■2004/09/26 (日) 一応
生きてます。
■2004/10/02 (土) +2
たとえば祖母と孫という関係だからといって
互いへの愛情とは自動的に無条件に無制限に続くものではなくて、
どちらかというと消費することも使い切ることもできる
銀行口座の残高のようなものであると。
揺らぐことはないと思っていた足下がちょっとばかり崩れたような気分。
双方ともに人間なのだからこれはむしろ当たり前のことなのだけれど、
それを今まで全く意識することなくやってきたというのは
要するに私が祖母のことを人間扱いしていなかったということなのかなあと、
そんなことを思った週末だった。
お互い様ではあるし、別にそれを悔やむ気はないのだけれど。
友人からの呼び出しでスタバへ。
つーか、人を呼び出す前にそのテンションの低さをどうにかしろ。
いや、テンションが低いのはまだ許すから「どうでもいい」「つまんない」
「最近他人に関心が持てないんだよね」を連発するのは本当にやめろ。
それは外へ出るときに顔を洗うのと同じぐらい大切なことだと思う。
何か悩みがあるなら口に出せ。
愚痴ならいつでも何でもいくらでも聞くと日頃から言ってるだろうが。
そういう気分、分からなくもないけどさ。
■2004/12/09 (木) 気がつけば12月
別に心当たりはないのに、生協の「落とし物箱」の中身を
つい確かめてしまうところに自分に対する自信のなさが現れているのだと思った。
そういえば最近物を失くしていない。
■2005/01/12 (水) あけおめことよろ
年が変わったのだから何か新しいことにチャレンジしてみようと思い、
野村證券の『バーチャル株式投資倶楽部』なるものにエントリーしてみた。
銘柄の数、売買のタイミング、選択肢のあまりの多さに目が回りそうになる。
やはり私のような人間には適度なガイドラインというものが必要なようだ。
少しずつ続けてはいるのだけれども、正直ちっとも面白くない。
自由なんてろくなもんじゃないね、と頭の悪い結論にたどり着いたと
友人に話すととりあえず受けは取れるのだけは収穫だった。
しかし連日非人道的な寒さ。
歴代天皇は何故こんなところに都を置いておこうと思ったのか
本当に不思議でならない。
■2005/01/19 (水) 引退すべき人々
お守りがあればどうにかなるなんて発想はガキのものだと思うし、
占いは話のネタにするか自分にエンジンかけるきっかけにするものであって
本気にするなんて脳味噌か人生に欠陥抱えている人間のすることだと思うし、
ましてや占いを信じ込んで落ち込むなんて悲劇や喜劇という言葉以下、
姓名判断やる人間なんぞ「よろしく」を漢字でどう書くべきか(ex.『世露死苦』)
足りない頭で悩む2世代ほど前の暴走族と何がどう違うのか理解できない。
まあ、これは個人的な事情もあるのだけれど。
何が言いたいかというと、偶然見つけた半常駐板の雑談スレッドで
「だって科学じゃ説明のつかないこともあるし」を繰り返して
占いを正当化しようとする私の嫌いなタイプの馬鹿を見てしまい、
その文句は何の切り札にもなっていないということを40行ほどのテキストに
書きつづってみたものの長すぎて自分ですら読む気になれないことに気付き、
本棚から『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』(カール・セーガン/新潮社)を
引っ張り出してきて(これは名著だ、文庫版もあるので是非買うべきだ)
そこから数行コピー&ペーストしてはどうだろうかと思いついたところで
ちょうど気力が尽き、結局ブラウザを閉じて秀丸を開き直して
これを書いているのである、ということだったのだけれど、
ふと気がつけばさっきまで感じていたイライラは雲散霧消していて、
眠い目をこすりながら延々とエディタに向かって自分でもよく分かっていない
「科学とは何か」なる深遠極まりないテーマをただただ回りくどいだけの文章で
書き立てていたその本来の目的とはあくまで自分の気分を晴らすことであって
「馬鹿を啓蒙する」などという大それた(そして私には到底似合わない・
向いていない・出来ない)ことでは断じてないのだから、
私はもう朝ご飯を食べて早めに学校に行くべきなのではなかろうかという
結論に至ったわけなのであります。時刻は6時53分を回ろうとしているところ。
D(だるい)・N(ねむい)・S(さむい)。
■2006/01/19 (木) ただいま
というわけで奇しくも前回の更新からちょうど1年、
mixiからこちらに戻ってきてみた。
過去の日記は全部消そうかとも思ったけれど一応思いとどまる。
しばらくは向こうと並行してやってくつもり。
mixiも悪くないんだけどね。
誰が見ていて誰が見ていないのか分からない方が楽だわ。やっぱ。
■2006/01/19 (木) で、今日の日記
進まない進まない進まない進まない。
作業が進まないのは気がつくと2chとか知人の日記とか見てるからで、どうしてそんなことをしているかと言えば私の頭が悪いからで、それは何を意味するかと言うと絶望的なまでの生産性の低さであると。
こんなことで修論書けるんだろうか。
なんか今のうちにボクM3行きます宣言したら楽だろうなあとか普通に考えてる辺りでもう駄目駄目。
■2006/01/20 (金) ゼロ
割と不可抗力っぽい事情で今日は研究室サボり。
まあ明日行くからいいや、と思っていたらその明日はセンター試験だと今気が付いた。
別に立ち入り禁止のような通知は来ていないけれど、どうしようかなあ。
■2006/01/21 (土) 無為
朝6時までRO。
昼過ぎに起きて夕方までまたRO。
本屋に行って延々と立ち読みをして、買い物をして帰る。
帰ったら帰ったでまた寝て、気が付いたらこんな時間。
ねえそれなんてNEET?
■2006/01/23 (月) また雪
それが男女の間の機微ってものなら、
私には多分永遠に追いつけない領域にあるんだと思う。
君は伊達にそういう生き方をしているんじゃないんだね……
もちろんここで重要なのは
それが「自分で選び取ったものである」という点なんだけど。
大学に着いたのは昼過ぎ。
学食で遅い昼食を食べながらぼんやり考え事をして、
生協でダイヤモンドを立ち読み。
今週はすごく興味のある特集で、どうせなら買えばいいのに、
と思いながら結局全部読み終えて時計を見たら4時。
「忙しい」とか口が裂けても言えないな、こりゃ。
そのおかげで今日もこうして1時を過ぎても
研究室にいるわけなのだけれど。
帰っても寝るだけだしなあ。
■2006/01/25 (水) だるい
サボりすぎだわ、研究も就活も、その他日常的なこと全部。
ろくでもない夢を2日連続で見て微妙にヘコみ中。
そういうのはもう懲りてるからさあ……
自分のすごく正直な願望だということが分かっているから余計にきつい。
■2006/01/26 (木) ホリエモン
脱法的な行為と違法行為を意図的に混同するミスリーディングな報道はいい加減にやめろ。
世の中に渦巻く感情論を掬い取って小金を稼いでるゲンダイあたりと何も変わらないじゃん。
お前らの使命はそんなことじゃないはずなんだってば。
■2006/01/26 (木) 29時42分、研究室にて
iPodのバッテリーがそろそろ劣化しているようで、
連続稼働時間がだいぶ短くなってきた。
生活に音楽が必需品の私としてはこれじゃどうしようもないので、
とりあえず充電コードを買ってきた。
研究室滞在時間が劇的に延びる魔法のアイテムだった。
KOTOKOの歌を聴いているだけでやる気が出てくる、
というか「帰りたい」という弱気を抑え付けられる。
作業効率自体は指数関数的に下がっていくんだけどね。
■2006/01/27 (金) 29時ちょうど、研究室にて
昨日の夜更かし、というか徹夜のおかげで
もともと狂っていた睡眠のリズムが無茶苦茶に。
結局目が覚めたのは夕方
(それが許されるのは学生ならではの甘さということなのだろう)。
眠くて眠くてとにかく眠くて、視界にも思考にももやがかかる感じ。
頭の中に霧が詰まっているような最悪の気分。
ぽつぽつと雨まで降り始める中、
今日はもう寝ていたいといういつもの弱気を追い払えたのは、
私が研究室を後にした朝6時の時点でまだ残っていた同期のM1に
「サボった」と思われるのが悔しいというただそれだけの理由。
実力もないくせに負けず嫌い、中身もないのに人の目だけは気にするだなんて
恥ずかしいことには違いないけれど、
自分を動かすための燃料であるのは事実なんだから
うまく使えるようにならなくては、と思う。
研究の方はそこそこ順調。
今していることは研究活動というよりも研究をするための
下準備と言った方が正確なのだけれど、
少なくとも自分が前に進んでいることだけは間違いなくて、
あとは1年後のタイムリミットに間に合うことを祈るのみ。
■2006/01/28 (土) リクナビ
誰か代わりにエントリーしておいてよ。
寝たのが昼過ぎ、起きたのは7時。
さすがに不健康すぎるかもしれない。
実際眠くてたまらないし。
■2006/02/10 (金) 就活もどき
このご時世に「履歴書を手書きで書け」「あ、修正液禁止ね」とか
もうナンセンスもいいところだと思うんですよ。
そりゃ勿論、世の中に「しきたり」ってものがあることぐらい私だって知ってるし、
そういうものもある程度は必要だろうとも思う。
しかしこれはもう何というか、決して「潤滑油」などと呼ぶには値しない、
ただただ非生産的な労力の消費を、しかも一方的に強いているだけで、
それが無差別無分別なエントリーに対する抑止力となっていると分かってはいても、
「俺らも昔書いたんだからお前も文句言わずにやれ」みたいな、
一種のイジメの構造を想起させてああくそもうまた間違えた。
まあセミナーに出かける前日(というか前夜)になって書いてる方が悪いんだけどさ……
未だに研究と両天秤にかけるって無茶なことしてるもんだから時間が足りないのよ。
言い訳になりませんかそうですか。
ワイシャツはどこだ、とタンスをひっくり返していたら6年前(!)に買ったズボンを発見。
当時のセンスの悪さというか皆無さというか必死な背伸びっぷりが偲ばれる一品で、
さすがに気恥ずかしくて買ってから1度もはいていなかったのだけれど、
とりあえず引っ張り出して足を突っ込んでみたらちゃんと通ってホックも閉じられる。
これならウエストそこまで気にするほどじゃないのかも、と思ったところで
今日は夕食を食べていないことに気付くわけで、
……まあ、そんなもんだよね。
■2006/02/11 (土) ぷぎゃー
昨日エントリーシート(みたいなもの)を書いた会社のセミナー。
大阪で。
最低でも30分+30分は余裕を見ていたはずがまず当初の予定通り30分は無駄に使い潰し、
そしていざ出かける段になってネクタイの結び方が全く分からず、
近所の友人(インフルエンザで静養中)を叩き起こして教えてもらう。
体調最悪のはずなのに嫌な顔ひとつせず「ここをこうして」と解説してくれる友人の横顔に、
持つべきものは友、って言葉がこれほど実感を持って迫ってきた瞬間がかつてあっただろうか。
あった気もする。
とりあえず今夜また何か食べるものとジュースの差し入れするよ。
……そして電車の中でES(みたいなもの)を忘れてきたことに気付くわけで、
今だけなら大阪でテロが起きても割と笑って許せるかもしれない。
帰ってラグナやろう。
■2006/02/12 (日) 観光もどき
忙しいと言ったその舌の根も乾かぬうちに金閣寺へ。
正確に言うと鹿苑寺。
まあどちらでもいいけど。
朝10時に起きて近所のコンビニで待ち合わせ。
その目の前にあるバス停から市バスに乗れば(1分も待たなかった)
あとは座っているだけで勝手に金閣寺の前まで着く。
少し前までは確かに妙な反感を持っていたこの京都という街やシステムに
7年目にして少しずつ馴染んできている今日この頃。
それが「取り込まれる」ということなのか、それとも「住む」ということなのか、
「自分らしく」なんて言葉は鼻で笑い飛ばす私だけれど、
能動的に生きていたい、とは思う。
季節と時間帯のおかげで観光客もまばらな中、
高2の修学旅行以来8年ぶり、人生で2度目に見上げた金閣寺は
記憶にあるよりもなんだか貧相に見えた。
ただ建っているだけというか、やっぱり銀閣寺の方が好きだと思う。
■2006/02/13 (月) 風邪もどき
朝からものすごいだるさ。
寝不足とかなんとかそういうものではなく、身体がとにかく重い。
鼻の奥がひりひりして、インフルエンザで寝込んでいる友人が話していた
初期症状とかなり似ていることに思いっきり危機感。
やること溜まってるんだけどなあ、と思いながら寝ることに決定。
これを書いている14日の深夜の時点での体調はまあまあ。
とりあえずインフルエンザではない
(もしくは症状が悪化する前に治った)らしくて一安心。
食欲がないので食事はあまり摂らないでいる。
ウエスト縮むといいな。
■2006/02/14 (火) そんなわけで
ただひたすらに寝ていた。
ここまで縁のない年も久しぶりだわ(意味深、でも何でもない)。
体調は良くなったものの何もやる気が出ないのはどうしたものか。
■2006/02/15 (水) わん、もあ、でい
体調はまあまあ。しかしやる気が全く出ない。
何もかも嫌になって先生に「もう1日休みを頂きます」とメールを書く。
勝手に月曜・火曜と休んでおいて「もう1日」も何もないのだけれど、
何はともあれ、メールを送信してしまったら気分が一気に楽になった。
要は活性化エネルギーの問題。
気分転換も兼ねて食事と日用品を調達しに自転車で近所のスーパーへ。
外は季節を間違えたかのような暖かさ。
走っていると余計に身体が温まってきて、コート要らないじゃん、
と自分でも意識しないうちに口に出していた。
あいにくそのコートの下は思いっきりボロボロの部屋着、
重いだけのコートもさすがに人目があるところでは脱ぐわけにもいかず、
何事も手抜きをするべきじゃないなあ、と少し後悔。
この桜もあと1月もしたら満開になるんだろうな。
■2006/02/16 (木) さらにもう1日
研究室をまたしてもサボる。
大丈夫なのかこんなことで。(答え:ノー)
2日遅れのチョコもらった。
■2006/02/17 (金) 迷い子
研究室に行くのに、普段通る道の1本隣のたまに通る道の、
そのまた1本隣の普段全然使わない道を通ってみた。
この道はこんな風に繋がっていたのか、とちょっと驚いた。
本当に近所だと思っていたところにこんな顔があったなんて。
研究室滞在時間は19時間。
無駄な徹夜は今度こそやめようと心に誓う。
自己満足のタネになるだけで、
帰って寝てまた続きをした方が明らかに効率いいし。
■2006/02/19 (日) 観光もどき#2
友人の母親が割と突然京都に遊びに来る。
まあ色々あって京都の観光案内をすることに。
交通手段は先週に続いてバス。
京都市バスの運転手の腕が悪いのは京都人には常識で、
私達が乗ったバスもご多分に漏れず揺れる揺れる。
しかも私たちが座ったのは車両の一番後ろの席、
新幹線でも本を読むと車酔いする私がこんな状況で
酔わずにいられるわけがなく、
そこに前日からの寝不足という悪条件が重なってもうふらふら。
それでも必死に笑顔を作って応対する私エライ。
私って結構自己犠牲的なところがあるのかもしれない、と
最近ちょっと思い始めた。
「ふざけんな」ですかそうですか。
なお、京都の市バスについては相当多数の運転手の
「人格」に問題があるのもまた常識で、
バス停の客に向かって平気で暴言吐くのを聞かされて朝からうんざり。
一体何をどう勘違いすればここまで頭の悪い人間になれるのやら。
民営化しようぜ民営化。絶対赤字だけど。
■2006/02/22 (水) フィギュア
フィギュアスケートを見るために思いっきり夜更かし。
起きたら昼過ぎ。
さらにいつの間にか眠り込んで夕方。
何かを取り返そうとするように美容院に電話をして、
とりあえず髪だけ切ってきた。
何をやっているのやら。
■2006/03/09 (木) 花粉症+風邪
とにかく頭が働かない。
いくら寝ても眠いし。セキ出るし。関節(特に足の方)が痛いし。
これでも頭脳労働やってるはずなのだけれど、
本当に「作業」しか出来ない状態。
出かける前には必ず抜くことにしているヒーターのコンセントを
(記憶にある限り初めて)差しっぱなしで出てきたり、
机の引き出しの鍵を忘れたり、そこかしこでミスだらけ。
これで明日は朝のうちに研究室に行って、
夕方には大阪で説明会+試験(多分SPI)とかもう泣きそうなんですが。
■2006/04/18 (火) たまには
こっちも更新してみる。
mixiも嫌いじゃないけど過去の日記が読み返しづらいんだよね。
■2006/05/06 (土) mixiにはとても書けん
会社説明会で京橋へ。
来たのはいいのだけれど、肝心の登録証(IDや名前を書いた用紙)を
持ってくるのを忘れるという致命的ミス。
プリントしたものをバッグに入れようとしたところで
バッグを落として中身をぶちまけて、そこで意識が一瞬緩んだらしい。
睡眠不足に加えて風邪引いてまして、なんて言い訳が通るわけもなく、
IDはもちろん控えてあるけど、「これがない人は入れません」
「遅刻した人も入れません」と明記してある以上、
駅に到着次第、ネットカフェを探し、PDFファイルをダウンロードして
プリントして会場へ向かうしか私に道は残されていない。
行動は最大限迅速に。最大限迅速に行動を。
したけど間に合わなかったのでネカフェでこれを書きながら
「クーデタークラブ」読んでます。
この人はこういう漫画描かなくちゃ駄目だってば。
■2006/05/06 (土) 追記
こんな日記をわざわざアンテナに登録している物好きがいることを知った。
いや別にいいんだけどさ。公開してるものだし。
これ終わったら淀屋橋に行って服とお茶を見てこよう。
■2006/05/07 (日) 思いついた
mixiにもこっちにも同じこと書き込めばいいじゃん。
となると1000文字の制限が面倒なんだけど、まあそこはそれで。
■2007/03/19 (月) 気が付いたら1年過ぎてるとか
冗談にもならねー。
■ このブログについて
このブログの大体の説明です。この記事は通常のエントリと違って、定期的に書き換える可能性がありますんで、そんときそんときで確認してもらえると管理人としては助かります。
このブログのデザインについてこのブログはMovable Type3.3を利用して描かれています。
普通のブログサービスと違うのは、自分のサーバー以下にブログをコンテンツとしてまとめられることと、豊富な機能拡張能力にあります。特にブログというシステムは、どうしてもHTML文法を無視した記述になりがちなのです。
改行すると自動的に<br>タグが挿入される設定を変更し、改行が反映されないマークアップが可能になります。
そういった幾つか規範を考え、このブログは運営することを考えています。
以下にその目指す方針を羅列します。
マークアップをきちんと行う
横のサイズを固定せずユーザー環境にあわせたパーセンテージ指定
文字のサイズを固定せず、大き目の1emを基本とする
混乱のもととなるような重複するリンクをつけない
カレンダーやリンク集やレコメンドのようなブログに必要ないもしくは装飾でしかないような機能は極力省く
薄くならず、ぎらつかない見やすいレイアウト
なるだけ画像を使わないレイアウト
エントリに不必要なサイドバーの省略
各エントリのURLはなるだけ覚えやすい有意味なものにする
また、Movable Typeに特有のプラグイン機能では既存のシステムより遥かに有意義なものもあると考え追加することがあります。
このブログを使用する際に覚えておくといいものコメント欄で使えるタグはa href,b,i,br/,p,strong,em,ul,ol,li,blockquote,preなどの、文体を変更するようなものみです。
このブログで扱う予定の話題
主な話題は哲学、数学、音楽、文学とかそれらしいものです。あまり社会や現代的なテーマは取り扱うことを予定しません。
どうせそういったことを偉そうに語るに足るほどの、何らかの能力や知識は持ち合わせていませんから、そういった話題は他の方に任せます。
哲学はドイツ観念論、現象学を中心に読み解きたいと考えています。
よろしく〜。
このブログの周辺リンク
ホームページ上ならともかく、書き捨てるだけが目的のBlogにリンク集は無意味という観点から主なリンクはここで書ききります。不便と思うならブックマークするがよろし。
2007年06月15日
■ カント三批判書を読む
カント哲学は単なる哲学史的にももちろん非常に重要だし、その影響力の範囲はもはや哲学の枠を超えていて、また特定の区域に留まるものではない。
美学、道徳、宗教、平和といった概念を学ぶとき、カントから始まるということは珍しい事態ではない。
人文関係の本を読めば誰でも、カントの存在を影に感じているのではないか。
僕はそんな一人だったから、そろそろ本腰入れて真面目に読もうじゃないかと思った。
カントの哲学は、カント本人が思ったようにであろう受容のされ方をした数少ない哲学ではないかと僕は思う。
高名な哲学者の多くは、本人が思うような形とはとてもいえないほど好き勝手な形に変形されている場合がとても多いようだけれど、カントの哲学には俗説を許さないほどの整然性と、詳細さがある。
もちろん、カントにはいろいろな解釈の余地がないということではなくて、完成されているという意味で、多くのカント像にはさほど差がない。
僕が見る限り、カントの哲学に関してカントから離れるように言及しているケースというのは、その全体の概念を踏まえた上で独特のカント哲学の利用方法を示すか、あるいは細かな部分での綻び探しといった具合なのである。
もしもカントの哲学を好き勝手に操作していると言われる人がいるとしたら、それは「物自体」に関して程度だろう。
「物自体」という概念の俗説は、私達に親近感を湧かせる自然な概念ゆえに、カント哲学から一人歩きしてしまった観があり、多くはラカンの現実界といった概念と照らし合わせるようにして説明される(もちろん、ラカンに関してすらも誤解が多いのだろうが)。
とにかく、マジメに読もうとすれば、どうしてもカント哲学像は通俗のものに似たり寄ったりになりがちで、素人がカント読解・解説を試みたところで最終的に独自のものが得られることはほとんどないといってもいい。
だからここは腹を決めて、通俗に留まっても仕方ない、とにかくカントを読み、よく咀嚼しようと思う。
カントの哲学がヒュームと近接していることはよく語られる。
カントの弁を借りれば、ヒューム哲学こそがカントをまどろみから覚めさせたのだという。
一般的なヒュームの功績はおおざっぱに言って次のようなものだと思う。
原因結果の原則に関して、それまではアリストテレスの三段論法が有効な分析手段と考えられていた。
しかしヒュームによれば、原因と結果の関係は単に人間の習慣が偶然に繋ぎ合わせて考えたものに過ぎず、人間の本性に由来するようなものであって、必然的、アプリオリなものによってではない。
この意見は少なくとも、アプリオリな原則に基づく合理論には脅威となりえたわけで、ライプニッツなどを始めとする合理論と、ヒュームらによる経験論、これら二つをどう解釈し、どう統合すべきであるかはカントにとって重要な懸案だった。
論点を先取りすると、カントはアプリオリなものの存在を認めている。
だが、合理論のような素朴な世界観を受け入れることも拒否する。
アンチノミーとして考えられる事態を考えれば、世界が矛盾律などの素朴な合理論で十分に解き明かされることはないというのは明らかである。
合理論は根拠を提示し続ける方法をとる限り、究極の根拠を解き明かすことが出来ない。
究極の根拠にはそれ以上の根拠がないのだから、当たり前のことだ。
カントが考えたのは、果たして原因結果の原則を決定づけるものは人間の本性といったものなのだろうか、という問いであり、やがてそれが理性批判という形へと移り変わっていくのである。
この企画ではいわゆる三批判書の全てを読み込むことを目標とするので、そうとう気の長いものとしなければならないだろう。
だが描かれていることをいちいち全部網羅する気はもちろんなく、僕が読んでいった中で疑問に思ったことや、カントをイメージでしか知らない人のための解説となりうる題材を箇条書きしていくことになる。
一応、現段階で資料として手元にあるものは羅列するので、興味がある人は買えばいい。
カント自身の著書
純粋理性批判 訳.原佑
実践理性批判 訳.宇都宮芳明
判断力批判 訳.宇都宮芳明
プロレゴーメナ 訳.土岐等多数
入門書、概説書など
哲学のエッセンス「カント」 著者.熊野純彦
カント入門 著者.石川文康
カント『純粋理性批判』入門 著者.黒崎政男
カントの批判哲学―諸能力の理説 著者.G.ドゥルーズ
カントの生涯と学説 著者.E.カッシーラー
カント『純粋理性批判』註解 著者.ノーマン.ケンプスミス
純理の英訳も持ってるけれど、死ぬまでに読めればいいと思っているだけなので参考にはしません。
哲学史関係は引き合いに出す可能性があります。
そのくらいかな。
2007年06月16日
■ 『純粋理性批判』を読む その1
カント純粋理性批判の基本的な概念についてはメインサイトでまとめてあるので、そちらを参照してください。
お約束
A版B版の違いはあるが、基本はA版でやる。
理由はさまざまだが、B版にしかない大事なものというものをあまり聞かないので、だったら構想力を重視した方をやる。
両方を比較する作業は他の著作で十分に補完可能だろうと思うし、暇があればそれも検討するという形でここは潔くA版に集中。
こちらはカントが危惧した観念論との混同の危険性はそこまで強くないだろうし。
翻訳は原祐訳を用いる。
天野貞裕訳もあるし文庫サイズで参照しやすいのだが、入手が困難かつ、訳語が古いという欠点がある(アプリリが先天的、超越論的が先験的となっている)。
入手が容易という点で、今後純粋理性批判を読む人は原祐訳がスタンダードになる可能性が高いと思うし。
で、進め方をどうするか、ということですが。
一応気分がノるだけ進めるという方法が一番いいのだろうとは思います。
ざっと1200ページってところですが、30ページ程度を一度に目指せば40回ほどで終了ってことになりますな。
出来るかな?まー最低20ページはやろうよってことで。
序文等は飛ばします。
序論超越論的哲学の理念
序論から始めましょう。
カントは経験によって認識が始まることを認める叙述から純理を始めています。
経験は私達にさまざまなことを教えてくれる…と、経験論者を擁護するような始まり方です。
逆に言えば、経験によって認識が始まることを認めつつ、「でもね?」ということを言いたいのでしょう。
そしてページをめくると、さっそく経験が必然的なものを教えてはくれないと、カントは愚痴をこぼしています。
経験で確認される以外の領域、それは「このものが必然的にこのものである理由」といったものでしょう。
悟性はここに関わるけど、経験はこれは教えてくれないんだと。
なるほどなるほど。
さて、こういった知識は「内的必然性」を持っているといわれます。
そうなのでしょう、そのものがそのもので必然的だといえるのだから、そうとしかいいようがありません。
そういった、「それがそれ自身だけで明瞭かつ確実な認識」をアプリオリな認識と呼ぼうと提案しています。
このことはちょっと留保が必要ですね。
アプリオリは経験から独立していることが、その定義でした。
しかしながら、アプリオリという言葉には特徴として「必然的」が入りこんできますが、そのことを言い表しているのがどうやらこの箇所のようです。
で、その逆に経験から受ける認識はアポステリオリなんだ、といっています。
だがしかし、経験から受けた情報の中にすら、何か「必然的」で「普遍的」な、つまりアプリオリな認識が含まれているようだとカントは言っています。
だって人類は今までそのことを信じてやってきたし、実際、感覚から受けた色んな情報を取り除いても、それでも何か残るじゃない?だから、きっと何かあるんだよ!といった論調です。
多分、物理学(あるいは自然科学)のことをいいたいんでしょう。
全ての可能な経験の領域を超えちゃうような何らかの認識がある。
そして、その認識は私達の判断の範囲を、経験の領域から超えさせるといいます。
そこに、理性の諸探究が潜んでいるのだといっていますが、これはアプリオリな認識のことなのでしょうか。
それとも、合理論者のいうような知的直観のことを言ってるのか。よくわかりませんが、「私達の〜」っていってるから、多分、アプリオリなんでしょうね。
で、多分…これって形而上学のことをいいたいんだろうな、とか。
で、経験を棄てて新しい認識を開始しよう!ってなときに、その新しい認識をきちんと下調べしないですき放題に使うのはおかしなことだ、とカントは言っています。
なんで彼らはそういったアプリオリな認識をなおざりにしてきたのか?それは、数学と言う輝かしい実例があったからなんだよ!といっていますね。
でも数学が可能なのは、対象と認識が直観に与えられているときだけなのだそうです。
こっからのプラトン批判がおもしろい。
そういったことを知らずに、数学のような成功があるからといって何でもかんでも認識をいたずらに広げようとするのは、まるで空気が無ければもっと優雅に飛べると思っている鳥のようだというのです。
そして、プラトンはイデアの羽根を広げて認識の世界を飛び立とうとしたのだと、カントはバカにしています。
そんなアホなことをするから、あとから言いつくろいを重ねることになるんだぜ、と。
その挙句に、人は既に持っている知識を分析するだけで新しい知識を得たと勘違いしてしまう。
さらに、(おそらく間違った)新しい知識を実際に持ち込んでもこういった手続きと同じように扱い、混同はなはだしいんじゃないかとカントは訴えています。
それをまずは区別しようよ、ということです。
分析して既にある知識を整理するだけのものを分析的判断、新しい知識を持ち込む場合は総合的判断と呼ぶことにしましょう。
801 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:45:36 ID:aXKIZbR20
知性の差か……。
802 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:47:43 ID:aXKIZbR20
知力は大事だよー……。
803 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:48:46 ID:aXKIZbR20
性産業関連の板にまで、こんなスレが普通に立ってしまうんだからね……。
804 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:50:38 ID:kT+BZEuX0
京大生エロゲーマー VS 佐賀大生エロゲーマー
あなたは、どちらの文章に知性を感じますか……。
805 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:52:05 ID:kT+BZEuX0
どしどしご意見をお寄せ下さい……。
締め切りは、このスレが埋まるまで……。
806 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:
お待ちしています!
さて、寝るか……。