相は性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されるようになる。
三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。
また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如と呼ばれる。
その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。
しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。
認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。
なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。それは心が無となり、感知が無となったのである。
それは、
世間を超越した認識であり、
煩悩障(自己に対する執着)・
所知障(外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、
阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。
これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。
それを得たものは解脱身であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。