「純愛系エロゲのヒロイン寝取られ」に愚痴を述べるスレ
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名無しさん@初回限定:
なぜNTRは攻撃されるのだろうか。
元々マイノリティであるエロゲヲタ達はエロゲヲタの中のマイノリティであるNTR信者に対して
異常に攻撃的である。
そしてその中でも日頃から萌え萌え言っている人間が最も攻撃的なのだ。
なぜ、他人の性癖を認め、自分と他者の違いを認め合う寛容さを持とうとしないのか。
それは萌え厨、嫌NTR厨は結局は自分にとって心地よいシナリオしか認めないからだ。
萌えゲームに登場するヒロインは人間にあらず、菩薩である。
彼女達は主人公(=プレイヤー)に無償の愛を注ぐ。打算や見返りを求めることはほとんどなく
いまいち個性的ではない、魅力的でもない主人公にぞっこんである。
プレイヤーはこの心地よい夢に酔い、現実には存在し得っこない性格をしたヒロインに溺れる。
悪く言えば、多くの萌え厨にとってヒロインはプレイヤーの幼稚で、非現実的な独占欲を満足させる
麻薬に過ぎないのだ。
萌え厨にとってヒロインは己一人に愛を捧げるべきものであり、そうでないものは認められない悪夢なのだ。
ただし、現実では悪夢の方がより多く起きているし、故にそういったシーンがあるエロゲーが登場するのは
ある意味必然ともいえるのだが、そういったリアリティを萌え厨は無視する。
自分にとって見たくないものは存在すら否定するというその姿勢は幼稚そのものであり
その幼稚さが、NTR信者に対する、己が多数派であることを傘にきた、いじめとも言える排斥行動につながるのであろう。
彼ら萌え厨は己自身がエロゲヲタという世間一般から見れば日陰者、異常者一歩手前というレッテルを貼られていることを
まったく考慮することなく、彼ら自身よりもマイノリティであり、異質であるという理由でNTR信者を非難する。
彼らは己自身を客観視することができないのだ。立場が弱い者がより弱い者を攻撃するそのありさまは
まさにいじめの構造である。
なんと滑稽なことだろうか、無償の愛を説き、寛容を訴えるキャラクターがもっとも頻繁に登場する萌えゲームを
好むもの達の中にこそ少数派を排斥し、憎悪のあまり相手の存在すら否定する狭量な人間が多いのだ。
その点NTR信者は違う。
己の愛するヒロインを憎むべき敵に捧げることに歓喜するその姿は自己犠牲精神と寛容の精神を体現した
プロメテウス、否、イエスキリスト的な存在といえるであろう。
NTR信者は己の愛するヒロインが寝取られる姿に悶え、苦しむ己自身を客観的に俯瞰することによって喜びを得る。
それはまるで苦行に耐える聖者のように美しいではないか。
NTR信者は萌え厨とは異なりエロゲーのヒロインが人格を持った一人の人間であり、人間であるが故に
主人公以外の男になびく可能性を認められるリアリストであり、聖なるマゾヒストなのだ。
萌え厨のヒロインに寄せる想いは愛ではなく、ただの独占欲にすぎないが、NTR信者のそれは紛れもない愛である。
萌え厨はヒロインが他の男と交わるだけで、否、処女でないというだけで発狂し、そのヒロインが汚された、
とか、こんなキャラはいらない、などとわめき、ヒロインのことを全否定する。主人公は他の女とヤリまくっているのに
ヒロインが同じことをすることは決して許さないのだ。
ちょっとでも傷がつけば用済みという姿勢のなんと残酷であることか。そこに愛はかけらも存在しない。
NTR信者は違う。ヒロインが汚れても愛するのだ。愛があるゆえに汚れても傷ついても気にしない。
むしろ興奮するのだ。
萌え厨は汚れを嫌う。そして汚れていない人間など、現実には存在し得ない。つまり萌え厨にとって
現実は憎むべき敵であり憎悪の対象なのだ。
NTR信者は汚れすら愛す。そして汚れていない人間など、現実には存在し得ない。つまりNTR信者にとって
現実は愛すべきものなのだ。
つまり、イエスキリストもブッダも、あらゆる古代の聖者達がNTR信者であったことは歴史的必然であり
疑う余地のない真実といえよう。
一夫多妻、多夫一妻、さらには妻貸しの風習を持ったエスキモー達は穏やかで、争いを知らない人々であったという。
これは彼らの生活する過酷な環境において、協調と寛容こそが生死をわかつ決定的要素であり、
その協調と寛容の社会を構成するための手段こそがNTRだったのである。
結論を言おう、萌えゲーは世界を滅ぼす邪悪なものだ。独占欲を刺激し、我欲のみ肥大化させる。
しかしNTRは世界を救う。世界を愛と協調で包み込んでくれる。
さぁおまいら!レッツNTR!