翌朝になって、佐知子は前日の自分の甘さを強く後悔することになった。
朝食をとる達也の挙措がどうもおかしかったので、問いつめたところ、
また右腕に違和感があると白状したのだ。
やはり、昨日達也の請願を容れてしまったのは失敗だったと悔やみながら、
佐知子は直ちに医師の診察を求めた。
静かだった特別病室が、にわかに緊迫した雰囲気となった。
だが、細心をはらった診察と検査の末にも、異常は見つけられなかった。
原因について訊かれた達也は、前日トイレに立とうとした際、バランスを
崩してベッドに強く手をついた時に痺れるような感覚があったから、
それではないかと答えた。他には、思いあたるふしもないと。
ヌケヌケとした虚偽の申告に、佐知子は口を挟まなかった。
高本と、そして自分に対する達也の気遣いだと理解したからだ。
結局、異常は一時的なものだろうという判断がなされ、事態は落着した。
しかし、些細とはいえVIPの身におこった異変に、病院側は神経質になって。
佐知子は、さらなる管理の徹底を厳命された。つまりは、出来うるかぎり、
達也のそばに引っついていろということだ。
自身の責任と落ち度を痛感していた佐知子に、異存はなかった。
「やれやれ」
疲れた顔で、達也が嘆息した。
医師や他のナースたちが去って、ようやく静けさを取り戻した病室。
「やっと、ふたりっきりになれたねえ、佐知子さん」
「バカなこと、言ってる場合じゃないでしょう」
キツい口調で佐知子はたしなめたが。そのやりとりは、妙に呼吸が合ってもいる。
「やっぱり、昨日のうちに見てもらうべきだったのよ」
「佐知子さんは悪くないよ。僕が無理に頼んだんだから」
佐知子の自責を遮って、
「それに、結局異常はなかったんだし。ま、予想外に高本のツラの皮が
厚かったんで、痺れたってことだね」
「……すぐ、そうやって冗談にするんだから」
諦めたように嘆息する佐知子。医師の診察でも異常が見つからなかったことに、
一応、安堵してもいたから。気楽すぎる達也への言葉も、責めるというより
恨むような調子になっていた。
「原因についてだって。本当のことを言わずに、あんな嘘を」
「まあ、いいじゃない」
至極かんたんに片付けて。それから達也は悪戯っぽく笑って、
「……これで、ふたりだけの秘密が出来ちゃったね。僕と佐知子さんの」
わざとらしく声を潜めて、そう言った。
豊かな胸の下に腕を組んで、佐知子がついた溜息も、
「……本当に、達也くんといると、いろいろと経験したことのない目に遭わされるわ」
しみじみと零したセリフも、達也に合わせるように、どこか芝居がかっていた。
「刺激があるでしょ?」
内心で、佐知子の言葉にハゲしくウケながら、澄ました顔で尋ねる達也。
少しだけ、眼に力をこめてみる。
途端に、はるか年上の女は動揺をあらわに、慌てて眼を逸らして。
「刺激は必要ないの。病院での生活にそんなものは」
早口に。怒ったように、そうきめつけた。ほんのり頬を赤く染めて。
(そう言うなよ。これからじゃないか。刺激的になるのも。いままで
経験したことのない目に遭うのもさ)
まずは……と、達也は、笑顔の仮面の下で策謀する。下劣な手管を考えるのは、
本当に楽しい。
その午後。
ナース・ルームに佐知子の姿があった。
ほぼ完全に特別病室専属になった佐知子だが、それでも、
主任看護婦としての本来の仕事のすべてを免除されたわけではなかった。
日に数度は、このような形で部下のナースたちの報告を聞き、指示を与える必要がある。
越野佐知子主任看護婦は、この病院の看護体制の要であり、絶対不可欠な存在なのだ。
その威令は行き届いて、ピンと張り詰めた空気の中、佐知子は次々と
現場の報告を受け、的確な指示を返していった。
打ち合わせが終わると、佐知子は真っ先にナース・ルームを出た。
現在の自分の持ち場である特別病室へと直行する。
気が急いていた。それは上からの指示が理由ではなく。
佐知子自身が、極力達也のそばにいてやりたい気持ちになっている。
それは佐知子自身の気持ちだが、あくまで看護婦としての心情だ……と、
佐知子は思っている。思おうとしている。
とにかくも、急ぎ足に佐知子は達也の待つ病室へと帰り着いて。
軽いノックのあとにドアを開けようとした時、昨日の午後のことが
一瞬脳裏をよぎった。そもそも、このドアを開けるたびに、なにがしか
驚くような事態と遭遇している気がする……。
「達也くん?」
果たして、というのか、部屋に入った佐知子は、軽く慌てることとなった。
達也が、松葉杖をついて、ベッドから立ち上がろうとしているところだった。
「なにをしているの? ダメよ」
佐知子は駆け寄って、危なっかしい達也を支えた。
達也には、付き添いもなしに歩こうとはしないでくれ、と言い渡してあった。
達也も、それは了承してくれたはずなのに。
「あ、佐知子さん」
「ダメよ、ひとりで動いちゃ」
ひとまず達也を座らせて、
「どうしたの? どこに行こうとしてたの?」
「あ、いや……トイレに」
「トイレ? 大きいほう?」
このあたり、看護婦らしいというのか、衒いがない佐知子である。
「いや、小だけど」
「だったら……」
佐知子は納得いかないようすで、床に視線を向けた。
ベッドの脚元に、清潔な尿瓶が置かれてある。昨日までは、達也も拘りなくそれを
使っていたのに、と。
「いや、なんか、汚しちゃいそうな気がしてさ。コレって、結構使い方ムズかしいし。
いまは、手元がね、ハハ」
苦笑いする達也の言わんとするところを、佐知子は理解した。
利き腕が不満足な状態では、その心配ももっともだとは思ったが。さて困った。
特別室、専用のトイレも備えられてはいるが、なにしろ部屋が広いから、
佐知子ひとりの支えでは、辿り着くのもひと苦労である。
佐知子が戻るのを待てなかったのだから、達也も切迫しているのだろうし…。
そわそわと落ち着かないようすの達也を見て、あれこれ考えている暇もないと、
佐知子は決断した。
「いいわ、私が手伝ってあげるから」
「えっ!?」
驚愕する達也をよそに、しゃがみこんで尿瓶を取る佐知子。
……達也の驚きの内実は、あまりに呆気なく狙い通りの展開に
持ち込めたことに対してのもので、会心ともいえるものだったのだが。
「さ、脱いで」
佐知子は、達也の躊躇は気恥ずかしさからだと、ごくまっとうに受け止めているから。
こういう時は機械的な対応をしてやったほうがいい、と。
つまり、この時佐知子はまったく看護婦としての意識で動いており、
おかしな気持ちなどカケラもなかった。
長くナースをやっていれば、このようなことも、そう珍しくもない。
それこそ子供から年寄りまで―見慣れているとまでは言わないが。
「どうしたの? もう我慢できないんでしょう?」
佐知子は、達也を急かした。
白タイツの片膝を床について、ムチッとした太腿を半ば覗かせた艶姿ではあるが、
片手に持ったガラスの尿瓶が、なんとも艶消しだった。
「恥ずかしい?」
それでも動かない達也を見上げて、佐知子は訊いた。
この時の佐知子に、私情があるとすれば、それはちょっとした復讐心のようなものだった。
ここまで、さんざん自分を翻弄してきた達也が見せる、
思春期の少年らしい恥じらいに、溜飲を下げる気持ちが確かにあった。
……これで、もうあまり大人ぶった口もきけなくなるでしょ。
担当ナースとして、年長者として、本来握っているべき主導権を奪えるという計算もあった。
さらに言えば。
これで、自分の中の不可思議な情動を払拭できるという思いも、
心理の底にはあったかもしれない。年相応の、子供らしさを、
達也の中に見出せば……。
達也は動こうとしない。
押し黙ったまま、俯いて、佐知子から表情を隠すようにしていた。
「……もう」
世話がやけるんだから、という気ぶりを大仰に表して、佐知子は一旦尿瓶を置いた。
(……それにしても、案外ねえ)
急に可愛らしくなってしまった達也を、おおいに意外に感じながら、
両手で達也のパジャマの腰を掴んだ。手順はなるべく省くべし、と
指先をパジャマと下着に同時に掛ける。
「ハイ、脱がせますよう」
さすがに感じる、わずかな気まずさを誤魔化すようにそう言って、
エイヤと、一気に引き下ろした。
かすかに蒸れたような匂いが立って、達也の股間があらわになる。
ごく自然に、そこへと目を向けて。
……佐知子の余裕の色は、そこまでだった。
(続)