俺の自演だから気にすんな
つうか連投出来ないんだよな
うふ〜ん
うふ〜ん
陳歩 金玉帝十九年 生殖省 辺児子県出身の武将
幼少の頃から名将道卓に支えられてすくすくと立派な偉丈夫に育つ。彼は、幼い頃から支えてくれていた道卓を
父とも慕っていた。やがて、珍顧の礼に答え、乱世に身を投じる決意を固める。当時盛漢にいた後の好敵手、
満軍相手に強気で臨んだ初陣であるが、敵の計に乗せられ、大敗。従弟の陳鎮に殿軍を任せて一命を
取り止めたものの、名将道卓を失う。陳歩は、道卓の死に深く悲しみ、もう二度とこんな愚かしい戦いはしないと
決意、泣いて自らの鍛錬に勤め、その故事は今も「泣いて陳歩の皮を剥く」(成長には痛みが伴うという意)として
伝えられている。
その後、一回りも二周りも成長した陳歩は、初陣の万黄を突撃で蹴散らし、人生最大のライバル、斉苗との
戦い、親交、そして別れを経験。斉苗が死んだ時は、まるで身内の死の様に嘆き悲しんだと伝えられている。
その後も目障り極まりない満軍の根同霧城を攻めるが中々落とせず、陳鎮に策を授けられこれを落としたり、
案外勝ち負けの激しい人物ではある。
彼の人生最大の戦い、瀬宮州の戦いではみこすり半において邦刑を菊門の策により討たれ、自身も危うく
逃げ延びるも、体勢を建て直し、瀬宮州にて怨敵万黄を打ち破り、騎上位大将軍に任じられる。この時の、
万黄の旗本四十八騎の驛卞との一騎打ちは、彼の人生の中で最大の見せ場といわれ、高校の教科書にも
載っているほど。
しかし、やがて異民族の三駆駄利・汗の援助をうけた宦官李昆の讒言により失脚、六十九歳のときには江炉漫画島
に流されてしまい、失意のままに死去。享年七十二歳。
候内舎生に「坐面知るは苦し」の詩を出したり、禅の教養もあった所を見ると、結構な教養人らしい。高僧だったという
話もある。故事に「泣いて陳歩の皮を剥く」(成長には痛みが伴うという。
基本的に温厚な人物だったらしいが戦場では凄かったらしく、 万黄の領地だった地域では今でも子供が泣くのを止める
のに「陳歩が来るよ」(歩来来)と言う。
なお、泡姫とは不義の中にあったらしい。
尹殷寵(いいんちょう)
前魏の文官。摘出令(つんでれい)。
前魏末期の文官グループ聖順派のひとり。
居怜帝(いれてい)
前魏第15代皇帝。士多麻 紀(したま き)。
63歳で崩御した父・槍帝(やりてい)のあとを13歳にして継いだ。
当然あまり物を知らず、それゆえ父が最も信頼した宰相袁如に頼らざるを得なかった。
後に酒色に溺れ官位を金で売った為に宮廷の腐敗を招いた。
魚雲敏(うぉんびん)
前魏の属国、姦国(かんこく)の工作員。
姦国を属国から抜け出させようと画策するも失敗し、釜茹での刑に処された。
蛆姫(うじひめ)
前魏の属国、姦国の工作員。不細工だったがゆえに工作対象の斉苗に惚れられた。
が、腐美人の不興を買い惨殺された。
雲快(うんかい)
前魏の勃沌(ぼっとん)太守。かつての名家雲家の嫡流の生まれ。
雲項とは雲項の祖父と彼の曽祖父が兄弟という関係にある。
範公を名乗り独立した範斉に敢然と立ち向かったが周審景に討ち取られた。
彼には兄弟・子がなかったため、岸安から勃沌に避難してきていた庶流の雲項が彼の家を継いだ。
これが雲帝国の起こりである。
栄素(えす)
明日部巣都太守襄横の部将。得物の鉄鞭を振りかざし戦場で暴れまわった。
性格は残虐で拷問を好み、悲鳴を聞くのが何よりの楽しみだったという。
斉苗に敗れ生け捕りにされたが、斉苗に絞め殺された。
「殺すつもりはなかったがちと絞めすぎたか」と述懐している。
栄務(えむ)
明日部巣都太守襄横の部将。得物は大盾と小剣で、栄素との連携はなかなか強力であった。
性格は温和だが罵られたり打ち据えられたりするのを好み、わざと罪を犯しては
棒叩きの刑に遭いたがるなど奇行が目立ち、襄横も困っていたようだ。
斉苗に馬を射られ落馬し生け捕りにされたが栄素と同じように絞め殺された。
後に遺体を調べられたが、なんと死に際に射精していたのだ。
その死に顔はとても気持ちよさそうであったという。
「前魏志」にも于甫が「このような変態は見たことがない」と言い、呆れ果てたという記録が残っている。
袁如(えんじょ)
字は公才(こうさい)。養子時代の名は荘汝(しょうじょ)。
岸安の没落貴族袁家の生まれ。幼いころから天才の誉れ高い神童であった。
17歳と前魏の最年少記録で進士となり、18歳の時に中出(なかだし)省に入官するも、
名族とは程遠い袁家の出自のため最初の5年は才能がありながら不遇であった。
第12代那明帝の治世となった23歳の時に溢れんばかりの才気を
時の権力者荘如(しょうじょ)に見込まれ彼の養子となった。
(ちなみにその際、名前が同じになってしまうため「汝」と改名した。)
荘如の養子となってからはとんとん拍子に出世し、
第13代異通帝(イッテイ)の時代に亜判(アッハーン)となった。
第14代槍帝(やりてい)は義父荘如とそれに連なる者を粛清・排除したが、
袁如は巧く立ち回り彼の腹心として活躍し、ついに文官の最高位宰相にまで上り詰めた。
彼の本質が露になるのは第15代居怜帝(いれてい)の治世からである。
その後の動きは周知の通りだろう。
宮廷において賄賂を得て私腹を肥やし、腐敗を招く。
さらには袁如を真似る者も数多く、腐敗はますます酷くなる。
あまりに露骨で後先考えないそのやり口は多くの者から反感を買い、
結果袁如に関わった者の多くは、罷免される事となる。
(なお、袁如の進退は不明。一説には追求の手を逃れ、余生を不自由なく楽しんで過ごしたともある。)
しかし、悪政が正されるには遅すぎた為、各地に腐敗政治が蔓延する事になった。
於華賛(おかあさん)
字は嘉張(カーチャン)。
於氾(おばん)の子、於簡(おかん)の弟。
浪人者を束ね、厳しさと優しさを上手く使い分けた名将。
士気にムラのあった浪人者に食事と衣服を与え、温かく迎えたという。
この使い方の難しい軍隊を、「毒男軍」と称する。
毒男軍は陳歩に並々ならぬ敵意を表し、先鋒にたってよく戦った。
が、配下の浪人者達は、そんな於華賛を軽んじる事もしばしばあった。
失意の内に死んだ於華賛の遺品の中からは、毒男軍への細かい指示が書かれた書簡があったという。
それを見た浪人者たちは胸をたたいて慟哭し、その後は獅子奮迅の働きをしたということだ。
諺『死せる於華賛、生ける毒男を走らす』は、この故事がもとになっている。
於簡(おかん)
前魏の武将。於氾(おばん)の子。前魏崩壊後は満に仕える。
国庫の管理や兵糧調達を担当し、外征では兵糧部隊を指揮した。
巨漢の勇士として知られ、於簡の一喝で陳の兵は萎え竦んだと言われる。
於簡の子・馬満(ままん)の末裔は、戦国四昆子の一人、色国の馬座昆(まざこん)。
於氾(おばん)
温厚な陳沈(陳歩の父)さえも避けたと言われる程の人物で、
時勢を読めず、平四遵(ペ よんじゅん)との親交から姦国(かんこく)への
貢物を献ずるよう奏上を繰り返し、前魏の政治を混乱させた奸臣。
於氾の軍の中には黄明党に心酔する者まで出てくる始末だったという。
うふ〜ん
sage
郭子呉(かくしご)
魔羅の子とも言われるが出生に関する資料が無く詳しいことは不明。
竹眉の七賢の一人で、哲学者として有名。詩も何篇か残している。
それはあったことのない父を探し慕う詩であった。父が恋しかったのだろうか…。
それゆえか戦災孤児を積極的に引き取り、彼らを一流の教養人に育て上げた。
女でありながら才気に溢れ、陳歩に愛された泡姫もその一人である。
華由威(かゆい)
前魏の将。斉苗の部将で、岸安事件のころに梅読、輪鋲、衛厨、韓燕らともに
「斉苗五本槍」と謳われた猛将の一人。得物は七十斤近くある大剣。
岸安で班鄭に討ち取られた。
■斉苗五本槍
「斉苗五本槍」とは、斉苗が親衛隊時代に小隊長を任せていた猛将五人のこと。
その後華由威が岸安で戦死し、梅読・輪鋲・衛厨・韓燕が「斉苗四天王」を名乗ったが、
衛厨・韓燕が荷洋族の経瑠辺洲・倉観路吾に討たれ一時的にこの呼称は消滅。
その後経瑠辺洲・倉観路吾が帰順。彼らは斉のために奮戦し多大な功績を挙げたため
新たに梅読・輪鋲・経瑠辺洲・倉観路吾を称して「斉苗四天王」と呼ぶようになった。
顔具朗(がんぐろう)
前魏末期の反聖順派の須家蛮(スケバン)グループのひとり。
袁如らと手を組み、聖順派を駆逐した。
寛裕(かんゆう)
字は強制(きょうせい)。
曹賈の乱の指導者の一人。黄明党への強引な勧誘をすることで有名だった。
御羽射党の乱にも参加しその後、範国の客将の一人になった。
彼は大作を神格化して完全に宗教化し、範斉を説得して範国の国教とするに成功した。
後威零帝(ごいれいてい)
前魏第16代皇帝。士多具 瑠芽(したぐ るめ)。
武術と兵法に通じ、曹賈の乱、御羽射党の乱などの全ての戦に対し、
後威零帝みずから征伐を行ったという。
岸安事件にて予てから対立していた斉苗に殺された。
■根同霧(こんどうむ)
前魏皇帝の証でもある、護国の剣と呼ばれた雌雄一対の聖剣。
幅広で軽く取り回しやすい雌の剣で防御し、
重いが威力のある雄の剣で必殺の一撃を決めるという使い方をするようだ。
そのため使いこなすには相当な技量が必要とされ、実際に使った皇帝は後威零帝のみであった。
その後威零帝は岸安事件においてこの剣を自由自在に使いこなし、
斉苗率いる親衛隊を次々に倒したという。
岸安事件後斉苗の元に渡り斉苗の愛剣となったが、
郁々の戦いで陳宝との一騎打ちの際雌の剣をへし折られてしまった。
その翌日、死に至る性病を発症し、帰らぬ人となった。
それを見た軍師兪備曼は、
「根同霧が破れたからこうなったのかも知れぬ。これがこの剣に宿る魔力なのか…」
と言ったと『艶義』にあるが定かではない。
ちなみに「根同霧」の名はこの剣が発見された地「根同霧城」から来ている。
三徐寺(さんじょじ)
徐子仲・徐士公・徐史大(じょしちゅう・じょしこう・じょしだい)の三兄弟のこと。
三徐寺らは元々聖順派だったが、時代の波に押され、気づけば袁如の言うがままになり、
遂にはアンチ聖順派である須家蛮(スケバン)グループに属していたという。
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最後尾の名無しさん@3日目:2010/09/05(日) 10:38:15 ID:z7vtX8pt
いんぽ
167 :
最後尾の名無しさん@3日目:2010/09/05(日) 10:41:07 ID:z7vtX8pt
スルーも出来ない弱い奴らだった。
168 :
最後尾の名無しさん@3日目:2010/09/05(日) 10:41:46 ID:z7vtX8pt
また来るねノシ