月輪を眺めていた。
銀色の月。
消えることのない憎悪。
不条理に対する怒り。
この身を縛る苦しみと悲しみ。
この身体を突き動かす衝動。
月を見ていると、それがほんの少しだけ薄れてゆく。
紅い血。怨嗟の呻き。
月光に濡れる金色の髪を掻き揚げる。
――今日も今日とて妖魔狩る。
今回の相手は少しだけ強かった。
狭隘な路地と素早い身のこなし。
それでも落ち着いて対処できた。
「遺言を言うなら今のうちだぞ」
抑揚もなく呟いて、斬妖の刃を突きつける。
熊のような男――獣人は力無く呻いた。
最後の力を振り絞って助けを求める。
【こんな感じで】
月光。それは優しく全てを包み込む光。
暗く人通りの無い路地を歩きながら、空を見上げる。
何故だろう。こうもあの輝く球体を見ていると、心が落ち着く。
あの輝きは、太陽の光を反射している偽りの輝きだと、人間の本には書いてあった。
それでもいいと思う。
誰かのお陰で光放てる身が、あの銀色の眩しさが、余計に親近感を沸かせた。
――――うめき声が聞こえた。
浮浪者の取っ組み合いなどならば、当然の如く無視するのだが。
この匂いから察するに、同族と人間の声だろうか。
しかも、同じくあの方を頭として群れを成す同朋の。
仕方ない、とため息をつきながら、ざっとその場に姿を表す。
「何の騒ぎだ?」
妖気は最大限に抑えてある。
少なくとも、初見では妖魔と分からない程には。
熊のような巨躯――人間にしては、だが――を持ってはいるがこの妖魔は素早かった。
恐らくその本性は虎や狼などの捕食者(プレデター)であろう。
その本性を出し切る前に、命が尽き果てそうになっているわけだが。
その妖魔――人間の名を相沢安寅――は七妖会所属の妖魔であった。
日妖・遠見幻也の配下の金妖である。人間に対しては敵でも味方でもない、
所謂中立派の妖魔である。無論、任務とあれば殺人に躊躇はないが、それ以外の
場合では、人間の生活を模倣することに専念している。
今夜も夜の遊び場で、享楽に耽っていた。
――だというのに、今此処で殺されようとしていた。
この男の顔は知っている。七妖会の要注意人物リストに載っていた顔だ。
天洸院・斬鬼衆のひとりだ。名前は覚えていない。
ともかく妖魔に対しては容赦のない男だという記載だけを覚えていた。
『何の騒ぎだ?』
――救世主登場。
桐生葉月。あの方を信奉する銀色の狼だ。
「た、助け・・・・」
そこから先は言えなかった。
眉間にナイフを突き立てられ、そこから何かが流れ込み、脳細胞を――
そこから先は知覚できなかった。
「見ての通りだ」
彼は――御影義虎は動揺を見せなかった。
いつもの如く、鋭い双眸に冷ややかな殺意を宿らせているだけだ。
ふぅ、と僅かにため息をつく。
相手の反応は冷酷かつ迅速だった。
流石に額を貫かれては、生命力に優れる獣人と言えども生きてはいないだろう。
すまない、と心の中で謝罪しながら、眼前の相手を見据える。
「見ての通りか。つまり、キミは殺人者という事だな。
警察を呼ばせてもらっても構わないだろうか?」
ごく一般人としての行動を取りながら、学生服のスカートから携帯を取り出す。
フリーの退魔士なのだろうか。出来れば、その方が後腐れが無くて楽なのだが。
さて一番の問題だ。
――――この男を殺すかどうか。
この年頃の男は苦手だ。ついあの子供を思い返してしまう。
ナイフを抜き取り、天洸院謹製の携帯電話を取り出して連絡。
処理班の出動を要請する。その間にも闖入者から眼を離さない。
白い髪をツインテールにしている。セーラー服を着ている。
鋭い眼は、獣のそれと同じだ。
何よりこの気配。人間の少女が出す気配ではない。
――何者だ?
昨今は妙な女と縁がありすぎる。
「いや、この男は人間ではない。
だから殺人罪は適用できないんだな、これが」
妖魔の死体を指し示す。
死んで変化の効果が解けたのか、ソレは本来の姿を取り戻した。
ソレは、予想通り獅子であった。
「誰かに話してもいいが、誰も信用しないぞ」
抑揚無く説明して、さてどうしてものかと考える。
実はこのような事態は、初めてではない。
予想外の――――その実既知の事だが――――姿に変貌を遂げた被害者を見て、
僅かに目の端を釣り上げる。
「…これはまた。一体どういう事なんだ?」
不思議そうに顎に手を当て、首など傾げながら、男の瞳をじっと見据える。
やりにくいのは事実だが、あの方の配下を殺したという事は、
それ即ちあの方に銃口を向けたという事。せめて一瞬で楽にさせてやろう。
「…すまないが、もう少し詳しく話を聞かせてくれないだろうか?」
携帯をしまい、その男との距離を詰めて行く。
自分に武器は無い。在るのは己が爪と牙のみ。
――――私は獣なのだから。
チリッと、眉間が疼いた。微かな殺意。
彼でなければ感じ取れないほどに、微細な殺意。
「見ての通りだ。
この世には、不思議なことしかありはしないんだよ」
四肢の筋肉を弛緩させて、相手の出方を窺う。
肝心なのは脱力。初撃に無駄な力は必要ない。
必要なのは精緻にして最速の動きだ。
「この世には、人間以外の生き物がいる。
つまり、悪魔とか吸血鬼とか、あるいは妖魔とかがな」
彼は既にやる気になっていた。
理由は知らない。
ただ、生き物としての本能が眼前の少女に対して
隙を見せることを許さないのだ。
「…なんともな。にわかには信じ難いが、
今現実を目の当たりにする限りではキミの言う通りのようだ」
キリキリと、全身の筋肉を稼働状態に高めて行く。
眼前の退魔士は、既にこちらを一般人としては見てくれていないようだ。
――――実に、勘の良い。
「…だがしかし、彼らにも生活がある以上、仲間も居るのではないか?
報復が来るかもしれないな」
優しく囁きながら、右手の人差し指と中指を突き出す。
狙いは眼。これを奪い取れば、既にそいつは戦士としての役目を果たさないからだ。
少女が、何気ない仕草で臨戦態勢に入る。
例えるなら、獲物に飛び掛る寸前の肉食獣か。
「くだらねぇな――」
冷笑。
彼は少女の問いに対して、一言で切り捨てた。
「――斬鬼衆、御影義虎。お前を殺す者の名だ」
彼はあくまで脱力したまま、相手の出方を伺う。
狙うは抜き手に対するカウンター。
――――眼球に届く僅か数cm手前で、突き出した目つぶしを引いた。
相手が何かしらの策を練っている事を本能的に感じた、というのもあるが、
それ以前に、目の前の男が発した言葉に反応してだ。
――――斬鬼衆だと?
成る程、それならば確かにあの手際の良さも頷ける。
先ほど電話をかけていた相手は、同じ支部の雑務担当部隊辺りか。
いや、重要なのはそんな事ではない。
けれど、取り敢えず彼の者とは違うようだ。
その事に微かに安堵を覚えた自分が情けなくなったが。
「そうか。墓は立ててくれるのか?」
言葉を発しながら、相手の背後に回り込みつつ、背中を向ける。
ぐっと態勢を低くし、相手を叩きつけるような強烈な体当たりを打ちかます。
寸前で抜き手が止まる。
狙いを見透かされたか。
『そうか。墓は立ててくれるのか?』
その仕儀は閃光。速いと思う暇すらなく――
背後――回避?
彼の四肢は反射的に動いた。
――間に合わない?
反射的に身体を前に出す。
衝撃。
壁に叩きつけられる。息を吐き出す。
――殺意と行動がほぼ同時に来た。
何より速い。先ほどの相手より更に速い。格段に速い。
回転。遠心力を利用した回し蹴り。
無論、通用しないだろう。
本命は次手。抜き放たれた斬妖の刃。
遠心力をたっぷりと乗せた刃で、切り裂く算段。
とっさに体を前へ浮かせる事により、衝撃を軽減させたか。
中々の判断だ。
相手が立ち上がる。大した殺気だ。
その目はまるで鬼そのものの如く。
大抵の小動物なら視線を合わせた辺りで、怯え縮こまるだろう。
彼がこちらを睨みつける。続いて強烈な回し蹴り。
当然狙いがあっての事だろう。その手に持つ刃は飾りではないのだろうから。
繰り出された蹴りの軌道を、上げた片腕でそっと反らす。
そして次の挙動をじっと待ち構えた。
蹴り脚が捌かれる。身体の軸がぶれてしまう。
だが、刃を振るうには問題ない。
触れれば斬る、それがナイフの利点。
一本足で更に回転。
――逆手に持った刃をそのまま叩きつける。
通用しなければ?
多分、後数手で詰まれるだろう。
彼女は――強い。
数瞬のやり取りで、それが理解できた。
【そろそろ時間が。どう〆るかちょっと悩んでますが】
【偶には負けロールも必要だと思うのですが>御影くんに】
まるで独楽のように一回転。
勢いそのままに、手にした白刃を振りかざす。
ズブッと言う肉に突き刺さると共に、その斬妖の刃を赤い血が濡らす。
けれどもそのナイフは自分の首を落とすには足りなく。
刃は、陶器の様に白く掌に包み込まれるようにして止められていた。
「――――終わりだ。」
己が言葉を合図に、固い金属音と同時に、鋭い鉤爪が伸びる。
軸足を蹴り飛ばし、バランスが崩れた瞬間を狙い、先ずは刃を構えた腕に一撃。
更に倒れ込む彼が胸元にも斬撃を加える。
気で体を固めていたようだ。少し傷口が浅かったか。
そのまま再度爪を彼の喉首に放とうとして――――気付く。
幾人もの人間がこちらに向かっている。恐らく、青年がかけた電話の相手だろう。
――――今無駄に場を騒がせるのは得策ではない。
私にも、あの方にも。
「…助かったな」
短くそれだけ呟くと、憮然とした足取りで彼に背を向け、足早に歩く。
これも運命と言う奴なのだろうか。
獣が狩人に会うのは必然の事なのだろうか。
暗澹たる思いを抱えたまま、血だらけの少年を跡目に己が住処へと足を運んだ。
――――月は、まだ綺麗だ。
その色を見ていると、少しだけ心が癒された。
【ではこのような〆では如何でしょうか。】
【手傷は負わせてみましたが、御影君の体力があれば日曜までには回復してる】
【そう言った感じの軽傷ですので。】
刃が妖魔の肌を切り裂いて――止まった。
『――――終わりだ。』
脚払い。
バランスが崩れる。
鋭い爪が伸びて、腕が切り裂かれ、ナイフを取りこぼす。
倒れこむ。鋭い爪が胸を切り裂く。
そして必然的に訪れる、詰みの一手。
何かを言うべきか。
それとも抵抗するべきか。
どちらにせよ――殺されなかった。
『…助かったな』
――彼女が立ち去った。
目まぐるしく脳内で、方程式が組み上げられる。
殺戮の方程式。数値を変換する。最適化。
手持ちの武器。地形。彼我の能力差。
「負けた、のか・・・・」
敗北。久しぶりに味わうこの感覚。
いや、意識不明の重態で病院に運び込まれたわけではないのだから、
それらとは別の次元の問題だろうか。
殺されなかった。その程度の相手と判断されたのか。
「畜生・・・・・俺は・・・・・まだこの程度か?
月が輝いている。
届かぬと理解しながら手を伸ばす。
――強くなりたい。もっと力が欲しい。
久しく忘れていた感覚。
彼は、更なる力を渇望した。
【こんな感じで〆ます】
【ありがとうございました】
【まあ治癒力は高い方ですから】
【これでパワーアップのための下地ができました(何)】
【それではまたノシ】