……今日も、佐知子は達也のそばにいる。
朝、出勤してから、午後も夕方に近づいた、この時間まで。
ほとんどの時間を、ふたりきりの病室で過ごしている。
静かに穏やかに、時間は過ぎていた。何事もなかったかのように。
達也も佐知子も、昨日のことは、一言も口にしなかった。
つい昨日、この部屋で起こったこと−達也が佐知子への恋慕を告白したことも、
佐知子が達也の若い欲望を、その手で処理したことも。
けっして話題にされることはなかった。
ベッドに横たわった達也と、その傍らに椅子を引いた佐知子。
達也が他愛もない会話をしかけ、佐知子が言葉すくなに答える。
そんなふうにして、ありあまる時間を消化していく。
昨日までと、なにも変わらぬような光景。まったりと。静かに。平穏に。
しかし。無論、それは表層だけだった。
ふたりが、前日のことを忘却しているわけがなかったから。
達也は、いつものように、あれこれと佐知子に話しかけながら。
時折、フッと言葉を途切れさせて、佐知子を見つめた。
昨日までなら、ここで、臆面もない賛美を口にして、
佐知子を赤面させているところだったが。
今日の達也は、なにも言葉にはせず、ただ、深い感情を湛えた眼で、
佐知子を見つめた。
佐知子の反応も、昨日までとは変わっていた。
なに? と何気ないフリを装って聞き返すこともなく、なにか話題を
持ち出して雰囲気を変えようともせず。
ただ佐知子は、気弱く眼を伏せて。頬に熱を感じながら、
達也の熱い視線に耐えていた。やがて、達也が表情を戻して、
新たな話題を口にするまで……。
そんな奇妙な無言劇を、(表面的には)穏やかな会話の間に差し挟み、
何度か繰り返して。
その度に、息がつまるような重苦しさを、少しづつ沈殿させながら。
長い午前と長い午後が過ぎていった。
達也も、少しづつ口数が減っていって。ふたりきりの病室には
静寂の時間が増す。
静かさは、張りつめた室内の空気を、いっそう強調するようだった。
それに耐えかねたように、佐知子は何度か立ち上がって、窓を開閉したり、
カーテンを調節したりと、仔細なことに立ち動いたが。
なにか口実をつくって、部屋を出ていくことはしなかった。
落ち着かず、緊張して、なにかに怯えるような色を滲ませながら、
病室に、達也のそばに留まっていた。
……達也は、そんな佐知子をジックリと眺めて。そして、
「……たまには、外の空気が吸いたいな」
そう言ったのは、窓から望む空が赤く染まり始めた頃だった。
(続)
どもです。
ようやく、城攻めの開始ですかね。
でも、一気に本丸、とはいかないようです……。
ガンバリます。
手は出さずにいつまでも兵糧攻めキボンヌ
「ゴメンね。我がまま言って」
達也が言った。
左に松葉杖を突き、右側を佐知子に支えられて、ゆっくりと階段を
上りながら。
「……いいのよ…」
短く、佐知子は答えた。どこか、上の空に。
達也の脇下に肩を入れるようにして、体を支えているのだが。
この体勢では、達也の言葉は、直接耳に吹きこまれるようなかたちになって、
佐知子の鼓動を速め、気をそぞろにさせるのだった。
「優しいね。佐知子さんは」
また、達也の声が、すぐ近くで響く。
佐知子は、意識して視線を下に向け、足元だけを見るようにした。
密着した肩や胸に、達也の体の重みがかかっている。
硬く、しなやかな肉体の感触。熱と匂い。若い男の。
意識するまいと思っても、どだい無理なことだった。この状況では。
逃れようもなく迫ってくる、若く逞しい男の肉体の特徴が、
佐知子を息苦しくさせる。不安な情動を喚起する。
「ひょっとしたら」
慎重にステップを踏みしめながら、達也が言った。
「今日からはもう、佐知子さん、来てくれないんじゃないかって。心配だったんだよね。
昨日、あんな…」
「達也くん、そのことは、もう…」
この日はじめて昨日のことに言及しかける達也を、佐知子が制止する。
「佐知子さん、まだ怒ってるの?」
覗きこむようにする達也から、佐知子は顔を逸らして、
「そうじゃ、ないけど……私も軽率すぎたと反省しているの。
だから、昨日のことは、もう忘れてちょうだい」
「僕が、佐知子さんに好きだっていったことも?」
「……そうよ…」
「それが、佐知子さんの答えなの?」
達也の声が、冷たく無感情なものに変わる。
ハッと、佐知子が顔を上げたところで、階段が終わった。
達也は、表情を隠すように顔を背けて、佐知子から体を離した。
「それが、佐知子さんの気持ちなら……仕方ないよね」
顔を背けたまま、そう言って、鉄扉を押し開けた。
開いた扉の向こう、屋上へと、ひとり踏みこんでいく。
「達也く……」
咄嗟に呼び止めようとして。しかし、なんと言っていいのかわからずに。
佐知子は、無意識に、自分を抱くようにまわした腕で、
達也の重みと温もりを喪った肩のあたりをギュッと掴みしめて。
ようよう足を踏み出して、達也の後を追った。
陽はさらに傾いていた。屋上には、人気はなかった。
達也は器用に杖を操って、フェンス際へと進んだ。
高い金網越しに、夕方の街並みを見下ろす。
その数歩後ろに、佐知子は佇んだ。
「いい眺めだな。気持ちいいや」
ひとりごとみたいに呟いて。その後、達也はしばし沈黙した。
「…………」
佐知子は、やはり掛ける言葉を見つけられずに、不安そうに
達也の背を見るだけだった。
後悔に似た感情が、胸を締めつける。
馬鹿げたことだと思って、しかし、今さっきの自分の言葉を
打ち消してしまいたいという衝動を払うことができず。
「……あ、あの…」
その後に、どんな言葉を続けようとするのか、自分でもわからぬまま
佐知子が小さく震える声を吐き出した時。
ゆっくりと、達也が佐知子へと振り向いた。
(続)