卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ 【臨時 避難所】

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240Classical名無しさん
>>236
あの図に、少し細工を加えてみる。
  私B          私A
  ↑           ↑
●事象B    →  ○事象A
(行為(業)B)    (行為(業)A)
この時、業の作り手も受け手も、どちらも、「私A・Bに於いて」のこと。
言わば、業の作り手も受け手という見方は、図に於いての「私Bと私Aとの間に矢印を設けること」と言える。
だが、私Aと私Bが「直接的に連続している必要はない」。それは、所縁によってその都度に生じている私だから。
事象Aと事象Bとが連続しており、事象Bの時に私Bが、事象Aの時に私Aが生じる(仮設される)。
もとより凡夫には(多くの矢印は)観えない・知りえないわけだが、メタな視線(仏の視線)として、
業の作者や受者がなくとも、そこに業果のみが見られる。
で、《「受け留め方として(信として・自覚として)」『私Aは、(事象(行為)Bを受けての)事象Aの上にある』》、
というのが、基本的パターンとなるんじゃなかろうか。
事象ABの関係を踏まえた上での私ABの関係である、と・・。

ふむ、上手く言えてないなwww