>>154 「阿部君」
「あっ はい、課長」
こういう時に、やはり仕事はありがたいと思う。どんなに動揺することがあっても、仕事の話となればいつもの自分でいられる。
親の死に目に会えない仕事だと言われるが、それでも今の俺には唯一の寄る辺だ。
「三橋君ね、君のプロジェクトに配属することになったから」
「協力会社からの派遣ですよね? 何年契約ですか?」
「更新なしで1年だ。あちらも何かと忙しいらしくてな」
「わかりました」
よりにもよって余裕のある俺のとこに配属しなくてもいいのに。本音ではそう思ったが、人員配置というものはいつもこんなもんだ。
それに、今は人が余っている状態でもいつ大きな波がくるかわからない。
その時に人が足りませんと言っても配置してくれるとは限らないのだから、もらえるものは貰っておけというのがこの業界での暗黙の了解だった。
だからこそ、俺はこの季節外れにやってきた協力社員を快く受け入れたのだ。
決して、他意があったわけではない。
「三橋……君?」
「は はい!」
「机はそこの空いてるの使って。専用端末は今持ってくるから」
「あっ て 手伝い ます」
「そうか? 悪いな」
正直、どう接していいのかわからなかった。
くだけすぎないように、畏まりすぎないように、口調にまで気を遣ってしまう。
今まで散々一緒に仕事してきた仲だというのに、立ち場が違えばここまで変わるのかと自分でも驚く。
「あ あの」
「わからないことがあったら、俺か宮本さんに聞いてくれればいいから」
「はっ はい! あの…」
「宮本さんっていうのは、俺の向かいに座っているベテランのPGで、優しいからきっと丁寧に教えてくれると思う」
「……はい」
三橋が何かを言いたそうにしているのはわかっていた。
だが、それを聞く勇気は今の俺にはなかった。だからあえて聞かなかった。
三橋の話がなんであれ、俺は傷つくに違いないからだ。
恨み言の一つでも言われたほうがマシだ。幸せな現況報告など聞かされるくらいなら………
>>155 「阿部君!」
何百回と聞いたその言葉が風穴の空いた胸を通り抜け、俺は足を止めた。
「あっ すみませ… じゃなくて、阿部さん!」
「ああ、なんだ?」
「こ ここ、じゃ」
いつの間にか1メートルほど離れたところに三橋が立ち止まっていて、隣の会議準備室を指差している。
そうだ、予備機を取りに来たんだっけ。すっかり忘れて通り過ぎようとしていた自分に苦笑する。
仕事のことなら平気だとか、そんなのは全くの大嘘だった。俺は最初から動揺しまくっていたのだ。
持ってきた鍵をカギ穴に差そうとして何度も外し、そこでようやくその事実に気づいた。
手が震えて止まらない。仮にもプロジェクトを任されたリーダーだというのに情けないにもほどがある。
「あ 阿部く… 大丈夫?」
そっと温かい感触とともに三橋の声が聞こえてきて、ハッとする。いつの間にか三橋は俺の手を包んでくれていたのだ。
カシャンと奥で鍵が外される音を聞きながら、俺は泣きたい気分になった。
三橋に支えられなきゃ鍵一つ開けられないなんてとんだ駄目男じゃないか。肩書きばっか偉くなっても何の意味もない。
三橋はそんな俺の様子など気にも留めない様子で部屋に入っていくと、端末を物色し始めた。
「ど どれ 使えば… いい ですか?」
準備室の中には新品同様のデスクトップパソコンとプレゼン用のノートパソコンが何台かあり、どれもすぐ運べるようにコード類を束ねた状態で置いてある。
「どれでもいいけど、これなんかいいんじゃないか? 一応新しいモデルだし」
俺は手前のデスクトップを指差してこう言った。これは俺が先日まで使っていたやつだ。
今はクライアント会議のプレゼンに適した端末にしているが、開発に戻れば再び使おうと思っていた。
だが、開発に戻れる気配はないし、今の三橋にはこれが丁度いいと思う。
「じゃあ、は 運ぶ ね」
「おう。とりあえずこの荷台に乗せて大部屋まで持ってくぞ」
「はい。じゃ… モニタ 乗せます」
19インチのモニターを両手で抱えるようにして三橋は荷台へと運んだ。
その時、カツンと音がしてポケットに忍ばせていた三橋の携帯電話が床に落ちる。
「あっ」
俺の足のすぐそばまで来たので無意識に拾い上げると、「ホラ」と三橋に渡した。
見たことのない新しい携帯。携帯変えたんだな、とはなんとなく言えなかった。
俺の手から三橋の手に渡る瞬間、それは着信ランプを光らせて震えだした。
そのとき着信画面に表示された名前を、見なければよかったと思う。