
今は使われてないけど 初心者スレ見ると微笑ましいもんな 守ってあげたくなるよ
>>298 ヲチてる暇あるなら参加
踊る阿呆に見る阿呆だよ
たった一人にかき回されるのはつまらないことだけど IDでない以上しかたないね ちょっと前までと違う絡むようなやつが現れたら雰囲気すぐ変わる
踊り子が叩かれまくるのに踊るなんて危険行為
生にいい思い出ないからヲチ先になんて絶対ならないw
初心者カポヲチてると泣きたくなる 昔の切なかった恋を思い出す
初心者のとき言われてカレカノになった♂は フリスクフリスクうるさいひとだった
ツラい想い出を語って泣かせないでくれ
>>295 カポ解消ね……
別れる、ですらなくカポ解消
ここでの関係がどんなに儚いか忘れないようにしなきゃ
ごめん
初めてカポった♀は問題を抱えた人だった
表経験長い人はいろいろあるんだろうな 話を聞くだけで面白い
儚いよ でもなぜかいつまでも心に残るよ
最初は初心者同士でカポったよ こっちは正真正銘だけど向こうは自称初心者かもしれないけどさ
リアでもここでも別れ際が下手ですみません
初めてカポった人はピュアだった あ、ちなみにカレシね
テンプレの有る無しでスレ選んでるんじゃねーのさっ アッチの話題にキョーミがないだけなのさっ
はじめて書き込んだ時はルール分からなくて嵐扱いされた
最初にカポった人は実況からのベテランですた
半年ROMれを何度言われたことか 今思うとそれすらもありがたく感じるね
あの人を好きでした 強さも隠していた弱さも でも今は好きにはなれない
最初にカポった人かぁ はぁー
>>322 ちなみに俺は♂な
なんでカノが俺選んだか今でも分からん
>>325 性別逆だけど、付き合いながら色々教えてもらえたよ
私も初めての特定はベテランだったかも 緊張して最後までうまく話せなかったなぁ
あたし6年いるのに生ではいつも新参扱いされる
初めて来たときはその方がいいのかと思って 子持ちだとか嘘つきまくってたw
>>328 いいじゃない
そんだけ初々しさを失ってないって事だし
これだけ楽しく雑談できたら表には行かなくなるな
雑馬な元カレ…どこ行ったぁ!
三年経つか経たないかなのに、アイツは古参のくせにと言われるあたし よっぽど憎まれてるんだろうな
>>331 だから生は危険なんだよ
複数雑だからレスポンスが早い
この感覚で表行くとレス遅いと思うもん
表での雑談は苦手なのに生では楽しくできるのが不思議だ
バイさるない方が楽しいよね
ペルソナにペルソナを重ねる二重ペルソナだしね
社交辞令言わなくていいもんなっ
あーさるは困るよな 生ペースで書いてたら確実にさるになる
窓から入ってくる夜風が気持ちいい@関東
雑スレはさるがないときがマジ楽しかった 長文雑も好きだけど雑スレは敷居上がったよ
>>338 相手にどう思われるかはあんまり気にならないもんね
思ったことをすぐ書いておしまいw
発言に責任持たなくていいから
さるも最近なのかな
責任無いのは表も一緒 っていうかPINKも2ちゃんも全部一緒
正直に生きて愛される人 正直に行動すると嫌われる人 悲しいかな分かれます
バイさるくらうとしたら レスA レスB レスAに対するレス レスBに対するレス でくらう 分割なしの場合よほどじゃないとさるにはならない
責任はあるよ でも他人にとやかく言われる責任ではなくて自己責任だ
盛り上りすぎてサル喰らう幸せもありました…
シチュでさるになったことあるんだが…… ドンだけ夢中になってたんだと。恥ずかしい
小難しいのがおるようじゃのう ジジィは寝るとするかのぅ
>>345 それはあるね
表だとよほど気をつけて書いても矛盾してると裏で言いがかり
矛盾してないってw
つか嫌いな人間のレスだからそう見てるだけじゃん
たまに表で馬な人見かけるけど絶対にここでしゃべらんと思う これ以上過疎は困るお
なんでPINKに拘るの?流れてる方にいけばいいのに
流れてる方って?
人当たりの良さそうな♀は度々見掛けるけどなあ 自分が♂だからの贔屓目なのか?
こだわってる人ってほとんどいないと思う 他所に流れるのも面倒な人か最初にここ見つけた人がここにいるんじゃないかな
>>359 ここしか知らないもの
よくそういう人いるけど具体的にどこと聞いたこともないし
茶とかTwitterとかLINEやSkypeじゃないの
表でそれ言ったら思いっきり外部誘導だしなw
自分の見聞を広げるためでもなく単なる遊びだしね
>>364 バーチャルでくらいパーソナリティなしでいたい
仕事のストレスハンパないから
そゆのはおこちゃまなんだもん 敷居が低すぎて誰でも手軽に出来すぎる
人気の場所は年齢制限あるよ
表はある程度文章書けないと成り立たない世界だから
おとなのあそびば
表ならではの泥臭さも楽しさのひとつでしょ お互いに胡散臭いところとか
個人情報割れる可能性が大きいのはちょっと
ここが一番安全
生が一番安全だな
>>372 胡散臭いいうなw
設定といいなさい設定と
>>371 それはわかってるけど、時々、大人じゃなくなりたくなる
聞き分けよく色々考えて、そんな自分に疲れる
安心して我が儘を言える相手を作れない自分が悪いのはわかってるけど
眠くなってきたゆ 今夜はメンバーよかったーノシ
一日休めばもう誰だか解らない それでも繋がり合う関係だから
言葉に惹かれるってすごいことだお
>>378 いいなー、まだ眠れないやw
おやすみー、いい夢を
割とルールで縛れてるの好きだ ここのわかりにくいお約束でガチガチなのが面白い
おやすみー もうちょっとしたら寝ようかな……
こゆとこ嫌いw 馴れ合わないでいきたい
我が儘言おうが無理難題を突き付けようかそれでも貴女と一緒に居ます そんな人も稀に居ます
>>380 ここでは自分は誰でもない、不特定多数の中の誰かにしか過ぎないし
決まった誰かを相手に語りかけてるわけでもないから
すごい純愛だよね おどろくほどの純愛
たまにレスがつくことあるけどベースは独り言だからな
独り言が言えるうちは大丈夫ってこと 独り言も言えなかったわ
純と愛ってもう忘れ去られてるんだろうな
独り言と独り言が重なりあい流れてゆく生
楽しい言葉あそびだよ
何時でも簡単に切れる関係を文字だけの情報で信頼して続ける遊びだしね 一夜限りの関係だって数時間は信用して遊ぶ
信用してかなぁ 割り切って、って言う方がしっくりくる
いまはあまちゃんに夢中
平清盛が忘れ去られたように純と愛も…
自分は短い時間でも別れ際には少し胸が痛む
新幹線に乗ればたったの二時間半ですからっ
再放送の龍馬は見逃さない
確かなものなど何処にもない
>>391 ではあなたの方が私よりもっと苦しいのね、ごめんなさい
自分も離脱 おやすみなさい
確かなものは盆休みがないということだけ
×独り言 ○一人会話
私が最期を見届けまする
お金もない
一人会話の方が少数派だろどうみても
しかし持病はあるっ!
人の一生って.......
あれ?そう言えば健康診断の結果がまだこない…なぜだ
再検査だな
>>414 それだと早く来ると思うw
人間ドックの方が結果早いんだよねうちの会社w
後回しにされてるのかな
ここ一、二年、若いのに心筋梗塞や脳梗塞で急死する奴が多いよな あと甲状腺異常や白血病とか知り合いで元気だったのに数ヶ月後には・・・
手遅れだからだったり
ハイハイ 内部被爆内部被爆
手遅れかぁ… 死ななきゃならないならそれも仕方ないかなと
伯父が42歳で心筋梗塞やったな 働き盛りのおじ様がた夜更かしは程々にね
女医から責められるシチュいいな
インポの治療と称して何をするつもりだ
西川史子で頼む
無駄に不安にさせるな たかが健診でその結果によって通知等を操作する事はない
背中痛くなければ大概健康だよ
おじさま 元気でいてくれなきゃいやよ
検診結果が遅いのは♀ おじさまじゃなくてごめん
お姉さま いつまでも元気で、笑顔を見せて
蛍ってどうして
たまに男前や可愛い子ちゃんが現れるから気が抜けない
さて、寝なきゃ…おやすみー
ノシ 以下、誰もいない静かな生
256 名前:fusianasan[sage] 投稿日:2013/08/03(土) NY:AN:NY.AN 今夜花火で明日昼海バーベキュー夜は山バーベキュー 重なりすぎで全部参加できる自信がない
564 真生 ◆nBRmkj3ytY sage 2013/08/04(日) NY:AN:NY.AN ID:GuNoj1y2O 和哉 こんばんは。 先日は長い時間ありがとう。 花火と海バーベキューと山バーベキューの週末でした。 普段はあまり戸外では活動しないのに、たまたま色々重なってw それでも一つ断ったんだけどね。 ちょこまか出たり入ったりしてたらさすがに疲れちゃったw 先日仕事で見た海保の制服を今日も(検問されたw)見ましたが、やっぱりかっこいいw 新しい日焼け止めと、船に乗せてもらった以外はほとんどターフの下にいたからか 今日はあまり焼けずにすみました。PA++++はすごい!けど落ちないorz …そんなはずないのに、まだ髪から、肌から、海の匂いがするみたい。 和哉の匂いです。 おやすみなさい。 真生 生レスまんま伝言キンタマーニ
愛だな〜驚くほどの純愛 コテが好きで好きで愛情が歪むと針厨になるんだな
まあねえ いいんじゃないの 裏にいて表もいるって俺もだし
偶然ね、あたしもだよ
叩きたくて叩きたいのが生 って感じかののう
そうみえるんならあなたにとってはそうなんだろうね
裏にしかいないわたしもいまつ
向こうの雰囲気やだからここを占拠
ひどいね
今日は確実にいるから避難
乱立は基本反対だけど コテどうしても出したい人がいる以上しゃーないか
豆アジが安かったから南蛮漬にした 揚げたてをちょっとよけてビールのアテにした 暑いけどんまい
作るの面倒だけど美味しいよねーよく冷やして玉ねぎたっぷり入れて漬け込むのがすきー
そうそうw たくさん買ったから南蛮漬けは明日食べるw 玉ねぎたっぷり入れたよー
いいな、お前らの相棒は …腹減っちまったじゃないかw
つ枝豆 つ自家製スモークチーズ おやすノ
おまい、気が利くのな ありがとな ノ
このオバサン大嫌い
>>455 嫉妬ですねw
ななこなでしこ だぞ…
化粧品のCMで観た時…
暫し呆然した記憶…。
オバサン…オジサン…
実年齢若い子しか言えないという…。
なでなでしこしことな
458 :
fusianasan :2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
うぇー↑↑
向こうはおんなじ人の話題ばっかでつまんないから占拠
>>460 自由を求めていた…
気がついたら…動けない…。
留まる為には魔女狩り…
悪魔払いを悪魔がしてる。
他力本願…何も変わらないw
楽しむ為のひとことは…
挨拶からだろうなぁw
462 :
fusianasan :2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN
さりげなくage占拠 あっちの空気がやな人はどぞ
糞コテの巣に比べればマシ
きたよー 晩ご飯何にするー?
今夜は暑いから冷製パスタ
ガッテン寿司行ってきた
皆がもとの生に戻って叩き発狂w
お寿司いーなーw うちしばらく行ってない
いいつけなう
ぎろっぽんでしーすー
(´・ω・`)お腹痛い…
大丈夫か? つ【御岳百草丸】
君はいつもお腹痛いのな
(´;ω;`)うぅ…ありがとう。。。 そうなの…いつもなんでふ…気が休まらないお
>>474 妊娠中はそんなもんなんだろ
俺は♂だから今一びんと来ないが
本でも音楽でもいいけど好きな事をするのが気が紛れていいんじゃ
よくわからんが妊婦さんは小子化打開に貢献してるから尊敬するわ 大変だろうけど頑張ってね
それに比べて妊娠もできない女は…
痴漢スレの女に声優のゆかなさんですか?って聞きながら後ろから胸揉みたい
枕営業声優なんざいらね
こっちにまで嫌な空気持ち込むなよ
スルーだよスルー
石女伝言まだ?
スルーでいいんですよね
はいオッケーです
空を自由に飛びたいにゃん
海を自由に泳ぎたいにゅん
とりあえず秘密基地でスレH板のことなら俺に聞けってぐらいの板事情、 板の空気、板のルールはマスターできたな。
あと、生民と秘密基地民間との通訳もできるね。 向こうで『晒しが〜』とか平気で言う人いるもんなぁ… とにかく、秘密基地でのスレH窓口としてはやって行けそう。 女神窓口も兼ねるから俺も忙しいね。
分家では相変わらず叩きネタ、擁護ネタですか でも潔癖な人にとって、叩きは叩き返すことで解決したらしいので あまり口を挟むのは控えておきましょか 八重の桜も始まるしねU^ェ^U
秀次=翔ってくらい思考回路が似てる
口実作って敗走w
こいつのせいでスレエッチの実情が歪んで伝わる事に懸念を表明する
なんでこいつが代表ヅラなのか理解できないし、当然容認などしない
>>489 のようなレスが最もこうした懸念を感じる要因
意見交換どころか人気すらない過疎スレでこっそり代表面宣言か こんなふうになると哀れなものだわ ボケ老人と同じ
あっちでも無視されている まったく問題ない みんなたぶんやつが思っているほどバカじゃない
あっちでも相手にされてないから、 反論のこないこんな過疎スレでこっそり自尊心を保ってるわけか ますます哀れだわ
実情が歪む?? ご安心下さい。ストレートに伝えますから。 何のための固定ハンドルだと思ってるのか。 それなりの信頼は向こうでの活動年月から得られてますしね。 誰かさんと違って事実を変えて捏造したりはしませんので(笑)
そうそう ある程度の蟻板のログは追ってるし、スレH板のほうも見るのは見てる ちゃんとお勉強してるんですよぉ〜 こう見えてU^ェ^U そのうちスレH新参さんに質問されても答えれるようになるかもね。 伝言板はたくさんありますよ〜とか。 扉ってこういう意味なんだよとか。 これも一重に俺へ親切にいろいろ教えて下さった先輩のおかげ。 ありがとうU^ェ^U
おやすみ〜
向こうで信頼得たって誰に得たんだ? 住人の信頼を得ないとなんの意味もない おまえは信頼などされていない
> 伝言板はたくさんありますよ〜とか。 >扉ってこういう意味なんだよとか。 知ってるのがこの程度しかないのかwww
>>498 おやすみなさいU^ェ^U
>>499 向こうというのは生やスレH板のことじゃないからね。
もっとも君が信頼するしないは自由。
君の信頼によって僕のレスの信頼度が左右されるわけじゃないから。
>>500 ほんの一例を出したまで。
まぁそれぐらいしか知らないけど(笑)
あっ、好きなコテさんいますか?って質問には答えない。
明らかに無視されてる あれのレスとそれに対するレスを消しても何の問題なくスレの流れが追える
言えてるなそれ 何一つ議論に影響してないのがよくわかる
削除人に反撃されて必死にJACKに擦り寄ってんのに、そのJACKにもスルーされてのは笑えた
活動年月の結果、信頼に足らないやつだと判断されてることに気づいてないのが面白い
てすと
何か思い込み激しいのが右往左往w 俺は信頼してる。 運営が見る見ない… ここだからとか… 関係な〜いw いつでもどこでも… 受けるよ〜だもんねw 翔さんは運営板を読んだ人。見た人が越えられない壁。 過去ログで自治スレは読める。 何人かは…運営系… ちゃんと読み解いたのにとw その場限りの発言に…耳貸し難いよなとw 携帯から暇なんで長文w
…でニュアンス含ませてるつもりなのが逆効果な例
相手したらあかんよ
自分を卑下するなよ
>>511 励まされ感あるなw
どうもありがと♪
とか言わないけど…。
何もしないのではなく…
何もできない人達の群れ。
翔さんに意見する人が…
居ないのは知識が無いからだよ。
ま〜桃蟻じゃこんなもんでしょうねww
こっちでまったりw リストをローカルから外さないと。 覗いてる生民を覗いてるしと。 それを追跡調査できるしとが… リスト持ちをリスト化する。 アンダースタン?w 気をつけてって言ったのにw
ひでじと遊ぼうピンポンパーンヾ(゚д゚)ノ゛
>>514 酉漏れでもなく…
酉割れでもなく…
酉を晒す俺にひとことww
ゲームっていうのは…
居酒屋系?w
お酒の席でのゲームは…
痴態晒すよね。
素面の俺は…
疎外感w
愛想笑いも乾くww
こっちのがいいわ こうじろうはなんだか馴染まないの ひでじ、テンプレなしの生は嫌い? オラは大好きなんだけどな… モチロンひでじも大好けだお
>>516 ひでじって言いたいだけだろw 中の人同じなのにw
秀次が護られ過ぎてて気持ち悪いっていうのもあってだね…
携帯で毎回酉キーいれて打ち込んでたんだけど…
sの予測変換機能というのがねww
ん〜別にw チャット議論の時に…ネカマで俺を釣ったつもりの人がいて…
当時の生民なんだけど…チャットで電番晒して…機材セットして待ってたんだ…
逃がしたけどw 掛けなくて正解と…今なら言っちゃうかもねw
分家生には…夏の間書き込まないって書いておいたけど?w 読んでないのねw
派生スレ消化したら…遊びに行くよw とか言って行かない事もあるw
どさくさに紛れて…告ってんなよw 過去ログはあくまで過去ログで…
今が全てなんだよーw だから酉背負って消えないヤツが好きw
自治見てみw えらそーにー能書垂れてたお決まり馬鹿どもは…誰も残ってないから。
んもぅ、だ・い・す・け ひでじがだいすけなんだよぅ
929 名前:幸次郎 ◆st.siwHzNc [sage] :2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN ID:m0ivxs+m0
>>925 削除依頼しとけよw
>>927 お詫びなんていらねーからw
本音で語って来いっつーのww
凸は荒らしらしいので…凸じゃねーよw
|−^)ノシ
晒し違反者に向けて応援レスとか
削除依頼さえすれば晒してもいいって言ってるの?
>>517 お前も違反者だ
>>520 あの二人を知らないの?
応援?w 手に手を取って…逃避行。 スレH脳だからかもね。
スレH板が好きなのに晒す行為。
そこまで読めたなら…そんな言葉出てくる訳ないのにね。
削除依頼が早すぎる。それって二通りあって。教えないけどww
俺は違反者だ。君は違反を決してしない人…。
それでいいじゃないか。そして俺に何か直接伝えられるスレッドあって良かったな。
アンカー振られて…君にだけのレスがあるのも。
一度でも違反をしたならば…赦せない…そんな人間ばかりじゃないさ。
俺は赦すし…贖う。誰も赦してくれないなら…俺が君の罪を赦そう。
コテには命が宿るという。命を奪う罪深さに気づかない。気づけない。
すべてが…ではなく…今回は。 解からないだろうけど。
>>518 あっ見てなかったw
コピペされて…
俺みたいなのもいるな…
俺のレスじゃんww
ぐらいかなぁw
好きなら好きって言っちゃえばw
一方通行で良ければw
ラストオーダーって…
読んだなら付き合おうww
自分酔いウザ
>>523 生民は俺のレスは読まない設定だよ?w
相手しちゃ駄目って…叱られちゃうw
ウザ…。
うじゃいって読んじゃうw
悪気はあるんだ…察してくれw
いつでも構ってあげるから…
俺の周辺はいつも賑やかww
おまい含めてなw
>>512 秀次さんお久しぶりです。
向こうは向こうで人手不足&知識不足が深刻ですね。
それに加えて前の体制のくの一にそっくりな空気が出来上がってたりで…
あっ、ここで俺にどうこう言ってる人は論外だと思ってます。
単純に俺が嫌いな人だったり、削除関係の知識すら無い人が批判してるだけなんで…苦笑
72 凛 ◆uLOMyYbD4mio sage 2013/09/02(月) 03:19:28.53 ID:TkgG3HCrO あ、お兄ちゃんがお願いしますって言ったーv ふうぅ…っ んっ…んっ (いくらお兄ちゃんに望まれてもお兄ちゃんの顔がそこにあるのにしてしまうことなんてできなくて) (お兄ちゃんの言葉に涙を滲ませながら首を振る) ひぅっ! ぁ″っ…ぁっ! おに…ちゃ…そっち…やぁっ ちがう方に…おまんこに入れてぇっ (頬に擦り付けられるたくましいお兄ちゃんがこれから入れて貰えると思うと愛しくて) (けれど予想もしないおしりに大きく張り出した先っぽが押し込まれ苦しさに喘いで) (蜜を垂らすそこを両手で開くと息も絶え絶えにお兄ちゃんに懇願する) 【お兄ちゃん…凛一回いっちゃったしそろそろ気絶しちゃうかも…】 【ごめんなさい…】
517 名前:fusianasan[sage] 投稿日:2013/09/04(水) NY:AN:NY.AN
翔粘着も軽だと思うわ
522 名前:fusianasan[] 投稿日:2013/09/04(水) NY:AN:NY.AN
>>517 それ思った
529 名前:fusianasan[sage] 投稿日:2013/09/04(水) NY:AN:NY.AN
>>522 叩き叩きは翔も批判してたから何となく思ったの
542 名前:fusianasan[] 投稿日:2013/09/04(水) NY:AN:NY.AN
>>529 蔦生で叩かれる→軽自治スレで暴れる→翔がスルー推奨→軽逆恨み
こういう流れじゃないかと思った
567 名前:fusianasan[sage] 投稿日:2013/09/04(水) NY:AN:NY.AN
>>542 670 名前:fusianasan[sage] 投稿日:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN
>>666 一つ例を出そう
お前がお題目のように言っていた叩きはスルー
お前より賢い住人が増えたおかげでそのまやかしは消えたが、
それまでは反撃も許さないお題目のせいで叩きのやりたい放題だった
お前の影響力などカスみたいなものだが、あえてお前の悪影響の事例を出した
さあ反論してみな
これも軽?
叩きはスルーw スルーしないと… このやうなw スルーできなきゃ… 始まらない…。
子供ができないのに子供の発想はできるんですよ
>>530 流出した軽のレスは
一番古いのが2013/07/14の9時
一番新しいのが2013/08/11の2時
いい加減だなぁ…
叩きをスルーしなかった結果が今の生の有り様
蔦…自分叩き・ログ針荒らし・コテ叩き(爺にゃん、元カレ敏、魚) 流出が発覚し慌てて軽に晒して逃亡 軽…1日中生べったりニート。自作自演はお手の物。叩き叩きの筆頭で1日中叩きを見張ってるが 気分次第で叩きもしている。ωファン。アナルスレで募集履歴あり。 生でチョン、ナメクジ連呼し、彼女である名無し蔦との喧嘩も発覚。真性ネトウヨ。 蔦同様、流出が発覚して一目散に消えようとし、蔦と出会い行為で逃亡。 Q…自作自演はお手の物。ただし叩きはあまりない。ωネタを頻繁に利用。 マミィが蠅かどうかを異様に気にする小心者。たまに女性口調でQを彷彿とさせる思い出ネタを投下する。 じごくん…自作自演は当たり前。叩き大好きで軽と生で言い争う。難民の伝言スレに凸した荒らし。 幸花…うふ〜ん
あは〜ん
537 :
fusianasan :2013/10/05(土) 02:07:26.78
ここもまだあったのだー
不人気
私の領地であることをここに宣言します
キングボンビーが登場!すべての土地の所有権をリセットしました。
うっうっ…誰にも気付かれずこっそりことを進めようと思ったのに… (項垂れて悔やむネコさん…) にゃあ… (文明の利器を知らない哀れな獣であった)
http://pele.bbspink.com/test/read.cgi/sureh/1372435480/925 925 名前:露子 ◆ch8C0bRAHNPt [sage] 投稿日:2013/08/31(土) 22:55:18.37 ID:HJFae0Cf0
バカだなぁ。
後悔しても知らないよ?
**********@*****.co.jp
ここにメールください。
あなたと分かる様にトリップのキーを教えてくれると嬉しいです。
…まさか私が晒し違反者になる日が来るとは思いませんでした。
でも2ちゃんねるに、PINKに申し訳ないと思う気持ちは今は湧いてきません。
ただスレH板にはたくさんの感謝をしたいです。
今までありがとうございました。
落ちます。
927 名前:陽樹 ◆i2p7GYWuSrWv [sage] 投稿日:2013/08/31(土) 22:58:32.17 ID:Xu0lyxl20
俺の方こそごめん
ほんとなら俺がやるべきことでした
最後までカッコ悪いね、俺w
あなただけ汚そうなんて思いませんよ
俺もあなたの共犯者です
スレHの皆さん、これまで大変お世話になりました
このようなことになったこと、露子と共にお詫び申し上げます
本当にありがとうございました
ここで失礼します
545 :
fusianasan :2013/11/09(土) 19:36:50.89
全部使ってから新スレたてようよ
そうしないと気持ち悪いの?
あたりまえだのくらっか
次こそはにゃあの領地ですにゃ
露子さん元気そうでなにより。 たまには遊びにおいでやすU^ェ^U
ありがd リアルでバタバタして疲れ気味だけどね…(笑) 今も凄い眠気 皆さんも元気でなによりU^ェ^U
あれれ 翔さんて酉に69入ってなかった?
8月の流出総動の時にトリップキーまで流出しちゃいました…U^ェ^;U
(*゚д゚*) あ ここにも わんわ いるでち
新スレこそ至福w そんな生民が使いこなせる訳ないのにw 翔さん来たの劇6のナナコから知ったw 生民じゃなくなってしまったw ま〜同じことの繰り返しだから無限ループだけどw
(*゚д゚*) あ おにたん こにちわ
やあ秀次さんU^ェ^U お久しぶりです。 生がたくさんあったりで浦島状態です(笑) 寒いのでお互い風邪に注意ですね。
やあやあ翔さんw お久しぶりです?w あんまりインターネッツやってないのー?w 善意じゃないねw 悪意の増殖かなw 次スレ建てる必要ないけど…今の生民は見ての通りですよw 急に寒くなると体調崩し易いのでお互いにね。 |−^)ノ
559 :
fusianasan :2013/11/22(金) 08:43:59.27
愛したら
(愛したら)
561 :
fusianasan :2013/11/30(土) 20:19:56.93
ヲチ
562 :
【大吉】 :2013/12/01(日) 16:00:52.33
とうっ!
こっそり
う
め
しゅ
の
ソーダ割り♪
が
の
み
た
い
?
ろ
っ
く
も
い
い_(-ω-`_)⌒)_
米
(ノ-_-)ノ~┻━┻
牛乳に一晩浸けたドライイチジクが想像以上に美味しかったです!!! 感動したので、速攻また仕込みました
お酒違うっぽいね
お酒飲みたいわ
付き合い始めたのは俺が高2、元カノ高1の夏休み明け。 俺はそのとき他に彼女がいたけど、SNSで知り合った元カノのことが気になって別れて告白した。 元カノは隣の県に住んでいた。在来線で3時間少しの距離。高校生の俺はバイトで稼いだ金を月1のデートに全部つぎ込んだ。
元カノ→亜美 って名前にします。 高校生の亜美は極度のメンヘラだった。リストカットは当たり前。傷を俺に写真で送りつけてくるような奴。 毎日電話してメールして、月に一回会いに行って、ホテルに入り浸るデートをしていた。 たまに亜美が会いに来たときは、必ず実家にお泊まり。 何度か別れたこともあるけど復縁しつつ、まあうまくやっていた。 亜美は寮に入っていて、電話は俺と亜美が登校中の20分だけ。俺は自転車でイヤホンマイクして毎日学校に行っていた。友達から「また彼女と電話かよー」とかからかわれてたけど、それはそれで幸せだった。
俺が高3になって進路に迷ってる時に亜美の「自分より頭のいい人じゃないと結婚しない」って言葉を思い出して大学進学を決めた。 ど底辺の馬鹿高校に通ってた俺は、必死に勉強してなんとかFラン文系の大学に合格。その頃には亜美のメンヘラも何となく落ち着いて、登校中の電話とかもなくなってた。 大学生活も楽しみながら、亜美とは前と変わらないペースで会っていた。 亜美は受験生。理系の大学に行きたいとずっと言っていて、進路に悩んでいるようだった。 結果的に志望校は俺が住んでいるの県の理系大学。 「俺くんと少しでも近くにいたい」と亜美は言っていた。
本当は彩って彼女なんだおね 成人式の日に待ち伏せしたんだっけ?
お互いソフトバンク持ってタダ友だった 亜美は余裕で志望校に合格。一人暮らしの部屋を探しに来たり、入学前のセミナーなどでこっちに来る度にデートしていた。 この頃俺は、学校にもろくに通わず、バイトをするでもなく、何をしていたのかわからないような毎日を過ごしていた。 車の免許もさぼりながら1年かけてとった。亜美が自動車学校に通い始めて焦って取った。 4月、亜美が一人暮らしを始めた。 俺と亜美が付き合い始めて2年半。ようやく毎週会える距離で付き合うことができた。 俺は嬉しくて泊まりに行って、ご飯を作ってもらって、幸せだった。 亜美が一人暮らしを始めたとほぼ同時に、俺はバイトをはじめた。 俺の家より、亜美の家の方が近いバイト先。亜美は「バイト終わりにあえるね」と喜んだ。
しかしバイトは覚えることが多くて大変だった。夜勤もあってバイト終わりに亜美に会いに行けることなんて多くなかった。 そして、バイト先の女の先輩に見事に足にされていた。バイトが終わって駅まで送る。 亜美の家の最寄り駅。それでも俺は亜美に会いに行くことはしなかった。早く家に帰りたかった。疲れていた。 6月、亜美に別れよう と言われた。 「バイトの先輩を駅まで送るのに私には会ってくれない。前より会えると思ったのに、こんなのなら距離があったときと変わらない。」 そう言われて半ば強制的に別れを告げられた。
それでも、俺たちの関係は変わらなかった。いわゆる、友達。 普通に会って、普通にご飯食べて、普通にセックスして。 ただ、「恋人」というものに縛られなくなっただけだった。 でも、俺は亜美のことがまだ好きだった。それはずっと変わらなかった。 でも亜美は違った。好きな人ができたり、彼氏を作ったり、俺のことは本当にただのセフレとしか思ってないようだった。
亜美とそんな関係を続けて1年が過ぎた頃、俺は学校を辞める決心をした。 理由は勉強する意味がわからない、という簡単な物だった。 夏休みがあけて、とりあえず学校に休学届けを出し、バイトを続けていた。 フリーターをはじめて一ヶ月も立たないころ、ちょうど亜美の20歳の誕生日前に、俺の家族がゴタゴタした。 俺は自分の家に居場所がなくて、亜美の家に入り浸った。 朝、亜美が学校に行く。俺はまだ寝てる。夕方亜美が学校から帰って俺を起こす。家に帰って飯と風呂に入って亜美の家に行く。亜美の家で寝る。バイトも行かずに、そんな毎日だった。 今考えるとあの頃の俺はどうかしていた。亜美は何も文句を言わずに家に泊めてくれる。毎日学校が終わってすぐ家に帰ってくる。スーパーで買い物をする程度。友達とも遊ばない。俺は何とも思ってなかった。ただ、亜美にすがりついていただけだった。
そんな生活が一ヶ月近く続いた時に、亜美がキレた。 「いい加減にして、彼氏でもない人と毎日一緒に寝て、あたしが学校から帰っても寝てて、ここはあんたの性欲処理付きのホテルじゃない。出て行って。」 亜美の言い分は正しかった。 俺の家もだいぶ落ち着いてきていたから、家で寝るようになった。 それと同時にハロワにも通った。 亜美とは仲直りをして、以前のような関係になっていた。 12月の俺の誕生日には就活をしている俺に名刺入れをくれた。
年末、亜美が1人で旅行に行った。新幹線で1時間くらいの距離。友達に会いに行くようだった。日帰りだときいていたし、俺は特に何も思わずに亜美を送り出した。 しかし、日帰りだったはずの旅行は亜美が酔いつぶれて終電に乗れなかったせいで一泊旅行になった。 俺は嫌な予感がした。 新幹線に乗っている亜美からメールが届いた。そこには「ごめん、彼氏出来た。会いに行った友達と付き合うことになった。」 その友達のことは前から聞いていた。男だってことも知っていた。俺が亜美の家に入り浸っている頃から何度も話題にでた。 油断していた。まさかその遠い距離で付き合うことになるとは思いもしなかった。 それでも俺は、どうせ一ヶ月もしたら別れるだろう、と考えていた。
亜美に彼氏が出来ても、二人の関係は変わらない。 ただの「友達」。亜美も彼氏にそう説明して遊んでいた。 ただ、変わったのはセックスだった。 セックスはする。だけど彼氏を思いだして泣いたり、終わった後に亜美が「死にたい」と呟いたりするようになった。俺は罪悪感にかられながらも、そんな関係に溺れていった。亜美も彼氏と頻繁に会える距離にないから寂しかったんだと思う。お互い利用しあっていた。 俺とこんな関係でも、亜美は彼氏が大好きなようだった。俺と遊んでいるときも彼氏とメール。年越しこそ友達と過ごしたようだったが、年が明けてすぐに何度も彼氏に会いに行っていた。
亜美が彼氏の元に行っている間に、亜美の妹(亜美と同じ大学に通っているが別々に暮らしている)を訪ねた。 妹とは何度か遊んだこともある。 しかし亜美に彼氏が出来た今、俺は本当にただの友達でしかない。妹はひどく怖がって亜美に報告したらしい。 亜美「お前本当にいい加減にしろよ。あたしが彼氏と会ってるからって勝手にネガティブになって、妹んとこ押し掛けるとかありえない。ストーカー同然。金輪際あたしに関わらないで。もちろん妹にも。次あたしと妹の前に顔見せたら、警察呼ぶから。」 危うく警察沙汰になるところだった。 ストーカーなんてそんなつもりはなくて、ただ亜美が今の大学にいるのも俺のせいだし、それなら妹がその大学に通ってるのも俺のせいだから、誤りたかっただけだった。 でも、うん。今考えたら気持ち悪い、俺。
亜美の冬休みも終わり、亜美の成人式があった。 まだ亜美とは連絡を取っていない。 俺は亜美の地元に行った。なんの連絡もせず、車で三時間かけて。そして電話をかける。しかし何度かけても出ない。当たり前だ、成人式真っ只中なんだから。 どうしようかと思っていると亜美から電話がかかってきた。 亜美「なに?もう連絡してこないって約束したでしょ?」 俺「いや、今○○(亜美の地元)にいるんだけど。成人式の会場どこ?」 亜美「はぁ?そんなの困る。お母さんもいるのに。」 俺「お母さんにも会いたいんだけど。」 亜美「無理。絶対無理。」 こんな会話がずっと続いて、亜美が折れた。
久しぶりに会う亜美は、振り袖を着ていてとても綺麗だった。 初めてあったときはまだ高校生だったのに、、なんて思うと、なぜか泣けてきたww そしてお母さんにも会い、挨拶をして亜美の実家に行くことになった。 家には亜美のおばあちゃんやおじいちゃんもいて、とても気まずかった。 その時はなぜお母さんが家に招いてくれたのか分からなかったけど、後から 「こんな頭のおかしい奴、適当にあしらって逆ギレされたら困る。彩も妹も一人暮らししてるんだから、なにされるかわからない。 人質を取られておるようなもんだ。」とお母さんが言ってたって亜美が教えてくれた。 亜美の成人式は無事終わり、夜から同窓会だったようで、会場まで送っていった。 帰りも、迎えに来ることを約束して、パチンコやコンビニで時間をつぶしていた。 亜美から「二次会に行ってもいい?」というメールがきて、もちろんいいよ、と返した。中学卒業してから会ってなかった友達と、楽しんでいるんだろうなと思っていた。
4時間くらい待った時に泥酔した亜美から電話が来た。 「彼氏が成人式のお祝いに来てくれるって言うから迎えはいらない。」 いやいやいや、は?ずっと待っていたのにそれはないだろうと怒ると、「いや、そういうことだから」と電話を切られてた。 それから何度電話しても出ない。しばらくすると繋がらなくなった。 どうすることも出来ずに俺は二次会会場の最寄り駅を探し回った。 亜美から連絡が来たのは次の日の朝だった。 「ごめん、結局飲み過ぎて潰れて、病院にかつぎ込まれて、気がついたら家だった。」と。 そういえば亜美は成人式の為に学校の大きな課題を何日も徹夜でしていたし、 同窓会の会場に行く車の仲でも 頭が痛い と熱っぽいことを言っていた。
時間返せよ
とりあえず俺は亜美の実家に行った。 そのまま亜美の一人暮らしのアパートまで連れて帰ることになった。 お母さん「ごめんねぇ。こんな風になるとは思わなくて。でも二日酔いの亜美を1人で帰すのも心配だったから、ありがとう。」 と、本当にそう思っているのかよくわからないことを言われた。 それからは、結局前と同じ関係に戻った。いい言い方だと友達。でも現実はセフレ。 もちろん、亜美は彼氏と仲良くしているようだった。会いに行ったり、会いに来てもらったり。 そして俺も、就職が決まった。営業職だったので、亜美がくれた名刺入れを使った。亜美も喜んでくれていた。
完
3月、亜美と旅行に行った。夜通しドライブとかそんなことはしていたけど、ちゃんとした旅行は初めてだった。 亜美が前々から行きたいと言っていた遊園地。観光地。亜美は写真を撮るのが好きで、街並みも綺麗な場所を選んだ。 「リッチなホテル泊まってみたいー」と亜美が言っていたのを思いだして、奮発していいホテルに泊まった。 ディナーもドレスコードがあるようなないようなレストラン。亜美がそのためにワンピースを新調するといっていたので、ワンピースと同じ色のネックレスとピアスをプレゼントした。 旅行とアクセサリーはバレンタインのお返しと、年末に家族がぐちゃぐちゃになっている俺を支えてくれたお礼に。 亜美には本当に感謝している。迷惑もかけた。 旅行は喧嘩も多少したものの、とても楽しかった。 亜美は彼氏に、男2女2で旅行に行くと言ったらしい。そんなの信じるとかどんだけ馬鹿なんだよ、、、といつも思っていた。でも、もしかしたら彼氏も気づいてたのかも。
それから何事もなく8月、亜美の留年が決まった。学校に行ってなかったみたいだ。 亜美は大学を続けるか、やめるか、それとも他の大学に編入するか、入学するか、悩んでいるみたいだった。この頃、亜美の彼氏は忙しいらしく、亜美の相談は俺が聞いていた。 誰にも言えない、誰にも相談できない。そのことも悩んでいた。 そしてそれが爆発して、彼氏と大喧嘩した。 「今すぐ俺くんと結婚すれば、全部解決するのに。」と亜美がこぼしていた。 俺と結婚すれば大学を辞めれる。そして彼氏とも別れれる。二人で働けば生活費くらいどうにでもなる、そう考えていたようだった。
しかし亜美は彼氏と仲直りして、大学も結局留年することにした。 でも俺は、亜美の「俺くんと結婚」という言葉がどうも気になっていた。俺は亜美が好きだし、結婚したいと思っている。 だけど亜美には彼氏がいて学生。就職すればまた遠くに行くかもしれない。 そんなことを考えていると、俺の今の給料じゃ、どう考えても結婚なんて無理だと思った。亜美とだけじゃなく、誰との結婚も無理だと思った。 俺は、8月いっぱいで仕事を辞めた。すぐにハロワに通い仕事を探した。 仕事をしていない間、亜美と過ごす時間が多かった。亜美も夏休みで、バイト以外は家にいるか、実家に帰るか、と暇をしているようだった。
9月下旬に俺の再就職先が決まった。 それと同時くらいに、亜美の彼氏が泊まりに来ていた。忙しさもピークを終えたようで、1週間近く亜美の家にいるようだった。 亜美が彼氏と会っている間は、俺は亜美に干渉しない。それが暗黙の約束だった。 しかしこの時は違った。 彼氏が忙しかった間、俺がずっと側にいたのだ。亜美は「俺くんが好きなのか、彼氏が好きなのかよくわからない。」と言っていた。彼氏と一緒にいる間にも俺と連絡を取っていた。 彼氏と別れてくれるんじゃないか、俺とヨリを戻してくれるんじゃないのか、そんな期待をしていた。
彼氏がいるにも関わらず亜美と俺は会った。15分位のドライブ。それでも俺は、とても嬉しかった。 でも、この15分の間で喧嘩をした。 俺「彼氏とセックスした?」 亜美「したよ?」 亜美は俺が好きかもしれないと言いつつ、彼氏とセックスしたのだ。 なんでだよ!?と亜美に怒ると 「彼氏だもん。そんな高校生みたいにセックスなしな付き合いなんて出来ない。彼氏とセックスする事の何が悪いの? どちらかと言えば、俺くんとセックスすることの方が世間的にはおかしいんだよ!!」 俺は怒って亜美の頭を叩いた。いつもなら、痛いじゃん〜!みたいに冗談で終わるのに、この時の亜美は大泣きをした。 俺はどうしていいのかわからず、亜美を家に送った。
まずいことをした、そんなことはわかっていた。 亜美が正しいことを言っただけなのに、ただの嫉妬で殴って、泣かせた。 亜美に電話しても、メールをしても返事がない。 俺は一晩中亜美の家の前にいた。 次の日の昼前、亜美が彼氏と一緒に家を出てきた。出かけるようだった。 俺は大声で亜美の名前を呼んだ。 亜美は困った顔で彼氏に笑いかけ、俺を無視して行った。 俺は追いかけた。亜美と彼氏を追いかけて、信号で捕まえた。 俺「すいませんでした!ごめんなさい!貴方の彼女を泣かせました!すいませんでした!」 そういいながら俺は道端で二人に土下座をした。もうどうでもよかった。プライドなんて何もない。 彼氏「いや、いいですから、やめてください。」 亜美「はぁ?お前なに?いい加減にして!帰ってよ!!」 それでも俺はどう収拾つけていいのかわからず土下座しながら誤り続けていた。 すると彼氏が俺を無理矢理たたせて「もういいって言ってるだろうが!いいかげんにしろ!こんなところで土下座されても困るわ!」 と怒鳴った。今にも殴りかかってきそうな状態だった。亜美は泣きながら「もうやめて、ごめんなさい。やめて。」と彼氏をなだめていた。 そして、亜美と彼氏は出かけるのをやめたようで、家に帰っていった。
俺はもう、どうしていいのかわからず、家に帰った。 亜美から「ほんと頭おかしい。ストーカー。もう連絡してこないで。」 とメールが来ていた。 亜美は彼氏にどう説明したのだろうか。そう思いながら、まだ亜美に会いたい、謝りたい、そう思っていた。 その日の夜、亜美から俺に連絡きた。 「もう関わらないで、連絡もしてこないで。連絡先消して。だいっきらい。」 彼氏が帰ったようだった。 俺は亜美と話がしたかった。 俺「もう一回会って話がしたい。お互い話してスッキリしよう。」 亜美「スッキリってなに?あたしはスッキリしてる。俺くんのスッキリに付き合わされる意味が分からない。そんなのただのオナニーだからひとりでやって。」 俺「お願いだから。」 亜美「もう無理。連絡してこないで。電話もメールも拒否するから。今度あたしの家の周りで見かけたら通報するから。」 そう言われて、連絡できなくなった。 そして俺は次の日から仕事。こんな状態でも、やっと決まった仕事をしないわけにも行かず、がんばった。
それから1週間か2週間か経ったときに亜美から連絡が来た。 亜美「まだ起きてる?仕事はどう?」 それだけなのに俺は嬉しくてどうしようもなかった。それから少しやりとりをして、亜美が言った。 亜美「頭おかしいことしたってわかってるの?まだあたしと一緒にいたいっておもうの?」 わかってる。一緒にいたい。そう言うと 亜美「あたしの条件飲むなら前と同じ関係にはなれないけど、また友達に戻ろう。」 条件は3つ。 ・今回みたいに彼氏と亜美が一緒にいる時間には干渉しない ・妹にも、友達にも亜美と俺はもう会ってない、連絡していないことにする ・俺は彩に遊ばれている、亜美は俺を都合よく使っているだけ、亜美が俺を好きになることはもうないから何も期待しない。 俺は条件を飲んだ。それでも彩と一緒にいたかった。それがかなうなら何でもよかった。 亜美は彼氏に俺のことを元彼だと説明していた。俺と彼氏のどちらが好きなのかわからなかったということも。ただ彼氏と付き合い始めてから体の関係はなかったと言ったらしい。 それまではセフレだったと。 そして今回のことで、もうちゃんと切れたと言ったらしい。 こうしてまた、亜美と俺は友達に戻った。ただ変わったのは、前のような砕けた関係ではないということ。どこか亜美が壁をつくっていた。
そして10月、亜美の誕生日。 誕生日には会う約束をしていた。プレゼントはバラの花束とダイヤ指輪。仕事を始めたばかりで金はなかったけど、俺はプチプロポーズのつもりでそこそこの値段のプレゼントを選んだ。 誕生日前日、亜美から来たメールには「彼氏が急に来てくれるんだって。会えない。ごめんね。」 と書いてあった。 そうか、彼氏が来てくれるのか。俺と亜美はもう終わったと勘違いしている馬鹿な彼氏が。亜美と会えないのはわかった。仕方がない。そういう約束だ。 それでもショックだった。どこかでまだ、亜美は俺のところに帰ってくると思ってた。でも違う、ただ遊ばれているだけなんだもんな、俺。 そう自分に言い聞かせながら、バラを捨てた。 亜美にとって都合のいい男なんだと再認識をしてもまだ、亜美が好きだった。他の女なんてみる気もしないくらい亜美が好きだった。どうしようもない。 そして11月下旬、また俺の家で事件が起こって大変だった。辛かった。その時も、亜美は俺を支えてくれた。ずっと側にいて、俺が辛いの知っていていつもと変わらない態度をとってくれる。 「頑張りすぎないで。みんなの前で泣けないの知ってるから。あたしの前でくらい泣いてもいいよ。」 「何もしてあげれなくてごめんね。忙しいだろうけど、ちゃんと休めるときにしっかり休んでね。」 「同情で一緒にいたくない。だけど1人にするのは心配でどうしようもない。」 「何をしてあげられるのか、何が私に出来るのかわからないから、私はいつも通りの話してるね。」 全部全部ありがたかった。 その事件があった週末に、彼氏のところに遊びに行ったけど、その間も俺のことを気遣ってくれた。 俺が1人で寝れないのがわかってて、家に泊めてくれて。でも次の日は朝早いから、寝ずにずっと一緒にいてくれた。
どうにか事件の収集もつけた。 そのあとも亜美は俺と一緒にいてくれた。 それからは何事もなく、亜美は彼氏と付き会い続けて、俺は亜美のことが好きで、2年後。亜美は就職で遠くに引っ越していった。 それまではどうやって亜美をここに留めておくか必死だったけど、亜美のやりたいことができる場所にいたらいいとおもった。それが亜美の幸せなら、それを願うしかなかった。 俺は結局今でも亜美のことを好きでい続けてる。好きな女も彼女もできず、ずっと引きずってる。 亜美を引っ越し先に見送ったのが今年の3月。久しぶりに亜美から連絡が来て、俺が土下座した時の彼氏と結婚するって報告が来たから、8年くらい前の出来事を書いてみた。
創作じゃないんだけど、あたしが亜美です。 元彼の目線から書いてみた。 携帯のことは本当に変えてる。ごめん 自分でも元彼のことを都合よく使ってたって思ってる。それでもATMにはしてなかったもん。 お互いの財布事情は知ってたから、奢ったり奢られたり割り勘だったり。 本当ギブアンドテイクの関係だったと思うよ。 あたしは寂しさ紛らわせてもらって、彼はあたしと一緒にいられることが嬉しかったみたいだし。性欲処理にもなってただろうしね。 気持ち悪いのはよくわかってる。今考えても気持ち悪い。 一番の被害者は当時の彼氏だと思う。何人かと付き合ったけど、土下座の時の彼(今回結婚する彼)が一番期間が長かったし。 あたしはずっと嘘をつき続けていたんだけどね。 嘘がばれてたのかどうかなんて知らないけど。結婚が決まったからって本当のことは言えないし。聞けない。 元彼に結婚の連絡をしたのは、本当にただ新しい人見つけてほしかったから 結婚するって報告すれば、あきらめてくれるだろうって思って。 ちゃんと旦那さんにも許可もらってしましたー
ムカつくww
にゃー
んにゃー
かにゃー
ふにゅにゅにゅ
通りすがりのネカマだけど、たまにはちゃんと回答したらどうよ?
以前から何度か書いてるんだけど、今の10代〜20代前半の人達は私から見てちょっと息苦しい生活を
してるんじゃないかな〜って思うのよね。
ただ、生まれた時から携帯やパソコンが普及してるから、メール交換したりSNSサービスでコミュニケーションを
とるのに違和感を感じずにそれが普通だと思ってるんだろうけど。
あたかも、水槽の金魚に対して「お前ら、水の中で呼吸し難くないか?」と聞いてるような感じで、
恐らく本人達はそれが普通だから息苦しいなんて思うわけないんだろうけどね。
私みたいに30代後半は坂井泉水の「翼を広げて」の歌詞♪真夜中 声が聴きたくなって 無意識にダイヤル回す♪
の世界で青春を過ごしてきたから、自分が今どこで何をしてるかなんかを発信するツールも無かったし、
気になる人が何をしているか知る術も無かったの。
※そもそも、ダイヤル回す の意味が若い人に通じるかどうかも怪しいけど
それにしても、ラーメンなんて高カロリーなものよく普通に食べれるわね。
私はヘルシーに天ぷらうどん&白子ご飯よヽ(´ー`)ノ
http://imepic.jp/20131012/396930
通りすがりのネカマだけど、今朝は早朝3時前に34歳の「掲示板見てメールしました。」さんからメッセージを頂きましたわ。 私、案外いい加減なところもあるけど微妙にマメなところもあって、晒されて届いたメールを別フォルダに移管してますの。 ちなみに早朝のメールで122通目でしたわ…ちょっと驚きよねヽ(*´∀`)ノ 自分のダメっぷりにうんざりして落ち込むことがあるけど、122通を読み返すとバカバカしくなって元気が出るわ! ところで、今夜は時間があったので喪女板と喪男板を斜め読みしてみたんだけど、 エロ系スレもあるんだけどなんだか切実っぽい雰囲気を醸し出してるのよね… ハッキリ言って、喪女さんも喪男さんも真面目過ぎるのよ!! 手前味噌で申し訳ないけど、ウチの嫁なんて男に対して「寄るな!触るな!」というタイプだったのに、 彼氏いない歴=年齢ながら何故か私みたいなのと”気の迷い”で付き合い始めて、 ”お試し”で結婚してみて、”なんとな〜く”妊娠・出産・子育てしてるわ。 いい加減なんだけど、それはそれでアリだと思うのよね。 ちなみに、もうすぐ結婚生活12年目を迎えようとするんだけど、嫁曰く”まだお試し期間”らしいわ(-_-;) でも、喪女さんも喪男さんも真面目過ぎるってそんなの自分で判ってるんだろうし、 真面目が故に自分を変えられなくてもどかしいのかもしれないわね。 喪女さんでも喪男さんでも、一度会って話をしてみたいわね。メール交換でもいいし。 一度吐き出してみて心を整理してみると、何がわだかまりになっているのかが判るかもしれないわ。 さて、明日も早いし寝るとしますか〜おやすみなさい(-_-)zzz
通りすがりのネカマだけど、今朝は早朝3時前に34歳の「掲示板見てメールしました。」さんからメッセージを頂きましたわ。 私、案外いい加減なところもあるけど微妙にマメなところもあって、晒されて届いたメールを別フォルダに移管してますの。 ちなみに早朝のメールで122通目でしたわ…ちょっと驚きよねヽ(*´∀`)ノ 自分のダメっぷりにうんざりして落ち込むことがあるけど、122通を読み返すとバカバカしくなって元気が出るわ! ところで、今夜は時間があったので喪女板と喪男板を斜め読みしてみたんだけど、 エロ系スレもあるんだけどなんだか切実っぽい雰囲気を醸し出してるのよね… ハッキリ言って、喪女さんも喪男さんも真面目過ぎるのよ!! 手前味噌で申し訳ないけど、ウチの嫁なんて男に対して「寄るな!触るな!」というタイプだったのに、 彼氏いない歴=年齢ながら何故か私みたいなのと”気の迷い”で付き合い始めて、 ”お試し”で結婚してみて、”なんとな〜く”妊娠・出産・子育てしてるわ。 いい加減なんだけど、それはそれでアリだと思うのよね。 ちなみに、もうすぐ結婚生活12年目を迎えようとするんだけど、嫁曰く”まだお試し期間”らしいわ(-_-;) でも、喪女さんも喪男さんも真面目過ぎるってそんなの自分で判ってるんだろうし、 真面目が故に自分を変えられなくてもどかしいのかもしれないわね。 喪女さんでも喪男さんでも、一度会って話をしてみたいわね。メール交換でもいいし。 一度吐き出してみて心を整理してみると、何がわだかまりになっているのかが判るかもしれないわ。 さて、明日も早いし寝るとしますか〜おやすみなさい(-_-)zzz
通りすがりのネカマだけど、今朝は早朝3時前に34歳の「掲示板見てメールしました。」さんからメッセージを頂きましたわ。 私、案外いい加減なところもあるけど微妙にマメなところもあって、晒されて届いたメールを別フォルダに移管してますの。 ちなみに早朝のメールで122通目でしたわ…ちょっと驚きよねヽ(*´∀`)ノ 自分のダメっぷりにうんざりして落ち込むことがあるけど、122通を読み返すとバカバカしくなって元気が出るわ! ところで、今夜は時間があったので喪女板と喪男板を斜め読みしてみたんだけど、 エロ系スレもあるんだけどなんだか切実っぽい雰囲気を醸し出してるのよね… ハッキリ言って、喪女さんも喪男さんも真面目過ぎるのよ!! 手前味噌で申し訳ないけど、ウチの嫁なんて男に対して「寄るな!触るな!」というタイプだったのに、 彼氏いない歴=年齢ながら何故か私みたいなのと”気の迷い”で付き合い始めて、 ”お試し”で結婚してみて、”なんとな〜く”妊娠・出産・子育てしてるわ。 いい加減なんだけど、それはそれでアリだと思うのよね。 ちなみに、もうすぐ結婚生活12年目を迎えようとするんだけど、嫁曰く”まだお試し期間”らしいわ(-_-;) でも、喪女さんも喪男さんも真面目過ぎるってそんなの自分で判ってるんだろうし、 真面目が故に自分を変えられなくてもどかしいのかもしれないわね。 喪女さんでも喪男さんでも、一度会って話をしてみたいわね。メール交換でもいいし。 一度吐き出してみて心を整理してみると、何がわだかまりになっているのかが判るかもしれないわ。 さて、明日も早いし寝るとしますか〜おやすみなさい(-_-)zzz
° .☆ ゚ ° ゚ ゚ ° ,个、 ° 。 ノ ♪ミ ゚ 。 みなさんも楽しいクリスマスが過ごせますように… イ 彡※ヽ ° ° .ノ,● ※☆ミゝ゚ ゚ ゚ 。 。 彡 ※,, †,, ヘ ν※ ,,★,,※ ∧_∧∧_∧ ゚ ゚ ゚ 。 ° ⌒⌒i⌒i⌒ ( ・∀・) ´∀`) ┬┬┬┬┬--つ☆⊂-つ†O┬ ☆ ▲ ° ‐┼┼┼┼┼‐┼┼┼┼┼┼ ゚ ヽ(・・)(・・)/ ゚ ┼┼┼┼┼┼‐┼┼┼┼┼┼ ( )( ) ° .☆ ゜ ° ゜ ゜ ° ,个、 ° ノ ♪ミ ゜ ゜ ゜ イ 彡※ヽ ° .ノ,Д ※ ミゝ゜ ゜ ゜ 彡 ※,, †,, ヘ ν※ ,,∂,,※ ∧v∧ ゜∧v∧ ゜ ゜ ⌒⌒i⌒i⌒ (´・ω・`) (´・ω・`) きれいだね〜。 ┬┬┬┬┬-O∞O‐┬O∞O‐┬┬.┬. ☆ ° ‐┼┼┼┼┼‐┼┼┼┼┼┼┼┼┼ ゜ ヽ(・・)/ 。 ゜ ┼┼┼┼┼┼‐┼┼┼┼┼.┼┼┼. ゜ ( )
>>615 結婚の報告とか要らないw
元彼は運命の女性だと亜美さんを感じていたはず。
辛い時期や悩む時期に出逢う男女は、
遇うべき時が必然。
ベラ
>>628 non.non幸次郎じゃない
秀次くんだよ
みたいな?w
投稿レスに彩りがあるのは知ってるw
35 fusianasan sage 2013/12/05(木) 12:32:38.63 お兄ちゃんは電話ちゃんが完全に寝落ちしてるのに挿入するのが 死姦を思わせて_ 36 fusianasan sage 2013/12/05(木) 12:37:54.01 でも、あの寝落ち、いつ来るか分からんくないか? 基本20分以上待たないと、でそ? 39 fusianasan sage 2013/12/05(木) 12:57:53.19 寝てんの気づかないんじゃなくて 完全に寝落ちしてて〆のレスん時挿入するんだよ まあエチの最中に寝る電話ちゃんも悪いんだけどさ 40 fusianasan sage 2013/12/05(木) 13:16:31.49 マジ?なんかやだなあ 41 fusianasan sage 2013/12/05(木) 13:24:41.18 挿れたままかぁ それ、はるちゃんがお願いしてたことじゃんw
どこのコピペかのぅw 言葉を持たぬ者は意志疎通や感情が無いw
393 fusianasan sage 2013/12/06(金) 08:59:58.62 650:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:26:24.75 428あるし 654:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:27:39.82 ここは次どうするの 416新しく立てるの? 659:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:30:11.57 こんだけあるのに新しく416立てるのも乱立だと思うんだけどなあ 663:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:32:27.24 いや普通に番号にこだわるあまりに新しく立てるのってどうかと思う 至って正常な考え方かと 668:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:34:54.41 粛々と古いのから消化していけばいいと思うんだけど スレ番通りなら正義って考え方も危険 671:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:37:30.31 アレルギーとかじゃなくて頭かたいなあ こんだけ乱立してるけど抜けてる番号があるから新しく立てるって それはわがままだと思うよ 675:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:38:55.17 わざわざ新しく立てるってのは乱立厨と生住民以外の蟻板から見れば同じ乱立 それがわかんないのかなと わかんないならしょうがないけど
633 :
fusianasan :2013/12/06(金) 16:23:13.42
age
>>633 35…中井貴一と椎名桔平…エイジならw
幸次郎の年? 40越えてないん?
50前はじゃないん?
>>637 50…。
謎解きに付き合うほど暇じゃなくw おやすみんw
寝たら死ぬぞっ
>>639 おはやうw 生きてるけどなw
昨日までの俺はもう居ない?w どうだかww
変な詩人だな
>>641 変人の詩。 うたw
詠み人知らずか作者不詳、そういった(ry
1 ◆CHURa/Os2M @ちゅら猫ρ ★ sage 2013/12/07(土) 23:16:22.40 ID:???0
★宗派超え僧侶や神父ら抗議行動 特定秘密保護法成立
2013年12月7日21時14分
特定秘密保護法の成立を受け、宗教界からも抗議の声が上がった。超宗派の宗教者グループ
「宗教者九条の和」が呼びかけた街頭祈念行動が7日、東京・渋谷であり、僧侶や神父ら
約20人が集まった。
「南無妙法蓮華経」と題目を太鼓に合わせて唱えたり、キリスト教式に祈りの言葉を捧げたり、
それぞれの信仰にのっとって通行人に訴えた。
東京都の僧侶、武田隆雄さん(61)は、自民党の石破茂幹事長がデモとテロを同一視するか
のように発言したことを踏まえ、「街頭でお題目を唱えることもテロとみなされ、信教の自由を
侵されかねない」と話した。
また真宗大谷派(東本願寺)は7日、「法律が悪用されることのないよう注視するとともに、
一日も早い法律の廃止を強く望みます」という宗務総長名のコメントをだした。
日本カトリック司教協議会の常任司教委員会も同日、「人間の尊厳に関わる自由で平和な社会を
求める宗教者として断固抗議する」などとした声明を発表した。
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070300.html 前 ★1が立った時間 2013/12/07(土) 22:24:59.18
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1386422699/
出たww インパール作戦ww
>>645 >【無謀な作戦の代名詞】として現代でもしばしば引用される。
初めて見たw 世界を一億人で牛耳るなんて夢物語w
教育って大事だねw 友愛なら平和かと言うとそうでもない。
夜中の教育テレビでやってたのよ
・・・いよいよ、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦について書かなければなりません。 さて、1944年初頭に入ると、戦局の趨勢は誰の目からも明らかになっていました。 アメリカの大艦隊 は、いまやマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)を目指し、 日本軍はこれを待ち受けて、伸るか反る かの大決戦を行なおうとしていたのです。 東条首相は、マリアナ諸島を「絶対国防圏」と名づけて、日本の国 運をこの一戦に賭ける決意だったのです。 しかし、日本軍は、全力でこの国難に当たろうという態勢にはなっていませんでした。 どうしてかといえ ば、この期に及んで、お役所の詰まらぬセクト意識が幅を利かせていたからです。 既述のとおり、日本陸軍の主要敵国は、あくまでも中国でした。 彼らにとって、アメリカとの戦いは副次的 なものでした。 アメリカが日本本土に迫っても、それはあくまでも海軍の責任であるから、彼らには関係ない と思っていたのです。 だから、陸軍は、百万近い大軍を動員して、中国大陸とインドで大攻勢を行なったので す。 前者は「大陸打通作戦」、後者が「インパール作戦」です。 そんな余裕があるなら、どうしてアメリカと の決戦に回さないのか? そんなこと、お役所のキャリアに言っても無駄です。 彼らは、己の省益のためなら、 国益すら犠牲にする連中ですから。 こうして、マリアナ諸島の戦力は、相対的に低下しました。 「政治家不在」は、いまや致命的な破局を招こうとしていたのです。
さて、「大陸打通作戦」とは何か? 占領下の広東と武漢の間、すなわち湖南省を占領して、長江沿岸と広東 の間に連絡路を造ろうという作戦でした。 具体的には、桂林のあたりを攻撃したのです。 いちおう、この辺 りに設置されつつあったB29の基地は破壊できたのですが、 そんなことをしても四川省に立て篭もる蒋介石 には、大したダメージにはなりません。 陸軍のお役人は、わざと弱い敵をやっつけて、点数稼ぎをしたかった のかもしれませんね。 さて、「インパール作戦」とは何か? 文字通り、インパールを占領する作戦です。 インパールというのは、 ビルマ(現ミャンマー)との国境にあるインドの街です。 ここは、イギリス軍の最前線基地になっていまし た。 そもそも、どうして日本陸軍はビルマを征服したのか? これは、実は日中戦争を有利に進めるためだったの です。 アメリカとイギリスは、中国に対して戦略物資の援助を行なっていました。 その物資は、英領ビルマか ら昆明を経由して蒋介石軍に届けられていました。 ゆえに、日本がビルマを占領すれば、米英は中国を支援で きなくなり、中国は世界から孤立してしまうのです。 そして、日本軍はこれに成功したのでした。 1942年 初頭、イギリス軍は、強力な日本軍の前に成す術も無く敗走し、ビルマを放棄してインドに逃げ込んだので す。
しかし、1944年に入ると、状況は大きく変化しました。 その最大のものは、制空権です。 連日のように 続く空中戦で、日本のパイロットは次々に失われていきました。 あの加藤健夫中佐が戦死したのも、ビルマ上空です。 そして、圧倒的な物量を誇る連合軍は、いつしかビルマの制空権を一手に握っていたのです。 そし て、彼らは中国との連絡路の奪回に動き出しました。 少数精鋭のゲリラ部隊をビルマ北部に潜入させ、これに 空から補給を行なって、中国軍と連携させることに成功したのです。 この情勢を放置しては、ビルマを征服した意味が無くなってしまいます。 そこで、日本陸軍は、イギリスの 最前線基地であるインパールを攻略し、彼らの意図を挫折させようとしたのでした。 インパール作戦は、戦略的には道理に適った作戦だったのです。 しかし、問題はその手段です。 ビルマとインドの国境には、チンドウイン河という大河が横たわり、それを超えた後はアラカン山系とい う、 標高2000メートル級の山々が聳えていたのです。 もちろん、まともな道路はありませんから、自動車 はもちろん、 荷車だってロクに通れないのです。 歩兵が、文字通り歩いて越えるしかありません。 ここで当然 問題になるのは「補給」です。 どうやって、前線部隊に武器弾薬や食糧医薬品を渡すのか?
補給畑の将校は、連日のように知恵を絞って考えました。 そして得られた結論は、「不可能」でした。 しかし、この作戦は強行されたのです。 1944年3月、10万の将兵が、ビルマ-インド国境に殺到した のです。 どうしてこんなことになったのか。 強烈な個性を持った一人の将軍が登場します。牟田口廉也です。 在ビルマ日本軍の編成は、次のようでした。 東南アジア方面を統括するのが「南方軍」。 寺内寿一元帥がヘッドです。 この人は、親の七光りでのし上 がったキャリア君で、実務の事にまるで興味ありませんでした。 シンガポールで、美食と観光三昧の生活を 送っていたそうです。 その下に、「ビルマ方面軍」があり、ヘッドは河辺正三中将でした。 その下に、「第15軍」があり、これがインドのイギリス軍と対峙していたのです。 ここのヘッドが牟田口 廉也中将でした。 そして、河辺と牟田口は親友の関係だったのです。
インパール作戦をやりたいと言ったのは、牟田口でした。 彼は、「軟弱なイギリス軍など、あっというまに 倒して見せる」と豪語しました。 だから、歩兵の携帯用食糧だけで十分で、補給の事を考える必要が無いとい うわけです。 補給の専門家は、一人残らず反対しました。 しかし、彼らの意見は黙殺されてしまったのです。 日本軍は、 補給を軽視する伝統があり、補給畑に行く人は、だいたいノンキャリアでした。 キャリアがノンキャリアをバ カにするのは、当然のことなのです。 河辺は何と言ったか。 「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」と言ったのです。 明らかに、職務に情実を挟んでいたわけです。 寺内は何といったか。「良きに計らえ」でした。 東京の東条は何と言ったか。 「やれるならやりたまえ」でした。 彼は、インドの亡命政治家チャンドラ・ ボースを利用して、 政治的なプロパガンダを打ちたがっていました。 すでに、捕虜となったインド兵を中心 に、インド解放軍を編成させていた彼は、 「日本軍のインド侵攻」に、甘い夢を見たい気分だったわけです。 こうして、十分な検討もなされぬまま、作戦はノリと勢いのみで走り出したというわけです。
もっとも、牟田口は、彼なりに画期的な補給作戦を案出して見せました。 「ジンギスカン作戦」です。 すな わち、ビルマの民衆から大量に牛を徴発して、 これに荷物を運ばせようというのです。 兵隊は、腹が減ったら 牛を殺して食えば良いというのです。 牟田口は、「これぞ一石二鳥」と、悦に入っていたようです。 古のジン ギスカンの故事に学んだつもりで、己の教養をひけらかしたといいます。 牟田口は、牛という生き物を見たことが無いのでしょうか? 牛は、背中に重い荷物を背負ったまま大河を泳 いだり、 険しい山道を進むことが苦手な動物なのです。 仮に平野ばかりを進んだとしても、あの足の遅さで は、 足手まといにしかならないでしょう。 だいたい、実際の歴史上のジンギスカンは、牛ではなく羊を連れて 草原地帯を進軍したのですから、状況が全然違うのです。 案の定、「ジンギスカン作戦」は失敗に終りました。 チンドウイン河で牛の半数が溺れ死に、残りの半数も 山道を進むことができずに、放棄されたのです。 それでも、牟田口は意気軒昂としていました。 彼は、幕僚にこう語ったといわれています。 「日本人は、も ともと農耕民族で草食動物なのだ。 ジャングルの中で草を食えば、補給などいらぬのだ!」 無知蒙昧と不見識も、ここまで来ちゃうと芸術的ですが、 受験勉強で成り上がったキャリアの中には、現代 でもこういうのがウジャウジャいます。 実に恐ろしい事です。
ともあれ、日本軍は良く頑張りました。 アラカン山系を突破して、インパールの街を、北、東、南の三方か ら包囲したのです。 インパールは山間の盆地なので、陸上の連絡路は、北方のディマプールに延びる一本道し かありません。 佐藤中将の第31師団は、この道を遮断し、コヒマ部落でイギリス軍を大いに苦しめました。 コヒマの戦いは、イギリスで出版される戦史物で、必ず詳説されているそうです。 それほどに、激しい戦い だったのでしょう。 佐藤師団が、コヒマでイギリス軍を食い止めている間に、 残りの2個師団が、補給切れになったインパール を占領する手はずでした。 しかし、この計画は失敗に終りました。なぜか? インパールが補給切れにならな かったからです。 制空権を完全に掌握していたイギリス軍は、空から飛行機で補給物資をこの街にドシドシと 送り込んだのです。 日本軍首脳部は、このような事態を、まったく想定していなかったというわけです。 こうして、先に補給切れに陥ったのは日本軍の方でした。 日本軍の大砲は、5月の段階で、一日に一門当た り3発の砲弾しか発射できなかったそうです。 この時点で、作戦の失敗は明白になっていました。
しかし、牟田口はそれを認めようとはしませんでした。 インパール攻略に苦戦する2個師団を「軟弱」と決 め付けて、 師団長を2人ともクビにしてしまったのです。 そして、神社(日本は、占領地域に神社を造りまくっていた)に立て篭もり、 毎日、奇声を上げながら水垢離していたそうです。 総司令官が神頼みでどうす る! こうしている間に、前線の日本軍は、まさしくジャングルの草を食って生きている状態になってしまいました。 彼らはもちろん、補給を送るように後方に督促したのですが、 牟田口司令部は、「もうすぐ届く」などと嘘をつきまくっていました。 実際には、何もしていなかったし、やりようも無かったのです。 いつしか7月に入り、雨季が到来しました。 この辺りのジャングルは、雨季になると疫病の巣と化すので す。 骸骨のように痩せ衰えた日本兵は、次々に病に倒れていきました。 コヒマの佐藤師団は、銃剣で戦車に渡り合うという苦境に陥っていました。 補給は一向に行なわれず、このままでは全滅です。 彼は、悲痛な決断を余儀なくされました。「抗命」です。 彼は独断で、全部隊を撤退させ てしまったのです。 これは、日本陸軍発祥以来の大事件でした。 牟田口は、これを理由にインパール作戦の中止を言い出しました。 部下が背いたから負けたのだ、という言 い訳が出来るからです。
その間、河辺はどうしていたのか? 牟田口の心境を考えると気の毒なので、何も言い出せずに、優しく彼を 見守っていたのです。 友達としては立派なのかもしれませんが、組織の長としては無責任ですね。 日本陸軍は、機能的組織ではなく、単なる共同体と化していたのです。 10万の日本軍将兵のうち、無事に生還できたのは3万人でした。 残りの殆どが、飢えと病で帰らぬ人と なったのです。 日本軍の退却路は、死体の山が散乱したことから、「白骨街道」と呼ばれました。 さて、生還した佐藤師団長はどうなったのか? 彼は、日本刀を引っさげて牟田口司令部に乗り込みました。 「叩っ斬ってくれるわ!」という剣幕だったそうです。 このときは、牟田口が逃げ回ったので、何事も無く済 みました。 佐藤は、軍法会議で死罪になることを覚悟していました。 ただ、その裁判の壇上で、牟田口や河辺 の「犯罪」を弾劾してやろうと準備していたそうです。 しかし、軍法会議も裁判も行なわれませんでした。なぜか? 佐藤中将は、「精神病」という事にされたのです。 別に、佐藤を庇ったわけではありません。 佐藤の責任を追及すると、牟田口や河辺をはじめ、みんなが責任を問われるでしょう? それが厭だから、「事故」とい うことにして「無かったこと」にしちまったのです。 最前線で倒れた兵士たちは、まさに「死に損」でした。 無責任な庇い合いの馴れ合い組織。 現代の日本でも随所に見られる光景です。 インパールの悲劇を、決して無駄にしてはいけないと思います。 二度と同じ過ちを繰り返してはならないの です。 我々は、歴史の悲劇を、より深刻に受け止める必要があるのです。
為になるなぁ。 ついつい読んでしまうが、 貼ったしとの考察が無いんだよね。
仕方ねーなぁ 無駄口の素晴らしいところはインパールではない その後の所業だ その内容は、アンサイクロペディアに「米英のスパイだった」と揶揄されるほど 具体的にはこんな感じ
その一 死ぬ死ぬ詐欺 インパール作戦が敗色濃厚となり部下 の藤原岩市参謀に 「陛下へのお詫びに自決 したい」と相談した (もとより慰留を期待し ての事とされる)。 これに対し藤原参謀は 「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだた めしがありません。 司令官から私は切腹す るからと相談を持ちかけられたら、 幕僚と しての責任上、 一応形式的にも止めないわ けには参りません、 司令官としての責任 を、真実感じておられるなら、黙って腹を 切って下さい。 誰も邪魔したり止めたり致 しません。 心置きなく腹を切って下さい。 今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があ ります」 と苦言を呈され、あてが外れた牟 田口は悄然としたが自決することな く 、余生をまっとうした。
その二 内部テロ インパール作戦失敗後の 7月10日、司令 官であった牟田口は、自らが建立させた遥 拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次 のように訓示した。 「諸君、佐藤烈兵団長 は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄し た。 食う物がないから戦争は出来んと言っ て勝手に退りよった。これが皇軍か。 皇軍 は食う物がなくても戦いをしなければなら ないのだ。 兵器がない、やれ弾丸がない、 食う物がないなどは戦いを放棄する理由に ならぬ。 弾丸がなかったら銃剣があるじゃ ないか。 銃剣がなくなれば、腕でいくん じゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。 足もや られたら口で噛みついて行け。 日本男子に は大和魂があるということを忘れちゃいか ん。 日本は神州である。神々が守って下さ る…」。 訓示は1時間以上も続いたため、栄 養失調で立っていることが出来ない幹部将 校たちは次々と倒れた
無駄口
その三 必殺!!掌返し イギリス軍のアーサー・パーカー中佐 は、昭和37年7月25日に牟田口へと渡され た書簡で、 意表をついた作戦と評価し、ま た、師団長の後退がなければ、 最重要援蒋 ルートであるレド公路への要衝でもあり、 インパールへの補給・増援の起点でもある 要衝ディマプールは落ちていたかもしれな いと牟田口を高く評価した 。 もっとも、 たとえディマプールを占領できたとして も、維持できたかどうかは別問題である 。 このパーカー 書簡を読んで以後、牟田口は戦後それまで の謝罪活動を止め、上述のように自己弁護 につとめた。
ちなみに、インパール作戦の時の無駄口は、「神様への祈り」という名目で、隠れていたと言う。 名は体を表すというが、まさしく無駄な口を聞いて、日本を敗戦に導いた英米の英雄である。
また、
>>663 の評価はインパールを落とす方法についてであり、必ずしも「ジンギスカン作戦」を指した訳ではないらしい
と付け加えておく
無駄口
タダ口
50:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:26:24.75 428あるし 654:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:27:39.82 ここは次どうするの 416新しく立てるの? 659:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:30:11.57 こんだけあるのに新しく416立てるのも乱立だと思うんだけどなあ 663:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:32:27.24 いや普通に番号にこだわるあまりに新しく立てるのってどうかと思う 至って正常な考え方かと 668:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:34:54.41 粛々と古いのから消化していけばいいと思うんだけど スレ番通りなら正義って考え方も危険 671:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:37:30.31 アレルギーとかじゃなくて頭かたいなあ こんだけ乱立してるけど抜けてる番号があるから新しく立てるって それはわがままだと思うよ 675:fusianasan :sage:2013/12/01(日) 18:38:55.17 わざわざ新しく立てるってのは乱立厨と生住民以外の蟻板から見れば同じ乱立 それがわかんないのかなと わかんないならしょうがないけど
保身。 軍事国家だったのだから。 歴史にifはないからね。
>>668 おまいの抜粋やコピペには知性を感じないw
無理してまで貼らなくていいよ。
たまには休んでいいのだから。
インターネッツはストレス発散の為に、
ある訳じゃないのよんw
<牟田口廉也中将プロフィル> 明治21年10月7日、佐賀県出身。 明治43年5月陸軍士官学校卒(22期 )。 12月歩兵少尉、歩兵第十三連隊附 。 大正2年12月歩兵中尉。 大正6年11月陸軍大学校卒(29期・ 57名中25位)。 大正9年4月歩兵大尉、参謀本部員。 大正15年3月歩兵少佐。8月近衛歩兵 第四連隊大隊長。 昭和2年5月軍務局軍事課員。 昭和4年2月フランス出張。8月参謀本 部員。 昭和5年8月歩兵中佐。 昭和8年12月参謀本部総務部庶務課長 。 昭和9年3月歩兵大佐。 昭和11年5月支那駐屯歩兵第一連隊長 。 昭和13年3月陸軍少将、関東軍司令部 附。7月第四軍参謀長。 昭和14年12月予科士官学校長。 昭和15年8月陸軍中将。 昭和16年4月第十八師団長。 昭和18年3月第十五軍司令官。 昭和19年8月参謀本部附、12月予備 役。 昭和20年1月召集・予科士官学校長。 9月召集解除。12月戦犯容疑で逮捕。 昭和21年9月シンガポール移送。 昭和23年3月釈放・帰国。戦後は東京 都調布市で余生を送る。 昭和38年4月および昭和40年2月、 国立国会図書館政治史料調査事務局の要 請で、盧溝橋事件とインパール作戦の談 話を録音。 昭和41年8月2日死去。七十七歳。
>>671 歴史に名を残したってことw
名もなき人々は何処に行ってしまうのか。おかげさまで日本には戦争はありません。日本人も他国を侵略したので、両成敗なんだけどね。
他国侵略が事実ではない 日本が戦争起こしたおかげで、独立した国もある アメリカやらイギリスやらの植民地を解放して、その見返りに資源をもらおうとしたのがあの戦争
チョンや支那に侵略してる 向こうに頼まれても無いのに併合したのは紛れもない侵略 そして恩を仇で返される日本
>>673-674 諍いと争い…おわかり?w
親日派と呼ばれる国の中には日本が戦争をしたので恩恵を。
資源をもらおう?w 大東亜が現実であったならでしょw
言い方の違いで正当化しない方がいいよ。
ちょんしなって…あえてだろうけどw おまいは優れてるとか?w
コレって日本の教育がそう思わせるけど…教科書が教えない(ry w
仇も込みで日本。身内が一次二次で徴兵されて還って来てないなら感情が違う。
たかが地球の中のひとつの島国だっつーのw
まぁ、何にしても勝てば官軍負ければ... だな ちなみに、インパール作戦がきっかけで、インドは独立できたとかほにゃらら
>>676 そうだよねw 負けると独立戦争も反逆だしw どっちの立場だよっていうw
大国が大挙して押し寄せたら…連合軍の軍備情報もあったから…破滅にw
短期決戦で和解を探るって二次だったのに。
インドもカースト制度っていうのが今も残る国だねぇw
国民主権が真実なら変わっていくよねw 色々見えてくるお年頃w
|−^)ノシ いってくらw
佐藤 幸徳(さとう こうとく、 1893年(明 治26年)3月5日 - 1959年(昭和34年)2月 26日)は、日本陸軍の軍人。 陸士25期、陸 大33期、最終階級は陸軍中将。山形県出 身。 インパール作戦 において師団の独断退 却を行ったことで知られる。
1944年(昭和19年)のインパール作戦で は、第31師団(通称号:烈)の師団長とし て参加する。 このとき、上司の第15軍司令 官には、前述のように参謀本部時代に因縁 のある牟田口廉也中将が就いていた。 インパール作戦は当初より 第15軍司令部内 部でも無謀さが指摘されており、佐藤も 作戦前から第15軍の会議にて補給の困難を 主張していた。 佐藤は、第15軍司令部に作 戦中の補給量の確約を求めた。 佐藤は、部 下の師団の将校を集めて、諸君の大半はア ラカン山中で餓死するだろうと訓示してい た 。
作戦が始まったが、佐藤の予想通り、第31 師団の前線には十分な糧秣・弾薬が補給さ れなかった。 第15軍司令部からは「これか ら物資を送るから進撃せよ」などの電報が 来るばかりで、佐藤はその対応に激怒して いた。 それでもなお3月15日にチドウィン 川を渡り、4月6日に左突進隊とされた隷下 の第58連隊が要衝コヒマを占領したもの の、 佐藤は部下の損害を嫌って攻撃指示を 出すことは控え、コヒマ後方15kmの地点 から自身は前進せずにいた。 この時点で 補給問題に強い関心を持っていたのは渡河 時に兵が携行していた20日分の食料が尽き つつあったからである。 師団が引き連れて いた馬匹の内、象はチドウィン川渡河後2 日に帰り、 牛は餌にするべき草が無 く、竹の葉や芭蕉を食わせた為に、 パトカ イ山系に踏み込む前に殆どが倒れた 。 な お、第31師団の前面に展開していた英軍部 隊は第33軍団(コヒマ方面、軍団長: M.ス トップフォード中将)であり、 その隷下に はワーテルロー以来の戦歴を誇る英第2師 団があったが、 その後 第7インド歩兵師 団も加わり攻撃は激しさを増していっ た 。
佐藤は補給要請に全精力を注いでいたが、 ついに物資不足を危惧し撤退を進言するに 至った。 補給を軽視した司令部は佐藤に作 戦継続を強要したが、 師団はすでに武器弾 薬や食料の不足から著しく苦戦しており、 これ以上の進撃は不可能な状況だった。 そ こで直接の上官ではなく第5飛行師団 の田 副登師団長宛にまで直接補給を要請した が、それでも佐藤はこのままでは全滅は不 可避と判断していた。 そのような中、5月31日、コヒマ西方で58 連隊が守備していた5120高地が英印第7師 団の猛攻を受け、5月末日に陣地にて紛戦 状態となった。 この時玉砕を決意した守備 隊長白石大佐の告別電により佐藤はコヒマ 放棄と主力の撤退を独自に決断し、 病兵 1500名の後送を指示、部下の宮崎繁三郎 少 将に遅滞戦闘を命じた。
そして、 「善戦敢闘六十日におよび人間に許され たる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽 きたり。いずれの日にか再び来たって英 霊に託びん。これを見て泣かざるものは 人にあらず」(原文は漢字・カタカナ) と返電し、6月1日に兵力を補給集積地とさ れたウクルルまで退却させた。 この際に ビ ルマ方面軍宛に、 「でたらめなる命令を与え、兵団がその 実行を躊躇したりとて、軍規を楯にこれを 責むるがごときは、部下に対して不可能な ることを強制せんとする暴虐にすぎず」 「作戦において、各上司の統帥が、あた かも鬼畜のごときものなりと思う……各上 司の猛省を促さんとする決意なり」 「久野村参謀長以下幕僚の能力は、正に 士官候補生以下なり。しかも第一線の状況 に無知なり」 「司令部の最高首脳者の心理状態につい ては、すみやかに医学的断定をくだすべき 時機なりと思考す」 などの激しい司令部批判の電報を送った。 6月3日に師団は一斉にコヒマから撤退した が、退却先のウクルルにも弾薬・食糧が全 く無かったため、 佐藤は独断でさらにその 後方のフミネまで後退した。
これは陸軍刑法第42条(抗命罪)に反し、 師団長と言う陸軍の要職にある者が上官の 命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件 である。 これが牟田口の逆鱗に触れ、作戦 中止後の7月9日に師団長を更迭された。 第 15軍隷下の第33師団長・柳田元三、第15師 団長・山内正文も更迭されており、 作戦に 参加する3師団すべての司令官が更迭され る異常な事態であった。 もとより佐藤は死 刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令 部の作戦指導を糾弾するつもりであったと いう。 しかしこの抗命撤退により多くの兵 士たちの生命が救われることになった。 7月10日、牟田口司令官は「佐藤が食う物 がないから戦争は出来んと言って勝手に退 りよった」との補給を軽視した訓示を行っ たが、 すでに栄養失調の将校たちは長時間 に及ぶ訓示に耐えきれず、次々に倒れて いったという
解任された佐藤は 軍法会議で作戦失敗の非 を訴えようとしたが、結局不起訴処分となり、 牟田口は佐藤の精神鑑定をビルマ方面 軍司令官河辺正三中将に上申した。 結果、 「精神病(心身喪失)」扱いでジャワ島に 送られたとされている。第16軍司令部付と いう形での、事実上の軟禁である。 これ は、すでに抗命罪による死刑を決意した佐 藤により、撤退理由をはじめとするイン パール作戦失敗の要因が明らかにされると 共に、 その責任追及が第15軍、ビルマ方面 軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回 避するためである。 また「問題のある人物 を親補職に任命した」 という 統帥権を持 つ天皇への責任にまで及ぶことを恐れた軍 部の措置であったと推測されている。 ただ し、そもそも現場の司令官が親補職たる師 団長を解任する権限はなく、牟田口による 解任は統帥権を犯す行為である。
鑑定の実際は次のような内容であった。 以 下、精神鑑定については山下實六の手にな る『九州神経精神医学』の記事を元に述べ る。 この鑑定について当時首相・陸相に加え陸 軍参謀総長を兼職していた東条英機は、 「その件は一切南方総軍に任せる。内地は関与しない」との電報を送った。 精神鑑定 を実施したのはマニラに開設されていた 陸 軍病院第一分院から派遣された2名の 精神 科の軍医、 山下實六軍医大尉と 南方総軍軍 医部高級部員の宮本軍医中佐であった。 この内山下はガダルカナル島の戦いに参加し たある兵団長の精神鑑定を実施した経験が あった。 2名はラングーンへ移動し、鑑定 作業は7月22日、ラングーンへの佐藤の到 着後、24日より下記3つの観点より実施さ れている。
1. 身体的検査 :マラリア等疫病による心身 喪失の可能性を検査 2. 現在の精神状態 :佐藤との面談によ る。 3. 事件当時における精神状態 :戦闘及び撤 退中に躁状態であったかが問題とされた。 佐藤と副官の世古中尉との面談の他、当時 の15軍司令部への電報の写しを参照して実 施された。 鑑定書の写しはその後空襲で焼失したが、 その内容は概略次のようであったという。 鑑 定 主 文 1. 作戦中の精神状態は正常であった。 時おり、精神障害を疑わしめるごとき感情の興奮による電文の遣り取りがあ るが、 これは元来の性格的のもので あって軽躁性の一時的の反応であっ て、 その原因は全く環境性のもので、 一過性反応に過ぎない。 従って法曹界のいわゆる心神喪失はもちろん、心神 耗弱状態にも相当しない正常範囲の環 境性反応である。 2. 現在の精神状態は全く正常である。 附記:現在、精神状態全く正常なり といえども心身の疲労、直ちに法廷な どに出席することは尚早であろうか ら、暫く静養されたがよい。 と口頭で 追加した。 (それは若し法廷で争うこ とになれば、悲劇の主人公は複数にな りかねぬことをおそれたからである) ?? 山下實六「インパール作戦における 烈兵団長の精神鑑定」『九州神経精神 医学』24巻1号 1978年4月 精神病ではないと言う診断について山下は 「我等の鑑定の結果は林軍司令部 の期待 に添えなかった」と述べている。 マニラに 戻って梛野軍医長に事実を報告したが、軍 医長もよく理解した。 佐藤自身は精神病で はないと言うことで、後は法務部の作業と なったと言う。 佐藤は、後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がイ ンパールの悲劇を招来したのである」という言葉を残している。
自分達への責任追及を恐れた陸軍の中枢 だった者たちにより、戦後も長い間、 イン パール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら三人 の師団長が共謀して招いたものとされて非 難を一身に浴び続けた(いわゆる「統制前 進論」)。 晩年の佐藤を知る乗慶寺の住 職だった阿部博邦も、「独断撤退した不名誉な軍人」と言う目で見られていた旨を 語っている。 また、阿部は「将軍は一切弁 明しませんでした。戦死者の家に出向いて は黙って焼香していた後ろ姿が目に焼きつ いてます」とも語っている。 これを裏付け る扱い振りとして毎日新聞は山形県内の著名人を網羅した『山形県大百科事典』にも その名前が出てこないことを例示している 。 しかし佐藤らは将兵の生命を救う ために尽力し、また自身の判断が正しいこ とを強く確信していた。 佐藤は1959年(昭和34年)に病死するまで、自己の処置の正 しさを主張し続けた。
また、佐藤の精神状態に対して「発狂」と 書名に明記した出版事例がある。 1953年 に文藝春秋社 より出版された 秋山修 道『「烈」師団長発狂す』と 1966年に牟田 口批判を基調として出版された高木俊 朗『抗命―インパール作戦 烈師団長発狂 す』である。 高木の著書が1976年にタイト ルを変更せず(副題の「烈師団長発狂す」 は削除)文庫化された事を機会に、 これら 2冊の佐藤の精神状態に関する内容は事実 ではないことが鑑定に当たった精神科医、 山下により名指しで指摘されている。 実際 の鑑定結果により正常と診断したことを 以って山下は「佐藤中将の人権を守ってあ げたことになった」と述べている。 しか し、高木の書などは商業的にはロングセ ラーとなった。 なお、山下が佐藤と接した のはこの時の数日に過ぎないが、戦後の回 顧では理知的な印象や将軍らしい威風につ いて縷々述れており、 「寧ろ今考えてみる と佐藤中将は現代的な感覚の持ち主だっ た」と書いている。
インパール作戦での抗命撤退によって命を救われた部下は、多くが四国出身者であっ た。 そのため佐藤に感謝する元兵士らの戦 友会によって香川県高松市に佐藤を悼む碑が建立された。 また山形県庄内町にも同様 の碑がある 。 庄内町乗慶寺の方の 顕彰 碑は「佐藤幸徳将軍追慕之墓」と銘打た れ、次のような碑文が刻まれている。 つわものの生命救いし決断に 君は問 われし抗命の責め インパール作戦のインド国コヒマ攻略 戦において将軍の撤退決断により生か された我らここに感謝の誠を捧げる 昭和六十年九月十六日 第三十一師団 生存将兵有志建之 ?? 「抗命 将軍の「遺言」」『毎日新 聞』2005年8月1日 防衛研究所 図書館は「第73回 [史料公開 ニュース]」(2006年6月)にてインパール作 戦関連の資料公開を行った。 佐藤による戦 況報告のほか、師団参謀・山本少佐により 終戦後作成された資料、作戦に参加した他 の2個師団の戦闘状況と合わせての公開で あった。 2009年にはBBCのジャーナリスト 、ファー ガル・キーンが来日し、佐藤に関する取材 を行った。 今後日本とイギリスの戦争に関 する本などを出版する計画だと言う 。 子息は、もと防衛医科大学校麻酔学教授・ 臨床麻酔学会会長の佐藤哲雄。 本家は佐藤 成彦が継いでいるが抗命の件について 「戦時下と言う時代を考えれば、自らの信念で 行動したこと自体すごいことだと思いま す。今だって簡単なようで難しい・・・」 と 取材に答えている 。
第十五軍高級参謀の木下秀明大佐は、退却 して来た三十一師団参謀長加藤国治大佐と 面会した時の状況を回想録で次のように記 している。 『その晩、佐藤師団長罷免の軍 命があったので朝これを加藤参謀長に告げ たところ、加藤大佐は、今は上官ではない から事の真相を話そうといって、 師団長の 態度及び処置について一切を詳しく私に打 ち明けて、統帥上、軍紀上、軍律上の痛憤 止まる所を知らないと、真に憤慨した。』 インパール作戦時には、上司の牟田口中将 とだけでなく、部下の第33歩兵団長であ る宮崎繁三郎 少将とも折り合いが良くな かった。 宮崎は、食糧が十分でない前線部 隊にまで佐藤が慰安所を設けようとしたことや、宴席で率先して猥談をしたこと、公 然とインパール作戦の失敗を予言していた こと、 テント暮らしの兵士を尻目に 数寄屋 造の豪華な師団長宿舎を造らせていたこと などを不快に感じていた 。
佐藤幸徳中将(第31師団長)は、ビル マからインド方面に攻勢したインパー ル作戦に従軍しました。 戦況は苦しく 補給が途絶した状況で、上長の第15軍 (司令官=牟田口廉也中将)の命令に 反して独断撤退をした師団長です。 こ の独断撤退は、師団の全滅を回避した という評価とともに、独断撤退という 命令違反に対する非難もあります。 このときの佐藤幸徳中将の失点に注目 するとしたら次のようなものがいえま す。
@31師団主力の独断撤退によりインパ ール作戦の失敗は確定した。 A佐藤幸徳中将は指揮下の宮崎支隊( 第31師団歩兵団長=宮崎繁三郎少将) を 前線のコヒマに残したまま、宮崎少 将にほぼ無通告で転進した。 B31師団主力は、コヒマ攻略中の宮崎 支隊に対する協力に消極的だったこと 。 C31師団の転進と宮崎支隊のコヒマ前線の壊滅によって、 コヒマの南のインパール周辺で戦闘中の15師団主力の無 防備な側面がイギリス軍の攻撃にさらされたこと (31師団の転進が15師団の壊滅の原因となった)。 D命令違反して撤退したという事実に 対して、牟田口廉也中将の補給計画と 作戦指揮に問題があったのだと主張し たこと (どのような正当な理由があろ うと命令違反であることは事実)。
上司の牟田口中将とは以前から不仲で 作戦そのものにも反対の立場だったた め、 作戦指揮は終始消極的だった、と いう評価もあります。 牟田口中将の作戦構想も指揮能力にも たしかに問題があるとは思いますが、 佐藤幸徳中将にも批判されるポイント はあるように思います。 とくに師団長 という要職にある人物が命令違反をす るというのは、 日本軍全体の結束に深 刻な亀裂を生じさせたといえるでしょ う。 まして置き去りにされた宮崎支隊 や、見殺しにされた15師団に所属した 将兵にとっては、 複雑な気持ちがあるものと思います。 私の親族に宮崎支隊に所属した人がい ました(故人)が、 生前は牟田口中将 だけでなく佐藤中将をもひどく非難し ていたように記憶します。
それまでの慣習として、陸軍は佐藤中 将に自決を望んでいたものと推測され ます。 というのも、軍法会議にかけたとしても陸軍刑法の抗命罪と敵前党与逃亡罪 で死刑は免れません。 さすがに陸軍中将という高位者を死刑 にするのは国民士気のうえでも得策で はありません。 しかし、佐藤中将はインパール作戦の 敗戦の責任者である牟田口中将を道連 れにするつもりでいましたから軍法会議を望んでいるわけです。 本人には自 決する気はまったくありません。 佐藤中将を軍法会議にかけるとなると 、インパール作戦の実相が記録に残っ てしまうわけです。 さらに牟田口中将を軍法会議に召還すると、インパール作戦の補給問題に話題が及びます。 そうすると困るのは参 謀本部、南方軍、ビルマ方面軍にも及 びます。 インパール作戦はそもそも不 可能ではないか、とは第15軍の上のビ ルマ方面軍でも、その上の南方軍でも 、 そして本国の参謀本部でもある程度 わかっていたことなのです。 しかも作 戦前に第15軍の牟田口中将の要求した 兵站組織(後方の補給・輸送・衛生など の各機関)の数値を かなり削減して作戦 案を添削したのも参謀本部や南方軍や ビルマ方面軍なのです。
佐藤中将を軍法会議にかけるというこ とは、それらすべての責任をあきらか にすることも意味します。 これらの都合から、佐藤中将は精神障 害ということで処理されました。 独断 撤退のため解任された後に佐藤中将は 、第15軍司令部に立ち寄り牟田口中将 を斬殺しようとした(牟田口中将は直前 に退席して逃れました)という事実も、 この精神障害という判定には好都合で した。 予備役編入・即日召集という方法で司 令部付という形で待命状態(事実上の監 視下)におかれることになりました。
続きが気になるなぁ。 佐藤さんの立場の方がわかる。 いくら軍命でも、補給するする詐欺だし。遅配と違い、最前線に手ぶらで突撃。 後方からの支援があれば進軍したよね。 三國志にも同様の話があるね。 独断によって取り残された他部隊。 その犠牲によって生き延びた方々。 作戦の舞台となった街に住む人達にも命がある。 どちらがというのは誤りで。 最期は命を捧げろと。 原子爆弾が人間相手に使われて終戦。 戦中は言論統制による弾圧。 言いたいこと言ってたら命はない。 幸せだろ?
Yahoo!知恵袋だから、これ以上はないお?
ビルマとインドとの国境の山岳地帯 を突破する作戦であったインパール 作戦は 何万人もの多くの犠牲者を出した無 謀な戦いであったと戦後非難されて いる。 イギリスが支配していたインドから 中国戦線への軍需補給ルートを断ち 切る というのがインパール作戦の目的の 一つであった。 しかしもう一つはビルマからインド へ抜けるルートを通って、インド平 野へ なだれ込み、英国支配を打破しイン ドを解放する作戦でもあった。 日本軍とチャンドラ・ボースが率い るインド国民軍が協同して戦ってい る。 インパール作戦などでの日本兵の犠 牲が結果的にインド独立につながっ て いる。 このため、インドは親日感情 をもっているが、このことは日本で は あまり知られていない。 インド人の映画監督が今秋、第2次 世界大戦で日本軍が大敗を喫した インパール作戦の激戦地、インド北 東部マニプール州で、おじの日本兵 の 足跡をたどる女性を主人公にした映 画を制作する。 この映画監督モーヘン・ナオレム氏 は、次のように語っている。 「マニプール州の人々には日本人と ともに戦った記憶がある。 日本は今も多彩な援助をしてくれて おり、日本人に親愛の情を示したい と 思っていた」
【ニューデリー=岩田智雄】イン ド人の映画監督が今秋、 第2次世界大戦で日本軍が大敗を喫 したインパール作戦の激戦地、 インド北東部マニプール州で、おじ の日本兵の足跡をたどる女性を主人 公に した映画を制作する。 気品にあふれ た真の日本兵の姿を伝え、現地の人 々 の記憶に残るエピソードを紹介した いという。 メガホンをとるのは、モーヘン・ ナオレム氏(34)。 「マイ・ジャパニーズ・ニース」( 私の日本人のめい)と題された作品 では、 インパール作戦で戦った日本兵のめ い「アサダ」が戦後、現地を訪れる 。 すると、おじが夢の中である村を訪 ねるようアサダに呼びかける。 そこでアサダは、日本兵らが残した 数々のメモや日記を発見するという ストーリーだ。 インド人の手でこうした映画が制 作されるのは初めてで、撮影は 9〜10月ごろに始めるという。 た だ、「日本兵の記憶が徐々に 人々から失われている」といい、「 まだ知られていない話を集めて 映画で伝えたかった」と撮影にかけ る思いを吐露した。
また、「欧米では日本兵の残虐行 為や犯罪に関する話が書き立てられ て いるが、日本兵はもっとも気品があ り親切な心を持った人々だった」 としている。 ナオレム氏は同州での公開後、日 本での上映に向けて協力者を探して いる。 アジア各地での発表も模索している という。 アサダ役には、大阪府箕面市のモ デル、浅田結有(ゆう)さん (23)が挑み、今回がデビュー作 。 浅田さんは電話取材に 「インパール作戦のことは何も知ら ず、今回勉強した。 日本の若い人に も 知ってもらえるきっかけになれば」 と話した。 日本軍は1944年のインパール 作戦で、連合国側の中国への補給路 を断とうとしたが、無謀な計画のた めに敗れ、多くの戦死者を出した。 現地で取材中のナオレム氏は産経 新聞の取材に「マニプール州の人々 には日本人とともに戦った記憶があ る。 日本は今も多彩な援助をしてく れて おり、日本人に親愛の情を示したい と思っていた」と答えた。
「貴官に敬意を表する。自分はマレ ー、インドに20数年勤務して来た。 しかし、現地人に対して貴官のよう な愛情を持つことが遂に出来なかっ た…」 英国はインド国民軍の約2万名を、 反逆罪で軍事裁判にかけようとしま した。 しかし、ガンジー、ネルーらの国民 会議派は、「インド国民軍将兵は、 インド独立のために戦った愛国者で ある」と反発し、反英運動を繰り 広げました。 英国植民地政府は、第 3回法廷でINA全将校の釈放を決定 、 そして2年間にわたる弾圧をはね返 し、インド人は自らの手で独立を 勝ち取ったのです。 戦後インドは、日本に対して大変友 好的な態度を取っています。 インド政府は戦争賠償の請求を放棄 し、また東京裁判ではインド代表 パール判事が「日本無罪論」を唱え ました。 パール判事を日本に送った ネルー首相は、日本が独立を回復す ると、日本の国連加入を支援して くれました。 インド独立の道を切り開いた藤原少 佐らは、 「インドの独立は、日本のお陰で3 0年早まった」と、 インドの人々か ら 感謝されています。その感謝は、現 在も絶えることがありません。
平成10年、インド国民軍(INA )全国委員会は、靖国神社に感謝状 を奉納しました。 そこには「インド 国民は日本帝国陸軍がインドの大義 のために払った崇高な犠牲を、永久 に忘れません。 インドの独立は日本帝国陸軍によっ てもたらされました。 ここに日印両国の絆がいっそう強め られることを祈念します」 と書かれてあります。 私たちは、大東亜戦争において、被 抑圧民族のために尽くした日本人が いたことを心に留め、英霊の安らか ならんことを祈りたいと思います。
(前文) ある古兵の記録文が、I大隊本部事務局の手許に保管されていました。 その記事は余りにも断 片的で前後の関係も判別が困難であり、しかも文中に、負傷して捕虜となったショッキングな内 容が含まれており、今日まで記録文の公表を躊躇されておりました。 戦時中の兵は、戦陣訓により徹底的に教育され、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚 名を残す勿れ」を金科玉条として、捕虜となることは兵の最大の恥辱であり、一家の不名誉とい われた。 シベリヤに抑留されていた第二次世界大戦の日本の捕虜が続々と帰還して行くのに、「ノモン ハン」戦の捕虜は内地に帰らず、シベリヤの地に骨を埋めたという。 又硫黄島をはじめ玉砕地の 将兵は自殺的な「万才突撃」を強制され、一兵も残さず戦死した悲しい事件が数多く存在する。 いたずらに精神主義を振りかざし、人権や合理性を忘れ死を美化した時代は恐ろしい。 捕虜の人権は国際協定で保障されており、欧米では敵に近接するまで戦ったということで名誉 なこととされている。 日本帝国では兵の投降をきらって、捕虜に関する国際協定のあることさえ 知らせず、いたずらに兵達を死地に追いやった。 戦後に帰還した捕虜の大半は、民主制度に一八〇度転換したにも拘わらず、 捕虜の身分をかく して窃かに暮らした人も多く、世間から隠れて暗い人生を送っている人もいる。 この記録を書いた古兵は、タイトルに「俺は正しい」と云っている。 自分の意志を発表し、長 年秘匿していた事実を書き、捕虜も人間だと主張したいのであろう。 長い間のうっ積した暗い気持も、発表することにより肩の荷が下りたようにホッとしたことで しょう。 私は彼の気持を推察して会報に投稿しようと思いました。 トツトツとした文章の中か ら、古兵の内面的な苦悩を知って頂ければ幸いです。
俺は正しい (一)インパール戦の長い敗退も終わり、マンダレーに終始したのは、昭和19年12月であった。 俺は本部の炊事班に所属していた。 俺が茄子の塩づけの水を切っていると、聯隊本部の某書記が 窓から見ていて、 「俺達にはくれぬのか、今に見ておれ」と云った。 集結間もない頃で、何もな い時であったが、聯隊本部の兵にも香の物として渡してある。 茄子も皮をむかねば食べられな い。 二人で一つ位は渡してある筈だ。 それにも拘わらず「今に見ていろ」と云われても、返す言 葉もなく憤然とした。 しかし香の物は何処へ行ってしまうのか? (二)昭和20年1月13日にマンダレーは大空襲を受けた。 高橋重雄兵長が戦死した日である。 そ の直後、将校がきて、二中隊の戦砲隊に行ってくれといわれたが、 石田曹長が留守で返事に困っ ていると、命令だから直ぐ行けと云われ、若い兵隊をつれて前線に行った。 メイクテーラ戦では、二中隊砲列が敵戦車の襲撃を受け、対戦車射撃に任じていた星野少将以 下5名は戦死。 本部炊事班は全滅となった。 その後、大隊本部に復帰し某駅に集合した。 駅の裏 手で板橋伍長に会った。 「生きてろよ。死んでたまるか」と云われて別れた。 (板橋伍長は20. 6.17、トングーで死亡)砲は列車に積んで後退。 俺は徒歩で後退した。 (三)我等はトングーまで来たが、俺は隊長命令で鉄道線に沿って後退した。 (英印軍はトン グーへ4月22日突入)、列車に乗れず徒歩で南に下った。 夜、ピュ(トングーの南約60キロ)か ら列車が出ると聞いて、急行軍で駅に来たが、列車は出た後で間に合わなかった。
あくる日、寺に休んでいたが、夕方頃に敵戦車がピュに来襲した。 兵達は鉄路をわれ先に逃げ た。 夕暮に縦横に走る戦車を見て、全身に水をかけられた思いで、その情景は今でも忘れない。 前に出るべきか、後に下がるか迷っていると1人の兵隊が、俺を追い越して先に出た。 途端、一 発の銃声が夜空に響いた。俺は線路より飛び下りた。 兵隊は苦しそうに呻いていた。 夜が明けた。 右手の鉄道線方向より敵戦車が近づいて来る。 俺はこれまでと草むらに入って、 日記、金など全部やぶった。足も痛い。 現地人(ビルマ反乱軍・カレンゲリラ)に殺されて、鳥 の餌になるより弾に撃たれたい。 敵が近いので移動ができない。 草の中に寝ていたら、自動小銃 を持った敵兵5人がやって来た。 俺に銃を向けたが「撃つなら撃て」と寝ていたら、そのまま 行ってしまった。 夕方になったので、とぼとぼと歩き始めた。 突如暗闇の中、頭の上で銃声。 余りにも近いので 顔前が見えず、その場に転倒する。 追いかけるように、又一発足を撃たれて歩けない。 「撃って くれ」と云ったが、それも駄目。 4月29日、残念ながら捕虜となり、そのまま運ばれ天幕の中に 寝かされた。 若い日本兵が、めしを運んでくれたが食う気もない。 このまま食わずに死ねるもの ならと、もう一週間も食わない。 しかし、なかなか死ねるものではない。 若い兵隊が後送されて行く時に、関東弁で「死ぬん じゃァねェぞ」と。 俺は生きていてもいいのかなァ。 町の消防に10年奉仕。 兵隊も8、9年ご奉公。 何にもかも突飛な人生だった。 俺も80歳を越え 何もかも終わった。
(後文) 当時の社会通念では、捕虜は兵の恥であり、一生つき纏う汚辱の行為とされていた。 当時古兵 も捕虜として生き残るべきか、死すべきか、 日夜、心の葛藤に煩悶され、終戦で帰国された後も 胸の晴れる日もなく過ごされたことでしょう。 われわれも終戦後は捕虜として収容されました。 同じ捕虜として身分や待遇に何の違いもありません。 古兵は名誉ある捕虜であり、しかも焼土と 化した日本の復興に寄与した産業戦士です。 どうか残りの人生を胸を張って生き抜いて下さい。 古兵の原文には明確な署名がありました。 私は思案の上、削除することに決めました。 氏名に 拘泥する必要はなく、この古兵が誰であっても良いのであります。 わが一八会の戦友の中にも、 われわれとは違った悩みを持って一生を暮らした人がいたのです。 この事実を皆様に知って貰っ ただけで、古兵は満足することでしょう。 又、勝手気儘に原文を加筆、補筆しました。お許し下 さい。 (I大隊本部 富田 弘) * * * * 不運にも恐怖の軍律の犠牲となって苦渋に満ちた過去を持つ戦友が、数年前私にその全容を書 き綴って送って来た。 迷った挙げ句、富田さんにまとめてもらった。 (I大隊本部 広田一 郎)
シャン州に住むシャン族とかカレン族は、極めて日本人の容姿に似ている。 彼等の生活様式も 明治や大正の世代に我々の家庭で体験したしきたりが、 今もそのまま見かけることが出来、私達 日本人にとって抵抗なく彼等の家庭に溶け込めることが出来るのである。 誰もが今ビルマに旅して違和感があまりなく感じられるのもそのせいかもしれないのだと思 う。 米を主食としている現地の集落では、この地域を流れるサルウィン河の水利に恵まれて、ほと んどの者が農業を営み暮らしている。 しかしその上流では今もなおカレン反乱軍が、ビルマ軍に 抵抗を続けている。 野重九大隊がフォングーより山地に入った折り通過した、パプンの奥地ケマ ビューのサルウィン河の対岸一帯の原生林がその根拠地なのである。 この河の源流は雲南であり、ラオス、タイ、ビルマ3ヵ国にまたがり反乱軍の恰好の隠れ住む 地域といわれている。 終戦に間近い頃、此処を撤退し通過した日本兵は、そのほとんどがインパール靖国街道を生き 抜いた強者であり、更にビルマ中原でも怒濤のように押し寄せる英印軍を迎え撃った激闘の経験 者でもある。 歩兵は弾丸を撃ち尽くし、砲兵は火砲を失い、その総てを消化しきった兵隊達の姿 であった。 不幸にもマラリヤ等の悪疫に罹った者が奥地の集落に溶け込んでいっても不思議ではない。 栄 養失調に40度の高熱の兵士は死の世界の徘徊であり、人事不省の昏睡状態に陥ったままに現地 の種族によって助けられたのはなんといっても仕方がなかったのである。 回復しても離脱の機会 を失い、現地に残ってしまった者が百パーセント未帰還兵となり、公報には行方不明戦死として 扱われてしまった。戦争直後の政府としてはこの処置しか出来なかったと思われる。
幻の日本兵としてすでに日本国籍に無い2人のビルマで暮らしている日本人がいる。 終戦によ り奥地からラングーン郊外の英軍捕虜収容所に移されたが、 当時日本兵の扱いの粗雑さに苦しん でいた、星吉男と北村作之丞の両君は英印軍ともめごとを起こし暴力を振るってしまったのであ る。 絶対服従の収容所では他の者に迷惑のかかるのを恐れるあまり、その夜のうちに収容所を脱 走した。 この運命の一瞬が幻の日本兵を作った原点となったのである。 英印軍の追求を逃れて、ビルマ僧に身を変え、奥地を転々として移り替わり身を隠した。 その 間行き倒れた日本兵の英霊を埋葬した。 集落や寺院を訪れて世話にもなったという。 時の経つにつれ英印軍の追っ手も薄れ、何年か経つうちに彼等も現地人に溶け込んでしまって いた。 時にビルマは独立闘争に突入していた頃だったので彼等も進んで従軍した。 ビルマ軍もか つての日本軍歴戦勇士の参加は両手をあげて歓迎したのだ。 この功が買われて退役後はビルマ国籍も与えられ、ビルマ国よりの恩給も支給されるに至った のである。 星君はラングーン郊外に移り住み理髪店を開業し、ビルマ人の妻と結婚して子どもま で持ってビルマ人になりきった。 一方の北村君は更に奥地に住んで細々と恩給で暮らしていると いう。 彼等の語る日本への慕情は一日として忘れることなく既にない両親の墓参を願う心で一杯だと いうことである。 日本人の血を誇り、常にビルマ人に対する優越感は、ビルマ人もそれを認めて いる。 最近NHKの取材班がビルマのこの様子を取材し放映したが、 ビルマを訪れた戦友の巡拝団も 彼等と会い、生きている英霊に再会している。 出来れば彼等二人を日本に温かく里帰りさせてあ げたいものである。 当時共通の戦線で苦労した友として一日も早く実現させて、 その労をねぎら い「ご苦労さまでした」と申しあげたい気持である。 既に関係当局の周知する処であり条件配置が為されると考えられ、ビルマ全戦協とビルマ英霊 顕彰会を喚起。 今そのレールが布かれるのを期待するものである。 中国残留孤児の肉親捜しと同 様、厚生省の手により実現を期してやまないところである。
田中信男(弓)師団長の田中家と小生の松谷家は、親戚ではなかったが、明治以来、親しく交 際があった。 小生も偶然ではあったが、インパール作戦(弓)師団配属下で戦った一人である。 戦前、小生が祖母から聞いた話では、田中信男氏の御母堂は、幼い頃、旧幕臣で明治維新後、 明治天皇の近従なども勤められて英傑・山岡鉄舟の腕に抱かれたお人だそうである。 田中信男氏の長兄は、木村兵太郎大将未亡人の言によれば、夭折されたそうだが、 次兄の方 は、麹町番町より関東大震災の翌年、我が家が杉並へ移った後、昭和初年頃よりよく出入りして おられた。 田中信男氏が外地(北支方面)へ赴任される際、わざわざ杉並の拙宅へ挨拶に見えられたこと は今でも小生は鮮明に記憶している。 何しろ、あの「美髪(ひげ)」は、とても印象的だった。 その日は平日で、父は勤務のため不在だった。 後の予定がおありなのか、座敷に田中信男氏は お上がりにならず、母が玄関で応接された時、小生も偶然同席した。 田中信男氏は、平服(軍服 ではなく和服)で挨拶に見えられたから、当時の階級を小生は、よく思い出せない。 その折、確 か縦長の大きな花瓶を持参されたことを覚えている。 不慮不測の事態のときの形見のおつもりであったのだろうか。 拙宅は、昭和20年6月頃の空襲で全焼し、現在写真は焼失して無いが、太平洋戦争前に 「木 村・田中両家族」と父一人だけが御一緒に撮られた写真が、我が家には在った。 お伺いしたいことがあって、木村兵太郎大将未亡人にお電話した折、その写真に話が及ぶと、 木村家には現存していることがわかった。 未亡人の言では、田中信男氏か外地へ赴任される折の 写真だったそうである。 木村兵太郎大将未亡人・可縫様は、嫁入り前の短い間、麹町番町の拙宅で、小生の祖母より生 花を習われたそうである。 明治末か、大正の初めの時代のことを、可縫様は明瞭に記憶されてお り、 とても90歳を越えた方とは、電話口で話していて信じ難い程だった。 お元気で若々しい声 で、小生は未だお会いしてはいないが感銘を受けた。 田中家と木村家は、可縫様のお話では、姻戚関係で、可縫様が田中信男氏の姪に当たるそうで ある。
田中信男氏が(弓)師団長に赴任する経緯は、インパール作戦開始後の頃、ビルマに最も近い タイの首都バンコックに旅団長として在勤しておられた折、 陸軍参謀本部泰次長が東条英機(参 謀長兼務)の命を受けて、「南方」方面地域視察の時、バンコックで田中信男氏と会談されたの が契機のようである。 田中信男氏は、会談で暗にインパール作戦を批判され(下線部分は信男氏の長男の言)、 それ なら「お前がやってみろ」と泰次長が云われたのが端緒だそうである。 あの当時、前線の情勢は、林司令部でさえよく把握できていなかったし、小生には真偽の程 は、よく理解できないが……。 田中信男氏と木村兵太郎氏は、前述の通り姻戚関係だった。 当時、中将の木村氏は、東条英機 とは「ツーカー」の仲で、名目上は陸軍次官だったが、その頃、東条がすべての権限を兼務して いたから、 実質上は陸軍大臣ともいえ、赴任は決定的というより外ない環境だったともいえるの ではないだろうか。 小生の早稲田大学の先輩に当たる高木俊郎氏のルポルタージュ『インパール』四部作にある (小生もこの労作は高く評価するが) 「牟田口将軍の東条への泣きつき云々」よりは、数段決定 的環境に在ったともいえるのではないだろうか。 田中信男氏が旅団長格の少将のまま、師団長心得として、少将・師団長が実現したのである。 非常の処置ともいえる。 この昇任は陸軍史上、明治初期の時代を除いて陸士卆のみでは正に異例 だった。 戦争中、田中信男氏と木村兵太郎氏と小生が「ビルマ作戦」という戦勢すこぶる厳しい環境の 仲で、至近の距離にあったことや、 我が家と親交もあったことを含めて考えてみると、これは“奇 蹟と偶然”であった感慨が深い。 当時、特命によりホート・ホワイトに残留していた小生の手元に、木村兵太郎陸軍次官の特別 な配慮で父の手紙が届いたこともある。 いずれにしても、小生が無事生還できたのは、皆様と同じく“奇蹟と偶然”の連続、そし て“運”だったとしか思えないのだが……。 機会があれば、稿を改めてビルマ作戦に従軍した小生と木村兵太郎閣下、田中信男閣下との位 置関係について是非詳述してみたく思っている。 (元第1大隊本部指揮班)
昭和19年7月15日、インパールのビシエンプール正面、軍の撤退に火砲の撤去は困難を極めて いた。 この朝牽引車の到着が遅れ、遂に火砲を爆破した。 この責任をとりその報告をするためわ が真山連隊長は、雨に濡れた山の小路を辿り、モイラン西方の竹林の中にあった戦闘指揮所に田 中信男師団長を求めた。 この時がわが連隊長と田中師団長と顔を合わせたのが最初である。 随行 の将校は根本副官と前園中尉(現一八会会長)であった。 インパール作戦の第33師団長として激戦の前線で悲観論を唱え過ぎると前任柳田師団長と交代 し強気に師団の撤退に臨んだが、 優勢な敵の兵力、兵器に対し、劣勢な兵器、疲労しきった残り 少ない兵力の後退は、苦悩そのものであったろう。 まして150哩以上にも延びた補給は、食もな く弾丸もなかった中での作戦だったのである。 田中師団長は、わが真山連隊長に、「早まったぞ連隊長、次の作戦における軍砲兵の立場がわ からんか。本国から孤立したいま、火砲は何としても持ち帰らねばならん……」と叱った。 軍は 改めて兵器資材の後送を強制した。 このためどれだけの将兵の命が失われた事か。 その持ち帰っ た火砲も、その後のイラワジ会戦で敵戦車と刺し違えて次々と失っていった。 ここにも大きな将 兵の犠牲があった。 いま湾岸戦争で知るように制空権を失った装備の劣る軍団は、如何なる名将の作戦指導でも勝 つ事は出来ないのだ。
インパール作戦のウ号作戦が発動されると、インド民族運動の指導者チャンドラ・ボースは、 3ケ師団の兵力を編成「進めデリーへ」の合言葉で、日本軍とともに印緬国境を越えて、一部は 印度領に入った、という。 インパール作戦は無謀極まる構想であり、当初心配された通り補給が続かず、やがて来る恐る べき雨期の中を多くの犠牲を出して敗退した。 日本軍がこの状態だっただけに、印度国民軍に対 する糧秣は悲惨を極め、餓死者が続出し、 生還者は一割にも達せず文字通り生命をかけた「独立 戦争」であった。 チャンドラ・ボースは、日本の敗戦により、その運動をソ連に求め、 大連行き を目ざしたが、台北で離陸の飛行機事故で死亡した。 今はインド独立の国民的英雄としてデリー のレッドフォートの前に巨大な像が建てられている。 このインド国民軍のインド進攻、インパール作戦に於いて、私が奇しくも関わったことを想い 出し、往事を偲んで書いてみた。
ポノマリ軍曹の一行3名の印度国民軍所 属の下士官が、わが野重18連隊に配属さ れたのは昭和19年1月で、彼らはカレワ に駐留中の連隊本部に到着した。 私は本来は第二大隊本部所属であった が、18年2月、連隊の主力がビルマの中 央、エナンジョン警備のため、 タウンジー からこの地に移った際、情報係として連隊 本部に出向していて、インパール作戦開始 まで、連隊本部で勤務していたのである。 杉本連隊指揮班長の命令で、この印度下 士官を私が一時預かった恰好になったが、 その3名は下士官待遇とのこと、 目的は印 度進攻に備えて通訳・情報収集など、軍の 行動を円滑にするための仕事で、本部各大 隊にそれぞれ1名ずつ配属するとの話で あった。 親分格の曹長はもう名前も忘れたが、体 格もよくスマートで、動作もキビキビして いたが目付があまり良くなかった。 ポノマリ軍曹は若々しく矢張りキビキビ した顔立ちで、この男は使えるな、が私の印象だった。 伍長はこのポノマリ軍曹の兄貴であるが 顔立ちは似ておらず、人相も余り良くなく、立派な口髭を生やしているが動作は鈍い。 ポノマリ 兄弟は一見してヒンズーと判る動作だったが、聴けばみなヒンズー教徒で、出身は印度中東部オ リッサ州とのことであった。 彼等は日本軍のビルマ進攻後に編成されたインド国民軍に志願し、 日本語と日本軍事訓練の教育を受けて、 情報係として日本軍に配属され、野重18(連隊)へ来た わけである。 他の部隊にも仲間がいるとの事だった。 話してみると日本語は何とか用が足せる位は判った が、英語はほとんど話せず、ヒンズー語は勿論話せた。 印度の公用語はヒンズー語と英語であ る。 現在でもそうだが、印度は各州ごとに言語があると言われる位に方言の多い国で、始末が悪 い。 印度人同士でも全然通じない場合もあり、一番通じ易いのは英語だと言われていた。 ポノマリ伍長(兄)は立派な髭を生やして押し出しはいいが、日本語は余り判らず、動作も鈍 い。 ただ真面目そうであった。
指揮班長に報告し、19年2月にこの3名を連隊本部1名、各大隊本部へ1名ずつ配属した。 ポ ノマリ軍曹は兄と別行動をとることを不安がっていたが仕方がない。 曹長が連隊本部、軍曹が第 二大隊、兄貴の伍長は第一大隊本部であった。 私はそのとき連隊本部への出向が解かれ、原隊の 第二大隊へ復帰したので、ポノマリ軍曹を伴ってヤザギョウの二大隊本部に復帰した。 ポノマリ軍曹は念願のインド進攻が叶い、祖国独立も間近かと言って張り切っていたが、私は 作戦前からの物資の不足や戦力の圧倒的な違いなどを併せ考えて憂鬱だった。 が、ポノマリ軍曹 に対しては適当な返事をして、早く日本語(軍用語)をマスターしてくれと言っていた。 「何だい、その印度人は……」久し振りに原隊に帰った私は、ポノマリを連れていたので皆か ら好奇の目で見られ、質問された。 葭葉隊長にも報告したが、皆は余り彼の実用価値を認めていないようだった。とりあえず私と 二人は小屋を作って共同生活を始めた。 一応は経理室付として、食糧収集の手伝いでもやらせよ うと言うことにしたのだが、意外にも彼は調理に腕前を発揮した。 ヒンズー教徒としての彼は、戒律を守ることには厳で、絶対に牛肉は食べないと宣言し、 事 実、作戦中でどんなに食糧が窮迫していても牛肉には手をつけようとしなかった。 食べられる野生植物を、またよく知っており、よく教えてくれもしたし、油いためなどにして 食べさせてくれもしたし、油と香辛料の使い方はうまいものだった。 オリッサ州地方の貧しい農 村生活が、彼に生きる智恵を与えてくれたのだろう。 作戦開始の時には、別れて彼は経理部にいたが、19年5月初旬、我々の隊は山本支隊から離 れ、 弓師団の中央突破隊に合流すべく山を下り、再び山へ入りデイデム、トンザン経由、イン パールを目指した。 そのとき既に連隊本部と二大隊とは第一線に進出していた。 苛烈極まる戦線への第一歩が、こ のとき始まったのである。 トルボンの隘路口が敵に抑えられたとの情報に、暫く待機し、後方からの射撃準備が完了した 5月ごろ、恐るべき雨期は既に始まっていた。
この時点で私は久し振りにポノマリ軍曹と再会し た。 経理部で食糧調達に活躍しているという話だった。 もう此処ではヒンズー語で万事OKだと 判って元気な様子であり、大半の兵隊が半病人のような中で、彼の動作はキビキビと頼もしい限 りであった。 幾日かしたある日、経理部で一頭の水牛を捜し出して来た。 重さは半トンぐらいもある立派は ヤツである。 早速それを料理すると決まった。 水牛は樹に縛りつけられ、十字鍬を手にした力自慢のS上等兵が、眉間を目掛けて振り下ろし たのである。 物凄い唸り声をあげて水牛は暴れ狂ったが、遂に力尽きて血の海の中に倒れ終わ り、 我々は久しぶりのスキヤキ(?)に、天にも昇る勢いで解体にとり掛かった。 私がフト気がついて見ると、ポノマリ軍曹の姿が消えていた。 シマッタと私は気がついた。 敬 虔なヒンズー教徒の彼にとっては目の前のこの惨劇は到底許されることではない。 どこかへ使い にでも出しておけば良かったと悔やんだがもう遅い。 彼はこの光景を遠くから見るなり、血相を 変えて姿を消してしまったと言う。 案じている私の前に悄然と戻って来た彼を見てホッとしたが、彼は私に肉を喰ったかと問い正 した。 喰ったという私の返事に暫く黙っていたが、「もう私は班長の飯盒は洗わない」と悲しげ に呟いた。 神聖な牛の血のついた飯盒など洗えないとの意味である。 思いつめた顔色の彼の前 で、私は何も言えない、ただ黙っているだけだった。 そのまま幾日も元気を失ってしまっている彼を見て、私は彼が脱走するのではないかと考え将 来を案じていた。 その頃、彼は頻りに第一大隊にいるであろう兄伍長の消息を聞きたがった。 私もそれとなく消 息を確かめてみたが、どうも様子が変である。 兄は行方不明になったらしいとの噂だけだった。 しかし私は「元気で頑張っているよ」以外には言いようが無かったのである。 19年7月から始まった「白骨街道」の悲惨な状況は皆さんの頭からは永久に消える筈もない事 だろうが、 私はこの言語に絶した苦難の中を、ポノマリと共に街道を下っていた。 作戦が変わっ てアキャブ方面への転進だと、ごまかすだけが精一杯だった。 もう私には、彼がこの凄惨な苦難に耐えながら、日本軍と行動を共にしている事が不思議だっ た。 脱走する気にさえなれば、いつでもその機会はある。然し彼はこの中でも、日本軍の必勝を信 じていた。 「日本軍は勝つ。我がインドは必ず独立する。そして自分はインド軍の将校になる」 彼は自信に満ちていた。 私は彼の純真さに、自分自身が恥ずかしくて堪らなかった。 19年10月、カレワを渡河した我々は、一時曙村に待機していた事があった。 ポノマリはこの時 でも忠実に従って来てくれていた。
そして或る日、「兄に逢いたい。いま何処にいるのか」と思 いつめた目差しで私に迫って来た。 もうポノマリに嘘などつけない。 今まで適当にあしらって来た私でも、この純情一途なポノマ リに嘘などつきようも無い。 「良くは判らないのだが、撤退の途中で行方不明になったのは事実 らしい。いつか戻って来るだろう」と告げるのが精一杯だった。 「本当か、それは本当か」と真剣な彼の前で、もう私には言うべき言葉など何も無かった。 噂 では、あの二人はどうも投降したらしい……のだが、これだけは言えない。ポノマリと私との間 に気まずい何分間が過ぎた。 と、突然彼はアンベラの床に転げ伏して、ワーワーと号泣し始めた。 私はただ黙って立ちつく すだけである。言葉をすべて失ってしまっていた。手足をバタバタとさせて号泣し続ける彼、言 葉もなく見守るだけの私。 暫くして、泣き止んだ彼は、静かな、静かな声でお経を唱え始めていた。 もちろん私には判る筈もないが、観音経のようなものらしい。抑揚を押さえた沈痛な静かなお 経が続いていた。その時はもう、彼は端座していた。 10分ほども経ったろうか、お経を唱え終わった彼は、私に向かって丁寧にお礼の言葉を述べ た。どうやら心の激しさに一応のケジメをつけたらしい。 私はただ呆然と立ちつくしていただけ だが、彼の兄弟愛のひたむきさに深く心を打たれていた。 彼と私はマンダレーまで遂に行動を共にした。部隊の再編とともに、彼は除隊となった。 「残 念だ、残念だ」と頻りに繰り返しつつ、彼は知り合いを頼って私と別れて行った。 五百円が彼の 退職金だったのを私は覚えている。 彼の若々しい、純朴そのものの姿が今でも髣髴として私の眼前に浮かぶ時がある。 ああポノマ リ、生きていてくれ。生きていてくれれば、君は71才の筈である。(完)
自爆した砲身の奇蹟の発見 インパールの戦いで満身創痍、撤退に転じた十五軍はどこまでも追いすがる敵に苦しみあえい でいた。 マニプール河に囲まれた要害の地トンザン部落を死守する弓二一五部隊に協力した我が 野重一八連隊の第二中隊(林中隊長)は十加、十五榴の2門で布陣し、ここを最後の場と思い定 めていた。 しかし、物量、装備、兵力ともに圧倒的な優勢を誇る敵はいつか我が守備陣を完全に包囲し、 数次の激闘のあとようやく脱出したのは昭和19年9月19日のことだった。 あのインパール戦から正に50年、この戦闘で散華した第四中隊の三浦鎌太郎伍長のご子息、次 男の重信氏が弓山砲三三連隊の一行に同行し、次に掲載する一文を寄せてくれた。 誕生以来、抱くことどころが対面すらも叶わぬままにこの地に激闘戦死された父君ゆかりの地 を訪れた感銘もさる事ながら、 包囲脱出の際に無量の感慨をこめて我等が爆砕した十五榴の砲身 が発見されたとは……。 これはもう奇蹟としか言いようの無い事実なのである。 それが遙か50年を経てご子息の巡拝の 折に、仮に定めた慰霊祭の祭壇であったとは……。父と子の深い「えにし」に改めて驚嘆させら れるのである。 十加、そして配属の十五榴、これは我らの分身であった。戦闘の間にも、日夜磨きに磨いた我 が魂でもあった。 遙か彼方、インパールの地に今も眠って我らの再訪を待っていようとは……。 無事に残っていてくれ、そして未だ帰らぬ我らの友の霊魂を護っていてくれ、との熱い思いを 禁じ得ない事実である。 昭和50年1月、第一回ビルマ遺骨収集団に加わり、この地、トンザンを訪れた石上副会長は、 不思議な霊感にあってもう1門の十加の砲身を発見し、その写真は既に発表されている。
私は、自分の父親のことをほとんど知りません。 昭和16年3月に私が生まれた時、父は既に召集され 軍隊に入って居り、その後インパール作戦に参加 し、昭和19年ビルマの山奥で戦死したという事だけ 聞かされていました。 それから50年、父親のことは 申し訳ない事ですが生きて行く為の雑事に追われ、 春、秋の墓参りの時以外はあまり思い出す事も無く 過ごして参りました。 50年目に当たる12月、野重十八連隊・石上さんを 始め、いろいろな方のお陰で父親が望郷の思いを抱 きながら最期となった場所に行ってみたいという夢 が実現することになりました。 父は野重十八連隊・ 第四中隊に所属していた三浦鎌太郎、戦死して伍長 になったとの事なので、激戦の中では最も苦戦を強 いられた兵士だったと思われます。 今回の旅程はヤンゴン〜マンダレー〜メイミョー 〜カレミョー〜ティデム〜トンザン〜カレワ〜モー ライク〜モニワ〜サガイン〜メークティラ〜ミン ジャン〜パガン〜ヤンゴンと15日間にしては私に とってもかなりハードスケジュールと感じたのに、 同行して頂いた山砲三十三連隊の現役だった方々は 戦友を思う気持ちのせいか疲れた態度も見せず、本 当に頭が下がる思いでした。 各地で慰霊祭を行い無 事に50年目の親孝行が出来たのでは……と心に区切 りを付けることが出来ました。 今回の巡拝の旅にあたり、私は3つの目的を持っ て参加致しました。 (1)父親が死んだモーライク県オポ村に行って“霊”と対話して来たい。 (2)父親が戦地から送ってくれた一枚の写真(メイミョーの時計台)の場所に行き、同じ角度 で写真に収まりたい。 (3)何十万の人達が故郷日本の事、父母、兄弟の事を胸に抱きながら、わずかな望みを抱いて 歩いた白骨街道をこの足で踏み締めたい。 以上でした。
まず、2日目にスケジュールの変更からメイミョーに行く時間が取れて「あの時計台」を見る ことが出来ました。 同じ場所で写真を撮ったところ、50年前とまったく同じ建物が背景にあった のに驚かされると共に、父がどんな気持ちでこの場所に立っていたのかを思うと熱いものが胸に こみ上げました。 5日目にはカレワからチンドウィン河を高速船でモーライクへ6時間の船旅でしたが、 父親が 最期の地となったこの周辺に、戦後日本人が訪れるのは初めてである……と聞かされて、苦労し てもここまで来て良かったと思いました。 オポ村の入口付近で慰霊祭をして今まで来ることが出来なかった「おわび」をし、泣くのは止 そうと思いながら上陸したのですが、 もう声にも涙にもなりませんでしたが、胸につかえていた 「もやもや」を晴らす事が出来ました。 第三の目的はトンザンからティデムに至る夜道の途中、車両故障のため真っ暗な街道に置き去 りにされてしまいました。 空には無数の星があたかもこの地区で無念にも命を落とした英霊が 我々に話しかけているような気持ちになり……。 たぶん退却の時期は激しい雨期で昼間は道路に も出られず夜間の行動だったと聞くと、 霊が我々をすこしでも長く現地に引き止めるように仕向 けた車両故障だったのではないかと思いました。 旅の中で一番の出来事はトンザンで起こりました。 それは夕暮れが迫る中で慰霊祭をするのに 祭壇を作る場所を捜しているとき何か丸太の様な物があり多少の空き地もあったので、そこに場 所を決め、設営していました。 その時同行の人が「何だこれは! 砲身ではないか!」の驚きの 声、今祭壇を作っている下の丸太のような物は大砲の砲身であったのです。 同行の人達は、山砲 三十三の方々なので「これは君の父親の使っていた野重の砲身だよ……たぶん十五榴のものだ な」との重々しい断定の言葉でした。 世の中に偶然の出会いなどとよく聞きますが、こんな偶然ってあるだろうか。 その先端は内側 から爆破されたように無惨にも裂け、激戦を物語っており『砲車の轍』第一号の中に出てくる< 野重十八・第二中隊所属の砲>で、 弓二一五笹原部隊に護られビュシェンプール方面からて来た2門の砲の内の1門・15センチ榴弾砲の砲身だったのでした。
帰国後、写真を役員の方々に見ていただきましたところ、ほぼ第二中隊の十五榴に間違いなか ろうとの事でしたが、 4月に再びミャンマー・トンザンに慰霊に行く方が居られるとの事なの で、砲に刻まれた刻印を確認して頂く事になっております。 今もあの砲身はあの場所で、日本の 砲が訪れて触れてくれることを心静かに待っていることでしょう。 最期に私の父の場合もそうでしたが、ミャンマー等、海外での戦死者の遺骨箱の中は一枚の紙 切れしか入っておらず、 今回両親の墓に入れたいと思ってチンドゥイン河の砂を持ち帰って来ま した。 トンザン・ティデム・モーライクなどの石・砂を多少持ち帰っておりますので、 遺族の方 などでご希望の方がおられれば、お送り致したいと思います。 私も帰ったばかりですが、機会があれば近い内にもう一度巡拝にいきたいと思っております。
インパール作戦をかえりみて(その1) まえがき 今から12年前、昭和45年5月3日に根本さんが会社の慰安旅行で信州の別所温泉に来られ、僕 が旅館へ訪ねて行った事を思い出す。 その時、野重十八連隊史編集の話が出て、連隊創立以来系統立って執筆分担を決めて作りたい との事で、偶々僕に割り当てられた部分がインパール作戦であった。 資料もなく、根本さんから色々お聞きし、又その当時出版された戦記物等を参考にし、記憶を たどり少しづつ書いておいた記録であります。 今インパール作戦を振り返って見ると、現在生きている心とが奇跡であると思う。 このイン パール作戦の後、イラワジ河畔の決戦、得にメークテイラ激戦の模様を思い出すが、今となって は余りに年を経て戦記とするすべもない。 激戦の記録は即ち恥の記録であり、誰も多くを語ろう とはしないが、今回部隊史編集に当たりこのまま眠らせてしまっては、亡き英霊に申し訳ないと 思い、敢えて執筆した次第である。 一、ビルマ進攻作戦に参加 誇り高き我が国府台出身野重十八連隊の将兵一同は、昭和17年2月シンガポール攻略作戦に輝 かしい赫々の武勲を樹て、士気まさに旭日昇天の勢いを持って、満を持して昭南島(シンガポー ル島の日本占領中の名称)の警備と戦場整理に当たった。 昭和17年3月に入り第15軍のビルマ進 攻作戦は、先ず第三十三師団及び第五十五師団の両師団が泰緬国境を踏破し、疾風枯葉を巻く勢 いで英支連合軍を撃破しパコー附近を進撃中であったが、 我が野重十八連隊は命により直ちにシ ンガポール港を出帆し、ビルマ作戦に参加する処となり、アンダマン海峡を通過し、同年4月12 日にビルマの首都ラングーン港に上陸、第十五軍の戦闘序列に入った。 連隊長田村中佐の指揮す る連隊本部及び第一大隊中村少佐は、第五十六師団の指揮下に入りマンダレー街道のトングーよ り東進して、援将ルートのモチ鉱山を突破する。 シヤン州の要所を更に東北方面に進撃してラシ オ攻撃に向かった。 田地少佐の指揮する第二大隊は軍直轄砲兵隊としてトングーを突破してビル マ中央道のタウテ、サジを通過しマンダレー攻撃に向かった。戦局の進展に伴い、 連隊長は第二 中隊長柴田少佐を指揮して、ラシオより中国国境を突破し、雲南省拉孟に突入して怒江周辺の敵 の掃討作戦に参加した。 第一大隊主力は更に北進してバーモへ進駐した。 5月24日田村連隊長は 怒江周辺の掃討作戦に於いて、敵の重包囲を受けた観測所の支援攻撃の際壮烈な戦死を遂げら れ、 連隊将兵一同悲憤の涙と共に宿敵殲滅の決意を新たにしたのである。
二、メイミヨー駐留 17年6月連隊主力は第五六師団の指揮を離れ軍直轄としてメイミヨーに集結した。 連隊長戦死 に依り後任として真山勝中佐をラシオに於いて迎えた。 部隊は昭和18年2月まで中部ビルマの警 備に、第二大隊は大隊長が田地少佐から葭葉平四郎少佐に代わり、西部ビルマ国境に近いイエナ ンジョン油田地帯の警備にそれぞれ当たっていた。 メイミヨー駐留期間は我々の最も思い出多い 懐かしい場所である。 統治は緬支公路の拠点で、日本の軽井沢に匹敵したビルマ国の避暑地で標 高1,500米以上の高原の要所にあり、 当時英印軍、中国軍を遠く印緬と緬支国境以遠に蹴散らして 敵の脅威を全く拭浄し、平和なムードに満ちた避暑地の駐屯生活であった。 治安の戻った避暑地 には、南ビルマの酷暑を逃れて吾々の警備と保護下に参集するビルマ人家族で賑わった。 街では 商店、映画館も開業し日緬親善の交流もそこかしこに見られた。街頭のコーヒー店の山盛りの サービスと、兵站まんじゅうが売られ、内地以上の潤いに満ちていた。 シャン州の餅米は美味 い。正月に桜が満開になり、餅を搗いて祝う。フロートアイランドで有名なシャン州のタウン ジー。 その南に開けるインレー湖は美しい水郷であり、作戦の合間の暫しの回想として甦って来 るのである。 三、ウ号作戦開始前に於ける彼我の状況 昭和17年6月、ビルマ第十五軍はビルマ進攻作戦に於いて、英印支軍を破竹の勢いを以て緬 支、印緬国境外に蹴散らし、次のような態勢で戦線を警備していた。 第十五軍司令部 飯田祥二郎中将 ラングー 第三三師団 桜井省三中将 ジュピー山系及びチンドウイン河流域 第五五師団 竹内 寛中将 北部ビルマ 18年1月アキャブ方面へ転換 第五六師団 渡辺正夫中将 雲南省方面 第十八師団 牟田口廉也中将 ミートキーナ・北ビルマ方面 今年の秋ビルマ領を撤退した敵もようやく態勢を立て直して各方面に反攻の気勢を示し、北部 ビルマのミートキーナ鉄道沿線に対してウインゲート准将の指揮する空挺部隊のゲリラ作戦は執 拗を極め、 又インド洋方面のアキヤブ一帯の奪回を目指す英印軍の海洋沿いの反攻も激烈を極 め、18年以来攻撃を受けている。 米軍スチルウェル中将の指揮する中国軍師団は、インドのアッ サム地方に集結した後にフーコン渓谷を南下し、北ビルマから雲南省へ通ずる新しい援蒋ルート のレド公路を、打開する意図が明らかとなった。 又緬支国境では米式装備に依る中国の精鋭師団 が虎視眈々として反攻を企図していた。 こうした状勢の下にビルマ方面軍は、一軍四ヶ師団の編 成を急遽三軍九ヶ師団に増強し、 18年3月末ビルマ方面軍司令官河辺中将を最高指揮官とし、第 十五軍(三十一師団、十五師団、三十三師団)第二十八軍に三ヶ師団、第三十三軍に三ヶ師団の 編成を終わった。
四、ウ号作戦準備と軍需品集積 ウ号作戦は第十五軍司令官牟田口廉也中将が、配下の三ヶ師団即ち 第三十三師団(弓)柳田元 三中将、第十五師団(祭)山内正文中将、第三十一師団(烈)佐藤幸徳中将の約十二万人の将兵 を率いてインド領に侵攻し、 マニプール州の首都インパールを攻略しようとして敢行した。 十九 年3月8日から、九月末日の間の壮絶な作戦である。 当時南太平洋に於ける戦況は1年前の二月 にガダルカナル島撤退、4月に連合艦隊司令長官、山本五十六閣下がブーゲンビル島上空で壮烈 な戦死を遂げ、 5月にアッツ島守備隊の玉砕と、悲報が相次ぎ、軍はこの辺で目覚ましい戦果を 挙げ、 士気高揚の足がかりを求め、インパール作戦に依って乾坤一擲の打開策をあえて強行し た。 18年3月我が連隊は第三十三師団(弓兵団)の指揮下に入り、新たな作戦命令を受け、メイ ミヨー、タウンジーの駐屯地より転進した。 即ち真山連隊長は、第二大隊葭葉少佐を指揮して、 イエナンジョン油田地帯の警備を、 第一大隊中村少佐は弓師団直轄としてムータイクに転進し、 ウ号作戦の為の軍需品集積の任に当たった。 当時弾薬糧秣は陸上輸送とチンドウィン河を遡る 300トン級の貨物船に依ったが、昼間は敵機の襲撃を避け、 貨物の船積、運行陸揚等一切は夜間 作業の連続であった。 密林地帯のシュエジン付近に、アンペラ囲いの椰子の葉葺きの倉庫を作 り、300人から500人の現地人夫を使って弾薬集積に当たった。 18年9月連隊本部はイエナンジョンからムータイクに進出して、第一大隊を掌握し軍需品集 積は急ピッチに進行した。 この間、一部はカレミヨーに進出し現地人約1.000名を動員して、進撃 作戦の第一線基地となる飛行場滑走路の構築に当たった。 年も改まって、19年2月、軍需品集 積の任務を解かれ、愈々世紀のウ号作戦に参加し戦闘行動を開始した。 第一大隊長中村少佐は病気のため内地送還し、柴田少佐が大隊長となる。 その指揮下に第一中 隊吉岡中尉、第二中隊林中尉、大隊段列近内中尉の十加二ケ中隊八門は、 弓師団第二一五聯隊 (笹原部隊)のフォートホワイト英印軍陣地攻撃に参加、協力した。 観測所は師団司令部のある全勝山(師団で命名)に置き、精度を誇る大隊八門の集中砲火は、 山岳地帯の敵陣地を次々と粉砕し、 2月11日紀元の佳節を期して敵陣を突破し作戦の緒戦を 飾って将兵の士気は大いに上がったのである。 18年3月8日、運命の「ウ」号作戦(インパール作戦)が、軍主力に先立ち、三十三師団が 行動を開始した。 予め幾つかの突進隊となり、企図を秘匿して嶮しい山道、深い峡谷路なき密林 を突破。 途中一部の敵を撃破しつつ進出し遂に、トンザンーシンゲルの間に、インド十七師団を 補足したのである。 3月15日、フォートホワイト正面の敵は、退却の意図を悟られぬためか、猛攻撃に出て来た が退却をはじめ、我が野重聯隊もこれに追尾して追撃となった。 印度領進駐の雄図に燃えて、こ こに三十三師団は、ティデムートンザンーインパール街道をインパールに向かって一挙に進撃を 開始した。
続きは後程
被爆した私は医師から20代までの命と宣告された ご承知のように昭和20年8月9日、長崎に原爆が落とされました。 その時、私は小学校6年を 卒業して高等小学校2年生になっていました。(昔は尋常小学校を上がると、中学校と高等小学校 と、進学コースが2つありました) 当時、私の同級生の友達はみな工場へ学徒動員に行っていました。中学校だけじゃなく高等小学 校の生徒もね。 私はズボラだったから、ほとんど学校に行かず動員もサボっていて、最後には中途 退学したくらいでした。 同級生の大部分は原爆の犠牲になって亡くなりました。 どうして亡くなったかと言うと、ほとん ど軍需工場やガス会社や酸素を供給する工場とか、みんな危険な所で働いていたわけです。 私はウ ロウロして家でいつでも遊んで暮らしていたから助かったわけです。 たまたま池田という長崎の眼鏡店の社長さんが私の家の近くに別荘を持っていた。 その息子さん に、私が伊香の浦までイモ買いに行こうじゃないかと誘ったところ、食糧難の時代だったから仕事 サボって行こうということで、 もう一人私より年下の田村八郎君も誘ったら彼も行きたいというの で、3人でサツマイモのおいしい伊香の浦へ行った。 なぜ伊香の浦へ行ったかというと、本当は茂 木へ行きたかったのです。ところが茂木には憲兵隊がおるんですよ。 それで伊香の浦だったら軍隊 はいないから、そこでイモでも買おうと思って畑の中でおばさんにイモを掘ってもらって買う話を している時に、B29が2機、熊本方面から伊香の浦の上を飛んで行った。 長崎は時々空襲されて いたので、新型の大きな爆撃機が低空で通っただけだから別に気にしていなかった。 掘ってもらったサツマイモの値段を決めたり、いろいろ話をしていたら、とつぜんグァィオー ンという恐ろしい音がして、それで私たちも農家のおばさんも一斉に立ち上がったわけですよ。 あまりにも大きい音だったから。 ……しばらくしたら、雲の柱が立ち上がってきました。山のほうを 見たらタデハラ方面の山が爆風で揺れているんですよ。 やがて爆風が私たちの所まで到達して体が揺れたのです。 初めての経験だったからびっくりしま した。あわてて畑にイモを放ったらかして長崎の家へ走って帰ったわけですよ。 その日、長崎の山のほうから市内を見ましたら、でっかい雲に覆われていて、最初は何が何だか わからなかった。 爆撃でやられたんだな、というくらいで、まだ長崎市内はほとんど燃えていませ んでした。 イモ掘りに誘った池田社長の息子さんは海星中学生で、酸素会社に学徒動員で勤務しておりまし た。 当日出勤していれば果たしてどうなったでしょう。 ご両親が私を息子の命の恩人として、その 後、別荘で寝泊まりを許して大事にしてくれました。
わが家へ帰ってみたら、家は痛んでいて、おふくろもびっくりしていましたね。当時おふくろは 手も足も動かない寝たきりの状態だったのです。 家の近くにあった小さな畑の横で妹と2人でおふ くろが寝ているんですよ。人に抱えてもらって畑まで逃げてきたらしい。 みな防空壕に入っている けれど、そこまでは行けないから、畑で何とかしのいでいたのです。とにかく無事でよかったと喜 んでくれました。 周辺の山に登ってくる人達がたくさんいて、いま思うと避難のために逃げてきたのですが、 被爆 した人達は鼻血を出したり、口から血を吐いたりして、その場で死んだ人も何人かありました。 話 を聞いたところでは、防空壕の中はかえって恐ろしいと言って、みんな大騒ぎして山へ逃げてきた ので、これは大変な出来事だなと思っていました。 その翌日くらいから長崎市内が一面に燃えてしまって、中心部の商店街など燃えつくしてしまい ました。 それで私は、貧乏な家庭に育っていましたから、フッと思いついたのは、焼け跡に行けば 何か拾えるんじゃないかということで、一人で焼け跡に入ってみたのです。 いま思うと、その時に 黒い雨に遇ったのですよ。 なんでこんなに黒いのかなと思ったけれども、まだ子どもだったし、 焼 け跡にどんな商店があったか場所を覚えてましたので、そこを堀ってみると、陶器店だったから陶 器がたくさん出てきた。 お皿の大きいのがあったので、これだけ大きい皿なら教会で使えるのじゃ ないかと教会へ持って行ったんですよ。 どうしたんだ? と聞かれたので、いや実は焼け跡を掘っ て持ってきたと言ってね。 小さいのは家に持って帰ったりして、私は焼け跡から少しでも稼げたら と思ったけれど、その他には何も出てきませんでした。 私は子どもだったので、興味半分に焼け跡 を歩き回ったため残留放射能に被爆してしまったのです。 それからしばらくして、焼け野原を歩いていくうちに、長崎市内に新興善小学校があって、その 小学校に入って講堂へ行ってみたら、人間の死体が山のようにいっぱい積んである。 それで恐ろし くなって帰ろうとしたら、おじさんがいたので「あれだけの死体をどうするんですか」と尋ねてみ たら、 おじさんが言うには「軍隊が来て、死体を抱えて行って検査している」と。 あれだけ山のように積んだ死体を見たことは未だに忘れられませんね。 その後2、3日してから夜になると、公会堂の前の広場に材木のヤグラを組んで、人間の死体を その中に入れて毎日々々焼いていた。 今の長崎親和銀行が建つ前の広場にもヤグラを組んで、死体 を毎日夜も昼も限りなく焼いてました。 火葬場も原爆で破壊されたため、誰の遺骨かもわからない まま処理される光景は本当に惨めで恐ろしく感じましたね。
当時の私は原爆とはわからなかったけれど、焼け野原を歩いて黒い雨に打たれたためか、 朝に なって顔を洗うと鼻血が出るし、歯を磨いたら歯茎から血が出るし、体は痩せていくし、食欲はな い。 母親が心配して、まだ健康保険のない時代で、お金もなかったけれども、一度歯医者で診ても らいに行ったら、 油屋町の甲斐さんという歯科の先生が言うには、これは栄養失調から来ているの だから、なるべく旨いものをたくさん食べて元気出せと言われて、 それで私もそう言われてみれば 食べ物も少なかったからかな、と思っておったのです。 それからまた1、2年して、食べると吐き気がして、体が衰弱して、顔色が悪いし、病院へ行く 金はないけれども、 何とか医者に診てもらわなければいかんと思って、やっと診察してもらった ら、 病院の先生に「親はいるか」と訊かれたから「母親がいますけれども手足も動かず寝たきりの 病人です。父はもう亡くなっております。兄貴はおります」と返事すると、 「兄さんに一度病院へ 来るように言いなさい」と言われたので、「先生なぜですか」と訊いたら 「今後どういうように養 生していけばいいか、子どもに話してもダメだから、兄さんに一度来てもらってくれ」ということ で、兄貴に病院へ行ってもらったのです。 兄貴が帰ってきたので「兄さん、病院では何と言っていた?」と尋ねたら「何でもないよ。おま えに旨いものなるべく食わせてやれと言われただけだ」との返事でしたが、 何か兄貴の表情がおか しいので何となく納得いかないものだから、 ある日「兄さん、医者は何と言ったのか、本当のこと を言ってくれ」と聞きただしたら、 「おまえね、本当のことを言うとね、大変だ」 「大変でも本当のことを言ってくれ」 「それならはっきり言おう。おまえは25、6歳まで生きられたらいいのじゃないか、と医者は 言ったんだ。 ここまで言われた以上は医者ではもうダメだから、どこか祈祷師のところへ行って拝 んでもらったらどうだ」と言うものだから、私もびっくりして、 「兄さん、連れて行ってくれ」 伊良林という処に祈祷してくれる処があったので、行ってお祈りしてもらったら、 「あんたは川 遊びしているな」と訊くから「よく川へ行って遊びます」 「おまえの体にカワウソが2匹ついて る。それが影響して体が弱っている。これを取り除くには、なにがしかのお金を持ってくれば、 自 分の処でお祓いするが、今日のこれだけのお礼ではできないから、兄さんと相談して日を決めてい らっしゃい。お祓いしてあげれば良くなる」 と言われました。 しかし、私が川遊びしたためにカワウソが憑いているなんて何かバカみたいな話だから、とんで もないと思いました。 それから教会にも相談に行きましたが、カワウソどころではなく 「原爆で亡 くなった他の会長さんの死体を探しているが、爆風で吹き飛ばされたんだよ。それを探すのに苦労 して、やっと見つけて持って帰ったところで、原爆の後はいろいろあるな」 との話でした。
いま思うと、私は原爆症で苦しんでいたわけです。 診断を受けても病名がわからないままに2 5、6歳までしか命がないと言われたけれども、私は母親が信心していたおかげで救われて今日が あるわけです。 3つの時にも肺炎で死にかかったところを奇跡的に助かったと聞いています。 その 後も崖から落ちたり、バイクで走っていて電車に衝突したりしてもケガはなかったしね。 原爆で亡くなった方は沢山あるなかで、私は長生きできないと診断されながら、 幸い今日まで生 きて来られたのは、母親の本物の信心を受け継いだからと思っています。 放射能の汚染にはザクロの木の根を煎じて飲めば効くようだと、私の家にザクロがあったので根 をわけてくれないかと来られた方が何人かありましたよ。 根を掘ると木が枯れるので、根を分ける というわけにはいかんとお断りしましたが、みんなザクロを欲しがっていましたね。 いずれにしても被爆者の悲劇は、思いも寄らない体になってしまって、多くの人達が白血病と か、 また私と同じように血を吐いて死んでいく人が大部分だったわけです。 家内は自分と同じ町内で、同じ小学校の下級生ですが、被爆した時は家に閉じこもっていたので よかったのですよ。一人娘なので親から外へ出るなと言われていたのでね。
(弘子夫人) 私は家の中にあった防空壕におりました。 爆風は一瞬でしたが、家が古かったので相当に痛みま した。 私どもの町内は爆心地から4キロ近く離れていました。それでも父は大ケガをしました。 警 戒警報が解除になったなと言って入口を開けて外を見ようとしたらパッと光って、頭にガラスの破 片がいっぱい刺さったのですよ。 私は防空壕で遊んでいたのですが、母は外に出ていて被爆して、 白血病で苦しんだけれど99歳まで生きました。 母が70歳くらいの時に、私たち夫婦が日赤病院 から呼ばれて、あと5年位の命と言われたんですが、それから20年以上生きました。 やっぱり爆心地に近い所で被爆した人は、家に戻ってきても、その日のうちに死んだりしました ね。 それと髪の毛が全部抜けたり、気の毒なくらい醜くなった人もたくさんありましたね。 先ほどの話の通り、結婚してからも主人は顔を洗うと、洗面器が血で真っ赤になることが何年も 続きましたわね。 (和利さん) 結婚する前に、「私は25、6歳までしか生き切れないから、結婚しないでおこう」と言ったん ですよ。 すると、この人が「生きるか死ぬかの問題じゃなくて、結婚しましょう」と言ってくれた ので、結婚したんですよ。 僕は21歳で、このひとは19歳で結婚しました。 (弘子夫人) 主人がぐんぐん引っ張って行ってくれましたものですから、いま思うと何事にも素直についてき てよかったなぁと思います。
ニューギニアで戦死した英霊の遺族からのメール 私の父も昭和20年2月に「東部ニューギニア・ソナム」で戦死しております。 出征の時はまだ一歳で這っていたそうなので、全く父の面影も思い出もありません。 サラリーマンを定年退職した時どうしても父の戦没地に参拝したくて、 日本遺族会のお世話で 今から9年前の平成15年2月に現地に慰霊巡拝の旅をしてまいりました。 その時に詠んだ詩です。 冷たい雨の靖国神社 雪舞う九段を後にして 父を偲んで海原千里 遥かに来たは最果ての島 あまたの英霊眠る国 その名はパプアニューギニア 今こそ平和の島なれど 60年前は地獄島 父の名呼べど叫べども 答えなくただ聞こえるは 屍重ねる密林の 静かに渡る風の音か 慟哭の海の潮騒か 今も密林奥深く 静かにたたずむ慰霊の碑 苦しき過去に思い馳せ 追悼の文を読みうちに 碑と父の姿が重なりて 思わず駆け寄り 父さぁーんと 呼んで叫んで抱きつきて 積年の思慕の思いを晴らすべく 心の底の衝動を 堪えて耐えて感涙す ああ我が父よ安らかに 眠りし給えと祈りつつ 万感の思いを残しいざさらば 後ろ髪引かるる思いで惜別す 灼熱の常夏の密林に、敵と飢えと病に戦った数十万の将兵の霊を弔い、亡くなった 戦友の分までも、何時までもお元気で長生きして下さい。 と言っても、御健在でおられるかわかりませんが、お逢いしたいし、もっと詳しい お話も知りたく存じています。 ご連絡をお待ちしております。 (追記) 父の戦跡は、 第20師団歩兵第80聯隊 第3大隊 機関銃中隊(通称朝2055部隊) 戦没年月日:昭和20年2月27日 戦没場所: 東部ニューギニア、ソナム です。
ニューギニア戦線を回顧する <私は今、3万5千人余りの戦友の屍を踏み台にして生きていると思う> (はじめに=編集者より) 今年(2009年)3月10日付毎日新聞朝刊・奈良版<news・それから>で、大きな見出しの記事と写真が掲載された。 <激戦地・ニューギニア島の記録/戦場体験 伝えたい/元・陸軍上等兵 森本さんが回顧録> <太平洋戦争の激戦地・ニューギニア島での戦場体験を、陸軍上等兵だった明日香村の無職、森本善茂さん(88)が今年1 月、回顧録につづった。 「私はジャングルに眠る戦友たちのしかばねを踏み台にして生きている」。 当時の状況を遺族や若い世 代に伝えたいと、60年余を経て原稿用紙に向かった。【中村敦茂】> 続いて森本さんの原稿の要点がまとめて紹介され、その記事の末尾には、新聞社の調べとして、 「ニューギニア島では、森本さんらの部隊の他にも、多くの日本軍が連合軍の圧倒的な戦力の前に敗走を重ね、戦病死した。 厚 生労働省社会・援護局によると、東部ニューギニアだけで日本兵の死者は12万7600人、国内に戻っていない未送還遺骨は 海没分も含め7万8000人と推定される」と記されている。 NHKテレビで放映されたドキュメント「兵士たちの戦争」の中では、ニューギニア戦線生き残りの将兵たちが、実写した 顔と本名を出して証言している。 捕虜になることを恥とし、投降より玉砕を選んだ日本軍は、現地の戦況を知らず補給もできない参謀本部の無謀な作戦の犠牲となり、 山奥で飢えながら辛うじて終戦まで生き残った将兵は1割にも満たなかった。 その1人 は「あの転進中に地獄の底を見た」と語っている。 当時の軍当局は「退却」を「転進」と呼んで負け戦の事実を伏せ、食糧の補給を断たれた将兵が無惨な餓死を強いられたこと は、上記の人数を見れば明かである。 それらの将兵の無念の思いを少しでも晴らすには、せめて事実を明らかにすることが必要 であろう。 その後、森本さんの記事が反響を呼んでいることが同新聞のコラム欄「鹿笛」(3/21付)にも紹介された。 早速その新聞 記事を確かめた上、ご本人宅に取材希望の書面と資料を送り、面談のアポを快諾して頂いて森本さん宅へ伺った。 新聞には回顧録の要点がまとめられていたが、ここではご本人の執筆による回顧録のほぼ全文を収録させて頂くことにする。 新聞のように直ぐには反響を呼ぶことはできないとしても、 ネット情報は国内外に関わらず伝わるから、長い月日をかけて反響 が広がることを願っている。
ューギニア戦線を回顧する=森本善茂 私は今、幸いにも昨年(11月4日)に88才の米寿を迎えた。健康に留意しながら感謝の日々を送っているが、振り返って みたら私にも青春があった。 しかしながら、あの悲惨な64年前の大東亜戦争によって、脆くも打ち砕かれた。 昭和16年8月4日、臨時召集により勤務していた役場で、召集令状(赤紙)を受け取った。予期はしていたが、一瞬頭が 真っ白になり血の下がるのを覚えた。 8月15日当時の朝鮮京城龍山歩兵79聯隊第2機関銃中隊に編入、のち転属を繰り返し、 昭和17年11月23日野戦機関 砲第20中隊に転属、南海派遣剛部隊として11月30日輸送船バンドン丸に乗船、釜山港を出発、 12月15日ニューブリテ ン島ラバウル港に到着。 釜山を出港する時は雪が降っていたが、渡された衣服は半袖のシャツと半ズボンだったから、これは南 方派遣に違いないと思った。 その当時、南方の戦況はガダルカナル島の友軍が苦戦に陥っていた。我が中隊は一旦上陸をして大型輸送船に乗り換えて、1 2月18日にラバウルを出港の予定と聞いていた。 ところが急遽変更になった。 その理由は同月16日早朝にラバウルを出港した熊本師団の10隻の輸送船団が、米軍の激しい 爆撃と潜水艦による魚雷の攻撃を受け、海面に浮いた油が燃えて兵員・輸送船諸共一人残らず全滅したという情報により、 命令 はバンドン丸に乗船のまま出港すべし、南海派遣剛部隊はニューカレドニア島へひそかに上陸をして、ガダルカナル島の側面援 護すべしという事であった。 駆潜艇の護りを受けながらその晩は爆雷の爆発音で眠れなかった。 明17日午前11時56分に私は週番上等兵として昼食を して食缶下げをして半裸体で中央甲板で涼を取っていた時、 「右前方に潜望鏡発見」の大声と同時に、前方に真っ白い白線 (泡)を描いて私の正面に魚雷が迫ってくるのを見た。 1発は右取り舵で無難に過ぎたが、2発目の魚雷の直撃を受けた。私が 船倉へ降りて救命胴衣をつけて甲板へ上がった時は、既に船は40度ほど傾斜して全員海に飛び込んで浮かんでいた。 私は遅れ て1人甲板に立って、いま海に飛び込もうとした時、正面に救命ボートがロープに吊られて降りて来たので、素早くボートに乗 り込んで、海水に濡れることなく近くの戦友を救助した。 これが危機一髪で命拾いした最初の体験であった。 バンドン丸は約1時間後に沈没。私達は駆潜艇に救助された。 幸い私は指揮班の一員であ手旗信号を体得していたお陰で、駆 潜艇からの「暫く待て、救助する」信号を読み取ることが出来た。 同月18日ボーガインビル島レベンタ着、同日エレベンタ防空隊長の指揮下に入る。 軍隊手帳には対空戦闘に参加と書いてあ るが、実際は裸で上陸したため補充隊が兵器を持って来るまでの間、輜重兵(しちょうへい)の仕事をした。 約1ヵ月後に補充 隊が来て高射機関砲を受領後対空戦闘に参加、約2ヵ月程の間に米軍艦載機約10機を撃ち落とした。
4月27日ソロモン群島ボーガンビル島出発。これより以南は魚雷艇が頻々と出没するために60人乗りの大発(ダイハツ) に乗り、 指揮班と第1小隊は第1艇団、2、3小隊は第2艇団として昼夜1m80の高波のダンピール海峡を無事乗り越えて、 4月28日ニューブリテン島ココボ上陸、5月7日ココボ出港、5月8日ニューブリテン島キリゲ上陸、同日ツルブ防空隊長の 指揮下に入る。 5月19日同島キリゲ出発、5月22日二ゴール着、同日二ゴール防空隊長の指揮下に入る。 7月21日二ゴー ル出発、同日同島ブッシング着、7月23日ブッシング出発。 7月24日午前2時30分頃第2艇団第2・第3小隊が米軍の魚雷艇により攻撃を受け、全員戦死する。 ニューギニア島フィシュハーヘン上陸。 7月25日フィシュハーヘン出発。 7月26日ニューギニア島ラエ上陸、同日ラエ出 発。 7月27日同島サラモア上陸、同日第51師団長の指揮下に入る。 8月5日サラモア出発、8月6日同島マロア着、9月1 日マロア出発。 第51師団は水戸、宇都宮の船舶兵団であった。我々は中隊としての行動が不可能のため第51師団長の指揮下に入った。幸 いにも大発に乗船できた事は大変幸運であった。 この頃より米軍の空海の攻撃は一段と激しくなり、マロア、サラモアの椰子の木は爆弾のために皆倒れ、真っ赤な赤土のみと なり、止むなく大発に乗船、夜間に乗じてラエに撤退することとなった。 魚雷艇に注意しながら海岸沿いを全速で撤退の途中、 波打ち際を眺めたら、友軍の黒い姿がラエに向かって延々と続く。 班長か小隊長であろうか、豆電池を点滅して大声で「オーイ 大発助けてくれ!」 と叫びながら退却している友軍の姿は見ると聞くにつけても悲惨な光景そのものであった。 小型船のお陰で9月2日午前4時頃にラエに上陸した。
上陸直後、点呼中に遥か海の後方から空中高く我々の方に飛んでくる 曳光弾、続いて連続して落ちる砲弾、私と戦友の広葉上等兵は抱き合いながら傍の1メートル位の溝に転げこんだ。 ところが幸 か不幸か広葉上等兵の左首筋に砲弾の破片が入り手当をした。約10分間程度の砲撃であった。米駆逐艦からの砲撃であったと か。 それより後、連日艦載機が超低空飛行による機銃掃射、夜は砲撃と連日連夜日本軍は手も足も出なかった。敵弾から逃れるこ とが精一杯であった。 ニューギニア島マロア、サラモア、ラエ、ポポイ、フィツェハーヘン付近に点在する日本軍は陸戦隊(海 軍)1万5千人、陸軍2万人、合計3万5千人と言われていた。 昭和18年9月13日夕方、中隊長が指揮班16名、第1小隊23名、計39名を集め、我々は戦死することはあっても勝利 を得ることは出来ない。 皆んなの命は私に預けてほしい、という悲壮な言葉があった。 近くの川でハンゴーに水を汲み一人ひと り中隊長に返しながら、最後の水盃を交わしたのであった。 翌9月14日午後3時、伝令からの報告で配属師団長命令によれば、 各中隊毎に配給になった米は1人当たり7〜8升余りと 削りカツオ1人2本宛、粉味噌、粉醤油各1袋宛受領して、 午後6時を期してジャングルを利用しながら、ラエより以北の連合 軍の飛行場を日本軍が占領して使用していたマダン飛行場を目指して転進すべしの命令であったが、 (実態は退却であった)マ ダンまでは600キロと言われた。 これだけの食糧で、如何にして600km(150里)を乗り切れるのか。 歩行困難な負傷兵には手榴弾2個宛、自決用に手渡された。 私も3人ほどの負傷兵に手榴弾を渡そうとしたが、手を握って離 そうとしない。 振り切るしか仕様がなかった。最後は泣き別れであった。歩行できる者は出来る限り転進すべしということで あった。 高射機関砲を分解して川や海へ投げ捨てたり、ジャングルの土中に埋め込んだ。 転進(退却)ともなれば如何ほど恐ろしいか。 故郷が恋しい。命が惜しい。弾丸で死ぬのかいやで、もういたたまらなかっ た。 3万5千人が隊列を組んで、ジャングルに身を隠しながら我先にと逃げる有様は想像に絶する状態であった。 戦友の大半はマ ラリヤ熱に下痢を伴い、体は衰弱して痩せ細り、日を重ねるに従い大小便は垂れ流しのまま、唯々歩くのみ。 気弱な兵は夢遊病 者の如く、休憩ともなれば5人から10人位スクラムを組んで仮眠を取る。 誰かが目を覚ます。隣りの戦友を起こして見たが、 うつむいtまま冷たくなっている。 仮眠をしたまま冷たくなって息絶えた戦友は大変大勢いた。その首筋は淡白色で透き通って 神々しく見えた。 その最大の要因は、熱帯地方特有の昼は蒸し暑く、夜は物凄く冷え込むためである。明日は我が身かもと思いながら退却をする。
9月15日ポポイ上陸、同日ポポイ発、9月16日ニューギニア島フィシュハーヘンに上陸。 9月18日ニューギニア島フィ シュハーヘンの野戦病院を右に観ながら通過の時、船舶兵団の小型船がラエからの後送患者を降ろしていた。 その頃、私はマラ リヤ熱、ショウコウ熱で毎日40度余り、下痢1日に25回という状態であった。 その時中隊長が、負傷した広葉(戦友)と共に私ほか3名に対して小型船ダイハツに乗船してでマダンに向かうように命じて くれた。 お陰でここでも命拾いをした。これも水戸・宇都宮師団の船舶兵団に配属になったお陰であった。 私は不思議な事に奇 跡的な命拾いをすることが何回もある。命が無いと思う時に妙に救いがある。 この退却で命拾いをして今日現在、生き延びてい るのは私一人ではないかと思う。 9月19日レオ上陸、10月3日レオ出発。10月6日夜明けにニューギニア島マダン上陸。それより11月1日まで対空対 艦警備につく。11月1日水戸・宇都宮第51師団長の指揮下を離れる。 11月5日マラリヤ病にてマダン野戦病院に入院。私はマダン野戦病院で初めて新しいフンドシと夏衣袴を貰って着替えた。 フンドシとシャツの首襟元にシラミが下に黒くなるほど落ちたのを覚えている。 11月15日ヒューギニア島ハンサ野戦病院に入院。11月18日ニューギニア島ウェワーク野戦病院に入院。11月29日 マニラ陸軍病院本院に入院。 入院後に本院に入院した者は内地送還予定者で、分院へ入院した者は治癒退院の者だとか聞いた。 私はウェワーク野戦病院で 1万屯級の病院船吉野丸で担送患者で、マニラ港へ入港上陸した時には、 日本軍将兵の盛大な出迎えと日本の移住者が日の丸の 旗を振りながら盛大な出迎えを受けた時、初めて涙が出て止まらず、日本へ帰還できると思った。 毎日40度〜42度の熱のた め頭の毛は皆抜けてしまい、体重測定の結果は30kgで、看護婦に笑われたものである。 入院中に米軍機が飛来、マニラ上空で紙のビラを撒布して飛び去った。拾って読んでみたら、日本の巨豪・山本五十六がラバ ウル南方において我が軍が迎撃して撃墜せりと書いてあった。 それ以来ニューギニア島の戦況は著しく悪くなった。 噂によれば9月14日に転進(退却)した3万5千人の将兵は、日本軍 占領地マダンに着いた者は1万人足らずで、 他は殆どマラリヤと、食糧は20日分余りで無くなって衰弱死したということで あった。 その後、ちょうど私がマニラ陸軍病院に入院した頃に、米軍はフィシュハーヘン、ココボ、ニゴール、マダンに敵前上陸し、 激しい空爆で日本軍の全滅を図った。 何とか生き延びていた将兵達はジャングルの奥から奥へ逃げまどい、最終的に4300m のサラワケット山の山頂に追いつめられる結果となった。
月日が変わって12月23日内地送還を命ずの命令を受けた。その時、戦友・広葉上等兵、和歌山県の南上等兵、大阪の永島 上等兵と私4名だった。 病院船ウラル丸に乗船、昭和18年12月29日門司港に上陸、同日小倉陸軍病院に入院した。12月 28日台湾の後島列島航行中に米軍魚雷艇に遭遇したが病院船のお陰で見逃してくれた。 病院に到着した時は午後8時頃、広場 で大きなトンドをしてくれたが、体の震えは止まらず、歯のかみ合わせがカチカチ鳴り続けた。 白衣は体一面にできたカイセン のウミの汚れで血ウミで赤黄色に汚れていたけれど、着替えの白衣すらなかった。 昭和19年正月元旦、小さい祝餅2個、飯は米・麦・大豆・コーリャン・さつま芋の飯かアルミ食器に山盛り。 私等4人は、 ヤシの実の水や実の内側にある真っ白なコプラ、ヤシの木を倒して葉を削ぎ取り真っ白な柔らかいヤシの筍を食糧にして命をつ ないで来たため、 有難くて直ぐハシを沿えるどころか両手で押し戴いて、ニューギニアへ送ってやって欲しいと声を上げて泣い たのであった。 病院では毎日朝昼2回宛クレゾール石けん液で入浴が義務づけられた。 1月19日朝鮮大邸陸軍病院に転入を命ぜられた。1月21日同病院に入院。 1月27日釜山陸軍病院に転入を命ぜられ同日 病院に入院。5月広島陸軍病院第二分院に転入を命ぜられ、同日第二分院に入院。6月大阪金岡陸軍病院に転院を命ぜられ同日 同病院に入院。7月奈良陸軍病院に転院を命ぜられ同病院に入院した。 同7月榊原温泉に1ヵ月の療養を命ぜられ、1ヵ月のん びりと過ごしたが、不思議な事に毎日夕方ジャズの音楽がかかり、 どうも納得することが出来ず、日本は負けているのと違うか な、と疑うばかりであった。 昭和19年8月奈良陸軍病院において治癒退院、原隊復帰を命ずとのことであった。原隊復帰するべく釜山まで行ったが、 汽 車は京城方面行きは運行できず、いま京城は内乱状態のため釜山南方の重砲兵聯隊を仮原隊とすべしとの事ゆえ同聯隊を仮原隊 とした。 約1週間後、ニューギニア帰還兵は兵舎前に集合の伝達あって集合したところ、ニューギニア島において敵艦載機11機撃墜 した功績により恩賜の煙草20本入桐箱入りで1箱宛の伝達式があり、有難く戴いた。 同19年8月20日聯隊前に集合の命令により、我々4名に召集解除を告げられた。 昭和19年8月23日懐かしい故郷、当時の近鉄橘寺駅を降り立った。目に映る草木は私に笑顔で出迎えてくれるように感じ た。 以後64年の歳月が流れた。毎年2、3回程度戦争の夢を見てきたが、全然気にすることなく暮らしてきた。 ところが平成1 8年5月、ある日の夕方農作業中に、左眼が失明かと思う大怪我をして、直ぐ県立医大病院に入院したが、眼科が満員で部屋が ないために、内科の一室に入院した。 入院5日目に漸く眼科で部屋が空いたので、6人部屋の一番奥に移った。 主治医は名医といわれる先生で、普通では考えられないくらい親切に対応して下さった。 入院6日目に主治医から明日家族み んな午後2時に来るように言われ、家族の前で大きく図を描いて説明され、初めて自分の傷の重さを知った。 私の左眼は上へ一 回転して一番大切な水晶体が外へ飛び出て僅か1本の筋糸でぶら下がっていたとの事、主治医から失明してもおかしくないと言 われ、 「手術は2回します、私が責任を持って治しますから安心しなさい、但し眼鏡は必要です」と聞かされて安心した。 眼科へ移ってから夜中になると神経が高ぶって充分睡眠がとれない日が続いた。 夜中に夢を見ているようにニューギニアの戦 場が、また戦友の顔が走馬灯のように脳裏をかすめて悩みに悩んだ。 私は考え抜いた末、夜中に起きてニューギニア戦線の回顧 録を書いては捨て、書いては捨てていた。
私が配属されていた日本軍は陸戦隊(海軍)1万5千人、陸軍2万人、合計3万5千人。 その中で生きて帰国できたのは私を 含めて僅か1割とすれば、その他大勢の戦友が私に、真実を語ってくれと催促しているに違いない。 そして60数年を経た今、 私は戦友の屍を踏み台にして生きていることに気がついたのである。 或る晩のこと看護師の目にとまり、森本さん何を書いているの? と問われ、説明すると身体をお大事に、と言われた。 その他、同室の患者さんから、私の横にもう1人立っている人の姿が見えると言われたり、入院中にいろいろ不思議な現象を 見せられた。 私はその後種々考えた末に、ニューギニア戦線で戦病死した戦友の霊が世に出して欲しいと迫っているのかも、と 気が付いた。反省してみたら、自分は死の直前に奇跡が起きて命拾いした回数は7回もある。 しかも私は今に至るまで生命を長 らえている。 もしも私の愚筆が反響を呼んで、多少なりとも遺族の方々に届いたら、一安心して喜んで頂けると思う。 私も一部の責任を果 たすことができる。ニューギニアのラエよりマダンまでのジャングルの至る所に遺骨が地面に散乱しているであろう戦友の霊が 浮かばれるのではないかと思う。 終わりに私の経験から申せば、 1)玉砕とは、 隊長と水盃を交わす時、自分に順番が廻って来るまでの間の数分間、故国の親・兄弟・妻子達が武運長久を祈っている筈なの に、という事が脳裏をかすめて大粒の涙が顔一面に流れ出て、声も出すことも出来ず、すすり泣くのみである。 これが玉砕時の 心境であった。 2)死線を越すとは、 水盃を隊長に返杯した直後から不思議に涙が止まり、大変ほがらかな無我の胸中になる。 同じ死ぬなら敵を1人でも多く殺し て俺も死んでやるという心境になる。以上が死線を超えた心境である。 退院してからもずっと眠れない夜がつづいて、これは何とかしないといかんと思って本格的に回顧録を書くことにした。 とに かく書くだけ書いて、近くの市の新聞記者の詰所へ電話をかけたが、何遍かけても出ない。他の支局へ掛けても出ない。そこで 仕方なしに奈良支局へ電話すると、応対してくれた記者が新聞に載せたいので面会したいとの返事。 ということで訪ねて来られ たので、これまでの経緯を話した。 原稿を見せると、コピーさせてほしいと頼まれた。価値がなければ新聞に掲載されなくてもよい。 掲載する・しないは第二として、反響あろうとなかろうと私はこれで役目を果たしたから心身ともに安泰になると思った。 記者が新聞に載せたいと言った ので、それなら匿名でY・M としてほしいと言うと、名前を出してほしいと頼まれるので、仕方なく承知した。 それから1ヵ月ほど経って、明日の朝刊奈良版に掲載しますからと連絡があった。 こんなに反響があろうとは思ってなかった が、奈良県内の遺族の親戚が大阪から連絡あったり、県内のK町から見えた方もあった。 今は父が高齢になって入院している。 若い頃、父が戦争の話をしようとした時、そんな話は自分には関係ないと聞こうとしなかった。 今は皆目わからない状態になっ ている、親不幸した、と泣いて後悔されていた。次々に連絡があって訪ねて行きたいと言われる中で、こうして原稿を公開する ことにした。 (おわり)
生駒市より三人の訪問者(遺族)を迎えて 私は、昨年の3月10日に、毎日新聞の奈良版に、戦場の体験を伝えたいと、「激戦地ニューギニア島の記録」と題した記事が 大きく掲載されて以来、合計16人の訪問者を受けました。 それぞれ感動と喜びを胸に抱いて帰られました。 そして、その間に妻が御所済生会病院に緊急入院(完全介護)、私は32日間、不眠不休の付添い(特別許可)を受け、遂に6月30日に永眠いたしました。 8月7日の満仲陰まで、あわただしい毎日でした。 私の32日間の不在中、各方面から電話があったと聞いていましたが、私 は妻の介護で必死の毎日、 またたく間に10月7日の百ヵ日を終わって間もなく、生駒より電話あって話し合い、11月30日に3 人の訪問客を受けました。 戦病死された父親恋しさに、それぞれ5才の子供の頃の父の顔が、うろ覚えとかいう話をされ、 せめて生々しい戦場の体験談を聞いて、父親を追想して見たいとの思い一筋で、正午から午後4時過ぎまで正味4時間、 私の召集か ら敗戦後の召集解除まで一通り話をすることが出来ました。 3人の娘さん(それぞれ3人共70才を越えていた)に感動を与え たり、泣きもし、笑いも与えることが出来ました。 話が終わって3人の言われた一言二言、よくも此処まで記憶力の抜群なる 事、否々この軍隊手帳のお陰です、と申し上げました。 次に言われた事は、 「ニューギニアの遺家族は、県内にはもっと/\沢山居られると思います。 森本さん、もう一度、記者にお願いをしてもらって 連載するように、この昭和43年に書かれた手記は奥様からの贈物と思って記者に頼んでみられたら、 奥様は大変喜ばれると思います。今日は小月命日じゃないですか。私達を引き寄せて下さった思い出深い日になりました。 又、この回顧録や体験談を聞 きたいと思われる遺家族が沢山あると思います。健康によく注意をされて、大勢の人に感動と喜びを与えてあげて下さい」 と言葉を残して帰られました。 地獄の底を 歩き続けて 初めて知る 生きる尊さよ 生ある限り 遺家族に 感動と喜びを 与えつつ 多くの戦友の 慰霊の旅をしてみたい
重爆「飛龍」を操縦して大空へ出撃 私は19歳で空軍を志願し、昭和18年10月1日、宇都宮陸軍飛行学校へ入校した。 2年後に 徴兵検査を受けて入営するよりも、先に志願すれば、自分の望み通り大空を飛ぶ夢を叶えることが できると思ったからだ。 入校して半年は、金丸原教育隊で“赤トンボ”とあだ名されていた双翼の練習機で訓練を受けた。 私は、赤トンボの他に双発高等練習機にも乗った。 卒業する時には飛行機の機種を選ぶことになり、戦闘機、偵察機、重爆・軽爆(爆撃機)などに 分かれる。私は重爆へ行くことになった。 同じ重爆でも大きさは違っているが、後に私は日本で一 番大きい四式重爆「飛龍」を操縦して出撃した。 以下、戦後復員して以来、戦友会関係の記録や雑誌の画像をもとに、前線から前線へ大空を飛ん だ2年半の実録を話すことにしよう。 昭和19年3月、宇都宮飛行学校より浜松第五教育飛行連隊に転属、同年7月には浜松陸軍飛行 学校教導飛行隊に転属し、そこで初めて双発機の操縦訓練を受けた。 同期生の中には、離着陸の訓 練中に失速して墜落死亡した事故も何度か目撃した。 同年11月には第61戦隊へ転属となった。 私は昭和19年10月に少尉に任官した。 試験を受けても不合格の場合は、操縦見習士官不適格とされる。 飛行機を見ただけで怖がった り、操縦席に乗ったとたん震え出したりする者は落第にされて、別の地上勤務などの兵科に廻され る。 以下、参考資料によれば、戦争末期に「特攻」の主戦力となった特別操縦見習士官(略して特 操)制度では、昭和18年度の採用数は第1、第2期を合わせて3千名と定められていた。 応募者 は採用予定の6倍という厳しい競争率であった。 その制度の条文には、入営期日より1年6カ月ま でに訓練を終わると同時に少尉に任官する定めとなっている。 少年飛行兵も拡充され、昭和18年には年間8千人が教育を受けることになった。 その年齢制限 は14歳以上17歳未満であったから、戦場に出陣した最年少操縦士は17歳の少年が特攻隊とし て突入自爆したこととなる。 特操の教育はさらに厳しく、1年間の飛行訓練の後に戦場へ出撃した。特攻隊として散った最後 のクラスは第3期生であった。 こうして年間2万名の操縦士を養成する計画は、昭和20年秋には 軌道に乗る予定であったが、その拡充が1年遅れたことが、後に特攻作戦を取らざるを得なくな り、多数の犠牲者を出す結果となった。 昭和20年2月、私の配属部隊は昭南島(今のシンガポール)チャンギー基地へ転進が決定し、 浜松を出発、九州の太刀洗飛行場着。翌日台湾へ向かったが、天候不良のため数回にわたり沖縄の 手前より引き返した。 同月14日も台湾を経由したが途中天候不良のため上海飛行場に着陸、同1 7日には杭州、 21日に広東、25日に海南島から仏印(フランス領インドシナ)のプノンペンを 通って27日にようやく昭南島チャンギー飛行場に着陸した。 浜松を出発してから目的地まで、悪 天候のため約1ヵ月を要した。(当時シンガポールは日本が統治していた。チャンギー飛行場は現 在、民間の国際空港になっている) 重爆部隊30機(うち3機は特別攻撃機)の編隊飛行は勇壮なものであったが、その反面、移動 には困難を伴った。途中、海南島沖において未帰還機が1機、行方不明となる事故もあった。 重爆「飛龍」の構造について図面を説明すると、乗員は全部で8人。操縦席に2人(機長と操縦 士)、その両側に整備兵が1人ずつ、後方には通信士、砲手1名など4名で、乗員は合計8人とな る。 私はチャンギー基地に駐屯して以降、南方方面の作戦に重爆「飛龍」の操縦桿を握って出撃し た。
例えば昭和20年6月25日未明、ボルネオ島東海岸にあるパリックパパン沖の30数隻からな る敵機動艦隊の攻撃作戦には、 わが61戦隊の特攻雷撃隊がチャンギー飛行場を発進し、同日昼頃 ジャワ島のスラバヤ飛行場へ前進、夕刻18時に出撃した。 その編成は、第一から第四編隊まで 各々2機ずつ計8機の他に触接機1機が加わり、合計9機で編成されていた。各機約1トンの魚 雷を搭載していた。 私はこの作戦には参加しなかったが、記録によれば壮絶な戦いであったことが 理解できる。 雷撃隊は敵レーダーの補足を避けながら飛行したが、哨戒機に見つかって撃墜された爆撃機も あった。 やがて敵艦隊を発見して突撃を開始、編隊を組んだまま高度を下げつつ右に旋回し、海上 3mから30mを這うようにして、先陣を争って襲撃した。 敵艦隊からの迎撃により燃料タンクか ら発火し、そのまま機首を下げて敵艦に突入し壮烈な自爆を遂げた友軍機もあった。 わが軍の被害は、結局9機編隊のうち3機が撃墜され、1機に8人の乗員だから合計24名がこ の特攻で戦死したことになる。 しかし、この作戦の戦果は大きく、巡洋艦もしくは大型駆逐艦、2 万トン級油槽船、掃海艇など多数を撃沈した。肉を切らせて骨を切る覚悟がなければ戦争は出来な い。 同じ時期の昭和20年6月24日、沖縄の組織的な戦いは司令官や参謀長の自決によって終わ り、沖縄周辺の海上には未曾有の敵艦船が集結していた。 これらの艦船から台湾を防衛するため、 戦争終結直前の昭和20年7月、私たちの第61戦隊は台湾防衛のため嘉義飛行場に転進すること になった。 保有していた飛行機18機に、搭乗可能な各種乗務員など約350名余と共に出発した。 ガソリンや食糧は最後まで確保されていた。私は6月中頃にマラリアで高熱を発したので、病後の 体であった。 当時、第61戦隊の人員は約1千名余あったので、嘉義への転進に洩れた約600名余はチャン ギー飛行場に残留となった。 わが第61戦隊は、シンガポールよりプノンペン(カンボジア)を経由して台湾へ転進した。 8月15日の終戦直後のこと、広東飛行場に残留していた故障機1機と乗員数人を救出のため、 私は戦友とともに広東飛行場に向かった。 米軍のP51哨戒機のスキをついて早朝に、残留人員を 私たちの2機に分乗させて台湾の嘉義に無事帰還した。
終戦後、中国軍の上陸によって武器を接収されるまで、明治製糖会社の農場(約3町歩)を借り 受けて、隊員の一部24名と共に農業で自活した。 中国軍による重爆機体の引き渡し後、マークを塗り替え、青天白日マークをつけたまま、20年 12月頃、数回にわたり嘉義上空で試験飛行したのが操縦桿を握る最後となった。 翌昭和21年2月、各地に散在して自活している部隊が集結し、2月20日台北より出港、和歌 山県田辺港に上陸、復員した。 兄弟は4人とも軍隊に入隊していたが、長兄は内地勤務、次兄は中国で輜徴兵に、 3番目は私、 弟は予科練(海軍航空予科練習生)にいたが、幸い4人とも無事復員することができた。 戦争末期の2年半、20歳前後の若かった頃に重爆の操縦桿を握って東南アジアの空を飛んだ体 験は、その後の私にとって何ものにも代え難い思い出になっている。 戦地に出れば戦死は覚悟の上 だから、先の不安はなくケセラセラの毎日であった。 戦友の中には、国内から出撃した特攻隊に配属された者もいて、鹿児島の知覧へ行けば涙なしで は帰れない。 しかし私の操縦していた重爆は、爆弾を落とすのが目的なので、敵機を見れば闘わず に逃げるが勝ちで、また特攻機と違って大型で高価なので、自爆を目的として出撃することは殆ど なかった。 同期の戦友の中には、戦後に民間航空機の操縦士に転任した者もあったが、私は公務員になって 奈良県吉野郡の税務署に勤務し、定年後は大淀町で税理士事務所を自営してきた。 2つあった戦友会は、戦後ずっと活動を続けてきたが、他界する会員が過半数になり、最近は機 関誌の発行や会合の案内も途絶えて淋しくなった。私自身も家内を2年半前に亡くして今は独り暮 らしになった。 が、息子夫婦や孫たちが時々帰って来てくれるので、まだまだ元気を出して余生を 楽しみたいと思っている。
戦争の悲劇=加害と被害のはざ 1)雨の日のグンソー(軍曹) 広島県は中国山脈の山懐での三次(みよし)での思い出である。私が中学生の時の話だ から、もう何十年も前のことになる。 1962年頃、私の在籍した私立中学校には屋内体 育館がなかったので、雨天の体操の時間は、通常の教室での自由時間に振替えられた。 振り替えの授業は楽しかった。自由になにを自習してもいい時間だったからだ。体操の 担任教師の名前は「グンソー」といった。 それは彼がかって兵隊にいたとき、「軍曹」の階級にあったからだ。彼の本名を呼ぶ者 は誰もいなかった。彼は体操の振り替え時間には決まって、戦争の体験談を生徒たちに 話して聞かせた。 だからいつの間にか、彼は「グンソー」という呼び名になってしまっ たのだが、彼は戦争での経験をまるで手柄話のように語った。彼は職業軍人であったの だ。 グンソーの話から、彼は戦争の真実を生徒たちに伝えたい思いもあるようには見えた が、それよりも、好奇心が強く血気盛んな中学校2年生ぐらいの男子生徒たちに、 自分 が戦争にいかに参加したか、いかに勇ましかったかをおもしろく話したかったように思 えた。誰しも人の体験談には夢中で耳を傾けるものだ。 今になってみると彼は戦争の話 をしながらも、いろいろのことを生徒たちに伝えたかったのかも知れない。それは子ど もを夢中にさせるただ勇ましい戦いの内容だけではなかったかも知れない。 彼が亡く なってしまった今となってはよくわからない。しかし彼が話したのは、平和を作る話よ りも戦争をする話の方がはるかに多かった。 戦争そのものについて彼は語った。 グンソーは大きな体で肌黒く、目玉も大きくいかつ い顔をしていたので、生徒たちは、彼がいったいどのように勇ましい戦争をやってきた か、興味はつきなかった。僕たち中学生は夢中になってグンソーの話に耳を傾けた。 ・・・・・ 今日は雨降りである。 生徒たちは、グンソーが教室に入ってくると、まるで教室が割れ んばかりの大きな声で、 「グンソー、グンソー・・・・話をしてーや、話をしてーや」 と、大声で話をねだった。すると彼は、一見嬉しそうに見えながらもなにかしら躊躇し ているようにも見えた。 彼の態度は、 「この体験談は自分から好き好んで積極的に戦争 の話をしたのではない、生徒たちに求められたからじゃ、生徒たちが聞きたいから じゃ。だからわしは戦争の話をしたのだ」 と他の先生に弁解したかったのかもしれな い。 グンソーは戦争での体験談はいつも身振り手振りで語った。
「わしが初年兵の時じゃった。わしが初めて人を殺したときのことじゃ。中国人の捕虜 を処刑せよと命ぜられてのう。 困ったようのう。そこでわしは捕虜を広いコーリャン畑 に連れていって、日本刀で首を切ろうとしたんじゃ。じゃが日本刀は首に当たらず、肩 に当たったのじゃ。 捕虜は大声をあげて喚きながら逃げていった。人を殺すというのは すごいことじゃ。わしが捕虜を逃がしたということになると大変じゃけえのう。 わしは 必死でコーリャン畑の中を捕虜を追いかけていって・・・・捕虜は肩から血を流しなが ら、広いコーリャン畑の中を逃げ回ってのう・・ そして最後にわしが捕まえてコーリャ ン畑で中で鉄砲で射殺したんじゃが、わしが初年兵の時じゃった。」 ー敵兵の処刑について、グンソーは事細かに語った。おそらく彼は相当数の処刑を担当 させられたのだろう。彼はそのときの様子を、黒板に簡単な線で絵を描きながら語っ た。 「軍人が処刑を行うときにはのう、囚人にまず目前に穴を掘らせ、その前に囚人を座 らせるのじゃ。穴は全部自分で掘らせるんじゃ。 処刑は日本刀で首を切り落とすのじゃ が、首の皮一枚を残して切り落とすのが上手いやりかたじゃと言われておった。首と体 を離れないよう切るのじゃ。 囚人はもう殺されるとわかってくるとすっかり観念したよ うに見えて、彼らがいったん 「メーファーズ(没法師)とつぶやいたら、完全に死を覚 悟したように見えたんじゃ。」 刀を思い切り振り下ろすと、切断された首からは血がビューとものすごい勢いで噴出し たんじゃよ。 そしてその体を穴の中に蹴落とすんじゃ。ああ、それはむごいものじゃっ た。なんどもなんどもそうやった。」 とそのときのその生々しい話をグンソーは刀で切り落とす格好をしながら事細かに語っ た。なんともショックな話だった。 ―「市外戦のときじゃった、ときどき街角で、敵兵とバッタリと鉢合わせすることが あった。恐ろしいもんで。 顔と顔を合わせて人が戦うというのは・・・・街角で鉢合 わせするとお互いがまずびっくりするもんじゃ。 そしてどちらもすぐにピストルで撃ち 合うのじゃが。 戦いは誰でも恐いが、お互いにまず向き合った時、逃げ出さずに最初に 少しでも早く、勇気をもって戦った方が勝つんじゃのう。 わしは、そのときも逃げずに すぐに後ろからピストルを撃ったんじゃ。ピストルを撃つときは、こうやってピストル は頭の上からゆっくり下ろして照準を合わすんじゃ」 とグンソーはピストルの撃ち方を ゼスチャーでして見せながら語った。 ―「あるときわしは敵の視察を命じられてのう。 斥候(せっこう)というんじゃが、そ こへ行く途中にわしが森の中で野糞をやっていたらのう、ふと背後の茂みがごそごそす るので、 なんじゃろうかと思って股下から覗いてみると、なんと、二人の「中国兵」が わしの尻に鉄砲を突きつけているのを目にしたんじゃ。」 グンソーは苦笑いしながらも 恐怖に満ちた目つきをした。
「あああ・・殺される!」とわしが思った瞬間、わしの頭髪はすべて逆立ったんじゃ よ。ほんまじゃ。ほんまじゃ。髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。髪の毛がぜんぶ立 つんでぇ。恐ろしいよのう!とグンソーは何ども何度も繰り返した。 「わしゃ、殺され る!」と思ったんで、大便をしたままの姿勢から「ウオーーーーー」 というような大声 をはりあげていきなり立ち上がって威嚇したんじゃ。すると、わしの声に驚いた二人の 敵兵は、あわてて逃げて行ったよ。 ああ、間一髪のところでわしは助かったんじゃ。怖 かったのう。怖かったのう。髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。」 ―「南京の市街に入って行った時のことじゃ。ある民家で、きれいな中国女性を屋内で 見つけたんじゃ。・・・・・女性は日本への留学経験もあり、言葉も話せる知的で美し い女性じゃった。」 グンソーはその女性が知的できれいだったことをしきりに強調し た。おそらく会話もしたのであろう。そして言った。 「じゃがその女性が他の日本兵に 見つかるとのう、強姦されて酷いことをされてしまうというので可哀想じゃったが殺し てしまったんじゃ、可哀想じゃった。」とグンソーが悔いているように語った。 中学生とは言え、まだ幼かった僕たちには、強姦というのは何を意味してのか、よく わからなかった。しかし、大人の世界には、子どもにはわからないような世界がたくさ んあるようにも感じられた。 そのとき僕にはある疑問が湧いてきた。なぜグンソーがそ の女性を殺してしまったのか、その理由がどうしてもわからない。 よく考えてみるにグンソー自身が彼女を強姦したのではなかったのか、それを隠すため に殺したのではなかったのか。他の兵隊から守るために女を殺してしまったとグンソー は言ったが、あれは嘘に違いない。 グンソーが女性を強姦して殺したんだ。それを僕た ちに伝えることができないために・・でもそのことは話しにくいためにそう語ったに違 いない。 その証拠にグンソーは、「戦争ではなんでもできるよ。戦争ほどおもしろいも のはない」と言っていたではないか? でもそんな恐ろしい酷い体験を、平気で子どもた ちに話せるだろうか?・・・・いろいろ考えたが今となっては事実はわからない。
戦争中、グンソー自身が中国女性を強姦したという話は、何もしなかったが、彼の話し ぶりからは、戦争中にはグンソーを含めて日本の軍人たちはどのような酷いことでも平 気でやっていたということがよく伝わってきた。 事実はどうであれ、戦争中の真実を話 せない体験が山ほどあるに違いない。しかし職業軍人である彼らは沈黙して、決してグ ンソーのようには語らない。 雨が降る日には、グンソーは決まって、戦争の話をした。そして時々思い出したかのよ うに、「戦争は酷(むごい)いもんじゃ」といったが、 そのあとには必ず「戦争ほどお もしろいものはない。戦争ではなんでもできるけえのう!」と付け加えた。 ・・・・・・そうか、これが日本軍が行っていた戦争の実態だったのか。これは中学校 での授業の中での話しだから、義理的に「酷い(むごい)とつけ加えたのだろうが、 実 際には職業軍人にとっては酷くもなんでもなく、戦争は彼らにとっては無茶苦茶におも しろかったのではないかとも感じた。 その当時、日本軍の食料は、すべて現地調達であったという。つまり中国の人々の食べ 物を略奪して生活せよと命ぜられていたのだ。 通常でもわずかの食料で生きている人々 なのに、農村でも都市でもそうした人々の食料を盗りに行ったとき、どんなに残虐な行 為が待ち受けていたことか。 少しでも抵抗した人々はほとんどが殺されたに違いない。 もし日本人が逆の立場にあったらどうなっていただろうか? グンソーの話の中には、中国大陸や朝鮮半島などで、日本軍が残虐な戦争を続けておび ただしい人々を殺したことへの反省などは微塵もなかった。 今から考えてみると、普通 の公立中学校だったら、このような話も聞けなかったかも知れない。 その学校には私立 中学校で、定年退職した教師や満州帰りの教師などさまざまな職歴や人生体験を持った 教師がいたからだろうと思う。自由な空気に満ちていたのだ。 あるとき、その日は雨の日ではなかったが、突然グンソーが血相を変えて教室に飛び込 んできた。そして教壇に上がって大声で言った。 「だれだ?だれだ?だれかが今、人殺し!と叫んだ。出て来い!」と叫んだ。 渡り廊下 を歩いていたグンソーをだれかが「グンソー人殺し・・」と呼んだらしい。彼はそれを 聞いて逆上して飛び込んできたのだ。 「だれが言った?おい!出て来い!だれが人殺し と言った。おまえらは卑怯じゃ」 グンソーは教壇で大声を張り上げた。クラス全員をまるで犯人のように睨み付けて執拗 に犯人探しを続けた。 もちろん誰がその言葉を言い放ったか僕たちはよく知っていた が、グンソーには何も答えなかった。沈黙したのだ。
そういうことがあってからグンソーは、戦争については再び語ることはしなくなった。 生徒たちもグンソーの話をもう聞きたくはなかった。 人殺しの話はもう十分だったので ある。私もグンソーの話を聞くのは好きだったが、彼の生き方は嫌いであった。私もグ ンソーを人殺しだと感じていたからだ。 しかし考えてみるに、その当時の日本軍人は、 父も含めてすべての職業軍人が「人殺し」を演じていたのだ。 軍人とは、いかなること であれ命令を受ければ、情け容赦なく人を殺す存在だからだ。女でも子どもでも。 日本 軍人たちは、どれだけたくさんの人々を殺してきたことか! それは朝鮮半島や中国大陸 だけではなく、太平洋地域や東南アジア全地域でも同じことだ。 すべてが日本の領土を拡張するためで人々の資産を奪おうとするものだった。 グンソー は自らの体験を語ってくれたが、ほかの人たちは黙して語ろうとはしない。誰も口を開 こうとはしない。伝えていこうともしてない。 ・・・・グンソー先生!あなたは生徒たちにいろいろ言われながらも、なまなましい戦 争体験を語って下さって、本当にありがとうございました! あなたたちが中国や朝鮮半 島や、アジア全域でやってきたこと・・人々を踏みつけてきたことを私たちは決して忘 れないようにしますからね。 子どもたちは、いつの時代にも、大人の本当の気持ちや真 実を知りたいと思っているのです。 先生は、「グンソー、グンソー」と馬鹿にされながらも、中学生に自らの戦争体験を一 生懸命に語ってくれました! あなたが赤裸々に話してくれたからこそ、今、こうやって ブログを通して多くの人々に伝わっていっているんです。 ありがとうございました!!
2)カマボコの秘密 1980年の国際児童年を記念して、アジア・太平洋地域の15カ国から児童書の代表 的なイラストレーターを東京に招聘して、ACCUでセミナーを開催したことがあっ た。 いずれの参加者も個性は強く、実に楽しい方ばかりだった。英語のコミュニケー ションはみんなうまくはなかったが、絵を通じての豊かなコミュニケーションは、実に 愉快で有意義なセミナーであった。 初日のこと。数カ国の参加者と連れ立って昼食に一緒に行った時、人民服を着た中国か ら参加者のT氏──彼は国民的に著名な漫画家でもあるが、テーブルの上に並んだ食べ 物を興味深そうに見つめながら 「ちょっとお聞きします。日本の食べ物の中に、小さな 板きれの上に乗っているおいしい食べ物があるそうですが、いったい何でしょうか?」 と尋ねてきた。「小さな板切れに載った美味しい食べ物?」 私は一瞬とまどったが、板の上に載っている日本の食べ物?というのは「おそらくカマ ボコだろう」と思って、「ひょっとしてカマボコ?」と答えると、 彼は破顔一笑、「そ うです。そうです。カマボコです。思い出しました。」といかにもうれしそうに大声で 答えた。 そこで昼食後、私は早速近所のお惣菜屋さんを紹介した。彼はカマボコを何本 も買った。 3週間のイラストレーターのセミナーも終わって、帰国準備をしているT氏を見送りに ホテルに訪れると、氏は熱っぽい目つきでじっと私を見つめたあと、1通の手紙を差し 出した。私は驚いた。 「お礼を言うのなら、口で言えばいいのに・・・どうして手紙を くれるのか?」 とも思いながら、すぐに手紙を開封してみると、すると文面には、セミ ナーでの感想やお礼がていねいにつづられてあったが、英語の手紙の終末部分に驚くこ とにカタカナ文字のまじった次のような文章があった For the sake of parting, I think I have to tell the secret of Kamaboko to you. Kamaboko is a memory of my mother. ワタシ ノ オカーサンワ ニホンジンデス。 I am very proud of that. I can write such words in Japanese. Farewell to my second native country! Farewell my dear sisters and brothers! ( 訳 )「・・・・別れに際して、私はカマボコの秘密をあなたにお伝えしたいと思いま す。実はカマボコは、私のお母さんの思い出なのです。ワタシ ノ オカーサンハ ニ ホンジンデス。 このことを私はとても誇りに思っています。私はこのぐらいの日本語は 書けるのです。さようなら、わたしの第二の故国よ!さようなら、わたしの兄弟姉妹た ち!」
私は驚いてしまった!!「あなた日本語が書けるのですね?お母さんは日本人だったの ですか?」 私は驚いて尋ねたが、T氏はただにこにこ笑うばかり。表情から察するに詳しいことは 余り話したくない様子。しかしようやく納得がいった。 彼がなぜセミナーの期間中、い つもなつかしそうな顔つきや、あるいは何かしら悲哀の混ざった複雑な微笑を浮かべて いたのか、その理由の一端が、この手紙で一瞬にして理解できた気がした。 「Tさん、なぜもっと早く言ってくれなかったのですか。お母さんが日本人だったら、 あなたは、日本での親戚とも会うことができたわけですし・・・・・もっと早く言って 下さったら良かったのに・・・・」 と問い質しても、彼は相変わらず恥ずかしそうに笑 うばかりだったが、おもむろに机の引き出しから1冊のスケッチブックを私に差し出し て見せてくれた。 それを開いてみると、今回のセミナーの思い出は、彼のユーモアたっぷりの漫画ですべ て克明に描かれてあった。 例えば、日本のセミナーに参加が決まったとき、中国の彼の 家族全員で万歳を繰り返しているさま、日本へ出発するとき、 北京空港で家族が別れを 惜しんで涙を流しているさま、T氏が大きな鶴の背中に乗って(おそらくJALの飛行 機で来日したのだろう)に乗って富士山の上空を飛んでいるさま、 空港での親切そうな スタッフの出迎え、華やかなセミナーでの開講式等々、実に細やかでユーモアたっぷり のタッチに描かれた漫画記録であった。 そしてその中には、T氏が宿泊しているホテルの天井に、まるで枕(まくら)のように 大きなカマボコをロープでつるして、 それに必死でかぶりつき、ぶらさがりながら食べ ているT氏の漫画もあった。そのユーモラスな姿を見て思わず吹き出してしまった。 し かしその漫画は、彼の日本人のお母さんに寄せる心情をいかにもありありと表現してお り、目頭が熱くなるのを覚えた。日本人のお母さんが恋しかったのだ。 彼は話を続けた。カマボコのことは、子供の頃、日本人の母が語ってくれたものとい う、彼女はいつも日本の生活を思い出してなつかしそうに語っていたそうだが、 「その 母は子どもの頃に亡くなってしまいました」としんみりと語った。T氏の生まれは19 31年という。 1931年といえば、ちょうど満州事変の勃発した時期。日本の本格的 な中国侵略の始まった年である。
どのような背景で、T氏の中国人の父と日本人の母が結びついたのか知る由もなかった が、とにかく氏の漫画は、これまでのT氏の人生が辛酸に満ちた生活であったこと、 そ して彼は母の愛情を感じながらもたくましく中国で生き続けてきたこと、日本に対する 深い思いを、ユーモアをもって深く感じさせるものであった。 そこで私は、北京で一緒 に住んでいるという氏の子供たちのためにさっそくカマボコをたくさん買い求めて、帰 国前のT氏に贈った。 それから3年後、私は、ユネスコの会議への出席で北京を訪れることがあった。そ こで 早速、T氏に連絡をとって、夕闇迫る民族飯店の私の部屋に彼を招いて、さらに話をす る機会があった。 そこでT氏の両親について、そしてカマボコの秘密を聞いたのであっ た。彼はすべてを語ってくれた。 「お父さんは、その頃、医学を学ぼうと日本へ留学していた医学生でした。お母さんは 日本人の看護学生、学校で知り合ったそうです。 二人は周囲の強い反対を押し切って結 婚したそうですが、満州事変の勃発した1931年には一緒に中国へ帰ったそうです。 そしてT氏の父は日本の侵略戦争に反対して軍医として戦場に赴いたそうです。 北京に残されたお母さんは、子どもたちを育てるために、それはそれはいろいろな苦労 をしたそうです。 しかし周囲の中国人社会は、敵国である日本から来た日本人の母を決 して受け入れることなく、毎日毎日辛い生活が続いていたそうです。 そのうち戦場で父 が戦死したという知らせが届き母は毎日悲嘆にくれたそうです。そして母も最後にはと うとう食べるものもなくなり餓死寸前で病死したのだそうです。 食べるものがないとき、お母さんは、子ども時代の日本の食べ物のことを子どもたちに よくしゃべっていたそうです。 T氏はそれをいつも聞いていたのです。そこにはいつも カマボコの食べ物があったそうです。 板の上に載った美味しい食べ物(カマボコ)の 話──それはT氏にとっては、辛かった戦争中の生活と日本人の母の思い出だったので す。
お母さんの葬式の日、T氏は悲しくて 悲しくて、家に運ばれてきた棺桶の板の上に、 夢中で一日中、絵を描いたのだそうです。 もちろんお母さんが話してくれたカマボコの 絵、日本での凧上げの絵など、 それはすべてお母さんが語ってくれた日本での生活を想 像の上で描いたものだったそうです。 孤児になってしまったT氏と妹は、やがて施設にひきとられたそうですが、絵の上手 かったT氏は苦学して、 北京の有名な中央美術学校へ入学することができ、それから中 国でも最もよく知られた国民的な漫画家になったそうです。 私は彼の話を聞きながら、涙を流した。カマボコの話の裏にそのような辛い思い出が残 されていたのかと絶句した。 ・・・・・「戦争の中で結ばれた中国人の父と日本人の 母、変転する人生と彼の漫画家としての人生──私の頭をまるで走馬灯のように彼の話 した人生の風景が回っていた。 私はT氏に、東京から持参した梅干をお土産に手渡し た。 「Tさん、これはカマボコではありません。梅干です」と言うと彼は笑った。 そして彼 が母から教えてもらったという日本の赤とんぼなどの童謡を思い出して一緒に歌った。 北京の夕暮れ、あたりはもうすっかり闇に包まれていた。
3)南京虐殺祈念館を訪問して考えたこと 2009年3月24日、南京市の戦争祈念館を訪問しました。そして友人を通じて依頼し た戦争生存者の体験談などを3時間にわたって聞きました。 今年83歳になるという常 志さんという男性は、日本軍によって両親や姉妹など10名の家族を子どものときに殺 された体験をもつ生存者でしたが、彼の体験談は実に衝撃的なものでした。 彼が間近か に体験したことを涙ながらに語られました。 「10歳のとき、家に乱入してきた日本兵に母親と妹が銃剣で何度も突き刺されて殺さ れたそうです。 日本兵に、お母さんを殺さないでと、彼は後ろから兵士の足にしがみつ いて頼んだそうです。しかし日本兵は銃剣を何度も刺し続けたそうです。 そして死体か ら、耳輪やネックレスなど貴金属を探して剥ぎ取って行ったそうです。 彼は実に克明 に記憶していました。誰だって家族が殺された日のことは忘れないでしょう。 こうした 体験談は、これまでは他人には話したくなかったそうですが、祈念館ができたころから 戦争体験を積極的に話すことに決めたそうです。こうした話を聞くのは、日本人として は実に辛いものでした。 しかし広島の被爆者の原爆体験なども含め、やはり戦争体験などを直接本人から聞くこ とは、実に大きな意味を持っていますね。 そして祈念館の広大な施設と展示内容を見た ときにはさらに驚きました。そこで見たものを描写するには何千枚原稿用紙があっても 足りませんね。 今日のように南京虐殺が「幻(まぼろし)であったとか捏造(ねつぞ う)であったとか言われている時代ですから、日本人の1人として歴史を真摯に考えて みたかったのですが。 こうした事実を否定する日本人とはいったい何者なのでしょう か?どこからそういう見解を引き出してくるのでしょうか?
私が驚いたのはたくさんの展示品の中に、南京での虐殺に参加した元日本軍の兵士の証 言があったことです。 良心の呵責に耐え切れず告白した元日本軍の兵士のたくさんの声 が、多数録音されていました。それは日本で記録されたものなどで(現地ではなく)相 当数に上っているのです。 また従軍日誌などもたくさん遺されているのには驚きまし た。これには欧米人の多数の記録も残っています。 また金陵女子大学へ女学生を挑発す るためにトラックで出かけた日本兵の証言もありました。日本ではほとんど公開されて もいないものばかりです。 なぜ日本ではあれだけ膨大な軍人が南京攻略に参加したのに、肉声を残すことが出来な かったのでしょうか? 現地の人々は膨大な形で証言しているのですよ。 その理由をいろいろと考えてみまし た。 それは結局、日本の軍人は非常に多くの殺戮を中国大陸で行ったために、戦後、戦 犯として処刑される怖れがあったからですね。 だから帰国後も誰も彼も一斉に口を閉じたのです。 戦場に行った戦争体験をもつ父親た ちが、自分の子どもたちにも一切何もしゃべらなかたのはそういうことです。戦後の日 本政府の公式記録でも、中国大陸全体で約1000万人以上の人々が殺されています。 中国では2000−3000万人と言っていますが、南京でも膨大な人々が殺されたの は明らかなのです。しかし事実を認めようとしない態度を形成してしまったのです。 しかし南京という当時の首都を占領する戦争では、多くの一般市民の目や耳が多数存在 していたのです。そして彼らはなにもかも証言しているのです。 もし戦争が東京や大阪 で行われていたら、一般市民の目や耳が苦痛を感じながらも、すべてを記憶し、戦後容 赦なく発言していったことでしょう。 そしてなによりもショックだったのは、これまで よくよく認識しているつもりでしたが、日本の新聞を含めて新聞や雑誌などのマスコミ が、 戦争中に日本国民を徹底的に戦争行為へと扇動する道をとっていたことです。 その ためには「中国人」を「チャンコロ」とか朝鮮人を「チョン」とか「半島人」と言って 馬鹿にしたり蔑んだりする意識を子どもたちに教育を通じて植えつけていたことでし た。 そうやって朝鮮半島や大陸への侵略への「下等民族」というレッテルを作っていたので した。そして満州とか台湾とかアジアの権益を奪いに行ったのでした。 日本は小さな島 国ですから、大陸の富はまるで「桃太郎」が鬼が島へ鬼の征伐に行くようなものでし た。 金銀財宝などを有り余るほど、持ち帰ることで、大陸への侵略を行っていたので す。 これを煽った教育とマスコミの罪とはたとえようもないほど大きなものです。そうした 当時の日本の新聞や雑誌などが展示されているのです。 そうした出版物が、現在、日本 のどこかの博物館に展示してありますか? みな隠してありますね。これが日本の歴史教育の実体ではないでしょうか?
それから私は日本の軍人たちが戦争中に女性を強姦した後は、必ず事後に殺しているの ですが、「なぜなんだろう?」と思っていました。 それは展示写真を見ているうちにわ かりました。それはつまり被害者の口を封じるためだったのですね。 当時、日本軍の軍 事侵略は欧米や国際連盟から非常に厳しく批判されていましたから、 そうした暴行など は極端に隠そうとしたのでしょう。国際法廷で取り上げられることを恐れていたのです ね。 つまり幼い児童などが暴行された後、両親や人々に自分の身の上に起きたことをみ なしゃべったとしたら、 どれだけ人々の憤激をかうことか、そうしたことも考えて、す べて消してしまうということを実行していたのですね。 だからそのことの意味がよくわ かりました。 寺元重平という元兵士は、彼の中隊長が出した命令「強盗、強姦、放火、 殺人、なんでもやれ!」といわれたことを証言していました。 ワークショップが終わって挨拶をする時私は、「皆さま、発展する南京の地で、ワーク ショップを開催できたことを心から感謝します」と述べた後、 絶句してしまった。涙が 出てきて言葉にならなかったが、 「明日は南京虐殺祈念館訪れます。 それは広島に生まれた日本人の1人として、戦争を 知らない日本人の一人として、かって中国で悲惨な侵略戦争を行ったことに対する謝罪 のためです。 日本では、一部の政治家を除き、多くの人々は、中国でかって大変残虐な 戦争を中国で行ったことを謝罪しており、大変申し訳なく思っています」 と発言したところ、若い通訳の大学院生が静かに口を開きました。 「これまで私は、日本人に対して、反感とともに複雑なものをいつも感じていました。 それは戦争中の南京を始め、多くの虐殺のことでしたが、しかしこうやって戦争を体験 していない日本人の方が南京までやって来て謝罪する真摯な態度に接して大きく心を動 かされました。 南京を思って下さるだけで十分です。 あなたが謝罪のことをしゃべって いる間中、見てください。私を含めて参加者の多くの学生たちは目に涙を浮かべて聞い ていたのです。」 と語ったことは決して忘れられない思い出でした。 彼はきっぱりとした口調で言いました。「私たちは日本人を許しています。でもこうし た残虐な戦争があったことは決して忘れません。 あるとき、日本の政治家が南京にやっ て来て言いました。「もう残虐な戦争のことは忘れてください、未来が大切なのです」 と言いましたが。これには南京市の誰も彼も怒りました」。 「踏まれたことのない人間には、踏まれた人の痛さや辛さはわからない」のです。
25日と26日はD車という新幹線に乗って、杭州の西湖など風景明美で歴史の故郷 (ふるさと)の杭州に行き、西湖や霊隠寺などを見学しました。 仏教文化は、隣国のイ ンドから直接入ってきて、インドの僧侶が直接名刹を開山していますから、中国の壮大 な歴史遺跡には全く言葉がありません。 多くの若者が寺院で祈っている姿も印象的な風 景でした。 15年前、25年前に中国を訪れたときに比べて、世相は大きく変わって いるのでした。 霊隠寺では、境内に空海の像が建立されているのを見ましたが、中日友 好三十年の碑文の日の墨文字がいたずらによって消されているのを目にしました。 悲し かったですね。靖国発言や南京の問題などが、心無き観光客を憤激させたのでしょう か。 現代の日本の政治家たちの歴史認識が、中国から多くを学んで帰国し日本の仏教を 興した名僧空海の存在まで汚しているのですから。 もちろんこれは霊隠寺に申し入れて、早速墨で書き入れていただきます。 きちんと謝罪 すべきは謝罪し、申し入れることは申し入れる姿勢が何よりも必要だと思ったのです。 アメリカ議会が、戦争中に在米の日本人を収容所に入れたことを謝罪して、補償までも 行ったり、ドイツのように「戦後生まれの経済界に属する人々でも、 戦前にドイツが 行った戦争犯罪には、どんなに高額でも補償や謝罪を行ったわけですが、 日本人は歴史 の中での異民族との軋轢の意味をもっと深刻な意味でとらえておかないと将来同じよう な行動を繰り返すことでしょう。 ドイツのワイツゼッカー前大統領は、 「過去に目を 閉ざす者は、未来に対しても盲目である」と言ったそうです。まるで日本について語っ た言葉ですね。 上海空港から市内まで、時速430キロを出すリニアモーターカーが運行していまし た。 これはドイツが日本と競い合って落札した巨大なプロジェクトでしたが、結局はド イツの会社が請け負ったのです。これはほんの一例です。 巨大な国の経済を担う中国の 青少年の意識は、日本には向いていないことを感じました。歴史の中で真摯に生きよう としない民族には未来はないのです。 事実を明確に認め謝罪しながらも、深刻な環境問 題や中国の軍拡やチベット問題なども厳しく批判できる立脚点が、 日本人には何よりも 必要だと感じた中国への訪問でした。 それにしても3月の桜の花や杏の花は、美しい! 杭州で霞に煙る西湖の美しかったことー空海も中国の満開の花の中で青春を過ごしてい たことでしょう! 空海が、日本人による南京虐殺を知ったらなんて言うでしょうね?!
終戦と同時に逆転した家族の運命 戦争が終った時、私はピョンアン(今の平壌)にいました。そこへ父が勤めていた満鉄(満州鉄 道)の家族だけ疎開していたのです。 終戦の前日までは朝鮮の人々から日本語で「お嬢さん、お嬢さん」と呼ばれていたのが、8月1 5日を境として立場が逆転しました。 その日は日の丸の旗が掲揚されていて、何か大事なお話があ るというので天皇陛下のお声を聴いていました。 終戦と分かったとたん、ラジオを聴いていた朝鮮 の人達は日の丸の旗を引きずり降ろして火をつけて、「帰れ!」とか「捕まえるぞ!」とか暴動騒 ぎになったのです。 当時、私たちの家族は銀行のお偉いさんから住居を借りていました。 毎朝そのご主人がお出かけ になる時は、皆さんが門の所まで出て「行っていらっしゃいませ」と送り出していたのですが、 終 戦の当日、それっきり帰って来なかったのです。家族の方に「お父さんは?」と聞いたら、「帰っ て来ません」という返事でした。 ほんとに8月15日の朝に出掛けたまま帰って来なかったのです から、お気の毒に、その後どうなさったのでしょう。 ずっと後に知り合った奥様から直接聞いた話ですが、ご主人は戦争が終る5日前の8月10日に 召集を受けて沖縄に派遣されて戦死したということで、何という無惨なこと、と思ったことがあり ますね。 戦争中、私がまだ奉天にいて小学校5年生の時にB29の空襲があって、2階の教室で机の下に もぐったり防空壕に入ったりしました。 その日はみんな帰りなさいと言われて、帰ったあとで私た ちの教室が爆弾でやられました。 煉瓦造りだったので半分は残っていましたが、もし早くに帰って いなかったらと思うと恐ろしくなりました。 私はその小学校の38回卒業生ですから、ずいぶん古 い時代からあった学校ですね。 戦争というのはむごいものですけれども、私は子供心に2回ほど、この戦争は負けるなと思った ことがありました。 満州は広いのですが、みんなが移植ゴテとヒマの種を広大な土地に穴を掘って 植える作業をするわけです。それが戦闘機の油になると聞いた時に思いましたね。 「勝ってくるぞ と勇ましく」と兵隊さんが歌っていても、こんなヒマの種を飛行機の油にするなんて日本は勝てる はずはない、と子供心に思ったものでした。 2度目は小学5年生の時、理科室で機関銃の弾入れを焦茶色の紙で造っていました。 黒板には 「撃沈するぞ」と書いてあり、今日の目標を達成したら「万歳三唱」するのです。 それにしても子 供が機関銃の弾入れを造るようじゃ、これはダメヨネェーと、口に出したら大変ですから誰にも言 わなかったけれど、そう思ったことがありました。
予想通り戦争が終って、ともかく平壌に疎開していた私たちの家族は、日本人が通っていた小学 校に強制収容されました。 アンペラ(トウモロコシの皮で編んだ敷物)を床に敷いた上で寝るんで すが、8月を過ぎて9月に入ると、もうガタガタ震えていたのです。 食べ物はないし、焦げ茶色に なった池の水をちょっと濾過して、 その色のついた水で焚いたトウモロコシやコーリャンばかり食 べていた。それでお腹を壊して、収容された日本人たちはバタバタ死んでいきました。 でも、私たち家族はもう一度、運よく奉天まで帰れたのです。 ピョンアン(平壌)から朝鮮の一 番北の果てシンギシュウ(新義州)へ、それから満州の西南端にある安東へ、 鴨緑江という大きな 河へ出る途中が長い坂で列車が登れないのですよ。 戦争中はそこを前にも通ったこともあったので すが、石炭が不足がちで燃やす量が少なかったのでしょうか、 前進してはバック、また進んでは バックしながら、いつ奉天に着くのかなと不安に思いましたが、やっと奉天まで帰れましてね。 私を含めて兄弟姉妹4人は大連で生まれたのです。弟二人と、末の妹は奉天で産まれました。 し かし終戦後に産まれた妹の本籍は「奉天市大和区松島町」から中国の「瀋陽市昆明街」に名称が変 わりました。 後々、兄弟から中国人と冷やかされたものです。 奉天から引揚げる途中、当時の満州と中国との境にあったコロ島から船が出るのですが、そこま で無蓋列車に乗せられて行く、 その時に関東軍の残兵が一緒に乗っていて、途中で泣いたりする子 がいたら、襲撃されるから泣かすなと命令するのです。 そのために赤ちゃんを草むらに下ろして、 オッパイを顔に押しつけて殺した母親もいました。また、中国人にお茶一杯と子どもを交換する母 親もいました。 「あそこのおじちゃんの所へ行ったら、おいしいもの食べさせてくれるのよ」と親 から言われると、その子は両手を引かれてついて行くんですよ。そんな場面を無蓋列車の窓から随 所で見ましたね。 私もあんなになったらいけないと一生懸命に親の言うことを聞きましたが、7人 の子どもを一人残さず連れて帰ってくれた母は偉かったと感謝しています。 日本へ帰国したのはアメリカの貨物船、といっても戦車を運ぶ船でした。広い船内に収容され て、米軍の食事が提供されました。 平ったい缶詰のネジを廻して開けると、ガムとかチョコレー ト、ビスケットなどが入っていました。タバコも入っていた缶詰もあったようです。 初めは美味し くても毎回そればかりですと、オトナたちは飽きて嫌がっていました。 船内で亡くなった人は船尾から海へ流して水葬するのですよ。 それも、コモみたいな物に包ん で、船が進むと遺体はユラユラ揺れながら離れて行くのを見えなくなるまで見送っていました。 そ んな事が一日に2、3回ありました。今でも死者を送る汽笛の音は、悲しい印象が強いので聞きた くないですね。 引揚げ船が舞鶴湾に入って船頭さんが舟を漕いでいる姿を見たときに、ああ、これで外国人に追 いかけられることはないと、子ども心に嬉し涙が出ましたね。
申し遅れましたが、父は満鉄に勤めていましたから、私たち家族が疎開した後も奉天に残って勤 務していました。 終戦後、私たちが疎開先から奉天に帰って暫くして、12月3日から父は仕事に 出たきり帰ってきませんでした、ソ連軍に逮捕されたのです。 満鉄で軍需物資を運んでいたと中国 人に密告されたからです。密告者には報奨金が出たらしいのです。 そのために父は旅順に連行されて、ソ連軍からさんざん拷問にかけられたのですが、私たちが帰 国した翌年に独りで帰国してきたのです。 帰ってきた時は、背中じゅう拷問のための傷だらけでし た。もう帰れないという絶望的な気持ちになったこともあったそうです。 目の前に2人坐っているソ連兵に威嚇されながら旅順まで連れて行かれたのですが、 その列車は 他に乗客はなく護送列車でしたが、運転していた人が目隠しされて乗った人はOさん(父の姓)み たいだと気がついたそうです。 父は手帳の切れ端に名前と「無事だ」と家族あてに書いて座席の隙 間に詰め込んでおいたら、 それを満鉄の社員が見つけ出して12月8日に届けて下さったのです。 夕刻に届けられた父が書いた手帳の切れ端を、母と家族中でため息をつきながら読んだものです。 夜、寝る時、母が私を呼び、今夜一緒に寝ようといいました。不思議な気がしましたが、母の布 団にもぐりこむと母は泣いていました。私も泣きました。 「お父さんは死んだ訳ではないのだから元気に帰るまで頑張ろうね、力を貸してネ」 一夜限りの母 の涙と母のぬくもりに、母のために否、皆のためにも頑張ろうと思いました。これは母と私だけの 秘密の涙の話。 でも、その後は元気でいるかどうかは、それっきり分からない状態でした。これも帰って来た後 で父から聞いた話ですが、他にも密告された3人の同僚がいたそうです。 監禁されていた小さな部 屋には窓が一つあって、健康のため日光浴するのに今日はここ、次の日はここ、というふうにお日 様に体の一部を当てていたそうです。 また部屋の中を動物園の熊みたいに歩き回っていると、3人 の同僚が「そんな運動しても、どうせ殺されるんだから何の役にも立たん」と言って、 食事に出さ れたコーリャンか何かに水をかけて飲み込んで、そのため胃を悪くして亡くなってしまったそうで す。 父は何でも仕事だと思って頑張ったので、1人だけ生きのびて帰国できたとのことでした。 父はいくら拷問を受けても「軍需物資は運んでいない、普通の物資や人間以外は見たこともな い」 と主張していると、だんだん密告されたことが分かってきて釈放されたのです。
母は7人の子どもを連れて帰国したので、母は強かった、とつくづく思いますね。終戦直後に生 まれた末の妹も一緒に連れて帰ってくれたのですからね。 父が帰ってきたのは次の年(昭和22 年)でした。 その頃、私は故郷の新制高校の併設中学校に編入して、ローカル線で往復して通学していまし た。 そのローカル線に学校から帰りの女学生が乗っていたので、家へ帰る途中の父が「O.S(仮 名)という子はいませんか?」と私の旧姓を言って聞いたら、「いますよ。 でも今日はカゼで休ん でいます」と返事があって、初めて家族は元気で帰国したことを知って安心し(やっと帰って来た んだ)と、父は最高に嬉しかったそうです。 それから2駅か3駅で住所の指宿(いぶすき)駅に着い て、再会を喜び合いました。 父はその時、自分が帰国するのを家族が先に知っていたのかと思ったそうです。 というのは、隣 り合わせの本家で大変なご馳走したからで、じつはその日は1年前に亡くなった祖父の一回忌に当 たっていたのです。 ちょうど一回忌の当日に帰ってきたので皆びっくりしたものでした。 その後、父は92歳まで長寿を全うしました。立派な父でした。 私が大阪に出てくる時には「感 謝」の文字を色紙に書いてくれました。その色紙は今も額に入れて飾っています。感謝が足りない のはいけないと、父はどんな場合にも感謝を忘れませんでしたからね。 実際に、終戦後の数年というものは、とくに引揚者の家族にはお金も食糧もなかったのです。 兄 弟姉妹5人が学校へ通学していたので、弁当代わりにサツマイモを新聞紙に包んで皆と離れた所で 食べたり、費用がなくて修学旅行へも行けなかったのです。 高校の時、授業料を納められない生徒の名前を全部黒板に書き出されるのです。何十人という名 前が並んでいました。 期限までに納入すると1人ずつ名前を消していくのです。払えないで自主的 に退学する生徒もありました。 補助は何もなかった。それを知ってムゴいと思いましたね。今の日 本人は何かにつけて恵まれ過ぎて、感謝もせずに甘えている人もいますね。
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敗戦後の奉天で、少年の私は地獄の恐怖に襲われた 満州事変以後、治安が悪化してきたために、警察官をしていた父の転勤とともに、昭和14年に 家族揃って満州へ移住しました。 長男だった私は終戦の年には国民学校(いまの小学校)6年生 で、満12才の少年でした。下には弟妹が2人いました。 最初は高千穂小学校から春日小学校へ転校しました。春日小では6年1組で、斎藤、前田、佐野 の3人の先生がおられたことを覚えています。 昭和20年8月15日、終戦のラジオ放送があり、その直後から奉天は大混乱に陥りました。 1週間前に参戦したソ連の囚人部隊と中国の八路軍(革命軍)が、奉天へ大挙して押しかけてきた のです。 そのたびにワォーというような歓声が聞こえてきて、津波のような恐ろしさでした。 軒並 みに日本人の家をしらみ潰しに点検して回り、手当たり次第に物品を持ち出し、女と見ると引っ ぱって行きました。そうした暴行が何回となく繰り返されたのです。 夜になって暴徒の群れが津波のように押し寄せてくると、日本人はみんな、家の戸口に板を打ち 付けて入れないようにしたり、屋根へ上がって難を逃れました。 中には石やレンガを屋根から投げ つけて抵抗した人もいました。 隣家との壁を破って通路を作り、ドンドンと外から戸を叩く音がすると、その通路を伝って逃げる ようにしました。 入ってきた兵隊たちは、たしか家に居たはずなのに、と顔をキョロキョロさせて 探し回っていました。 母は髪の毛を切り落として丸刈りになり、国民服を着て男性に化けて身を守っていました。 戦争は恐ろしいもので、日本が勝ち戦さをしていた時は、敵国の国民に同じような暴行を働いて いたに違いなく、敗戦と同時に逆の立場になったわけです。 勝っても負けても戦争は人を野獣と化 し、悲惨な地獄に落としてしまうものです。 幸いなことに、父が日頃親切にしていた中国人が私たち一家をかばってくれたので暴行を避ける ことができました。しかし、中には警察官に反感を抱く人もいたことは事実です。 ある時、味方の中国人が父に「おまえを狙っている者がいるから気をつけよ」と知らせに来てく れたこともありました。 その人は、次に来たとき「どうも危ないから消してきた」と告げました。 何気ないふりをして相手を外へ呼び出して、後を向いた隙に銃で撃ったそうです。同じ中国人同志 でありながら危険な相手を「消して」くれたのです。 一方、日本人とつき合っている中国人を見つけた八路軍が、その親日的な中国人をハダカにして 無情にもムチ打ちしている姿を見かけたこともあります。
終戦後も関東軍は徹底抗戦を叫んで抵抗していました。すぐ近くで八路軍との間で銃撃戦が展開 され、ヒューヒュー銃弾が飛び交ったりして、生きた心地はしなかったものです。 やがて関東軍はちりぢりになり、将校が自殺したりして戦闘が終結するほかはなかったのです。 次第に混乱が治まってからは、生活のためにボタ餅をつくって売ったり、私は子供ながらタバコ を街角で売ったりしました。 板の上にタバコを並べたまま、つい居眠りをしている間に、目が覚め たらタバコが全部なくなっていたこともありました。その時は父に叱れたものです。 また、中国人の客がタバコの値段を聞くふりをして、油断している隙に盗んでポケットへ入れて いるのに気づいて追いかけると、 中国人が大勢集まってきて、逆に殴る蹴るの暴行を受けたことも あります。 やがて軍人・開拓団・民間人の順番で帰国する段取りになり、満州各地から日本人が集結してき ました。 一度に帰国することは出来ないので、夏が過ぎて秋になり、冬になると零下20℃の寒さの中、 食糧はおろか暖房もない中で凍死した人々の死体が野外に並べられたまま、しかも衣服を剥ぎ取ら れて略奪され、丸裸になって放置されていた悲惨な情景が、未だに瞼に焼きついています。 ある日、道を歩いていて、路上に坐っているオトナの人から呼び止められ、起き上がらせてくれ と頼まれたので、 腕を抱えて起こしたのですが、翌日には同じ場所で冷たくなっていたこともあり ました。 昭和21年の7月、終戦後ほぼ1年ぶりに私たちの一家は揃って無事に帰国の途につくことがで きました。 すし詰めの無蓋車で港まで運ばれ、日本海軍の航空母艦を改造した船で1ヵ月かかって 浦賀に到着したのです。 今は歳をとって記憶がぼやけてきましたが、帰国してからも長い年月、 少年期に体験した奉天で の恐怖と悲惨の交錯した日々が心から離れることなく、戦後の社会の移り変わりについていけない 精神状態が続きました。 (取材者からひとこと) たしかに戦争というものは、とくに国外にいる国民を悲惨と恐怖のどん底に突き落とすことが、 この証言からも分かります。 語るに語れない何倍もの体験をされたものと推察できます。 数年前までイラクでは、イラク人同志が殺し合いを続けていました。 武力・暴力の空しさ、いの ちの貴さに、世界中の人間がいつになれば目覚めるのでしょうか。
小学校で「戦争はイヤ」と口にしたら・・・ 私は兵庫県の山村で生まれました。その前年にシナ事変が始まっています。 それで、小学校3年生の夏に終 戦を迎えましたので、ご存じの方もあるかも知れませんが、教壇で先生が授業する時間はなかったのです。当 時ふつうの教育が行われたのは小学2年生までのことです。 昭和19年には、学校で勉強した記憶はないの で、ここでお話するのは少しおこがましいところがあるのですが、あえて出てまいりましたのは、 私より年輩 の方々が沢山お見えになっているので、学校教育を含めて、もっと沢山の体験を聞けるのではないかと期待し ております。 その頃の忘れ得ない思い出の一つとして、昭和20年終戦の年、高等科2年生の近所の友達が、16歳で満 州へ行って、兵隊扱いされて、18歳で死んだことです。 私が印象に残っているのは、学校の朝礼の時に、先 生がさかんに彼を催促して「行ってきます」と言え、と急かしたのです。そのあげく、彼は小さな声で言いま した「行ってきます」と。 結局、18歳で骨になって帰ってきたとき、私の叔父が区長のような役をしておりましたので、子供たちを 集めて遺骨を迎える会を開きました。 里に帰った時には、彼は隣家だったので、時々寄ることがあるのです が、友達があんな形で死んだことは、忘れることのできない思い出の一つです。 当時、国民学校の生徒の高等科2年生で、兄弟7人以上の長男以外というキマリで、郡単位で順番に送り出 していたと聞いています。 今の学校にないもので、当時は必ず校庭にあったものは、一つは忠魂碑ですね。 これは日清戦争以後ずっと シナ事変を通して郷土の英霊を祀る場所として、「忠魂碑」と刻まれた自然石ですが、 私の学校では、その他 にも瓦屋根の奉安殿があって、石垣が積まれた上に建てられていました。大きな金庫のような扉がついていま した。 朝夕登下校する時には、ちょうど学校のど真ん中より東の皇居のある方向に建てられている奉安殿に向 かって拝礼することになっていました。 その中に何が入っていたのか見たことはないのですが、聞くところで は、天皇陛下の写真があるとか、 人によっては明治天皇や神武天皇の写真や画像もあるとか、教育勅語が三宝 の上に置いてあるとも聞いていました。 その教育勅語は、講堂の舞台の上に扉があって、その中に奉安殿から勅語が持って来られて、全校の生徒に 読んで聞かされることがありました。
学校では、毎年1月元旦と、紀元節、天長節、明治節の4回は講堂に全校生徒が集合して教育勅語を読み聞 かされました。 直立不動どころか最敬礼して、直れ、という命令があるまで、ずっと下を向いたままでした。 1年生の時に、命令に合わせて最敬礼することを教えられました。 先生が話している時に、たまたま天皇陛下 という言葉が出ると、全員直立不動になるように教えられましたが、 水戸黄門が紋章をかざして平伏させるみ たいに、恐れ多くもかしこくも、と前ぶれがあったのでしょうか。 なぜオトナも子供もそんな姿勢になったの かわかりません。 音楽の時間には「君が代」から始まって、天長節、明治節の歌も習いました。 1年生の修身 では「親子・兄弟姉妹仲良く」と、さかんに教えられ、そんなに激しい軍事教育はなかったように思います が、 教科書の始めに「国のあゆみ」があって、神武天皇から始まって日本がどうして出来てきたか、その神 話、つまり天皇を中心とした世界を教える教育が徹底していました。 つづいて、君が代、日の丸が続いています。そのうち最敬礼も強調されました。修身の時間は最初の1時間 目だったので、毎日々々教えられるので、天皇とか皇居という言葉が身にしみていったように思います。 ぼくの名前は将軍の「将」ですから、末は大将になれと言われたりしましたが、ある時、学校で「戦争はイ ヤや」と言ったら、えらい叱られました。 教員室へ引っ張られて行って叩かれたうえ、廊下に長いこと立たさ れました。 そのあと校長室にも呼ばれて、真っ正面に天皇陛下の写真があって、この人を誰だと思うか、お前 のお父さんのお父さんのお父さん・・・ 要するに、先祖は皆この天皇陛下の子孫だから、言うことを聞かない お前は非国民や、と言うて散々説教されました。 その時ぼくは9歳ですから、あんまりよく分からなかった。 それでも、そんな仕打ちを受けた。学校では戦争ゴッコしたり、あらゆる面で戦争をしたい気持ちをつくり出 していたわけです。 ぼくが3歳の時、親父がシナ事変で戦死したために、母と弟と3人暮らしで、母親は農業しながら学校の小 使い(用務員)の仕事をしておりました。 家に帰ったら、母と弟がぼくのことを「親の仇を取る気もない意気 地なしや」と言いましたが、 ぼくは本当に戦争がイヤだったので、つい言ってしまったら、その言葉を見過ご すことができなかったのでしょう。 戦争中に戦争を嫌がる気持ちにならなかったのは、戦後になってその理由が分かったことが多いわけです。 天皇の名のもとに始めた戦争に日本は負けるとは言えなかった中で、戦争に反対したのは限られた人だけでし た。 いま戦争に反対している人は、戦前もそう思っていたのか、戦後にそう思うようになったのか、おそらく 戦争が終わってからそう思ったのではないでしょうか。
大空襲の夜火の海になった徳島市の記憶 私は四国の徳島県小松島町の出身です。向さんと同じ昭和11年(1936)生まれで、終戦の昭和20年に は8歳、小学校3年生でした。 こういう席で戦争体験の話をするのもおこがましいですが、その時、女の子が 体験した一日の恐怖は、今でもトラウマになっています。 ささやかながら、消すに消せない私の記憶を残して おくことも必要かなあと感じましたので、この場に坐らせて頂きました。 大阪大空襲の後、地方都市に空襲が広がり、徳島市が空襲を受けたのは7月4日でした。私は隣町の小松島 という町に住んでいました。 戦前に父の仕事の関係で移り住んだ港町です。紀伊水道に面していて、向かいに 和歌山がうっすらと見えるような所です。 大阪を往復する船が出入りしている港町です。私はもともと徳島市 に本籍がありまして、父の兄弟姉妹、祖父母、母の兄弟姉妹や実家もみんな徳島市内にあります。 もうじき阿波踊りが始まりますけれども、阿波藩の城下町で、私どもの叔父の住んでいたのは大工町で、 問 屋町とか鷹匠町とか、城下町特有の町名のある、穏やかなのんびりした地方都市でした。 ですから私どもは、 毎週のように徳島市へ出かけておりました。一方、叔父は仕事の関係で、毎日のように小松島市の私の家へ来 ておりました。 徳島の空襲は夜中でした。昭和20年7月4日午前1時30分から4時にかけて、B29による空襲を受け ました。 真っ暗な真夜中でした。大きな吉野川の南に徳島市があって、その南に勝浦川があり、その川の下流 の三角州に開けた町が小松島市で、 私どもは勝浦川の南に住んでいましたから、夜中に警報なしで照明弾が花 火の反対に上から下へ、ライトを当てられたみたいに徳島市を確認するために順番に落とされたのです。 次は爆撃があるというので近所は大騒ぎで、警報は出ていないけれど、いろんな店の並ぶ商店街からとび出 して、みんなで郊外へ逃げたわけです。 そうすると、1時半頃からB29が海の方から侵入してきて、操縦士 の顔が見えるくらい低空から、初めは照明弾を落として地図を確認したB29が編隊を組んでやって来たので す。 その音は、ラジオでB29が何キロ先まで近づいてきた音を聞かされていましたが、それどころか今にも 空が割れるような音でした。 海の方から100機ほどの編隊が数十波も来襲して、焼夷弾ばかり数千発も徳島市に投下したのです。 平和 な城下町が瞬く間に火の海になり、その中を私は橋のたもとで間近に数時間も見ていました。空は明るく下は 真っ赤で、まさにSF映画のようでした。 私の親類筋の母方3軒、父方3軒、祖母の家など全部焼けたと思うと、小学3年生の子どもの私でも、 大声 上げて「おばあちゃん、大丈夫!? 」と泣き叫び、いとこ達の名前を呼びました。 そんな魔のような時間を過 ごした後、B29は海の方へ立ち去っていったのです。この夜のことは一生忘れてはいけないし、また記憶の 中から消すことのできないトラウマになっています。
小松島市には爆弾を落とさないと初めから決めてあったのでしょう、空襲は徳島市だけが標的でした。 魔の 数時間が過ぎたあと、商店街の自分の家に帰ろうと、12キロ程ある途中で、いろんな人に会いました。 焼け 出された人達が、乳母車や大八車を引いて隣の町へ歩いていきました。私の家でも親類の人々を迎えるために 大八車を借りて走りました。 その日のうちに、親戚3軒が私の家へ避難して来ました。他の消息は分かりませんでしたが、誰も死んだ人 はなく、 一晩のうちに家が人でいっぱいになって、荷物は疎開して手許にないので、あれも出せ、これも出せ と両親たちは大騒ぎしていたのを覚えています。 その夜、徳島市で焼け出された人数は7万2,095人(内984人死亡、17名不明)、2000人余り 重軽傷、という記録が残されています。 66年前ののことが未だに目をつむれば瞼に浮かびます。 その空襲があって間もなく、強制疎開が実施されました。商店街に焼夷弾が落ちたら火の海になって、道路 の両側が焼けたら逃げられないから、街筋の片側全部の家を強制的に立ち退くことになったのです。 立ち退く 側になった店では、商品や家財道具を全部、反対側の家や疎開して空き家になった所へ入れさせてもらいまし た。私の家も立退きになり、目の前で倒されていきました。 そうして屋根瓦を落とし、柱にロープを縛りつけて家を引き倒していったのです。7月中にその作業が終 わった翌月、8月には戦争が終わったのです。 8月15日、終戦の詔勅を父などは悔しそうに土下座して聞いてました。私は何を話しているのかラジオ放 送の内容もわからず異様な雰囲気だけ覚えています。 その夜、私は部屋の電気が明々とつけられて庭の白壁に 写っているのを見て、「電気消さなアカン」と大声で言っていたそうです。 その後、食糧難、住宅難、就職難、女性の結婚難などが続きました。 隣組があったので助け合いもしました が、食糧は物々交換でしか手に入らず、母が和裁でつくった姉の着物など農家で米や野菜を分けてもらうため に消えていきました。 このようなたあた9才前の小学3年生であった小さな私の大きな体験は、今なお、忘れることの出来たいも のとして66年背負って来ました。 私のような者が……との思いもありましたが「忘れるな! 語るべき だ!」との声に背中を押された気がして、この場にまいりました。
女子挺身隊の思い出 戦争が終わる前年の昭和19年、作業員の人数が足りなくなったため、私にも赤紙が来て召集されました。 14歳の時でした。当時は尋常高等小学校から国民学校と呼び名が変わっていました。 うちは三重県の名張で 農業をしていたのですが、私にまで召集があったのです。男は海軍の予科練、女は従軍看護婦に志願する者も ありました。次男三男は軍需工場へ徴用されました。 私と同じように召集されたのは、近くから他に1人か2人でしたが、役場に集まったのは女の子ばかり20 0人、親と合わせると300人くらいになりました。 行き先はの豊川で、午前10時頃に伊賀上野の安定所に 集まって、そこから東海道線に乗り、豊橋で飯田線に乗り換えて行きました。 豊川には大きなお稲荷さんの神 社がありました。両親が付き添いで一緒に行ってもらいました。 村の人達も日の丸の旗を振って見送ってくれ ました。 駅から30分の処にある寮に入ると父兄とはお別れです。私は親と離れて悲しい思いをしました。 豊川海軍工廠では起重機の部品製造の作業でした。 機械を動かすため50歳位の男性が指導してくれたので すが、なかなか覚えられません。 機械を動かしてケガしたら危ないと心配しながら、暴力はありませんでした が、何とか叱られながら働きました。 大きな機械が据えつけられると怖かったです。勤務時間は朝8時から夕 5時まで、2交代で夜勤は夕6時から朝7時まででした。 夜勤の人に申し送りして寮に帰ってきたら、洗濯したりキメを守るために、ゆっくり寝る間はなかった感じ でした。給料は必要なだけはありました。 御飯は丼一杯でオカズは祖末でしたから、お腹が空きました。丼の真ん中に御飯を詰めて、上はファーとさ せて、横から見たら分からないように盛る人もいました。 母は月に2回面会に来てくれました。サツマイモ、ジャガイモ、メリケン粉などを蒸してリュックサックに 入れて持って来てくれました。 面会に来ない人もいました。工場から帰って面会があると聞いたら嬉しかった です。そんな日は、面会室で母と一緒に寝ました。 慰問の食べ物は、同室の6人に多い少ないなくケンカせんように平等に分配して皆で食べました。父親であ れ家族であれ男は絶対に面会は認められませんでした。 蒲郡駅に近い会社はB29の爆弾で破壊されました。 私達の工場は山の上でしたので爆撃を受けませんでし たが、下の方は防空壕、工場、病院、海軍予科練の宿舎も爆風でやられました。 そして民家が艦砲射撃を受け ました。後片付けに大きな鉄板運びをさせられて大変でした。 病院が爆撃され、病院にいた母親の背負ってい た赤ちゃんの頭が爆風に吹き飛ばされてなくなっていた、また水ぶくれの死体をたくさん見た、 と聞きまし た。 戦争が終わるまでの1週間に本工場が爆撃されて死者が続出し、予科練が死体を山の上へ運んでダビに付し ていました。 8月15日が過ぎると、敗戦より何より家へ帰りたい一心の女の子2人で喜んで帰ってきたものです。 戦後60年を過ぎた4月、現地の工場跡を見に行ったら、JRと関係あるのかどうか知らないけれど日本車 輛という会社になっていました。 昔の場所を知っている人もなく、警察で聞くと、何か用事ですか? と言わ れましたが、現地には戦死した犠牲者のお墓とともに「乙女の像」が建っていました。 毎月ボランティアで掃 除に来ている人もあるそうです。
(追 記) 当日の戦争語り部と参加者の発言の中から、とくに重要なテーマと考えられます「君が代」と「天皇」に ついての発言を以下に記録しておきたいと思います。 今では「君が代」は国歌として認められています。 ところが戦争中に「君が代」の歌で、大変なイヤな目に 遭った国民が沢山ありました。 そういう体験をした高齢者が少なくなるのを待って国歌に制定したとしか私に は思えません。 大阪の橋下知事などは、そうした戦中の体験は全く知らずに、高齢者の気持ちを理解できない 世代です。 私たち高齢者が何故「君が代」を嫌がるのか、その理由を戦後生まれの世代の人たちにもっと知らせるべき と思います。 本当にイヤな記憶のない国歌なら、強制されなくてもみんな歌えるのです。世界に翻訳されても恥じること のない楽しい国歌を新しく作ればいいのです。 「君が代」は外国語に翻訳しようがなく、ムリに訳しても意味 が通じないでしょう。 せめて「君が代」でなく「民が代」「我等が代」なら民主的な意味になりますが、君=天皇を表している限 り、 天皇のために命を捨てさせられた戦争の犠牲者、その遺族にとって、過去の傷口に塩を塗られるような思 いになるのは当然です。 さらに言えば、戦前戦中の「天皇陛下」と現在の皇室の区別や相違について、明確に自覚していないオトナ があるとすれば、 世界中で日本人ほどアイマイで無責任でズルい国民はない、と見られても仕方ないでしょ う。 政府や官僚のトップの決めた政策を素直に信じて従う国民性が今も続いている限り、戦争の不敗神話に代 わって原発の安全神話に再び裏切られたと気づいても、すでに遅いと申さねばなりません。
満州事変から4度中国戦線に従軍した99歳の元分 隊長 満州事変が始まって3年後の昭和9年に召集され、12月1日現役の歩兵二等兵として第38聯隊留守隊第1 中隊へ入営した。 それから10日も経たぬ12月9日に満州派遣のため宇品港を出発、同月11日釜山港に上陸、 朝鮮国境を通過 してチチハルの歩兵第38聯隊に編入、そこで半年間の訓練を受けた後、匪賊(ひぞく)討伐のため吉林省へ向 かった。 満州では、匪賊が物を盗りに来るので部落はみな土塀で囲んである。吉林省の山の中に住んでいて馬に乗って 部落を荒らしにくるので、殆どそれを討伐する任務やったね。 たまに蒙古のほうへも行ったけどね。 ところで私は、別紙に記録してある通り、入隊した翌年(昭和10年)6月1日付で歩兵一等兵、その年12月 19日付で歩兵上等兵に昇級、翌昭和11年6月1日、1年半の勤務を終えて内地帰還のためチチハルを出発、関 東州を通過、大連を経て7月5日大阪港に帰着し復員した。 当時は秋季演習というて、38聯隊や33聯隊が帰休兵を召集して内地で演習したもので、私も復員して2ヵ月 ほどで約1ヵ月演習に参加したが、その時が最後で、 翌年8月からは支那事変が勃発して、充員召集として歩 兵第38聯隊に応召し、第4中隊に編入された。 それから北支(那)戦線から中支(那)に移動して昭和12年 11月14日から翌年1月24日まで南京攻略に参加、 さらに同年5月6日から20日まで徐州会戦に参加、6月中 旬には急性胃腸炎により第一野戦病院に入院、8月には歩兵伍長に任ぜられ、 のち11月13日天津兵站病院を退 院後原隊に復帰、翌昭和14年5月23日以後は安陸戦線に従軍した。 2回目の召集から丸2年経った昭和14年7月11日復員命令を受けて内地帰還のため揚子江を出発、 7月30 日宇品港着、同年10月19日に歩兵軍曹に昇格、同年10月20日に召集解除となった。 当時の階級は、伍長の下に軍曹までが下士官、その下に新しく兵長の位ができて、次は伍長勤務上等兵、普 通の上等兵、一等兵、一番下が二等兵になっていた。 翌昭和15年4月29日、北支戦線での功労(くわしくは後述)により功七級金鵄勲章ならびに勲七等青色桐葉 章を賜う。 北支の戦闘中の功績によって私は金鵄勲章をもらった。どんな功績があったのかというたら、ちょうど38聯 隊が敵と交戦していた時であった。1個中隊には3個小隊あって、その1個小隊の中で、1〜3分隊は小銃分 隊、4分隊は小銃と擲弾筒を装備している。 短い筒から砲弾が100発ほど炸裂する武器で、背のうの上に乗せ て歩ける軽い筒や。5、6分隊は軽機関銃隊で、一度引き金を引いたら30発いっぺんに発射できる。 つまり1個中隊には3個小隊あって、そのうち1個小隊は予備隊、2、3小隊が第一線で交戦する。 1個小 隊は6分隊あって、1個分隊はおよそ20名で編成されているのや。私は第3小隊の第6分隊長をしていて、マ ンよく一番左端にいた。そこにちょうど部落があったので、部落に入って攻撃した。敵は部落の中から銃弾が 飛んでくるとは思っていない。 そこへ横から攻撃したんでびっくりして、後ろに廻られたら大変と思うたのか 一目散に退却した。そうしたら、他の2個小隊が容易に前進できた。その功績で金鵄勲章と賞金千参百円を 賜った。ざらに勲章は戴けるものではない。
敵と撃ち合いするのは命がけやで。一番難儀したのは徐州戦やった。麦畑ばかりで4列で行軍したが道はな い。前の人だけは見えるけれども、周りはにこ土で全然見えない。 兵隊が飲む水がないのはもちろん、馬に飲 ませる水もない。川はないし、井戸も付近にはないけれども、馬の係をしている兵隊がどこかでやっと汲んで きた水を馬が飲んでいるのに、こっちが水筒に入れて横取りした。 怒られても兵隊も命がけで、水には苦労し たものだ。 中支の南京戦では、城壁に開けた銃眼から撃ってくる。敵弾の中を城壁の手前まで近づくのに苦労した。 1ヵ月で到達できるつもりが、ほとんど田んぼで前進が出来ない。 近づくにつれて一日100メートルしか前進 できん。ゴソゴソ這うて進んでいくと、銃弾がピチュピチュと土煙が上がるので頭を上げることもできない。 頭を下げていると、たまに反れた弾があってピューピュー頭の上を飛んでいくのが気味悪い。 中には迫撃砲に やられて足の皮だけ残して脚を引きずっていた兵隊もあった。こんな具合で、南京戦では一日100メートルも 前進できないくらい苦労した。 南京占領後に捕虜を虐殺した事件は、人数は別として確かに事実はあったな。 白旗立てて降伏してくると、 揚子江の岸辺に並べて銃撃したので揚子江の水が血で染まったと、私は現場にいて聞いている。増えつづける 大量の捕虜を食べさせる余裕がなかったための処置と聞いたこともある。 北支の山岳戦で、谷を越えて山頂で撃ち合いしている時、鉄かぶとに敵の銃弾が命中したが、運よく九死に 一生を得たのや。 というのは、軽機関銃の射手が一番前へ出て、弾薬手は後ろから弾薬を送り出すので安全や けど、下士官で分隊長の私は、 射手の右側前方で射撃の方向を指示していたら、正面から飛んできた弾がまと もに鉄カブトに命中して、首が腹の中へのめり込んだくらいの衝撃だった。 やられたと頭を抱えたら、射手が 「手を取ってみなはれ」と言うので手を外したら、あ、大丈夫や、と分かった。 まともに当たれば鉄カブトに 穴が開いて頭が割れてしまう。角度がちょっと下から当たったので、鉄カブトに穴が開かずに弾がハネたので 助かった。鉄カブトはペコンと凹んでしもうていたし。 それを内地まで記念に持って帰りたいと思うて持ち歩 いていたけれど、ヒビが入ってしもうていたので新品と交換してもらったが、もうちょっとでも下の角度から 弾が命中していたら、その場でこの世に居なくなったやろう。 他の兵隊でも弾にやられたとたん「天皇陛下バンザイ」とは言わへん。やっぱり「オカァちゃん」と叫ぶの や。育ててもろうたのは母親に違いないからな。
その年(昭和13年)の正月は南京で過ごし、それから徐州戦線に参加した。 徐州戦が終わって安陸作戦に向 かう途中、黄河の堤防が破壊されて1ヵ月ほど毎日下半身が水に漬かったまま行進したがために、6月13日に 急性胃腸炎を発病して第一野戦病院に入院し、さらに天津兵站病院に転院の後満州の旅養病院に転院、 その病 院を11月13日に退院したが、その前に軍医さんからえらい剣幕で叱られた。私は一日も早く第一線に帰りた かったので、早く病院を出たくてたまらんかった。 中には病気が治っても野球して遊んでいる病院ゴロのよう な兵隊もいたが、私はこんな犬や猫の餌みたいなものばかり食わされている病院は早く退院させてくれと軍医 さんに言うたら、そんなに言うのなら出て行けと怒られた。 これ幸いと戦場へ行くためにトラックの上へ乗ろ うとしても両側から引っ張ってもらっても乗れんくらい力がなかった。 あっちこっちの兵站(装備品供給所)で靴や剣や銃および軍服・水筒・背のうをそろえて、ようやく12月9 日には安陸で原隊に復帰した。その間に体力も回復して治っていた。8月15日に歩兵伍長に昇級の報に接し た。とにかく私は、今でも病院と注射が大嫌いや。 翌昭和14年になって2月から7月まで安陸付近の戦闘ならびに警備についたが、7月11日には復員命令に接 し、内地帰還のため揚子江を出発、宇品港に帰着、8月13日に復員した。同年10月19日付で歩兵軍曹に昇 格、翌日召集解除となった。 除隊からちょうど2年を経た昭和16年7月11日、3回目の召集令状を受け取った。大東亜戦争開戦前の緊迫 した情勢の中での臨時召集であった。同月15日中部第31部隊補充隊に入隊、24日には釜山港上陸、月末には 満州第2640部隊に編入された。 しかしその年の12月始めに両側上顎窩蓄膿症により孫呉第一陸軍病院に入院、翌昭和17年1月末に治癒退 院、昭和18年9月に至り中部第31部隊に転属のため黒河省、朝鮮―満州の国境を通過し、 釜山から博多港に上 陸して大阪に帰着した。同昭和18年10月6日召集解除になった。 2年後の昭和20年4月、4回目の召集で護阪第22304部隊に応召。 同年8月1日陸軍曹長に昇級。 その半月後の15日、降伏終戦、9月には最終的に召集解除になった。最後に中 国や南方の戦場に参加せずに内地で勤務していたことも運がよかったと言えるやろな。 私が召集を受けて聯隊 に入隊するたびに、親しい戦友の顔は少なくなっていき、終いには1個小隊しか編成できんほどしか残ってい なかった。それだけたくさんの戦友が戦死したことになるのや。 昭和9年第1回の召集より昭和20年まで4回にわたり約2年ごとに召集と解除を繰り返した合計7年半の軍 隊生活は、軍隊は「運隊」と言われる通り、命運がよかったとしかいえない歴戦の日々やったな。 高齢者にな るまでは単車に乗っていて事故に遇うたりしたが、今は仲間と一緒に毎日ほどグランドゴルフなど運動を楽し んでいる。 どんなゲームでも参加者はみんな私を99才の最高齢者と知っていて大事にしてくれている。 支那(今の中国)の戦線に従軍した目的は、まあ言うたら日本の国は狭くて人間が多かったから、一つ支那 の国を分捕って日本人を送り込もうという国策やった。 そのため満州の他に北支(那)に建国して、日本人を 移住させるという厚かましい考えで、そのためにわしらは満州に上陸して中国戦線に従軍したのや。もうこん な戦争の繰り返しは二度としないように願いたいものや。
敗戦後の奉天で、少年の私は地獄の恐怖に襲われた 満州事変以後、治安が悪化してきたために、警察官をしていた父の転勤とともに、昭和14年に 家族揃って満州へ移住しました。長男だった私は終戦の年には国民学校(いまの小学校)6年生 で、満12才の少年でした。 下には弟妹が2人いました。 最初は高千穂小学校から春日小学校へ転校しました。春日小では6年1組で、斎藤、前田、佐野 の3人の先生がおられたことを覚えています。 昭和20年8月15日、終戦のラジオ放送があり、その直後から奉天は大混乱に陥りました。 1週間前に参戦したソ連の囚人部隊と中国の八路軍(革命軍)が、奉天へ大挙して押しかけてきた のです。そのたびにワォーというような歓声が聞こえてきて、津波のような恐ろしさでした。 軒並 みに日本人の家をしらみ潰しに点検して回り、手当たり次第に物品を持ち出し、女と見ると引っ ぱって行きました。そうした暴行が何回となく繰り返されたのです。 夜になって暴徒の群れが津波のように押し寄せてくると、日本人はみんな、家の戸口に板を打ち 付けて入れないようにしたり、屋根へ上がって難を逃れました。中には石やレンガを屋根から投げ つけて抵抗した人もいました。 隣家との壁を破って通路を作り、ドンドンと外から戸を叩く音がすると、その通路を伝って逃げる ようにしました。入ってきた兵隊たちは、たしか家に居たはずなのに、と顔をキョロキョロさせて 探し回っていました。 母は髪の毛を切り落として丸刈りになり、国民服を着て男性に化けて身を守っていました。 戦争は恐ろしいもので、日本が勝ち戦さをしていた時は、敵国の国民に同じような暴行を働いて いたに違いなく、敗戦と同時に逆の立場になったわけです。勝っても負けても戦争は人を野獣と化 し、悲惨な地獄に落としてしまうものです。 幸いなことに、父が日頃親切にしていた中国人が私たち一家をかばってくれたので暴行を避ける ことができました。 しかし、中には警察官に反感を抱く人もいたことは事実です。 ある時、味方の中国人が父に「おまえを狙っている者がいるから気をつけよ」と知らせに来てく れたこともありました。 その人は、次に来たとき「どうも危ないから消してきた」と告げました。 何気ないふりをして相手を外へ呼び出して、後を向いた隙に銃で撃ったそうです。 同じ中国人同志 でありながら危険な相手を「消して」くれたのです。 一方、日本人とつき合っている中国人を見つけた八路軍が、その親日的な中国人をハダカにして 無情にもムチ打ちしている姿を見かけたこともあります。
終戦後も関東軍は徹底抗戦を叫んで抵抗していました。すぐ近くで八路軍との間で銃撃戦が展開 され、ヒューヒュー銃弾が飛び交ったりして、生きた心地はしなかったものです。 やがて関東軍はちりぢりになり、将校が自殺したりして戦闘が終結するほかはなかったのです。 次第に混乱が治まってからは、生活のためにボタ餅をつくって売ったり、私は子供ながらタバコ を街角で売ったりしました。 板の上にタバコを並べたまま、つい居眠りをしている間に、目が覚め たらタバコが全部なくなっていたこともありました。その時は父に叱れたものです。 また、中国人の客がタバコの値段を聞くふりをして、油断している隙に盗んでポケットへ入れて いるのに気づいて追いかけると、中国人が大勢集まってきて、逆に殴る蹴るの暴行を受けたことも あります。 やがて軍人・開拓団・民間人の順番で帰国する段取りになり、満州各地から日本人が集結してき ました。 一度に帰国することは出来ないので、夏が過ぎて秋になり、冬になると零下20℃の寒さの中、 食糧はおろか暖房もない中で凍死した人々の死体が野外に並べられたまま、しかも衣服を剥ぎ取ら れて略奪され、丸裸になって放置されていた悲惨な情景が、未だに瞼に焼きついています。 ある日、道を歩いていて、路上に坐っているオトナの人から呼び止められ、起き上がらせてくれ と頼まれたので、腕を抱えて起こしたのですが、翌日には同じ場所で冷たくなっていたこともあり ました。 昭和21年の7月、終戦後ほぼ1年ぶりに私たちの一家は揃って無事に帰国の途につくことがで きました。すし詰めの無蓋車で港まで運ばれ、日本海軍の航空母艦を改造した船で1ヵ月かかって 浦賀に到着したのです。 今は歳をとって記憶がぼやけてきましたが、帰国してからも長い年月、少年期に体験した奉天で の恐怖と悲惨の交錯した日々が心から離れることなく、戦後の社会の移り変わりについていけない 精神状態が続きました。 (取材者からひとこと) たしかに戦争というものは、とくに国外にいる国民を悲惨と恐怖のどん底に突き落とすことが、 この証言からも分かります。語るに語れない何倍もの体験をされたものと推察できます。 数年前までイラクでは、イラク人同志が殺し合いを続けていました。武力・暴力の空しさ、いの ちの貴さに、世界中の人間がいつになれば目覚めるのでしょうか。
日本が必ず勝つと騙されていた 昭和20年8月15日には25才じゃった。お父さんから、今日は大事なことがあるからラジオの前に 坐って おくように言われ、坐って待っていたら、今まで聞いたことのない声で、 はじめは何を言うておら れるのか 声が小さくて分からなんだけれど(分からなかったけれど)、それが天皇陛下の終戦の詔勅であるこ とが 分かってきました。 がっかりするとともに、びっくりしました。 でもな、面倒くさい燈火管制をしなくてもいいと思ったとき、ああ助かったぁ、嬉しい、これで戦 争が 終わったんだ、と思いました。 燈火管制といっても何のことか分からない人が多いじゃろう。夜に なって 空から爆撃に来るので、電灯の光がちょっとでも漏れていたら、そこへ爆弾を落とすんじゃ。(落 とすのです) 電灯をつけないわけにはいかんから、いろんな細工をして絶対に外へ光が漏れないようにするのを 燈火管制 と言うのよ。それが面倒くさいんじゃな。 それからな、厚い綿入れの防空頭巾(ずきん)を手放すことはできませんでした。 いつ空襲警報のサイレンが鳴るか分からんから、普段着もよそ行きもモンペ姿でしか出られません でした。 サイレンが鳴ると穴の中へもぐり込みました。防空壕をどこの家でも掘っていたんよ。 農家でしたので、たくさん米を作っとったけど(作っていたけど)、全 部供出をさせられ、一般の人 と同じ ように一日2合3勺(約350グラム)の配給で暮らしました。 とても足らないので、3月には大きな畑にジャガイモをいっぱい植えて、毎日昼はふかしたジャガ イモを 食べていました。 米を作っていても十分食べられなかったわけを言いますと、米俵を1俵だけ供出せずに押入へ隠し ていま したが、それも役所の人が家探しをして強制的に持って行かれたのです。 父は、やられたぁ、と残 念がって いましたが、自分が悪いのだから仕様がなかったのです。役所の人は、ここにあるがな、隠したら いけん、 持って行こう、と言いました。そうして農家を全部調べたわけよ。 ごまかしは効かなかった。 餅米は供出の対象にならなかったから、正月には餅をいっぱいついて、お米の足しにして食べてい ました。 夏はジャガイモ、秋はサツマイモをお米の代わりにしていました。おやつは大豆を炒って食べまし た。 お菓子など何処にも売ってなかったんよ。お金で配給の米・砂糖などを買(こ)うただけで、何も 売っとら んかった。 配給は1人にいくらと決まっていて、役所は一軒々々の家族数を把握していたから出来たことじゃ な。 毎日のおかずは、菜っぱ、ナンキン、大根など野菜を作っていました。種も自分で取っていまし た。 種を取ろうとすれば、その分だけ特別に肥をやって大きく育て、大きな花を咲かせなければいけん のんよ。 それでも、うちは農家でよかったけれど、都会に住んでいる人はとんでもない状態じゃった。 だか ら親類の 叔母さん達が2人も3人も芋や米を買いに来たんよ。トランクにいっぱい米や餅を入れて、母と一 緒に岡山 から大阪まで鉄道で何遍も運んだものよ。 もし警察に見つかったら取り上げられて罰金じゃけど、幸いにして一遍も捕まらなんだ。 神戸の親戚が焼け出されて一家5人が疎開してきたが、わが家も食べ物がなかったので、さっき話 した ジャガイモが沢山あったので、それをゆでて仲良く分けて食べて暮らしたものじゃ。
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弟が21才で現役で入隊して、朝鮮へ出兵し、そこで暫くいて、いざ南方へ出ていくからと皆いさ んで支度を していたところ、 弟1人が急に吹き出物が体じゅう一杯出て、ウミがだらだら流れ出したので、み んなに うつるからと弟1人だけ残されて、情けのうて悔し泣きに泣いたと言うていた。 明くる日に輸送船 が出て行 ったけれど、後から聞いたら、何日か後に輸送船は台湾の沖で魚雷にやられて1人も残らず死んで しもうた という。奇跡的に弟1人だけ残って終戦後に帰ってきたということがありました。 15才頃、日支事変(日中戦争)が始まって、日本が武力にものを言わせて中国の北のほうに満州 国を作り属 国にした。 勢いに乗った軍部は中国に攻め入り、南京はじめあちこちの都市を占領し、ベトナムの 方まで進 んで行ったけれど、アメリカが出てきて南方の島も全部アメリカに取り戻されて飛行場にされ、そ こから 空襲が始まって日本は全滅したんじゃ。 戦争が終わるまでは、日本が絶対に戦争に勝つ、アメリカは鬼みたいに悪い国、と信じていまし た。 新聞、ラジオ、みんながそう言うていたから、騙されておったということじゃ。 さっきも話した通り、お国のためには米を持って行かれても仕様がないと思っていた。 戦後はアメリカに対する考えは変わった。なぜ変わったかと言うたら、終戦直後にマッカーサーが 来て、 ロシアが日本を半分ずつに分けて取ろうという話が出たそうなけれど、その時マッカーサーが、 そ れでは 日本国民が治まらんと反対したこと、それから天皇陛下も平民に落とそうという話も出たけれど、 皇室は昔から日本の神様とまでいわれた人たちだから、これからは日本人の象徴、人間天皇として 残って 頂くことにした。 こうしたマッカーサーの功績が新聞のニュースで報道されたので、 アメリカに対する日本人の気持ちがずいぶん和らいだんじゃ。 それまでは鬼畜米英というふうに宣伝されておったからな。戦時中は自由にものが言えなかった。 軍隊とか政府を批判するようなことを言うと、特高警察が来て牢屋へ入れられた。町のほうでは捕 まった人 がいるという話が新聞に載っていた。それも見せしめのためじゃろう。 役所の対応が悪いとか政府が悪いとか、そんなことは近所でも絶対言わなかった。 何でもハイハイじゃった。だから、お米を持って行かれても仕様がないということじゃった。 戦前の教育の基本は教育勅語じゃった。戦後はアメリカが自由主義というものを教え、人間はみな 平等で あるから、先生であろうと生徒であろうと、役人であろうと、みな同じであるから、別にへりく だって頭を 下げることはない、ということを教えた。 けれども、いま思うに、平等の裏には責任というものが あること を考えなかったために、いま変な日本人が多くなった。家族を殺したり、やたらに役所の金を使っ たり、 おかしいと思う。 自由だけでなく責任を教えなかった教育が悪かったということじゃな。 戦争を乗り越えてきた者からすると、すべての物を大切にすること、物に対する有難さが分からな くなった 日本人がふえた。愛国心が足らんようになった。 それと少子化、1人が1.35人位の出生率しかない という ことは、これが長く続くと日本の人口はだんだん減っていって、1人の子どもに莫大な金をかけて 教育して も、その子どもが全部優秀な人間になるとは限らない。 それよりは政府がスイスのやっていること を手本に して、少なくとも3人くらいは子どもを産んで育てることが大事ではないかと思うんじゃ。(思う のです) 今の少子化では国の力が衰えていくことを心配する。 最後に、正義のためといっても再び戦争に参加することは必要と思わない。政府はあらゆる手段と 知恵を 絞って、戦争を避けることを考えてほしいものじゃ。
シベリア抑留記 移り去りゆく年月につれて記憶も忘れがちな今日この頃ですが、8月の終戦記念日が来ると軍隊 生活、抑留生活を想い出します。 私は応召時、現中国の大連に居住していて、昭和19年5月10日関東軍独立自動車隊第70大隊 (満州第74部隊)に入隊、厳しい軍隊生活を送った。 部隊の所在地はソ連まで4kmの国境近くで、前は興凱(こうがい)湖(この湖は半分がソ連 領)、後は完達山脈で、その麓に水源地があり、よく立哨(警備)していた。 立哨していると、狼 が通ったり遠吠えしたりして、恐ろしくて鳥肌立ったものである。 部隊の前の煉瓦焼場跡地附近で訓練や湿地演習をしたが、次の湿地演習で、私は不覚にも事故に 遭って生死を彷徨(さまよ)うことになった。 幸い陸軍病院から生還して原隊復帰したが、8月 10日から12月25日までの入院生活で、復帰後は無理が出来ないので、幹部の良き計らいで将校集 会所の当番勤務となった。 2月頃になり、中隊が牡丹江の液河の軍司令部の当番勤務を命ぜられて、中隊の一部が勤務と なった。 その年の5月頃には私も上等兵となっており、わが班の川井軍曹と当番に当たり仕事をし ていたところ、中隊に司令部より動員が伝達され、 夜の点呼の折りに名簿を読み上げたところ小生 の名がないので、班長の川井さんに尋ねたら、 「僕は知らんから中隊長の処へ行って意見を具申して来い」と申すので、早速隊長室に行き申した ところ、 「君、大きな怪我はしたが、今は元気になったので、初年兵の教育のために残したのだ」と申して 受け入れてくれず、週間当番も終わって次の人に引き継ぎを終了、就寝した。その翌日、班長が、 「白澤喜べ、皆と一緒に行けるぞ。 斐徳に装具を取りに行け」と申して、皆と一緒に南朝鮮忠清北 道沃川国民学校に駐留することになった。 忘れることの出来ぬ8月15日、この日は小学校の児童が兵隊さんに学芸会で慰問してあげる と、兵隊と児童と手分けして机・腰掛等を片付けていたら、 陛下の終戦のお言葉があって、さあ大 変だと学芸会は取り止めになり、軍籍名簿、軍隊手帖等の重要書類を全部焼却した。 翌日になったら朝鮮軍司令部から平壌行きの命令があり、沃川小学校の児童の見送りを受けて自 動車共々平壌へ着き、市内の女子商業学校に仮駐留、市内の各学校も満州からの避難民で超満員で あった。 現地人からの暴行・強姦・略奪に怯(おび)える邦人の救出、食糧・物資の調達に多忙を極め た。 駐留している学校で車両の修理をしていたら、若い女子が5人ほど来て、 「私たち満州で看護婦をしていた者ですが、兵隊さん、お願いがあるんですが、聞いてくれます か」と申すので、 「どんな事ですか」と聞くと、 「この自動車で私たちと一緒に逃げてくれませんか。そうしてくれると、兵隊さんの云う事はどん な事でも聞きますから、お願いします」と申すが、 「未だ軍律厳しい部隊ですから」と拒否したら、 「残念です」と泣いていた。
この地で満州からの避難民の援助物資の輸送に関して、真夏の炎天下、防塵眼鏡を掛けて邦人の 生命を助けるために輸送に精励した。 物資の輸送も一段落して、今度は各部隊が武装解除したの で、各武器類を軍司令部の営庭に集荷完了後、最後にわが中隊も武装解除した。いつも手離さずわ が身を護ってくれた小銃の菊の御紋を涙ながらに消したことであった。 わが中隊が武装解除したのが8月27日であった。翌日から裸の兵隊になり、30日平壌北西15km にある三合里に行けとの命令で、服類上下4着、防寒服・防寒外套・防寒靴など大きな袋に詰める だけ詰めたら60kg位あっただろう。 この収容所の入口で露兵の歩哨に時計・ナイフ・薬品など全部没収された。装具検査の露兵は腕 時計を両方の腕に5,6個つけて得意顔をしていた。軍馬と一緒に来た者は、兵だけ入所して軍馬 は淋しそうに啼いていた。 この三合里に収容された当時は、3万という兵隊が入所していて、半月位して将校・下士官・兵 と区別され、 1,500名の大隊が編成された。炊事は各分隊ごとに行い、炊事用の薪が無くなると分 隊ごとに分かれて山に生木の松を切りに行った。 その時、在留邦人の死体を戸板にのせて4,5人 で山に埋めに行くのを見かけ、話を聞くと在留邦人も惨めな生活の中で伝染病が流行して多くの人 が亡くなったと聞く。 昭和20年11月末に、この地・三合里収容所を「トウキョウ・ダモイ」(日本に帰る)の言葉に のせられ、喜んで列車に乗せられ出発。到着した所は日本海側の興南であった。 日本窒素会社の独 身寮が収容所となり、寮1室6畳の部屋に24人の詰込み生活であった。寮の庭は広いので、この 庭に便所を作った。 その構造は巾1.5m深さ1m位で、巾1.5mの上に丸太木を渡して、その周囲に は筵(むしろ)を外より見えないように吊してあり、朝のトイレ時間帯には雀が電線に列を造って 止まっている姿と同じく壮観であった。 用を済ませて食事が済んだら、限られた人員で興南の港へ入港するソ連船の荷役作業であった。 彼等が云うている戦利品、つまり満州から略奪した数多くの物資の船積み作業に追われて疲れて 帰ったものである。 6月初めになると、露兵が来て「トウキョウ・ダモイ」(祖国に帰れる)と言われてソ連船に乗 船した。今度こそこの船で祖国に帰れると喜んでいたら、なんとこの船の針路は南の方へ行くべき が北の方に向かっており、ダモイは真っ赤な嘘であった。 後で知ったことだが、ソ連領ウラジオストックの南西にあるこの地は露海軍の潜水艦の基地と か。皆上陸して湿地帯の野原に投げ出された。各分隊ごとに毛布を縫い合わせて幕舎を作る。 この 地に4万人位いると聞く。だから幕舎の街が出来ている。 その夜は幕舎もなく荷物を枕に北斗七星を見ながら寝た。丁度6月中頃で梅雨の時期なので、毎 日雨が降る。 炊事用の水汲みの使役、薪割の使役があり、糧秣は案外良く、油飯とパン、メンタイ が多く出た。不慣れな食生活で体調を壊す者が続いた。 風土病も発生して、4km位の所に行き予 防注射をしてくれたが、その注射針たるや軍馬に射す大きな針で、とても痛みを感じた。
この地も7月に入って梅雨も済むと、すぐ有蓋車に25名乗せられてホシェトを出発。道中ハバ ロフスクを通過してバイカル湖畔に停車して飲料水を取ったり水浴をしたりした。 その折りに、とても日本語の上手な露軍の将校(中尉)が日本語で話してくるので、 「貴殿は日本語が日本人みたいに上手ですね」と聞いたら、 「私は日本人ですよ」と事情を語ってくれた。 「私はノモンハン事変で捕虜となり、モスコーで 色々教育を受けて現在に至っておる。わが女房も陸軍中尉で、夫婦で頑張っておるよ。何年先か知 らねど、必ず祖国には帰れるから、身体を大切にして頑張って下さい」と。 日本では故人となっている人が、ソ連では軍人として頑張っていた。 これからが大変であった。貨車の内は蒸し風呂で、窓を50cm位開けてはあるが、皆フンドシ1 枚のまま、 シベリア平野を通る時は毎日同じ所を走っている感じで、ウラル山脈に入ると、また山 ばかりで、ここを通過するとウクライナ地方になる。流石(さすが)に大きな国だなと思った。 この蒸し風呂の中の貨車で12,000kmの鉄路を走破して、昭和21年8月ウクライナ共和国のスラ ビアンスクという街の収容所に入れられて、即明くる日から7km位歩いて道路作業に出た。 これから始まる重労働には各人にノルマが課せられ、このノルマが済まぬと帰れないので、体の 弱い人はとてもノルマを達成するのは無理なので、早く済んだ人が手伝って、 皆が完了してから収 容所へ帰ることが出来た。重労働のノルマに疲れ果て、帰路は声を出して語る人も居なかった。
食糧といえば、1日に黒パン350g、オカズ(カーシャ)飯盒(はんごう)に7分目位だが、こ の食糧で重労働を課せられた。 道路作業中に凹部があると、その中に薬きょうが沢山あった。道路 の街外れまで来ると、大きな壕があり、その中にドイツ軍の兵隊を沢山埋めてあった。 凡そ15名程この道路補修工事に出され、補修が終わって夕方に収容所に帰ることになったら、 15人の内10人程が夜盲症になって、5人の帯鞁(たいかく)につかまって数珠繋ぎになって収容 所に帰った。これも栄養不足で夜盲症になったのだと思う。 少ない食糧で重労働をさせられ、生き て日本に帰れるかと思ったこともあった。 収容所では皆一緒に枕を列べて寝に就く。皆お腹が空いているから、故郷の美味しい食物の話に なる。 隣に寝ている戦友とも夢中になってこの話をしたが、翌朝になって起床の合図にも起きない ので手を差し延ばしたら、体が冷たくなってあり絶命していた。彼はこの夜、親兄弟のことを想い ながら永眠したことであろう。 兵隊は種々の職業の人がいる。お坊さんも居り、その人にお願いして読経して頂き、前に亡く なった戦友と同じ所の雪深き凍土に葬った。いま私は念仏とともに涙しながら書いている。 この頃から町の工場へ行くようになった。タイル工場、ソーダ工場、塩工場、建設現場等々が あった。昼休みには外に出て、ヨモギ、アカダ草を飯盒一杯つめて工場の排気蒸気でゆがき、水で きれいに洗って塩工場へ行く人から塩を貰って、塩をまぶしてよく食べたものだ。 またキャベツ畠 に残っているキャベツの根の厚い皮を取れば、中の芯は大根のようだった。このように草や野菜類 で腹を満たしていた。 この頃、ソ連の軍医の身体検査があり、お尻の肉付きを調べる検査であった。 結果は1、2、 3、4と定められ、1、2が重労働、3は軽作業であった。私は38°の熱があったので申し出たら 駄目と言われて作業に出され、苦痛に絶する思いをしたこともあった。 検査の結果、1、2の身体 の丈夫な者30名程が指名されて石取り作業に連れて行かれた。その中に私も入っており大変だっ た。 先ず宿舎といえば、傾斜の処に家を造って屋根は土で埋めて、入口は階段を付け、昼でも暗いの で電灯は付けっ放し。 その頃虱(シラミ)が多くなって、日曜日は虱取りで大変だった。消毒に出 すと服・下着は薬品のため焼けて無くなるので、同じ服・下着しか消毒には出さないものだから、 虱は多くなるばかりであった。 この石取り作業は2人で1組となり、1人が50cm位のダカネを持ってそれを廻す。後の1人が ダカタガネの上の処を大ハンマーで上から叩いて穴を30cm位掘る。 零下20℃位の現場で、石は堅 く外は寒いので凍傷にならぬようにしているから、仕事は捗(はかど)らない。 時々ソ連兵が来て「ダワイ」(働け)と申すが、来た時だけ動いて彼が居なくなると動かない。 時間が来るとトラックに乗って暗いラーゲルに帰り、寝に就く。 翌朝またトラックに乗せられ現場に発破で出た石を2人でモッコに入れて穴より担ぎ出すのが1 日の仕事であった。
この仕事を1ヵ月位してから、スラビァンスクの収容所へ帰って、各工場などの仕事に従事して いたら、ハンガリー人の収容所へ入所することになり、門を入る折りに彼等が楽団で大平洋行進曲 を吹奏して出迎えてくれて、やはり同盟国であることを感じた。 この収容所に1ヵ月程いて、その後のクラマトールスクという町の収容所ではドイツ人と一緒で あった。この建物は立派な2階建て病院だったそうで、入所当時南京虫が多くて寝られず消毒をし て貰ってから、寝台であったから良く眠れるようになった。 クラマトールスクには大きな工場があり、レーニン工場という名の工場で周囲が4kmという軍 事工場へ労働に行かせられた。工場へ行く時は門でソ連の下士官が人数を調べるのに5列にして 5、10、15と数えていくので、彼等は掛け算を知らんのだと思ったものである。 この工場では殆ど女子が多く、その理由を尋ねると、男は皆兵隊へ行っていると申していた。こ の工場ではドイツ人より日本人が好かれた。というのは「ハラショ・ラボター」(良く仕事をす る)とのことで評判が良かった。 私達には捕虜という言葉は使わず「タワリシ」(同志)と申して いた。 昭和22年頃になると男も多くなり、除隊した者が多くなったものと思った。 日曜日はコルホー ズに引き出され、ジャガイモ・砂糖大根等の収穫に連れて行かれ、その野菜を飯盒に入れると没収 されるので、ズボンにゲートルの上まで入れ、帰路には重たくて歩けないので、ソ連兵が早く歩け と大声で呼んでも平然としていた。 持ち帰った野菜は明くる朝工場へ行く時に持って行って鋳物工 場の焼砂の中に入れておき、昼食時に取りに行って砂糖大根等は美味しく食したものである。 工場で労働するようになって1ヵ月してから、発電所の濾過タンクの石灰石などを取り出すよう 命ぜられ、ロシア娘などと一緒に仕事をしていた。昼頃になったら私に来いと申して、食堂に連れ て行ってパンとソーダ水を御馳走してくれた。 片言のロシア語を話せるようになり、名前を聞くとワレシコワと申し年齢は21才と申してい た。時々食堂にもよく連れて行って御馳走してくれ、昼食時にはよく私の所に来て話をするように なり、片言のロシア語を彼女も理解するようになった。 日本には彼女が居るんだろうと聞くので、 居ないと申したら、ダモイ(帰国)せずにクラマトールスクで暮らしたらどうだと申した。私はそ れは駄目、出来ないと彼女に申した。彼女も今頃は老婦人になっているだろう。 このレーニン工場ではノルマも厳しくなく、食糧事情も良くなり、元気にもなった。この工場で は職場も変わって発電所の仕事ばかりであった。 ボイラーの中の仕事で、このボイラーは8畳敷き 位の立ボイラーで、油と石炭を粉末にして燃料にし、その炭殻が隅に付着しているのを取り落とす よう命ぜられ、 5m位の高さなので足場を作って落としていた私が大きな炭殻諸共落下して腰を痛 打して歩けなくなり、血の小便も出たが命には別状なかった。 すぐ自動車で病院へ連れて行かれ た。 この病院は、当時同盟国であったドイツ・ハンガリー・ルーマニアの人達が怪我をして入院して いた。大怪我をして命は明日とも知れぬ人。飲む薬はなく、只ベッドで休養しているだけの人。 お 互いに片言のロシア語で早く祖国に帰ることを願うばかりだと話したことであった。 私が入院した当時から隣にいた滋賀県彦根工業学校出身の宇野某氏も入院しており、建築現場で 大怪我をして入院していたが、病状は思わしくない状態であった。 その頃ダモイの噂が流れていて 日本人は歩ける者は皆退院させられたが、宇野氏は私に「退院して帰れるから良いな」と涙を流し ながら泣いていた。元気になって復員出来たのか、今も心残りになっている
数々の重労働を強いられて耐え忍んで、漸く我等もダモイの声を聞く日がまいり、ダモイ列車に 乗る日が来た。 クラマトールスクを離れる時、入ソ当時の1,500人が1割少なくなり、帰る日を待ちながら親・ 妻・子の事を忘れることなく亡くなった戦友を凍土の中に残して帰るのは後ろ髪を引かれる思い で、冥福を祈りつつダモイ列車に乗ることが出来た。 ウラル山脈を越えシベリア平野ハバロフスクで一時停車、線路に皆降りて話があると聞いていた らレコードをかけてくれて、 曲が「雨降りお月さん」民謡の「木曽のなかのりさん」のレコードを 聴き感無量であった。 その後、日本人の新聞記者(共産教育を受けた人)が、 「君等は今までソ連にいて、どんな教育を受けたのか。何も教育されていない。未だに上司は階級 章を付けておる。日本へダモイさせることは出来ない」と申して怒られたので、 すぐ選挙して幹部 を作って列車に乗ってナホトカに着いた。この地でも共産教育で洗脳され、天幕生活で毎日教育さ れた。 15日に1回しか入港して来ないのを理由に、遙か地平線の彼方は1日とも忘れたことのない祖 国日本であるのに、復員船を手配しないのは何故か、 現在日本は米軍に破れて食糧は皆無で、日本 に帰ってほしくないと復員船も手配しないのだと洗脳して、兵隊が憤りを感ずることを申してい た ナホトカ滞在1ヵ月程して、昭和23年7月12日、復員船遠州丸に乗船することが出来た。遠州 丸は波穏やかな日本海を滑るがごとく刻々と針路を舞鶴に向けて走り続ける。 明日入港するという 前夜は、皆が寝もせず船員の方と演奏会を開いて、当時の流行歌を船員方がギターを弾いて歌って くれたことが脳裡に残っている。 朝方、祖国の山々が見えて来た時、誰がと申すまでもなく甲板に出て、皆が万歳万歳と唱えたも のである。 いよいよ舞鶴湾に入る時、初夏の陽光は輝くばかり、小島の松のみどりの美しさ、一日 とも忘れたことはない祖国日本の土を、昭和23年7月14日に帰国して踏むことができた。 が、忘れてはならぬことは、凍土の中に置き去りにして来た故戦友達の御霊に後ろ髪を引かれる 想いで一杯である。今想うに、衣食足りている我が身は、飢餓の中の我と何れが夢かと。子等に悪 夢は見せまじ。 <編集者からのひと言> 7月24日のこと、未知の女性から次のようなメールが届きました。 「はじめまして。戦争を語り継ぐプロジェクト60を拝見させていただきました。 私の祖父(85歳)は、戦時中からシベリアに抑留されていました。 生きているうちに、どうしても後世へ伝えていきたいと辛かった体験を思い出しながら手記を書い ています。 戦争について考えてほしいという祖父の思いを伝えるために、どこかでたくさんの方々に見て頂く ことができないかと思い、失礼ながらメールさせていただきました」 私どもプロジェクト60としては願ってもないことで、さっそく手記を読まして頂きたいとの返 信をしたことから話が進み、ここに「シベリア抑留記」を掲載することになりました。祖父の思い を伝えたいというお孫さんの熱意が実現したことを共に喜びたいと思います。 シベリア抑留の体験記録は、すでに「証言リスト」の中に幾つか含まれています。収容所の環境 によって個人差があるのは当然ですが、それぞれにかけがえのない苦難の体験をされたことに違い はありません。 当時のスターリン政権は、1941年に締結した日ソ中立条約を無視して敗戦の1週間前に満蒙国 境を越えて攻撃を開始しました。 その上、60万人の日本人を連行して強制労働させた理不尽な仕 打ちが通用したところに、戦争の実態が権力による民衆の犠牲にあることを確認したいと思いま す。 この「シベリア抑留記」は自筆の手記ですから、実名を公開することにいたしました。 掲載に当たっては、筆者の了解を得て編集の手を加えましたこと、および挿入した図版と解説は カルトーシカ同友会編集のアルバム「復員までの足跡」(1972)から転載しましたことをお断り しておきます。
「親が苦労した姿を娘が見ていたから……」 昭和20年には29才でした。女学校を出てすぐに結婚しました。私は長女で、弟は戦争に行きま した。終戦の時は疎開していて高松の田舎にいました。家は阪神沿線にありました。 上の子どもが 小学校4年生で集団疎開したので、その子のことが気になって私も知り合いを頼って田舎へ移りま した。遠い親戚に当たる家で田舎でしたから、畑の手伝いをしたりして食べものには困らなかった のです。 初めの主人とは早くに別れました。 電力会社の変電所で大きなタンクが爆発して殉職したので す。お金が下りましたので何とかやっていけましたけどね。子どもの月謝を3ヵ月溜めて、待って もらって働いて返したこともあります。 終戦のラジオ放送は何を言うているのかはっきり分からなかった。後から戦争が終わったと知り ましたが、家は空襲で焼けてなくなっていました。 それで千里ガ丘の母の家にしばらくいて、それ から娘2人を育てなければいけないので働きました。私らの若い頃は働くところがなかったんです よ。それで苦労しましたよ。料理旅館で朝から晩まで働いたりしていました。 そのあと50代の頃 はスーパーでパン屋を自営していたこともあります。 苦労しましたが、これも運命やと思って働きました。 親が苦労してきた姿を見てるから、上の娘 がよくしてくれます。娘たちは私の宝みたいなものです。全部で孫が4人、ひ孫が5人います。 このケアハウスに入るまでは、娘2人を嫁にやって1人で暮らしていたので、 風呂を沸かさずに 銭湯へ行ってましたが、子持ちの母親がたまに入ってきて、子どもが何か悪いことしても怒らへん のです。 こちらが見ていたら目に余っているのに母親は知らん顔している。昔は子どもの育て方が 違いますからね。今は子どもに甘いお母さんが多いですね。 私には生まれつきの持病があります。心室細動という病気です。子どもの頃も朝礼が長いと倒れ る。運動会で走ると倒れる、そんな状態でした。校医さんがこの子を走らせたらあかんのにと言い ました。 バスに乗るのが遅れると思って急ぐと心臓がドキドキしてくるんです。だから無理はしな いので長生きできたのかも知れませんね。朝起きたときが一番しんどいのです。深呼吸をしょっ ちゅうします。 植木が趣味で菊作りしたりして楽しんでいましたが、今年は体が弱って、菊も去年咲いたまま何 も世話できないでいます。もう仕様がないですわ。 (取材記者のひとこと) 90才に近い年齢とは思えないほど顔色もよく、年より若くお見受けしました。心臓の持病があ るので無理をせずに、何事も運命と受け取って、悔やまず悩まず淡々と生きて来られたことが長寿 の秘訣のように感じられました。
パラオ島沖の海を漂流、生死のはざまを越えて生還した従兄の物 語 (赤澤 喜美得「私の戦争史・新編」より) ★はじめに 昭和20年6月29日、岡山が空襲を受けてから今年は60年目、むかし祖母が亡くなったのはその 2日後のことで、7月1日が命日である。 先日私は、今年も祖母の命日にお墓参りをして墓前の草むしりをしながら、60年の歳月をふり 返り、お葬式のとき元気な男子は全部出征していて、いつ空襲警報があるかもしれぬ中を…… わび しかった思い出がうかんできた。 祖母は子供5人、孫は男女16人いた。何事かあると、分家や親戚の従兄弟などがすぐ集まる。 棒切れや竹をふりかざして走りまわり、外の方は賑やかな戦場となる。 おばあさんも、 「この孫が大勢育っておるけん、私が山へ上がる時には輿の担ぎ手には困らんで、しっかりしたも んじゃなあ」 と頼もしそうに笑っていた。 そのガキ大将らも成人して、徴兵検査に合格し、兵役について次々に出征して行った。お葬式の 時は孫6人が出征していて、祖母の出所の甥2人も応召していた。 屋守の叔母は、 「三人も男の子が奉公しておりますけん、どの子かが天皇陛下に上げます子になっても、しょうが ありませんなぁ」 と覚悟ができたように話していた。 お位牌は父が亡くなっているので、女の私が持ったが、世相が緊迫しているので、何とも言えぬ わびしい野辺の送りであった。 ★その頃、従兄は死線を越えて 分家の十九一さん(私の従兄)は、現在88才(大正6年生まれ)、少し体調がすぐれないの で、見舞い方々、話を聞きに行った。(平成17年3月23日のこと) 「おー、わしも大平洋を12時間も泳いで助かった命じゃ。ジャングルの中で弾丸の間をくぐり抜 けた命じゃが、ようもったもんじゃ、もういつ死んでもええぞ」 側にいた奥さんの笑子さんが、 「また始まったで」 と笑っている。 日頃、話の端々から激戦地で戦ったくらいには思っていたが、よくも生きて帰ら れたなぁ、只ならぬ生命であると、つくづく思い、ぜひ後の人に書き残したいと思った。 ★現役兵として入隊 昭和14年1月10日、加古川高射砲隊へ現役兵として入隊し、4ヵ月間加古川で初年兵としての 訓練を受ける。続いて陸軍病院で衛生兵としての教育を受ける。4月から12月まで。 その後、内 地で衛生兵として勤務をする。 昭和16年夏頃、大連から上陸して、旧満州のチャムスで約半年勤務する。 昭和17年4月、満期除隊になって、図門(朝鮮半島北部)を通って帰還した。 ★1年8ヵ月して再び応召 昭和18年11月末、赤紙が来て再び軍隊に入る。姫路中学校講堂へ集結して、外地へ向けて出発 の準備をする。 12月、宇品出港。にきち丸(1400トンの徴用船)で、南洋のパラオ島へ向かって出発した。 九州を過ぎたあたりより、米潜水艦が尾行して来た。 行方を隠すために西へ東へとジグザグに走 行して、直行なら1週間で着く予定だが、23日かかってパラオ島沖へ着いた。別々に走行した船 は、パラオ島沖で5隻の船団を組むため5日程停泊した。
★爆発した船から海へ投げ飛ばされる 昭和19年1月1日、船は赤道直下を通過した。 食糧の乏しい中を赤飯を炊いてお酒をつけて赤 道まつりをして祝った。 上空にはいつも連合軍の飛行機が飛んでいたが、出発当初は爆撃はなかった。 十九一さんも、金 光、連島の近郷出身の人がいたので、戦友として特に親しくなり、 「おーい甲板は危ないぞ、船室へ下りろ」 と迎えに来る。下へ降りると、これもまた不安でまた上がる。直撃を受けるぞ、と呼びに来る。 スコールで烈しく雨が降り出した。何百の敵機が雲の上をゴーゴーと舞っている。 2時間程したらスコールもおさまった。すると200機程の爆撃機が一斉に船をめがけて襲撃を はじめた。 「下が危ないから上がれ!」 「上は直撃を食らうぞ、下りろ!」 夕方7時、応戦するすべもなく、にきち丸の弾薬庫に敵弾が命中し大爆発を起こした。 十九一さ んは気がついたら爆風で海中に投げ飛ばされていた。船から離れるために必死で泳いだ。 浮かんで いる竹竿の束につかまり後を見たら、船は4・5回大きく揺れて、見ている間に水没してしまっ た。 夕暮れの甲板には照明灯を振って大きく円を描きながら、海中へ投げ出された兵隊等に別れを告 げて、船諸共沈んでいく船長の姿を見た。 19年1月10日午後7時、南緯5度7分の地点で5隻の船団は一度に壊滅してしまったのであ る。 この時の被害約3万5千人、この海域では最も大きい損害であった。(注:輸送船や被害者の 数字は確かではない) 船室にいた戦友は助けようもなく、二度とまみえる事はなかった。 この船団はオーストラリアへ、9万の兵隊を送り込む作戦であったけれど、輸送船の調達も充分 でなく、爆撃の損害も大きくて、この計画は失敗に終わったのである。 ★大平洋を漂う 一方、海に投げ出された者は、助けをもとめるすべもなく夕闇の海中に漂うよりほかはなかっ た。 暗黒の12時間、気がついたら片方の靴が脱げていた。赤道直下とはいえ夜の海中は寒かっ た。海中で小便をしたら、ほっかりと海水が温かく感じられた。 一度に放尿したら後が長いので、 少しずつ出して、その時だけでも暖かく感じて、自分が生きていることを確認しながら、夜の明け るのを待った。 広い太平洋に朝が来た。 速度の速い小型の駆潜艇が、シャーと近づいて来て縄梯子を下ろしてく れたが、どうしても自力では身体が水から離れない。縄梯子を引き上げてもらって、やっと甲板に 這い上がった。 助かった。運がよかった。小型船なので海上に残されるかも分からない。それこそ 必死であった。 ★ニューブリテン島に上陸 十日間ほど島影をくぐり、ニューブリテン島に上陸した。 この島は3年程前から日本軍が占有している。近くのガダルカナル島は九州の強豪な軍隊で固め ていたが、既に撤退していた。 すぐ近くのブーゲンビル島も米軍が1ヵ月程前に上陸して激しい戦 闘が行われている。12月15日にはニューブリテン島へ約4千人の連合軍が南岸から上陸して攻撃 している。 この周辺の島や海域は次第に連合軍の支配が広くなって、非常に危険な状態になってき ていた。 ニューブリテン島の中心ラバウルは、原住民が約5万人、土民の首長が島を支配していて、2カ 所に副首長がいて世襲制であるが、一見不気味であった。
★やっと上陸ができ、同郷の戦友に出会う 島へ上陸したら早速、お前等は顔色がよい、元気がよいので応援に出てくれ、と命令された。 20人程の小隊を組んで山中へ入り、負傷兵の収容に当たる。本隊へ戻ると、また出て行けと繰り 出される。 前から島にいた兵隊も疲れ切っていた。 いよいよこの島の西端に近く中隊本部があるタラセヤという所へ行くことになった。この島の真 ん中に巾8キロメートルにわたり底なしの沼がある。 米軍はかつてこの沼にはまり大勢の兵隊が命 を落とした所だ。海岸を通れば敵軍に狙い撃ちされる。南岸は4千人の連合軍が攻撃態勢にある。 4千メートルの高い山を越えて、戦闘部隊が先にジャングルを切り開き、衛生兵が傷病兵を看護し ながら徒歩で15日かかって到着した。 タラセヤには弾薬倉庫があり、岡山師団の1ケ中隊が駐屯していた。 1ケ中隊に衛生兵20人と2 人の軍医がついて、ここへ野戦病院を作った。 ヤシの葉を敷物にヤシの枝を組み合わせて、10人 程収容できる屋根を覆い、これで1棟出来上がり。野戦病院も簡単である。 戦死した兵士達は、全身を火葬にすることができないので、小指を一本切り落として、ヤシの油 で焼いて火葬とした。遺髪と共に小指の骨を故国に帰すのである。 山中に入っては負傷兵を探して、病院へ運び治療する毎日であった。 ある日、他の部隊と連絡をしていると、 「岡山県玉島出身の中山さんがいるで。あんたも玉島か……」 「ああ、その人は隣家の亀一さんだ」 ということで連絡がついたので、早速休暇を取って面会に行った。 約50キロメートルの道のり は危険な所であった。こういう所で近隣の人と出会うとは、もう懐かしく、うれしさで一杯であっ た。 3回程お互いに往来して面会したが、中山さんもニューギニア沖で爆撃を受け大平洋を一晩中 泳いで助けられた同じ経験を持ち、 お互い相通じる気持ちで抱き合って互いの無事をよろこんだ。 中山亀一さんは、最後の時は腕を切断する大負傷を負っていた。お互い別れる時がいつ最後となる かも知れぬ厳しい状況であった。 ★戦況は厳しい ニューブリテン島も、兵隊は次々に倒れ、食糧は乏しくなり、援軍はなかなか来ない。 激しい戦 闘のない時は山へ入って木の実を探す。 ヤシの実が一番食べやすく、木に登って実を落として、未 熟なものは草むらに埋めて、熟した頃を見計らって食べる。大体年中木の実がある所なので、どう にか命をつないだ。 この頃の島の指揮官・今村大将に「軍司令官同格の待遇をするから、米軍援助の食糧を受けるよ うに」と米軍側から交渉があったが、大将は心苦しいと拒否した。 こうして日本軍人の誇りを貫い たエピソードが残っている。
★最後の決戦に挑む 司令部本部より 「全員ラバウルに集結せよ。最後の総攻撃を決行する。団体行動は取らなくてよ い。一人になってもラバウルに集まれ」と命令が出た。 中隊本部も引き揚げた。野戦病院でも負傷者を同行することはむずかしい。 傷病兵の枕元へ2個 の手榴弾と、残った食料を分けて置いた。自決するか、投降するか、いずれを選んでも再び会うこ とのできない最後の別れを交わした。無念の別れであった。 ★ラバウルへの道は嶮しい 生きのびてラバウルをめざすには、4千メートルの山岳地と、裾の8キロメートルの沼地があ る。 大きく横たわる河はワニの棲息地である。この自然条件の中を敵弾を避けながら脱出するので ある。中隊は5つの小さい集団を作って行動したが、難関をくぐり抜ける度ごとに戦友が倒れてい く。 沼近くの通り易い所には先に通過した部隊の犠牲者が連なって倒れている所もある。 河も泳いで渡らねば方法がない。一緒に泳いでいた戦友が仲間から少し遅れた。それをめがけて ワニが飛びついた。 目前でワニの餌食となっても、自分が逃げるのが精一杯で、誠に無惨なことで あった。 南方特有のはげしい雨期にかかった。棒を切 ってヤシの葉をのせ、一人用の小屋を作り、その下 で雨をしのぐ。 夜な夜な潜行すること60日、やっと日本軍の勢力のある村に着くと、多少気持ち が落ちついた。 この村にはよい水があり、しばらく心身を癒していると、 「危ないぞ、早く逃げろ……」 と連絡がとび、急にバラバラになって村落を逃げ出した。 ★終戦の声を聞く 命からがらラバウルの日本軍本部に辿りついた。本部自体が弱体化して、統一行動も充分ではな かった。 60日間、生と死のはざまを往復して参集した兵隊にとってはいささか淋しかった。 終戦の報道があった。 6万人の生命は先ず傷病兵から引き揚げられ、十九一さんは昭和21年4 月24日、故国の土を踏んだ。 十九一さんが一気に語り終えた60年前の鮮明な記憶は、血涙の記録である。
シベリア抑留の苦難を耐え忍んで 日本の再建のため帰国した命の限り それでは、招集を受けて入営した時から話します。もうこの歳だから忘れていることもある。だ から記憶にあることだけ聞いてもらいたい。 昭和16年7月2日に招集令状が来ました。うちはもともと家族が少なくて、姉はすでに嫁に 行っているので、父母と私と3人暮らし。そこへ招集が来た。 両親が達者ならいいけれども、田植 えも済んで、草取りから帰ってきて風呂へ入って、 夕飯を食べた後、母がルイレキという病気で咽 (のど)が腫れ、激しい痛みを訴えた。 父も中風で寝たきりになった。 すぐに医者に電話したところ、医師会へ行っているので留守だから帰るまで待ってくれという。 翌日往診に来てくれたが、自分の手に負えないので気休めに薬を出しておくと言う。とても大学病 院へ連れて行ける容態と違う。 母は「痛いよう痛いよう」と言うばかりで水も咽を通らなかった。 そんなわけで、父も母も寝たきりになって、シシババの世話もせにゃならん。 ご飯も食べささ にゃならん。当時は今のように便利なオムツはないから、敷布団を通して畳まで濡れてくる始末 やった。その上、洗濯も畑仕事もせにゃならん。 世界でたった2人しかない親の世話を一生懸命し てるのに、お国のためとはいえ赤紙1枚で両親を放って入隊せんならんのは納得いかない、言うに 言えないほど悲しい、と親しい知人に話していた。 そんな生活の中で7月15日、有無を言わせず出征の日になった。母に別れを言いに行くと、泣 いてしまって頭をよう上げへん。なんぼ泣いても出征せにゃならんと言うしかない。 中風で寝たき りの父のところへ行くと、父は上がり口まで這うてきて「しっかり頑張れよ」と言うてくれた。 「おれも頑張るから、お父っあんも頑張るねで」と返事した。「おれはこれから商売に行くのと違 うて戦争に行くのや。 だから先に死ぬか分からへんけれども、先に死んだ者が三途の川で待ち合わ そう」と約束して泣いて別れた。 入隊したのは堺市の青蓮寺に兵舎がある千人ほどの部隊で、そこから10キロほど離れた山麓に 厩(うまや)があって2千頭ほどの馬がおった。 1人当たり2、3頭の馬を世話するのが毎日の仕 事。 面会謝絶だが、朝夕通う道の途中に面会の家族がいっぱい待っていて、饅頭や餅やと言うて渡 しているけれども、 私の家はいま言うたような状態で、誰にも面会に来てくれとは言われへん。 わ しは泣きながら、面会謝絶やから、面会に来てくれんでも心配しなや、と家へ手紙を出したもの や。 しかし、わしの本心は寂しかった。戦友から「これ食べよ」と餅を貰っても喉を通らへん。夜も 寝られんかった。 が、そんなこと言うていてはいかん、父や母のことは忘れにゃあかん。先に死ん で迎えてやりたいが、犬死にしてはあかん、きっと手柄立てて戦死しないとあかん、と一生懸命に 軍務に励んだ。
部隊が到着した所は朝鮮の馬山(バザン)で、そこで3日ほど滞在した。 その八百屋さんの家族 がよくできた人で、「招集されたら難儀ですな」と言うので、「家に病気の両親を置いて来た」と 話した。 「映画に出てくるような可哀想な話やな」と言うから、 「事実そうやで、おれが戦死した ら、昔から続いた家を継ぐ者がない、家が潰れてしまうのや。先祖がみな無縁仏になってしまう、 それが辛い。死ぬのは構わへんけれど、無縁仏になるとは・・・」と、わしは泣いた。 「気の毒や な」と、その家の主人は病気で酒を飲めないというのに、「おれも日本人や、一緒に飲み明かそ」 と言うてくれて、朝まで泣きながら飲み明かした。 明くる日は出発。奥さんは気をつけて水筒にいっぱい酒を入れて、ご馳走をこしらえて弁当をつ くってくれた。 着いた所は満州のリンコウで、287部隊に配属された。その部隊はシチョウ兵で、 後からどんどん招集兵がやって来る。わしは馬のウも知らんけれども、馬に乗る仕事を命じられ た。 上司になった上等兵は東北弁で、何を言うているのか分からへん。いつも殴られてばかり、こ れが軍隊や。自分が足りないのやと思って一生懸命に尽くした。 昭和18年になって、家の近所の鮫島という優しい女の先生から軍事郵便が自分あてに届いた。 それまで音信不通で、家からも誰からも手紙は来なかった。 町の収入役が、出発の際、銃後は任し とき、と言っていたのに、父も母も死んだという通知は役場からもなかった。 鮫島さんの手紙に、 そんな可哀想なことはないので、軍事郵便の許可をもらって知らせてくれたということやった。 その郵便によると、母親はわしが入営した昭和16年の10月に亡くなっている。父親は翌年の 12月に死んでいる。それなのに、役場から一通の連絡もなかった。 同じ昭和18年には、百万ほどあった関東軍の兵隊がほとんど満州から南方戦線へ送られた。 と ころが、途中でほとんどの輸送船が沈没させられ、少しだけ生き残った兵隊が九州へ上陸した。 しかし、わしはおかげで残留兵として満州に残り、新しく歩兵になったが、自分は元の馬部隊に 転属してほしいと連隊長に面接して申し入れた。 そうでないと命が保てない、命あってこそ国に尽 くせるのだからとお願いしたら、よし分かった、と大隊本部付に転属させてもらった。 大隊長の戸田大佐は大酒飲みで、人の好さといったら最高やった。肚の太い人で、朝から酒を飲 んでいる。私も酒は好きや。 大隊長が「おい、羽田。おまえ、おれの酒の相手できるか」「はい、 できますよ」というわけで、夏は朝から裸で酒を飲んでいた。 「点呼に出ること要らん、フンドシ 一つで裸になれ、こうなったら男と男や、おれの相手せい」そんなわけで毎日酒を飲んで暮らし た。 私の職務は兵器係で、他に中尉の兵器係がいた。その中尉は兵器のことは詳しいが、馬の扱い方 は知らん。 私は馬のことはよく知っておる。「中尉は馬を知らんから、私が責任を持て」と大隊長 から言われた。 ということで大隊付の軍務を勤めていたが、ある時、大隊長に「これでは日本は危 ない、参ってしまいますよ」と言うと「そんなことはないが、もし日本が負けたら武士や」と言 う。 つまり、その時は切腹するという意味や。 「分かりました」ということで、また大隊長と飲ん でいた。 やがて中尉が出先から夕方7時頃帰ってきて、馬から滑るように落ちて泣いてばかりいる。 「分 かった、戦争に負けたんやろ」と聞くと、「無条件降伏した。天皇陛下のお言葉を聞いた」と泣く ばかり。
その直後、南満州のキョウハツ湖という湖畔で、撥水系天幕の中へ、私を入れて5人の将校が、 軍刀を抜いて、一言も言わずにうなずき合い、寄せ書きの日の丸を巻いて無言で切腹しようとし た。 大隊長は一生懸命に怒鳴っている。腹を切ろうとしたら「ちょっと待て」と言った。 「死しては 国の為ならず。わが本土は焦土と化しておる。内地に残っているのは、子ども、女、年寄り、怪我 人。病人ばかりや。この枯れかけて滅びかけた日本の国を、我々軍人が立て替えるのじゃ。決して 死んではいかん。どんなことがあっても命を持って帰れ!」と言う。 その言葉を聞いて、みんな抱 き合って泣いた。 それからその気持ちになって、日本の国を再建しなければあかん、腹切ったらあかん。日本の国 に親も妻も子もおるのやろ。 あるいは彼女もおるのやろ。帰って来るのを待ってる人が大勢おる。 国のために我々軍人は懸命になって働くのじゃ。帰らにゃあかん。口々にそう言い合って酒を飲ん だ。 4、5日したら武装解除、情けなかった。軍旗、軍刀、拳銃、みんなソ連軍に取られた。針1本 まで取っていった。それからソ連の指揮下に入って行軍が始まった。 毎日々々行軍で、ろくに飯も 口に入れないで、飯ごうに半分ほどのコーリャンのスープだけ。そんな食事で毎日行軍した。水も ない。兵隊や馬が水を求めて行くと、水溜まりには人や馬の死体がドロドロになっていた。 それで も辛抱できずに飲むと、えらい臭いがしている。死んでもかまへん、末期の水になってもかまへ ん。あの世でお父っあんもお母っあんも待っとる。 しかし腹痛は起こらんかった。よかった。 100m200m隊列から遅れたら、ソ連の兵隊に道端へ連れて行かれて、心臓か頭に銃口を突きつけ られて殺される。隊列から離れんように皆うしろから服を掴んで歩いたが、弱っているから手が外 れそうになる。 女の人が大勢、男みたいに頭丸めてボロボロの着物きて墨ぬってトラックで何台も何台も通って 行く。「兵隊さーん、助けてちょーだーい!」と叫んでいる、そんなトラックがたくさん通る。 しかし、その女の人達を助けるどころか、こっちが助けてほしい。可哀想に、頑張ろうぜ、と手 を合わせて見送るだけ。これくらい戦争というのはむごたらしいものかと思った。 やがて牡丹江に着いた。そこで夕飯を食べるのに水がない。飯ごうを持って水を汲みに行くが何 処にも水がない。マンホールがあったので、蓋を取って水を汲んだ。ヘドが出るほど臭いが水気と いえばそれしかない。 明くる日に見たら、マンホールに死体が重なっている。その上澄みの水を汲 み出して飯を炊いた。 昼からは牡丹江へ水を汲んで来いというので、大きな河へ汲みに行った。 その河の水が死人の臭 いがする。それでも他に水がないので持っていくほかはないと思って一升ビンに2、3本水を入れ て、その水を命綱にして背負って行軍した。 ところがソ連兵は、水は重いので背負ってはあかんと 怒ってパンパンと撃ってくるので、びっくりして下ろす者もいたが、命綱の水がなければ歩けなく なる。 昨日までの朝鮮人は、ホラどぶ酒飲め、餅食べ、と心安くしてくれていたのに、2階から小便を 掛けよる。 上から茶碗を投げよる。鉄砲で撃ちよる。えらいこっちゃ、朝鮮人にも気を許せん。朝 鮮は日本の国と思っていたが、実際はそうではなかった。終戦と同時に敵になった。
収容所まで行く途中で銃殺されかけたこともある。行軍中に夕方ある場所で露営するために停止 した。どの部隊もその川原で露営することになった。草1本生えてない。飯を炊くのに柴がない。 何とかしてくれるやろと思っていたが、何の指示もない。それで橋ゲタの丸太を外して石で割って 飯を炊いた。 食事の前に4列横隊で全員集合、全部で2千人ほどいる。 10mか20m離れた正面に機関銃が ずっと並んでいる。なんでやろなと思ったら、「軍用道路の橋桁を壊した。戦略に大きな支障を来 たした。国の命令で銃殺する」との宣告。 いろんな目に遭うて弾丸の下を潜ったが怖いことなかった。しかし、その時は怖かった。絶対に 日本へ帰るつもりでいたが、いよいよここで殺されるのか。ソ連兵はいつでも発射できる状態で機 関銃を構えている。 発射5分前、足がガタガタ震える。死ぬのが怖くないと思っていたのに、おれ は卑怯かな、と思った。国策に違反したのやから仕方ない、と諦めかけた時、遠方でノロシがボー ンと上がった。それが命令やった。 こっちはそれが分からないが、そのままの姿勢で1時間経って も実行しようとしない。そうなると度胸が坐って、もう震わない、やるのなら早くやってくれとい う気持ちになった。 そうしたら、ソ連軍の高級将校が、軍用道路を壊したため全員銃殺命令したけれども、国からこ の度は大目に見て許すということで、お前ら命拾いした。 これからこのようなことはないように、 元気で日本に帰ってくれ、と説明した。みんな声を上げて泣いた。コウリャンめしで乾杯した。よ かったのう、助かったのう、と言い合った。 こうして1ヵ月ほど行軍して、やっと汽車に乗ることができた。ソ連兵は「ジャポン、ダバイダ バイ、ハラショ」(これから日本へ帰る)と言うて、ハラショ、嬉しいやろ、と万年筆から腕時計 から所持品をみな出せと言う。 日本へ帰るのやから、そんな品物持っておらんでもいいやろ、と言 う。出さんかったらバンバンと撃つので、みな出した。 貨車に乗ったら床も壁も霜がついていて冷蔵庫以上に冷たい。 が、汽車の中は風がないから満員 のせいで温くなってきた。溶けかけた氷をしゃぶって、スープと5p四方ほどの小さなパンを幾つ か食べて、帰れると信じきっていたところ、大きな港へ着いた。 バンザイバンザイ、ハラショ、腹 を切らんでよかった、帰れると信じておった。 ところが、貨車を積んだ船が1時間ほど掛かって向こう岸へ着いた。 それがソ連側の岸で、間も なくダバイダバイと長屋みたいなところへ放り込まれた。将校がみんなを並べて数を勘定しようと しても、途中で計算できなくなる始末やった。 さっそく仕事が始まった。働かないと飯を食わさない。シベリア鉄道の線路を運ばされた。長い 線路を4人で運ぶのだが思うようにいかない。力のない者は蹴飛ばされた。 次に変わった部隊では、土に1mくらいの鉄棒を槌で叩いて埋める作業だが、土が凍って岩みた いになっているのでなかなか入らない。やっと1週間ほどすると慣れてきた。 それからアメリカの貨車に土を積み込んだり降ろしたりする作業が辛い。 15人いたのが1人減 り2人減りして仕舞いに7人になった。それでも15人の計算で作業させられるが、とても積めた ものやない。あとの8人は何処へ行ったのかわからへん。 マイナス30℃やから汗が凍ってしま う。先に帰った者から摩擦してくれる。やっと暖房の効いた部屋へ入れる。毎日スープと小さなパ ンが4つか5つの食事しかない。 ロシア語で言うと、 「ラポーター クーシャシネート ニイハラショー ハラショーラポーター」 (働く 食べ物ない あかん よく働く人) つまり、働かない者には、食べ物を与えない。 どんなに一生懸命働いても、ソ連国の都合いいよ うに強制労働させられた。 ソ連軍としては、抑留した日本兵を殺したら罪になる。作業中に事故で死んでも罪にならん。だ から、無理な作業させて事故を起こしても責任はない。そんな目に何遍遇うたかわからん
中には死んでいく者もある。仕事しているかと思えばバタンと倒れて、オーイと呼んでも目をパ チクリするだけで、看護もできないうちに何処かへ背負って行ってしまう。 そんな兵隊も大勢い た。 やがて夏になって、こんどは伐採作業に行くことになった。向かい合わせに大きなノコを引くわ けや。目が詰まって切れへん。怒るけれど詰まって切れへん。 すると後ろから革のムチで背中を叩 かれる。おーい木が倒れるぞ、と向こうで作業している者に知らせるが、逆に木の下に寄ってきて 下敷きになって死んだ者も大勢あった。 実際に仕事するより死んだほうが楽かも知れん。私も死にたかった。両親ともいないし、姉はよ その家へ嫁いでるから、うちへ帰っても誰も喜んでくれる者はない。 しかし、戸田大隊長の言葉を 思い出すと、死ぬわけにいかない。戸田大隊長は死んだらあかんと言われた。お前らが帰って日本 の国を再建するのじゃ、きっと生きて帰るんじゃ、と。だから頑張り抜いた。栄養失調になってフ ラフラしながら働いた。 材木を山の上から滑らす作業が危ない。命がけやった。お互い手を組んで 材木を運んだ。中には、労働の辛さに耐え切れず、わざと崖からとび降りて死ぬ者も4、5人あっ た。 それを見て「かえって助かったんやろな」と言うので、「バカなこと言うな。どうでも帰って 日本の国を立て替えるんじゃ」と、わしは叱咤激励した。 冬が来た。転々と収容所を変わった。夜中寝る時間に行軍した。朝に目的地へ着いて朝食を終わ ると直ぐ仕事。寝かせてくれへん。2、3時間寝かせてくれたらと思ってもラポール(作業)と命 令して放り出される。 マイナス30℃というトテツもない寒さは、聞くだけでは決して分からん、 実感しないと分からへん。その辛さは口で言えたものやない。その酷寒の雪の上で材木を滑らすの は命がけやった。 無条件降伏とはどういうことですか、と隊長に聞いたら、ソ連の指揮下に入ることだから、ソ連 の命令通りに行動せんと文句は言えん。ソ連の命令で動くほかない。こんな無茶な命令あるのか。 日本の国はどうなっているのか。日本は大きな賠償金をソ連に払う代わり、60万の兵隊をソ連に 質に入れて働かせている。これが日本の経済を助けているのなら仕方ない。 日本の国のために働か ないとあかん。我々はソ連の器(うつわ)に合わさないと仕様がない。器に添うて喜んでソ連の言 うことを聞いたらええ、逆らうたらあかん。今までおれは逆ろうておった。そう私は悟った。 一方、日本の政府は、未だに我々シベリア抑留者に対する感謝や慰労の気持ちを何らかの形で示 していない。寒さや空腹や労働の辛さ惨さを知らんのや。 風呂もなく、桶の水を裸になってかける 時に自分の体を見ると、肉はなく皮が骨に食い込んでいた。骨皮筋右衛門とはこのことやな、と 思った。それでも絶対生きて帰らないとあかん、帰って羽田家を守り、日本を建て直さないとあか ん、と決心した。 それから今までと違って一生懸命働いた。それまでソ連を憎んでいたけれども、器に従うために は共産党を好きにならなければあかんと思った。 共産党はわけがわからん。それなら大学へ入れと 言われた。試験があった。その試験は難しかったが通った。講師は日本人で、日本語で共産党の話 ばかり。 しかし国は疲弊しているから共産党はあかん、と自分では情けないと思うているが、器に 従うていれば心の苦労はないから真面目に働いた。 そうしたら1週間休暇くれて思う存分遊ばせて くれた。食事も十分与えてくれる。ああよかった。 次に戦友に「こうこうやぞ、器に従うて真面目にやっていれば楽できるぞ」「そうか、ええこと 分かっているのやな」 「いや、あんまり苦しいさかい、そう思うことにしたんや」と話し合ったこ ともあった。中には「死んだほうかましや」と反対する者もあった。
私らの収容所から10キロほど離れた所に収容所があった。ソ連女性の受刑者ばかり働いてい た。 その中には、日本の大学へ留学して日本語も話せるソ連の女性もいた。途中にある大きな河を 渡し船で渡って向こう岸に着いて、その工場に働きに行った。それが毎日の日課になった。私は終 戦後に軍曹になっていた。 忘れられんが、10月の20日前後、前日の帰りは何でもなかったが、翌朝行ったら水が増えて 船が流されて1隻だけになっていた。中州に草が繁っていて、みんなその草を食べるのを楽しみに していたが、わしは草を食べん。 毒草を食べて死ぬ者が大勢おったから。わが部下をそんな気の毒 な目に遭わせたらあかん。草を食べたらあかん。腹が減っても辛抱せい、と命令した。 それなの に、わし以外はみんな毒草を食べて、見てる間にヘド吐いて死んでしまった。 だが、わしは草を食べなかったから夜盲症になった。薄暗くなったら靄が掛かったようで、夜は 全く見えへん。 わしの側にいつも仕えてくれていた兵隊が、頼むから毒草でない草を食べてくれ、 と草を飯ごうで炊いて岩塩で味つけて持って来てくれたから、大丈夫かと念を押して食べた。 腹が 減っていたのでうまかった。夜盲症が3日で治った。えらいもんや、やっぱり野菜を食べないとあ かんと、その時つくづく思った。おかげで治ったと部下に礼を言うた。 それから4、5日してから、えらい事件が起こった。桟橋から船に乗り移るために渡しがある。 向こう岸にも渡し場がある。 船が帰ってくるまでに一寸時間がある。岸には水仙がどっさり生えて いる。それを採るのが楽しみで、われ先に採りに行く。うちの部隊が先に乗る番なのに他所の部隊 も一緒に乗ってきた。 ふつう定員18人のところ30人ほど乗った。最後に自分が乗ろうと思った が足の踏み場もないので乗れない。その時、船が傾いてひっくり返って川下へ流された。手を伸ば したら指は触れるが流されてしまった。 測ってみたら深さは20mほどある。みな背中を半分出し て河の真ん中へ流された。泳げないまま流れに任せて浮いていた部下が一人だけ河岸の草につか まって助かった。 他はみな溺死してしまった。 帰った晩は、いつも寝る場所が空っぽになっていた。情けないやら寂しいやらで、みんな死んだ とは思えなかった。えらい可哀想な事が起こったもんじゃ。 先に言うた通り、私は大学へ行くために早い目に作業を終わって先に帰らせてくれた。一人先に 食事して、授業を終わって帰るのは、みんな寝てからやった。にわかに共産党になり切られへん。 そう言うたら怒られる。 「自分は絶対共産党になる」と言うたら、ソ連側は「ここで共産党になっ ても、ジャパンへ帰ったら日本の考えになる」と言うから、「ノーノー日本へ帰っても共産党にな る。 そのために大学へ入っている。帰ったら日本で共産党を広げる」と約束したら「ハラショ」と 言うて握手した。 これがモノを言うて、第一船で帰国できた。 でなかったら5年も10年も、よう帰らんと苦労し たかも知れん。私は2年で帰った。第一船で北海道の函館に着いた。 なるほど北海道から大阪まで帰る間、昔の汽車は日数がかかった。何処も彼処も街という街はみ な黒焦げや。 たまにポツンポツンと昔の洋館建てが残っておる。わしは泣いた。「焦土と化す」と はこのことか。燃えたのは仕方ないとしても、住民はどうしたんやろな。 大勢の住民が焼け死んだ やろな、気の毒に。おれは生きて帰った。 東京もその通り。たまにポツンポツンと焼け残っているだけ。 おれはシベリアで苦労したけれど も、内地で待ってくれている人が先に死んだ場合もあるのか、可哀想に。家財産どころではない。 名古屋でも大阪でもその通り。芋飯も喉を通らないほど辛かった。
家へ帰ってきたら、おれと姉は二人姉弟。おれは朝一番の便で帰ると言うてあったのに、着いた のは朝7時半頃で、迎えに来てると思ったのに来てなかった。 朝早かったからなと思っていたら、 姉はお粥さん食べと言うから、あれくらい美味しかったこと、嬉しかったことはなかった。 ああ 帰ってよかった。どんなご馳走よりもお粥さんが美味しい。有難い。姉を「ねえ。ねえ」と呼んで いたが、有難う、と礼を言うた。 ところが、これからが問題や。わしは区長に挨拶した。区長は「うん、役場へ行け」だけで、ご 苦労さんも言わへん。 文句が喉元まで出た。が、無条件降伏やから、文句言うでも勝てるもんじゃ ない。 役場へ行ったら、知り合いの収入役がおった、わしの顔を見ると逃げて隠れた。 町長も隠れた。 みな木で鼻を括ったような態度で、ご苦労さんの一言も掛けてくれる者はおらへん。何が起こった のかいな、ご苦労さんくらい言えばいいのにな。 おれは遊びに行ったのやない、国のために戦地へ 行ったのや。そりゃ戦争に負けたのは仕様ない。おれだけが負けて帰ったのと違う。 そうしたら姉が、こんなことは聞かせたくないけれども、不在地主の田や畑や山は、現在耕作し ている者に譲った。 二束三文のタバコ銭で。何ということか、わしは不在地主になっている。家だ けは姉がたまに帰って守りしていたから残ったが、田畑も山もみな他人の物になっている。 そんなことは夢にも思ったことはない。自分の代で儲けて田畑や山を買うたのやない。大昔の先 祖から相続した不動産、それを二束三文で譲るとは納得できへん、返せと言うて話をしに行った。 田植えも間近かや。毎日ケンカして、血を流して帰ってくる。 夜になったら区長の家へみな寄って、農地改革は仕様がないと言う。わしは座敷の真ん中に坐っ て抗議した。こんな毎日を送っていた。 しかし、これはあかん、こんなことしていては子も飢える、時期も遅れる。当時の県会議員に実 情を話した。年上の農地委員長にも何とかしてくれよ。 同じ部隊で上等兵やった、世話になったけ れど、その時は別として今は今や。 ところが、これは法律になったのやから仕様ない、辛抱せいと の返事。辛抱できへんからと言うてケンカしてもあかん。 落ち着かないとあかん。県会議員もマッカーサーの命令で作った法律やから、逆らえば殺され る、一議員の歯が立つ話と違うと断られた。 これはケンカしても解決できない。シベリアと同様 に、日本へ帰ってからも「器に合わせる」ことが大事と悟った。 そうや、アホは勝つ、アホになれ。おれはアホになったらええのや、そう思ってあきらめた。そ れから、田舎へ疎開していて、戦後うちの田地を分譲された人に言うてやった。 あんたら大阪から 来たんやろ。大阪で何してたのか知らんけれども、大阪を見て来い。焦土と化して、店らしい店は あらへん。あの焦土と化した大阪を元の大阪に復活させる力ないのか。 こんな田舎に住みついてい たところで将来子供を養われへんで。大阪へ帰って、元の大阪にしてくれ。──わしはそう言う た。 書類を持って来たら判を押してやる。 大阪まで足を運んで登記してくるのや。そう教えてやった ので、大阪で土地を登記できた。そうして疎開者の手に渡っていた田地を一銭も出さずに全部返し てもらった。 わしはアホになって、元の日本にするのはお前らや、元の大阪にするのはお前らや、そう言う た。その精神でみんな大阪へ帰って、一生懸命に働いて復興してくれた。
全文洩らさず読んだ。 今はネットがあるけれど、 本や口伝、記念館。 俺はおばあちゃんから戦争体験を聴いている。 俺らの年頃なら夏休みの宿題であったよね。 非核三原則って知ってる? 環境が人間を変える。 歴史の紐をといてみろよ。
貼ったおいらが読んでない 見にくかったから、貼ってみた
↑ グロ
>>795 忍法帖レベル高そうw
どういった基準で貼ったの?w
丸ごとならサイトアドレス一行だしw
日本人として知ってるのと、
興味ないとは違うしw
事実を知らない人も多いよw
教わるものでもないし。
>>796 女神転載は止めたら?w
離婚したいから何?w
Eカップと見たw
胸より尻だせっ!ww
>>797 胸出し画像。
グロって言えば構って貰えたの?w
神聖な双乳に何を言うw
女神違うし びっぱーだし
>>801 やおいちゃんw
女神(行為)で通じるかw
VIPPERってなんだよww うぇw うはっw おkww
いま隣の部屋でギシアン。
ぎしあんよりつぶあんが好き♪
>>803 つぶあん?w あんはこしだろこしw 皮要らないよww
お団子にみたらし…こしあんだろーがw
こしあんだったら皮要るでしょうに 酒饅頭も薄皮饅頭も怖い怖い こうちゃん、江ノ島って行ったことある?
あんは白餡
旦那と私の趣味があまり一致しないんだよね 旦那はパチンコ競馬が好き お酒は飲めない 私はカラオケとか買い物、お酒飲むのが好き デートらしいデートもあまりないのもつまらん 私はパチンコ競馬に一緒に行く 旦那もカラオケとか付き合ってくれるけど 歌うのは私だけ その間、旦那は寝っ転がってぼーっとしてる つまんねーw
いい話じゃんw
結婚四年目 子無し 夫親所有の一戸建て田舎在住
バツイチ夫の素奥さんに対抗して勢いで結婚したが後悔。
夫は離婚拒否。ホスト通いやめなくていいから別れないでくれと懇願。
夫46歳 バツイチ ブラック企業会社員
妻24歳 デブス パート AB型
離婚したい理由
ホストにハマってホストのことしか考えられない
夫に興味が無い。話が合わない。田舎暮らしがイヤ。
離婚後は風俗で働きたい。
慰謝料は払うつもり。
あと夫の年収と妻のパート収入、夫のご両親と
>>1 の仲と
夫が前の奥さんと離婚してどの位経ってから結婚したのか?不倫だったのか、あくまで
離婚後に夫と付き合いだしたのか?元奥さんとの間に子供はいるのか?
元奥さんと張り合って結婚したとのことだがその経緯が知りたい。
>>1 は別にホストに本気で恋愛している訳では無いみたいだし、
単にホストクラブの非日常的な空間で日頃の鬱憤を発散しているんじゃないか?
自分の子供や友達だったら全力で止めるけど、24歳の女盛りを勢いで結婚した
46歳の愛してもいない夫で人生散らすのももったいない気もする。
諸悪の根源は
>>1 にあるんだろうけど、別れることが夫のためにもなるし
>>1 は風俗で生計立てるとか人生甘く見てるようだから、これから社会に揉まれて苦労して
今までの平凡な生活がどれだけ幸せだったか思い知るいいきっかけになると思う。
まあもしかしたら風俗が天性の職業になって人生開花させるかもしれんし。
>>805 |−^)っ【
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A1 】
>*製造法による分類
>こしあん(漉し餡) - 小豆を潰し布等で裏ごしして【豆の種皮】を取り除いたもの
つぶあんとこしあんの違いの流れで読み違うってさーw
江ノ島は花火大会に行きましたww 最期の花火大会はとある人とw
高校生の頃はバイクで放課後行ったりしたw
134号線は八幡から突き当たって由比ヶ浜右〜稲村〜七里〜江ノ島〜鎌倉山〜
モノレールを下から眺めて大船って感じかなぁw 由比左で葉山だねw
>>806 草食わなきゃいいんじゃねーの?w 言いたかった事が草いっぱい生やすなよてww
>>807 しろかくろなら迷わず黒取るけどなw
>>808 男と女が同じ趣味っていうのがそもそも稀なんじゃない?w
おこずかいの範囲で賭け事ならいいじゃないw
酒だって浴びるほど呑む旦那さんだっていっぱいいるのにw
制御できない状態の男性は手に負えないのだからw
パチンコ屋に一緒に行くならパチンコに興味は無くても他で楽しむのさw
内装だって凝ってるし…景品の種類も豊富…休憩所だって広いし…
本持ち込むとか…終わったらメールくれでもいいしw
競馬だってそうw 場外馬券売り場じゃないなら馬見てみな?w
馬券買わなくたって…予想したっていいんだぜ?w 専門紙には血統載ってるしw
いいか良く聞け…競走馬は普通の野生の馬とは違うんだぞw
どれだけの人間が一頭の馬に愛情注いでるか知らないだろうけどw
見方を変えるw 金儲けの為だけの存在じゃないんだぜっ!w ふぅww
旦那の好きそうな曲入れてみ?w 口ずさんでるういやつういやつみたいなのw
つまんねーって言うのは心掛けひとつだよんw がんばれーw
>>809 いい話では無いなw おまいも聞かせてみw
>>810-811 22歳で結婚して田舎暮らしのホスト狂いか。
風俗で働きたいのは貢ぎたいからでしょ。
色恋営業真に受ける若奥様哀れ。本人思慮浅めにて閉幕。
夫の年収 250〜260万くらい? 私の年収 100〜105万の間 夫の両親とは同じ敷地内に住んでるからたまに会うけど 私のことよく思ってくれてるし ご飯とか気遣ってくれるし仲悪くはない 夫と付き合いだしたのは離婚調停が終わる直前くらいから だから離婚してからかな? 元奥さんとの間に子供は一人。女の子。 旦那にめっちゃ似ててむかつく。 張り合って結婚した理由は…うーん難しいな。 とにかく離したくなかった、負けたくなかった感じかな…
>夫と付き合いだしたのは離婚調停が終わる直前くらいから 直前つーことは正式には離婚してなかったのよね?
中学生〜高校生の頃 いじめや家庭環境の崩壊で学校に行きたくなくなる バイトしたり彼氏やセフレを作って 相手の一人暮らしの家に転がり込んだり 朝帰りしたり遊びまくってた その頃からキャバ嬢に憧れて 高校卒業したら絶対キャバ嬢になる!って思ってた 18歳になったばかりの頃 運良く?新宿でキャバクラやりませんか?って声かけられた 良かったら連絡先教えてくださいとのことだったので ソッコー教えて後日面接に そして、めでたく受かってキャバ嬢に! まぁ昼キャバだったんですけどね 昼キャバで細々とキャバ嬢やってるときに 同じお店の女の子にホス狂いがいて誘われて ホストに飲みに行ったのがホストにハマったきっかけ それまでも、存在はなんとなく知ってた キャッチとかたくさんいたし でもとにかく高い、怖いってイメージで近寄らなかった
安っぽい服だね
メンヘラだから仕方なし
あらー!旦那さんの実家の故郷なんだね! 凄い偶然だあ!!! 宮城県は凄く良い所だから好き!! 猫ちゃんが気が向いたらいつでも遊びに来てねー。 今日は何を食べたのかな。 『ルナ』という名前はなんとなくつけますたよw 月の意味なんだぁ。 本名は玲奈と言います。 またね( ^ω^ )人( ^ω^ )
24で結婚4年目だったら20か21で結婚したのね
そうなるね
95 猫(´・ω・`) sage 2013/12/04(水) 20:23:50.40 ID:8XYuOsn2
>>88 いま仕事終わりました(*´ω`*) これから家に帰る所。
宮城は空気が澄んでいて食べ物が美味しいし良い所ですよね!
ありがとー!(・∀・)
今夜はイカと茄子の塩炒めとカレイの煮付け、春巻、それと南瓜の甘煮…などなど。
我が家の2人の大きい息子と旦那がよく食べるからねw
だいたい、3〜4日分の献立をザっと考えといてから毎週注文するの。
そうすると、その間はいろいろ考えなくてすむからイイ !!(・∀・)
そうなんだー良い名前だね(*´ω`*)
Clair de luneで「月の光」。
作曲家ドビュッシーの曲の名前だよー
ルナと怜奈と発音が似てるもんねー
怜奈ちゃんよろしく!
犬より猫派なんだ〜(・∀・)
私はどっちも大好き!!
なんか長くなっちゃたw ゴメンネ
>>93 こんばんはー(*´ω`*)
ホラーは音楽が一役買ってる
>>94 先週そう言ってたねー!!
猫って誰だよw
あーあ、皮って小豆の皮のことだったのねえ 饅頭の皮だと思っちゃったわw 大福も大好き♪
でも実際飲みに行ってみたら 楽しいじゃん!全然怖くないし! しかも初回って安いのに飲み放題ってwwwお得www そっからすっかりホストにハマって一人でも飲みに行けるくらいに その頃知り合ったスカウトにお店変わりませんか?っていわれて ランパブにお店を移すもノルマ厳しくてやめて 次に紹介されたのがちょいハードサービスのホテヘルw その時はほんとに世間知らずだったから スカウトに言われるがままホテヘルやって まぁまぁ指名ももらえて稼げるようになったと同時に ホストも慣れてきて使う金額も増えた おのずとホストの営業も本格的に だんだんとハードサービスに疲れてきて また違うスカウトを通して家の近くの ソフトサービスのデリへルに移転 そこのお店で何ヶ月か経った頃に旦那と出会う 旦那は自宅に呼んだんだけど第一印象は 生活感ない!!寂しい部屋! あとあと分かったことだけどエロ本とかAVとか一切持ってなかったw
486 ルナ ◆ctw/6c1u9g sage 2013/12/22(日) 23:45:37.68 ID:9323NzgX なんだかんだで彼氏がルナに超ベタ惚れだから、何言われてもノーダメージw 毎日、SEXもしてるし。 あんたはルナより気持ち悪いよ。
>>825-826 (
>>816 ) ホントだw 計算を…簡単な引き算をww
何かどこかのコピペじゃ…面白く無いよね…。
元スレでも貼ってくれれば見たい人は勝手に行くのになぁとw
>>829 つぶは皮付き…こしは皮無しって書けば良かったですねぇ。
饅頭の皮は薄い方がお得な気がするw
茶色い皮のやつが好みかなw 中華街に行くと色々売ってるからさw
大福は大福でも…俺は雪見大福を推すww アレヤヴァイw
いちご大福って美味しいと思う?w
アテクシはね 茶色くて小さいお饅頭が好きだったの 10個入って105円だったかしらw ちょっと前に流行ったのよ 雪見大福は神よね バニラじゃないのも食べたわ 何味だったか思い出せないけど いちご大福も悪くはないけど、舌が保守的になっちゃってるようで 大抵の物はプレーンが好きよ ちんすこうとハッピーターンのチョコレートコーティングしたモノはあまり好みじゃなかったわ 柿の種チョコは好みだけどねw あら、ちんすこうにカキのタネって…… やぁね、アテクシったらw
接客業・8年目 スタッフ構成はオーナー(男)、先輩(男)、後輩(男) 他8名女性スタッフ。 8名の女性スタッフ全員から嫌われている。 自分以外の男性スタッフは女性スタッフとうまくやっているから余計につらい。 もともと嫌われだした原因は体臭がきついことから始まった。 ・くさい、きもいは聞こえるように言われる ・自分が触れた器具は汚染扱いで除菌 ・のろま など
勝手に書くが、スペック 30過ぎBBA 息子 1歳3ヶ月 息子は乳離れする気配もなく私の服を勝手にめくって吸い付くという暴君 グイグイ来られて1日に何回もだし寒いしで若干イラッとすることもあるんだ。 楽しい気持ちで冬を乗り切る術は無いかと考えたら ( ゚∀゚)o彡°おっぱい!おっぱい! しかないと思ったわけだ。 1歳児は乗りやすい楽しいリズムが大好きだ。 まずは本人が飲みたがって服をめくりだした時が勝負。 めくられないようにギュッと服を押さえると、満面の笑みで 「( ゚∀゚)o彡°おっぱい!おっぱい!」 とやってみた。
始めはポカンとしているどころかおっぱい飲めないよ!と激おこである。 しかし母さんはメゲないのだよ! 毎回飲む前に物凄く楽しそうに ( ゚∀゚)o彡°おっぱい!おっぱい! とやる。 そのうちに楽しそうに見えたのか、真似をしはじめた。 拳を突き上げてぐるぐるさせている。 可愛い!しかし、まだ足りない。 言葉を発しないからである。 今度はハッキリと「おっぱい!おっぱい!」と息子の顔の前で発音してみる。 …さすがに恥ずかしくて地味にダメージがくる。 毎回目の前で「おっぱい!おっぱい!」と言い続け、遂に! 拳をぐるぐるしながら 「…ッパッ…ッパッ」 と言わせるのに成功したのだ。
一昨日出来るようになったのだが、昨日の夜中など寝ぼけながら 「…ッパッ…ッパッ」とぐるぐるやっていてキュン死するところであった。 一昨日出来るようになったのだが、昨日の夜中など寝ぼけながら 「…ッパッ…ッパッ」とぐるぐるやっていてキュン死するところであった。 と言うことで、おっぱいちょうだい!と言われているようで、 「ハイハイ、おっぱいね〜♪」と楽しくなったお話しでした。 来てくれた人ありがとう! 嬉しかった! 今は探偵さんの報告待ちの1でした。
うちの旦那はバイクが趣味なんだ。 土日休みはツーリングやら友達とバイクいじるやらでほぼいない。 友達やお義母さんにはそれをありえないと言われるが、私は良かったんだ。 赤ん坊の事は何もしないし、いたら「お腹空いた〜、お水持ってきて〜、ティッシュ取って〜」だの言われて腹も立つし。 出掛ければ「行かせてくれてありがとうね。ごめんね。」って言ってたから、 私は「女関係さえ何もなければ何してもいいよ。」って言ってたんだ。
ある日いつものごとく 「(とあるSNS)で知り合った人が近所に住んでて、バイク買ったらしいから見に行ってくるね。」 と出ていったんだ。 パソコンにLINEを立ち上げたままで。 名前は「ゆきのすけ」 LINEでやりとりをしている最中らしく、次々とメッセージが上がってくる。 旦那(以下旦)「ついたよ」 ゆきのすけ(以下ゆ)「ちょっと待ってて」 旦「OK」 ゆ「ごめんねー」 あー…これは… 少し前のやり取りを見る。 ゆ「いつかミニスカートで〜」 旦「惚れてまうやろ〜」 ゆ「いいよ〜」 はい、女決定
さすがに手が震えて頭がクラクラした。 でも私は賭けた。 女だと言えばセーフにしようと。 キャバクラだって風俗だって、何なら合コンだって申告さえしてくれればOKだと言ってきた。 賭けよう。 そして3時間ほどして帰ってきた。 旦「ただいま〜」 私「お帰り〜どんなバイクだったの?」 旦「う〜ん…正直俺の好みでは無かった」 私「相手はどんな人だった?」 旦「バイク買いたてってのもあるけど技術がね〜」 私「下手っぴってこと?」 ここらでヤバいと思ったらしい 旦「でもさ〜練習しろとか言えないじゃん?相手も男だし」 あー…やっちゃいましたね…
相手とはその日が初対面。 それだけは間違いない。 これからのために釘を刺すべきか…。 しかし、刺すだけでしらばっくれた上に水面下に隠れられる方が困る。 そのまま見守ることにした。 その日の夜中、1時半。 旦「ビール買ってくるね。本屋も行きたいけど…こんな時間か〜」 私「行ってらっしゃい」 おかしい。 普段なら絶対に行かないのだ。 何かにつけて私に行かせるはず。 そして結局、3駅先の駅前本屋で立ち読みしてた…と3時に帰宅した。 旦「ガソリンランプ点いちゃった。ゴメン」 ???たかだか3駅先への往復でランプ点く程少なかったはずはない。 うちは軽自動車1台だ。 結婚してから私の婚前の貯金で買ったので、私の物のような扱いだ。
翌日私の実家へ行く時にも異変が。 …助手席のヘッドレストがついている。 普段はチャイルドシートの息子からDVD画面が見えるように外しているのに。 …隣に人を乗せたのは間違いない。 そして実家に到着するも、ずーーっとLINEをしていた。 いつもはLINEの画面も見えようがお構い無しの姿勢だが、 その日に限っては画面が絶対に見られない角度でやっている。 スマホを置く時もいつもは上を向かせていたが、その日以降常に伏せて置くようになった。 旦那は色々な物のpassが一緒だったので調べた。 相手の名前はアカギ ユキと言うらしい。 結婚しているようなので、旧姓なのか今の姓なのかはわからない。 そしてもう1つ分かったこと。 旦那は前回の年末年始に別の女を自宅に連れ込んでいたらしい。
そして翌日、17時に出掛けると言い出した。 友達と2時間程度バイク屋巡りをしてくると。 一番気に入っている刺繍の入っている麻のシャツを着て、 指輪、ブレスレットをじゃらじゃら付けて 体臭を気にするように香水を付けて行った。 …帰宅は23時を過ぎていた。 旦「ごめんね〜!友達がパチンコ行きたいって言い出して○○(高速使って40分程度)まで行ってきた。」 …○○?てか、パチンコだったらタバコ臭いはずなのに、ココナッツの芳香剤の香りがするんですが… そしていそいそとシャワーを浴びた。
翌朝確認すると、パンツには精子らしきものが付着していた。 そして○○とは、ゆきの自宅のある街だった。 カードの明細で高速の区間を確認されたときの為だろう。 また別の日 旦「明日友達と連絡が取れたらバイク直しに行ってくる」 私「ふーん」 翌日 旦「友達と連絡取れたから後で出掛けるわ」 …LINEの画面がゆきのすけなんですが… 私「ふーん(じっと見つめる)」 旦「え??行かない方がいいかな?」 私「全然、行ってきて」 その後パソコンでニヤニヤしながらずっとLINE。 一言送信するごとに画面を閉じている。
結局出掛ける様子がなく、14時も過ぎたので 私「出掛けないんかい?」 旦「もう断ったよ!」 かなり不機嫌そうだ。 行くなと言ってないのになー。 そんなこんなで、絶対にこの日に会う!って分かった日があったんだ。 その日に向けて探偵社に問い合わせた。
なんせ移動がバイクだから受けてくれるか分からない。 1社目 確実にその日と分かっていれば大丈夫かと。数人で押さえて相手も調べる。 1日40万〜 2社目 バイクならほぼ無理かも。 かなり消極的。 3社目 ネットで見つけた弁護士事務所からの紹介。 大手だがフランチャイズらしく、1日単位だと高くなるので、半月のうち5日調べて50万。
とりあえず3社目にした。 そこで証拠2回取れれば御の字か…と。 しかしそんな甘くなかった。 絶対に会うと確信していた日はまかれたらしい。 見つかったと言うわけではなく、予想外すぎて尾行失敗。 こちらから情報提供はするが、あとの日程は完全にお任せだった。 この頃にはLINEのpassや某SNSのpassなど軒並み変わっていた。
向こうは言わなかったし私も訊かなかったが、お任せの理由があったと思う。 あらかじめ尾行の日が分かっていると、依頼人が不自然な動きになるからだ。 不自然ならまだしも取り乱して「アンタに尾行付けてんねんで!」などと言われては全てが水の泡。 元彼が元探偵な私に死角は無い! 契約の半月が終わる日、探偵から連絡が。 「申し訳ありません、報告できるような状態でないので追加料金無しで日程を追加させて下さい。」 うわー…マジかい…
とにかく日々の報告をした。 今日のシフト、週末のツーリング、友達との約束。 1ヶ月近く経ったある週明けに探偵から連絡が来た。 「報告できます。いつがよろしいでしょうか?」 やっと撮れたんだろう。 報告を聞きに行った。 撮れた日は友達と夜のツーリングに行き、その後夕方に帰ってきた日だった。 細身好きな旦那が「今が理想。それ以上は抱けなくなる」と甘い言葉を送っていた彼女はそんなに痩せていなかった。 お顔も薄めで、人の事を言えた義理はないが、正直もう少し綺麗な人にしてほしかった。
旦那はその日とあるラーメン屋に行ったという話しをしていたが、その人と行ったようだ。 そのラーメン屋は私の元同僚が教えてくれた店だ。 「俺、美味しい店知ってるよ」 と、したり顔で連れていったかと思うと心底腹が立った。 一番腹が立ったのはそこかもしれない。 探偵はビデオを見せながら 「この女ですわ!なかな尻尾出さんかったから腹立つわ〜!何なら付き合ってなくて奥さん(私)の妄想かと思いましたもん」 「浮気調査何は百件とやりましたけど5本の指に入る大変さでしたわ。泣きついて断ろうかと何度思ったか…」 申し訳ないので、ここで元々お願いしようと思っていた女の身辺調査を依頼した。 探偵「奥さん…どれだけ出せますか?」 私「どういうことでしょうか?」 結局住所等で20万、あとはもう1回撮って固めましょうと言うことで、回数無し…合計50万。 累計100万。 ここで腹括りましたわ。 そんで先月いっぱい調査で来週に結果を聞きに行くんだ。 週末に焦点当てて調査しましょうって言われてたのに、先月はバレを警戒してたのか週末に全然出掛けないんだよ。 平日は普通に帰ってきてるのにパンツに付着物があったりで相当混乱した。 もしかしたら身元は分かってもホテルが撮れていないとかかなーとは覚悟してる。 女への慰謝料は無理かもしれん。 そしたらそれはもう諦めて離婚のことだけ考えようと思ってるんだ。
穏便にするメリットって、息子の家族に父親ということ以外に無いんだ。 それが大きなことなんだが、もしも私の心が弱った時に 「君のためにお母さんはお父さんと夫婦でいるんだ」 と言うことを言ったり気づかれたりしないと断言できない。 そして、相手の女はどうやら性交渉でもうつる臓器のウイルスを持っている。 現在旦那がうつっているか分からないが、今後別の女と不倫して知らないうちに私や息子にうつされたりしたら困るんだ。
>>836 そうそう
甘い物ちょっぴり食べたい時に丁度よかったのよ
付き合っている時も半同棲しててほぼ毎日一緒なのにセクロスは週末の朝に1回とかだったから淡白な男だと思ってた。 私は性欲を自覚しているタイプだったから寂しかったな。 私から断ったことは無かったし、出産後はさすがに2ヶ月程は怖かったのでなかったが、その後は申し訳なくてこちらから誘ってみたりもしたんだ。 それでやっと月1くらいだったかな。 それで浮気されてんだから、とても惨めな気持ちだよ。 旦那は性欲と言うより、恋愛などの脳内麻薬が必要なタイプなのかもしれない。
>>835 最後のとこの下品な下ネタを、
女性が言うのに萌えるw
普通の話からの〜w
脳内桃色っすねw
桃板には必要なんだけどねw
生ってエロ少な目だよなw
浮気癖ってあるでしょ?w 性別関係ないしねw 潔癖な人は一度の浮気でも許しませんw セクロスの相性は身体だけじゃなしw
こうちゃん メリ〜クリスマス〜
メリクリって古い言い方だよね
あけおめみたいだよねえ
メリークリトリス!! &よいお年を!! おやすみなさい☆U^ェ^U
さむい
>>862 (
>>9 ) 翔さん…卑猥ですねww
もう864レスまで逝っちゃいましたw (ビクッ。。ビクンッ。。)
おはようございますw
こうちゃーん おーい、こうちゃんやーい なんてね、寝てることは百も承知
寝てないわっ 知らんけど
年賀状出そう〜 心をこめて〜
出すのやめた 年賀状だけの付き合いなんて無意味に思えて
>>865 寝てる人に話掛けちゃだめw
体内時計の正確さが恐ろしいww
>>866 俺が常駐できるならお話相手にはなれそうだけどw
知ってたら…隣で寝てる空気嫁って感じだなw
アイツ今どこにいるー? みたいな話の流れの中で…
俺の下でケツ振ってるけど召還しようか?w
とか言ってみたい妄想垂れ流してみるよw
>>867-868 年賀状…出さないようになると…途絶えるねw
年賀状だけの付き合い…知り合い多いと大変だろうね。
半分印刷…半分手書き…酷いのだと印刷のみw
子供の頃楽しみだったお年玉くじ付きww
今年は生の皆さんにお世話になりました。 ありがとう! 秀次さんも皆さんも良いお年を!U^ェ^U
>>872 お前さんにはいろいろ思うところもあるが今年はありがとな
良いお年を
こちらこそありがとうです! 良いお年を!U^ェ^U
あけ お○こ とよろ ♪ (ニヤリ。。) 今年も宜しくお願いします。
あけましておめでとう〜 良い年になりますようにU^ェ^U
【韓国軍慰安婦(洋公主/ヤンコンジュ)】 韓国軍慰安婦または大韓民国軍慰安婦(Korean Military Comfort Women)とは、韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。 朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国はアメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍も利用した。 名称 国連軍を相手とする慰安婦の登録が1961年9月13日に実施された。韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、 朝鮮戦争中は「特殊慰安隊」または「第5種補給品」とも呼ばれた。朝鮮戦争後は「美軍慰安婦(美軍はアメリカ軍のこと)」「国連軍相対慰安婦(UN軍相對慰安婦)」と呼ばれた。 ほかに蔑称の意味合いもある「洋パン(ヤン・セクシ)」「洋公主(ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」、また毛布一枚で米軍基地について回るという意味で「毛布部隊」、ベトナム戦争時は「ディズニーランド」とも呼ばれた。 また米兵を相手にするフィリピン人慰安婦を「ヤンキー売春婦」「コメで動くチビ茶色のファッキンマシーン」などとする蔑称もある。 ほかにジューシーガール(juicy girls)、バーガール(bar girls)、ホステス(hostesses)、エンターテナー(entertainer)という言い方もされる。「挺身隊」・国軍挺身隊とも呼ばれた。 これらの英語表記はcomfort womanであり、日本語の慰安婦の英訳と同一である。英語では韓国軍・在韓米軍慰安婦は一般にKorean Military Comfort Womenと表記される。 もっとも朝鮮戦争やベトナム戦争におけるこの種の行為について韓国内では全く議論になっていないため、韓国最大手の新聞朝鮮日報でも「人の心を持った国なら、自国民を国営売春婦にするという発想はしない。」との記事を執筆するレベルの認識にとどまっている。
>>877 慰安婦という響きが良くないよね。
反日感情がある国は教育が問題。
赦しを得たいなら金くれとか、
いつまでも言うのかな。
戦争の記憶は風化したのか、
未だに教訓として、
日本には残っている。
どこの国でも戦争になれば、
隠しておきたい秘密がない訳ないよね。
各自考えてるはずだけど。
>>879 男神転載か?w
俺も貼ろうかなw
腹画像じゃ淑女は満足しないぞw
手の甲か腕だろうなぁw
日本が行った戦争は侵略なの
侵略かどうかはさておき、他の国はとっとと植民地持っていたからなぁ
そいや、コンビニ本で、アメリカやらと戦っても勝てないのは分かってたが、 ロシアとも組むつもりだったってあったな
>>881 日本に限らず攻められた側から見たらどう思うの?
日常の風景が凄惨な悪夢にかわる。
日本に内戦はあっても、
侵略戦争しようと言い出した馬鹿殿からじゃない?
今の地球は平和な時期だと思うよ。
対岸の火事はあるけど、
憎しみ増やしてるより、
仲良くしませんかでいいのに、
なかなかうまく行かないらしいね。
和平交渉が進めば、
貧困も緩和するのにね。
弾ひとつよりパンひとつだね。
日本が攻められたら指くわえて祈るかい?
勤勉な職業軍人が仕事にならなきゃいいね。
むしろ、侵略じゃない戦争の方が稀な気はする が、対中国はまた話が別 南京大虐殺もあったかどうかといえば、あっただろう。 が、招いたのは中国。 平服って言って、軍人が市民の格好してたり、ドンが徹底的に逃げまくったり
>>881 たしかに侵略戦争だな
途中で大東亜共栄圏という後付けの理由が付いたけど
本当はアメリカに嵌められてアメリカに踊らされた戦争
>>886 アメリカは戦争したくて仕方なかったみたいだしね
>>887 当時の米国民全数近くが戦争反対だったから戦争する理由が欲しかった
日本が攻撃したんだ、やり返すぞ ですね
(..)
その前に沖縄を侵略したんだよ
ぐちゃぐちゃでんがな
その前に奥州へ侵略して藤原家を滅ぼした
>>891 琉球王国だ。
それを言い出すと先住民がいた、現在のアメリカ合衆国は、
インディアンの国。
イギリスの移民がアメリカ人となった。
ここ俺の土地〜w
「余ってるから好きなだけ。」
「全部俺達がもらうね。」
「・・・。」
何か新しく斬新な新説が出ないものだろうか。
鍵は考古学にもありそうで。
俺が読んでないだけで、
知ってる人は居るんだろうけど。
知らなくても良いこともあるよなぁw
てす
と
で
は
ない
大津市
三木市
どっちも近畿
近畿は野蛮
初めて立てたから誰も見てくれないかな、なんか吐き出したくて立てた。
>>1 会社員27歳♀
彼氏 同じ会社、遠距離、同い年♂
浮気相手 同じ会社、近距離、35歳♂
はじまりは2年くらい前で、彼氏とは既に2年くらい交際してた。 でも遠距離なのもあって、けっこう束縛が激しくて。好きだけどこんなに束縛されるのきついな…って思ってた。 そんな付き合いしてる時、とあるきっかけで浮気相手(これからSって書きます)と仲良くなった。趣味が合うのもあって社内でよく話してた。 Sとはアニメの話とか色んなことを話して、楽しかった。彼氏はそういう趣味全く合わなかったから。 少し仲良くなってから知ったけどSは既婚者だった。奥さんも子供もいた。 当時の私は、なぜかそれを知ってからもSと仲良くしたいと思ってた。既婚者だからこその安心感?みたいなのがあって、一線を超えることはないだろうってなんとなく思ってた。
Sと仲良くなりはじめたのが2011年の7月くらい、会社だけじゃなくてもっと話したくて食事いきませんかって誘って食事いったりした。 初めは私から誘った。 それから何度か食事いったけど、それは誘ったり誘われたり。 Sも私との時間は楽しいと言ってくれてた。 私はバカなので、これは不倫ではないと思っていたし自分にもSにも相手がいる状態でご飯に行ったりする事に少しスリルを感じて楽しいと思ってしまっていた。 彼氏の束縛は相変わらずだったけど、なんとかやり過ごしながらSとたまに会う、みたいな日々がしばらく続いた。 2ヶ月くらいかな。そして9月ごろ、Sの宿泊しているホテルに行ってしまった。(Sはそのとき仕事の都合でホテル泊が多かった) そのときも、部屋で話すだけだって自分で勝手に思って行った。本当にSが既婚者だという事に安心して、まさか何もしてこないだろうと思ってた。
その時キスされた。 相当びっくりした。何もないだろうと思っていたのもあり、何かあればいいと期待していたのもあり、自分がなにをしているのか良く分からなくなった。 Sはそのときそれ以上をするつもりだったようだけど、私は何の心の準備もしていなかったのでできなかった。 でも、がっかりさせたくなかったから「ちょっと緊張して」とかって嘘をついてしまった。 ここまでしておいて何を今更と思うかもしれないけど、私は今まで付き合っている人以外とキスしたりSEXしたりって考えられないと思ってたし身持ちも固い方だった。 その日はそのまま何もせず、帰った。 帰ってから色々な考えが頭を巡った。彼氏のこと、Sのこと。 でもなんだか悪いことをしてみたいと思う気持ちも確かに存在してた。 このままSと関係を持ってみたい、って。バカだけど。 スリルにそのまま引き込まれるような感じだった。 そのあとSにもう一度誘われて、私はOKした。
SEXはそんなに得意じゃないし、痛いだけだから自分からしたいとは思わなかったけど本当にただこのままSともっと仲良くなりたいと思ってやってしまった。 関係を持った後、Sに「彼氏とは別れたの?」と聞かれて別れてないと答えた。Sは私が彼氏と別れて自分に来たのだと思っていたようでびっくりしていた。 私もSがそんな発想をしていると思わなかったからびっくりした。 そんなこんなで彼氏とは会えて月1回、Sとは週1回以上のペースで会ってた。 会う回数は確実にSが多くて、食事に行ったりいっしょに泊まったり楽しく過ごせていたと思ってた。 だからといって彼氏のことを好きな気持ちが弱まる訳ではなく、彼氏とも旅行に行ったり将来のことを話したりしてた。 私はSとは楽しく過ごせれば良かった。奥さんに対する嫉妬心とか全く無く、私だけを好きになって欲しいなんて思って無かったし、なんとなくこのスリルがあって楽しい関係があれば満足って思ってた。
彼氏は束縛が激しいというか心配性で、例えば私が仕事終わりに飲み会に行ったとすると 帰りながら電話 家に着いたという報告 寝る前に電話 をしなきゃいけなかった。 Sと付き合う上でこれが一番のネックで、最低2回は夜に電話しなきゃいけなかったのでこれでSがイラつくようになってきた。 彼氏との電話は、遠距離ならこれくらいしなければとお互い納得して約束していた部分もあるので私は怠りたくなかった。 だから食事の帰りとか、Sの宿泊しているホテルへ行く前に「ちょっと彼氏に電話してくる」と言って離れることはよくあった。私もそれはしなければと思っていたから。 でも先ほど書いたようにSはだんだんそれが嫌になってきたようで、自分との時間を大切にしてほしいと言ってきた。 彼氏に電話する時間、そんなに必要?邪魔だ。っていう感じで。 当然のように電話をしに行っていた私にとっては意味のわからない事だった。 お互い相手がいて、それでもいっしょに居るのだからその相手との関係を守るのは当たり前だと思ってたから。 嫌だと言われても電話を続ける私に、Sが「じゃあ電話をする代わりに何かしろ」って言い出した。 Sのことを最優先に思ってする、何か。それが欲しいと言われて、初めはお菓子を焼いてきてあげたりそういう事で満足してもらってた。 後々エスカレートしていくのだけれど。
そんなこんなで12月。 クリスマスは彼氏が家に来る予定になってた。 特にどこかへ行く予定ではなかったけど、いっしょに過ごせることを楽しみにしてた。 クリスマスの1週間くらい前、Sと電話をしている時に「クリスマスはどうするの?」と聞かれて彼氏が家に来ると言ったらいきなり大激怒された。 俺は予定を聞かれてない、なぜ彼氏の予定が既に入ってるのか。 会うのをやめろ、俺が行く。 って感じで。 そのクリスマスの話は衝撃で、もう本当に意味がわからなかった。 家族いるのにクリスマスの予定聞くと思いますか?と頭がぐるぐるしてた。 私は私で自分のことでいっぱいいっぱいなので、さすがに彼氏にクリスマス会えなくなったとは言えない。言えるはずがない。 なんとか勘弁してほしいとSに言うと、じゃあそれに代わる何かをしろと言う(もう今まで言われすぎてうんざりだし、もはや何も思いつかなかった) 約束してしまったから彼氏と過ごさせてほしいと頼んでも、俺に相談する前に決めた予定なんか知らないと言われ早くなにか考えろとプレッシャーをかけられ本当に気持ちが辛かった。 結局クリスマスは待ってくれず、Sには25日だけ絶対にあけるからと約束しておさめてもらった。 本当に心苦しかったけど、彼氏には24日会った時点で風邪気味だと伝えて体調不良を演じ、看病すると言ってくれてる彼氏を早めに帰した。
25日はSと過ごした。 彼氏にしていることの罪悪感で、もう楽しいどころじゃなかった。 Sは嬉しそうだったけど、そんな事を考える余裕もなかった。 最悪な考えだけど、私は彼氏ありきでSという楽しく過ごせる存在がいたらいいと思ってた。でもこんなに我慢しなければいけない関係は、全く求めてない。もうどうしようと思ってた。 12月が過ぎて、同じようなことを繰り返しながら年が明けた。 Sとはどろどろだった。彼氏を立てようとするとどうしてもそのしわ寄せがSにいく。 彼氏とは今まで通り過ごすのが私の望みだったので、その今まで通り過ごす為に同じくらいSに尽くすことを求められた。 正直もうその頃にはSの事は好きではなくて、好きじゃないから自ら何かSにしてあげるという発想も浮かばず、それがさらにSをいらつかせてた。 決定的な出来事だったのが私が彼氏と旅行に行ったことだった。 Sの事を考えると予定を立てるのは怖かった。彼氏は私が旅行好きなことを知ってたからこの半年間くらい旅行の話をしないことを不思議に思ってたみたいだった。 そろそろどこか行かない?と彼氏から提案され、そうだねと言って京都旅行の計画を立てた。 その頃は土日に彼氏と会う予定を先に決めるとSが怒るので、旅行の日は親のところに行くと嘘をついた。
旅行は絶対ばれたくなかった。 綿密に計画をして、Sにはいかにも親と居ることを装って連絡をとっていた。 一応、旅行は何事もなく終わった。 そんな中でも私の図太いところは彼氏といっしょに旅行を楽しめるという事だった。 クズすぎるけど。 その後しばらくしてSと会った。 最近Sが私のケータイを勝手に見ることがあるので、ケータイを車に置いて行った。 いつも車を停める場所がSの宿泊先の近くにあって、車の中にケータイを置き部屋に行った。 そして私が寝た頃。 突然SEXが私の車の鍵をとって部屋を出た。 パニックになって、パジャマにコートを羽織っただけの状態で追いかけた。 でも追いつけず、Sは私の車に乗って中から鍵をかけた。 窓ガラスを必死に叩いたけどあけてくれず、私の目の前でケータイを開きぜんぶ見られた。ぜんぶ。 彼氏とのメールも、京都旅行でとった宿の予約メールとか、ぜんぶ。本当に血の気が引いた。
携帯かい
ケータイを見たSは当然ぜんぶ把握してた。 私が旅行にいったことも、旅行の為にSに嘘をついたことも。 私に難しい要求(彼氏に電話するなとか会うなとか)をしてくる反面、嘘だけはつかないでほしいと言われていた。 私はそれが無理だと思っていた。 彼氏にはちゃんとしたい。だからSに嘘をついていた。それが、自分のことを軽視しているとSに思わせ更に怒らせる悪循環をつくっていた。 だからSに嘘をついたことは絶対にバレてはいけなかった。でも見られてしまってもうどうしようもない。 初めて、心的要因で吐いたと思う。 Sは分かったと言って二人で部屋に戻った。 Sもその時普通な精神状態ではなく、冷静さを欠いていた。 この屈辱を、どう晴らしてくれるのかと言われて私は何も言えなかった。 ずっと黙ったまま、この先どうなるんだろうと考えていた。
私 会社員27歳♀ 彼氏 同じ会社、遠距離、同い年♂ 浮気相手 同じ会社、近距離、35歳♂
はじまりは2年くらい前で、彼氏とは既に2年くらい交際してた。 でも遠距離なのもあって、けっこう束縛が激しくて。好きだけどこんなに束縛されるのきついな…って思ってた。 そんな付き合いしてる時、とあるきっかけで浮気相手(これからSって書きます)と仲良くなった。趣味が合うのもあって社内でよく話してた。
Sとはアニメの話とか色んなことを話して、楽しかった。彼氏はそういう趣味全く合わなかったから。 少し仲良くなってから知ったけどSは既婚者だった。奥さんも子供もいた。 当時の私は、なぜかそれを知ってからもSと仲良くしたいと思ってた。既婚者だからこその安心感?みたいなのがあって、一線を超えることはないだろうってなんとなく思ってた。
Sと仲良くなりはじめたのが2011年の7月くらい、会社だけじゃなくてもっと話したくて食事いきませんかって誘って食事いったりした。 初めは私から誘った。 それから何度か食事いったけど、それは誘ったり誘われたり。 Sも私との時間は楽しいと言ってくれてた。 私はバカなので、これは不倫ではないと思っていたし自分にもSにも相手がいる状態でご飯に行ったりする事に少しスリルを感じて楽しいと思ってしまっていた。
彼氏の束縛は相変わらずだったけど、なんとかやり過ごしながらSとたまに会う、みたいな日々がしばらく続いた。 2ヶ月くらいかな。そして9月ごろ、Sの宿泊しているホテルに行ってしまった。(Sはそのとき仕事の都合でホテル泊が多かった) そのときも、部屋で話すだけだって自分で勝手に思って行った。本当にSが既婚者だという事に安心して、まさか何もしてこないだろうと思ってた。
その時キスされた。 相当びっくりした。何もないだろうと思っていたのもあり、何かあればいいと期待していたのもあり、自分がなにをしているのか良く分からなくなった。 Sはそのときそれ以上をするつもりだったようだけど、私は何の心の準備もしていなかったのでできなかった。 でも、がっかりさせたくなかったから「ちょっと緊張して」とかって嘘をついてしまった。 ここまでしておいて何を今更と思うかもしれないけど、私は今まで付き合っている人以外とキスしたりSEXしたりって考えられないと思ってたし身持ちも固い方だった。
その日はそのまま何もせず、帰った。 帰ってから色々な考えが頭を巡った。彼氏のこと、Sのこと。 でもなんだか悪いことをしてみたいと思う気持ちも確かに存在してた。 このままSと関係を持ってみたい、って。バカだけど。 スリルにそのまま引き込まれるような感じだった。 そのあとSにもう一度誘われて、私はOKした。
SEXはそんなに得意じゃないし、痛いだけだから自分からしたいとは思わなかったけど本当にただこのままSともっと仲良くなりたいと思ってやってしまった。 関係を持った後、Sに「彼氏とは別れたの?」と聞かれて別れてないと答えた。Sは私が彼氏と別れて自分に来たのだと思っていたようでびっくりしていた。 私もSがそんな発想をしていると思わなかったからびっくりした。
そんなこんなで彼氏とは会えて月1回、Sとは週1回以上のペースで会ってた。 会う回数は確実にSが多くて、食事に行ったりいっしょに泊まったり楽しく過ごせていたと思ってた。 だからといって彼氏のことを好きな気持ちが弱まる訳ではなく、彼氏とも旅行に行ったり将来のことを話したりしてた。 私はSとは楽しく過ごせれば良かった。奥さんに対する嫉妬心とか全く無く、私だけを好きになって欲しいなんて思って無かったし、なんとなくこのスリルがあって楽しい関係があれば満足って思ってた。
彼氏は束縛が激しいというか心配性で、例えば私が仕事終わりに飲み会に行ったとすると 帰りながら電話 家に着いたという報告 寝る前に電話 をしなきゃいけなかった。 Sと付き合う上でこれが一番のネックで、最低2回は夜に電話しなきゃいけなかったのでこれでSがイラつくようになってきた。
彼氏との電話は、遠距離ならこれくらいしなければとお互い納得して約束していた部分もあるので私は怠りたくなかった。 だから食事の帰りとか、Sの宿泊しているホテルへ行く前に「ちょっと彼氏に電話してくる」と言って離れることはよくあった。私もそれはしなければと思っていたから。 でも先ほど書いたようにSはだんだんそれが嫌になってきたようで、自分との時間を大切にしてほしいと言ってきた。 彼氏に電話する時間、そんなに必要?邪魔だ。っていう感じで。
当然のように電話をしに行っていた私にとっては意味のわからない事だった。 お互い相手がいて、それでもいっしょに居るのだからその相手との関係を守るのは当たり前だと思ってたから。 嫌だと言われても電話を続ける私に、Sが「じゃあ電話をする代わりに何かしろ」って言い出した。 Sのことを最優先に思ってする、何か。それが欲しいと言われて、初めはお菓子を焼いてきてあげたりそういう事で満足してもらってた。 後々エスカレートしていくのだけれど。
そんなこんなで12月。 クリスマスは彼氏が家に来る予定になってた。 特にどこかへ行く予定ではなかったけど、いっしょに過ごせることを楽しみにしてた。 クリスマスの1週間くらい前、Sと電話をしている時に「クリスマスはどうするの?」と聞かれて彼氏が家に来ると言ったらいきなり大激怒された。 俺は予定を聞かれてない、なぜ彼氏の予定が既に入ってるのか。 会うのをやめろ、俺が行く。 って感じで。
そのクリスマスの話は衝撃で、もう本当に意味がわからなかった。 家族いるのにクリスマスの予定聞くと思いますか?と頭がぐるぐるしてた。 私は私で自分のことでいっぱいいっぱいなので、さすがに彼氏にクリスマス会えなくなったとは言えない。言えるはずがない。 なんとか勘弁してほしいとSに言うと、じゃあそれに代わる何かをしろと言う(もう今まで言われすぎてうんざりだし、もはや何も思いつかなかった) 約束してしまったから彼氏と過ごさせてほしいと頼んでも、俺に相談する前に決めた予定なんか知らないと言われ早くなにか考えろとプレッシャーをかけられ本当に気持ちが辛かった。
結局クリスマスは待ってくれず、Sには25日だけ絶対にあけるからと約束しておさめてもらった。 本当に心苦しかったけど、彼氏には24日会った時点で風邪気味だと伝えて体調不良を演じ、看病すると言ってくれてる彼氏を早めに帰した。
25日はSと過ごした。 彼氏にしていることの罪悪感で、もう楽しいどころじゃなかった。 Sは嬉しそうだったけど、そんな事を考える余裕もなかった。 最悪な考えだけど、私は彼氏ありきでSという楽しく過ごせる存在がいたらいいと思ってた。でもこんなに我慢しなければいけない関係は、全く求めてない。もうどうしようと思ってた。
12月が過ぎて、同じようなことを繰り返しながら年が明けた。 Sとはどろどろだった。彼氏を立てようとするとどうしてもそのしわ寄せがSにいく。 彼氏とは今まで通り過ごすのが私の望みだったので、その今まで通り過ごす為に同じくらいSに尽くすことを求められた。 正直もうその頃にはSの事は好きではなくて、好きじゃないから自ら何かSにしてあげるという発想も浮かばず、それがさらにSをいらつかせてた。
決定的な出来事だったのが私が彼氏と旅行に行ったことだった。 Sの事を考えると予定を立てるのは怖かった。彼氏は私が旅行好きなことを知ってたからこの半年間くらい旅行の話をしないことを不思議に思ってたみたいだった。 そろそろどこか行かない?と彼氏から提案され、そうだねと言って京都旅行の計画を立てた。 その頃は土日に彼氏と会う予定を先に決めるとSが怒るので、旅行の日は親のところに行くと嘘をついた。
旅行は絶対ばれたくなかった。 綿密に計画をして、Sにはいかにも親と居ることを装って連絡をとっていた。 一応、旅行は何事もなく終わった。 そんな中でも私の図太いところは彼氏といっしょに旅行を楽しめるという事だった。 クズすぎるけど。
その後しばらくしてSと会った。 最近Sが私のケータイを勝手に見ることがあるので、ケータイを車に置いて行った。 いつも車を停める場所がSの宿泊先の近くにあって、車の中にケータイを置き部屋に行った。 そして私が寝た頃。 突然SEXが私の車の鍵をとって部屋を出た。 パニックになって、パジャマにコートを羽織っただけの状態で追いかけた。 でも追いつけず、Sは私の車に乗って中から鍵をかけた。 窓ガラスを必死に叩いたけどあけてくれず、私の目の前でケータイを開きぜんぶ見られた。ぜんぶ。 彼氏とのメールも、京都旅行でとった宿の予約メールとか、ぜんぶ。本当に血の気が引いた。
ケータイを見たSは当然ぜんぶ把握してた。 私が旅行にいったことも、旅行の為にSに嘘をついたことも。 私に難しい要求(彼氏に電話するなとか会うなとか)をしてくる反面、嘘だけはつかないでほしいと言われていた。 私はそれが無理だと思っていた。 彼氏にはちゃんとしたい。だからSに嘘をついていた。それが、自分のことを軽視しているとSに思わせ更に怒らせる悪循環をつくっていた。 だからSに嘘をついたことは絶対にバレてはいけなかった。でも見られてしまってもうどうしようもない。 初めて、心的要因で吐いたと思う。 Sは分かったと言って二人で部屋に戻った。
Sもその時普通な精神状態ではなく、冷静さを欠いていた。 この屈辱を、どう晴らしてくれるのかと言われて私は何も言えなかった。 ずっと黙ったまま、この先どうなるんだろうと考えていた。
実はその後壮絶すぎて細かく覚えていない。 結論的には、Sは私のケータイから彼氏に「旅行全然楽しくなかったもう別れたい死ね」みたいな内容のメールをしてケータイを床に何度もぶつけた。 iPhoneなんだけど、使える状態で液晶が割れた。機能は正常、液晶の上半分が死んで電話はできる感じ。
そんなことになると当然彼氏がおかしいと思って来る、実際その週末会う予定にしていた。 Sは、俺はお前に嘘ばかりつかれて裏切られてもう信じられない、信じるためにそのケータイを預からせてもらうと言ってきた。 壊れてるやつね。 あと彼氏と連絡をとるなと約束させられた。 ケータイはひとつじゃなかったし、とろうと思えばとれるけどもし連絡をとっていなければSが預かっているケータイに何度も着信が入るはず、それで信用すると言われた。 もちろんその頃にはSと別れたくてその話はしてたけど私が嘘ついて騙した折り合いがまだついてないとかで聞き入れられなかった。
連絡とるなと言われても、そんなメール送られてとらない訳にいかない。 会社のケータイで彼氏とは連絡をとった。 Sが送ったメールについて聞かれたけれど、何も答えられず。 彼氏もかなり混乱してた。 Sには週末彼氏と絶対に会うなと言われていたけど私は一刻も早く会いたかった。 自分のことばかり考えていて最低だけどどうにかこの状況から抜け出したかった。
そして彼氏が来た。 なにがあったのかちゃんと話して欲しいと言われ、私はぼろぼろと泣いた。泣くしかなかった。Sが壊して持って行ったケータイは、彼氏が私と連絡をとるために買ってくれたものだった。何もかもが申し訳なくて、私はやはり彼氏にはきちんと話そうと思い経緯を話した。 話を聞いた彼氏はSの名前と電話番号を自分のケータイに登録し、今日は帰ると片道5時間の道を来たばかりなのに帰って行った。 私はぼーっとしてた。 本当にこれからどうしようとぐるぐる考えていた。
しばらくするとSから電話があり、私が裏切ったことに対して大激怒していた。 約束やぶって彼氏と連絡をとったこと、会ったこと、Sの連絡先を教えたこと。 彼氏からSに電話があったようだった。話してはいないと言ってたけれど。
彼氏からも連絡があり、Sにとっては不倫になるので奥さんも交えて4人で話し合いをしようと言われた。 そのあたりも記憶が曖昧で、結論だけ書くと結局4人で話すことはかなわず、Sは私とふたりで話すなら応じると言っていたので彼氏を待たせて私とSで話をした。 Sについた様々な嘘については謝り、裏切ったことに対して謝罪をした。 とりあえずその場はおさまり、私は彼氏と家に帰った。 彼氏にも迷惑をかけたことを詫びなければいけなかった。振られても仕方ないと思っていたけれど、弁解できるならしてきちんと謝りたいと思ってた。
最終的に、間違いは誰にでもあるからと彼氏は私を許してくれた。 もうSから連絡が来ることもないだろうし、私からも連絡はとらずもう浮気は絶対しない、そう誓った。
しばらくしてSから連絡がきた。 まだ許していない。お前は俺にものすごい裏切りをした。この関係は絶対に秘密にしなければいけないのに、自分の保身の為に彼氏に話して俺を悪者にした。 その裏切りをどう処理してくれるのかという内容だった。
私としてはもうSに詫びる気持ちはなかった。もちろん悪いことをした気持ちはあるけれど、Sがエスカレートした行動をとったから言わざるを得なかっただけで自らバラした訳ではない… 何より落ち着いた今、Sに対する好意は完全に無くなっていてもうSがどう思おうが関係ないとさえ思っていた。
切ろう、と思い一切連絡に応じなかった。 まだ仲良くしていた頃一度家に先に上がっていてもらったことがあり、短い時間だけれど鍵を預けたこともあるので家の鍵も変えて電話にも一切出なかった。
無視し続けて半年ほど普通に生活した。 一度家の前に居たことがあったけれど、借りていたものを返しにきただけだと確かに貸していたものを渡され、話そうと言われたけれど予定があるからと逃げたら足を踏まれた。 オフィスでたまに見かけることはあったけれど、完全に無視をしていた。
時間をおいたらなんとかなると思って、ひたすら関わりを持たず生活した。 それからさらに数ヶ月経ち、もう何か変わったかもしれないと一度電話に出てみることにした。 でも変わっているはずもなく、また同じことを言われて謝罪の気持ちを求められた。 少し変わったことといえば、とりあえずまた楽しい気持ちで会うことができればこの辛い気持ちを解消できるかもしれないと言われた事だった。要は自分(S)のことを考えてほしいということを言われた。
同じことを繰り返し言われると、そんな気もしてくる。 自分に対して敵意ではなく優しい気持ちを向けてくれれば、自分の気持ちも楽になる。そう言われて、私はもう一度そう思ってSに接してみることにした(バカ
多分Sは私がSと会うイコール私が彼氏を裏切って自分のことを考えてくれていると思い、その気持ちが嬉しいと言っていた。 彼氏に対して絶対もう悪いことをしたくないと思ってた私はSと会うことは承諾しつつも喫茶店で会おうとかとにかく人がいる場所で会うことを要求した。 もう自分がなに考えてたかわからない。
長くなってきたから結論書くと、またSと会ってなんとか早く吹っ切ってもらおうと頑張ったけど結局Sに彼氏をないがしろにする事を求められて →できず、耐えきれずSと会う約束してた日に引き返して彼氏のところに行こうとしたら途中でバレて大激怒され、行くなら彼氏もお前も会社やめろと言われてそれでも彼氏のとこに行ったら1月中に彼氏やめさせろと言われて詰んでるところ。
昔の自分は考えが足りなくて、リスクを全く考えず楽しいことだけ求めて動いていたので本当に悪かったと思っています。 やってしまった事は大きすぎる。
会社やめさせるのも、私がなんとか説得してやめさせろと言われました。 解雇とかの話ではないです。
会社やめる約束といっしょに、今まででSEXはゴム付きでしかした事ないのですがこれからはつけずにして、妊娠出産しろって言われました。 もちろんSとです。 それだけは自分の判断でできるので、つけずにしています。でも妊娠は怖いのでピル飲み始めました。
彼氏のことは守りたいです、一度浮気したのに間違いは誰にでもあるよと許してくれた恩もまだ返せていません。 できれば彼氏のそばにいて守りたい。 Sが怖いです。はやくやめさせろと言ってきますし、やめさせるように私が動いていないと分かるとまた怒ると思います。
全てを守ろうとすると全て諦めなくてはいけなくなるとは思っています。 何を諦めたらいいのか分かりません。 以前これで勘弁してほしいとお金は渡しました。でも俺が欲しいのはこういうことじゃないと言われました。お金は返してもらってません。
Sとの約束は口約束だし、拘束力がないとは前に言ったことがあります。 でもそれなら世の中の約束は全て意味を持たなくなるし、俺がお前になにしてもいいって事だよねと言われて怖くなりました。
可能であればこのままお互いの間で問題は解決したい。 会社に言えばSだってどうなるか分かりません。もう好きではないけれど、私に引っかかり嘘つかれまくって職まで失うとか少し申し訳ない。
警察いこうかな… 1度、家の前にいた時あたりに警察に相談したことがあります。 その時の履歴残ってるだろうから話も聞いてもらいやすいでしょうか。
警察に相談とか、会社にryとかSにも言ったことはあります。私も昔はそうやって強気に出ればなんとか諦めてくれるかと思っていました。 Sから言われるのはその行為自体が誠意がない、誠意を示してくれれば自分の気持ちは楽になるのにという事で、私がしようとしている事は事態を悪化させるだけだと話をすり替えられていたような気がします。
嫁の連絡先は知らないんですよね。 会社に言うにしても何にしても、Sにこうするよって言ってからするんじゃなくてもう動いてしまったほうがいいのでしょうか。
今日も本当は夕方からSに会いに行く予定でした。 悪いと思ってるなら自分から会いに来て話をするのが普通だとSに言われ続けてたので、行く予定でしたがやめます。
彼氏はめっちゃいい奴です。 書いたら叩かれちゃうかもしれませんが、この間プロポーズされました。 裏でこんなことをしていて最低ですが、本当なら少し待ってと言うべきなのでしょうが本当に嬉しくて受けました。 その事があったから余計解決したくて焦って、結果Sの言いなりになっていました。
結局自分勝手した結果で自業自得なんですよね。 だから辛いことあっても自分のやったこと返ってきてるんだなーって思ってしまってて、でも本当に自分がしたくないことは世間体気にしてしないっていう。
結婚するなら申請出せば彼のところにいけます。 でも早くて6月の異動です。 それまで長くて。
警察に相談したのは一年以上前です。 家から近いところにあるので直接相談にいきました。 女性のかたがお話聞いてくれました。
警察には一度相談しておくと、もしも何かあったときに楽かなと思って。 その後は自分で解決しようとしていたので相談してないです。
辞めさせないと、お金とるって言われました。 それこそ口約束ですけど。 1月末にやめさせるのを約束したから、期間が伸びるごとに金額上がっていくって。
Sが彼氏に迷惑かけるのはほんとやめてほしい。 なんか目に見える形で嫌なことを彼氏にしろって言ってくる。
Sと会ってる時点で裏切ってるんだけど、それでも彼氏には真面目にいたかったから色々Sに言ったし提案もしたんだよ。 だけど私が彼氏に真面目にしようとすればするほど守ろうとすればするほどSの怒りに触れるんだよね。当たり前っちゃ当たり前だけども。
私から近づいたからSに悪いとも思ってるよ。 まさか既婚者のほうからも束縛うけると思わなかった。
上司に相談の上で会社やめる。 彼氏だけはいっしょにいたいから向こうに行くことにする。
清算せずに結婚となると騙してるみたいよな。 やっぱちゃんと話した方がいいか。
中だしもさ、自分のことしか考えてなかったから全然いいと思ったんだよね。彼氏に変なメール送れとか会う約束ブチれとか、彼氏絡むとすごい辛いけど、自分に中だしされるだけなら別にいっかと思っちゃったやばい精神状態。
この状態のSを放置して会社やめて彼氏と暮らすとして、やっぱり上で出てるみたいにSが何らかしてくるかな? もっと上の方ではSのほうが立場は悪いから何もしてこないだろうって出てたけど…
>>345 よく分からないけど彼氏と別れることは望んでいないみたい。
自分に対してもっと罪悪感を持って欲しいから、自分を一番に考えて欲しいんだって。
今日行かないってSにメールしたらお好きにどうぞ、何事も気持ちなのでって返信きたこわい
私が彼氏に会いに行く代償の約束だから何とも思わないよ。 中だしして妊娠して、俺とは関係ないところで産んで育ててくださいって言われた
彼氏に会いに行くにしては代償でかすぎは私も言ったけど、精神的苦痛は形に残らないけど俺はそれくらい傷ついてるって言われた
25日中だし、でも次の日も次の日も会うことになってたから26日アフターピルもらいに行って27日朝に飲んだ。ぎりぎり72時間は経ってないけど早い方がいいから避妊の確率は下がってる。26日も出された。
なんとかしようという気持ちがないんだね、分かりましたってメールきた。 胃が痛いわ。
私もお互い悪いんだからって思ってるし思ってたよ。 Sの考え方は、 浮気してる→私とSだけの秘密、私とSは仲間 だから浮気は悪いことだけどいっしょにしてるから良い。 でも 浮気を私が彼氏にバラす→私が彼氏と仲間になり、Sを敵としている ってなって裏切りだってなってる。 だから悪いこといっしょにしたけどそれ以上に私がSに対して悪いことしたから償えって言われてる。
もうじゅうぶん苦しいよ。足りないかもしれないけど。
644 fusianasan sage 2013/12/08(日) 00:36:28.13
1 ◆CHURa/Os2M @ちゅら猫ρ ★ sage 2013/12/07(土) 23:16:22.40 ID:???0
★宗派超え僧侶や神父ら抗議行動 特定秘密保護法成立
2013年12月7日21時14分
特定秘密保護法の成立を受け、宗教界からも抗議の声が上がった。超宗派の宗教者グループ
「宗教者九条の和」が呼びかけた街頭祈念行動が7日、東京・渋谷であり、僧侶や神父ら
約20人が集まった。
「南無妙法蓮華経」と題目を太鼓に合わせて唱えたり、キリスト教式に祈りの言葉を捧げたり、
それぞれの信仰にのっとって通行人に訴えた。
東京都の僧侶、武田隆雄さん(61)は、自民党の石破茂幹事長がデモとテロを同一視するか
のように発言したことを踏まえ、「街頭でお題目を唱えることもテロとみなされ、信教の自由を
侵されかねない」と話した。
また真宗大谷派(東本願寺)は7日、「法律が悪用されることのないよう注視するとともに、
一日も早い法律の廃止を強く望みます」という宗務総長名のコメントをだした。
日本カトリック司教協議会の常任司教委員会も同日、「人間の尊厳に関わる自由で平和な社会を
求める宗教者として断固抗議する」などとした声明を発表した。
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070300.html 前 ★1が立った時間 2013/12/07(土) 22:24:59.18
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1386422699/
それそのままSに言った。 そしたらどんな状況でも秘密を守るのがこの関係をする上でのマナーだし、そこまでさせるくらい怒らせたお前が悪いと言われた。 不倫のマナーとか知らんよ…
身体の関係が目的だったわけではない、そうなる時にちょっと躊躇したし… 精神的にはそうかな。彼氏が遠距離で束縛激しかったからなんかしたかったのかも。
膿め、
・・・いよいよ、世界の戦史上最も愚劣と言われるインパール作戦について書かなければなりません。 さて、1944年初頭に入ると、戦局の趨勢は誰の目からも明らかになっていました。 アメリカの大艦隊 は、いまやマリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン)を目指し、 日本軍はこれを待ち受けて、伸るか反る かの大決戦を行なおうとしていたのです。 東条首相は、マリアナ諸島を「絶対国防圏」と名づけて、日本の国 運をこの一戦に賭ける決意だったのです。 しかし、日本軍は、全力でこの国難に当たろうという態勢にはなっていませんでした。 どうしてかといえ ば、この期に及んで、お役所の詰まらぬセクト意識が幅を利かせていたからです。 既述のとおり、日本陸軍の主要敵国は、あくまでも中国でした。 彼らにとって、アメリカとの戦いは副次的 なものでした。 アメリカが日本本土に迫っても、それはあくまでも海軍の責任であるから、彼らには関係ない と思っていたのです。 だから、陸軍は、百万近い大軍を動員して、中国大陸とインドで大攻勢を行なったので す。 前者は「大陸打通作戦」、後者が「インパール作戦」です。 そんな余裕があるなら、どうしてアメリカと の決戦に回さないのか? そんなこと、お役所のキャリアに言っても無駄です。 彼らは、己の省益のためなら、 国益すら犠牲にする連中ですから。 こうして、マリアナ諸島の戦力は、相対的に低下しました。 「政治家不在」は、いまや致命的な破局を招こうとしていたのです。
>>9 強肩ですw
|−^)っ旦~~ 24h切ったなぁw
裏切ったか裏切ってないかっていうと裏切ったと思う。 でもそうせざるを得ない状況だったし彼氏に問い詰められれば私は彼氏のほうが大事だからゲロってしまう。それはどうしようもなかったと思う。
Sには彼氏殺せって言われた。 殺せないなら会社やめさせろって言われた。
裏切ったからって必ず謝罪しなければならない決まりなんてない Sが求めているのは、絶対に誰にもできないことを求めているんだよ 元通りも埋め合わせも不可能なんだから、1がこれからいくらSの言う通りにしてもSは許さないだろう でも、1はSのすべてを無視して縁を切ることはできる
Sは 自分の子供妊娠→おろす→彼にばらされたくなければ関係継続しろ か、 自分の子供妊娠→生んで彼と結婚→相手の家庭に自分と同等の秘密を握れるのでフェアー うーん、 上手く書けないが、彼氏が同じ会社で二人の関係を知っていると言うのが気に入らないと言うか・・・ 今後出世していく為の大きなコブになると言うか、そう言う事に固執してるのではないかと・・・
狂犬?gkbr
Sが彼氏に直接危害を加えることは無いとどこかで思ってる。 私がSに誠意を示そうとしていれば彼氏は安全だと思ってた。
年齢は彼氏のほうが下だね会社の序列は同じ。でも部署も違うし地域も違うからSと彼氏が会ったことはない。上司部下の関係になることもないかな。
てす
\(´д`)/1000
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread 〜未だかつてこれほどまでに感動的な スレがあっただろうか?〜 ★このスレッドを読んだ人達の声★ 「何気なく開いたこのスレッドとの出会いから、 新しい自分の可能性を信じようと思った。」(27歳、ニート、男) 「感動した!勇気が湧いてきた!人生観が変わった! 自分にも何かやれそうな気がした!」(24歳、契約社員、男) 「落ち込んでる時にこのスレッドを見つけ、 期待しないで読んだが、読んで涙が出た。」(21歳、学生、女) これほどまでにみなさんに愛されてきたこのスレッドですが、 残念ながら、このレスで終了となってしまいました。 でも悲しまないでください。 このスレッドはいつまでも あなたの心の中で生き続けているのですから…