>>652 >「迷う」といふのが、私には理解できませんですね
教えを聞いて、その教えを「見解」として持ってしまう、ということです
例えば、仏は、善悪の分別をするという衆生の理解に従って、善悪の二つを説きます。
それは、悪を転じて善ならしめんとするためです。
(世俗諦:悪 → 勝義諦:善)
しかし、この教えを聞いて、「善こそ至高!悪こそ低劣!」のように、
「見解」として持ってしまう者が出てくる。彼は、諸仏が、抜苦与楽の方便として、
「善悪」を説いたという理解がないのです。
「善悪」と聞くと、「善悪」なる実体がどこかにあると思い、善を賞賛し、悪を蔑みます。
そこで大乗になると、「善悪」は、縁起によって生じた虚妄なるもので、それを仮に善悪と仮説したということ、
それは、更なる勝義諦として明かされる「善でもなく、悪でもない、ありのままの世界(涅槃・戯論寂滅)」へ
至らしめるための教法、筏だったことを明かします。
(世俗諦:善、悪 → 勝義諦:善にもあらず、悪にもあらず)
このように、善にも悪にも偏らないことが中道です。「苦・楽」や「有・無」を代入してもOKです。
ですから、「善・悪」という言葉は、諸仏が用いれば戯論寂滅へ導く方便になりますが、
凡夫が使うと、見解・戯論にもなり得ます。有所得とも言います。
>お気に触ったのでしたら御免なさいね
いえいえ、興味を持って聞いてくださる分には全然大丈夫ですよ