10月17日(日) 夜 高遠家 七瀬自室
机に向かう七瀬は何度も溜息をついていた。
「こんな気の重い誕生日は生まれて初めてじゃないかしら?」
チンピラ達にあわや暴行を受ける寸前の危機。偶然通りかかった浪馬の行動。そして
普段とは立場を逆にした浪馬のお説教。昨夜の事件以来、七瀬は一種の混乱状態にあっ
た。不安と恐怖、驚きと安堵、喜びと困惑、感謝と反発・・様々な感情が荒れ狂い、彼女は
ひどく高ぶっていた。
(な、なによ、織屋君ったら偉そうに。私は間違ってないわ。あの人たちが悪いから注意
しただけなのに、どうして私を怒るの? お、おかしいわよ! ちゃらんぽらんでいい加
減で、いつも私に注意されるくせに、あんな・・あんな・・真剣な目をするなんて・・)
(そもそも織屋君に助けて貰わなくったって・・・織屋君がいなくたって・・・・わ、私はちゃ
んとあの人達を説得して・・・・ううん、私は震えてただけだった。怖くて足が竦んでた。
もうダメだと思った。織屋君がいなかったら私は今頃・・・・・・)
(で、でも織屋君って、やることなすこと二枚目半なのよね。助けてくれるにしてももう
少しスマートにできないものかしら? 不器用というか、今ひとつ決まらない人なの
よ。その・・昨日はちょっと・・か、か、カッコイイと思わないでもなかったけれど。
で、でも私への注意の仕方はやっぱり納得できないわ! 織屋君のバカ!)
七瀬は昨夜からずっとこの調子で堂々巡りをしていた。浪馬とはあれ以来合って
いない。掛かってきた電話も居留守を使って出なかった。
(今は織屋君と話をする気分じゃないわ) その癖、彼女はこうも思った。
(ここに様子を見に来てくれてもいいのに。ほら、恋愛小説だとよくあるじゃない?
それで二人の気持ちが一気に燃え上がるのよ・・・あ・・私別に織屋君の恋人じゃない
んだっけ・・・でも、友達ならそれくらいしてもいいはずよ? ホント織屋君って気配
りができない困った人ね。もう呆れちゃうわ)
自分で避けてる癖に、相手には会いに来いという滅茶苦茶な理論で浪馬を責めながら、
七瀬はとうとう机に突っ伏してしまう。溜息がまた出た。
(明日はせっかくの誕生日なのに。自治会のみんなが何かしてくれるって言ってたわね。
母さんもご馳走用意するって張切ってる。でもこんな気分じゃ嬉しくないわね・・・あ)
突然ガバと七瀬は身を起こした。(織屋君は・・・覚えてくれてるかしら?)
(ふ、ふんだ。もしプレゼントくれても私は受け取らないわ。そうよ、私に偉そうにお説
教する人から貰ったって嬉しくないもの。その場でつき返してあげる。絶対受け取る
もんですか! 頭下げたってダメよ。織屋君なんか、織屋君なんか・・)
完全に意地っ張りモードに入っている七瀬は、やっぱり心の中で浪馬に悪態をついた。
しかし体は正直なもので、彼女の顔は真っ赤だった。
(で、でも・・もし・・・・・織屋君が何も言ってくれなかったら・・・・)
確かに浪馬が七瀬の誕生日を覚えている保証はない。その事実を思い出した七瀬は、
また机に突っ伏す。長い長い溜息をまた一つついた。
(覚えてくれてなかったら、私やっぱり悲しいと思うのかな・・・・・あ? で、でも)
七瀬は、またたま身を起こす。起きたり突っ伏したりと実に忙しい。
(お、織屋君には私の誕生日を祝って、プレゼントを贈る義務があるはずよ!)
どこをどう思考が飛躍したのか、七瀬はまた妙な理屈を思いついたらしい。
(春先から毎日のように話しかけてくるし、どれだけ断ってもしつこく誘うし、しかた
ないから一緒に行ってあげれば何時間も引っ張り回すし! 私が貴重な時間をどれだ
け割いたと思ってるの? 近頃じゃ、わ、わ、わ、私の・・を触ろうとしたこともあっ
たわね。ホントエッチなんだから。あげくに昨日はお説教までするのよ?)
最近は浪馬に誘われるのを心待ちにしているのも忘れて、七瀬は一人憤然とした。
もっとも顔はやはり真っ赤だ。それどころか耳まで赤くなっている。
(これで私の誕生日を忘れてたり、プレゼントを渡さないなんて許されるはずないわ!)
浪馬のくれる誕生プレゼントは断固拒否するが、浪馬にはプレゼントを贈る義務がある。
際限なく暴走する無茶苦茶理論に、むろん七瀬自身は気づいていない。
(と、いうことは・・・・) 七瀬の無茶苦茶理論は、更に発展するらしかった。
(お、織屋君には義務があるんだから、無理に断ったら可哀想ね。そ、そう言う理由
があるなら、私も受け取ってあげてもいいわ、うふふふ。じゃなくて・・・織屋君に義務を
果たして貰うにはそうするしかないのよ。織屋君が私にプレゼントを渡して私が受け取
る・・うん、簡単なことじゃない。それですべてうまく行くのよ!)
結局七瀬は浪馬のプレゼントを受け取るつもりになった。いや、彼女の理屈からする
と、浪馬がプレゼントを渡し自分が受け取るのは、既に確定した未来のようだ。
恋する乙女心は、酷く回り道したり、時には後戻りするものの、それでもやはり、落ち
着くところに落ち着くものである。ただ七瀬は、人並みはずれて迂回路が多かった。
要するに意地っ張りなのだ。
「ふあ・・・・」
ふいに七瀬が欠伸をした。
他人から見みれば支離滅裂な理論展開ではあったが、一つの結論にたどり着いたことで、
張り詰めていた気持ちが落ち着いたのだろう。思えば、昨夜はほとんど一睡もしていなか
った。
「ふう・・今日はもう寝ましょうか?」
「明日は織屋君に寝不足の顔なんて見せられないものね!」
七瀬はつぶやくとイスから立ち上がり、ベッドにもぐりこむ。
横になるとたちまち激しい睡魔が襲ってきた。全身にしびれるような感覚が走り、
彼女は急速に夢の世界に引き込まれてゆく。
途切れ行く意識の中、七瀬は再び浪馬のことを想った。
朦朧としているせいだろう、今度は素直な気持ちがあふれ出た。
(織屋君・・・・明日・・楽しみにしてるからね・・・・・)
(言って欲しい。他の誰よりも、織屋君におめでとうって言って欲しい・・・)
(忘れてないよね? 覚えてくれてるよね?)
(もし忘れてたら、私泣いちゃうからね・・・・)
(・・・織屋君・・・・ありがとう・・助けてくれて・・・・・)
(あの時のこと・・・明日会ったら謝りたい・・・謝りたいの・・・・)
(織屋君・・・織屋・・・クン・・・・・私の・・織・・屋・・・・)
後には七瀬の静かな寝息だけが残った。
END