「わからない? 本当に?」
達也の声が、少しだけ悲しげな響きを帯びる。
キリリと、佐知子は胸に痛みを感じて。
「わ、わからないわ」
その反動でだろうか、ようやく弱い声を絞り出すことが出来た。
本当に、わからない。達也が、あまりにも真剣だから。
いつもの洒脱さも明るさも消してしまって、
怖いほどの力をこめた眼で見つめてくるから。
本当に、心の真実を告げようとしているふうに見えるから。
だから、わからない。
まさか……そんなはずはないから。そんな……。
しかし。
「佐知子さんだよ」
しごく簡単に。達也は、その名を口にしてしまった。
「僕、佐知子さんが好きだよ」
まさか、と佐知子が打ち消した、その言葉を。
佐知子は眩暈を感じて、数瞬、目を閉じた。
「……も、もう。達也くんの冗談って、けっこう心臓に悪いのよね」
どうにか苦笑らしき形に口元を引き攣らせて、無理に笑い飛ばした。
声は震え、擦れていたけれど。
非礼とも言える佐知子の反応にも、達也は表情を変えることなく、
「……まあ、あくまでも、僕の勝手な想いだからね。
佐知子さんの返事は、保留されたと受け止めておくよ」
「ほ、保留って、達也くん」
慌てて反駁しけかた佐知子だったが。
照れることも恥じることも必要ないとばかりに、堂々と見返してくる達也に、
なにか後ろめたい気持ちになって、言葉を詰まらせてしまった。
「………………」
佐知子が気弱く眼を伏せてしまったので。
ふたりだけの病室は、しばし、重苦しい沈黙がとざした。
そして、そんな雰囲気を払拭するのは、やはり達也のほうだった。
「ごめん。佐知子さんを困らせるつもりはなかったんだけど」
こだわりのない声に、佐知子はおずおずと眼を上げた。
穏やかに微笑む達也がいる。何事もなかったかのように。
「あ……」
佐知子は、カラカラに渇いた喉から、声を絞り出そうとした。
なにか、言っておかなければ。いま、この場で。
そうしなければ取り返しがつかなくなる、そんな予感があった。
でも……なにを? 言えばいい?
取り返しがつかない、とは? 私は…なにを恐れる?
混乱する思考の中から、適切な科白を見つけ出すことが出来ない。
「いまは」
達也が言う。
気負いのない口調で。しかし、眼には固い決意の色を浮かべて。
「僕が、冗談や悪フザケで、こんなことを言ったわけじゃないとだけ、
知っておいてくれれば、いいよ」
そう釘を刺して。ひとまずはここまで、という空気にしてしまう。
結局、佐知子は、なにも意味のあることを口に出来ぬまま。
二十以上も年下の若者からの求愛を聞き終えてしまったわけである。
呆然と立ち竦んでいた。
……そんなふうにして、始まった一日である。
佐知子に、平静な心で過ごせというほうが、無理があった。
しかも、達也の傍らから離れることは出来ないのだ。
達也は、ベッドに上体を起こして、本を読んでいる。
椅子に腰を下ろした佐知子が、それを眺めている。
これは、いつものように会話を仕向けても、どうにも口が重く、すぐに
沈思黙考の中へ入ってしまう佐知子のようすを見た、達也の配慮だった。
『僕は本を読んでるから』
それだけ言って。その後は、本当に読書に没頭するようすで、
すぐそばに座ったままの佐知子には見向きもしない。
切り替えの早さというのか、集中力もまた並ではない、と。
ちょっと呆れるような思いで、佐知子は達也を見ていた。
達也が読んでいるのは、翻訳小説で、佐知子が聞いたこともない作家の著書だった。
(昨日、パラパラと覗かせてもらったが、かなり難解な内容だった。)
厚いハード・カバーを読みふける達也の横顔には知的な落ち着きがあって、
普段以上に大人びて見えた。
本当に……彼は、さまざまな表情を見せてくれる、と佐知子は思った。
平素の穏やかな顔、快活な無邪気な笑顔。
猛々しいほどの怒りの形相。佐知子を守ろうとしてくれた時の、凛々しく精悍な表情。
そして。佐知子をまっすぐに見つめて、“好きだ”と告げた彼の顔……
そこまで思考を巡らせて、我にかえる佐知子。
いつしか、達也の横顔に見惚れていた自分に気づいて、かぶりをふった。
ボーッとしている場合ではない。考えなくてはならないのだ。
達也がもちかけた難題について。それへの対処を。
やはり、あの時点−達也の告白を受けた直ぐ後に、
ちゃんと話を終わらせるべきだった、と後悔する。
少し冷静になってみれば、自分のとるべき態度は決まっていた。
達也の言葉を、完全に冗談として流してしまうという対応だ。
あるいは、いきすぎだと叱ってもよかったかもしれない。
どうして、そう出来なかったのか?
あの時には、そうするのが酷く悪いことに思えたのだ。
ということは……少しでも、達也の告白を信じる気持ちがあったというのか?
それは、あまりに愚かしいことではないか。
本当に、そんなことがありうると思っているのか?
中学生の少年が、自分のような中年女を、本気で……。
(でも……あのときの達也くんは……)
嘘をついているようには、見えなかった。どうしても。
だいいち、そこまで悪趣味なイタズラを愉しむような彼ではない。ないと思う。
ならば……本気なのだろうか? 本当に彼は私のことを?
どうして? 何故、彼のような若者が、私なんかのことを……?
……ああ、違う、そうではない。
たとえ、万が一、達也が本気だとしても、だ。自分のとるべき対応は決まっているではないか。
キッパリと跳ねのける。それしかない。
………………どうして、そうしなければならないのか?
どうしてもこうしてもない。それが、良識であり分別だろう。
そう。相手は大人びてはいても、まだ中学生なのだ。
一時的な気の迷いというのが、妥当なところだろう。
だから、それに気づかせてやって。うまく導いてやることが、大人としての……
……ああ、いつの間にか、達也の言葉を信じることを前提にしてしまっている。
(……私は……)
信じたいのだろうか? 彼の求愛が真情からのものであると。
いま、自分は。自分の心は。
とても困惑している。それは確かだ。。
嫌がっている? それはない。ひどく混乱して懊悩しているけれども。忌避の感情はわいてこない。
ならば……喜んでいる? この、胸の熱さは……。
馬鹿な。そんなはずがない。子供ほどの年の若者に…。そんな…はずが……
……深刻な顔を俯けて、出口のない思考にハマりこむ佐知子を
達也は横目に眺めている。
まあ言うまでもないことだが、ハナから読書に没入などしていなかった。
佐知子の目にそう見えたのは、達也がそのように見せようとしたからだ。
(効いてる、効いてる)
懊悩する佐知子に、笑いをかみ殺す。
本当に、よくもまあ、ここまでこちらの描いた絵図の通りに反応してくれるものだと
呆れるやら感心するやらだった。
(ホント、純粋だなあ、佐知子は。可愛いゼ)
それに、いい女が悩む姿もいいものだ、と愉しんでいる。
確かに、形のいい眉を寄せて、大きな瞳を翳らせて、肉感的な唇を噛むようにしている
佐知子の愁い顔は、見る者の嗜虐心を煽りたてるような、巧まざる媚態となっていた。
さらには。片手を口元にあてて、その肘をもう一方の手で支えるような姿勢によって、
その豊かな胸が強調されて、白衣に色っぽい皺をつくっている。
ピタリと合わせた丸い両膝には隙がないが、豊満な腰の肉づきに引っ張られて、
スカート部分はやや際どい位置にズリ上がって、逞しいほどに張りつめた太腿を
見せつけてくれているのだった。
(ソソッてくれるなあ、越野のママさん)
たっぷりと、視姦を堪能して。
漲っていくものを感じた達也は、そろそろ次の行動へ移ることを決める。
佐知子は、もうグラグラだ。いまの深い悩乱ぶりが、なによりの証拠である。
もう、ひと押し、ふた押しだろう。予定より早い成果である。
(やっぱ。チョロかったな)
まずは、溜まったものをヌイて身軽になるか、と。
達也は本を閉じて。
「……佐知子さん」
心中での舌なめずりは、おくびにも出さず、佐知子を呼んだ。
(続)