食事が終わって。裕樹は風呂へ向かった。
流しに立って洗い物をはじめながら、佐知子はフッと息をついて、
肩の力を抜いた。
裕樹の前で見せていた常と変わらぬ態度は、佐知子が意識してとっていたものだった。
“いつもどおり”を演じていたのだ。
(……ごめんね……裕樹……)
それは、信じあうべき家族を、騙したということだから。
自分の演技を素直に信じて、無心に喜んでくれた裕樹を思うと、なおさら胸は痛む。
だが、それでも、絶対に気づかれてはならないのだ。
自分のうえに起こった変化。かかえこんだ秘密。
……達也の想いを受け容れてしまったこと。
裕樹の同級生、中学生の少年の求愛に応じてしまった。
いまだに信じられない……などと言えば、逃避でしかない。
すべては現実に起こったことだ。
逃れようもない事実……自分は達也に惹かれていた。ひとりの男性として達也を意識して、
熱い感情を抱かされていた。
必死に目を背けていた、その想いを。今日、ついに認めさせられてしまった。
なんということを、してしまったのかと思う。
息子と同じ年齢の若者に恋慕を抱くことも愚かだが、
その感情を露にしてしまったことは、いっそう愚かだと。
あの時には……そうすることが、唯一正しいことのように思えたのだったが。
達也と別れ、時が経つほどに、悔いる気持ちが大きくなっていく。
これから、どうなるのか? と、考えると暗澹たる思いにとらわれる。
自分が応じたことで、達也とは相違相愛の間柄ということになったのだろうが。
それで、明るい前途など、思い浮かべられるわけもなかった。
なによりも恐ろしいのは、事実が露見したら、という想像だった。
そんなことになったら……身の破滅だ。
自分のためにも、達也のためにも。
この“恋”は、絶対に秘匿しなければならない。
佐知子にとって、最も警戒すべきは、当然、息子の裕樹だった。
最も身近にいる存在。
また、万が一にも、事実を知った時に、裕樹が受けるだろう衝撃を慮れば…。
それは、佐知子には恐ろしすぎる想像だった。
だから。今夜、必死に平静を装ったように。
これからも裕樹の目を欺いていかなければならないのだ。
(……ごめんね、裕樹。ごめんなさい……)
また、胸の中で我が子に詫びる。
母親たる自分が、息子に秘密を持つこと。
母でありながら、他の存在に(それも、我が子と同い年の少年に)想いを向けてしまうこと。
ただ、佐知子には、相姦の関係にある息子を、恋人として裏切るという意識は
ほとんどなかった。
それは、もともと佐知子にとっては、肉体を重ねることも、我が子への溺愛の延長上に
あったからだ(逸脱していることは、さすがに自覚していたが)。
佐知子にとって、裕樹は、あくまでも子供であって、“男”ではなかった。
(……ママをゆるして……)
だから、裕樹への罪の意識は、母親としてのもので。
しかし、赦しを乞うということは、過ちと知りながら、そこから引き返すつもりも
ないということだった。
……この“恋”は短く、必ず悲しく終わるはずだから、と。
そんな悲愴な悟りを免罪符として、
(……だから、いまは……いまだけは……)
そう、自らをゆるそうとする佐知子の。
心の傾きは、彼女が自覚しているよりもずっと深いようだった。
……だって、仕方がないではないか。
自分だって、女だから。
あんな、魅力に満ちた若者に。
あんなに、ひたむきな想いを向けられたら。
あれほどに、純粋な瞳で見つめられたら。
あのように、優しい声で囁かれたら。
心、動かされてしまうのも、無理もないことではないか。
生身の女なのだから。この身も心も、木石で出来ているわけではないから。
あんな、逞しい腕で抱きしめられたら。
(……あんな……キスをされたら……)
佐知子の頬が、ポーッと上気して。かすんだ双眸には潤みがます。
流しに立ったまま、食器を洗う手は最前から止まっている。
濡れた手が、そろそろと持ち上がって。
指先が、ふくよかな唇に触れた。そっと。
あんな……口づけは、知らない。知らなかった。
あれほどの、情熱と技巧を受けたことはなかった。
あんなにも、熱くて激しくて甘いキスは……。
「……あぁ……」
切なく、熱い吐息がこぼれた。
佐知子は、ギュッと己が体を抱きしめて、身の内の熱に耐えた。
思い出すだけで……腰がくだけそうになる。けっして消え去ることのない愉楽の記憶。
唇に残る余韻だけで、悔恨も不安も薄れていってしまう。
「……達也…くん……」
堪えきれず、その名を呼んだ。ひっそりと。
明日になれば、また自分は、達也の待つ病室へと向かう。
これからどうなるのか? と恐れながら。どんな顔で会えばいいのか、と羞恥しながら。
それでも、足は急くのだろう。少しでも早くと、心は逸るのだろう。
会いたい。
結局は、その想いが胸を満たしていって。
佐知子は、また切ない息をついた。
(続)