>>7 それには同意しかねるな
ヘーゲル的歴史観に立つ俺からすれば
テロスがニヒリズムに否定され得るアポリアだとして
そのドラスティックなヒューマニズムの上にアジェンダを
構築することがアルチュセール的構造主義における、ミームだ。
いずれにせよ、ケイオスティックな人間存在における経験をテクネーへと、
普遍へと、止揚することが、デカルト的パラダイムの
モダニズム的出発点だ。
エピステーメー的に論考すれば
リングイスティックターン以降の日常的言語学派における
アフォーダンスをシラバスにおいてエキュートすることが
アカディメイアのタスクだと思われさもなければ想像の共同体は
サイバーカスケードの上にもろくも崩れ去ってしまう。
>>8 いまどきヘーゲル的歴史観というのは、
それこそ社会的に構築された創られた伝統であって、
ジェンダー・ポリティクスの批判対象になるべきものだ。
簡単に言えば、消費行動と文化的アイデンティティが、
エポケーされた異化作用の階層的な二項対立の形而上学こそがジェンダーベリフィケーション。
サバルタンは語ることができないというのはこれを意味する。
このあたりを数学的に言えば、位相線型空間内部の真性特異点が、
拡大の自己同型群の閉部分群と等長変換される。
つまりゲオルグ・カントールが予言して、
ゲーデルの不完全性定理で見事に証明されたということだ。
あるいはル・クレジオ的な文学におけるクイア理論的なナラトロジーでもいいが、
>>8のディスコース(言説)のトリヴィアルに神経症的な部分が、
エクリチュールの過程で無残にも前景化されている。
そういったことがディコンストラクション(脱構築)の射程に入るのは懐疑の余地がない。
ポストコロニアルな政治のレトリックだ。
クィンティリアヌスでも読んで出直して来い。