「もう…時間がないの」
思いつめたような茜の声。
夕闇迫る丘の上に二人。
孝之は強い戸惑いを覚えた。いつもの茜ではない。仲間たちと一緒のときも、
そして、いつか孝之と二人きりだったときでも決して見せることのなかった表情で佇む茜。
そんな茜の姿に、孝之はいつものように接することもできず、茜が胸に縋りついてきても、
ただ黙って茜の次の言葉を待つことしかできなかった。
「…判っているんです。お兄ちゃんがわたしよりもお姉ちゃんのほうを好きでいることも…
それに、もう、お姉ちゃんと肌を合わせてしまっていることも…!」
孝之は返す言葉を失った。そう、茜の放った言葉は、少なくともその前半は、
誰の視点から見ても間違いのない事実なのだ。そして、後半の言葉もまた、孝之の中では
動かしようのない事実である…。
孝之は、その言葉を聞きつづけているのが辛かった。できることならばそれを止めて
しまいたい。しかし、何かにつき動かされているような茜の懸命な様子を見ていると、
なにもできなくなる自分がいる。
茜の告白は続く。
「でも…でも!…あのとき…お兄ちゃんの胸の下にいたとき…わたし、すごくうれしかった。
お兄ちゃんの腕から大きな温もりが伝わってきたの。そのとき、わたし、強く感じたんです。
やっぱりわたしには、お兄ちゃんが必要なんだ、って」
縋りついている茜の両手にさらに力がこもる。それがさらに孝之の心を締めつけた。
「お願いです。わたしがわがままなだけってことは承知です。だけど、もう少し…」
孝之には少しずつ何かが見えてきていた。茜は大きな何かを隠している。そして、
その大きな何かのために自分の力を必要としている。どこから見てもしょうもない男だが、
それでも今の茜には頼りになるらしい。身を切るような茜の告白にはそれだけの説得力があった。
気がつくと、孝之は茜の細い肩を両手で抱き寄せ、抑えた、しかし強い声で
「解った」と呟いていた。
今の自分で力になるならば、少しでも手助けをしてやりたい。そう孝之は思っていた。
「ありがとう。おにい…ちゃん…」
今にも泣き出ししそうな茜の唇を己の唇でそっとふさぐ孝之。東の空はすでに夜の色に
染まりつつあった。
茜が、孝之ただ一人を丘の上に呼び出した、その真意を孝之が完全に掴むには、
さらに数日を要することになる。