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とっさに目の前の現実に戻された。
……彼女はいなかった。
周囲の通行人たちの視線が一点に向いていた。
その先に、駆け出していく彼女の後ろ姿を見つけた。
彼女は、駅の屋上のコンコースへと続く階段を登っていく。
あそこは俺たちが初めて出会った場所だ。
彼女はそこから飛び降りようとしている。そう直感した。
さっきまでの俺が、そうするように彼女に言ったのだろう。
俺が追おうとした時、またささやきが聞こえ始めた。
(追うなよ。めったにないショーだろう
あの高さならたぶん死にはしない。ガキが流れるのは確実だがな)
足が動かない。
全身が悪意に支配されているのか。
(ガキが流れれば、あの女はまたお前の奴隷に戻るはずだ。
今度は完全に堕ちる。
一生、お前に自信を与え続ける玩具でありつづけるだろう)
いやだ!
これ以上、彼女を泣かせたくない。
声を振りきって、俺は駆け出した。
間に合わない。
彼女は何かに憑かれているように、コンコースの端から、
遥か真下のコンクリートの歩道へ、ふらふらと半身を乗り出している。
泣いているのだろう。
彼女から、きらきらと輝くものが歩道に落ちて行くのがわかった。
いや、まだ間に合うかもしれない。
俺はコンコースへの階段の脇をすり抜け、真下の歩道へ向かう。
今までの人生で最も速く走っていた。
脳内の悪意はまだ何かささやいている。
俺を引きとめようとしている。
彼女の体が落下した。
まっさかさまに落ちて行く彼女。
この時、世界はスローモーションで見えた。
走るのが苦しい。
ほんの数秒のことなのに、永遠のように苦しくなった。
声はなおも俺を引きとめる。
負けたくない。
このまま声に負けたら、彼女の笑顔は二度と見られない。そう思った。