ちょっとお邪魔します。
「正義ではなく、暴力でもなく、勘定で考えるべきだ!!
私は、正義が大嫌いだ!
正義の名の下にどんな悪逆非道も行われるからだ。
過剰防衛が侵略であると同じに、
過剰正義(賠償継続請求:ゆすりたかり)も侵略である!
朝鮮人中国人の被害者意識は侵略そのものだ!
正義も防衛も過剰にならないように、節度と一回性が求められる。
自己に対しては継続的に求められるが、
他者に対しては決して継続的であってはならない。
サンデルの問い掛けは、しばしば2択である。
2択はわかりやすいが、同時にサンデルの出す価値基準一つのみに左右される。
これに対抗するためには、こちらからも価値基準を提出し、
選択肢を4つに分解したうえで、サンデルの思惑ではなく、
こちらの思惑で判じるべきだ。
ブレーキの間に合わない列車が轢き殺す死人は5人か1人かどちらがよいか
というサンデルの問い掛けが有る。
是に対しても、味方か敵かという価値基準を加える。
どちらも敵なら5人のほうを殺す。
敵味方の2択なら敵のほうを殺す。
どちらも味方なら1人のほうを殺す。
さらに、これに1人のほうが5人よりも価値が高いという価値基準を加えてみる。
その価値が、身分なのか謝礼なのか有能なのかは色々あるだろうが、
殺す相手が逆転する可能性は有る。
敵の雑兵を5人殺すより敵の将軍を1人殺したほうが戦果は大きいからだ。
無論、人数以外どんな判断も認めないという頭の固い教条的害悪人道主義者なら、
ためらわず1人を選ぶだろうし、
正規のルート以外認めないというのなら、5人を殺すべきだろう。
どちらにしろ、判断者の立場や思想に左右されるものであり、
絶対的な正解が得られるものではない。
得られるものではないが、敵を生かして味方を殺すような判断だけは、
明らかにおかしいということは言える。
そして、今の日本やドイツやパレスチナが強いられてる状況とは正しくそのようなものだ。
正義などというものは、所詮立場に左右されるものであり、絶対ではなく相対である。
己の住む共同体の中でのみ絶対であり、他の住む共同体の中でも通用するとは限らない。
二つの異なる共同体において、同じ価値観なら何も問題は無い。
違う価値観でも接触が無いのなら、これも何の問題も無い。
二つの異なる共同体において、違う価値観で接触があっても、
一方の価値観をもう一方に「強制」しないのなら、ひとまず問題とはならない。
一方の価値観を「受容」するか「拒絶」するかは、もう一方の判断に委ねられるからだ。
「強制」するときは即問題となるが、これも「受容」と「拒絶」の結果に左右される。
まず完全に「拒絶」されるなら問題ではない。
次に完全に「受容」されるときも同様だ。
問題は、「拒絶」と「受容」に二分されたときだ。
二分されてもお互いにそれが何の不利益も与えないのなら何の問題も無い。
問題となるのは、その「受容」がその共同体に於いて明らかな損害となっており、
夥しい犠牲を生み出し続けているときだ。
これは「強制」した側にとっては正義であっても、された側にとっては間違いなく悪である。
そして、この問題がずっと続く場合がある。これには正悪の対立が存在し続ける。
続かないようにするには、速やかに「拒絶」するか「受容」するかしかない。
もはや正義の問題ではなく、暴力・武力・戦争・軍事の問題である。
例えば、トマトを食べる人と食べない人がいる。
トマトは白人の新大陸到達以来世界中に広まったものだが、これは好みの問題であって、
お互いに何かの損害をあたえるわけではない。
むしろ新大陸の農産物の多くは、人類の食生活をより豊かにしてくれた。
これは二分の「受容」としては良い例である。
次に、白人の進出は新大陸に様々な疫病を齎した。
これによって先住民の人口は激減し新大陸は白人の天下となった。
この大量死の過程においては明らかな「拒絶」が認められようが、
拒絶する人たちはその多くが速やかに絶滅・壊滅してしまったのであり、
問題にしたくても終わったことには手の下しようが無い。
これは二分の「受容」としては悪い例である。また、「拒絶」の失敗例でもある。
ここには正義はなくただ暴力のみがある。
正義が度を越して横暴という暴力に変じたのだ。
この「横暴」という暴力を倒すには、「武力」という暴力を持ってする以外に無い。
白人は日本や中国に大量に宣教師を送り込んだが、その侵略性が明らかになるにつれ、
すみやかに迫害・追放・禁教が行われた。これは「拒絶」の成功例である。
そして、正義ではなく暴力が是とされ、暴力が正義に打ち勝った例である。
「武力」が「横暴」を追い払ったのだ。
今度は現代で考えよう。
日本文化は世界のあらゆる方面に進出し続けている。
ネットの書き込みにあったが、日本文化は幸せな「浸透」なのである。
それが己を変えてしまうことは「受容」する側にも分かっているのだが、
それはあまりにも心地良くて抗えないのだ。
しかも、これは「受容」の選択であって決して強制ではない。
「拒絶」する人とも立派に「共存」し合えるものだ。
翻って、賠償や謝罪を要求し続ける中国人、朝鮮人、韓国人はどうなのか?!
どれだけ日本が謝罪をくりかえそうとも決して双方を納得させるものとはなりえていない。
どれだけ続けても特亜の満足は得られず日本の国益も奪われ続ける。
特亜の欲求の行き着く先は日本人の財産と生命の完全な消滅、屈従しかありえないからだ。
これは明らかに「拒絶」と「受容」が拮抗した問題となっている。
つまり、「受容」の悪い例であり、「拒絶」の失敗例だ。
同様のことが、ドイツとパレスチナでも行われ続けている。
そこにあるものは、もはや正義ではなく「横暴」という暴力なのだ!!
「横暴」を倒すためには「武力」こそが求められるのだ。
また、人道主義において、欧州では外国人の受け入れが続いたが、
移民たちは決して欧州の文化を受け入れようとせず、自己の文化を守り続けようとしている。
受け入れ側の能力を超えた大量の移民は明らかに侵略である。
各地で迫害と追放が行われているし、これからも続くだろう。
これが「拒絶」の成功例となれば、正義ではなく暴力が是とされ、暴力が正義に打ち勝った例ともなろう。
「武力」が「横暴」を追い払うのだ。
以上で言える事は、先の大戦に代表される「暴力」はたしかに人類に不利益を与えたが、
戦後の人道主義という「正義」も同じくらい人類に損害を与え続けているということだ。
防衛は正義であるが、過剰防衛は侵略という悪だ。それはお互いに不愉快な思いをさせる。
正義は防衛であるが、過剰正義もまた「横暴」という悪だ。
これもお互いに不愉快な思いをさせるからだ。
たとえ良かれと思ってやっていても、紛れの無い罪悪である!!
防衛という「暴力」は行き過ぎてはいけない。
人道という「正義」も行き過ぎてはいけない。
二つとも自制・節制・抑制しなくてはならない。
そのためには、中庸だの公正だの中立だのといった言葉遊びは独りよがりにすぎず、何の解決にもならない。
むしろ己を公正中立正義と言い張るものこそ疑わしい。
右から見れば己は左に見え、左から見れば己は右に見えるのに、
またそう見えるだけで己を中心と考えることこそ、勿論それが自然な本能ではあるのだが、
それを他者に押し付けることこそ不正であり、偏向である。
私が鳩山や民主党やマズゴミを毛嫌いする所以である。
つまりは、
己の立場を確かに言い表すことこそ求められるのであって、
これは決して正義でもなければましてや暴力でもない。
そして同時に、相手の立場を確かに言い表すことも求められるのである。
これこそが「勘定」である。
「勘定」とは、己と彼の立場を一つづつ数え上げていくことである。
もれなく数え上げて、己と彼の立場の何が同じで何が違うか確かにし、
お互いの立場を明らかにし、立場を分け合う。
お互いの立場がわかってこそ初めて「正義」でもない「暴力」でもない解決策が得られる。
つまり、
お互いにお互いの立場を認め合えるのなら付き合えばいい。
お互いに認め合えないのなら付き合わなければいいだけの話である。
お互いに認め合えないのに付き合おうとするから問題が起こるのである。
なのに、無理矢理付き合おうとするものこそお互いにとって害悪なのだ。
それが横行して様々な問題が引き起こされているのが、現在の国際社会なのだ。
つまり、「受容」と「強制」と「拒絶」を弁える。
「受容」は「正義」の前提であり、「拒絶」は「武力」の前提であり、
「<否>強制」こそ「勘定」の前提である。
他者に決して強制してはいけないのだ。決して無理をしない。
これこそが「勘定」である!
つまりは「住み分け」であり、
軍事でいえば、国境線の確定と安定である。
経済でいえば、貿易と国庫の黒字である。
この二つの目的のために、地政学はある。
それは、一つの結果に集約される。つまり、格差の少ない適度に安定した人口である。
それは、社会身分はゆるやかに流動しつつも、
いかなる天災戦災にも対応しうる国家体制なのである。」
以上、お邪魔しました。