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高願(こうがん)
字は印能(いんのう)。
陳歩の幼馴染で、陳の兵糧軍備の調達・輸送を担い、滞りの無かった能吏。
幼い頃から顔に皺が多く、あまり人前に出ようとしなかったが陳歩は彼を深く信頼していたという。
陳歩は息子たちに「何事も高願に相談せよ」と言い、「誠至(せいし)の人」と慕われた。
また高願は暑さが苦手だったという話も残っている。
陳歩は能吏・高願を評して『球中歩中 倶為一体』
(球中と歩中は倶に一体たり・きゅうちゅうとふちゅうはともにいったいたり)
という言葉を残し、息子らに補給の重要性を説いたという。
黄岩(こうがん)
字は清倉(せいそう)。陳国金玉の人。弩(ど)の名人。
火薬を塗った石で、満国軍を壊滅させたこともあった。
その才を陳歩に認められ前線で活躍した。しかし彼の晩年は悲惨だった。
値丘(ちきゅう)高原の戦いで満国・雲国の連合軍に追いつめられ逃亡。
しかし秩洞窟(ちつどうくつ)の中で発見され、タイーホ。
人質となって幽閉されたが、数日後に満国城の牢屋で自刎(じふん)。
享年29歳。あまりに若すぎる死であった。
死後、陳歩は彼の事をこう述べている。
「ああ黄岩、彼は天下の奇才なり。天よ、我は一人の奇才を失えり」
とかく彼が天才であった事はまぎれもない事実である。
睾虫(こうちゅう)
黄虫とも。字は漢性(かんしょう)。陳の将。
元は汗玄に仕えていたが彼に信頼されず、
疎んじられていた時に汗玄が陳に滅ぼされたため陳に帰順。
斉苗に勝るほどの弓の腕を活かし、対異民族戦で手腕を発揮。
有名な瀬宮州の戦いにも参戦し、敵将房侯淵(ぼうこうえん)を討った。
が、その後の満攻めの戦いにて背貢須をかばい死亡した。
王南一味の康修とは親類とも言われるが定かではない。
だが彼らが似ているのは事実で、老いて益マス盛んな老人のことを厨華では「睾虫」と呼ぶ。
ちなみに似た言葉に「康修」があるが、
変態というニュアンスが強いので間違えると大変なことになるので気をつけよう。
候内舎生(こうない しゃせい)
陳歩の友人。舎生は字と思われる。
竹眉の七賢の筆頭に数えられる詩人であり思想家であり歴史家でもあるという多才な人物。
各国からの仕官要請は絶えなかったがそれを全て
「大義を忘れ争うのみの貴方達に仕える気はない」と言い断っている。
ただ陳歩に対してはあくまで友人としての立場ではあるがアドバイスをしていたようだ。
極太(ごくぶと)
陳歩の雅号。
陳歩は、若くして書画に精通し、鱒の絵を特に好んで描いていたという。
絵画史では古代写生画の代表的人物であり、かなりの教養人だったらしい。
江炉漫画島にある陳歩廟には、陳歩が描いた有名な鱒の書画が所蔵されており、
陳歩が宿敵万黄を想いながら描いた鱒は、あまりの迫力に思わず目を背ける程だとか。
自慰子(じいこ)
陳国の武将。
若いころは猛将として鳴らし、老いてからは軍略家として大軍を勝利へ導いた。
ただ専門家からは「運が良かっただけ」などと批判されているようだ。
晩年、兵法書『自慰子策画』を出版するも、当たり前の内容しか書いておらず、すぐに値崩れしたという。
なお、自慰子は胡人(厨国北方・西方の異民族)だったという説もある。
屍漢(しかん)
五度牡牝行の七本棒のひとり。
猛将ではあるが、残虐な性で、敵の死体を辱めることを好んだ。
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