>>688 >諸の因縁を受けて生死中に輪転する
>如実に顛倒を知らないが故に五受陰に因って生死を往来する
>私【?】にとっては是れが実である
う〜む、まさしくその通りなんだよ。
「生死中に輪転」しておったなら、それだけで法は見えてこんのです。
だからこそ拙者は、裁断断滅のその、その刹那を悟れ!!。と、このように言うとんのです。
ではなに故に凡人はこの刹那を悟れんのか?
それは「自らの日常という時制の流れに埋没しちまう」からです。
日常のいう流れを断滅するために禅定といふのがある。
しかし大事なのは、
禅定といふのは「日常といふ延長線上にある」。のではないのです。
これを凡人は誤解しちょるのです。
日常そのものが禅定である。これが日本禅及び中国禅の源流なのであります。
(禅宗・中興の祖・慧能以降の南宗禅からです)
まあ、詳しいことは書かんけどね。
曹洞宗では、坐禅せん修行僧もおるくらいですから。
この修行僧の方が、本来の南宗禅の法灯です。