「じゃあ、これで余計な引っかかりもなくなったってことで」
サラリと、そんな言葉を吐いて、達也は屈託なく笑う。
「越野さんも、もう少し打ち解けてくれると嬉しいな」
「別に…私は、普通に接しているつもりだけれど…」
「じゃあ、他の患者にも同じ感じなんですか? 僕くらいの年の子に、
いつも、そんな馬鹿丁寧な言葉使いで話すんですか?」
「それ…は……」
「普段は、もっと気さくで柔らかい感じなんじゃないですか?
越野さんって、いかにも優しい看護婦さんのイメージだし。
だったら、僕も、そういうふうに接してほしいな」
熱をこめて達也は言い募ってから、ふと表情を変えて、
「……それとも。僕が宇崎の息子だからですか?」
探るような眼を向けて。佐知子が咄嗟に返答できずにいると、
フイと視線を横に逸らせた。
「……特別な扱いなんて、望んじゃいないのに」
つまらなそうに呟く。
「………………」
寂しげな翳りを刷いた横顔。佐知子の胸に痛みが走った。
「……ごめんなさい」
罪悪感が、謝罪の言葉を吐かせた。
「確かに……誤解を受けるような態度だったかもしれないわ。謝ります」
自分の非を認めて、頭を下げる。
「あ、いや、そんなに畏まられても困っちゃうな」
頭を掻いた達也。拘りのない表情に戻っている。
「……ただ、身近でお世話してもらう人くらいは、気楽な関係で
いたいなって、思っちゃうんで」
「……そうでしょうね」
ベッドの横の、無意味な見舞い品の山を見れば、達也の言葉が深く納得されて。
佐知子は、しみじみ頷いた。
「ま、“お坊ちゃま”稼業も、端から見るほど楽じゃないってことです」
悟ったような達也の言いぐさが、やけにおかしくて、佐知子はクスリと笑った。
「あ、ようやく笑ってくれた、越野さん」
そう言って、こちらも嬉しそうに笑うまではよかったのだが、
「やっぱり、綺麗なひとが笑ってるのは、好きだな」
しれっと、そんな言葉を付け加える。
「なっ……」
気を緩めていたところへの不意うちに、不覚にも赤面してしまう佐知子。
「ねえ、越野さんの、下の名前はなんていうの?」
「え?」
「いつまでも、“越野さん”なんて堅苦しいし。出来れば、名前で呼びたいな。
勿論、僕のことも“達也”でいいです」
「え、でも……」
奇妙な気恥ずかしさが、佐知子を躊躇させる。
「マズいようなら、他の人の前では呼ばないから。教えてよ」
達也は強引で。佐知子も、頑なに拒むのも、おかしなことだと思えて。
「佐知子…越野佐知子よ」
……その夜。越野家。
「今日、宇崎達也が怪我をして入院したって聞いたんだけどさ」
いつも通り、母子ふたりでの夕食の場で、裕樹が持ち出した話題。
「もしかして、ママの病院に入院した?」
「……ええ。そうよ」
「やっぱりそうかあ…」
やや複雑な表情で、裕樹は言った。
宇崎達也の入院という報せに、小気味よいような感情を覚えたが。
すぐに、入院先としては、母の勤める医院が順当なのではと気づいた。
実際、予測のとおりだったと知らされて。
裕樹は、あまりいい気持ちはしない。なにがどうというわけでもないが、
母の勤め先に、宇崎達也がいるということが愉快ではなかった。
だが、そんな心情を洩らせば、母に怒られると思ったから、その話題は
それきりになった。
佐知子も、自分が達也の担当になったことを、裕樹に告げなかった。
裕樹の達也に対する感情を慮ったせいでもあるが。それだけが理由でもない。
“どうだった?”と裕樹に訊かれて、答えられるほど
達也への印象が整理されていなかった。
まさか、“掴みどころがなくて、苦手だわ”などと、率直な気持ちを
息子に吐露するわけにもいかないだろう。母としての沽券にも関わる。
なにしろ、相手は中学生、息子の同級生なのだから。
(……裕樹の同級生……そうなのよね……)
それにしても……なんて違うんだろうと、佐知子は差し向かいに座った裕樹を
改めて見やった。裕樹は、平均より小柄で顔立ちや雰囲気も幼いほうだから、
余計に達也との差が際立つ。
(……物腰や言動も、とても中学生とは思えないし……)
……そんなふうに、仕事を終えてからも、佐知子は宇崎達也のことを
あれこれ考えさせられてしまっていた。
そして、
『綺麗な看護婦さんで、嬉しいなって』
フッとした拍子に蘇る、達也の言葉、笑顔。
その度に、鼓動が跳ねて、思考が止まってしまう。
(……まったく。あんな見え透いたお世辞も、御令息としての嗜みなのかしら)
無理やり、毒づくことで、佐知子はなんとか平静を取り戻そうとする。
(……あれさえ、なければね……まったく……)
『綺麗なひとが笑ってるのは、好きだな』
(……本当に、あんな……)
「……どうしたの? ママ」
不意に、現実の声をかけられて、ハッと我にかえる佐知子。
「え? なに、どうかした?」
「なにって……急に固まっちゃうから」
訝しげに母を見る裕樹。
「な、なんでもないの。ちょっと考えごと」
「顔、赤いよ。大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。なんでもないから」
そう繰り返して、食事を再開する。まだ頬には朱を刷いたまま。
なにやってんだか、と内心で自分を叱咤した。
(こんな調子で……明日から、どうするのよ)
明日になれば、また達也と顔を合わせなくてはならないのだ。
しっかりしなさい、と佐知子は己を鼓舞したが。
奇妙に胸が騒ぐのを、鎮めることは出来なかった。