398 :
M7.74:
経済活動、企業活動も大事だ。
しかし、人々の平穏な生活があってこそ、企業活動も成り立つ。
その平穏な生活の基盤が、根底から破壊されようとしている今、各企業も
それに備えた戦略、対策をあらかじめ立てておかなくてはならないだろう。
いずれにしても、地震後しばらくは、どの企業も通常の生産、営業活動はできなくなるのだ。
業種によっては、ポスト地震の対策で事足りるだろう。しかし、原発のような特殊施設を
抱える電力会社の場合、プレ地震の対策が求められて当然である。
国家や民間こぞって叡知を傾けて、震災を極力最小限にとどめる努力をしなくてはならない。
原発の一時停止も、英断されてしかるべきである。
399 :
M7.74:04/05/04 05:50 ID:PsyIezZ3
危険を回避したいという、強い意志と願いを、ひとりひとりがもたなければ停まらない。
その意志と願いを、一人でも多くの人に、迅速に伝達させなくてはらならない。
「その時」は、刻々と近づいているのだ。
400 :
M7.74:04/05/04 05:54 ID:PsyIezZ3
「地震」は避けられない。しかし、「災害」は、知恵と努力によって最小限に食い止める
ことができる。何十万、何百万の命が失われるか、否か。これから、短期間の
日本人ひとりひとりの判断と、行動とにかかっている。
401 :
M7.74:04/05/04 05:56 ID:PsyIezZ3
このままでは、金儲けだけを考えて自滅した、
歴史や状況の中で、主体性を発揮できなかった、
愚鈍なエコノミック・アニマルの汚名を
日本人は、歴史にとどめることになるかもしれない。
402 :
M7.74:04/05/04 06:20 ID:PsyIezZ3
くりかえすが、生活圏の直下を襲う、プレート型大地震は、150年前の安政大地震、
80年前の関東大地震以来日本人は経験していない。近年の北海道、東北のプレート型
地震、いずれも震源は陸地から遠く離れた海底が震源である。
どんな破壊のエネルギーが、日本の中枢に近い地域を襲うか、予測が立たない。
原発に対する「国の基準」というが、プレート型地震の震源地の真上に立てられた
原発は、浜岡原発しかない。浜岡にだけは、特殊な基準が充てられなくてはならない。
一般的な「国の基準」に従っているからといって、安全は何も確保されない。
403 :
M7.74:04/05/04 06:32 ID:PsyIezZ3
「稲村の火」という物語を知っているだろうか。150年前の安政地震時のある実話を描いた
物語である。モデルはヤマサ醤油7代目濱口儀兵衛。一人の青年の叡知が400人の村人の
命を救った。
404 :
M7.74:04/05/04 06:35 ID:/FSDuZqq
(一)
「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、
別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、
うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なもの
であった。
五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う
宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようで
ある。
村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風と
は反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて
きた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。
もう一刻も猶予はできない。
405 :
M7.74:04/05/04 06:36 ID:/FSDuZqq
(二)
「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。
そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲
むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一
つ、五兵衛は夢中で走った。
こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで
失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、
あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。
山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、
村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の
後を追うように駆け出した。
高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく
思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しに
かかろうとする。五兵衛は大声で言った。
「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」
406 :
M7.74:04/05/04 06:38 ID:/FSDuZqq
(三)
村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を
一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる
代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、
細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な
速さで押し寄せてきた。
「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、
山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、
陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進して
きた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白
い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何
の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあ
きれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包ま
れたあたりを明るくした。
はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま
五兵衛の前にひざまづいてしまった。
407 :
M7.74:04/05/04 06:43 ID:/FSDuZqq
408 :
M7.74:04/05/04 06:52 ID:/FSDuZqq
この物語の中に、二種類の登場人物が存在する。
(1)目の前の畑仕事に一生懸命に追われる村の人々。
(2)巨視的な視野、前後の脈略のなかで、より広い状況的、歴史的な判断のできる村のリーダー
の存在である。この二種類の人々の存在があって、共同体は健全に維持できるのだろう。
原発を稼働させ、地域に電力を供給する。これも大事な仕事である。
しかし、目先の業務に追われて、(2)の巨視的で、状況的な視野・判断を失っては
共同体に破滅が訪れる。共同体を襲う不測の危機を乗り切ることは(1)のあり方だけ
では、不足である。
それで、浜原は止まったのですか?
これだけやっててまだ、止まらない・・・
早く止めろ!!
利権にたかる糞蠅どもめ!
410 :
M7.74:04/05/04 06:57 ID:/FSDuZqq
日本人は、(1)のような生き方が、生来合っている。
しかし、(2)のような、真の主体性をもったリーダーが、なかなか現れない。
国、企業、自治体の中に、(2)のような勇気ある判断のできるリーダーが、
今こそ必要とされている。
でなければ、この危機は回避できない。
特定のリーダーに、そういう主体的態度を期待できないならば、国民ひとりひとりが
(1)のような、日常的な地道さを維持しながら、(2)のような、巨視的な視野や判断力
を持つしかない。それが、国民主権と、民主主義の真の意味であるかもしれない。
ほとんどの日本人が、リーダーとよばれる人々すらが、(1)の村人的態度で精いっぱい
なのが、この国の現実なのだが。
411 :
M7.74:04/05/04 07:02 ID:/FSDuZqq
村の庄屋、五兵衛が、自分の畑の稲むらに火をつけて、村の人々の命を救った。
そういう痛みや犠牲を伴う、勇気ある判断を、国の長、企業の長、自治体の長に
求めたい。人間の命がなによりも尊い。その当たり前の、価値判断が、
まもなく訪れる大災害の危機に備え、全うされることを、私は強く求める。
412 :
M7.74:04/05/04 07:27 ID:EC4n8W/C
原発が逝かなくても、万を超える人々の命が失われる。
中央防災会議の被害想定によれば、東海地震による死者は最悪2万8000人。この数字は、
通常の建物倒壊、火災、津波による想定であり、高速道路、鉄道、工場、コンビナート、
そして当然原発の倒壊、破壊による被害は数えられていない。
被害のおそろしい実体を、ひとりひとりに想像してほしい。
静岡、愛知の海岸線一帯の町や村は、津波により壊滅。
海底深くに流されるたくさんの人々。
それを為す術もなく見守る人々。
あちこちで拡がる大火災。
ねじくれ倒れる東名高速。新幹線高架。
寸断される都市ガス。ガス漏れ。あちこちで起こるガス爆発。
無数の木造家屋、ビルディングの倒壊。
生き埋めになる人々、建物や人が燃える煙、匂い。
逃げ惑う人々。パニック。
被害があまりに広域に渡るため、阪神大震災のときのように十分な救助隊も行き渡らない。
食べ物、水も十分に供給はされない。周辺地域に押し寄せる避難民の波。
地震時に人の命を奪うのは、主に人間が作った建造物である。
150年前なら、背の低い、小規模の木造建築しかなかった。
しかし複雑で、巨大な構造物が、狭い土地に密集する現代では、被害は150年前の比ではない。
原発が逝かなくても、展開される阿鼻叫喚の地獄絵図。
これに、原発震災が加わったら、いったいどうなるのか。
想像してもらいたい。
http://www.bo-sai.co.jp/tounankainankai.htm
414 :
M7.74:04/05/04 09:44 ID:3hcKSqFa
415 :
M7.74:04/05/04 10:30 ID:EC4n8W/C
「稲むらの火」が物語る教訓その二。
結論から言うと、
●日常を守るだけでは、日常は守られないということ。
●日常を守るためには、果断な非日常的行動が必要であるということ。
を物語は語っている。
目先の日常生活に追われる人々に、言葉による説得や理論武装は効き目がない。
秋祭りに浮かれる人たちに、「津波が来るぞ、逃げろ」と叫んだところで、ぴんとこなかったろう。
村人を動かしたのは、稲むらに火をつけるという、五兵衛の果断で非日常的な行動だった。
同じように、周りの人たちに、浜岡について話しても笑われるだけ。
ほとんどの人たちは聞く耳も持たない。馬の耳に念仏。
サヨクだ、頭が変だと一笑に付される。
大衆や世論の支持をとりつけるなどということは、おそらく不可能に近い。
たいがいの人は、(1)の村人的生き方の中で、日常が永遠に無事に過ぎて
いくものだと思い込んでいるからだ。畑さえ、きちんと耕していれば、無事に人生が過ぎて
いくと考える。「おかみ」が、きちんと自分たちの生活を考えてくれていると安心している。
そして、自分たちの日常を脅かすような、人間や考えや言動に極端な嫌悪感を示す。
時に日常を否定しなくては、日常そのものが危うくなるというジレンマを
日常が抱えている事実をほとんどの人は知らない。日常が、超日常的な叡知と判断と注意深さをもって
守るべきものであるということを、ほとんどの人は知らない。
自分たちの日常が寸断される経験をほとんどの日本人は持たないからだ。
寸断されたときには、もうおそい。次の地震は、150年後。
日常の維持のみに汲々として日常を滅ぼし、
教訓は再び、日常の繰り返しの中で、鈍磨され、忘れられていく。
中電も、「国の基準に従ってますから・・・」と言って、(1)の村人的態度に徹しようとする。
誰が、日常を守るための、非日常、超日常の鉄槌を果断に下すことができるのか。
稲むらに火をはなてるのか。
非日常への跳躍の勇気を持つもののことを、「英雄」と呼ぶが、
この国の為政者たちの中に、英雄はいるのか、いないのか。
416 :
M7.74:04/05/04 11:02 ID:EC4n8W/C
日常を守るための、超日常的な叡知と判断と意志と注意深さのことを「想像力」と呼び、
それらによって結晶化され蓄積されたものの総体を「哲学」と呼ぶ。
また「哲学」や「想像力」をもって生きることを「勇気」と呼び、
自己変革のための動力でもある。
「想像力」と「哲学」と「勇気」をもって判断し行動することを「責任」と言う。
この国のリーダーの多くが、これらを欠いている。
彼らの多くは、(1)の村人の一人に過ぎない。
中部電力が、「国の基準に従っています」といって事足れりとしているのは、
まったく無「責任」としかいいようがない。それを放置する政治家たちも同様である。