【決定論】自由意志【因果律】

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1(-_-)さん
野矢茂樹「哲学の謎」
われわれもまた枯葉と同様に自然法則に従うしかないというのであれば、われわれの動きは自然法則に縛られている。
しかし、もし自然法則に従った動きしかできないというのであれば、「自由な行為」ということも私には虚しく思える。
それはけっきょくのところ操り人形の見た幻影にすぎないのではないか。

ベンサム「道徳および立法の諸原理序説」
自然は人類を苦痛と快楽という、二人の主権者の支配のもとにおいてきた。われわれが何をしなければならないか
ということを指示し、またわれわれが何をするであろうかということを決定するのは、ただ苦痛と快楽だけである。
一方においては善悪の基準が、他方においては原因と結果の連鎖が、この二つの玉座につながれている。苦痛と
快楽とは、われわれのするすべてのこと、われわれの言うすべてのこと、われわれの考えるすべてのことについて、
われわれを支配しているのであって、このような従属をはらいのけようとどんなに努力しても、その努力はこの
ような従属を証明し、確認するのに役だつだけだろう。

フロイト「エロス論集」ナルシシズム入門
鎖の一つの環としての個人は、自己の意に反して、少なくとも自らの意志をもたずに、鎖に奉仕するのである。
個人は性を自己の意図に従ったものと考えているが、別の視点からみると、個人とは自己の生殖質の付属物にすぎない。
そして快楽という褒美につられて、生殖質に自分の力を捧げているのである。生殖質は、おそらく不死の実体であり、
死すべき個人とはその乗り物に過ぎない。

ドーキンス「利己的な遺伝子」
彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生み出した。そして彼らの維持ということこそ、
われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。今や彼らは遺伝子という
名で歩きつづけている。そしてわれわれは彼らの生存機械なのである。
2Classical名無しさん:08/03/03 19:06 ID:GZihhO6o
なんだこのベルセルク?
3(-_-)さん:08/03/03 19:06 ID:yCKLIbWk
リチャード・ドーキンス「遺伝子の川」
DNAはただ存在するのみであり、われわれはそれが奏でる音楽に合わせて踊っているのである。

小笠原慧「DZ」
幾ら大脳皮質が分厚くなろうと、理性のコントロールは所詮上っ面なものに過ぎず、何億年も
前から営々と続く視床下部ホルモンの支配は、もっと強烈で、一旦スイッチが入ってしまえば、
抗いようがないと思い知らされる。

三浦綾子「塩狩峠」
ぼくは性欲に関する限り、決して一生自由人となることができないような気がする。
幾度か、性的なあやまちを犯しそうな不安すら感ずる。君、どうか、ぼくを笑わないでくれ。
そして、ぼくにこのことから自由になる道を教えてくれないだろうか。

乙一「フィルムの中の少女」
自分の決断だと思っていたものは、実は自分のものではなかった……。

ドストエフスキー「地下室の手記」
この世界には自然法則なるものが厳存しているから、人間が何をしてみたところで、それは
けっして人間の恣欲にもとづいてなされるのではなく、自然法則によっておのずとそうなる
だけだ、とも悟らされるというのである。したがって、この自然法則さえ発見できれば、
人間はもう自分の行為に責任をもつ必要がないわけであり、生きていくのもずっと楽になる
道理である。
4(-_-)さん:08/03/03 19:08 ID:yCKLIbWk
連載第一六回:自由とは何か?
■彼らはいずれも、自由ないし自己決定を自己原因性として把握している点が共通しています。
■これは、因果帰属と選択帰属との混同です。両者を区別したのが、カントです。世界が因果的に決定されているのなら
(カント自身が信じるニュートン的世界観)自由意思などあり得ません。彼は、自由とは、因果的な自己原因性でなく、
意思通り行為できることを指すのだと考えました。
■論理(純粋理性)と倫理(実践理性)を分離したのです。人倫の世界では、意思が妨げられていない以上、別の行為を
意思できた筈だと了解されます。その限りで、当事者に自由意思があった──殴らない選択も意思できた──と見做され、
責任が帰属される訳です。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=136&catid=7
連載第一七回:下位システムとは何か?
■前回を復習すれば、カントの自由意思論(『実践理性批判』)が示すように、自由とは因果的な自己原因性ではありません。
即ち、因果帰属でなく選択帰属の問題なのです。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=155&catid=7

ised@glocom - 積極的自由(isedキーワード「消極的自由」と同内容。)
アイザイア・バーリンは論文「二つの自由概念」のなかで(『自由論』(みすず書房、1971年)、
積極的自由/消極的自由という有名な対概念を提示している。

消極的自由とは、一般に「〜からの自由」などとも呼ばれ、ある行為主体が強制を受けていない
状態にあることを意味する。一方の積極的自由とは、「強制を受けていない」というだけではなく、
主体が自らの従うべき格率を自ら設定しうること、自律的な自己決定能力を持つこと(〜への自由、
〜へ向けての自由)を意味する。バーリンは1959年講演において、冷戦体制を背景に、消極的自由を
擁護し、積極的自由を称揚することの危険性を訴えた。なぜなら積極的自由が、全体主義者や
共産主義者による「正しき道」への国民たちへの命令を正当化すると恐れたからである。
http://ised.glocom.jp/keyword/%e7%a9%8d%e6%a5%b5%e7%9a%84%e8%87%aa%e7%94%b1
5(-_-)さん:08/03/03 19:09 ID:yCKLIbWk
ピコ=デラ=ミランドラ「人間の尊厳について」
ピコ=デラ=ミランドラが、各地の学者を招いてローマで開く予定であった討論会のために準備した演説原稿。ピコは
あらゆる思想・宗教は同じ真理の表現であると考え、諸思想を一つに融合しようとした。演説原稿によれば、神は人間に
自由な選択の能力を与え、自己の生き方を自由に選ばせるようにした。人間は自由意志によって動物に堕落することも、
神との合一にまで高まることもできる。人間がみずからの自由意志で自分自身を形成してゆく所に、人間の尊厳の根拠がある。

カントにおける自由
カントにおいては、みずからが立法した道徳法則に自発的に従う実践的な自由を指す。それは理性が立てた法則に、
みずから従う自律の能力である。自然の現象界(感性界)では、結果はそれに先行する原因によって決定され、すべてが
因果法則によって必然的に支配されている。道徳が可能であるためには、人格の自由な行為があらねばならず、カントは
自由な人格の世界として英知界を説いた。人間は感性的存在としては必然的な自然界に、道徳的人格としては自由な
英知界の両方に属している。人格は英知界の自由を根拠にして、みずからが立法した道徳法則に従って善を実践する。
カントにおける人格
カントにおいては、みずからの理性の命じる道徳法則に従って、自律的に行為する自由な道徳主体を指す。人間は
快楽への傾向性を持つ自然な存在であると同時に、理性の立法する道徳法則に従って、自律的に行為する自由な主体
としては人格である。人格は目的として尊重されるべきで、他の何かの手段や道具となる物件とは区別される。カント
は人格に絶対的価値と、人間の尊厳の根拠を見出す人格主義の立場をとった。
6Classical名無しさん:08/03/03 19:09 ID:GZihhO6o
ヒッキー板から出張ご苦労
7(-_-)さん:08/03/03 19:09 ID:yCKLIbWk
大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書の第2章「責任と自由―責任の条件」では
決定論と責任の関係が出てきている。
・行為の責任が問えるのはその行為と違う仕方で振舞えたときに限る。(他のようにもできたか否か)
・因果的な決定論が正しいなら「他のようにできた」とは言えない。因果的決定論を認めて、なお責任を
論じるためには、「他のようにできなかった」としても、責任は問われうると主張する事になる。
・因果的な決定論と意志の自由について両立不能論と両立可能論がある。
・両立不能論の立場は2つ。
1つ目は意志の自由は幻想であり心の働きにおける因果連鎖の帰結にすぎないとする立場。
2つ目は意志は因果連鎖に縛られず自由に働くものであり決定論は偽であるとする立場。
意志の自由という感覚は否定しがたいが、決定論を偽とすると科学・技術の実践が説明困難になる。
人間の意志に関してだけ因果的な決定論が成り立たないとすると、世界は因果的に決まった出来事と
そうでないがでもデタラメではない心の出来事という、全く異なる2種類の物事によって成り立って
いるという事になる。そうすると因果律に従う物体と自由な精神(霊魂)という二元論になる。
・両立可能論では、意志の自由は幻想ではないし因果的決定論とも矛盾しないとする。
・著者は個々のミクロな反応は物理的・化学的な反応で因果的に決まっているが、マクロな状態は
因果的には決まっていない(非平衡の自己組織化という言葉を使っているが適当なのか?)とする。
心の働きは脳神経系の働きなしには生じないが、個々の神経細胞のミクロな働きは、因果的に決定され
ているがマクロな脳状態の変化は因果的に決まっていない、このときマクロには「決断する」という
出来事が起こっている、自らの意志によって自由に決断する私がいる、とする。
このことは、脳において因果的に決まった物理現象が起きている、ということにも還元できないし、
物理的な因果連鎖を超越した魂がある、ということをも意味しない、と言う。
8(-_-)さん:08/03/03 19:10 ID:yCKLIbWk
・縁起
すべてのものは相互に寄り合って成立し、無条件にそれ自体で存在するものはないという、仏教が説く存在の法則。
縁起とは「縁りて起こる」の意味。生があるから老いや死があるように、すべてのものは何らかの原因を持ち、他の
ものを条件として存在している。縁起は「これがあればあれがあり、これが生ずればあれも生じる、これがなければ
あれもなく、これが滅すればあれも滅する」と説かれる。衆生の迷いも固定的なものではなく、それが生まれた原因・
条件を滅すれば、消滅して悟りを開くことができる。
・因縁
縁起によって物事がおこるときの原因・条件になるもの。直接的な原因となるものが因、間接的な条件や環境が縁と
呼ばれる。人間の生命も肉体も、この世のすべてのものは因縁が和合して成立し、因縁が離散すれば消滅する。
・五蘊
すべての存在するもの構成する五つの要素。色・受・想・行・識を指す。色(物質や肉体)・受(外界の物を感受する
作用)・想(物事を思い描く表象作用)・行(物事を形作る形成作用)・識(物事を対象として認識する作用)の五つ
が集まって、すべてのものがつくられる。そのどれにも「われ」「わがもの」と固定的にとらえることのできるものは
ない。自我そのものは五つの要素の集合によって成り立ち、それ自体の固定的で永遠の実体を持つものではない。仏教
では固定した実体としての我は認めず、無我の立場を説く。
・空
大乗仏教の根本的立場をあらわす語。すべて存在すものは固定的な不変の実体をもたないということであり、縁起説を
深化・発展させたものである。大乗経典のうち、とくに「般若経典」が空の思想を強調し、のちにナーガールジュナが
これを哲学的にまとめた。
・無自性
すべての存在するものが固定的、実体的な本性(自性)を持たず、他のものに条件付けられて成立していること。
ナーガールジュナ(竜樹)が縁起説を深めて展開した空の理論を指す。無自性の教えによって煩悩も苦もそれ自体の
実体を持たず、一切の衆生は本来は空に生きており、空を悟って仏になる可能性が開かれた。
9(-_-)さん:08/03/03 19:11 ID:yCKLIbWk
茂木健一郎「脳とクオリア」
 私たちが、主観的には自明のこととしている「自由意志」という「幻想」を打ち砕いたのは、人間の肉体は、私たちの
 心を司る脳を含めて、自然法則に従って動く「機械」に過ぎないという認識だった。すなわち、「人間機械論」である。
 
 現時点で、私たちは、人間機械論の前提を疑うような合理的な根拠を持っていない。私たちの心が、私たちの意志決定の
 プロセスが、世界の中で自然法則に従わない特別な例外であるということを示す証拠は一つもないのだ。つまり、心も、
 意志決定のプロセスも、自然法則の一部と見なされなければならないということなのである。

 <ニューロンの時間発展を支配している自然法則が決定論的→自由意志はない>
 <ニューロンの時間発展を支配している自然法則が非決定論的→自由意志はある>
茂木健一郎「脳とクオリア」
 人間に自由意志が存在するということは、私たちが私たち自身について考え、人間的な価値観や、モラルを形成する
 上で、死活的に重要な前提だ。もし、人間に自由意志が存在しないとしたらどうなるだろうか?ある人間が将来どの
 ような行為をとるかが、あらかじめ決まっているとしたら?私たちがどのような意志を持とうとも、そのような意志
 を持つこと自体があらかじめ決定されているとしたら?そのような世界は、私たちにとってかなり受け入れにくい
 はずだ。実際、自由意志がないとしたら、私たちの人間観、社会観の多くは、その根底から崩壊することになるだろう。

 外に選択肢がなかったのだとしたら、どうして犯罪者を責めることができようか?

 もし、自由意志がないのだとしたら、人間のあらゆる努力は意味のないものになり、人間の尊厳さえ、失われること
 になりかねない。
 このように、「自由意志」があるかないかという問題は、私たち人間の存在の根幹に関わる、重大な問題だ。もし
 自由意志がないのだとしたら、私たちの人間観、世界観はまったく変わったものにならざるを得ないのである。
10Classical名無しさん:08/03/03 19:11 ID:GZihhO6o
カントとニーチェがカントン包茎とニートに見える
しごくどうでも良い事
11(-_-)さん:08/03/03 19:12 ID:yCKLIbWk
自由意志
一般に,外的な強制・支配・拘束を受けず,自発的に行為を選択することのできる意志のあり方をいい,〈意志の自由
freedom of will〉ともいう。プラトンは《国家》第10巻の〈エルの神話〉のなかで,人間には死後の運命に対する
選択の余地があり,その内容は道徳的行為によってきまると述べたが,他方人間は神の〈遊び道具〉であるともいって
いる。信仰に関して人間に自由意志をみとめた最初の人はエメサのネメシオス Nemesios(359ころ没)であるとされる。
アウグスティヌスは《自由意志論》(395)で罪と自由意志との関係を論じ,それによってマニ教の善悪二元論を克服
した。この場合,自由意志はたんなる選択の働きではなく,意志の全体と統一が成ることであり,回心なしにはこの
ことは起こらないとされる。ここにギリシア的な主知主義に代わるキリスト教的な主意主義が成立した。アンセルムス
はこれを厳密に論じ,自由意志とは〈自由な選択〉ではなくて〈自由を選ぶこと〉であり,自由それ自体は人間の選択
意志によって左右されない本質をもつとした。このように自由を選択意志に先行させることは意志の働きを弱めるもの
ではない。それはむしろ,自由を選択意志にのみ与えたために自由の実質が低下することを避けるのであり,意志に対
しては自由と同時に服従をも帰せしめることにより,自由は服従によっても失われないとするのである。
12(-_-)さん:08/03/03 19:13 ID:yCKLIbWk
この考えはとくに,ゲルマン人の自由意識を尊重しつつ教会と国家の両立をはかった中世カトリック教会の所産であった
とみなされる。ルターが《キリスト者の自由》(1520)の冒頭で,信仰の自由は支配者と奴隷のいずれの側でも成立する
と宣言したのもここから来る。しかしその命題は,伝統的な教会や国家の拘束を排するルネサンス人の意識にあわず,
エラスムスとの間に自由意志をめぐる論争をひき起こした。ルターは晩年のアウグスティヌスとペラギウスとの間に生
じた論争をふまえて,人間の自由意志は現実には恩恵(恩寵)を受けつけない〈奴隷意志 servum arbitrium〉であると
断定する。同様の主張は17世紀後半のジャンセニストにもあり,近代においては中世的な〈恩恵と自由意志〉の調和は
破れたといってよい。ホッブズは,自然権にもとづいて自己保存の本能に従ってなされた自由な行為のみが存在し,
他方意志があらかじめ欲求によって規定される限り自由意志は存在しない,と主張した。デカルトは自由意志を理性
活動にだけみとめて,理性的である限り意志の自律と自足を主張した。カントはライプニッツとともに自然の因果性を
超える自由の事実(ライプニッツのいう〈事実の真理〉)をみとめ,これを神,不死とならんで道徳のための要請とした。
理性的存在者の道徳的行為は自由の要請のもとで,自律的な〈定言的命令〉に従う限りで成立するのである。けっきょく
〈恩恵と自由意志〉の調和はいったん破れたものの,自由意志をたんなる欲求や自発性と同一視することはできず,
その根は人間の心身性や超越という関係性の中にあることが明らかにされた。近代哲学はこの点で主意主義を保持して
きたといえる。
13(-_-)さん:08/03/03 19:13 ID:yCKLIbWk
スピノザによれば、すべてのものは唯一の実体である神から生じる。それゆえ、すべては神の決定のなかにあり、倫理学に
とって本質的なものとみなされる人間の意志の自由は存在しない。自己原因である神だけが自由な存在であり、それ以外の
ものは自由をもたないのである。私たちが日常生活において自由だと思っているのは、自分の行為を必然的に制約している
諸原因に対して無知であることから生じるのである。
スピノザの「神」は、キリスト教で教えるような、世界をつくりこれを動かしている神ではなく、世界のうちにあり、
世界そのもの=自然であった。
14Classical名無しさん:08/03/03 19:13 ID:GZihhO6o
オクタヴィアヌスって卑猥だよなあ、響きが。日本人としては
15(-_-)さん:08/03/03 19:15 ID:yCKLIbWk
ダニエル・デネット「自由は進化する」の山形浩生のあとがきについて(そこしか読んでない)
・自由とは自由を享受する能力である。享受する能力を伴わない自由なんてのは実質的に存在しない。
定義の中に定義する言葉が入っているのが変だけど、足が不自由な人が健常者のように普通に歩きたいと
思ってもできない、だから不自由だと感じる、挙げている例では「盲人にも何かを見る自由はあるんだ」
とあるが、「盲人は目が不自由であると感じる」ということが実際に存在する。
・自由の享受能力を拡大する能力のないものには平等な自由も権利も存在しない。
満足に言葉がしゃべれない者が虐待を受けていたら、その人には苦痛を他者に理解できる形で表明できる
自由はないので、対等な権利も存在しないのか。
・遺伝や環境要因によって決まる部分はあるが、それですべて決まるわけじゃないから自由意志は存在する。
遺伝や環境要因で決まらない自由とは何か。道具や機械やクスリも環境の一部ではないか。努力などの動機
付けも遺伝や環境によって規定されているのではないか。(社会階層の違いによる学習意欲格差など)
・怒るときには怒る理由があるし、絶望には絶望の理由がある。その怒りや絶望も含めて自分だ。
理由や原因がある感情に動かされている事に主体性はあるのか。
・利己的遺伝子論は自由意志の否定にならない。自分は利己的遺伝子やミームと独立した存在ではあり得ない、
 それらも含めて自分なんだ。
自分や近縁者の遺伝子を残すようにプログラムされ行動を選択しているものに主体的な自由は存在するのか。
・脳科学的な議論
アルコール中毒者がアルコールを摂取するように行動するのは脳内のある種の化学的反応に支配されているから
であり、中毒から自由になろうというのも、脳内の物理化学的な反応に基づく。
・ぼくたちにできる最高の戦略は、とにかくわかる範囲でいちばん害を避けて有利な結果となりそうな選択肢
 を選ぶことしかない。そのとき選ぶのは決定されているのかもしれないけれど、どう決定されているかわから
 ない以上、それを心配したところで意味はない。
選択も自分の快楽追求に支配されているのではないか。
16(-_-)さん:08/03/03 19:21 ID:yCKLIbWk
竹田青嗣「哲学ってなんだ」
“自分で考えること”は、そう簡単ではない。なぜなら、人はさまざまな事柄について自分で考えている
つもりでも、たいていの場合、すでに世の中に存在している既成の意見や見解から自分の感度に合った
ものを選んで、それを自分の考えとして持つからである。これはどういうことかと言うと、つまり、
すでに存在する意見の共同体の中に自分を投げ入れるということなのだ。

リチャード・ドーキンス「遺伝子の川」
人間の文化は純粋に新しい複製爆弾を育ててきたのであり、それは文化の川の中で増殖したり自然淘汰
される新種の自己複製する存在―『利己的な遺伝子』のなかで、私はそれをミームと名づけた―が
つまっている。いまや、脳/文化という条件を先に設定して離陸できるようになった遺伝子爆弾と
並行して、ミーム爆弾が離陸しようとしているのかもしれない。

田口ランディ「できればムカつかずに生きたい」
私は「自分というものが無い」宮崎被告の言葉にある種の衝撃を覚えてしまった。本当に自分が無い
みたいに感じたからだ。そして、彼にファンレターを書いた多くの人も、それを感じたんじゃないかなあ、
って思ったんだ。こう書くと、まるで私が宮崎勤被告を「悟った人」として賛美しているように受け取られ
そうだけれど、全くそうではない。

田口ランディ「ソウルズ」
「なんでも真似てみました。私には私というものがないのです。私はとても空虚でした。どれが自分なのか
わかりません。今でもそうです。私のすべては真似です。誰かの真似です」
17Classical名無しさん:08/03/03 19:23 ID:GZihhO6o
田口ランディって開けっぴろげに見えて
空々しくフェミニンの匂いを漂わせるのが何か不快なんだよな
18(-_-)さん:08/03/03 19:24 ID:yCKLIbWk
三浦綾子「塩狩峠」
目に見えた不具者を笑うことはやさしいが、自分たち人間の心がどんなに不自由な身動きのとれない
不具者かということには、なかなか気付かないものだよ。
19(-_-)さん:08/03/03 19:28 ID:yCKLIbWk
「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society」
規範の中にいる時はそれを窮屈と感じるけど、規範無き行為はまた行為として成立しない。

リリー・フランキー「東京タワー」
自由めかした場所には、本当は自由などない。自由らしき幻想があるだけだ。
20(-_-)さん:08/03/03 19:31 ID:yCKLIbWk
リリー・フランキー「東京タワー」
自らを戒めることのできない者の持つ、程度の低い自由は、思考と感情を麻痺させて、その者を身体ごと道路脇の
ドブに導く。ぬるく濁って、ゆっくりと流され、少しずつ沈殿してゆきながら、確実に下水処理場へと近づいてゆく。
かつて自分がなにを目指していたのか、なにに涙していたのか。大切だったはずのそれぞれはその自由の中で、
薄笑いと一緒に溶かされていった。ドブの中の自由には道徳も、法律も、もはや抑止する力はなく、むしろ、それを
犯すことくらいしか、残された自由がない。
21(-_-)さん:08/03/03 19:36 ID:yCKLIbWk
   〃∩ ∧_∧
   ⊂⌒( -_-)    全ては因果の流れの中に
     `ヽ_っ⌒/⌒c    ……なんつったりして
22Classical名無しさん:08/03/04 23:16 ID:7xUxT0MM
決定論なのに不確定な世界
23Classical名無しさん:08/03/26 21:44 ID:paVbNaiw
閉じた世界しか考えられない奴には何も想像できない。
計るのに都合の良い有限の世界と有限の環境、有限の次元、有限の宇宙のみが
存在するという井の中の蛙な主張は秋田県
24━―━―━―━ ◆Paiman/3cQ
自由死刑いま読んでる
7年前に読んだんでもう内容忘れておった