確率と確率の狭間。
存在と認識の揺らぎ。
捩れた時空の螺旋で──彼女は泡のように消えようとしていた。
収束しない指先が紐のようにほどけていく。
ほどけて──弾ける。
消えていく。
なくなる。
誰からも忘れられる。
元からなかったことに──なる。
(構いません。あの人にはもう……)
必要とされることはないのだから。
あの人には他に、必要とするヒトがいるのだから。
光が強く、視界は白くぼんやりとしている。自分の身体すら曖昧で、よく見えない。
いまだになくならない意識を持て余し、彼女は考え続ける。
(役目を終えたのだから、消えるのは当り前ですよ──)
嘯くような思考とは裏腹に、まだそこにあるのかさえ不確かな胸を、震えが襲った。
痛み。
痛み。
痛み──
それはどんな感覚だったろうか。
わからない。
だが。
(あの人──)
一つの影を思い浮かべるたびに走る、微弱な刺激が──痛みというものだろうか。
惜別。
愛慕。
愁嘆。
意味を伴わない言葉が通り過ぎ、一瞬だけ膨れ上がって、そして──
「ちょっと待つでちゅの」
不意に声がかかった。
急速に感覚が戻ってくる。
編み直されるように手が、足が、腹が、すべてが元通りになっていく。
なぜ──これはいったい。
「珍しいとこで珍しいものを見まちたでちゅの」
幼い声は、感心したように言った。
背後から聞こえてくる。
振り向くと、そこにはてのひらサイズの少女がいた。
「まあ、いいでちゅの。まずは自己紹介からちまちょう」
くるり、とその場──空中──で一回転してから、少女はにぱっと笑った。
「わたしはモモといいまちゅの。体はスモールでも心はビッグな美しい花の妖精でちゅ」
よく見ると、背中に羽が生えているのがわかった。
「妖精さん、ですか?」
妖精──確かにそういった雰囲気だ。
「でちゅの♪」
嬉しそうに答える。
妖精──そういえば、『ピーターパン』に出てくるあの妖精はなんといったか。
「それで妖精さんが、何か御用なのでしょうか?」
「そう、契約を持ちかけようと思ったんでちゅの」
「契約──?」
「よーく聞くんでちゅのよ、いいでちゅか──」
ダラララララララララララ
鳴り響くドラムロール音。
「………」
「………」
ドラララララララララララ
「………」
「………」
ヅラララララララララララ
──長い。
思った矢先、音が止み──
「あなたの願い事をなんでもひとちゅだけ叶えまちゅの!」
パッパパーン
ファンファーレが鳴った。
「願い事を──?」
「限度はありまちゅが、基本的になんでもOKでちゅの。まずは要相談でちゅの」
「願い──」
「もちろん、『契約』なんでちゅから、お代はただなんて虫の良い話はないでちゅの。
ちゃんと代償があるから、よく考えたうえでしてほしいでちゅの」
願い──そんなのは一つだけに決まっている。
ためらう余地はどこにもなかった。
「雪を──もう一度、あの世界に帰してください」
(あの人が──透矢さんが雪を必要としなくても。
雪は、透矢さんを必要として──)
「了解でちゅの。それでは魔法をかけまちゅの」
モモは両手を掲げ、「えーい!」と叫んだ。
「はあ、はあ──終了でちゅの」
「随分あっさりしていますね。でも、お疲れさまです」
「ねぎらいどうもでちゅの。あ、早速返還が始まりまちたね」
何かが壊れていくような轟音に、思わず少女から視線を外した。
世界が──自分を包むマヨイガが、端から崩れていっている。
ビル爆破工事のように滑らかな崩壊が、高速で進行する。
壊れた場所から、深い闇が覗き込む。
雪は呆然とそれを眺めた。
「雪は、本当に──本当に帰れるのですか」
「イエスでちゅの」
透矢さんのもとに──
夢見ることすら叶わなかった願いが、叶おうとしている。
「では行ってらっちゃいでちゅの!」
トン
少女が背中を押し、雪は前に進み出て──闇の中へと落ちていった。
不思議と温もりに満ちた、その闇の中へ。
チュンチュン、チュンチュン。
雀の声。
カーテンの隙間から漏れるあたたかい陽射し。
掛け布団のかすかな重み──
ゆっくりと、瞼を開けた。
見慣れた天井。
上体を起こす。
視線を巡らせば、そこはやはり見慣れた部屋。
瀬能家の、自分の部屋だ。
うさぎがにこやかに微笑んでいる。
「──帰ってきたのですね」
そっと、両手を胸に当てた。パジャマの生地の向こうから、血の通う温もりが届いてくる。
「雪はもう一度この家に──透矢さんに、お仕えすることができるのですね」
懐かしさと嬉しさが同時に込み上げ、涙ぐみそうになる。
だめだ──
涙を堪え、頭を強く振った。
しっかりと前を向き、自らに言い聞かせた。
「メイドたるもの、常にしゃんとしていなければなりません」
ベッドから抜け出ると、早速着替えて、部屋を出た。
時計を見る──いつもなら、いや、自分がいた頃にはまだ透矢が眠っている時刻だ。
「起こしてさしあげなくては──」
雪は透矢の部屋に急いだ。
ヘッドドレスを付け忘れ、ナイトキャップをしたままだったのを思い出して部屋に戻り、
ついでに朝食の用意をしている間に、透矢は自分で起き出してきてしまった。
「おはよう、雪さん」
いつも通りの、何げない挨拶が、雪にはひどく新鮮で──乱れそうになる心を押さえるのが難しかった。
はい、おはようございます──透矢さん。
「いいえ、おはようございません」
口をついて出た言葉は、まったく正反対のものだった。
「えっ?」
驚いて透矢の動きが止まる。
なんで、あんな言葉が──慌てて雪は訂正しようとした。
違います、『おはようございます』と申そうと──
「違いません、『おはようございません』と申したのです」
「あ、ああ、ごめん──そうだね、いつも雪さんよりずっと遅くに起きてきちゃって。
確かにお早くはないよね」
ぎこちなく笑い、その場を取り繕おうとする透矢。
雪はひどくショックを受けて、言葉を失った。
なんとなく重い沈黙を引きずったまま、雪と透矢は食卓についた。
「雪さんのご飯はいつ食べても美味しいね」
久しぶりに──主観的にはだいぶの間を置いて透矢に食事を振舞った雪はその言葉を
嬉しく思ったが、さっきのことがあって、返事もできなかった。
(雪は、透矢さんに向かってなんという口を利いてしまったのでしょう)
穴があったら、落ちてそのまま埋まりたい気分だった。
「ん? 雪さんは食べないの?」
さっきから朝食に少しも口をつけていない雪に向かって、透矢が尋ねた。
心配そうな響きのこもった声に、何げない雰囲気を装って箸を取り、雪は答えた。
「はい、雪は透矢さんのメイドではありますが、もっと心配してもらいたいです。
と言いますより、普段からもっと労わってもらいたいものですよ」
耳を疑うような、自分の言葉。箸が止まった。
「え──ああ、うん」
戸惑った色を顔に浮かべながら、透矢は素直に頷いた。
違います、雪は透矢さんのメイドなのですから、労わりなんて不要──
「透矢さんは雪を『人間ではない』なんて勘違いしているのではないですか?
雪は『透矢さん専用のメイド』である以前に人間なのですよ。人権だって認められているんです。
透矢さんの所有物とは違うのですから、あまり都合の良いモノとして見ないでくださいな」
「そんな、僕は雪さんをそういう風には思って──」
「思ってはいないなどと、断言できるのですか? 本当に? そういう見方を一度もしたことがないと、
天地神明に誓って言い放つことができるのですか?」
「………」
透矢は黙り込んだ。
雪は死にたくなった。
これほどの暴言は、口にするどころか心に浮かべたことさえない。
なのに、さっきから口をついて出る言葉はいったいなんなのだろう。
「さ、早くお食べくださいませ。つくったものを残されるのは不快ですが、
いつまでもゆっくり食べていたのでは遅刻してしまいますよ。透矢さんが先生方に叱られるのは
一向に構いませんが、そんなことが成績や評価に響いてしまっては瀬能家の恥となりますからね」
「雪さん……今日はまた、なんで」
「透矢さん、今日という今日は言わせてもらいますが」
ピンポーン
チャイムの音が、ふたりの会話を遮った。
ガタッ
雪は立ち上がると、逃げるように玄関に向かった。
なぜ、あんな言葉が止まらないのか──皆目見当がつかない。
ただダムが決壊したように、思ってもいない言葉が口をつく。
玄関には、花梨がいた。
つっ、と雪の胸に疼痛が走る。
花梨は宮代神社の娘で、透矢の幼馴染みでもあり──雪がこの世界を去る前に、
透矢と付き合うことが決まった少女だった。
雪は何を言えばよいのか分からず、一瞬息を詰めたが、意を決して口を開いた。
「花梨さん──今日はまた一段と綺麗ですね」
「はっ!?」
花梨は驚きのあまり目を見開き、絶句した。
絶句したいのはこっちの方だ、と雪は思ったが、口の動きは止まらなかった。
「癖っ毛がキュートで──この跳ね返り具合が、雪のハートを鷲掴みしてしまいますよ」
手が勝手に動き、花梨の髪を──ちょうど犬の耳のようになったところをサラリと撫でた。
花梨は顔を赤くした。
「ゆ、雪みたいな子に言われると嫌味としか思えないわ。というか、これっていやがらせ?」
必死に動揺を隠し、なるべく平静を保ったつもりの花梨に──雪の制御が利かない言動はなおも続いた。
「雪みたいな、とは──どんなことを指しているのですか?」
「ど、どんなって──だから、ほらその」
「ですから、どんな?」
「──ああ、もう、だから美人ってことよ!」
ふわっ
真っ赤になって叫んだ花梨を、雪が柔らかく抱き締めた。
「嬉しい──」
「え──ええっ!?」
「花梨さんは雪をそのように思っていてくれたのですね」
「う、うん、まあそうだけど、でも」
「何も言わないでくださいな」
更に抱き締める強さが増した。
花梨の体温が、ダイレクトに全身へ伝わる。
「でも──それだけなのですか?」
「え?」
「花梨さんは雪を『美人』だと思うだけなのですか?」
瞳が悲しげな色を浮かべる。
無論、雪本人が意識してのことではない。
「え、え?」
雪の動作ひとつひとつに戸惑う一方の花梨。
「そう──花梨さんは、見た目だけで雪に近寄ったのですね」
(近寄ったも何も、雪と花梨さんの接点は透矢さんでは──)
本心の訴えは、表面に出ることがない。
「ゆ、雪、今日はいったいどうしちゃったの?」
「目当てはこの顔ですか? それとも──からだ?」
「なあっ!?」
「そう、からだなんですね。花梨さんは雪のからだが欲しくて欲しくてたまらないのですね」
「いや、まあ、ある意味では欲しいというか何というか、その」
「いやらしい」
「はあ──?」
「そんな目で、雪を見ていたなんて──」
「あのー、雪、さっきから何を勘違いして」
花梨の言葉を無視し、なおも一方的に雪は言い募る。
「花梨さんはそんないやらしい方だったんですね」
「だから雪、あたしの話を──」
「透矢さんが雪を縄で縛って、鞭で叩いて、三角木馬で責めて、外から丸見えの居間で放置プレイを
したまま登校しているだなんて、そんな淫らな妄想に耽って雪を慰み物にしていたのですね」
「いや、さすがにそんな具体的な想像はしてないし、慰み物にもしてないけど。
──ふたりが怪しいな、とは、その」
抱き締められたまま、もごもごと抗弁する。
「よろしいんですよ──すべて事実ですから」
本当のことなど、何ひとつもなかった。
「ええっ!? と、透矢の奴、本気でそんなことを──!」
瀬能家に三角木馬などあるはずがない、という理性的な思考は、
花梨の頭の中において行われることはなかった。
「で──花梨さんもですか?」
「へ?」
「花梨さんも、透矢さんみたいに──雪のからだ、それだけが目的なんですか?」
「いや、そんな──だってあたし、雪と同じ女だし──」
「性別は関係ありません。ただ、雪がどういった人間かも関係なしに外見的な事柄だけで
良し悪しを決めているのかを訊いているのです」
「うん、まあ、雪は性格の方もいいと思うよ──優しいし、こまめだし、控え目なところも
あるし──ちょっと透矢の世話を焼きすぎるとこが、アレだけど」
「では、花梨さんの世話を焼くべきだとでも?」
「そういう意味じゃ──」
「どういう意味です? 世話を焼かれるよりも──可愛がって欲しいと?」
だんだん脈絡がなくなっていく自分の言葉を、雪はぼんやりと聞いていた。
「花梨さんは、尽くされるよりも尽くす方が好きですか?」
「雪、いい加減に──!」
ぎゅっ
言葉を封じるように、強く、更に強く花梨を抱き締める雪。
「痛っ」
「ご無理をなさらないでください──」
じっ
密着した状態で、雪は花梨の目を凝視する。
ぶつかり合う視線と視線──
花梨は雪の瞳に、真剣の色を見て取った。
とくん、とくん。
(あ、れ──?)
知らずのうちに鼓動が早まっていた。
頬が上気し、強く抱き締められた苦しさもあって、たまらず息が漏れる。
「はぁ……」
それは、花梨自身がびっくりするぐらいに、切なげだった。
「やだ──あたし、なんかドキドキして──」
「怯えてなくてもいいのですよ、花梨さん。素直になってください」
「素直に──?」
「そう、素直に──自分に対して」
「自分に対して……」
キュンキュンと胸が高鳴る。
「あたし、あたし──雪!」
がばっ
ただ抱き締められるがままだった花梨が、抱き返しにかかった。
ふたりは一層密着し、ますます息苦しくなる。
けれど──花梨にはその息苦しさが心地良かった。
雪の方はというと、ちょっと辛かった。
花梨は弓道を嗜んでいるせいか、なかなか力が強い。
「雪……!」
「はい、花梨さん」
「ダメ、ダメよ。あたしには透矢がいるのに──」
「怖がらなくても大丈夫です。落ち着いて──時間をかけて、
気持ちを整理していけばいいんです」
「雪……」
「花梨さん……」
見つめ合うふたり。
やがてその唇が近づき──
ガタッ
物音に、思わずふたりの動きが止まった。
抱き締め合う腕を離し、同時に音のした場所へと顔を向ける。
そこには、やや青ざめた表情の透矢が、身体を震わせていた。足元には、鞄が転がっている。
「なんだか、やけに遅いと思ったけど──ふたりに、そんな趣味があったなんて」
「透矢──!」
花梨の叫びは悲鳴に似ていた。
「こ、これは、そのっ──!」
「透矢さん」
雪は花梨を庇うように、前へ出た。
「雪さん──いったい何の冗談なの?」
無理に笑ってみせようとするが、その顔は強張っていた。
「別に、何の冗談でもございません。すべて見ての通りのことです」
とりあえず、花梨の方に関してはそう言えるかもしれなかった。
雪はいい加減、何もかもやめたくなっていた。
「雪、さん」
「透矢さん──花梨さんはあなたには渡しませんよ」
雪の赤い瞳から鋭い光が放たれ、透矢の足を竦ませた。
「そんな──」
「──と。その前に、おふたりはそろそろ登校しなければなりませんね」
ついっ、と時計の方に目をやった雪は、それまでの険しい雰囲気を消して平然と言った。
「へ──」
「は──」
気の抜けた透矢と花梨の声。
雪はにっこり笑った。
「では、いってらっしゃいませ」
ふたりが出て行った瀬能家。ひとりぼっちになった雪は、呆然と立ち尽くしていた。
と──背後に気配が現れた。
気配は雪の頭を飛び越え、目の前で滞空した。
「おめでとうございまちゅ! 契約通り、無事戻れまちたね」
ピンク髪のツインテール。郵便配達夫のようなに鞄の紐を肩に掛けた妖精。
ティンカーベル──いや、違う。
マヨイガで逢った──確か、モモとかいったか。
雪は言葉をなくしたように押し黙っていた。
それを無視するかのように、モモは続けた。
「で、説明し忘れまちたが、願い事を叶える代償についてでちゅの」
「代償──」
聞いたような気もする単語。そして、確かに説明は受けていない。
「なんなんですか?」
不意に、さっきまでの自分の言動が甦る。
本心とはかけ離れた言葉。
まったく意志を伴わない行動。
──もしかして!
「嘘しかつけなくなる、でちゅの」
「そんな──!」
「辛い条件でちゅが、あなたみたいに『存在しないもの』を世界に結び付ける仕事には
そういった制約を課す決まりがあるんでちゅの。モモだって好きでこんなことを強いて
いるわけではありまちぇん」
肩を竦め、パタパタと羽を動かす。
「特例で、モモに対しては嘘をつかなくてもいいんでちゅが」
「嘘しか──いえ、待ってください」
打ちひしがれそうになった雪だったが、一つ疑問に思って尋ねた。
「確かに、思ったこととは逆のことを口にしてしまうことはありましたが──
しかし、意志とは関係なしに身体が動くことまで『嘘』の範疇に入るのですか?」
「ええとでちゅね、あれは……」
不意に妖精は言葉を濁した。
「──ミス、でちゅの」
「ミス?」
「はいでちゅの」
「──どういうことですか?」
黙り込んだモモだったが、いつまでも見つめ続ける雪のプレッシャーに負け、
遂には口を開いた。
「実はでちゅね、あなたの前にひとつ契約を交わした人間がいるんでちゅの。
そっちの方はいろいろと難航したんでちゅが、最終的にはうまくいって──でも、その」
ポリポリ、と小さな手の小さな小さな指で頬を掻く。
「──長いことかかずらってたせいで、ちょっと余韻みたいなものが残っていたんでちゅ。
それが、今回の契約にちょこっ、と混ざってちまいまちて」
「………」
「つまりでちゅね──前の契約が、『女の子にモテモテになりたい!』だったんでちゅ」
「要するに──」
ひとつ深呼吸をした。
気を確かに保つ。
「──雪は、嘘しか言えなくなったうえ、女の子に対してモテモテになってしまった、と?」
「掻い摘むとそうでちゅの。ついでに、うっかりしていると自分から口説きに行っちゃうんでちゅの」
「………」
絶望は、たっぷり六十秒後に襲ってきた。