レス
あ り が と う な
徐教志(じょきょうし)
陳の臣。元は菌染の家臣だったが能無しの彼に愛想を尽かし
魏焔と共に彼を斬り陳に下った。その後能吏として名を馳せた。
諸除易(しょじょえき)
字は伯濁(はくだく)。陳国の策士。諸除幕の弟。
若い頃は戦争が苦手だったが、その智謀に物を言わせ、詐術姦計・策略陰謀、
なんでもござれの策士として歴史の裏で縦横無尽に活躍した。
しかし、かなりのサディストであったらしく、
非道との呼び声高い満国攻略戦においてて尿道炎の幕下に付き、
やる計、成す計「生ぬるい!」とケチを付けたという。
兄・諸除幕が兵糧攻めにかけられてるのを見て、
「兄も随分バカなお人だ。米が無いなら民を食えばいいじゃない。」との暴言を吐いた。
さらに、満国の皇帝満益が降伏を申し出て来た際も、
「万黄の首を差し出させ服従させたら、搾り取れるだけ搾り取って、
搾りカスになったら攻め殺してしまいましょうぞ」と平気で進言。
その面ようなを陳歩に嫌われ、陳歩の存命中は重く用いられることはなかった。
しかし、陳歩の死後、宰相となり、陳の皇帝に阿り、旨い汁をすっていた宦官を大虐殺。
陳国の内政を復活させ、以後30年にわたって幾多の戦争を乗り越え陳を支えた。
死の真際には、軍の指揮者としても相当の手腕を持っていたといわれる。
諸除易は齢67で没するが、いざ死ぬその時まで、
一日10回ヤっていたというから相当の絶倫者(もさ)ではあったらしい。
なお、厨もアンチもかなり多い。
諸除波華(しょじょはか)
諸除易の子。父に似ず温厚で優しい性格であった。
官吏として順調に出世し、弱冠29歳にして都欄樟(とらんくす)太守を拝命。
そこでもきめ細かい誠実な統治で民の評判は高かった。
都欄樟が下夷族の攻撃を受けた際、避難中の民をかばい矢に当たって死亡。
お人よしと父に馬鹿にされた彼らしい最期であった。
助平(じょへい)
はじめ満益に仕えたが勘気を被り逃亡、次いで陳に属する。
陳歩失脚後の斉濃篭城戦では、助平の離婚の計により
連合軍の進攻を鈍らすことに成功。陳歩の復帰にも尽力した。
李靖派に付き、翻能派から睦吊(むっつり)助平と侮られる。
陳王朝成立後に権力を握った風呂氏に対し、反風呂勢力をまとめ上げ、
風呂氏を一掃することに成功した。
寸止(すんどめ)
陳国の有名な軍学者。
戦術論戦では陳歩に勝っていたという。
御主は寸止を高く評価していたが、務世は、
「寸止が強いのは机上だけでございます、実戦では役に立ちますまい。」と言っていた。
御主の命により、万黄と対戦し、寸止は「逝きそうで、逝かない」という戦法で万黄を迎え撃った。
しかしそのような小細工は万黄に通用せず、万黄の絞まるような攻撃であっけなく逝ってしまった。
寸止は逝く瞬間、恍惚の表情であったといわれる。
うふ〜ん
宇宙犬ウンチ
うんこ食ってる時にカレーの話すんな!
スカトロトロトロ
おいお前ら俺の下痢便アナルから直飲みしろ
性漢(せいかん)
五度牡牝行の七本棒のひとり。
敵陣地の後方からいきなり襲い掛かる、後門攻めを得意とする。
どのような堅い陣でも一瞬で達したという。
精氏(せいし)
陳の正上尉・謝盛の娘。陳歩の第一夫人。
透ける様な白い肌の美人。陳歩との間に陳邦敬を儲ける。
多くの妾をもった陳歩だったが、精氏との仲は円満であった。
佳人薄命、早世する。まるで陳歩によって生を得たような一生であった。
正僻(せいへき)
陳国末期の将軍。正翼の子。「異常」のあだ名をもつ。
翻能派。周靼令布の戦いに参戦。
正翼(せいよく)
正翼は部下には怒鳴り散らし傲慢で、上には媚びへつらうと『精子』にあるが、
『艶義』でのイメージが圧倒的に支持されていて、庶民に人気がある。
劇などでも、正翼を持てあました陳歩が老婆達に依頼をして、
学を付けさせるために正翼を取り囲んで無理矢理写生させるという有名なシーンがあるが、
その場面になると観客は手を叩いて笑う。
正翼は泣き崩れて萎んでしまうのだが、それが何とも言えずユーモラスなのだ。
また正翼は気分家で、ノりだしたら止まらない性格だった。
其の為、功を焦って「例歩の計(れいぷのけい)」を仕掛けるが、
それを逆手に取られ、逆に相手軍の策にハメられて、敗走した。
(これを、『例歩の計、号館剤(ごうかんざい)の計に責められる』と言う。
今でも一時のノリに任せて痛い目に合う人の事を、年配の人は諫める意味で使うという。)
その後、病で病床に伏した正翼を陳歩が心配して
『正翼が病で衰退している』と側近に洩らしたらしい。
今でもうつ病等で性欲が衰退する人の事を心配する意味で使ったりするとかしないとか。
背貢須(せくす)
背貢家22代当主。
背貢家は代々陳家に仕え武術兵法の師として教授していた。
背貢須も陳歩に四十八手の秘技や夜戦の極意などを授けたという。
そういった信頼関係から背貢家は陳家に重用されていた。
背貢須も陳歩に忠節を尽くし数々の戦いで活躍したが、
嶺頭との戦いで下半身を負傷し、やがて立てなくなり失意に暮れて入水自殺した。
関巻(せっかん)
字は無玉(むぎょく)。宦官で、陳歩の側近。
戦争の知識に優れ、万黄軍の策略を破る。
幼少の時に自宮して金玉が無い。字はここから由来する。
『陳古記』の別本『陳古左氏伝』には関巻にいての記述が散見されるが、
節姦(せっかん)という字が当てられており、学説上の対立がある。
陳歩伝の中に、時々陳歩が関巻を恐れているような描写がある。
陳歩が彼に恐れをなしたのは、彼の腕が立つからではない。
なぜなら、万黄軍との戦いにて関巻が敵に手痛い攻めと挑発を受けたときに、
「私には、突きまくって攻めかえすべき精力がない」と号泣したエピソードがあるからだ。
陳歩が関巻を恐れたのは、その名の響きが嗜虐的な薫りを醸し出していると
陳歩自身が無意識に感じていたからだとされている。
そして陳歩が、「お前、実は腕が立つのではないか」と問い詰めるたび、
関巻は「いえ、私は立てて誇るようなモノも力も持ち併せておりませぬ」ときっぱり言い放ったということだ。
※『陳古記』の方がもちろん歴史は古いが、
厨国の醍員清(だいいんしん)大学教養学部国学科の月慶(げっけい)教授曰く、
「古記(コキ)すぎてイキ過ぎた記述がある」との批評がある。
おそらく当時の社会情勢にあわない記述を書くために、そのような事になったのだと考えられる。
絶麟(ぜつりん)
陳国随一の猛将。
最初に戦場に突っ込んでいき、戦いが終わるまで戦場で戦う精力の持ち主だったという。
元は五度牡牝行(ごどおめこう)という宗教国家の教主だったが、
配下の七本棒のひとり阿鼻叫漢(あびきょうかん)の戦死をきっかけに陳国に帰順する。
全律閃(ぜんりつせん)
陳の武将。
没記(ぼつき)村での旗揚げ以来陳歩に仕え参謀役を勤めた人物とされるが
決して表に出ることはなかったため実在さえも疑われている人物である。
その経歴の多くは謎だが彼が病床に伏した後、陳歩は満攻めの戦いなどでしばしば精彩を欠き、
いざという時萎えに苦しんだため『艶義』では陳歩を陰で支えた名軍師として描かれている。
曹布(そうぷ)
陳家に仕え、陳家の兵士の具足鎧を洗ったりする仕事についていた。
また追加料金を払ったものには、「溜まりし液ださせり」ということをしたという。
このことから「風呂+風俗」の店のことを「ソープランド」と呼ぶようになった。
曹布は、数々の洗浄用具を発明しており、
最近出土した凹型の器具「素家兵椅子(すけべいす)」は、
具足の下半身部分を隅々まできれいにできるそうだ。
「兵士が家で素に戻るがごとく清浄なるべし」と、陳国志・陳歩伝に付記されている。
宋狼(そうろう)
陳国の武将。
阜依羅智王の乱の際、主戦論を唱え、陳邦敬と対立。
陳邦敬の宮廷内での勢力を奪った張本人。
智江李望維(ちぇりぼうい)
チンコ蹴るぞ
S
E
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このスレも大分伸びたね