卍 お経を自分で勝手に解釈して観る 【臨時 避難

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凡夫とか アートマン(常住不滅の自我)などに
関する信仰体系を学び修習してきた人達は
色(身体)の中に常住不滅の自我が
有ると言う偏った考え方に固執して
そして求めて心の奥深くの望みに応え様とする

例えば
常住不滅の自我が有ると言う気持ちを失うと
次に 新しい概念とか 新しい解釈などを考えて
又 それに固着しようとする

 ↑ 参考文献
   仏法―テーラワーダ仏教の叡智(単行本)
   ポー・オー・パユットー(著) 野中耕一(翻訳)
   70ページの  上から17行目の所
33:10/06/05 15:47 ID:o1/5vHIg

>>32  の続き!

そして  私【?】は ↓

アートマン(常住不滅の自我)などに
関する書籍などを勉強してきたので
色(身体)の中に常住不滅の自我が
有ると言う偏った考え方に固執して

そして
求めて心の奥深くの望みに応え様と
しているので御座います!
34:10/06/05 16:20 ID:426TJk7M
そしてこのスレに舞い降りたので御座います
我執というものは第七マナ識が第八アーラヤ識に対して起こすのです
だから、アーラヤ識は無我なんですね
そこにマナ識は自我を観る訳です
感じるんです
それは虚妄であり、誤解であり、錯覚なのですがしようがない
何故なら過去の業が既に種子に薫習されているからです
この場合、アーラヤ識は無我ですから過去といっても過去世つまり前世をいうのではなく、現在になる一瞬前の過去をいうのです
その一瞬前の過去は更にその一瞬前の過去の業によって種子が薫習されて出来上がる訳です
この様な連鎖によって自我というものを思い込んで、奥深くから求めてゆくのです
35:10/06/05 17:01 ID:o1/5vHIg

>>34  中  様へ!

> その一瞬前の過去は更にその一瞬前の過去の業によって
> 種子が薫習されて出来上がる訳です
> この様な連鎖によって自我というものを思い込んで、
> 奥深くから求めてゆくのです

 ↑ 今回は 凄く 良く 分かり易(やす)かったので 御座います!