空は色濃い闇の中に沈み、星さえも息を潜めているようだった。
予定通りならば、この船は明日の明け方にもカレーの港へ入るはずだ。
凪いだ海は、底知れぬ深さで死へと誘惑する。
いいや、そうではない。
震える膝をこらえ甲板に立つと、夜風が頬を撫で、髪を揺らした。
生きるのだ。
何が何でも生きろ。
カレー迄なら泳ぎ切れる。
泳げ。
暗い波間に、一つの影が落ちるのを、誰が気付いていただろうか。
ゆっくりと陰っていく月を波越しに見上げ、もう一度呟いた。
泳げ。生きるために、泳げ。
故郷のヨークシャーを出立したのはいつだったろうか。
母の丹精した庭には季節毎にとりどりの花が咲き乱れていた。
中でもバラは母の自慢だった。ああ、そうだ、ヨークシャーを出る日にも、庭にはバラの香りが満ちていた。あのバラは今年も咲いただろうか。
いいや、きっともう無理だ。
「ニコラス…」
ふと頭をよぎる懐かしい名前は、心を切なく締め付けた。
まだ何も知らず、幸せでいた日々…
「愛しています」
優しい口づけも甘い囁きも、首筋を滑る骨ばった指の温かさも、みんなみんな置いてきてしまった。
「愛しています…リーズ」
リーズ…もう還らない温かな日々…
すべて、あの朽ちたバラの園に葬るのだ。
今日より私はオリバーだ…リーズは…死んだ…
腕が辛い。
港の灯がひどく遠く霞んで見えた。海の底から見えない何かが足を引っ張ってくるようだ。
いけない。
まだ、こんなところで…
薄れていく意識の中で愛しい過去が囁いていた。
マリ・リーズル様…いいえ、あなたはリーズと呼んで。みんなはマリと呼ぶけれど、これはあなただけに許す特別な名前。
ニコラス…あなただけよ…私の味方は…
日に焼けたニコラスの胸からは土の匂いがし、ささくれた指からはかすかにバラの香りがした。
生まれた時から同じ乳を吸い、同じ布団に眠り、時間と同じだけ、喜びも涙も分かち合ってきた乳兄弟…いいやもうそれ以上の存在だった。
私はあなたと一緒になりたい…そう打ち明けた夜、ニコラスは悲しげに首をふり、ただ口づけだけを残し、二度と屋敷には戻らなかった。
「ニコラス!」
日に焼けたニコラスの胸からは土の匂いがし、ささくれた指からはかすかにバラの香りがした。
生まれた時から同じ乳を吸い、同じ布団に眠り、時間と同じだけ、喜びも涙も分かち合ってきた乳兄弟…いいやもうそれ以上の存在だった。
私はあなたと一緒になりたい…そう打ち明けた夜、ニコラスは悲しげに首をふり、ただ口づけだけを残し、二度と屋敷には戻らなかった。
「ニコラス!」