「いいじゃないか」
達也は、気楽に笑って、
「ここは、僕と佐知子さん、ふたりきりの場所なんだから」
顔を寄せて、ことさらに秘密めかした声で、佐知子の耳に囁いた。
耳朶に吹きかけられる達也の吐息に、佐知子はゾクリと細い首をすくめて、
「……もう…」
また、責めるようにそう言ったが。
そんな言葉の逐一が、どうにも言いわけじみていることは、自分でもわかっていた、
あの夕陽に照らされた屋上での、最初の口づけから、二日。
すっかり恋人気分の達也は、ことあるごとに佐知子を引き寄せて、キスをしかけてくる。
そして、佐知子は、一度もそれを拒みきれたことがなかった。
どころか、回数を重ねるほどに、抵抗は短く弱くなって。
達也の強い腕に抱かれて、長く濃密な口舌の戯れに酔わされて。
ことが終わったあと、夢心地の中で、つけたしのように達也の強引さを責める。
まったく言いわけでしかない言葉を口にすることで、
勤務中に、担当の患者と、淫らな行為に耽った自分を正当化する。
そんなことを繰り返していた。
唇を重ねるごとに、達也への傾倒を深めていく自分を、佐知子は感じている。
かたちばかりの事前の抵抗とは逆に、口づけを解かれた後、
達也から身を離すまでの時間は、どんどん長くなっている。
達也が言ったように、ふたりきりの病室であるのをいいことにして。
いまも佐知子は、達也の腕に体を預けたままで。乱れた息を整えながら、
うっとりと達也の顔を見上げていた。
(……もう少し……こうしていたい……)
快楽に蕩けさせられた思考は、そんな素直な願望に支配される。
頭や心だけでなくて、体も、すぐには再起動できそうになかった。
深い愉悦の余韻に痺れて、力が入らない。
引かない熱が、いっそう気だるさを強めるようだった。
「ずっと、こうしていたいな」
達也が囁く。
「こうして、佐知子さんを抱きしめたまま、いつまでも過ごしていたい」
佐知子の肩を抱いた手に、力がこもる。
(……あぁ……)
達也が、同じ想いでいてくれることに、泣きたいような幸福を感じながら。
「……でも」
いまこの時の歓喜が、佐知子に未来への悲観を口にさせる。
「……達也くんは、怪我が治ったら……この部屋を出ていく……」
それは、遠い先のことではない。
「……ここを出たら……すぐに、私のことなんか、忘れてしまうわ……」
それは、佐知子が心に留め置こうと努めている覚悟だった。
あまり、達也にノメりこまないようにとの戒め……その効果のほどは怪しかったが。
「まだ、そんなことを言うの?」
「……そうなったほうが、いいのよ、きっと。そのほうが、達也くんの……っ!?」
分別めかした言葉は、半ばで封じられる。達也の唇に。
「んんっ」
驚き、咄嗟に振り解こうとする佐知子の抗いを、頬にかけた手で抑えて。
「…ん……ふ……」
スルリと潜りこませた舌の動きで、瞬く間に佐知子から抵抗を奪っておいて。
一度、口を離した達也は、額を合わせるようにして、
佐知子の、早くもトロンと霞がかった眼を覗きこんだ。
「聞きたくないから、塞いじゃったよ」
不敵な笑みを浮かべて、そう言った。
「これからも、そんなこと言うたびに、同じようにするよ」
「……達也…くん……」
「それとも、最初からこうしてほしくて、そんなこと言ったのかな? 佐知子さんは」
「そ、そんなこと……」
ああ……そうでないと、言い切れるだろうか? 本当に。
少なくとも、自分の悲観を達也に否定してほしい気持ちが、
確かにあったのだと、佐知子は気づく。
まるで子供じみた、自分の心の動きに恥じ入りながらも。
達也へと向ける眼に、物欲しげな色を滲ませてしまう。
しどけなく開いた口の中で、舌が誘うようにそよいでしまう。
そして。達也は、それに応えてくれる。
「信じさせてあげる。僕のこと、もっと」
そう宣告して。再び、顔を寄せた。
佐知子は、僅かな抵抗も見せず、そっと目を閉じて、達也の唇を受け入れる。
続けざまの口吻に、達也は、いつもの擽り焦らしたてるような
プロセスの技巧を省略して、いきなり激しい勢いで、佐知子の肉感的な唇に吸いついた。
挿しこんだ舌で、佐知子の口腔を舐めまわし、可憐な舌を絡めとった。
佐知子は、荒々しい蹂躙を喜ぶように、フウンと鼻を鳴らして。
達也のパジャマを掴んだ手にギュッと力がこもる。
(もっと、もっと。信じさせて。もっと)
紅く染まった意識の中で、何度も叫んだ。
苛烈さの中に、確かな巧緻をひめる達也の舌が、繊細な粘膜を擦りたてるたびに、
瞼の裏に火花が散った。
こんな口づけは知らない。こんなに熱くて、こんなにも甘美なキスは。
達也が教えてくれた、達也に教えられた悦び。
その数を増やすごとに、佐知子の唇も舌も、未知の感覚に馴染んで。
馴染むほどに、より愉悦を深めていく。
(もっと……もっと、教えて)
このはじめてしる快楽に浸らせてくれ、と。
佐知子は、自分からも必死に達也の舌を吸って。
流れこむ達也の唾液を、喉を鳴らして飲んだ。
熱い滴りを臓腑に落とすことで、己の血肉が、達也の色に染められていく気がして。
それに、身震いするような幸福を感じながら。
(続)