>>297 ここまで
ペンキの剥げたモルタル製の壁が白いタイル張りに変わって、ざらざらしたコンクリートを蹴っていた踵がワックスでぴかぴかに磨き上げられた廊下を滑る。
コンコースは帰宅ラッシュ時の人込みで混雑していて、人にぶつかって謝って、間をすり抜けようとして挟まったり、揉みくちゃにされてバッグを落としそうになる。黒いダウンコートの裾を必死に眼で追った。
「だ、だいじょ、ぶ、です かっ」
ゲホゲホ咳き込んでいる自分のことは棚に上げて、しんどそうに脇に手を宛てている背中に手を伸ばす。触れる前に肩越しに振り返った顔は諦め半分、動揺半分って感じだった。
突っ撥ねられるかな。キモチワルイ、触るな、近寄るなって言われるかな。緊張して噛み締めた唇をぷにっと圧された。
「血が出てる」
ガサガサのオレの唇をなぞった指が離れると、遠のいた体温のぶん余計に冷たさを感じて、急いで舐めた。血の味がする。
オレのお腹に視線を落として眼を丸くした和さんは、期待と不安の入り混じったオレの顔とソレとをしばらく見比べて溜息を吐いた。
溜息にもいろんな種類がある。これは、仕方ないなぁ、の溜息だ。
「…お前、細っけえくせに食うからなあ」
「ふひっ」
『とってもお腹がすいていますミ☆』の張り紙をベリッとはがして「笑うな」と拳骨を落とす真似をする。裾を掴んだ指先がふかふかの裏地のぬくみに触れてあったかい。
ツン、と引っ張られる感覚に気付いた和さんがオレの手を下から掬うみたいにして握った。
指なしの無地の手袋をしてる。毛糸の上からも太く節ばった硬い関節の形がわかる。
短く切り揃えた爪や皮の厚い指の腹の感触は、阿部君の手ともよく似てるのに、毎朝体感瞑想で触ってるのと殆んど変わらないのに。ちょっと触れられただけでドキドキしてしまう。
トトトトト…、と忙しなくなった心臓と血が上りすぎて痛いくらいに熱い頬を俯いて隠していると、和さんはオレの右手を自分のコートのポケットの中に押し込んだ。
「峰ちゃんはそうでもなかったけど、準太の奴は冬になるとしょっちゅう指痛めてなあ…。
爪は割れるし逆剥けは酷いしで指先真っ赤っか。けど軟膏はベタベタするから塗りたくないテープ張るのは面倒臭いってgdgd文句ばっか垂れやがってさ。
ふんとに我が侭っつーかガキっつーか…お前も肌、弱いだろう」
スライダーの胼胝を撫でた指が水掻きを押し上げて手の甲の骨を辿る。くすぐったい。首の後ろがゾクッとした。
「う、お、あう」
「皹や皸になったらボール握る時痛いぞ」
無用心でよかった…!心からオレの気の回らなさに感謝した。だ、だって、手袋してたら手繋いでもらえなかったんだ。ポケットの中でギュッギュしてもらえなかったんだ。
ついさっきまで緊張と興奮の狭間でうろうろ落ち着かなかった気持ちが重さを失ってフワーッと浮き上がる。
『拒絶されなくてもそれは受け入れてもらえるってこととイコールじゃねえ』
鳩尾の辺りに沈む重石にフッと我に返った。そうだ、あの夜のことちゃんとしないと、いけないんだ。俺の気持ちも伝えないと。手握ったくらいで浮かれて忘れちゃ駄目だ。
駄目だってわかってるのに動悸が収まらない。
足元から埃を舞い上げて吹き付けた冷たい風に眼を閉じて、一瞬だけ横顔を翳らせた憂愁に気付かない振りをした。