蜜柑の話
「西のほうから来られたお客様が、蜜柑をいっぱいおいてってくだすったんです。よかったら食べません かー?」
若女将独特の響きの悪い控えめな戸を叩く音の直後、やはり女将独特の鳥が鳴くような声が聞こえた。
懐中時計を見ればすでに昼からたいぶたっている。
それに気付くと腹が減ったような気になるものだ。人間の体と言うものはまったく不思議で興味が尽きない。
書く時に熱中してしまうのは俺の悪い癖か。炬燵から抜け出すと戸を引いた。
「みっかん、蜜柑 ですよー」
あまり器量のよくない女将がふひっと眉を下げたまま笑った。
羽毛のようにふわふわしている髪は異人のような色をしており、形の良い好みの尻を持つ女将だが実は男だ。
先日銀杏の事件の際に偶然知ってしまった。
あの時はしばらく銀杏を食べるたびに眉を顰めざるをえない状況であったが、
銀杏の季節も相当前に終わってしまったので今はそんなことはない。
来年の季節までにはすっかり忘れていることだろうし、そうであって欲しい。
「お好きですか?」
みると小豆色の袢纏から覗く両腕には蜜柑が山積みになっていた。
程よく色づいたとても甘そうな蜜柑だ。
「ああ、おいしそうですね」
「今年は甘いらしいです よっ」
女将は若干興奮気味だ。それだけ美味だということなのだろう。
ああ、しかし蜜柑・・・原稿が汚れてしまうな。修羅場中の身としてはそのようなことは避けたい。
それに俺の手は今インクで汚れている。このような手で食べるわけにはいかないだろう。
「ありがとうございます、ですが今原稿中でして、手が使えないのですよ」
俺は両の手を広げて見せた。インクで黒くなった汚い手だ。
「うおっ」
若女将は驚きを隠せない表情をする。まさかこんなに汚れているとは思わなかったのだろうな。
「そんなわけで大変残念なのですが・・・またいただけますか?」
苦笑いする。俺自身、作家と言うものがこんなに汚れる仕事だとはまったく想像していなかった。
手の汚さだけで言えば、軍隊にいたときとそう変わりはしないだろうな。
「・・・」
女将がじっと俺の手を見つめる。そんなに見られるとさすがに恥ずかしい。
「せ、先生!」