裏雑談スレ@葱板#5〜革命と闘争と〜

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終わることなく続くかと錯覚しそうになる狂宴の日々。
俺は炬燵から突然の呼び出しを受けた。

ふたりが初めて出会った駅前。

いつものように遅れてやってきた俺に背を向けて、彼女は言った。

「……………赤ちゃんが、できました」

衝撃。
いつかこうなるとわかっていた。
わかっていたはずなのに、それが現実になったと知ったとたん、衝撃を受けた。
結局、俺は何もわかってはいなかったのか。

何も言えずにいる俺を振りかえって、彼女は続ける。

「…どうしたら、いいですか?」

まだ俺は何も言い出せない。

「あなたの赤ちゃんです。あたしは…、産みたいです。……いいえ、産みます」

彼女らしくもない、はっきりした言葉。
この時の俺はきっと、喜んでいたんだと思う。
69 :01/12/30 23:42 ID:qySIJDly
しばらく無言のままの俺に、再び彼女が語りだす。

「…きっと、あなたは堕ろせと言うんでしょうけど、あたしはひとりで産みます」

『堕ろせ』という言葉を聞いた時に、俺の中のあの悪魔が目を覚ました。

「そうだよ。…堕ろせよ」

悪魔が俺の口を動かした。
ちがう! ちがう! 俺が本当に言いたいのはこんな言葉じゃない!
嗜虐の魔はなおも俺の口を操るのをやめない。

「どうせ、あの時の男たちのガキだろ。俺の子だとわかるもんか」

そんなはずはない。
その後、彼女に生理が来ていたことを知っている。
あれから彼女を抱いたのは俺だけだ。正真正銘、俺の子供だ。
なのにもうひとりの俺は彼女を傷つけるのをやめようとしない。

もう見慣れた大粒の涙を流しながら、ひとりでも産むと繰り返す彼女。
俺はなんて答えているのだろうか。
考えられないほどの罵倒、屈辱の言葉を彼女に投げ続けている。
70 :01/12/30 23:42 ID:qySIJDly
通りがかる人々が、俺と彼女の会話を聞きながら好奇の視線を投げかける。
それすらも彼女には屈辱だろう。

やめろ! やめてくれ! 俺が言いたいのはそんな言葉じゃない!

(………じゃあ、お前はなんて言いたいんだ?)

俺の脳裏にはっきりと言葉が聞こえた。

(他に何か言えるのか? お前に父親になる自信が持てるのか?)

俺の心の魔だ。いや、俺自身の悪意だ。

(この女に堕胎させれば、これまでにないほどの苦しみを与えられるだろう。
 お前が本当に望んでいるのはそれだろう?)

黙れ! 黙れ! 黙ってくれ!
彼女を罵倒する口も、俺にささやく悪意も。

(自分に自信が持てないお前は、この女を虐げることで、自信を感じていた。
 これからもそうしたいだろう? また昔のお前に戻るのは嫌だろう?)

(だから、俺がお前の背中を押してやる。
 あのよどんだ日常に戻りたくなければ、俺を受け入れろ。
 俺はお前が望んだお前自身だ。さあ、この女をいたぶり尽くせ!)
71 :01/12/30 23:43 ID:qySIJDly
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とっさに目の前の現実に戻された。
……彼女はいなかった。

周囲の通行人たちの視線が一点に向いていた。
その先に、駆け出していく彼女の後ろ姿を見つけた。

彼女は、駅の屋上のコンコースへと続く階段を登っていく。
あそこは俺たちが初めて出会った場所だ。

彼女はそこから飛び降りようとしている。そう直感した。
さっきまでの俺が、そうするように彼女に言ったのだろう。

俺が追おうとした時、またささやきが聞こえ始めた。

(追うなよ。めったにないショーだろう
 あの高さならたぶん死にはしない。ガキが流れるのは確実だがな)

足が動かない。
全身が悪意に支配されているのか。

(ガキが流れれば、あの女はまたお前の奴隷に戻るはずだ。
 今度は完全に堕ちる。
 一生、お前に自信を与え続ける玩具でありつづけるだろう)

いやだ!
これ以上、彼女を泣かせたくない。
声を振りきって、俺は駆け出した。

間に合わない。
彼女は何かに憑かれているように、コンコースの端から、
遥か真下のコンクリートの歩道へ、ふらふらと半身を乗り出している。
泣いているのだろう。
彼女から、きらきらと輝くものが歩道に落ちて行くのがわかった。


いや、まだ間に合うかもしれない。
俺はコンコースへの階段の脇をすり抜け、真下の歩道へ向かう。
今までの人生で最も速く走っていた。

脳内の悪意はまだ何かささやいている。
俺を引きとめようとしている。

彼女の体が落下した。
まっさかさまに落ちて行く彼女。

この時、世界はスローモーションで見えた。
走るのが苦しい。
ほんの数秒のことなのに、永遠のように苦しくなった。
声はなおも俺を引きとめる。

負けたくない。
このまま声に負けたら、彼女の笑顔は二度と見られない。そう思った。
72 :01/12/30 23:44 ID:qySIJDly
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スローモーションの最後に彼女の体を抱きとめたような気がした。
上下から俺の体に、衝撃を感じる。

スローモーションの後は、数瞬のブラックアウト。
世界は暗転した。

再び世界が広がったとき、通行人たちの歓声が聞こえた。

そして、俺は意識を失った。

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73 :01/12/30 23:45 ID:qySIJDly
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目を覚ましたとき、彼女が俺を見下ろしている顔があった。

    「ゴメンなさい…あたしのせいで」

そう言ったきり、彼女はただ優しく微笑んでいる。

隣から声がした。

「母子ともに無事です。あなたのおかげですよ」

白衣の男、医者だろうか。
周囲には看護婦もいる。ここは病室だった。

「でも、落下の衝撃を代わりに受けとめたあなたは、しばらく動けませんよ。
 上と下から押しつぶされたようなものですからね。
 傷ついたヒーローですね」

全てを思い出した。
彼女に言ったひどい事の数々。
そして、これまでしてきた考えられないほどの悪意。

謝りたかった。
言い出そうとする俺を押しとどめて、彼女から口を開いた。

「……ありがとう」

もう彼女は泣いていなかった。

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74 :01/12/30 23:45 ID:qySIJDly
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俺はあの心の魔に打ち勝った。

これから、彼女が泣くことはないだろう。
彼女が悲しいとき、辛いときは、俺が支えになって慰めることができる。

うまくやれるかどうか自信はないが、必ずやろうとする自信は持てる。

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75 :01/12/30 23:46 ID:qySIJDly
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ずいぶん後に、ふと気付いたことがある。
彼女もまた心の中に悪魔を飼っていた。

自分に自信が持てなかった俺がつくりだした悪魔と同じように、
『炬燵で名無し』という固定ハンドルも、泣き虫の彼女が生み出した、
負の象徴だったのだろう。

嗜虐の悪魔をじっと心の底で育て続けた俺に対して、
彼女は『炬燵で名無し』という人格として少しずつ吐き出すことで、
精神の均衡を保っていたのかもしれない。

俺の中の魔が消え去ったように、『炬燵で名無し』はもういない。

きっと、『炬燵で名無し』が現れることは二度とないだろう。
俺が彼女を支え続ける限り。

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                      了

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