どん底、ID調べ

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855方丈記
福原遷都

 又おなじ年の六月みなづきの頃、俄に都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。大方この
京のはじめを聞けば、嵯峨天皇さがのみかどの御時、都と定まりにけるより後、既に數百歳を
經たり。ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人たやすからず愁へ
あへるさま、ことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、御門より始め奉りて、大
臣、公卿、ことごとく移りたまひぬ。世に仕ふるほどの人、誰かひとり故郷に殘り居らむ。官
位つかさくらゐに思ひをかけ、主君の蔭をたのむ程の人は、「一日ひとひなりとも疾く移らむ」
とはげみあへり。時を失ひ世にあまされて、期ごする所なき者は、愁へながらとまり居たり。
軒を爭ひし人の住居、日を經つゝ荒れ行く。家は毀たれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。
人の心皆あらたまりて、唯馬むま鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をの
み願ひ、東北國の莊園をば好まず。
 その時、おのづから事の便りありて、津の國今の京に到れり。所の有樣を見るに、その地ほ
どせばくて、條里を割るに足らず。北は山にそひて高く、南は海に近くて下れり。波の音常に
かまびすしくて、鹽風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの木丸殿きのまるどのもかくや
と、なかなか樣かはりて、優なるかたも侍りき。日々にこぼちて、川もせきあへず運びくだす
家は、いづくに作れるにかあらむ。なほ空しき地は多く、作れる家は少なし。故郷は既に荒れ
て、新都はいまだ成らず。ありとしある人、みな浮雲うきくものおもひをなせり。もとよりこ
の處に居たるものは、地を失ひて愁へ、今うつり住む人は、土木どもくの煩ひあることを嘆く。
道の邊ほとりを見れば、車に乘るべきは馬に乘り、衣冠布衣なるべきは直垂を著たり。都のて
ぶり忽ちに改りて、唯鄙びたる武士ものゝふに異ならず。これは世の亂るゝ瑞相とか聞きおけ
るもしるく、日を經つゝ世の中うき立ちて、人の心も治らず、民の愁へ遂に空しからざりけれ
ば、同じ年の冬、なほこの京に歸り給ひにき。されど毀ちわたせりし家どもは、いかになりに
けるにか、悉くもとのやうにも作らず。
 ほのかに傳へ聞くに、いにしへの賢き御代には憐みをもて國を治め給ふ。すなはち御殿みと
のに茅を葺きて、軒をだに整へず、煙の乏ともしきを見給ふ時は、かぎりある貢物みつぎもの
をさへゆるされき。これ民を惠み、世をたすけ給ふによりてなり。今の世の中のありさま、昔
になぞらへて知りぬべし。