みゃあ みゃあ
ウミネコの甲高い声が蒼穹に吸い込まれていった。空はただ遠く、ゆっくりと形を変えていく雲だけが時間の流れを指し示している。
あ…
とがったショートの髪の少年は、釣り糸の先を水中から引き上げると恨めしそうにそれを見つめた。
あーあ…。また餌だけ持ってかれちまった…
軽く嘆息を吐くと、少年はイソメの入った箱に手を伸ばす。
(まあ…その…なんだ、双七君。餌を取られることなどよくあることだ。気にしないほうがいい)
その場にいるはずの無い人の声が、双七の思い出の中から語りかけた。
はいはい、わかってますよ、会長。
双七は、新しいイソメをつけた針をゆっくりと埠頭の下に沈めた。それはゆらりゆらりと海中を踊りながら、やがて見えなくなっていく。
その場で動いているのは、ただ彼の頬を撫でる潮風だけ。他には何も動かぬ。
刹那も一時間も、その情景の中では等価だった。
…会長は、どんな思いで釣り糸を垂れていたのだろう?
彼は、今はいない人に想いをはべらせて、折りたたみ式の簡易椅子に佇んでいた。生徒会会長、一乃谷愁厳、彼の友であり愛する人の兄。
このゆっくりと流れる時間。会長はどんな風に感じて、どんな喜びを得ようとしたんだろう…?
愁厳には時間が無かった。特殊な事情を己が内に抱えた彼は、生きるにせよ譲るにせよ常に有限の時間と向き合ってるしかなかったはずだ。
双七には、わからなかった。いや、わかったような気もするのだが、そう思ってしまうのはあまりにも会長に対して僭越に過ぎる気がしていた。
なぜなら、決して同じ立場にはなれないのだから…。
「あ…」
ピクリ、ピクリと二度竿の先が沈み込んだ。双七はアタリををスナップでクイっと合わせる。
「きた!」
その瞬間、竿がものすごい力で引っ張られた。海中の獲物が暴れ始めたのだ。
双七はその力に負けまいと必死で竿を引き上げる。右へ左へと揺さぶりながらゆっくりと力強くリールを巻き上げていく。彼はたもを握ると、海面近くまで引き上げられたそれを掬い上げた。
「…釣れた」
双七の目の前でまだも暴れ続けてるのは、小振りながらも丸々と太ったメバルだった。
(よかったな、双七君)
愁厳のその言葉は、彼の胸の中にじんわりと染み込んでいく。
「うん…うん…」
双七の眦に、暖かいものが溢れていった。
「双七さん、ここにいらしたのですね」
背後から静かな女性の声がかけられた。双七は慌てて顔を袖でぬぐうと、「あ…うん…」とだけ答えた。
彼の隣に長い黒髪の純白のセーラー服姿の少女が並ぶ。彼女はその汚れも気にすることなく、双七の横に体育座りで腰を下ろした。
「刀子さん…」
双七が呟く。刀子はにっこりと彼に向かって微笑み返す。
「すずさんが探してましたよ。折角の休みなのに朝から姿が見えないって心配してましたわ」
すず…双七の義姉…が彼の恋人である刀子に真っ先に連絡したのは疑いようも無い。
「あ…すみません」
双七は頭を下げた。刀子のほうが年上なせいか、恋人同士だというのにどうしても他人行儀な言葉遣いが抜けきらない。
刀子は水平線の先を見つめた。潮風が彼女の髪をそっと揺さぶる。
双七も同じ先を見つめていた。空と海の青が交わる果てには、こことは違う世界の入り口があるような錯覚さえ覚えてしまう。
決して刀子は「お兄様のことを考えてたのですか?」とは口には出さない。必要も無かった。
学園の先輩としての、そして友人としての愁厳を知る双七。互いに分かちがたい時間を過ごしてきた兄としての愁厳を知る刀子。
二人の知る愁厳はそれぞれ違う。しかしこの瞬間、二人は同じものを見ているような気がしていた。
「双七さん。…釣れました?」
不意に彼女は尋ねた。
「え!?ええ!ついさっき、一匹だけ」
双七は頬を緩ませながら、嬉しそうにクーラーボックスを引っ張り出した。
終わり