37 :
M7.74(新潟・東北):2012/09/07(金) 07:14:09.82 ID:tpy5tefvO
仙台市 続き
四日目からは午前中は開いてる店探し。毎日ホームセンターに二時間ほど並び色々買えた。この時に並んでる人の話で大津波で被害者が多数出たのを知る。
午後からは片付けと避難所に配給の食料を貰いに行った。毎食菓子パンと果物一つ、飲み物は一日で500のペットボトル一本だったが大変助かった。
一週間後くらいから近所の小さなスーパーが開き始め水も復旧したのでだいぶ楽になった。
ただ都市ガスの復旧には1ヶ月かかり電気ポットもどこも売り切れだったのでその間水シャワーでしのいだ。顔も水で洗っていたら敏感肌が治った。気が張っていたからか風邪もひかなかった。
1ヶ月後鉄道も復旧し通勤を再開。
マンションの漏水はすぐ治してくれたが、壁の工事は一年半以上たった今でも始まらずいまだにひびだらけ。引っ越せる物件も無いので毎日スリル満点の生活をしている。
以上。長文失礼しました
38 :
M7.74(新潟・東北):2012/09/07(金) 08:04:08.43 ID:KwSHaR3gO
配給なんてなかった。毎日余震に怯えて暮らしてた。
ライフラインは全てダメ。ヤマ○ワとモ○ヤがボッタクリ販売。まだ知人が見つかっていない。震度6強から震度7に訂正され、あれが三分続いた。
記憶が体にインプットされているのに脳からは消えている…
39 :
M7.74(茸):2012/09/07(金) 10:28:49.13 ID:1FS769Ii0
場所書いてない人書いてくれるとうれしいな。
台東区
地震?と思ったら揺れがだんだん大きく
ヤバイと思い屋外へ・・・
あぁ、収まったかと思い室内に戻ると第二波の揺れが・・・
速攻でコンビニに水を買いに走る
家に電話を試みるが「しばらくお待ちください状態」
テレビを見たら津波が着てた、あぁ現場は散らかった物の片付け大変だろうな、なんて簡単に考えてたら大変なことに・・・
当日の夕方に帰宅、千葉からの通勤なんだけど東京〜千葉(約50Km)は 渋滞した車が途切れることなく繋がっていた
@東京墨田区
会社休んで家の近所の美容室でカラーリングの最中だった。頭にカラーリング剤べったり、テルテル坊主姿で屋外に避難。
電線はビヨンビヨン、路駐の車もユサユサ、建設中のビルの足場からガシャンガシャンとスゴイ音がしてて恐ろしかった。
津波のことなど知らず、余震の合間をぬってなんとかカラーリング剤を落としてもらって帰宅。
家の中は薄い本棚、姿見、電気ファンヒータが折り重なって倒れて散らかってた。
携帯電波は死んでるし、津波映像と緊急地震速報の連続と原発の爆発で食欲が落ちてちょっと痩せた。完全にエア被災。
米やトイレットペーパーがどこでも品切れ、コンビニの棚が空っぽっていう状況が信じられなかった。
持たないシンプル生活が好きで備蓄なんてほとんどなかったけど、今は日用品と食料・水は大目にストックしている。
42 :
21(神奈川県):2012/09/07(金) 13:50:13.38 ID:UPO0IIsc0
私も備蓄しない性格だから、買い物は困ったな
子どもが学校から帰宅するのを待ってスーパー行ったら締まってた。
店の中には商品が見えるのに買い物できない事を苦々しく思った。
トイレットペーパーも2ロールしか残ってなかったので買いに行ったら在庫無くて
次の日朝から店めぐりしてやっとゲット。
物にむらがる人たちの殺気が怖かった。
原発もムカついた。
セシウムが大量に降り注ぐ地域の学校は休校にして屋内退避をさせてほしかった。
日本政府や文科省が処置を取ってくれなかったことを今でも恨んでる
@東京新宿 震度5強くらい?
ちょうど会社で面接してた。
グラっと「3?いや4までいくかな?」というのが最初の感想。
地震板にいる自分にとってはそのくらいの印象だった。
面接してた女の子がびびっていたので
「いやすぐおさまるよー」と言いながら冷静に違う話にふっていた。
「結構長いなー」と思った瞬間、「ドガガガ!!」と揺れた。
「うわどこで連動した!?」と同時に「震源どこだ?関東か?」
と思いながら揺れがおさまるのを待って「ちょっと待っててね」と言って
テレビを走って見に行った。
あとはあのテレビで映される惨状をただ見てるしかなく
自分たちも帰宅難民になりつつ夜を明かした。
防災意識が高くて良かったと思ったのは
でかいのがきたら現金下ろす人が殺到してATM止まるって知ってたので
帰宅難民になる可能性が高くなった時に銀行でまず現金を確保した事。
会社にはほとんど現金をおいてないのも知ってたので
その金で買い出ししたりとかで周りのみんなの為にもなった。
そこは地震板にいて良かったと思うとこでした。
@福島沿岸部 震度6
5Fの外階段で作業してたもんだから降りれなくてしがみついてた。
間もなく津波警報→10F建てのビルの屋上に避難
遠くの海が禍々しく赤くうねって、雪が降って地獄絵図だったなぁ
津波で大量の車と家がフワフワ流されてた。消防車も流されてた。
こんなにサーッと流れるもんなんだなあと思ってちょっと笑えた。
寄せては返すという表現があるように、なんせ何回も津波が来るから
家にも帰れず、停電したビルの中で一晩過ごして、翌日ヘドロの中を歩いて帰った。
たばこ屋があいててね、たばこ2箱と、お茶と駄菓子買ったっけなー
たばこなんてあそこまで品薄になるとはそのとき思ってなかったなあ。
その後は支援物資なんて届かねえし、アメリカ産の食品とか買って食ってたよ
ヨウ素剤も配られたな。配るはずの区長がいなかったりしててんやわんやだった。
あと、避難する、避難しないでみんなモメたっけな。
たださ、建設業とかは地域密着型だからね、復旧に携わらなきゃいけないわけよ
いくら原発ポーンしたって、原発に行くための道路は誰が直すの?ってなるだろ
責任感の塊みてえなオッチャンたちに至っては、手伝いで原発まで行くってんだから
じゃあせめて俺たちはここに残ってできることしようってなる
何で逃げないの?馬鹿なの?とか言われたりしたけどさあ
みんな逃げたら水道も道路も停電も直らんだろうがよ。
1ヵ月くらいは断水してたからキツかったなあ。真夏だったらやばかったな
便所は流れないし、手はすぐ汚れるし、女の人なんか大変だったろうね
46 :
M7.74(チベット自治区):2012/09/09(日) 10:35:42.64 ID:MBewGAJO0
age
兄 気仙沼にて被災
当時はアパートの三階の自宅で4時からの夜勤まで、まったりしていた。
立てないほどの揺れ、津波警報も鳴るなか、とりあえず部屋に。
やがて津波襲来。
腰まで黒い油海水に浸かるも、まだ部屋に待機。
というか、動けなかった。
水産加工工場から、真空パックの笹カマが大量に部屋に流れつく。
ロフトベッドの上に笹カマをあげ、一日半、それでしのぐ。
翌日、夕方遅く、自衛隊によって救助される。
家では兄は死んだと思っていた。
48 :
M7.74(関東・甲信越):2012/09/09(日) 16:27:55.99 ID:A/8bp+wBO
壮絶だな
お兄さん助かって良かったね
仙台市街のアーケード内で地震。尋常じゃない長い揺れで、みんながその場にしゃがみ込む。収まるかな?と思いきや、また強くなるのが、何回か続いた。これいつ収まるんだろうと思った。周りの電気が一斉に消えだした。それで、ここ崩れて生き埋めになって死ぬと覚悟もした。
続き。とりあえずアーケード出て勾当台公園に向かった。建物から多くの人が出てきてた。公園にも人がごった返してた。
夜は駅前のビジネスホテルで一晩過ごした。自家発電あって携帯の充電もできたし、トイレも流せた。
街中の学校は一杯ではいれなかったみたいだし。みんな一階のロビー、食堂で雑魚寝。おにぎりかパンもらえてた。余震でみんなの携帯が鳴る度にみんな身構えてた。
また続き。
次の日朝一で車で仙台脱出しました。国道四号線で北上して北東北の実家へ。東北は全域で停電してたので、コンビニは手打ちで行列。道路は段差あったけど走行可能。国道沿いのほか弁がどこも営業してたのが印象深い。
途中電気のついてないラーメン屋で食べた温かい味噌ラーメンが忘れられない。すでにガソスタは行列できてた。
3/12仙台で挙式予定だったな…まだ出来ていない。
52 :
M7.74(チベット自治区):2012/09/09(日) 17:48:18.01 ID:8Rb0sjXF0
津波&原発事故ばかりが注目されがちだけど、
揺れだけの被害ってどれくらいあったんだろう?
新しい住宅で地盤がしっかりしてるなら震度7でも耐えられるけど
古い木造で1階が店舗など柱の少ない構造だと潰れやすいよね。
53 :
M7.74(茸):2012/09/09(日) 19:50:09.77 ID:B3elFrPx0
>>52 揺れによる被害は無かったみたいに世間では言われてるけど全くそんなことない。
倒壊した家屋もたくさんあるし、続く余震で耐えきれなくて解体した家屋もたくさんある。
内陸部でも更地やまだブルーシートのかかった家はあちこちにあるよ。
54 :
M7.74(茸):2012/09/09(日) 20:04:06.02 ID:vwQuQvHk0
秋田で震度5強
家でテレビ見てたら急にエリアメールが入る。混乱しながらも犬抱いて携帯持って速攻脱出。外は車も電柱も道路も用水路もグニャングニャンに揺れてて立ってられなかった。暫くして揺れが収まってからワンセグで状況把握。
55 :
M7.74(茸):2012/09/09(日) 20:07:56.95 ID:vwQuQvHk0
続き
ライフラインストップしてたから、反射ストーブでお湯沸かして炬燵の中に入れたり、近所の商店に行って物質確保したりした。
あの日は、急に雪が降りだして寒かったなぁ…夜になると真っ暗だから星が綺麗で被災中の現実とのギャップで不思議な感じだった
56 :
M7.74(関東・東海):2012/09/09(日) 21:58:03.92 ID:gWnhkcdpO
あげ
>>52 >揺れだけの被害
つ 東京湾精油所大爆発
せいぜい震度5弱でも揺れが30分続いたら、注水して気密検査中のタンクが落下。
原因は補強している筋交い系の柱が折れた後も揺れが続いたため。
59 :
M7.74(東京都):2012/09/10(月) 20:00:46.27 ID:oIxsM/lX0
良スレage
60 :
M7.74(芋):2012/09/10(月) 21:09:45.83 ID:hso1h67+0
震災の時は、まあ、都内で帰宅難民だっただけだけど
震災の復旧で動員掛かって行ったな・・・・
当方設備系エンジニアなもので
あの体験は酷かった、作業事態じゃ無く現地の状態が、酷かった
東京都
午前中にたくさん食料を買い込んだ
さらに買い物しようと出かけたら
目眩を感じて、塀に掴まろうとして揺れに気づく
電信柱は左右にゆれ自動車はバウンドしていた
家に帰ると水槽の水が5センチ分こぼれてた
水ガス電気が途絶えたらどうしよう…と思ったな
テレビで見る津波の凄さに圧倒された
>>57 会社の20階から精油所爆発と火の玉があがるのを見ていたよ。黒い雲が広がってたからなかなか不気味だったのを思い出した。
東京東部だけど、揺れは強いのは一瞬で、後はずっと大きく揺れてた。会社で待機っていっても臨月の奥さんがいたり、子供を預けている保育園が泊まりNGで帰らなくてはいけない人は多かったな。
スルーされがち、風評もひどい栃木です。震度6強でした。家の中はめちゃめちゃ、停電もしました。怖がる子供たちをなだめながら夜明かし。地域によってはまだ倒壊した建物や塀がそのまま。なのにほとんど補償なし…。もうあんな揺れはいやだ。
福島の中通り。
一晩中地震警報が鳴りっぱなしで、ガスが止まっただけだった。携帯は受信すらできなくて使えなかった。一年半経つけどいまだ家の修理する大工さんが工事を始めてくれない。
65 :
M7.74(チベット自治区):2012/09/12(水) 06:26:31.25 ID:C0oTQPm+0
復活捨てレス
東京都新宿区
客と電話中にゆらゆら始まって「地震ですぇ」なんて言ってたら大地震。
まさか机の下に本気で逃げ込むコトになるとは。(プレハプ構造なんで揺れがすごい)
ウチの部長は直ぐに「社有車(1BOX)で方面別に女子優先で帰宅」を指示してるのに
会社は「明日(土曜)仕事があって必要がある者のみ」とか言い出して車利用を禁止。
しかも定時まで仕事との指示。当日は反発がすごかったな。
でも後から考えれば会社が正しかった。
なにしろ新宿→大宮5時間。途中、居眠りによる追突事故現場10箇所くらい有ったし。
千葉方面なんて10時間掛かったらしい。
一晩泊まって始発電車での帰宅が正解だったな。
そういう判断じゃねーだろ
全然正しくない
たまたま
仙台駅
東京から仙台へ。到着は1時半頃、友達との約束まで時間があったので、駅ビルのSパルというところへ入った。
地下の食品売り場へ行こうとエスカレーターに乗ったら地震。
停電、それからどこからか煙が上がった。
店員さんが慌てふためいていたので、避難誘導などはまったくアテにならず。
館内放送はしていた。
でも、ビル内に詳しいわけではないから、出ようにもどっちが一番近道か判らない。
煙も多くなってきて、中も地震でめちゃくちゃ。ガラスは飛び散っているし、まだ揺れているし、歩くのが困難な状態。
とりあえず周りにいた人と協力しあって、外に出る。
それまで30分くらいかかった。
※ちなみにエスパルは3階建て?くらいで、それほど外に出るのに困難な複雑なビルでは無く、通常ならどんなに中を知らない人でも出口が遠くても10分あったら出られる
その後は友達にも連絡がつかず、孤独な中、予約していた駅近のホテルへ向かう。
ホテルは「宿泊できる状態では無いので」と断られるが、他にどこにも行く所が無く、そこにいた。
暗くなってきてから、とにかく泊まらせてくれ、と頼み込んで部屋へ通してもらう。
部屋はガラスが割れ、暖房も電気も無く、えらい寒かったがとにかく一夜を過ごす。
その後、偶然だが新幹線で一緒だった方と再会し、車で東京へ帰るところを同乗させてもらう。
…という友達の談でした。
自分はその頃、津波被災地を駆けずり回っていました。
せっかく遊びに来てくれた友達にも、つらい思いをさせてしまって後悔。
皆様もあまり行かない場所にいるときには、避難経路を確認して下さいね。
煙が出ると、本当に出るのが困難なようです。
↑の経験談は地元民からすれば、「えっエスパルのあの辺りから出るのに30分?!」な感覚です。
私も仙台にいたよ〜実家帰省中でした。
災害はいつ、どこで来るか分からないし、事が起こってから慌てても遅い。
日頃から危機感を持って準備したいと思う。
とりあえず水と飴玉は鞄に常備するようになった。
71 :
M7.74(庭):2012/09/14(金) 03:37:57.42 ID:r6yUGM0Z0
練馬の職場にいたが建物が壊れるんじゃないかと思うほど揺れてる中
給湯室のガスの元栓を締めに行った奴がいた
基本的に揺れてる最中は身の安全確保が第一で
俺が避難路を確保して外に逃げましょうと何度も言ってるのに
そいつは建物の中のチェックとかし出してヒーロー気取りかよと思って腹が立った
社長も自分の城なもんだから軋み具合に気を取られてなかなか外にでない
俺一人だけ外に出るわけにもいかず出入り口付近で少しイラついた(結局一人で外に避難した)
なんかその事がやけに腹立たしく印象に残ってる
その後も震災関連の言動で人間性についていろいろと考えさせられた
72 :
M7.74(庭):2012/09/14(金) 17:59:23.22 ID:CqE8yZgW0
南相馬の眼科にいた!駐車場の車がうねっててビビった
出産で千葉から神奈川に帰省中。
子供が昼寝をして、母と妹と談笑していたら震度3くらいの揺れを感じ、地震だねーなんて言っていたら急に体験した事がない揺れを感じて、慌てて子供をバスタオルで包み、抱きかかえて外にでた。
階段から降りる時も誰かが押してるんじゃないかと思うくらい上手く降りれず、外の危なくない場所でしばらく待機していた。
揺れが収まってから家に戻ると食器棚が全開で食器が割れてめちゃくちゃ状態。
いつまた地震がくるか怖くてすぐ片付ける事も出来ず、とりあえず母が勤めてる病院に私と子供は避難させてもらった。
夕方家に帰ったが、停電で暗くて寒くてすごく不安だった。
母がコンビニに食料を買いに行くもすでに何もない状態だったらしく、気が動転してしまったのか何故かサラダ一つを買って帰ってきた。
夜22時過ぎくらいにやっと電気がついてTVを見た時の衝撃は忘れられません。
子供を守らなきゃと気が張っていて地震からしばらくは夜眠れず、いつでも避難出来る準備をしていました。
ここ最近、少し油断していましたが書き込みながらあの日の恐怖や不安を思い出しました。
備えあれば…ですね。
また防災グッズを見直します!
ちょうど自宅にいたな。@千葉
買い出しや給油が終わった静かな金曜午後。
阪神の時のような長い微動。その後大揺れ。
あわててTVをつけると震源は数日前と同じ。というか液晶TVが落ちそうなので支えていた。
いつまで経っても収まらないから半ば強制的にTVを見ていた。
仙台市
あの日は夕方から仕事で、14:48のバスに乗るため家の最寄バス停にいた。
初めはそんなに強い揺れではなかったので、同じくバス待ちしてた人と
「揺れてますね」と呑気に話してた。
バスが来て、乗ろうとしたところで激しい揺れ。
バスに乗らず走って家に向かう。
道路は尋常じゃないくらい波打ち、走っても走っても家に着かない。
実際には走れば1分で着くんだけど。
家に着いたらもちろん停電・断水。
携帯は通じず、誰にも連絡つかないし、ラジオも普段聞かないのですぐには手元にないし、
とにかく情報がなかった。
近所の人が車の窓を開けてラジオが聞こえるようにしてくれる。
とんでもないことが起きたとやっと気付く。
あの日の夕方の空の色と、夜の星は一生忘れない。
結局、電気の復旧まで4日、水は20日くらい、ガスは1ヶ月以上かかった。
ほんとに生きるのに必死な日々だった。
そしてS○ftBankは使えないと思った。
仙台市のアパート二階
旦那の仕事が午後から深夜シフトだったので、
午後1時に起床しベットやソファーっテレビをみてた。
ぐらっぐらっと揺れを感じて「地震?」と思っているとだんだん揺れが強くなり。
それで終わるかと思ったらまた一段と強くなり…
怖いと思いながら私はベットの上で弾むしかなかった。
旦那はソファーから立ち上がったが近くの柱を掴む形でしゃがみこんだ。
部屋の蛍光灯は天井にぶつかるんじゃないか?線が切れて飛んで来る気がした。
見ていたテレビは揺れの途中で点滅しだし…そして蛍光灯と一緒に停電で消えた。
テレビ台の真ん中から前方の端までいって斜めに止まり。
パソコンのモニターは一回転。
いろいろな物が落ち倒れ揺れは止まった。
お互いに怪我がないことと部屋を見渡して旦那は職場に。
私は1人は心細いので外に出た。
いつもの近所がちょっとづつ違ってた。
お店の看板が落ちかかっていたり、お店のガラスが割れていたり。
壁面のレンガが崩れ落ち道路に散乱し、横から家の中が丸見えな家もあった。
水道菅が破裂したのか水が吹き出してた。
信号は当然機能してなくて車同士が譲り合い、横断歩道の脇に歩行者が来ると歩行者を渡らせていた。
コンビニは人でごった返していた。
非常電源で最低限の明かりで手打ちの電卓計算で非常電源が切れるまで…
何度も来る余震の中営業してくれた。
何が起こったのか情報がないなか、もしもを考えてキャラメルと飴と飲料、水に流せるティッシュと携帯の緊急充電器を買った。
規制やいつ繋がらなくなるかわからないのでコンビニを出てから実家に
「2人ともぶじ」とだけ送って三十分後携帯は2.3日時計代わりにしかならなくなった。
千葉県市原市
家に居たが外に避難、家の中の物が少し落ちただけだが
その後数キロ離れたコスモ石油が大爆発
空面真っ赤で巨大な火の玉が壮絶だった
東京都多摩西部
書斎兼寝室でダラダラ読書していたら例の揺れ。
「ついに来たか関東大震災!おらっしゃああ!」と何故か叫び
何故か自分自身に気合いを入れる。
いま思えば無謀だけど必死に本棚を支えていた。
本棚の上にプラモやクリスマスの飾りが入った軽い段ボールが積んであったのが、全部落ちた。
揺れがおさまってマンションの廊下に出ると他の部屋からもワラワラと出てきて互いに状況報告。
我が家の被害らしい被害は段ボールや写真たての落下程度。被害とも呼べない。
ところが部屋によっては食器類が全部落ちて部屋の中がえらいことになってた。
同じマンションなのに部屋によって物品の落下具合にかなり差がある。
どうやら揺れが一方向であったために振幅に対して垂直に面して設置した食器棚が全滅だったらしい。
うちはたまたまラッキーだった。そんなこともあるんですね。
3年生を送る会?てきな事をしていたんだが
途中で電気がバツン!と消えて
なんかの演出かな?と思ったら
がシャンがシャン揺れ始めた
誰も怪我しなかったんだがあれはいい体験になったのかもしれない
仕事中に遭遇
屋外に避難した人もいたが中で様子を見ていた人は(俺含む)
大きくなったかと思ったらもう動けない程の揺れ
建物がどうにかなってしまうかと思うほどの本震が2度位来て
とりあえず収まってから広場にみんな集まったが余震が止まらない
40分後自宅から車で逃げたがそばの道路まで湖状態・・・もう絶句
高台でなかったらどうなっていたか・・・
あげ
82 :
M7.74(禿):2012/09/17(月) 22:05:35.79 ID:SiBGIaz0i
都内で雲助やってるが地震直後にお巡りが消えたのをよーく覚えてる
余震があるなか八重洲口までお客を運んでいてやたら白バイやパトカーが都心部へ
周辺のビルから出てきたと思われるヘルメットが不似合いなOLなんかを見た
本来なら違法だが客が下車した後いつもの縄張りまで回送
あちこちでタクシーを求める手が挙がったが縄張りエリアのお客優先
途中わざと台場を回って糞テレビ局を冷やかし
その後縄張りのタクシー乗り場に戻るも取り合いに
本来なら乗り場の前に手を挙げた人優先だが苦情覚悟で並んでいる人を乗せた
行き先は海浜幕張
4時間並んだらしい
そしてこのお客の転機で千葉県方面の人を乗り合いにして出発
R357は全滅
何処を走っても大渋滞
そして何処の交差点もお巡りが居ない
同業者が疲れたのか渋滞で眠くなったのかオカマ掘り事故多発
私の車はワンセグでお客と共にテレビ見たり休憩取りながら6時間かけて海浜幕張到着
船橋や八千代経由だったから
帰りは思いの外早く都内の営業所着
しかし明けで自宅に帰る電車がなかなか来なく来ても積み残しで参った
食料や水はかみさんが買い置きする習慣があり最低限は確保
お互いサントリー天然水愛好家でかみさんの友人が島根から10ケース贈ってくれた
届けてくれたクロネコのおじさんに1ケースあげたら深々お辞儀してお礼言われたのを今でも覚えてる
因みにその後恐ろしく暇になったw
83 :
M7.74(茸):2012/09/18(火) 11:29:25.88 ID:lEm5yOpH0
ちょうど夜勤の日で仕事の前に買い物をしようと思い近所の100均へ
店に入ってから5分くらい経った頃に店員さんがザワザワしだして異変に気付き立ち止まった。
まだこの時は微震程度ゆーらゆーらくらい。
店員さんの誘導があり店外に退避。
その直後立っていられない程の揺れ。近くにあった車に見知らぬおば様と掴まるも、車も揺れすぎて意味なし。とりあえずしゃがむ。
周りのスーパーのガラスが割れる音や電線がしなる音が怖かった。
揺れが収まり始めたので車に乗り込んで帰ろうと思い走り出すも信号が消えていたため他の車両と譲り合いながら走る。
家へ帰る為に橋を渡る必要があるのだが液状化の為地盤が沈下したみたいで橋と路面に30センチ近い段差があり立ち往生、抜け道を使って帰宅、直後に大きい余震。
母親が家から飛び出してきた。
家の中は仏壇を除いては無事?グラス数個と食器が犠牲になった程度。
余震が頻発する中とてもじゃないけど家中に居られず、毛布と懐中電灯とラジオを持ち出し車に待避、シガソケから携帯充電しつつワンセグを見ていて事の大きさに気付く。
それから夜になり寒さと結露と戦っていると、裏のお宅が火事でとても寝られる状況じゃなく、この日は徹夜しました。
父親は仕事で宇都宮にいましたが、家に帰って来るのに11時間かかったそうです。
それから一週間後には電気復旧しましたが輪番停電が唯一実行された地域だったので、朝から用足しに追われました。
311から2ヶ月間断水していて給水所のお世話になりましたよ。
未だに水道も夏場はお湯が出てくると言う不備がありますが、本当にありがたいです。
>>82 乗り合いの場合って、一人途中で降りたりしたら
料金どうなるんですか?
不満が出ないように割り勘が基本だろ。